2012年05月21日

 維新と革命

 ●「維新」を掲げる新保守勢力の正体

 石原慎太郎都知事が、規制政党の再編を核とする新党結成を断念して、橋下徹大阪市長と一緒に、維新塾をつくるという。
 危惧したとおり、逃げを打って、観念論へ立て篭もったわけだ。
 威勢はいいが、土壇場で、ことばの世界へ逃げ込むのが、青嵐会時代からの性癖で、9期(参議1、衆議8)つとめた国会議員時代も、現実の政治に新風を巻き起こすことはできなかった。
 維新は行動理念であって、塾で、何事かを教え、学ぶことではない。
 かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂――
 松下村塾の吉田松陰は、行動の人で、伊豆下田からアメリカ艦船に乗り込んで渡米しようとして捕らえられ、こう詠んで、処刑された。
 口ばかり達者で、ビジョンも政治的能力もないのが、松下政経塾出身の政治家で、勉強すれば立派な政治家になれると思うのは、東大出の役人が、国家と国民の役に立つ官僚になれると思うのと同様、おおまちがいだ。
 政治家に必要なのは、時代感覚や情、行動力で、高所に立って、カッコよい理想論を述べ立てることではない。

 維新も革命も行動主義で、従来の政治機構の破壊と新秩序の建設にある。
 空理空論の出来事ではないので、当然、血が流れる。
 石原都知事は、流血の場を避けて、能書きの世界へ退避した。
 戦線離脱とはこのことで、中国が、都の尖閣諸島購入に反発した中国が軍事占拠した万が一のケースを想定していない。
 中国が尖閣諸島を軍事占拠しようとしたら、都の職員が中国軍とたたかうのか。
 不法占拠にたいして軍事力で対抗するのは、国=自衛隊である。
 そのとき、石原都知事は、記者会見で「シナはけしからん」と正論を述べるであろうが、実際に、尖閣諸島をまもるのは、自衛隊であって、石原都知事は安全な場所で、テレビ画面で様子をながめているだけである。
 石原の維新は、その程度であって、政治の現実から乖離している。
 国がやらないから都がやるというのは、あてつけで、芸術家の甘えである。
 本気で尖閣列島をまもるなら、国の政治をうごかさなければならなかった。

 維新運動というのは、保守による革命で、江戸の三大改革は、徳川幕府開闢の原点に立ち戻って政治を立て直そうとした復古革命だった。
 一方、マルクス主義革命は、歴史軸から外れて、新秩序をもとめる空想的な革命で、歴史を貫いてきた国体、歴史的蓄積、民族文化が否定される。
 維新が、歴史の立て直しであるのにたいして、革命は、歴史の全否定という点において、維新と革命は、真反対の概念である。

 皇紀二千六百年の日本は、一革命がいちどもおきなかった世界最古の王朝国家といわれる。
 しかし、たびたび、維新がくり返されて、大和朝廷が江戸幕府になり、明治維新をへて、現在の政府へつながっている。
 国体が残されて、政体は変わったのである。
 国体が残ったということは、文化や歴史が断絶することなく、継承されたということである。
 それが、伝統国家で、先進国のなかで、有史以前からの国家形態を維持しているのは、日本だけである。
 日本以外の国は、すべて革命国家で、かつてあった王朝は、現在、すがたを消している。
 ヨーロッパの王政は、権力闘争の産物で、中国でも、易姓革命によって建国王朝が滅びている。
 フランスやロシア、中国では、その上、イデオロギー革命がおこなわれたので、二重に、国体が否定された。

 現在、日本が必要としているのは、革命ではなく、維新である。
 だが、この維新は、石原都知事がいう「塾の思想=観念」ではない。
 血を流して、現実政治を変革させる維新行動で、そのためには、現実政治のなかで、行動をおこさねばならない。
 石原新党構想は、その延長線上にあったはずだ。
 だが、石原都知事は、空想へ逃避した。
 現在、われわれがなすべきは、維新行動を実行できる政治家を立て、彼らを立てて、永田町に維新の狼煙を上げることだ。
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2012年05月13日

 再び亀井待望論

 ●石原新党の紆余曲折と井待望論
 村上正邦先生と亀井静香議員ら数人と一つテーブルで語らう機会があり、思うところをのべさせてもらった。
 これまで、石原新党の結成にむけて、多少、心を砕いてきただけに、この席で、新党結党のリーダーシップをとってきた亀井議員の本音を聞かせていただき、村上先生らとともに支援してきたわれわれの考えをつたえことができたのは、有意義であった。
村上先生は、このとき、石原都知事のカリスマ性や橋下大阪市長の人気にあやかる新党づくりは、一つの戦術にすぎず、政界再編をめざす大戦略ではないとのべられたが、同感である。
 わたしは、新党づくりには三つの武器があると思っている。

 1、一般会計と特別会計の連結
 2、ジャパンスタンダードの構築
 3、弱者救済の視点


 日本の政治を刷新するのに必要な基本戦略は、この三つの柱に集約されている。
 橋下市長の「大阪維新の会」ら政界刷新をめざす勢力がめざしているのも、同じ方向軸にあり、消費税やTPP問題は、この三つの柱のなかで論じられなくてはならないテーマだ。
 新勢力は、官僚政治や中央集権の打破と口を揃えるが、具体性に欠ける。
 だから、政策にも行動理念にもなりえない。
 官僚政治の排除を唱えた民主党が、自民党時代以上に官僚べったりなのが好例で、掛け声だけで官僚政治をのりこえることができると考えるのは、おおまちがいだ。

 一般会計予算が80兆円規模なのにたいして、時別会計は200兆円の予算をもち、役人が独立行政法人を操って、200兆円を好き勝手に使い、年間、数10兆円のムダをだしている。
 この構造を根こそぎひっくり返す。
 官僚は、猛烈に抵抗するだろうが、それが、官僚政治の打破なのだ。
 一般会計と特殊会計を連結させ、無駄遣いをやめさせるだけで、消費税10%分の資金を捻出できる。
 必要がない独立行政法人を整理すれば、半分で間に合う。
 これが、抜本的な行政改革になるのはいうまでもない。
 大阪維新の会やみんなの党が、いくら過激なことばで官僚政治の打破、行政の抜本的な改革の叫んだところで、霞ヶ関は、痛くも痒くもない。
 
