2020年05月27日

国益は正義である――という大原則A

 ●日本スタンダードをもたない悲劇
 欧米で、新型コロナウイルスの感染者、死亡者が爆発的にふえはじめた3月以降、マスコミは、テレビのキャスターやタレント、評論家や医事関係者らを総動員して、日本がコロナ防衛に失敗したのは「PCR検査」をサボってきた安倍首相の責任というキャンペーンを張った。
 新聞社や放送局、出版社を傘下におく日本マスコミ労組(MIC)の意向がはたらいたのはいうまでもない。
 MICは、「緊急事態宣言」の法的根拠となった新型コロナ対策特別措置法に反対声明をだした団体で、政府のコロナ対策に、真っ向から反対している。
 そればかりか、改憲論者である安倍首相を最大の天敵としている。
 マスコミ人が、一斉にPCR神話と反安倍に走ったのは、この空気を読んでのことであろう。
 わたしは、このブログで、3月段階から、押谷仁東北大学教授や西浦博北大教授らの「二段構え」戦略を評価、国民的な理解をもとめてきた。
 二段構えというのは、クラスター(患者の小規模集団)という点≠攻撃したのちに、拡散したコロナウイルスを「三密(密集・密閉・密接)回避」と「ステイホーム(外出自粛)」という面≠ゥら防ごうという挟み撃ちの作戦である。
 日本がコロナ防衛に成功した理由は、CTスキャンとマスクである。
 日本のCT普及率は2位グループの欧米を引き離して第1位である。
 新型コロナウイルスの死因は肺炎で、日本は、初期段階でCTによる肺炎を診断、治療をおこない、コロナウイルスによる肺炎の死亡率を最小限におさえこむことに成功した。
 PCR検査は、あくまで、副次的な手段で、厚労省は、はじめから、すべてのひとにPCR検査をすることは不可能で、有効ではないと宣言している。
 ところが、CTの普及率が日本の数分の1の欧米では、PCR検査を優先させて、CT所見による感染者・重症者の発見を見逃してきた。
 PCR検査による感染者の発見は数百人に一人で、しかも、感染がわかっても治療法や特効薬がなかった。
 PCR検査は、感染者を強制隔離するための手段でしかない。
 その反面、感染能力のある30%の偽陰性が放置されるので、これがパンディミックをひきおこす原因の一つとなった。
 しかも、PCR検査の実施率は、人口比1〜数%とあって、これが、パンディミック防衛に役に立つはずなどなかった。
 もう一つの理由はマスクで、欧米人と日本人では、マスクにたいする感覚が異なる。
 欧米人にとって、マスクは防衛用で、ウイルスから身をまもるためである。
 そこから、布製の繊維では、微小なウイルスの侵入を防ぐことはできないというマスク無効論がでてくる。
 一方、日本人にとってマスクは、飛沫を他人にかけないという他人のためのもので、それが、めぐりめぐって、ウイルス感染者の飛沫からじぶんをまもる自己防衛につながる。
 それが日本のマスク文化で、マスクをしていれば、ソーシャルディスタンスなど必要がない。
 WHOテドロス事務局長をはじめ、欧米諸国も、日本の成功をみとめざるをえなくなったが、分析的な見解をいっさいしめさず「奇妙な成功」で片付けている。
 諸外国が日本にたいして、好意的でないのは、あたりまえの話である。
 競争心や嫉妬心、敵愾心がはたらくというよりも、もともと、自国のことに精一杯で、どこの国も、他国に関心などないのである。
 したがって、外国の基準や評価を自国にあてはめることは、危険きわまりないばかりか、卑屈な売国思想、愚かな属国根性につながる。
 他国の顔色をうかがうのは、朝鮮半島の事大主義と同様、恥ずべきふるまいなのである。
 ところが、今回のコロナ騒動では、日本人は、マスコミ論調にのって、わが国独自の方針や政策を頭ごなしに否定、CT保有率やマスクの習慣など、日本固有の事情、文化的な特殊性にふれることなく、他国がわが国をどう評価しているかという視点のみに立って、自国に批判を浴びせてきた。
 それが、欧米に比較して、PCR検査数が少ないので、コロナ対策が遅れているとやら、感染者数や死者数をごまかしているなどという邪推だった。
 おかげで、安倍内閣の支持率は、コロナ対策を拒否して、死者数が急増しているブラジルのボルソナロ大統領以下となった。

 情報の出所は、外国のメディアや通信社だが、発言者は、ハーバード大学やコロンビア大学などの日本人研究者や日本在住の有識者で、国際派といわれる連中である。
 国際派のきわめつきがマルクス主義で、これに準じるのが啓蒙主義である。
 自由や平等、権利や民主主義は、市民革命の産物で、そこに、表現の自由や言論の自由がくわわって、革命前夜の様相がかもしだされる。
 フランクフルト学派は、別名「批判理論」の呼称があって、体制を批判することによって新しい体制がうまれるという造反有理の理論である。
 今回のコロナ騒ぎで、明らかになったのは、日本人および日本政府の冷静さと、その日本イズムを否定するマスコミ労組(MIC)や外国崇拝の国際派との対立だった。
 この対立の構図から、コロナ騒動をこえて、日本に、さらなる大きな亀裂がつくりだされた。
 女子プロの木村花さんがSNS上の誹謗中傷に耐えられず自殺した。
 一方、自民党の甘利明衆院議員が、女系天皇をみとめる発言をした。
「言論の自由」がひとの命を奪い、「男女平等」が国体を崩壊させる。
 日本という国家が、左翼や啓蒙主義に侵食されて、崩壊寸前なのである。
 次回も、この2つのテーマをふまえながら、新型コロナウイルスとたたかう日本人のすがたをみていこう。
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2020年05月20日

国益は正義である@

 ●日本を蝕むアナキズムという猛毒ウイルス
 新型コロナウイルス感染症にともなう緊急事態宣言が5月14日、39県で解除された。
 東京など8都道府県はまだだが、新規感染者が減少に転じて、終息も徐々に見えてきた。
 14日の記者会見で、安倍首相は「わが国の感染者数や死亡者数は、G7や主要先進国と比較して圧倒的に少なくすんでいるとのべたが、これを好意的に報じたメディアは皆無だった。
 コロナ防衛に失敗したのは「PCR検査」をサボってきた安倍首相の責任と叫んできたメディア、テレビのキャスター、医療関係者、タレントらは標的を失って、こんどは、安倍首相がすすめてきた「検察庁法改正案反対」へ矛先を振ってきた。
 国難といって大騒ぎしたコロナのことはすっかり忘れたようで、安堵の声も医療関係者への感謝のメッセージも聞こえてこない。
 そして、こんどは、検察庁法改正案反対へ一斉に声をあげはじめた。
 コロナのどさくさにまぎれて悪法をとおそうとする安倍をゆるすなという大合唱である。
 爆笑問題の大田光は「タレントも税金払っているのだから政治に口出ししたっていいじゃねえか」とうそぶく。
 だが、ツイッターが900万件を超えてブーム現象となった検察庁法改正案反対は、検察庁への応援歌で、とうてい、政治参加などと呼べる代物ではない。
 検察庁は、行政で、これを管轄下におくのが国政である。
 明治の司法省以来、日本の検察は、起訴有罪率99・9%、アメリカの意向をうけて田中角栄を逮捕、有罪にするなど、これまで、司法を抱き込んでファッショ的な特権をふるってきた。
 検察庁を奉って、別格官幣社にしてしまっては、政治の放棄だろう。
 タレントらが検察を応援するのは、検察が、日本の最高権力だからである。
 立憲民主党も共産党も、首相を逮捕できる検察権力を風化させてならないと力説するが、検察は、偏差値エリートの特権階級で、民主主義や国民主権から切り離された権力の牙城である。
 一方、野党やマスコミ、タレントが目の敵にしている政治家は、われわれが選挙でえらんだわれわれの代表である。
 じぶんたちの代表を足蹴にして、官僚を崇拝するのは、共産党官僚の中国と青瓦台エリートの韓国、霞ヶ関行政の日本だけである。
 この3国には、科挙制度や律令体制の歴史があって、いまなお、学歴偏重の階級意識をひきずっている。
 テレビは、東大生というだけでスター扱いするが、その一方、日本の大学生は、不勉強で、IT(通信技術)やAI(人工頭脳)分野では、中・韓・台のはるか下位、香港やインドネシアにも負けて、パソコンにさわったこともない老人がIT担当大臣をつとめている。