 だが、一般会計と特別会計を連結する会計改革をすすめると、かれらは、震え上がる。
 その戦略を打ち出さずに、何が、官僚政治の打破か。
 独立行政法人の半分を廃絶して、残った半分を民営化して、複式簿記の導入と株式公開を断行すれば、巨額の資金を創出できる。
 それをそっくり財政赤字の保証にあてれば、国債暴落を避けることができ、赤字をダイナミックにへらすことも可能だ。
 一般会計と特別会計を連結させる会計改革を断行すれば、消費税や財政赤字、行政改革という難問が一挙に解決できるばかりか、株価や景気などへの好影響ははかりしれない。

 ジャパンスタンダードの視点は、詰まるところ、国益主義なので、TPP問題や外交政策にたいする大きな戦略になる。
 これまで、日本は、アメリカや中国など大国の顔色ばかり窺い、あるいは、グローバルスタンダードを尊重して、ジャパンスタンダードを頭から否定、ひっこめることばかりに熱心だった。
 その結果、国益を追求すべき政治・外交が無力化して、まことに頼りにならない政府ができあがってしまった。
 日本には日本の価値観やルールがあるという姿勢を打ち出すことで、TPPや基地問題、外交政策に光明が見えてくる。
 日本は、いままで、その基本的なスタンスを放棄して、大国の属国のようなふるまいに終始してこなかったか。

 三つ目の弱者救済は、新自由主義からの決別、社会保障充実の大指針である。
 弱者救済は、これからの国家運営のみならず、経済の建て直しの中心的な戦略になる。
 北欧経済が順調な理由の一つは、貧困層が救済されているからである。
 金持ちばかりを優遇する新自由主義のもとでは、経済は、ジリ貧に陥る。
 デフレの原因は、経済の縮小であって、貧困層をつくると、経済は、デフレでつぶれてゆかざるをえない。
 金持ちは、預金をする階層であって、物をつくり、売り、消費する一般国民という階層が貧困化すれば、結局、資本主義は失敗するのだ。
 新勢力も既成政党も、現象的な部分だけを見て、対症療法的なことばかり言い立てる。
 だが、以上のべた三柱を立てなければ、どんな政策も、票ほしさの美辞麗句にすぎないものになる。

 この三つの柱を主張してきたのが、亀井静香議員である。
 だが、これまで、亀井さんのこの正論はうけいれられず、マスコミによって、権力的であるとか、ダーティであるとかというデマゴギーばかりが吹聴されてきた。
 村上先生は、亀井議員に、今後、おそれることなく、思うところを過激にのべるべきと檄をとばしておられたが、わたしも同じ考えである。
 橋下ブームが去り、石原担ぎの新党運動が一段落したところで、亀井静香の正論が浮上してくることを期待したい。
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2012年05月07日

 9条議論から脱却した改憲論

 ●憲法改正の根幹は国家主権の宣言にある

 5月1日、永田町の憲政記念館で開かれた「新しい憲法を制定する推進大会」(新憲法制定議員同盟)では、9条議論ではなく、国家緊急事態条項の欠落や前文の空疎さにテーマが集中したという。
 これまでの憲法論は、主に、憲法9条をめぐる議論だった。
 改憲の要が、独立国家として当然の軍事力保持、主権国家の条件である交戦権を否定する9条撤廃にあるのは、いうまでもない。
 だが、これが改憲議論の中心になると、議論が前へすすまない。
 軍備や交戦権の放棄を謳った第9条を「平和主義」とする護憲派やマスコミが、これをタカ派にたいするハト派、好戦主義にたいする非戦主義という図式で描きだして、論点が「戦争と平和」の神学論争へすりかえられるからである。

 ところが、先の大会では、各政党や経済3団体(経団連・日商・経済同友会)、日本青年会議所らの代表が、東日本大震災における政府対応の鈍さや無能さの原因が現憲法の不備にあったとして、憲法に国家の緊急事態条項をもりこむようにもとめたという。
 現憲法には、国家の緊急事態に関する条項がなく、政府が、国家を挙げての救援・支援体制をとれなかったのは、そのためである。
 国家緊急事態条項は、従来の改憲論に風穴をあける視点で、本来、憲法改正は、独立国家としての機能、主権国家の体裁が問われなければならなかった。
 今回の大会では、ようやく、その兆しがみえはじめた。
 改憲にあたって、憲法9条に賛成か反対かを問う、あのワンパターンの設問は、そろそろ、やめてもらいたい。

 登壇者の発言のなかに、憲法前文への言及も少なくなかったという。
 歴史や文化、伝統、国柄が反映されていない憲法前文は、当日、基調講演をおこなった中西輝政京大名誉教授も指摘されたようだが、国家と国民を対決の図式で語ったヨーロッパの古い啓蒙思想で、いまどき、何の意味ももたない。
 わたしは、天皇条項を別格として、憲法から外し、代わりに、前文で、天皇中心の日本の国柄を明記すべきと思っている。
 主催者である新憲法制定議員連盟は、次のような前文案を配布した。
 文頭にこうある。
「我ら日本国民はアジアの東、太平洋の波洗う美しい北東アジアの島々に歴代相承け、天皇を国民統合の象徴として戴き、独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた――」
 占領憲法を一新する書き出しである。

 当日、会場では、現憲法はGHQからおしつけられた屈辱憲法だ、日本人の誇りをとりもどせという発言に、大きな拍手がわきあがったという。
 健全なナショナリズムで、その拍手から、戦後65年、国家の誇りを奪われ、学校の教科書に自虐史観が載り、戦争謝罪や土下座外交がまかりとおってきた卑屈さにうんざりしている日本人の鬱憤がかんじられる。
 改憲運動に必要なのは、このような素朴な民族感情であろう。
 政治の正常化も、同様で、理に走りすぎると、空転する。
 改憲運動が、9条論争にとりこまれたのがその好例で、憲法改正に必要なのは、理屈ではなく、国家や国体、民族の誇りをとりもどそうとする、日本人の心なのである。

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2012年04月30日

 一歩前進、半歩後退の自民党「憲法改正案」

 ●欠けている「国家主権宣言」と誤った天皇元首論

 自民党の憲法改正草案の内容が明らかになった。
 平成17年の「新憲法草案」よりも国家観が明確で、谷垣禎一総裁は、「現行憲法は占領下でつくられた。自主憲法を制定して、日本の進路と骨格を明確にしたい」と1955年の結党以来の党是だった自主憲法制定への意欲を強調した。 
 つよい保守色を打ち出したのは、国家観が欠如している民主党との差別化を図って保守層の支持をひろげ、次期衆院選前に、党綱領ももたず、党内論議がばらばらの民主党へ、一撃をくわえようというのであろう。

 選挙協力を組む公明党から「保守回帰がつよすぎ、バランス感覚を失っている」(念佛明奈)「集団的自衛権の行使を安易にみとめると自衛隊員の生命に危険がおよぶ」(山口那津男代表)などの声が上がったのはともかく、自民党の一部が「都市部の支持が広がらない」(若手衆院議員)「憲法改正のハードルが低すぎる(憲法改正の発議要件の緩和)」など、保守回帰に否定的なのが、気にかかる。

 これまで、多くの憲法草案がでてきたが、今回の自民党案は、大きな一歩である。
 とくに、前文で「長い歴史と固有の文化をもち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る」「和を尊び、家族や社会全体が助け合って国家を形成する」「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」など、日本固有の価値観や伝統を反映させたほか、国家と国民が協力して、領土・領海・領空、資源をまもる領土保全の規定を新設したのは評価に値する。

 難点は、自衛隊の国防軍への昇格、集団的自衛権の行使容認、大規模災害や武力攻撃時の「緊急事態条項」の創設をもりこみながら、国家主権の否定となる「戦争放棄」条項を残したことだ。
 交戦権は、戦争をする権利ではなく、国家主権の侵犯にたいして、軍事力という最終的手段を辞さないという主権国家の第一条件で、国家の強さや誇りの基盤となるものである。
 交戦権の放棄は、占領憲法の中心的な概念で、これを残した以上、占領下でつくられた現行憲法を改正して、自主憲法を制定しようという谷垣総裁の雄叫びが、空しく聞える。

 もう一つは、第1条で、天皇を日本国の「元首」と謳ったことである。
 国家・国民統合の象徴であられる天皇は、別途、皇室の家法である皇室典範によって定められるとして、憲法から切り離されるべきであった。
 憲法は、法と権力の体系にすぎないが、天皇は、歴史や文化、国土や民族そのもの、国家国体の結晶であって、人工的・一過性の法や権力によって規定されるべき存在ではない。
 日本国民や諸外国が、天皇を元首とみとめているのは、法の枠外の文化的な作用で、永遠である。
 だが、天皇を法や権力で規制すると、法は変更でき、権力はいつか倒れるので、永遠性が失われる。

 明治憲法の最大の欠陥が、天皇を政治的元首と規定したことにある。
 軍服を召された天皇が、軍部に利用されて、日本は世界大戦へ突入、敗戦によって、1945年の国体の危機が生じた。
 憲法で、国家は主権を有すると宣言して、天皇を憲法の外におくことによって、日本の伝統的な統治体制である権威(政治)と権力(文化)の二元性が成立する。
 今回の自民党「憲法改正草案」は、一歩前進したものの、半歩後退の感を否めない。

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2012年04月16日

 ミサイル打ち上げに失敗した北朝鮮と危機管理に失敗した日本

 ●発射未確認のガセ情報を流した民主党政府
 北朝鮮のミサイル「光明星3号」は、発射1分後、空中分解をおこして西海(黄海)に落下した。
 予想されていた事態で、発射10分後に大気圏外に突入、地球軌道に乗せるという北朝鮮の発表には、はじめから、疑問符が打たれていた。
 それにしても、日本政府の対応の遅鈍さと稚拙さには、目を覆いたくなる。
 米・中・韓が、ミサイルの発射と1分後の空中分解をつたえるなか、民主党政府は、確認中という無様なメッセージを流しつづけたのだ。
 藤村官房長官は、ダブルチェックしていたためとのべたが、十数分で日本本土に着弾するミサイルの警戒情報をじっくりチェックして、何の意味があるのか。
 政府の官邸対策室が、SEW(早期警戒警報)によって、7時40分にミサイル発射の情報をうけながら、午前8時7分時点で「発射を確認していない」との談話を発表したのは、SEWの情報を疑ったからだという。
 アメリカの早期警戒衛星から情報を受けた防衛省のMDシステムからつたえられた情報を疑って、あえて、発射未確認という虚言を弄する必要がどこにあったのか。
 誤情報なら、あとで取り消せばよい。
 だが、情報の真偽をたしかめているあいだに、ミサイルが着弾したら、取り返しのつかないことになる。
 そういう場合は、ためらわずに、SEWにもとづく警戒警報を発して、MDシステムを機能させるべきなのは、子どもでもわかる理屈だ。
 民主党政権は、お子様政権といわれるが、これでは、子ども以下である。
 民主党の樽床伸二幹事長代行は、「政府の確認作業が遅れたのではないか」という指摘にたいして「日本のレーダーにはいる前に落ちたので、日本に影響はなく、初動の遅れはない」とのべ、前原政調会長も、「確認に時間かかるのは仕方ない」という見解をしめした。
 だが、日本のレーダー網がミサイルをキャッチしてから警戒態勢にはいっても、ミサイル着弾を防ぐことはできない。
 ミサイル飛来という緊急事態に、確認に時間をかけて、国土や国民の生命をまもれるのか。
 国土が火の海になるより、誤情報を流した責任を問われるほうがイヤというのがかれらの本心で、政府が、確認作業をすべて終え、公式抗議をおこなったのは、翌日(27時間後)のことだった。