 これらは、みな、根っこは同じで、国家観や歴史観、国益や独立性、発展をもとめる愛国心など、独立国家としての自尊心や気概、行動原理を欠いている。
 国家や国民が眼中にないという意味で、アナキズム(無政府主義)である。
 そして、歴史や伝統、文化の一切を否定する批判主義(フランクフルト学派)に立っている。
 かられは、建設すべき国家も否定すべき歴史ももたないので、左翼ですらない。
 なにも信じるものがなくなったとき、人間は、学歴や特権、外国の権威などにしがみつくものである。
 それが、学歴主義や官僚体制、マスコミ権力、国際主義で、国家への信頼や愛着、信念や自信がつゆほどもない。
 そして、その結果、くらげのような衆愚社会がつくりだされる。
 その一つが「外国は日本をどう思うか」という西洋コンプレックスである。
 韓国が支那に媚びる事大主義なら、日本は、西洋に媚びる属国根性である。
 西洋を模倣して、西洋の顔色をうかがい、西洋の価値観をもちこむ西洋崇拝は、うわべだけをてらう虚栄でしかない。
 虚栄の裏側には、かならず、嫉妬という対立概念がひそむ。
 嫉妬は、権力にたいするねたみやそねみで、西洋に媚びる売国奴が反政府にはしるのは、自国の権力者にやきもちをやいているのである。
 聖徳太子の17条憲法の14条に「群臣百寮、嫉妬有ること無かれ」とある。
 6世紀の大昔から、日本は、虚栄と嫉妬に悩まされていたのである。
 自国を否定して、西洋を崇拝する精神構造は、岩倉具視の西洋使節団からはじまって、大正デモクラシー、GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)、自虐史観や反日主義にいたるまで、近代日本の一つの骨格になってきた。
 そして、それが「宮沢談話(近隣諸国条項)」や「河野談話(従軍慰安婦日本軍関与説)、「村山談話(大東亜戦争日本侵略説」)、南京大虐殺実在説、日韓併合侵略説にひきつがれた。
 騒いだのが、左翼と反日、国際派だった。
 今回のコロナ騒動も、土台にあったのは、自虐史観と日本悪玉論だった。
 次回は、このテーマを、さらに、掘り下げてゆこう。
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2020年05月08日

憲法の不備と「40万人死亡説」の恐怖C

 ●官僚・学者・マスコミはアナキストの群れ
 かつて、社会党は、労働者の政党で、賃上げ闘争では、しばしば、自民党が経営側と社会党の仲介に立った。
 ところが、社会党は、イデオロギー政党へ変貌して、やがて、消滅した。
 労働組合も、賃上げ闘争を放棄、労働団体から反権力のイデオロギー集団となって、一人当たりGDPが世界比26位に転落する一方、企業の内部留保が460兆円にまでふくれあがるという皮肉な現象を招いた。
 マスコミ労連(MIC)も、生活闘争から思想闘争へ転換した労組である。
 国民が新型コロナウイルスに苦しんでいるなか、人権や報道の自由をタテに「新型コロナ対策特別措置法」や「緊急事態宣言」に反対して、反政府キャンペーンを仕掛けるなど、労組の枠をこえた反国家運動を展開している。
 マスコミ労連という反国家集団が、情報・報道機関を仕切っているところに日本の危機の構造があるといってよい。
 マスコミは、口が腐っても、天敵の安倍政権がコロナ退治に成果をあげたといいたくない。
 それを象徴するのがTBS系「サンデー・ジャポン」(4月26日)における杉村・岸論争である。
「亡くなった方はアメリカ5万人、イタリア、スペイン、イギリス、フランスは2万人を超えている。医療従事者の献身のおかげで、日本は、300人台におさえられている。その意味で、日本は(欧米に)勝っている」
とのべたのは、衆議院議員を1期務めたタレントの杉村太蔵である。
 これにたいして、元経産官僚で、慶応大学院教授、テレビのコメンテーターとして人気者の岸博幸が真っ赤になって反駁した。
 杉村は、現在、慶応大学院の学生で、岸の教え子にあたる。
「全体を考える場合は、死亡者数だけじゃなくて、感染者数、増加数がおさえられているかを考える必要がある。死亡者数が少ない本当の理由がわからないなかで、日本が勝っているというのは正直いってわけがわからない」
 いくら、読み返しても、岸がいっている主旨が理解できない。
 感染者数や患者の増加数、死者数はWHO(世界保健機関)が公表している。
 日本の死者数が際立って少ないのは、客観的な事実で、理由がわからないといっても、清潔好きでボディタッチがすくない日本の風習、GCG(結核予防ワクチン)の効果、CTの普及率の高さ、クラスター殲滅という点≠フ攻撃と三密回避やステイホームという面≠フ防御の成功と、考えられる可能性はいくらでもある。
 死亡者数が少ない理由がわからないから評価を下せないといってしまっては議論にならない。
 岸が、杉村発言を頭から否定したのは、反安倍の論客だったからで、安倍の点数稼ぎになる杉村の発言がゆるせなかったのである。
 総理のご意向文書を本物と主張した前川喜平・前文科省事務次官も反安倍の急先鋒で、「コロナ感染者数は公表の100倍」「PCR検査不足は安倍政権の責任」と告発しつづけている。
 貧困調査と称して、官費を使って売春目的の「出会い系バー」に入り浸って女性と値段交渉をしていた人物が、ネット上で「日本の右傾化を深く憂慮する一市民」「自由と平等と友愛を原理とする社会の実現をもとめて」「日本と世界の未来を危うくするアベ政権の退陣をもとめる」と発言しても、片腹痛いだけだが、岸と同様、支持者が多い。
 その理由は、日本に、アナキズムが深く浸透しているからである。
 アナキズムは、歴史的権威や政治的権力、法的秩序をみとめない。
 その一方、学歴やIQ、身分や知名度、資産などの個人の資質や属性を重視する。
 中国や韓国で、科挙制度がなんども国を滅ぼしたが、なんども復活した。
 権威が不在になると、学歴以外に社会的評価の基準がなくなるのである。
 恩賜の軍刀、銀時計組(陸軍)、ハンモック・ナンバー(海軍)の日本の軍国主義も極端な学歴社会で、連合艦隊参謀長の宇垣纏は、海軍兵学校や海軍大学校の卒業順次がじぶんより下の者へ敬礼も返さなかったという。
 軍部が、天皇よりも学歴の権威を重んじたのは、天皇崇拝は擬態で、天皇を政治利用していたからである。
 日本軍国主義は、数々の失敗を重ねて、滅びた。
 だが、アナキズムというかたちで、戦後、復活した。
 天皇の官僚からGHQの官僚へ豹変した霞ヶ関とGHQによって解放されたのち、要人追放令でがら空きになった大学教授の職にありついたマルクス主義者、そして、労働組合ある。