 ●ミサイル発射の意図が見抜けない日本
 今回のミサイル発射失敗で、北朝鮮住民の数か月分の食糧、1年分の食糧不足分に匹敵する資金が消え、米国から提供されることになっていた24万トンの食糧も絶望的となった。
 金日成生誕100周年式典や金正日の顕彰行事、金正恩の後継就任式の打ち上げ花火が不発となった痛手にくわえ、国連安全保障理事会決議1874号に違反した北朝鮮にたいする国際社会の圧力がつよまれば、ミサイル輸出にまで支障をきたすことになり、損害は、はかりしれない。
 事実、北朝鮮は、失ったものばかりで、何もえられなかったようにつたえられる。
 だが、それは、外からの観察で、北朝鮮内部には、別の事情がある。
 北朝鮮が、内部矛盾をかかえながら、まがりなりにも、国家として機能しているのは、「先軍思想」「主体思想」という二大イデオロギーが根を下ろしているからである。
 金正恩体制へ移行するにあたって、北朝鮮は、この二大イデオロギーを強化する必要に迫られていたはずである。
 金正日総書記は、死去する2カ月前に、金正恩に遺言(「10・8遺訓」)を残している。
 そのなかで、金正日は、国防をおろそかにすると大国の奴隷になると警句を発し、金正恩に、先軍思想をまもれと注文をつけている。
 先軍思想(政治)とは、すべてに軍事を優先させることで、憲法でも、主体思想と並んで、最高の指導理念とされている。
 主体思想(革命的首領観)は、革命と建設の主人公である人民大衆は、首領の指導を受けなければならないとするもので、首領は頭、党は胴体、人民大衆は手足にたとえられる。
 さらに、10・8遺訓には「半島の平和を維持するには、核と長距離ミサイル技術を磨き、十分に保有しなければならない」とあり、北の主導による半島の統一が謳われている。
 北朝鮮が、人工衛星と称して、ミサイルを発射したのは、外ではなく、内にむけたポーズで、たとえ、失敗の可能性が高くても、実行せざるをえなかったのである。
 今回、北朝鮮は、あっさりと失敗をみとめた。
 ミサイル発射を「先軍思想」と「主体思想」の宣伝材料にするには、成功か失敗かではなく、やるかやらないかが、問われたからである。
 ということは、ミサイルを発射しなければ、体制危機に陥る可能性があったということである。
 北朝鮮は、ミサイル発射を強行するリスクを冒さなければ、体制を維持できない状況に瀕していたと見るべきだろう。
 革命的首領(金正日)の遺志をまもった北朝鮮のミサイル発射が、「先軍思想」と「主体思想」の強化になったか、逆に、弱体化をまねくことになったか、その答えは、案外、早い時期にわかるのではないか。
 タガがゆるんだ日本とタガを締めすぎた北朝鮮――両国とも、国家の屋台骨が、ガタつきはじめているのである。
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2012年03月30日

 北朝鮮ミサイル発射予告で正気に戻った日本の防衛体制

 ●日米安保体制が機能した臨戦態勢
 4月中旬に予告されている北朝鮮のミサイルの発射にたいして、防衛省は、「BMD(弾道ミサイル防衛)統合任務部隊」の編成に着手、東シナ海と太平洋、日本海にイージス艦3隻、沖縄本島、宮古島、石垣島のほか、首都圏に地上配備型迎撃(地対空誘導弾)ミサイル「パトリオット」(PAC3)を配備する。
 臨戦態勢である。
 自民党政権下でもできなかった実戦配備が、国会審議も経ずに実現したのは、法整備がすすんだのにくわえ、今回の作戦が、防衛省と在日米軍によるミサイル防衛シミュレーションの一環だったからである。
 このことから、はからずも、日本の防衛体制が、実質的に、日米安保体制の枠組みにおかれていることが明らかになった。
 有事法案に反対しつづけてきた民主党政権の枠外で、日米安保の機能がはたらき、日和見主義の野田首相が、これに追従したというのが、民主党政権下において、今回、実戦配備が実現した経緯であろう。
 これまで、日本の防衛議論は、机上の空論で、有事法制は、延々と紆余曲折をかさねてきた。
 1963年の“三矢研究(昭和38年総合防衛図上演習)”が、新聞マスコミから袋叩きにあったあと、1978年、有事の際、自衛隊は超法規的措置をとらざるを得ないとした栗栖弘臣統合幕僚会議議長の発言が野党の批判を浴びると、政府は、問答無用に、同議長を罷免した。
 以後、日本は、有事の際、戦車も交通信号をまもらねばならないなどという低次元の議論ばかりをくりひろげ、それが、集団的自衛権の否定などの形で、現在にまで尾をひいている。

 ●空想的平和主義から現実的防衛論へ転換
 現実にむきあわず、法律論ばかりをこねくりまわすのが、わが国の防衛議論で、今国会における自民党の代表質問も、自衛隊法82条の解釈や大臣の失言など些末なことばかりつついて、国家の防衛や危機管理という肝心なことにはふれずじまいだった。
 武力攻撃は、法や秩序、正義や常識などの議論をとびこえて、破壊と殺戮ですべてを清算してしまおうという最後的手段である。
 この非常事態に、平時のルールを適用させようとしてきたのが、日本のこれまでの防衛議論で、内外から“平和ボケ”の批判を浴びてきた。
 阪神大震災の際、自衛隊へ災害派遣要請をためらった兵庫県、平和宣言都市神戸で、2000人以上も犠牲者がふえたのは、当時の法制下では、自治体からの要請がなければ、自衛隊が出動できなかったからだった。
 自衛隊を違憲とする首長や市民の平和の声が、みずから、悲劇を招いたのである。
 風向きが変わったのは、1996年の日米防衛協力の指針(日米ガイドライン)見直しからである。
 1998年、日米新ガイドラインにもとづき、日米両国の具体的な協力について規定した周辺事態法が成立したあと、2002年、小泉純一郎内閣の下で有事法制の基本的枠組みである武力攻撃事態法をはじめとする武力攻撃事態関連3法が提出され、2004年には、有事関連7法が可決、成立した。
 だが、一連の有事法案の法整備は、7分から10分で日本に弾道ミサイルが着弾する北朝鮮危機の前には、何の役にも立たない。
 有事における人権や道路交通法、自衛隊法の第何条などといっている間もなく、ミサイル発射から10分以内に、日本の都市が丸焼けになるからである。