 左翼は革命を志向するが、アナキストは、体制内に巣食ってゆたかな生活を享受する。
 そして、その一方、体制を批判して、個としての存在のみを主張する。
 いわば、国家の寄生虫で、官僚や大学教授、マスコミ人、弁護士ら生産性のないものたちは、大半が、天皇や国家、 国体が眼中にないアナキストといってよい。
 アナキストが、唯一、信じるのが、学歴やIQである。
 舛添要一(元東大教授)や堀江貴文(東大卒)らが、じぶんのIQの高さをひけらかして、緊急事態法を発令した安倍首相のIQを疑うという論法をくりだす。
 ネットに、岸博幸が杉村太蔵を完全論破したという書き込みがあふれるのもIQ神話で、日本人の多くがアナキズムの信者なのである。
 アナキズムは、学歴偏向で、テレビが、東大軍団、インテリ軍団ともちあげるのは、番組制作者も視聴者も、アナキストだからである。
 ちなみに、IT(情報技術)やAI(人工頭脳)の分野で、日本がアジアで最下位に近いのは、大学生がコンピューターを学ばないからで、ITやAIが国家的な課題になっている中国や韓国どころか、香港やシンガポール、インドネシアからも水をあけられている。

 ベルリンの壁崩壊とソ連邦解体によって、共産主義への幻想はついえた。
 共産主義が人類の理想ではなくなったとき、左翼や反体制派は、アナキズム(無政府主義)とフランクフルト学派(批判理論)へ流れていった。
 無政府主義というのは、革命前夜の不安定な状態のことで、批判理論というのは、体制を批判することは正しいというイデオロギーである。
 両者とも、革命は捨てるが体制破壊は継続するという思想上のテロリズムである。
 それが反映されたのが、反日主義や自虐史観、フェミニズム(男女雇用機会均等法)だった。
 2009年、マスコミ労連支援の下で、ついに、社会主義政権が誕生した。
 当時、メディアにあふれた鳩山由紀夫と民主党への賛辞は、文字が読めない麻生首相へのネガティブ・キャンペーンに対比して、マスコミ史に残るほどの熱狂ぶりだった。
 ところが、政権をとった民主党は、ただひたすら、自民党政治と反対のことをやる愚策をくり返して、自滅していった。
 共産主義という理想を捨て、一方、伝統を足蹴にする宙ぶらりんの政治家の系譜が、村山富市から小泉純一郎、鳩山由紀夫、菅直人らで、それが、日本を被っているアナキズムの正体といってよい。
 民主党は、社会主義的な政党ではなく、アナキズムの政党だったのである。
 国家をみとめない無政府主義と体制を否定する批判理論が合体した亡国の思想≠ヘいまにはじまったことではない。
 反ナチスのフランクフルト学派と、伝統破壊のアナキズムは、日本国憲法をつくったニューディーラーにひきつがれて、憲法に反映されている。
 天皇も伝統も、国家も国体も眼中にないアナキストが、唯一、信奉するのが憲法である。
 国家主権にかかる国家防衛や国家緊急法、国家反逆罪やスパイ罪などの治安条項がそっくり抜けて、国民主権と国民の権利を謳った憲法は、アナキズムのテキストである。
 憲法制定当時、日本の主権者だったGHQの最大の謀略は、天皇を憲法上の存在にして、憲法改正で、廃位を可能にしたことだった。
 そして、自由や平等、人権は、天賦のものというオカルティズムを謳った。
 新型コロナ対策特別措置法や緊急事態宣言に反対するマスコミ労連が憲法をタテにとるのは、アナキストだからである。
 かれらには、新型コロナウイルスよりも、国家の自衛権や治安権、国家緊急法のほうが大敵なのである。
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2020年05月07日

憲法の不備と「40万人死亡説」の恐怖B

 ●コロナ防衛に反対するマスコミ労連
 新聞労連や民放労連、出版労連などをかかえる「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」が、市民の自由や集会・報道の自由を脅かすとして、2020年3月10日、「新型コロナ対策特別措置法に反対する」という声明をだした。
 声明文にこうある。
「報道機関は、自らの判断にもとづき、必要な報道をおこなうもので、政府や自治体が、適切に権限を行使し、正確に情報を発信しているかなどを監視する社会的使命があります。その報道機関に法律上の責務を負わせることは、権力監視機能を損なわせる恐れがあります」
「『集会の自由』や『報道の自由』、国民・市民の『知る権利』を脅かし、憲法で保障された基本的人権の侵害につながりかねない法案であり、メディア関連労組として容認することはできません」
 なんという思い上がった言い草であろうか。
 報道機関(メディア)は、コマーシャルや国民からの視聴料でメシを食っている情報会社で、言論・報道の自由を逆手にとって、有名人のスキャンダルや大衆受けのする政府や与党批判、あるいはエロ・グロで部数や視聴率を稼いでいる水商売である。
 立脚する基盤は、コマーシャリズムで、マスコミが、資本(スポンサー)や消費者に媚び、視聴率や発行部数、広告収入に一喜一憂するのは、生産性のない浮き草稼業だからである。
 マスコミ労組は、その情報会社に雇われている勤労者の集団である。
 そのサラリーマン集団が、どうして、権力の監視機能や社会的使命を担っているなどといえるだろう!
 マスコミ労連の思い上がりは、常識をこえているが、経営者や管理職もかれらに手も足もでない。
 マスコミを仕切っているのは「市民の自由や集会・報道の自由」を謳うマスコミ労連だからで、経営側の意向が反映されないのは、NHKが2008年以降、経営陣を財界から招いても反日報道がいっこうにやまないことからもわかろうというものである。

 マスコミ労連(MIC)は、今回の緊急事態宣言には、大反対だが、国民の大多数が支持しているとあって、表立って、反対運動を展開できない。
 そこで、巧みに世論操作をして、3つの争点を立てた。
 @日本はコロナ防衛に失敗したというデマゴギーを流す
 Aその責任は改憲をめざす安倍政権にあるという論調をつくる
 B休業補償をしない緊急事態宣言を暴挙として、これに反対する
 日本がコロナ防衛に失敗したというキャンペーンに使われたのがPCR検査である。
 OECD加盟国36カ国中、日本がPCR検査数でほぼ最下位の35位なのは、SARSでも国内の大流行がなく、疫病を大量に検査する仕組みをもっていなかったからである。
 一方、コンピューター断層撮影(CT)の保有数は世界一で、アメリカなど2位グループの2倍、ヨーロッパの4〜10倍にたっし、解析技術もで欧米を大きくリードしている。
 CTが威力を発揮したのが、新型コロナウイルスの感染者が大量に発生したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」における自衛隊の対応である。
 DP号では、乗客・乗員3711人のうち、712人が感染して、そのうち14人が亡くなっている(4月18日)。
 自衛隊対策班は、感染者を隔離して、船内感染を防ぎ、200人を超える患者を自衛隊中央病院(東京都世田谷)に収容して治療をおこない、院内感染をおこさなかったばかりか、DP号から日本国内への感染拡大を完全に防衛した。
 このときモノをいったんのがCTで、PCR検査でもでてこない3割ほどの「偽陰性」を発見して、しらみつぶしにした。
 ちなみに、PCR検査をおこなってきた欧米でパンデミックがおきた原因の一つが、無自覚で、感染力だけもつ3割の「偽陰性」が放置されたからである。
 入院患者200人の約4割は、無症状や軽症であったが、胸部CT検査では約半数に異常陰影がみとめられて、そのうち、約3分の1は悪化して、肺炎へ移行した。
 PCR検査(遺伝子検査)は、科学的・機械的作業ではなく、人為的な作業なので、臨床性がわるく、7割程度の確率で陰性、陽性が判明しても、それを治療の基準にすることはできない。
 PCR検査で陽性でも、発症するのは2割、重症化するのがさらにその2割で、ほとんどが自然治癒してしまう。
 それなら、重症化するケースに絞って、治療にあたったほうが効率よいのはいうまでもない。
 胸部CT検査は、発症以前に病変を予見できるので、早期治療が可能になる。
 PCR検査は、不安なひとの気休めで、コロナ防衛の役に立たないのである。
 ところが、日本のメディアは、PCR検査を徹底的にやって、コロナ封じに成功した韓国に学べという記事があふれた。
 ところが、韓国のPCR検査は、OECD加盟国36か国中26位で、平均値にもたっしていない。
 のぞんだ国民全員がPCR検査をうけて、陽性者が整然と隔離されたという神話もうそだった。
 PCR検査数が、無作為的な1・17%、欧米の3分の1、トップのアイスランドの10分の1にすぎない韓国が、コロナを制圧できたのは、徴兵制と国民皆背番号(「住民登録番号」)制をIT(情報技術)やAI(人工知能)とむすんだ管理化社会のたまものだったのである。
 マスコミがこれにふれないのは、マスコミ労連にとって、徴兵制も国民皆背番号も天敵のようなものだからである。
 一方、舛添要一や小沢一郎、菅直人、東国原英夫、ビートたけしやヒロミらが「日本はPCR検査をサボってコロナ防衛に失敗した。安倍は引退すべき」「緊急事態宣言の延長で日本経済は壊滅して、死骸の山」(舛添)という発言をくり返す。
 そして、舛添と堀江貴文は、安倍首相のIQ(知能指数)を疑うという論法をくりだし、TVタレントの安倍叩きが加熱する。
 これは安全パイで、かれらが、安倍批判、国家批判をしているあいだはマスコミからご愛顧いただいて、メディアの露出がふえ、スポットライトを浴びることができる。
 マスコミ労連と歩調をあわせるメディアとタレント、視聴者の奇妙な一体感が、日本の危機の構造をつくりだしているのである。
 かつて、西部邁は、酒席で、東大の後輩にあたる舛添要一を評して、ただのアナーキー(無政府主義者)と断じた。
 次回は、アナキズム集団である「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」を解剖しよう。

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2020年04月27日

憲法の不備と「40万人死亡説」の恐怖A

 ●点≠フ攻撃(クラスター殲滅)と面≠フ防御(ステイホーム)
「新型コロナウイルスの感染拡大に収束の兆しが見えない」「安倍首相の対策は後手に回ってばかり」「韓国や台湾の成功に学ぶべき」という意見がマスコミにあふれ返っている。
 タレント岡江久美子のコロナ死はPCR検査をサボってきた政府の責任(舛添要一や坂上忍ら)という無知なのか悪意なのか見当がつきかねる文言も目にとびこんでくる。
 今回のコロナ禍ほど、マスコミぐるみの誤認や曲解、デマや策動が氾濫した事件は、戦後、例がない。
 インフルエンザは、人類が被った最大のウイルス災害で、20世紀に入ってからも、死者4000万人のスペイン風邪(1918年)や死者200万人のアジア風邪(1957年)、死者100万人の香港風邪(1968年)と三度にわたって、パンデミック(伝染病の世界的な大流行)に見舞われた。
 インフルエンザで亡くなったひとは、昨年(2019年)だけで3000人(合併症死1万人/感染者数1千万人)をこえ、全世界では、毎年20〜50万人(合併症死100万人/感染者数14億〜21億人)が亡くなっている。
 インフルエンザウイルスの撲滅が不可能なのは、人間以外の鳥や獣を宿主にしているときは、無害だからで、宿主とはなんのトラブルもおこさず共存している。
 ところが、人間に感染するときは、悪魔のウイルスへ突然変異して、今度はヒトからヒトへ、猛烈なスペードで伝染してゆく。
 そして、人類の抗体などとの兼ね合いによって、沈静化、潜伏化する。
 それが、A型やB型、C型、トリ、ウマ、ブタ、SARS型などのインフルエンザである。
 新型コロナウイルスは、その新手だが、日本人は、新型コロナウイルス病という別の伝染病であるかのようにカン違いしている。
 新型コロナウイルスが並みのインフルエンザウイルスとちがうのは、致死率が5倍〜10倍も高く、とりわけ、抵抗力の弱い罹患者にたいして、致命的なダメージをあたえるところにある。
 ところが、日本のコロナ死亡率は、前回のブログでのべたように、欧米とは比較にならないほど低い。
 マスコミは「感染拡大に収束の兆しが見えない」と煽りたてるが、アメリカでは死者数が5万人(4月25日)をこえ、1日に数千人が亡くなる地獄図である。

 罹患者数は、世界合計277万人(4月25日)で、アメリカの90万人を筆頭に欧米諸国が軒並み20万人前後というすさまじさである。
 日本の罹患者数は、一万3千人で、イギリス(15・5万人)の10分の1以下である。
 かつて、イギリスと日本は、罹患者数や死者数とも、大きなちがいはなかった。
 ところが、現在、イギリスの罹患者数が桁違いにふえて、死者数にいたっては、日本(335人)の60倍の2万人に到達しようとしている。
 日本は、世界のなかでも、コロナ封じに信じ難いほどの成功を収めてきたのである。
 それでも、マスコミは、「安倍首相の対策は後手に回ってばかり」と詰る。
 日本の戦略は、二段構えで、「クラスター(患者の小規模集団)」を殲滅する点≠フ攻撃と、国民が一人ひとり自己防衛する面≠フ防御が組み合わされている。
 クラスターという点を集中的に攻撃したのちに、拡散したウイルスの伝染を「三密(密集・密閉・密接)回避」と「ステイホーム(外出自粛)」で防ごうというのである。
 マスコミは、この戦略を国民に周知徹底させるどころか、牙をむいた。
 感染経路不明が多いのは、日本政府が、無為無策だからというのである。
 インフルエンザの感染経路は、99%わからないのが世界的常識で、日本がこれをある程度、把握していたのは、クラスター潰しという戦略をとってきたからである。
 いずれ、感染経路が不明になるのは、織り込み済みで、それが、点から面へ戦略を転換するタイミングだった。
 だが、マスコミや識者は「ブレる安倍政権」とけちをつけ、爆笑問題の太田などは「『3密』が『ステイホーム』になった根拠が薄い」と政府や西浦教授らの対策班の懇願を愚弄する。
 太田のいうとおりと、大勢の日本人が外出規制を無視して、コロナ死がでた場合、太田は、どんな責任のとりかたができるというのか。

 日本人の誤解の最たるものが、PCR検査である。
 日本人は、PCR検査を、コロナウイルスの有無を調べるリトマス試験紙のように考えているが、実際は、細菌のDNAを増幅させる高度な技術で、電子顕微鏡でも見ることのできないクラミジアやウイルスなどの有無を調べる。
 コロナウイルスを高い確率で発見できるが、PCR検査でコロナウイルスを発見したところで、パンデミック防衛にはむすびつかない。
 コロナウイルスの陽性者のうち、発症するのは2割、重症化するのは、さらにその2割、酸素吸入機や人工肺(ECMO)が必要になるのは、さらにその二割で、その段階になれば、コロナウイルスの有無を調べても意味がない。
 コロナウイルスによる死亡例の多くは肺炎で、肺炎には、胸部CTで肺炎を確認後、アビガン(富士フイルム富山化学)などの有効薬で肺炎の進行を止める方法など、さまざまな治療法や新薬が開発中だが、必要なのは、検査ではなく、治療である。
 コロナウイルスには特効薬もワクチンもないので、無差別的にPCR検査をおこなえば、医療機関に陽性者が殺到して、パンデミックと医療崩壊が同時に発生することになる。
 それが、実際におきたのが、イタリアやアメリカ、イギリス、スペインなどで、クラスター潰しという点の戦略≠立てられなかった国は、無差別的なPCR検査という面の戦略≠とらざるをえなかったのである。
 ちなみに、PCR検査国は、3月段階で韓国がトップだったが、4月からはアメリカが断トツの1位で、韓国は5位におちて、欧州勢と並んでいる。
 韓国や台湾がコロナ封じに成功したのは、PCR検査をおこなったからではなく、徴兵令(台湾2019年から志願制)と国民背番号制(韓国「住民登録番号」/台湾「国民識別番号」)を土台にIT(情報技術)やAI(人工頭脳)を使って、短時間で、挙国体制を構築したからである。
 コロナ禍という国難に際して、政府を攻撃して点数を稼ごうという輩が続々とでてきたのは日本とは大違いなのである。
 パソコンを使ったことがないITの素人(桜田義孝五輪担当大臣)がサイバーセキュリティ戦略を担当する日本と、中国と並ぶAI先進国の韓国や「天才プログラマー」として知られるITの専門家の唐鳳が行政院のデジタル部門を仕切る台湾では、とうてい、勝負にならないのである。
 なぜ、日本は、こうも愚かな国になってしまったのか。
 次回は、新型コロナ対策特別措置法や「緊急事態宣言」に反対声明をだした「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」を俎上にのせよう。