 ●大気圏外でも撃破するのがミサイル防衛
 北朝鮮の長距離ロケット打ち上げ予告は、核兵器テロ防止を協議する核安全保障サミット(韓国ソウル)でも大きな問題となり、アメリカのオバマ大統領をはじめ、ロシアのメドベージェフ大統領、中国の胡錦濤国家主席らが協議をかさね、オバマ大統領は3日間の在韓中、北朝鮮問題への対応に大半の時間を割いて、ロケット打ち上げへの非難をくり返した。
 一方、前回、頭越しにミサイルを発射された日本の野田首相は、型どおりの自粛をもとめただけで、危機感は、ゼロだった。
 防衛省は、ミサイル本体や部品などが日本の領土、領海に落下する可能性がある場合、イージス艦のミサイル3(SM3)が大気圏外の撃破を試み、撃ち漏らした場合、地上配備のPAC3で迎撃する構えだが、政府は、ミサイルが日本領土の上空を通過する場合、迎撃をおこなわないという。
 人工衛星の可能性も否定できないという理屈からであろう。
 だが、大気圏外から垂直に落下してくる長距離ミサイルにたいして、上空通過だから手を出さないという理屈は成り立たない。
 ミサイルが日本の領空にあらわれたら、SM3を発射して、大気圏外撃破をおこなうべきだろう。
 実弾発射の意義は大きい。
 一つは、北朝鮮や中国の軍事的威嚇を減殺できること。
 二つ目は、日本人の空想的平和主義を現実的防衛論へ転換させうること。
 三つ目は、内外にたいして、応戦をともなう防衛主権の宣言になること。
 四つ目が、BMD(弾道ミサイル防衛)の実戦訓練および装備拡充の根拠をつくりだせることである。
 口先だけで平和を叫び、危機管理の実戦配備を怠った平和宣言都市・神戸の悲劇をくり返してはならない。

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2012年03月27日

 法務省がもくろむ「人権救済機関設置法案」の恐怖A

 ●「地方条例」「三条委員会」という奥の手を使って法令化
 組織暴力の壊滅と夫婦別姓、人権救済機関法案が、法務省の三大悲願だという。
 暴力団排除条例法案は、条例化されて、警察権力が一挙に拡大され、暴力団と取り引きした一般国民まで処罰できるようになった。
 司法手続きを経ずに、国民に処罰をあたえることができるのは、かつての特別高等警察(特高)の再現で、同条例が法令化されると、日本は、戦前の警察国家へ逆戻りである。
 夫婦別姓は、日本中の市町村役場にまで、民法改正運動の指令がとび、準備が整いつつある。
 残るのは人権救済法だけで、これがとおれば、法の名の下で、行政=法務ファシズムができあがる。
 現在、日本で、人権が侵害されている事例は、警察や法務省内のおける過酷な取調べや刑務所における加虐行為、あるいは、部落開放同盟による糾弾(吊るし上げリンチ)以外には、存在しない。
 法務省は、人権擁護法案の根拠に「パリ原則」をあげるが、同原則は、監獄内での虐待や拷問、人身売買、少年傭兵などの非人道的な人権侵害の防止を謳ったもので、あり余る人権を享受している日本には、何の意味もない。
 パリ原則を重視するなら、同原則に則って、前近代的な検察・警察の取調べのあり方を見直すのが、先決だろう。
 人権救済機関法案は、人権侵害をおこなっている当事者が、国民の言動を嗅ぎ回って、ありもしない人権侵害を摘発するという構造で、これほど国民をばかにした話はない。
 人権擁護法案では、政治=立法までが標的になるので、三権分立が崩壊する。
 司法の判断なしで、合法的糾弾(拘置・処罰)ができるので、司法も無力化される。
 といっても、日本は、法治国家なので、法の下で、憲法違反の弾圧はゆるされない。
 そこで、かれらが考えたのは、人権委員会、法務省の呼び名では「三条委員会」という権力組織だった。
 立法府の議論ではとおりそうになかった暴力団排除条例が、地方条例からスタートしたように、憲法違反の人権救済機関法案については、内閣から独立した行政機関に、権限や強制力をもたせ、立法の枠外で、国民を法務権力の監視下におこうというのである。

 ●法務省が日本国解体にもちいる5つの了解事項
 この三条委員会の下で、人権侵害の摘発をおこなうのが、人権派市民団体や人権弁護士グループ、そして、部落開放同盟などの私的集団である。
 部落開放同盟と行政は、これまで、密室の取り引きをかさねてきた。
 同盟の“糾弾”という非合法の集団暴力を司法へ委ねる交換条件として、行政が用意したのが、同和対策事業特別措置法(同和立法)だった。
 同法は、時限立法(1969〜2002年)なので、現在は、効力を失っている。
 そこで、部落開放同盟は、同和立法の代替えをもとめた。
 それが、現在、民主党が立法化をすすめている人権救済機関法案である。
 人権救済機関を法案化して、糾弾=吊るし上げを合法化しようというのである。
 33年間で国費16兆円を投じた同和立法措置で、差別は、解消されたはずである。
 したがって、部落解放同盟が、同和立法の代替えをもとめる根拠は、きわめて乏しい。
 にもかかわらず、民主党が、同法案をとおそうとするのは、民主党が、部落開放同盟の友党で、霞ヶ関のリモコンだからである。
 談合でむすびついた法務省と部落解放同盟は、民主党を抱きこんで、人権委員会に検察や司法、国家公安委員会や公正取引委員会と同様の権力をあたえ、日本を、人権ファシズム国家にしようというのである。
 法を離れた差別や人権侵害は、挙げてゆくときりがなく、主観の問題なので、規定することもできない。
 日常的、習慣的な場にまで差別や人権侵害ともちだすと、一般習俗が、一挙に崩壊してしまうだろう。
 合法的糾弾=人権救済機関法案の危険性は、次の5点に集約される。
 @差別や人権侵害の適用範囲が無限大に拡大されること
 A差別や人権侵害の被害をうったえた時点で、自動的に立件されること
 B外国人参政権がとおれば、委員会に外国人がくわわること
 C三条委員会の特権的権限が、政治=国会にまでおよぶこと
 D憲法と別枠の法体系ができあがってしまうこと
 たとえば、あるひとが、公的な場での国旗の掲揚が差別だとうったえた場合、被差別の適用範囲が無限で、しかも、自動立件が原則なので、国旗の掲揚が、差別と判定されかねない。
 人権委員会に在日外国人がくわわれば、反日外国人によって、日の丸掲揚が否定されるという事態もおこりうる。
 この決定は、三条委員会の特権によって保護されるので、国会も、手が出せない。
 結果として、立法=憲法の外部で、国家の屋台骨をゆるがす謀略がすすめられることになる。
 これに、地方主権がみとめられた道州制が導入されれば、日本は、事実上、解体される。
 国家でさえ手に負えない人権委員会には、個人など、赤子の手をひねるも同然だろう。
 ターゲットになるのは、数万人の反日勢力から監視をうける日本人で、ささいな言質や密告によって、拘留などの身体的苦痛をうけ、公開裁判にさらされ、社会的に抹殺されてゆく。
 しかも、これに対抗する手段は、何一つない。
 かつて、紅衛兵が数千万人の善良な人々を抹殺した文化大革命が、現代の日本で、人権大革命の名のもとで、吹き荒れるのである。
 人権救済機関設置法案は、司法関与などの修正がおこなわれているが、これは、法案をとおすためにハードルを下げただけで、法案がとおれば、法務官僚の手で、原案へひきもどされる。
 なんとしても、日本解体もくろむ法務省の野望を打ち砕かなければならない。

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2012年03月22日

法務省がもくろむ「人権救済機関設置法案」の恐怖@

 ●法では規制できない人権や差別
 法務省がもくろんでいる「人権救済機関設置法案」は、空恐ろしい問題をはらんでいる。
 だれもかれもが人権や差別を言い立て、密告や盗聴が横行する、人権ファッショ社会が出現しかねないのだ。
 日本の社会が穏やかで、ぬくもりがあるのは、徳や情がゆたかで、人権より人格、差別よりあいみたがいの互助精神がおもんじられているからである。
 そこへ、人権をもちだすと、徳や人情から成っている社会がいっぺんに瓦解する。
 差別を言い立てると、個人差と「和の精神」から成っている世間が崩壊してゆく。
 オープンで多様性をもった大人の社会が、人権や差別を言い立てると、閉鎖的で一元的なガキの社会へ転落してゆくのである。
 人権も反差別も、人間として生きていくための自由と法の下の平等のことで、国権への対抗手段である。
 とくに人権は、フランス革命の武器となった人間の個人的領域のことで、国家や国権にたいする反対概念である。
 反差別も、法の下の平等にほかならず、何人も、法や権力によって、差別されてはならない。
 ところが、「人権救済機関設置法案」は、個人と国家、私権と公権ではなく、個人と個人の関係に人権や差別の観念をもちこみ、侵犯がないか否かを、国権機関をもって監視するという。
 本末転倒とは、このことだろう。
 人権も反差別も、国権にたいするものなので、人権救済機関設置法案によって、かえって、個人と個人のあいだに新たに人権侵害や差別が生じることになる。
 年間、二万件ほどの人権問題が生じているが、現在の法で、99%が解決されていると当の法務省がみとめている。
 差別についても、現在、日本で、法の下での差別は、皆無である。
 あるとすれば、習俗や表現上の差別だが、この種の差別は、人間の意識や言語が差別の体系である以上、根絶が不可能である。
 人権救済機関設置法案は、存在しない人権侵害や法の埒外にある差別に介入して、国家権力をふるおうという意図で、必然性や合理性がまったくない。
 法務省が、法では規制できない人権や差別にのりだしてきた理由は、何か――。

 ●暴排条例や人権救済機関設置法案は天下り先の確保
 法務省が「人権救済機関設置法案」を民主党にたきつけているのは、天下り先をつくるためである。
 法務省には、三つの悲願があるという。
 一つは、組織暴力の壊滅。
 二つ目は、夫婦別姓。
 そして、三つ目が、人権救済機関設置法案である。
 法務省が目的にしているのは、歴史や文化を破壊して、法が唯一の支配原理となる全体主義社会の建設で、それには、日本中に、女性や身分の差別や人権侵害を監視する機関をつくらなければならないという。
 だが、それは、タテマエで、ホンネは、天下り先の確保である。
 人権救済機関法案が、ただの救済法ではなく“機関設置”法案となっているのは、事実上の“天下り先機関設置”法案だからである。
 一般国民をまきこむ暴排条例が、企業内の相談機関設置という警察の天下り対策だったように、人権救済法にも、法務官僚の天下り先確保という狙いが隠されていたのである。
 衆院調査局によると、公益法人や独立行政法人などに役職員として「天下り」している国家公務員が2万2093人に上り、国からこれらの団体へなどへ交付されている補助金税金が5兆5395億円(2005年度予算)にもたっする。
 法務官僚の天下り先は、他に省庁に比べて、少ない。
 天下り先を確保するには、日本をがんじがらめの法支配におき、全国各地に監視機関を設置するにかぎる。
 人権救済法案が成立すれば、全国各地に人権ゲシュタボの民間組織がつくられることになる。
 これを管轄する独立行政法人に天下りすれば、法務官僚は、黒塗り高級車と高給の待遇で、余生を安穏に過ごすことができる。
 法務官僚や警察が、暴排条例や人権救済機関設置法案に執着しているのは、退職後、お手盛りの報酬と社会的地位をえるためなのである。

 ●合法化される部落解放同盟の糾弾
 これに利用されているのが、部落解放同盟や人権市民団体、人権弁護士グループである。
 法務省は、人権侵害をチェックする「三条委員会」を発足させるという。
 国家行政組織法第三条では、 国家公安委員会や公正取引委員会のように、内閣から独立して、権限や強制力を持つ行政機関・組織の設置を、例外的に容認している。
 法務省は、国組法第三条の下に、「人権委員会」という私兵集団をつくり、これに、国家公安委員会や公正取引委員会と同様の権力をあたえ、これを自在にあやつろうというのである。
 この私兵集団の指導的役割をはたすのが、部落開放同盟と人権市民団体、人権弁護士のグループで、人権救済機関法案が立法化されると、日本人は、戦闘的反日グループの監視をうけ、不用意な差別的発言、ささいな人権侵害をとりあげられて、吊るし上げや氏名の公表、最悪の場合、逮捕や勾留などの刑事罰さえうけかねない。
 部落開放同盟は、糾弾という集団暴力を同盟の正式な戦術に採用して、長期間にわたる集団的吊るし上げで、これまで、多くの人々を自殺に追いこんできた。
 三重県・松阪商業高校の校長が自殺した事件(1999年)では、同校に勤務する教員(弓矢伸一)の私的会話に差別的な発言があったという密告から、2か月後、解放同盟が同校におしかけ、400人余を動員した「糾弾会」が1年近く、定期的につづけられ、校長の自殺後、裁判にまで発展している。
 広島県世羅高校の校長も、国歌斉唱・国旗掲揚問題で、日教組や部落開放同盟の執拗な糾弾に疲れ果てて自殺(1999年)しているが、同県では、昭和40年代から平成10年代までに、校長などの教育関係者が、氏名が判明しているだけで20人以上、開放同盟の標的になって、自殺に追い込まれている。
 人権救済機関設置法案による処罰規定は、部落解放同盟の糾弾の合法化にほかならない。
 法務省は、日本中に、糾弾合法化の機関をつくって、その機関を法務省専用の天下り先にしようというのだが、そのため、日本は、恐怖の人権ファッショ社会に叩きこまれるのである。
 次回以降、さらに、法務省の謀略を暴いていこう。