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2020年04月19日

憲法の不備と「40万人死亡説」の恐怖@

 ●マスコミ労組(MIC)の策動にのってパンデミックへ
 緊急事態宣言で要請した「外出自粛」がまもられなかった場合、重篤なコロナ患者80万人の半数40万人が死亡すると警告したのは、厚生労働省のクラスター(感染者の集団)対策班である。
 その一方、同対策班の西浦博(北大教授)は、緊急事態宣言期間(5月6日まで)対人接触を「最低7割、極力8割減らす」ことができれば、約1か月で新型コロナウイルスの流行を抑えこめるとも指摘した。
 厚生労働省の対策班を率いているのは、押谷仁東北大学教授や西浦博教授らWHOのSARS封じ込め作戦の最前線で陣頭指揮を執った第1人者で、世界的に知られた免疫学(「数理モデルを利用した感染症データの分析」)の権威である。
 日本がメガクラスター(大規模クラスター)の発生を食い止めることにおおむね成功して、疾病者・死者とも、欧米の1パーセント以下におさえることができているのは、厚労省クラスター対策班の功績といえる。
 それだけに、先の西浦教授の警告には、千鈞の重みがある。
 新型コロナウイルスの被害状況(4/15現在)
 世界の感染者=2百万人超/死者=12万人超(死亡率6パーセント)
 日本の感染者=8640人/死者=176人(死亡率2パーセント)
 感染者は世界比で、0、42パーセント、死者は0、15パーセントである。
 人口10万人当たりの死亡者数(4/2日現在)
 イタリア22人/スペイン23人/米国1・5人/韓国0・4人
 これにたいして、日本は、わずか0・05人である。
 日本の数字が低いのは「PCR検査の数が制限されているから」「公表の百倍の感染者が野放しになっている」(前川喜平元文部科学事務次官)」という説も根強いが、それなら、死者数がもっとふえるはずである。
 自宅で死亡した数に紛れていると主張するひともいるが、検死制度が万全で自宅の病死についても十分なチェックがおこなわれている日本では、不審死が刑事事件の対象になるばかりか、火葬許可もおりない。
 コロナ死が隠れているのは、葬儀場がパンクして、死体をフォークリフトで冷凍倉庫へ運びこんでいる欧米で、伝染をおそれて十分な検死もおこなわれていない。

 新型コロナウイルス禍は、第二次大戦に匹敵する大災難で、欧米には、人類存亡の危機をいいだす学者までいる。
 西浦教授が「自粛すれば、切り抜けられる可能性が高いので、皆さんの力が必要です。お願いします。助けてください」と悲痛に訴えたは、この危機感を欧米と共有しているからである。
 安倍首相の「緊急事態宣言」も対策班の意向によるもので、緊急会見(4月17日)で、「どうか外出を控えてください」と切々とうったえた。
 映像を流すネットのコメント欄には「涙が滲んできた。いままで、頑張ってきてよかった。大変な国難をのりこえる舵取りがかんたんではないことは存じておりますが、なお正しい方向へわれわれを導いてください!」など好意的な書き込みが延々とつづいた。
 一般ユーザーが書き込むコメント欄には、左翼反日の以外、テレビで爆発する安倍批判≠ェほとんどみられない。
 それが、組合や政党などの影響をうけないネット世論の一大特長である。
 インテリ左翼がネットウヨ≠ニ罵る一般庶民はかくも健全なのである。
 一方、テレビは、タレントぐるみで、アンチ安倍のオンパレードである。
 コロナ禍に乗じて、東国原英夫(元宮崎県知事)や舛添要一(元東京都知事)が点数稼ぎに安倍政権を叩けば、布マスク配布に立川談四楼が安倍首相を「ブン殴ってやりたい」と息巻き、女装タレントのマツコは「だれが考えているの」とせせらわらう。
 そして、マスコミは、マスクは小さすぎて不良品と一斉に騒ぎたてる。
 一律10万円の給付にたいしても、フジテレビ・バイキングMCの坂上忍が政治不信の講釈を垂れると人気タレントの土田晃之は「遅ぇーよ!」と粗暴に安倍批判である。
 コメント欄には「野党やテレビ、マスコミの安倍憎しの感情論にはほとほと疲れる」「いらないのなら医療現場に寄付して下さい。私の周りに文句を言っている人はいません」「庶民の何百倍の収入をえている人気タレントにはハシタ金でも、庶民にはありがたい10万円です」などの反発が数百から数千の単位で書きこまれている。

 マスコミが反安倍一色なのは、安倍が改憲論者だからである。
 日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)は、護憲(「集会の自由」「報道の自由」「表現の自由」「国民・市民の知る権利」)の牙城である。
 今回の「緊急事態宣言」の法的根拠となった新型コロナ対策特別措置法にも堂々と反対の声明を掲げている。
 安倍首相が憲法を改正して、憲法停止や基本的人権の留保を可能にする「国家緊急権」が設けられると、MICにとって、死刑宣告にひとしい。
 タレントもそのあたりの空気を読んで、反安倍・護憲の発言をくりだす。
 マスコミはMIC(新聞労連、民放労連、出版労連、全印総連、映演労連、映演共闘、広告労協、音楽ユニオン、電算労)という左翼組合の影響下におかれているのである。
 韓国が新型コロナウイルスの制圧にほぼ成功したのは、大統領権限が「国家緊急権」に匹敵する強力なものだったからである。
 PCR検査のローラー作戦や隔離病棟の確保、日本のマイナンバーカードにあたる住民登録番号をAI(人工知能)で管理する全体主義的手法が奏功したのである。
 日本で、小池東京都知事が「ロックダウン(都市封鎖)」を口にして、すぐにひっこめたのは、憲法に国家緊急権が規定されていないからで、違憲どころか無憲になるので、国も都も、ひたすら、国民におねがいするしかない。
 そこで、マスコミが打ちだしたのが、自粛してやるから補償しろという休業補償の論理である。
 休業補償などをおこなっている国などどこにもないが、マスコミは、人命を軽んじて、経済を大事にする安倍政権、ケチな安倍首相というキャンペーンを張って、モリカケサクラ(「森友学園」「加計学園」「桜を見る会」)問題で検察が安倍首相をマークしているかのような印象操作をおこなっている。
 その結果、安倍政権の支持率が急落した。
 コロナ禍に見舞われている世界で、政権支持率が下がったのは、「どうせいつかは死ぬ」「コロナはちょっとした風邪」とコロナ対策を拒否しているボルソラノ大統領のブラジルと、目下、奇跡的な成功をおさめつつある安倍首相の日本の両国だけである。
 支持率を上げている国を上昇率順に示すと――
 @デンマークのフレデリクセン首相(上昇率40%/支持率79%)
 Aオランダのルッテ首相 (上昇率30%/支持率75%)
 Bイタリアのコンテ首相(上昇率27%/支持率71%)
 Cイギリスのジョンソン首相(上昇率22%/支持率55%)
 Dオーストラリアのモリソン首相(上昇率18%/支持率59%)
 E韓国の文在寅大統領(上昇率17%/支持率56%)
 Fフランスのマクロン大統領(上昇率15%/支持率51%)
 Gドイツのメルケル首相(上昇率11%/支持率79%)
 Hアメリカのトランプ大統領(上昇率5%/支持率49%)
 ✔ブラジルのボルソナル大統領(下降率2%/支持率33%)
 ✔日本の安倍晋三首相(下降率4%/支持率39%)
 コロナ防衛に失敗したイタリア、フランス、イギリス、アメリカの指導者の支持率が上がっているのは、危機に際して、国民は、国旗の下に団結する心理がはたらくからである。
 一方、日本では、オフィス街の人出は、5〜6割減と目標の8割減を大きく割って、欧米がたどったパンデミック(感染爆発)の危険が高まってきた。
 世界中の国家と国民が結束するなか、日本だけが、国家的な求心力を失って漂流しはじめた。
 ビートたけしと橋下徹が、政府のコロナ対策を批判して「国会議員の歳費を減らせ。腹が立つ」と怒りぶちまけて、多くの視聴者の共感をえたが、政府の外出自粛要請はまもられず、パンデミックの恐怖はひたひたと迫っている。
 世界が命をまもるたたかいに血眼になっているなか、日本だけが、コロナそっちのけで、政府批判に夢中になっている。
 危機意識は、いったい、どこへいってしまったのか。
 日本は、マスコミの策動にのって、こうして、国家解体にむかうのである。
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2020年04月12日