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2012年03月15日

 有志による新「皇室勉強会」A

 ●天皇・幕府・民の三位一体と民主主義
 わたしは、これまで、『天皇の日本史(上下巻/評伝社)』や『天皇問題(光人社)』などの自著で、天皇・幕府・民の三者関係を「三位一体」と表現してきた。
 権力は、天皇の権威の下で、幕府をひらき、民を治める。
 民は、日々、民の幸を神に祈っておられる天皇を慕い、その思慕が、権威を形成する。
 天皇(権威)と幕府(権力)、民が三つ巴になって、互いに、正統性を支えあっている。
 わたしは、この仕組みを「三位一体」と表現したのである。
 もともと、三位一体は、キリスト教のことばで、「父(ゴッド)」「子(キリスト)」「聖霊(教会聖教者)」のことだが、わたしの三位一体は、キリスト教とはかかわりがない。
 ヨーロッパで、キリスト教がでてくるまで、神話や自然崇拝をベースとした素朴な宗教があり、政治形態も、原始共産制と宗教的共同体を合体させたようなものだった。
 その一つがギリシャの民主主義で、紀元前の世界は、日本の万葉世界と同様に、比較的おだやかだったのである。
 ソクラテスが、国家を弱体化させる民主主義を批判して、死刑になったあとで、弟子のプラトンが、哲人政治を唱えた。
 民主主義は、衆愚政治に陥りやすいので、りっぱな人物に、政治をまかせたほうがいいというのである。
 衆愚に陥る民主主義への批判は、紀元前に、プラトンの『国家論』によって、すでに、完成していたのである。
 ヨーロッパが激変するのは、キリスト教がうまれてからである。
 唯一神という概念から、善・悪という価値観が生じ、そこから、絶対主義という「闘争の論理」が派生した。
 ギリシャがスパルタに滅ぼされた後、ヨーロッパでは、衆愚政治に陥る民主主義が捨てられ、キリスト教をとったローマ帝国をへて、武力や強権で国家を治める絶対王政や専制政治へと移り変わってゆく。

 ●アインシュタインが感嘆した日本の国体
 紀元前の世界から変わらなかったのが、東洋の島国、日本だけだった。
「アインシュタインの予言」と呼ばれる言説が広く流布している。
 伊勢神宮を詣でたアインシュタインが、その荘厳さに感激して、言い残したという説の真偽については、議論があるが、日本の国体を、これほど、みごとに語った文章は、例がない。
 以下、引用する。

 近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。
 この驚異的な発展には、他の国と異なる何かがなくてはならない。
 果たせるかなこの国の、三千年の歴史がそれであった。
 この長い歴史を通して、一系の天皇をいただいているということが、今日の日本をあらせしめたのである。
 私はこのような尊い国が、世界に一カ所位なくてはならないと考えていた。
 なぜなら、世界の未来は進むだけ進み、そのかん幾度か戦いがくり返されて、最後に、戦いに疲れるときがくる。
 そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主を挙げねばならない。
 この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた、最も古く、また尊い家柄ではなくてはならぬ。
 世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。
 それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
 吾々は神に感謝する。
 吾々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを。

 日本が、世界に抜きん出て、すぐれているのは、天皇(権威)と幕府(権力)、民(被治者)の「三位一体」の原型が、古代において完成され、それが現在にいたるまで、変更なく、つづいてきたからである。
 日本のおいてのみ、紀元前の民主主義が、衆愚に陥ることなく、連綿と現代にまでひきつがれてきたのである。

 ●日本は世界最古の民主主義国家だった
 その秘密が、天皇と幕府、民の「三位一体」である。
 政権が権威と権力に二元化されていたため、専制にならず、民の利益代表が天皇なので、民の政治参加による衆愚化も避けられる。
 ヨーロッパで、衆愚化によって滅びた民主主義が、日本においては、天皇の存在によって、有史二千年を生きのびてきたのである。
 ヨーロッパで、民主主義が復活するのは、絶対王権や専制政治が打倒されたのちで、フランス革命では、ジャン・J・ルソー、アメリカ独立戦争では、J・ロックの直接民主主義が大きな影響をあたえた。
 現代の間接民主主義は、人民主権論や共産主義、衆愚政治を批判したホッブズやトクヴィル、バークらの自由主義や保守主義をくわえて、直接民主主義を洗練させたものである。
 ちなみに、自由主義・保守主義を抜き去った民主主義は、多数決や一般投票をさすにすぎない。
 直接民主主義、あるいは、衆愚民主主義が洗練されて、どうなったかといえば、天皇(権威)と幕府(権力)、民(被治者)の「三位一体」に近づいただけである。
 戦後、アメリカは、日本に、アメリカ製民主主義をもちこみ、知識人の多くが、日本はアメリカによって民主化された、日本は敗戦によって民主主義に目覚めた、などといっている。
 日本の国体が、世界最古の民主主義国家だったことを忘れているのである。

 ●プラトンの理想だった天皇の大御心
 明治維新以後、日本は、西洋の国家主義を真似たため、民主主義の影が薄くなった。
 近代は、世界が、国家主義や植民地主義、侵略主義をとっていたので、日本もやむをえず、帝国主義をとって、祭祀王だった天皇を大元帥に仕立て上げたが、もともと、わが国は、天皇制民主主義国家だったのである。
 理想的な政治形態は、衆愚に陥らない民主主義、国民を大切にする専制主義だが、両方とも、望むべくもないので、次善策として、現代、先進諸国はすべて、間接民主主義をとっている。
 だから、チャーチルは、民主主義は、独裁より多少ましなだけといったのである。
 ところが、日本人は、アメリカ製民主主義を、完全な思想、政体であるかのようにもちあげ、もっとも理想的な民主主義が、数千年の歴史をもつ、日本の三位一体であることに目をむけない。
 現在の日本では、国民の幸せを祈っておられる天皇が拒めば、いかなる法律も条約も発効せず、議会さえひらかれない。
 アメリカでは政府が、中国では党が、勝手に戦争をおこすことができる。
 だが、日本では、天皇が宣戦布告書の署名を拒否されるので、権力が勝手に戦争をおこすことができない。
 国家や国民を裏切らないよう、権威が、いまもなお、権力を監視しているのである。
 天皇の存在によって、国民の幸がまもられ、権力の暴走にブレーキがかけられる。
 一方で、権威は、政治権力から切り離されている。
 これこそ、国家の未来と国民の幸をまもる理想的な民主主義国家であろう。
 こういう絶妙な仕組みをもった国は、日本のほか、世界中、どこにもない。
 日本の三位一体こそ、「国家はすぐれた魂によって運営されるべき」としたプラトンの理想だったのである。

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2012年03月06日

 特別会計の闇@

 ●霞ヶ関という闇の帝国
 先の大阪選挙で、府と市の二重行政解消を叫んだ橋下徹の「大阪維新の会」が圧勝した。
 お手盛りの勝手放題で肥大化した行政に鉄槌が下ったといってよいだろう。
 渡辺喜美の「みんなの党」が躍進したのも“脱官僚”のスローガンに有権者が共感をかんじたからで、日本人は、官の増長に、いま、疑いの目をむけつつある。
 官=行政は、政=立法に付随する実務機関と考えられがちである。
 ところが、実際は、官が、政から独立して、日本を支配している。
 それを端的にあらわしているのが、国家予算(国家会計)である。
 国会で審議される国家予算は80数兆円(一般会計)にすぎない。
 一方、官がもつ予算は、200兆円(特別会計)で、これに、地方自治体の分をくわえると、国家予算の3〜4倍にもたっする。
 大阪の府政と市政どころか、日本という国家が、永田町(国会)と霞ヶ関(官庁)の壮大なる二重行政になっているのである。
 政府が、80数兆円の予算をやりくりして、財政赤字やデフレ対策に四苦八苦している一方で、行政=官僚組織は、4500以上の独立行政法人、特殊法人、公益法人をあやつって、200兆円の大盤振る舞いをしている。
 そして、年間、10兆円単位の赤字を垂れ流して、平然としている。
 たとえば、旧雇用促進事業団(現独立行政法人雇用・能力開発機構)が1兆円近く使って、14万戸を建設した転勤者用の雇用促進住宅(年間維持費300億円)は、入居者がなく、結局、時価の半額で自治体に売却(2003年)している。
 役人の小知恵で、5000億円が、ドブに捨てられたのである。
 一般会計の公共事業は、経済振興と需要の波及効果を考慮しておこなわれる。
 だが、特別会計の公共工事は、予算の消化が目的である。
 税の名目でとったカネを使わなければ余剰金がでてしまうので、滅茶苦茶な公共工事をおこない、あとで投げ売って、平気な顔なのだ。
 予算が余ったら、国庫に戻すか、税金を安くすればよさそうなものだが、役人の世界では、予算を使い切るのが有能なのである。
 会計検査院によると、特別会計が、公共事業の60%以上を分が占めている。
 どれほどのカネが、役人の権益のために消えたか、はかりしれない。
 雇用促進住宅のケースは、氷山の一角で、特別会計の無駄遣いは年間、数十兆円になるといわれている。
 一般会計では、十兆円の歳入をえるため、消費税を5%も値上げしなければならないが、特別会計では、役人の判断と書類一枚で、兆単位のカネが右から左へかんたんにうごく。
 日本では、国会議事堂の背後で、霞ヶ関という闇の帝国がうごめいているのである。

 ●社会保障費をガソリン税でまかなえ
 200兆円ものカネが、どこからでてくるのか。
 一般会計の歳入は、租税(普通税)が基本で、不足分は、赤字国債の発行で補う。
 一方、特別会計は、目的税が中心で、厚生年金や国民年金、健康保険、雇用保険や労災保険、揮発油税(ガソリン税)、自動車重量税、電源開発促進対策特別税(電気料金に上乗せ)など多岐にわたる。
 所得税や消費税などの租税とは別に、国民は、公共料金や公的納付金、使用料などに組み込まれた多額の目的税を支払っているのである。
 これらの特定財源は、使途がきまっているというタテマエから、一般会計とは区別されるが、国家運営のための税であることには、ちがいがない。
 一般会計とちがうのは、一般会計の使途(歳出)が、国会で審議されるのにたいして、特別会計が、官僚の手に握られているところである。
 一般会計の事業仕分けでは、スーパーコンピュータの研究予算まで削られて「子ども手当」に回されたが、特別会計では、その数十倍、数百倍もの予算が湯水のように浪費されている。
 特別会計に手をつけられないのは、目的税は、使い道がきまっているからというのだが、これほど、ばかばかしい話はない。
 かつて、日本の道路が劣悪だった時代、ガソリン税(揮発油税・地方道路税・自動車税)などの目的税をとって、道路を整備する必要があっただろう。
 だが、いまや、日本の道路は、世界のトップレベルにある。
 であれば、必要がなくなった道路・車両関連の目的税を一般会計に組み入れて、社会保障にあてるのが、真の「社会保障と税の一体改革」であろう。
 ところが、野田首相は、官僚にいいくるめられて、消費増税を叫ぶばかりである。
 そして、官僚は、予算消化のため、北海道の山奥にまで高速道路をつくろうとする。
 道路・車両関連の目的税を一般会計にそっくり回せば、消費税を上げなくとも、社会保障費は十分に間に合う。
 それができないのは、日本が、政と官に分裂した二股国家だからである。
 官は、権力をもっているが、生産性がなく、税金で食っている。
 国民は、権力はないが、生産性をもち、税金を納めている。
 その国民が、官の金権に支配されているのが、現在の日本のすがたである。
 国民の代表である政は、本来、国民の味方でなければならないが、官がちらつかせうる餌にとびついて、役に立たない。
 この国は、まだまだ、希望がある。
 官という闇の帝国を打倒すれば、明るい未来がひらけるのだ。
 本ブログで、しばらくのあいだ、「特別会計の闇」と題して、このテーマを追ってゆこう。

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