右翼とはなにか、左翼とはなにかC

 ●一元論の罠に落ちた日本人
 個と全体は矛盾する。
 国権と人権、国家理性と国民感情、国家と国民の利害も、一致しない。
 そもそも、共同体の国と単体の個人は、折り合いがよくないのである。
 ゴミ処理場をつくれといいながら、近隣につくるのは絶対反対という。
 政治問題とは、結局、社会全体に噴き出した個と全体の矛盾だったのである。
 したがって、政治は、二元論に立って、個と全体、国民と国家双方の利害を調整する手法や哲学でなければならない。
 大昔から、個と全体の矛盾を解消しようと、人類は、苦労を重ねてきた。
 だが、絶対王政も共和制も、独裁も共産主義もうまくいかなかった。
 アナーキズム(無政府主義)もユートピア思想も実現しなかった。
 自由や平等、人権は、国家が請け負うもので、ジャングルで、一人、自由や平等、人権を叫んでも、飢えて死ぬか、獣に食われるだけである。
 だが、日本国憲法には、自由や平等、人権が、天からあたえられたかのように書いてある。
 護憲派は夢でもみているようなユートピアン(平和バカ)だったのである。
 大戦後、大統領制(米)と共産主義(ソ)、議会民主主義(英・仏)が正義となった。
 しかし、冷戦後、ソ連邦と東欧共産圏が体制崩壊をおこした。
 そして、現在、奇跡的にも、伝統国家の日本が復活して、民主主義国家と肩を並べている。
 日本の君民一体が、民主主義以上にすぐれた体制だったからである。
 第二次世界大戦は、全体主義と民主主義の戦争だったといわれる。
 けれども、戦争になれば、民主主義国家も全体主義へと変貌する。
 個人主義に立った自由や平等、人権は、民主主義といわれる。
 その一方、全体主義の人民独裁や共産主義も、民主主義である。
 独裁者が、民主主義(国民主権)をあずかるのが人民独裁で、中国は中華人民共和国、北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国を名乗っている。
 民主主義というのは、個と全体、全体主義と個人主義、弱者と強者を二股にかけたヌエのような存在なのである。

 国民主権を謳った憲法の第1条に「天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意にもとづく」とあって、憲法の民主主義の精神が、一転して、全体主義になっている。
 それが、民主主義の正体で、ヒトラーもスターリンも、多数派原理を最大限に利用した。
 日本人は、民主主義が人類最高の英知であるかのようにいうが、文化も哲学もないただの多数決で、いつ全体主義に変容するか、わかったものではない。
 大事なのは、民主主義ではなく、個と全体を調整する二元論のほうである。
 民主主義が最終的に勝利した(フランシス・フクヤマ「 歴史の終わり」)のは、まがりなりにも、民主主義が個(国民)と全体(国家)の両方へ目配りができていたからである。
 だが、日本の民主主義崇拝者は、個と全体のうち個のほうだけしか見ない。
 そして、全体である国家や政府を否定、攻撃して、民主主義の擁護者のような顔をしている。
 民主主義が、個と全体の両方を見据えていることを忘れているのである。
 民主主義が「個と全体の二元論」と喝破したのが政治学の藤原弘達だった。
 ちなみに、藤原先生には、わたしが主催した国民討論会などをとおしてご指導をいただき、それがのちに自著(「池田創価学会の政権掠奪を斬る」(日新報道)に反映された。
(ブログ/悲天/わが青春譜Fに詳細)

 わが国の政治、とりわけ野党政治がいつまでも成熟しないのは、民主主義の幻想にとりつかれているからで、60年安保は「民主主義をまもれ」「岸を倒せ」そして、今世紀最大の国難「新型コロナウイルス禍」でも、挙国一致体制どころか、野党からマスコミ、論者まで、政府批判に血眼になっている。
 安倍政権は、108兆円の緊急経済対策予算と1世帯あたり30万円の現金給付などを盛り込んだ緊急国民救済策を打ち出した。
 それが、国家の仕事で、全体を見据えて、マクロ的な政策をうちだす。
 これにたいして舛添要一(元東京都知事)や東国原英夫(元宮崎県知事)らTVタレント化している元政治家や論客顔のキャスターや芸能人が口を極めて政府を罵倒する。
「庶民の気持ちが分かっていない」というのだが、これみよがしに政府攻撃をくりひろげ、庶民の不安を煽って、じぶんの人気を上げようという魂胆がみえみえである。
 コロナ禍を心配するなら、医療崩壊が一番の懸念材料だが、TV出演者らは「PCR検査をサボっている日本は世界の恥」などと言い募り、調査と称して官費で「出会い系バー」に入り浸っていた前川喜平前文科次官(加計学園問題を巡る「総理のご意向文書」)などは「実際は公表の100倍」といいふらしている。
 PCR検査をむやみにおこなうと、8割以上が自然治癒するコロナウイルスの患者が病院に殺到して、重症患者を選別的に治療している現在の医療体制が崩壊して、イタリアの二の舞になる。
 だが、かれらは、個を見て全体をみないので、そんなこと意に介さない。
 個や国民の側から全体や国家の側を見れば、不条理の塊のようにみえる。
 それが、一元論で、万人が完全な自由や平等をもとめると、アナーキズム(無政府主義)となって、社会は、崩壊する。
 日本人は、民主主義だから公正というが、民主主義も、勝者が一つで、他はすべて切り捨てられる一元論である。
 左翼やマスコミ人は、いざしらず、大方の日本人は、個と全体、国民と国家の両方へ目配りができる善良な二元論、多元論者である。
 それが、歴史や伝統、文化や良識をたずさえた伝統国家の民族性である。
 一方的な立場から、不平や不満、怒りを煽って、点数稼ぎをするマスコミ文化人の尻馬にのって、日本を滅ぼしてはならない。
 次回から「新型コロナウイルス禍」にどうたちむかってゆくか論じよう。


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2020年04月04日

右翼とはなにか、左翼とはなにかB

 ●「君民一体」は大御心と大御宝
 保守系とりわけ右翼は、天皇制ということばをきらう。
 日本共産党がいいだしたことばだからというより、天皇は、制度ではないからである。
 天安門広場に肖像が掲げられている毛沢東を、だれも、制度と思わない。
 毛沢東は、カリスマ的偶像で、国家は、法を超えた神話や精神性、統治者と民をむすびつけるおとぎ話を必要とするのである。
 国家も、物心(心身)二元論で、身体と精神からできている。
 身体が、領土や経済力、軍事力なら、精神が歴史や言語、文化である。
 前者が権力にもとづく政体で、後者が権威にもとづく国体である。
 これが権力と権威の二元論で、伝統国家は、政体と国体の両方をもっている。
 日本共産党が天皇制ということばを使うのは、革命国家には、文化としての国体がなく、あるのは、制度としての政体だけだからである。
 制度は、法や習俗、規範などにもとづいてつくられた仕組みで、政体である。
 具体的には、律令制度や封建制度などをさすが、そのなかに民主主義や議会制度もふくまれる。
 民主主義も議会主義も、政体の一部で、政治機能にすぎなかったのである。
 日本人は、民主主義に文化的価値をみようとするが、民主主義も議会主義も多数決の原理でしかない。
 ちなみに、共産主義も多数派独裁で、多数派の代表が独裁者となる。
 共産主義と議会主義の中間が大統領制で、トランプも独裁者である。
 政体は、相対的で、日本でも、律令制度から摂政、院政、幕府、そして政府へと移りかわってきた。
 だが、国体は、絶対的で、歴史や伝統や文化、民族は永遠である。
 国家は、永遠でなければならないがゆえに、国体=天皇を必要とするのである。
 天皇は、国体の象徴で、政体を掌握する権力に正統性をさずける権威である。
 ここでいう天皇は、個人ではなく、皇祖皇宗の大御心で、この地位は、神武以来、万世一系のもとで、2000年以上、延々とひきつがれてきた。
 国民は大御心を敬い、天皇は、国民を大御宝として大事にした。
 大御心と大御宝の組み合わせが「君民一体」である。
 民主主義は、多数決以外のなにものでもないが、君民一体は、ルソーが社会契約論で、望むべくもない最高の政治形態(君民共治)とのべたとおり、歴史の叡智をそなえている。

 明治政府は、天皇を国家元首に仕立てて、権力の側にひきこんだ。
 そして、現人神と吹聴して、軍部独裁政権をうちたてた。
 だが、日本人は、天皇が現人神などと思っていなかった。
 したがって、戦後、天皇が人間宣言≠ウれても、すこしも驚かなかった。
 日本人が信じたのは、現人神ではなく、国体神話であって、天皇は、国体という文化構造が擬人化された、歴史と国体の存在なのである。
 戦後、天皇は、憲法上の存在となって、上皇や今上天皇、秋篠宮殿下もそのようにお考えのようだが、憲法は、政体上の法規で、刑法や民法、交通法などの上位法にすぎない。
 明治憲法は131年前。皇室の存続が念頭になかったGHQ憲法にいたっては、わずか74年前につくられたもので、これらの法規が、皇紀2680年の天皇を規定すると思うほうがどうかしている。
 現行憲法第99条(天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務)では、天皇も憲法に従うべしとあるが、これは、GHQの支配体制を恒久化するための置き土産で、憲法が占領政策の道具に使われているのである。
 国連の常任理事国の米・英・ロ・仏・中の5か国など、市民革命を体験した先進諸国は、国家が丸ごと制度で、それが、国体を否定して、民主主義や共産主義を立てた近代国家である。
 近代国家といっても、近代的な国家という意味ではない。
 啓蒙主義・近代主義にもとづいて、伝統的秩序や価値観を捨てて、人工的につくった国家で、民主主義国家も共産主義国家も、大統領制国家も共和制国家も同じ穴のムジナである。
 自由や平等、民主主義などの啓蒙主義・近代主義は、一神教にもとづく一元論である。
 正しいのは自分だけという一元論は、共存も自他共栄もなく、永遠に闘争をくり返して、最後には、自分さえも滅びてゆく。
 革命からうまれた民主主義は、絶対的なものをすべて否定するからである。
 小泉純一郎内閣の「皇室典範に関する有識者会議」が万世一系を否定したのは、メンバーが民主主義の信奉者だったからである。
 ヨーロッパの右翼は、権力内の存在で、選挙に出て、当選する者もいる。
 日本の右翼がヨーロッパの右翼のように権力の側にあったら、天皇が憲法に規定される地位に貶められても、異議を立てることはできない。
 右翼が異義を立てることができるのは、権力の外側にいるからである。
 権力の外側にあるのは、権威=国体で、歴史や伝統、文化である。
 日本の右翼が、権力=政体に反逆するのは、天皇が権威たることをもとめる国体の防人だからである。
 三島由紀夫は、自衛隊市ヶ谷のバルコニーで、自衛隊員にこう叫んだ。
「自衛隊は、国軍を否定する憲法をまもる軍隊になり下がったのだ。どうしてその誤りに気がつかないのだ」
 そして、天皇陛下万歳を三唱して、割腹自決した。
 三島がまもろうとしたのは、制度(政体)ではなく、文化(国体)だった。
 日本がいかに伝統をまもってきたか、次回は、その歴史を振り返ってみよう。

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2020年03月30日

右翼とはなにか、左翼とはなにかA

 ●政体をまもる反共右翼、国体をまもる伝統右翼
 かつて、森喜朗の「神の国」発言が世間を騒がせた。
「神の国」が現人神$_話を連想させたのであろう。
 2000年5月、森喜朗首相の「日本は天皇が中心の神の国」という発言に共産党や社民党、民主党ばかりか、与党の公明党までが猛反発して、森内閣は、解散に追いこまれた。
 このとき、朝日・毎日を筆頭に産経をふくめた新聞マスコミが「国民主権や政教分離に違反する」「戦前の軍国主義を思いおこさせる」と大キャンペーンを張った。
 森首相は記者会見で「(天皇中心の神の国は)日本の悠久の歴史と伝統文化という意味で申し上げており、戦後の主権在民となんら矛盾しない」と弁明した。
 だが、その記者会見で「神は天照大神でも日蓮でも、お釈迦さまでもキリストでもよい。じぶんが信じる神仏でよい」と口を滑らせて、馬脚をあらわした。
 このとき、森が「神々の国」といっていれば、大きな騒ぎにはならなかった。
 神々の国なら、多神教で、日本の国情に合致するからである。
 ところが、森のいう神は、お釈迦さまでもキリストでもよいという一神教の神で、日本古来の八百万の神々ではなかった。
 明治憲法下、政府や軍部は、天皇を現人神≠ノまつりあげて、帝国主義と戦争政策のシンボルとした。
 現人神は、明治政府がつくりあげた一神教的な偶像で、日本本来の多神教の神格ではなかった。
 天皇ファシズムは、軍部による天皇の政治利用で、これに国民も騙された。
 神の国発言に世論が拒絶反応をしめしたのは、天皇の政治利用という歴史的悪夢を忘れていなかったからであろう。

 日本文明と西洋文明のちがいは、一神教か多神教かのちがいである。
 一神教の西洋は、正しいものが一つしかない不寛容な一元論である。
 正しいものが一つしかないので、そこから、抗争の論理がうまれる。
 それが権力で、右翼と左翼は、どちらかが滅びるまで争う。
 ヨーロッパの近代は、革命と戦争の時代で、その結果、伝統国家が、すべて消えてしまった。
 革命と戦争の時代が終わって、民主主義の時代がやってきた。
 そして、自由主義国家と全体主義国家がにらみあう構造がうまれた。
 自由主義が資本主義で、全体主義が共産主義なのはいうまでもない。
 右翼と左翼にわかれた権力構造が、2つの体制をつくったのである。
 西側陣営が自由民主主義、東側陣営が人民民主主義で、ルーツは、いずれもルソーが古代ギリシャからパクッた民主主義である。
 民主主義は、ただの政治手法で、秩序や法則、徳性をしめすものではない。
 もともと、武力の代替で、物事を、大勢の人間が死ぬ武力衝突ではなく、死人がでない多数決できめようというのである。
 その多数決を議会にゆだねるのが自由民主主義で、独裁者が人民からこれをあずかるのが、人民民主主義である。
 このとき、民主主義を巡って争いがうまれるのは、右翼と左翼は、宿命的な立関係にあるからで、その典型が米ソ冷戦構造だった。
 そこから派生したのが左翼(共産主義)と右翼(資本主義)の抗争である。
 右翼=保守が、反共主義を掲げたのは、共産革命を防ぐためだった。
 それが反共右翼で、大川周明や北一輝らの国家社会主義も反共・尊皇だった。
 かつて、右翼は、反共の尖兵として、権力に利用されてきた。
 60年安保が、その代表的ケースで、暴力団まで、右翼陣営にくわわった。
 だが、ソ連邦の崩壊などで、革命の危機が去って、反共という旗印が効力を失った。
 反共は、政治イデオロギーで、もともと、歴史や民族、文化から切り離されている。
 権力も反共右翼をまもる気などさらさらなかった。
 すがたを消したのは、反共右翼だけではなかった。
 暴力革命をめざした極左も消滅した。
 権力をもとめたからで、極左どころか、日本共産党さえ、国家権力からマークされる存在なのである。

 多神教の日本は、すべてが共存できる寛容の多元論である。
 一元的な権力は左翼と右翼に分裂して、いがみあう。
 ところが、二元論の権威と権力は互いに補完しあう。
 戦後の日本人は、民主主義をあたりまえと思っているが、民主主義は権力の体系で、有徳性や文化性のないただの多数決である。
 日本は、多数決万能の革命国家ではなく、伝統国家である。
 したがって、多数決より、秩序や道徳、習慣やしきたりを重くみる。
 これを保守主義というならば、右翼は、生粋の保守思想家で、国体や文化の防衛者、天皇の防人なのである。
 室町から戦国時代にかかて、権力(戦国大名)が覇権を争ったのは、権威(朝廷)が不在だったからだった。
 戦国時代に幕が下りたのは、織田信長が正親町天皇とむすんで、朝廷の権威を復活させたからである。
 日本の右翼は、反共や国家社会主義だけではない。
 国体護持という別の系統があって、むしろ、こっちのほうが本流である。
 楠木正成や北畠親房、あるいは、西郷隆盛や頭山満、内田良平らが心をむけたのは、皇道思想や伝統主義、日本主義という別の系譜である。
 次回は、国体の守護者としての伝統右翼をみていこう。
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2020年03月22日

右翼とはなにか、左翼とはなにか@

 ●政権をもとめる左翼、国体をまもる右翼
 日本で、保守思想や国粋主義が右翼と呼ばれるようになったのは、フランス革命時の議事場で、議長の右側に「保守、穏健派」、左側に「共和、革新派」が配置された故事からである。
 西洋から政治学を学んだ学者らが、これを引用して、右翼と左翼の呼び名が定着したが、フランス革命は、231年前の1789年の出来事である。
 田沼意次が老中をつとめた江戸時代後期にあたるが、当時の日本に、国体という概念はあっても、右翼や左翼などということばも観念もなかった。
 したがって、日本古来の国粋思想や皇国思想を右翼というのはあたらない。
 そもそも、右翼や左翼は、権力の用語で、権力が保守派と革新派に分かれて争った18世紀ヨーロッパの市民革命からうまれたモダニズム(近代主義)の概念である。
 西洋では、権力によって、国家がつくられた。
 それを補佐したのが宗教で、王権神授説のキリスト教国家も、国家が宗教の道具にすぎなかったイスラム教国家も、国家が権力構造そのものであった。
 国家が一神教と合体して、政体(権力)だけがあって、国体(権威)が不在の一元論に陥っているのである。
 一神教も権力も、他との共存をゆるさない一元論である。
 したがって、周囲をすべて敵と見立てて、徹底的に殲滅しようとする。
 それが十字軍やジハードなどの聖戦思想で、その一元論的な世界観が、異端審判や宗教戦争をへて、ルネサンスや啓蒙思想から市民革命と産業革命、科学主義や近代主義、そして、侵略や世界大戦へ一直線にすすんできた。
 戦争と差別、飢餓と貧困、憎悪と恐怖などの世界悪の根本にあるのが一神教文化=権力主義で、新コロナウイルスで世界中が震え上がっているなか、アフリカでは、1日8000人の幼児が餓死している。
 キリスト教文明がアフリカを侵略した傷跡がまだ癒えていないのである。
 インカ・マヤ・アステカの三大古代文明を滅ぼした西洋文明も、後進国から略奪のかぎりをつくした植民地主義や帝国主義も、源流はキリスト教である。
 ユダヤ教やキリスト教、イスラム教が、排他的にして独善的、好戦的なのは唯一神ヤハウェを信じる一神教だからで、戦争や自然破壊など、現在、世界が直面している災禍は、すべて、一神教(文明)によってもたらされたといって過言ではないだろう。

 北畠親房の『神皇正統記』の冒頭に「大日本は神国なり」とある。
 日本という国家をつくりあげているのは、神意で、権力ではないと宣言しているのである。
 神意というのは、神話からうけつがれてきた多神教的な文化構造で、国体がこれにあたる。
 国体は、歴史や伝統、価値や秩序の体系で、これが、権威である。
 権力がつくりあげるのが政体で、権威のもとにあるのが国体である。
 日本の右翼は、権威と権力、国体と政体をわけたときの権威、国体の防人である。
 世俗の権力をもとめて、選挙に打ってでるヨーロッパの右翼と日本の右翼は思想が異なるのである。
 西洋に権威(=国体)がないのは、権力(=政体)の一元論だからである。
 くわえて、近世・近代にいたって、先進国のすべが革命国家となった。
 革命というのは、市民革命のことで、伝統的な秩序や価値観を捨てて、民主主義をとったのである。
 民主主義に慣れている戦後の日本人は、国家と聞けば、ヨーロッパ的な権力国家を連想するだろう。
 だが、日本は、世俗の権力ではなく、聖なる権威によって拓かれた神の国である。
 弥生時代から古墳時代、飛鳥時代にわたる日本の古代(大和時代)が、権力ではなく、権威によって統一されていたことは、当時、4800基にものぼる前方後円墳がつくられたことからも明らかである。
 このかん、領土戦争はほとんどおきていない。
 権力同士がつぶしあったのではなく、多神教的な権威の下で、国造りがすすめられていったのである。
 中東からキリスト教が入ってくる以前のヨーロッパも多神教で、豊穣多産の女神信仰やケルト人の精霊信仰、ギリシャ神話などが知られる。
 その頃、ヨーロッパも、日本と同様、神話的な世界で、宗教的権威と世俗的権力が切り離されていたはずである。
「クフ王ピラミッド」と「秦の始皇帝陵」、「仁徳天皇陵」が世界の三大墓陵といわれるが、いずれも、多神教的な権威のもとにおける大事業だった。
 エジプトは、太陽神ラーを中心とする多神教、焚書坑儒の始皇帝は法治主義(法家)、そして、日本は神道の自然崇拝で、絶対神(ヤハウェ)を崇める一神教とは宗教観が根本的に異なっている。
 唯物史観から見る世界史は、革命や戦争、征服などの権力の歴史で、文化史や生活史、人類史がみえてこない。
 したがって、大和朝廷の成立過程や古墳の文化的・文明的意義、源氏物語の歴史的背景、日本経済をささえてきた農本主義の構造などの歴史の謎は、なに一つ明らかにされていない。
 日本の歴史学会はマルクス史観、歴史実証主義一辺倒で、戦前の皇国史観を否定するためだけに存在しているようなものなのである。
 一神教や一元論、権力主義のどこからも、共存という考え方はでてこない。
 したがって、日本人の「和の精神」や「共栄思想」が西洋人にはわからない。
 個人と神が信仰契約する一神教では、じぶん以外は、すべて、敵となるからである。
 現在、世界が直面しているのは、キリスト教的な闘争史観や近代主義のゆきづまりで、突破口となるのは、日本の多神教的文化(=日本主義)であろう。
 次回以降も、神の国をテーマに、日本のおける右翼と左翼の衝突をみていこう。


posted by office YM at 22:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする