2018年12月16日

 なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのかC

 【緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(4)
 1956年7月。重光葵外相を主席全権、松本を全権として、日ソ平和条約交渉がモスクワで開始された。
 重光は、四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見て、歯舞・色丹二島返還へと方針を変更するべく、このとき、本国へ請訓電を発している。
 しかし、保守合同によって発足した自由民主党が、四島返還を党議決定したこともあって、重光の提案は拒否された。
 秘書官・吉岡羽一によると、松葉杖で身体を支えてクレムリンの長い廊下を歩いてきた重光は、このとき、腹の底から絞り出すような声でこういったという。
「畜生め、やはりそうだったか」
 重光の呪詛はだれにむかって吐かれたのか。
「日ソ共同宣言」に5か月先立つ1956年5月9日。
 クレムリンでおこなわれた日ソ漁業交渉で、河野一郎農相は、随行していた外務省の新関欽哉参事官を部屋から閉め出し、ソ連側通訳をとおして、ブルガーニン首相にこうもちかけた。
「北洋水域のサケ・マス漁業を認めてくれれば、北方領土の国後・択捉の返還要求は取り下げてもいい」
 サケ・マスなどの漁獲量・操業水域・漁期などをとりきめる漁業協定がまとまらなければ出漁できない。
 水産業界からは「北方領土は国交回復の後に交渉しろ」という声が高まっていた。
 日ソ漁業交渉をまとめた河野一郎農相は、1956年5月26日、羽田空港で、日の丸の旗をかざし、のぼりを立てた漁業関係者の大歓迎団に迎えられている。
 日ソ共同宣言の重光全権団のモスクワ入りが1956年7月だった。
 2か月先行した河野一郎は、重光の知らぬまま、ソ連側と密約をむすんでいたのである。

 1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相は、モスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。
 日ソ共同宣言には、平和条約締結後、歯舞と色丹が日本に引き渡されることが明記されている。
 しかし、国後・択捉の文字はなかった。
 河野一郎が漁業交渉とひきかえに、国後・択捉の放棄をブルガーニン首相と約束したからだった。
 河野・ブルガーニンの密約によって、ソ連は、領土問題で強硬姿勢に転じる。
 国後、択捉の返還を拒否しても日本側は譲歩すると判断したのである。
 歯舞・色丹の二島返還による平和条約の締結という共同宣言の原則は、このときできたといってよい。
 鳩山は、平和条約締結をあきらめ、領土問題を継続協議にして、共同宣言で国交回復をめざす。
 訪ソ直前になって、政権与党の自由民主党は、国交回復の条件として「歯舞と色丹の返還、国後・択捉の継続協議」を党議決定していた。
 鳩山らは、歯舞・色丹の「譲渡」と国後・択捉の「継続協議」を共同宣言に盛り込むよう主張した。
 だが、フルシチョフは、歯舞・色丹2島返還だけで、領土問題の打ち切りをはかった。
 そして、河野に、国後・択捉の継続協議を意味する「領土問題をふくむ」の字句の削除をもとめた。
 河野は、いったんもちかえり、結局、これもうけいれる。
 日ソ漁業交渉はうまくいったが、領土交渉は、日本側の敗北だった。

 重光葵や吉田茂の秘書官を務めたことがある自民党の北沢直吉は、日ソ共同宣言調印後の批准国会(外務委員会)で、河野農相と激しくやりあっている。
「河野・ブルガーニン会談で、クナシリ、エトロフはあきらめるから漁業権のほうはヨロシクたのむ、といったのではないか」
 河野はシラを切った。
「天地神明に誓ってそのようなことはない」。
 重光は秘書官の吉岡羽一秘書にこういっている。
「河野にしてやられた。シェピーロフ(外相)からすべて聞いた」
 重光はシェピーロフにこうたずねたという。
「貴下は、モスクワ会談の際、領土問題について、一貫して、解決済みであるとのべられたが、いかにして解決済みと考えるのか、その内容について説明がなされなかった。この機会に率直に真意を聞きたい」
 シェピーロフはこう答えた。
「モスクワで漁業交渉中の河野大臣は、交渉打開のため、ブルガーニン首相とクレムリンで会談した。その席で、河野大臣は、ソ連がエトロフ、クナシリを返還しない場合でも、日本は、平和条約を締結すると約束した」
 河野はこうともいったという。
「私は日本政界の実力者の一人で、将来、さらに高い地位につくであろう」
 そのとき、ブルガーニンは得たりとばかりにたたみかけた。
「帰国後、ただちに、全権団をモスクワに送ることができるか」
 河野はできると答えている。
 それが、1956年7月の重光全権団、9月の松本全権団、そして10月に訪ソした鳩山首相を団長とする全権団だった。
 日ソ共同宣言における2島返還は、ソ連共産党の既成路線ではなかった。
 河野・ブルガーニン密約で、急きょ、きまったのである。
 安倍首相は、歯舞・色丹の引き渡しを明記した日ソ共同宣言を基礎にプーチン大統領と平和条約の交渉をすすめるという。
 4島返還という本筋が忘れられているなか、2島返還論の旗を振っているのが鈴木宗男と佐藤優である。
 安倍首相の意向をうけて、国民を洗脳しているとしか思えない。
 鈴木は、サンフランシスコ条約で、日本が国後・択捉を放棄したという。
 だが、実際は、日ソ間の政治取引だった。
 4島返還という従来の基本方針を下ろすのも、二島返還で決着をつけたのちに国後・択捉の経済協力という方法をとるのも一つの政治選択であろう。
 だが、北方4島が日本固有の領土で、ロシアがこの4島を不法占拠したという歴史的事実を忘れてはならない。
 領土問題における安易な妥協は、かならず将来、大きな禍根を残すことになるのである。
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2018年12月09日

 なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのかB

 【緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(3)
 サンフランシスコ平和条約で、日本は、千島列島を放棄した。
 この千島列島のなかに北方4島はふくまれない。
 ロシア(旧ソ連)は、終戦直後、千島列島に北方4島がふくまれないことを知りながらこれを不法占領した。
 外務省発行の『われらの北方領土』には「択捉島以南の四島の占領は、計画のみで中止された北海道北部と同様、日本固有の領土であることを承知の上でおこなわれた」とある。
 そして、その不法占拠が、今日にいたるまでつづいている。
 そもそも、ロシアは、北方4島どころか、戦後、日本が放棄した千島列島を占有する法的な根拠をもっていない。
 サンフランシスコ条約に署名していないからで、あるのは、実効支配という戦争状態の継続だけである。
 北方領土を画定するには、二国間の平和条約締結が必要となる。
 日本は、1954年以降、ソ連との国交回復をめざした鳩山一郎内閣のもとで、平和条約を結ぶべく、ソ連との折衝がはじまったを開始した。
 日本の国連加盟の支持や抑留日本人の送還、戦時賠償の相互放棄、漁業条約の締結など日ソ間の懸案事項がすくなくなかった。
 1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相は、モスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。
 戦争状態の終結と国交回復が宣言された瞬間だった。
 当初は「平和宣言」の締結を目指していた。
 だが、交渉が折り合わず、結局は「共同宣言」という形をとった。
 交渉が折り合わなかった理由は北方領土だった。
 日本側は「4島返還」をもとめたが、ソ連は、歯舞・色丹の「2島返還」をゆずらなかった。
「共同宣言」には、ソ連が歯舞・色丹の2島の日本への引き渡しに同意すると書かれている。
 ただし、2島返還は、平和条約が締結されたのちと明記された。
 同宣言は両国で批准された。
 だが、歯舞・色丹の日本への引き渡しは実現しなかった。
 平和条約締結にいたらなかったからである。

 以後、長らく、日ソ交渉が停滞する。
 1960年、日米安保条約が改定延長されると、ソ連が、歯舞・色丹の引き渡し条件に「外国軍隊の日本からの撤退)をもちだしてきた。
 1961年、フルシチョフは、一方的に「領土問題は解決済み」との声明を出して、日ソ共同宣言の内容を後退させる。
 米ソ冷戦構造が北方領土に影をおとしていたのである。
 日ロ間で、領土問題がうごきだすのは、30年後のソ連崩壊(1991年)以後である。
 それまでは、田中角栄とブレジネフのあいだで北方4島返還をめぐる応酬があっただけである。
 1973年、田中首相は、モスクワで、ブレジネフ書記長との会談に臨んだ。
 折しも、検討されている日ソ共同声明のなかに「第二次世界大戦時から未解決の諸問題」という文言があった。
 外務省東欧第一課長として会談に同席していた新井弘一によれば、このとき角栄は、4本の指を突き立てて、「未解決の諸問題に北方四島の返還問題はふくまれるのか?」とブレジネフに迫ったという。
 ブレジネフは、「ヤー、ズナーユ(私は知っている)」と曖昧な答えで逃げを打った。
 角栄は「イエスかノーか?」と机を叩いて迫った。
 ブレジネフはついに「ダー(イエス)」と応じた。
 ブレジネフが、第二次世界大戦時からの未解決な諸問題の一つに北方四島の返還問題があるとみとめたのである。
 1991年、ゴルバチョフ書記長が来日して、海部俊樹首相と6回にわたる首脳会談をおこない、北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが初めて文書の形で確認された。
 ゴルバチョフは「解決済み」としていたソ連側の見解を転換したのである。
 以後、日ロの首脳会議では、歯舞・色丹・国後・択捉の帰属問題と平和条約がワンセットとして考えられてきた。
 ■1993年/東京宣言(細川護熙首相とエリツィン大統領)
 ■1997年/クラスノヤルスク合意(橋本龍太郎首相とエリツィン大統領)○1998年/川奈提案(橋本龍太郎首相とエリツィン大統領)
 ■1998年/モスクワ宣言(小渕恵三首相とエリツィン大統領)
 ■2000年/日ロ共同声明(森喜朗首相とプーチン大統領)
 ■2001年/イルクーツク声明(森喜朗首相とプーチン大統領)とロシアの〇2003年/日ロ共同声明(小泉純一郎首相、プーチン大統領)
 橋本、小渕、森までは、2島(歯舞・色丹)先行で、国後・択捉については段階的に考えるというものだった。
 いずれも、基本ラインは4島返還で、方法論がちがうだけだった。
 ところが、今回の安倍・プーチン会談では、国後・択捉が捨てられた。
 歯舞・色丹のみを引渡すとした1956年の日ソ共同宣言へ逆戻りである。
 どうして、そんなことになってしまったのか。
 かつて、日本は、漁業交渉とのかけひきで、国後・択捉を放棄した。
 そのつけがまわってきたのである。
 次回はその経緯にふれよう。
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2018年12月02日

なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのかA

  緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(2)
 サンフランシスコ講和条約で、日本が、国後・択捉を放棄したという意見がある。
「南サハリン(樺太)と千島列島にかんしては、サンフランシスコ講和条約の締結にあたって、日本が放棄しました」(池上彰/週刊文春)というのである。
 池上のいう千島列島のなかには国後と択捉が入っている。
 鈴木宗男や佐藤優も同じ見解で、2島(歯舞・色丹)返還論者である
 西村熊雄条約局長が、1951年、衆院特別委員会で、「南千島(国後・択捉)は千島にふくまれる」と答弁している。
 だが、この答弁は、1956年、衆議院外務委員会で、森下國雄外務政務次官によって、正式に否定された。
 日本政府は、国後・択捉は、サンフランシスコ条約で日本が放棄した千島にふくまれないとしたのである。 
 その後、国後・択捉を指す「南千島」という用語も使われなくなった。
 もともと、北方4島は、日本固有の国土である。
 国後・択捉は、日本人の手で開拓された島で、根室や函館とのあいだに航路があって、定住者も多かった。
 歯舞・色丹にいたっては、北海道の一部である。
 かつて、『島は還らない』(昭和52年)という本を上梓した。
 そこに、北方領土の概略や歴史、ソ連の領土侵略について記した。
 そこから引用しよう。
 北方領土の画定は、1855年、下田条約(日露和親条約)にはじまる。
 江戸幕府とロシア帝国のあいだでむすばれた日魯通好条約(日露和親条約)によって、択捉島とウルップ島のあいだに境界線が引かれた。
 この境界線によって、択捉島以南の4島は日本の領土となった。
 4島とは、歯舞・色丹・国後・択捉である。
 一方、ウルップ島以北のクリル諸島(千島)18島がロシア領となった。
 日本政府は、この日魯通好条約を根拠に、「歯舞・色丹・国後・択捉」4島を北方領土としてきたのである。
 1875年(明治8年)、日本は、ロシアと樺太千島交換条約を締結する。
 日本は、樺太(サハリン)の領有権を放棄する代わりに、ロシアからクリル諸島(千島列島)を譲り受けた。
 シュムシュ島からウルップ島にいたる18島である。
 サンフランシスコ講和条約で日本が放棄した千島列島は、そのときロシアと交換したクリル諸島18島のことである。
 18島のなかに北方四島(歯舞・色丹・国後・択捉)はふくまれていない。
 引用した『島は還らない』には副題がついている。
「歴史・条約上の根拠とカーター大統領への手紙」と銘打った。
 わたしは、日本が放棄した18島のなかに北方4島がふくまれていないことを確認するために、カーター大統領へ手紙を書き、実際に会いにもいった。
 もっとも、カーター大統領との対面は、民主党のアジア太平洋民主党大会の会場で握手をしただけではあったが。

 サンフランシスコ講和条約の締結時、日本が放棄した千島列島に北方領土がふくまれていなかった。
 それだけではなかった。
 サンフランシスコ講和条約にくわわっていないロシア(旧ソ連)には、そもそも、南樺太・千島列島・色丹島・歯舞群島の領有権がゆるされていなかったのである。
 サンフランシスコ条約第二十五条によると、同条約に調印・批准していない国へは、いかなる権利や権原、利益もあたえられないとある。
 もともと、北方4島は、火事場泥棒的な略奪であって、ロシアのいう戦利品ではない。
 背景にあったのが、南樺太と千島列島のソ連領有を承諾したヤルタ秘密協定だった。
 スターリンは、ヤルタ会談で、ルーズベルトから「ソ連の対日参戦の代償として『千島列島』(ウルップ島以北)を譲り受ける約束をした。
 これは、秘密協定で、領土の譲渡は、領土不拡大を宣した「カイロ宣言」や終戦後も攻撃と占領をつづけた「ポツダム宣言」違反である。
 しかも、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄して、領土を奪った。
 広島に原爆が投下されてから2日後の1945年8月8日、ソ連は、当時まだ有効だった日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。
 8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受諾して、連合国に降伏した。
 しかし、ソ連軍は、その後も千島列島を南下し、9月5日までに「北方領土(歯舞・色丹・国後・択捉)」を占領した。
 8月16日、スターリンはトルーマン大統領に秘密電報を打っている。
 千島列島と北海道の北半分をソ連の占領地とすることをもとめたのである。
 トルーマンは、千島列島をソ連領とすることには同意したが、北海道北部の占領については拒否した。
 かつて著した『レポ船の裏側』(昭和57年/日新報道)で、千島占領作戦の経緯を書いた。
 通訳としてソ連軍に同行した水津満・北千島守備軍作戦参謀の体験談である。
 引用しよう。
「8月27日、中千島南端、得撫(ウルップ)島の沖合に着く。結局、ソ連軍は得撫島に上陸することなく、北に向かって引き返した。南千島の武装解除に立ち会うことを想定していた水津はウォルフ参謀に理由をたずねた。これより先はアメリカの担任だからソ連は手をだせないのだ、という返事だった」
 ソ連軍は、8月18日から千島列島の占領を開始し、27日には、北方領土の北端である択捉島の手前まで来て、一旦引き返した。
 この時点で、ソ連は、千島列島に北方領土がふくまれないと認識していたのである。
 ところが、ソ連は、北方領土に米軍がいないと知って、方針を一転させた。
 8月28日、ソ連軍は、南千島へ侵攻を開始して、9月3日までのあいだに歯舞・色丹・国後・択捉の四島を占拠する。
 ソ連軍が北方四島を略奪したのは、米軍が不在だったからだったのである
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2018年11月25日

なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのか@

 【緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(1)
 安倍首相が北方領土返還「2島+α」へ舵を切ったようだ。
 1956年の「日ソ共同宣言」へもどって、歯舞と色丹の2島返還を条件に平和条約をむすぼうというのである。
 従来の4島一括返済からの後退で、これでは、この60年余つみあげてきた努力が水の泡である
 これまで政府は「4島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」ことを基本方針に掲げてきた。
 したがって、4島返還に応じる気がないロシアとの協議に進展がなかった。
 日ソ共同宣言にもとづいた交渉もすすんでこなかった。
 4島返還と平和条約が見合いになって、身動きならなかったのである。
 そこで、安倍首相は、方針を転換した。
 2島返還を「基礎」として、平和条約を急ごうというのである。
 今年の9月、プーチン大統領が、ロシア極東ウラジオストクで開かれていた東方経済フォーラムで、突如、「前提条件なしの平和条約締結」を提案した。
 前提条件なしとは、ふざけた話である。
 領土問題抜きで、平和条約を締結できるはずはない。
 ところが、安倍首相は、プーチンの発言に反発するどころか、これを前向きに受け止めた。
 そして、日ロ交渉を一気に進展させる大きなチャンスととらえ、首脳会談に臨んだ。
 安倍首相は、外遊先のシンガポールで、ロシアのプーチン大統領と会談したあと次のようにのべた。
「領土問題を解決して平和条約を締結する。1956年共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速させることでプーチン大統領と合意した」
 拙速もいいとこで、平和条約が先走って、肝心な領土問題が大きく後退している。
 そもそも、北方領土は、旧ソ連の不法占領で、法的にも、歴史的にも根拠はない。
 戦利品というが、樺太南部と千島列島をソ連に引き渡すとされたヤルタ協定に、歯舞・色丹・国後・択捉ははいっていない。
 アメリカもみとめていない。
 それが「ダレスの恫喝」で、ダレス国務長官は、日ソ交渉に臨んでいる重光葵外相に「二島返還(歯舞・色丹)で、日ソ交渉をむすんだ場合、アメリカは沖縄を返還しない」という圧力をかけている。
 ソ連が4島を奪ったのは、どさくさまぎれで、当時、4島に米軍が進駐していなかったからだった。

 安倍首相は、1956年共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速させるとのべた。
 なぜ、62年も遡って、北方領土問題の振り出しにもどるのか。
 1956年の日ソ共同宣言には、平和条約締結後、歯舞と色丹を引き渡すとあるだけである。
 国後・択捉には一言もふれていない。
 なぜ、そんなことになってしまったのか。
 日本が漁業交渉とのかけひきで、国後・択捉を放棄したからである。
 むろんこれは、裏取引で、表立って、あらわれたものではない。
 だが、これがネックとなって、日本は、日ソ交渉において、つねに、不利な立場に追い込まれてきた。
 日ソ交渉に臨んだ全権重光葵は、日本政府へこんな請訓電を発している。
「涙をのんで国家百年のため、妥結すべきと思う。この期を逸すれば、将来、歯舞・色丹さえ失うことあるべし…」
 秘書官・吉岡羽一によると、松葉杖で身体を支えてクレムリンの長い廊下を歩いてきた重光は、このとき、腹の底から絞り出すような声でこういったという。
「畜生め、やはりそうだったか」
 河野一郎の日ソ漁業交渉は、1956年5月である。
 日ソ共同宣言の重光全権団のモスクワ入りが1956年7月だった。
 わずかに先行した河野一郎は、重光の知らぬまま、ソ連側と密約をむすんでいたのである。
 ソ連が、領土問題は解決済みで、平和条約締結後、2島(歯舞・色丹)だけを引き渡すとする根拠もそこにある。
 このあたりの細部については、次回以降、のべよう。
 2島返還を現実的とみるムキもある。
 色丹、歯舞は四島の面積のうち7%でも、えられる200カイリの排他的経済水域は大きいというのである。
 だが、ロシアは、歯舞・色丹の主権を返すとまではいっていない。
 日本の主権を認める返還ではなく、2島を利用できるだけの引き渡しなのであれば、日本が期待している歯舞・色丹の排他的経済水域は望むべくもない。
 日本は、あくまで、4島返還をもとめるべきである。
 根拠は、ロシアの不法占拠で、北方四島は、戦利品ではなく、カイロ宣言で禁じた領土拡大に該当する略奪にあたる。
 当時、日本は、ポツダム宣言を受諾して、連合国と戦争状態にはなかった。
 戦争状態になかったのに、なぜ、領土略奪が戦利品なのか。
 次回以降、北方4島の概略や日ソ交渉の経緯をみていこう。
 そうすれば、2島返還論が河野・ブルガーニン密約説≠ふくめて、いかにでたらめな経緯をたどったかがわかるのである。
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2018年11月17日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」70

 ●天皇と憲法(3)
 権力は性悪説に立っている。
 法も同様で、憲法は、集団や組織、国家の悪までを監視している。
 一方、権威=天皇は善でである
 だからこそ国民は天皇を慕うのである。
 日本人の善良さや正直、親切が、現在、世界から称えられている。
 日本人は性善説なのである。
 性善説の根源をたどれば、天皇の善にゆきつく。
 天皇は、被災地におもむき、被災者の前でひざまずき、心から同情される。
 国民は、そのおすがたを見て、心にあたたかいものをおぼえる。
 天皇の善が、日本人の善の根源といってよい。
 悪と善が天下を分け合って、いわば、棲み分けている。
 日本では、権力や法、政治の性悪説と、天皇の善の二元論なのである。
 権力や法、政治という悪の概念(=性悪説)についてはよく知られる。
 権力は暴力、法は拘束力、政治は支配をともなうので、悪なのである。
 その極限が戦争で、戦争ほど罪深い権力悪はない。
 一方、天皇の善については、これといった定説も学説もない。
 天皇の善が、日本人のなかで、無意識化されているのである。
 それが国体というもので、歴史や伝統、民族性、文化などは、血肉化されていて、意識できないのである。。
 日本が、世界最古の伝統国家で、2千年以上にわたって、国体が維持されてきた最大の理由は、天皇の善性にあったといえよう。
 仁徳天皇(第16代)は、人家の竈から炊煙が立ち上っていないことに気がつき、租税を3年間免除し、その間、宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという。
 天皇が善なのは、権力者ではないからである。
 その地位は世襲(万世一系)で、神話につながっている。
 民族は、共通の神話をもつことで、善を共有する同胞となるのである。
 一方、ヨーロッパの王は覇者で、権力の系譜にある。
 権力は悪なので、奪い、殺し、破壊する。
 それが、ヨーロッパの戦争で、第一次世界大戦では、戦死者が第二次大戦をこえる1600万人、戦傷者2000万人にたっした。
 第一次世界大戦には、とりたてて、これといった原因がなかった。
 ハンガリーの青年がオーストリアの皇太子を暗殺した事件によって、各国間の同盟網が一気に発動され、数週間のあいだで、主要列強すべてが世界大戦に参戦する体制が整った。
 権力は性悪説なので、殺し合いの連鎖にブレーキがきかないのである。
 かくして、20世紀の初旬、世界中の国家が、不毛な戦争へ突入していった。
 日本でも同じようなことがあった。
 15世紀の戦国時代である。
 応仁の乱から織田信長が天下統一に乗り出すまでの100年間、戦国武将が群雄割拠して、いつはてるとも知れない戦いに明け暮れた。
 終止符を打ったのが天皇だった。
 第106代正親町天皇が信長を立て、第107代後陽成天皇が秀吉を太閤に叙し、家康を征夷大将軍に任じて、戦国時代に終止符がうたれた。
 これが、権威と権力の二元論である。
 日本では、摂関政治から院政、武家政治にいたるまで、天皇の権威と政権の権力がバランスをとりあってきた。
 これを善と悪の二元論といいかえてもよい。
 天皇の権威が善で、政体の権力が悪である。
 政体というのは、国体の対義語で、政治や制度、法つまり権力である。
 権力は、権力抗争の覇者ではあるが、民を治める能力をそなえていない。
 いくさに勝ったというだけの武力集団に、民は、したがわないのである。
 一揆がそうで、信長は、長島や越前の一向一揆で、根切りという大量虐殺をおこなっている。
 それが権力の本質で、善などはかけらほどもないのである。
 その権力が幕府として、民を統治できるのは、天皇の認可をえるからである。
 権力は、天皇から官位(征夷大将軍)をさずかって、統治者(幕府)としての正統性をえる。
 悪である権力が、善である天皇の親任をえて、幕府になるのである。
 民が幕府にしたがい、徴税に応じるのは、背後に天皇がいるからである。
 権威(天皇)と権力(幕府)の二元論によって、国家は安定する。
 権威と権力の二元論が崩れたのが「承久の乱」や「建武の中興」だった。
 近代では「明治維新」があげられる。
 天皇が権力をもとめると、善が消滅して、悪になる。
 それが乱の構造≠ナ、権力悪が暴れだすのである。
「承久の乱」によって武士が台頭してきた百余年後、「建武の新政」がおこる。
 建武の新政の失敗後、南北朝の動乱や応仁の乱、戦国時代など乱の時代≠ェ数百年にわたってくりひろげられた。
 天皇の善が不在だったからである。
 次回は、権力が天皇を担いだ明治以降から昭和の軍国主義をみていこう。
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2018年11月10日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」69

 ●天皇と憲法(2)
 天皇が憲法上の存在であるかのような言説がまかりとおっている。
 憲法を新しい国体と考えるリベラリストも存在するほどである。
 国体は、そのはじまりを大和朝廷黎明期とみて、2千年になる。
 天皇の歴史は、皇紀でいえば、神武天皇即位以来、2678年にもおよぶ。
 天皇の由来は国体で、国体には、歴史や伝統、文化や習俗がふくまれる。
 したがって、天皇は、憲法において、国体の体現者であらねばならない。
 それが自主憲法の精神で、必要なのは、国体という文化概念である。
 ところが、現行憲法にあるのは、理想主義とアメリカ民主主義だけで、文化概念としての国体が欠落している。
 日本の憲法は、フィリピン憲法に似ているといわれる。
 日本の憲法が占領基本法なら、フィリピン憲法は植民地憲法で、ともに戦争放棄(主権放棄)を謳っている。
 国家主権が憲法の軸になっていないのである。
 憲法は、できてからたかだか70年しかたっていない。
 70年前、日本は、GHQから、民主主義国家へと国家を改造された。
 GHQの民主化政策(財閥・農地・選挙・憲法・教育)がそれである。
 だが、それは、政体や制度の改革で、国体に変更があったわけではない。
 国体は文化概念だからで、文化や伝統、民族の習俗には、歴史的な連続性がそなわっている。
 とりわけ、天皇は、国体の体現者で、文化的・歴史的存在である。
 GHQが天皇の存在をみとめたのは、日本統治に好都合だったからだった。
 戦後すぐにおこなわれた新聞社のアンケート調査で、90パーセント以上の国民が天皇を支持した。
 天皇が政治的存在(権力)ではなく、文化的存在(権威)だったからである。
 日本人は、天皇を戦争指導者ではなく、国体の体現者とみていたのである。
 天皇を処罰すれば、日本人が反米闘争に走って、内乱状態になっていたろう。
 そこで、GHQは、天皇を憲法にとりこみ、日本統治に利用することにした。

 憲法の第1条にこうある。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
「天皇は日本国の象徴である」というところまではわかる。
 摂政や院政、武家政治においても、天皇は、権威であり象徴だった。
 ところが、そのあとの「日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」というところから意味が不明になる。
 国民統合の象徴は、統合されるべき国民の象徴と解釈しておこう。
 問題なのは、主権の存する日本国民の総意に基く、という箇所である。
 そもそも、天皇の地位を謳う第1条に、なぜ、国民主権がでてくるのか。
 憲法に主権ということばは3回しか使われていない。
 前文に2回、第1条で1回である。
 前文では、国民主権と国家主権が使い分けられている。
「主権が国民に存する」と「自国の主権を維持」である。
 これでは、主権が国民をさすのか、国家をさすのかわからない。
 第1条では「主権の存する日本国民」とふたたび国民主権が謳われる。
 日本国憲法が、国民主権を宣しているのは、一条のこの付帯的文章だけである。
 そして、そのあと「日本国民の総意に基く」とつづく。
 多数決が原則である民主主義において、国民の総意などというものはありえない。
 そこに、日本国憲法に隠された革命性がある。
 国民主権も日本国民の総意も、国民総体のもので、個人のものではない。
 国民主権の国民は、国民すべてをひっくるめた総称である。
 そして、国民総体の権利は、そっくり、為政者(=GHQ)に譲渡される。
 それがルソー主義で、近代国家は、すべて、その論法で成立してきた。
 すると、天皇の地位を謳う第1条は、こう解釈できる。
 天皇の地位は、為政者(=主権の存する日本国民の総意)に基く。
「主権の存する日本国民の総意」は、権力に還元されるからである。
 天皇の地位は、国民の代表たる政府によって、改廃できるというのである。
 自主憲法においては、憲法第一条は、削除されなければならない。
 第一条は、こうあるべきである。
「天皇は、日本国の象徴であって、国体の体現者である」
 国体は、歴史から文化全般に亘る総合的概念で、国民もふくまれる。
 国家と国体が並立して、はじめて、文化概念をそなえた天皇になるのである。
 憲法第2条(皇位の継承)も変えなければならない。
「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」
 世襲には男系女系の区別がない。
 男系が謳われているのは皇室典範である。
「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」(皇室典範第1条)
 皇室典範は、小泉首相の「皇室典範に関する有識者会議」(平成17年)の例でわかるように、国会議決でかんたんにひっくり返る。
 男系継承(万世一系)を憲法に組みこむのが賢明である。
 帝国憲法の第一条にこうある
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
 第二条は、万世一系を宣した帝国憲法の第一条の精神を踏襲すべきだろう。
「皇位は、男系相続たる万世一系のものであって、皇室典範の定めるところにより、これを継承する」
 万世一系を憲法に組みこめば、女系天皇という歴史破壊を免れることができる。
 自主憲法制定の目的は、GHQが仕込んだ国体破壊という仕掛けを打ち破ることにあって、改憲では、それができない。
 自主憲法制定は、文化防衛でもあったのである。
 次回は天皇(権威)と権力の関係をみてゆこう。

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2018年11月04日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」68

 ●天皇と憲法(1)
 自民党の改憲案に天皇元首論がある。
 危険な思想で、文化概念である天皇を政体概念である憲法で規定すれば、ヨーロッパ的な王政(キングダム)になってしまい、歴史の権威としての地位が失われる。
 現在、天皇がエリザベス女王をしのぐ権威を有するのは、皇室が2千年以上の歴史をもっているからである。  
 歴史や伝統、文化が人々の畏敬の対象となるのは、永遠性にもとづいているからである。
 一方、法や権力、政治は、一過性の産物にすぎない。
 一過性の産物に権威がそなわるわけはない。
 ヨーロッパで「王権神授説」がとられたのは、永遠なる神をもちださなければ、王位に権威がそなわらなかったからだった。
 日本の場合、天皇は、神格をもった存在で、法や政治を超越していた。
 天皇が法制上の存在であったら、その地位が、政変によってゆらいだろう。
 日本は、権力者による時代の変遷を幾たびも重ねてきた。
 だが、関が原の合戦で、豊臣方から徳川家康に政権が移っても、天皇の地位は磐石で、正親町天皇から後陽成天皇まで、泰然と、幕府をささえつづけた。
 天皇が法や政治、制度に縛られないところにおられたからである。

 世界における天皇の位置づけは元首である。
 国内においても、天皇は、事実上の元首である。
 天皇の国事行為(内閣総理大臣の任命や法律の公布、国会の召集など)には元首として十分の重みがある。
 だからといって、憲法で、天皇元首を謳うべきかといえば、それは否である。
 憲法で天皇元首を謳うと、天皇の権威が、法の下のものとなってしまうからである。
 世界は、法や政治に下にあるものを、権威とみとめない。
 法や政治に下にあるものは、権威ではなく、権力なのである。
 権力者は、投票によって、一夜にして、誕生するだろう。
 ところが、権威は、千年の年月を必要とする。
 諸外国が、天皇を元首とみるのは、歴史上の権威だからで、歴史は、政体をこえた文化の範疇にある。
 それが国体で、政治や法は、歴史や伝統、民族の習俗や個人の領域に立ち入ることができない。
 その政治や法、政体の頂点にあるのが憲法である。
 政治家は、政体における権力なので、憲法に縛られる。
 一般法も憲法下にある。
 一般法に縛られる国民も、憲法から自由たりえない。
 一般論として、国家も憲法の下にあるという議論がある。
 政体としての国家は、たしかにそのとおりで、国会や政府、行政や公的機関は、憲法の下にある。
 だが、歴史や伝統、文化は、国体という文化概念のなかにあるので、憲法の干渉をうけない。
 その最たる存在が天皇で、国体たる天皇は、歴史的概念にして文化的存在である。
 天皇は、憲法からも権力からも切り離されている。
 政体から切り離されているからこそ、政治にまつわる天皇の国事行為が権威をもつのであって、天皇が政体の一部であったら、権威が権力に正統性をさずける国事行為は成立しない。

 明治憲法下において、天皇は、元首にまつりあげられた。
 明治政府は、国民の敬慕が篤い天皇を元首に立て、強大な権力をつくろうとしたのである。
 明治憲法のモデルはドイツ帝国憲法である。
 ビスマルク首相の強いリーダーシップによってフランスとの戦争(普仏戦争)に勝利したプロイセン王国は、ドイツ帝国の栄光であった。
 国家統一に必要なのは、鉄(兵器)と血(兵士)というビスマルクの鉄血演説に強い感銘を受けたのが、大久保利通や木戸孝允、伊藤博文だった。
 岩倉具視からドイツ帝国憲法の調査を命じられたのがその伊藤博文である。
 大久保が着目したのは、フランスの民権思想でも、イギリスの議会主義でもなく、ドイツの王権主義だった。
 プロイセンの絶対王政とビスマルクの富国強兵を合体させれば、強力な帝国主義国家が誕生する。
 明治政府が、憲法制定後、軍事国家をめざしたのは、ドイツ帝国を範にしていたからだった。
 このとき、日本は、国体と文化を喪った。
 それが帝国主義と近代化(ヨーロッパ化)だった。
 富国強兵と日清・日露戦争の勝利は、日本を世界の4大強国の一つにもちあげたが、1945年の敗戦によって、日本は、一転して、国体の危機に瀕することとなった。
 天皇は、マッカーサーと会見して、みずから戦争責任を宣し、国民の救済をもとめた。
 マッカーサーは感銘をうけた。
 そして、国体がまもられた。
 神風が吹いたのである。
 天皇は、戦後、権力の座から文化の座へお還りになったのである。
 次回以降も天皇と憲法について論をすすめよう。
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2018年10月27日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」67

 ●自主憲法制定と日米地位協定(4)
 憲法が国家の基本法なら、歴史や伝統、文化などの民族の遺産が反映されていなければならない。
 それを国体というなら、本来、憲法は、国体の体現であるべきなのである。
 ところが、現行憲法からは、国体がすっぽり抜け落ちている。
 国家も消え失せ、国民主権という、実体のないがらんどうがあるだけである。
 国家主権も国家防衛も、国家緊急法もない、巨大な暗渠が、憲法という冠をかぶっている。
 それが日本の憲法で、そこには、国民主権とアメリカ民主主義という怪物がうごめいているだけである。
 国民主権は、国民の総体がもつもので、権力者がこれをあずかる。
 占領中、GHQが国民主権をあずかったが、1951年、GHQが日本から去ったあと、アメリカ民主主義が、GHQに取って代わった。
 それが、日本国憲法に仕掛けられた巧妙なマジックで、憲法至上主義というのは、アメリカ民主主義至上主義のことなのである。
 安倍首相は、憲法改正にご執心だが、アメリカ民主主義のマニュアルにすぎない憲法をどういじったところで、でてくるのは金太郎飴で、抜本的改正などできっこない。
 天皇元首論や9条加憲は、憲法改正ではなく、明らかに改悪である。
 憲法を改悪するくらいなら、手をつけないほうがよい。
 法は、時間の経過にともなって、無意識化されてゆく。
 習慣や常識、現実主義が、条文にすぎないものを淘汰してゆくのである。
 その究極が、コモンロー(不文法・習慣法)で、コモンローの国イギリスは成文法をもたない。
 日本国憲法も、コモンロー化されつつあって、世界第6位の軍事力と軍隊や交戦権を否定する憲法9条が両立しているのは、憲法が、無視されているからである。
 国民主権といいながら、じぶんが主権をもっていると自覚している日本人がどれほどいるだろう?
 憲法の国民主権などだれも信用していないのである。
 基本的人権も、憲法ではなく、国家から与えられていると、大方の日本人は知っている。
 たとえば、他国に領土を侵略占領されて、人権がまもられるであろうか。
 人権や人間の尊厳をまもるのが自国の軍隊で、法など紙切れにすぎない。

 紙切れにすぎない法が大きな力をもつのは、法が神話となるからである。
 神話というのは、万人が共有する共同幻想≠ナある。
 コモンローも神話で、人々は、神話を共有する共同幻想のなかで、価値観や共通感覚を分かち合う。
 国体も神話で、憲法が、国体の体現というのは、憲法こそ国民の共同幻想でなければならないからである。
 習慣や常識、現実主義が、イギリスでは、コモンローをつくりあげ、日本では、国体をつくりあげた。
 イギリスでは、コモンローが国家基本法を代行している。
 ところが、日本では、国体が、憲法に反映されていない。
 日本国憲法から見えてくるのは、どんな国家像か。
 空想的な共和制国家で、国民主権とアメリカ民主主義という空疎があるだけである。
 そんなものに国体をあずけられるものだろうか。
 憲法第二条にこうある。
「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」
 世襲は、かならずしも、男子相続(万世一系)を意味しない。
 皇室典範は国会議決(多数決)に左右される。
 これでは、皇位は風前の灯で、皇室の自然消滅をはかったGHQの思う壺である。
 帝国憲法の第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。
 井上毅の草案では「天皇之ヲ治ス所ナリ」とあって、こっちのほうが実際に即している。
 治(シラ)スというのは、ヨーロッパ的な統治とはちがい、存在することによって、自然に国が一つにまとまるという意味合いで、出典は日本書紀である。
 国体を活かすなら、憲法に「万世一系ノ天皇之ヲ治ス所ナリ」という意味の語句をいれなければならない。
 現行憲法にこれをうけいれる余地などあるだろうか。
 日本国憲法は、習慣や常識、現実主義を裏切る空想であって、いかに理屈をつけてみたところで、新しい憲法概念はうまれてこないのである。
 そこに、左翼やリベラル、日本共産党がこの憲法を支持する理由がある。
 国家主権や国体概念、習慣や常識、現実主義を断ち切ったこの憲法は、かれらの革命綱領にぴったりの代物なのである。
 次回は、自民党改憲案「天皇元首論」を批判しよう。
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2018年10月21日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」66

 ●自主憲法制定と日米地位協定(3)
 天皇条項を中心に、自主憲法制定の基本ラインをのべておこう。
 といっても、これは、憲法改正案でも、自主憲法案でもない。
 あるべき憲法のすがたをのべただけのもので、わたしなりの憲法論である。
 憲法とはなにか、はたしてそれは必要なのか、必要ならどんな形が望ましいのか。
 大所高所に立って、憲法をながめて、思うところをのべてみよう。
 日本国憲法が虚構≠ナあることにだれも気がついていないように思える。
 第一条にこうある。
 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
 この文章が、合理的でも民主主義的でもないことは、冷静に一読すればすぐわかる。
 天皇が日本国の象徴であるという部分はそのとおりである。
 これは、憲法の枠内の話ではなく、摂関政治や院政、武家政治において天皇は、歴史上、象徴であって、権力ににらみをきかせる権威であった。
 GHQがウェストミンスター憲章(1931年)から借りてくるはるか以前から、日本では、天皇が、国家の象徴だったのである。
 その第一条も、「日本国民統合の象徴」というあたりから話があやしくなってくる。
 国民統合というのは、政治や制度、法の成果であって、直接、天皇にむすびつくものではない。
 そして、同条は、天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく、とむすばれる。
 総意にもとづくというのは、民主主義の原理に反する。
 民主主義の原則は多数決で、多数派が、一つの政治意志としてあつかわれはするものの、多数決もとらず、一概に、総意というのでは、全体主義である。
 主権の存する日本国民というのも、ありうる話ではない。
 主権(君主権/ソブリンティ)は、なにものも侵すことのできない絶対的な権力だが、法に縛られている一国民がそんな大きな権力をもてるはずはない。
 国民主権というのは壮大なるまやかしだったのである。
 日本国民が、一人ひとりの国民をさすのか、国民全体をさすのかも、不明である。
 一人ひとりの国民は、主権という絶対権力をもつことができない。
 したがって、ここでは、国民全体ということになるだろう。
 国民全体とは、どんな実体か。
 国民全体がもつ主権とはいったいなにか。
 まったくわからないが、それも当然で、日本国憲法は、ユダヤの思想家、社会契約論のジャン・J・ルソーが唱えた「主権委譲説」のコピーなのである。
 ルソーは、一人ひとりの国民を国民全体に一般化して、国家に与えられていた主権を、その国民全体にあずけた。
 こうして、国家にあった主権が、ルソーによって、国民の側へ移された。
 ここでいう国民は、一人ひとりの国民ではない、国家とわたりあう、総体としての国民である。
 国民の総体は、国民が一億人いれば一億人全員なので、数が多すぎて、統一的な主権を行使することができない。
 そこで、代理人(為政者)がその主権をあずかって、その権利を行使する。
 これが、ルソーの革命理論で、フランス革命もロシア革命も、その方法がとられた。

 日本国憲法第一条は、ルソーをかじったニューディーラーが、革命家気取りで書き上げたものである。
 だが、国民主権をひきうける肝心な為政者がだれなのか、書かれていない。
 日本国かGHQか、そのいずれかでならなくてはならない。
 国民主権をあずかる為政者が、日本国ではなく、GHQだったことは、日本に主権(国家防衛権や国家緊急法)がなく、その一方、98条(「憲法の最高法規性」)および99条(「天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務」)の宣告者がGHQであることからも明らかである。
 日本国憲法は、占領基本法で、主人は、GHQ(アメリカ)だったのである。
 日本国憲法の条文は、主語(主格)が巧妙に隠されている。
 第11条(「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」)
 だれが国民に基本的人権をあたえるのか?
 憲法の条文というならオカルトだが、そうでなければ、日本国という国家でなければならない。
 当初、GHQであったろうが、GHQは67年前、日本から撤退している。
 国民の基本的人権をまもってきたのが、日本という国家でないというのなら、日本は、これまで67年間、主人のいない憲法をまもってきたことになる。
 主人が不在の憲法というのは、条文そのものが主人となるような憲法である。
 憲法11条を読み直してみると、なるほど、預言かオカルトで、条文にすぎないものが、国民を組み従えている。
 国民に基本的人権を与えるのは、国家であって、憲法の条文が、国民の基本的人権をまもるわけではない。
 ところが、現行憲法では、主権者が日本国であると一言も書かれていない。
 日本国憲法から日本という国家が脱落しているのである。
 その結果、神の預言のように、条文そのものが、国民の主人になりおおせている。
 新憲法制定の必要があるのは、現行憲法がオカルトに堕しているからで、新憲法においては、国家主権と、主権にともなう責任と義務が、明確に謳われていなければならない。
 次回は、憲法の神話性へと話を転じよう。
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2018年10月15日

神道と世界最古の文明「縄文文化」65

 ●自主憲法制定と日米地位協定(2)
 親米保守というのは、ありえないスタンスで、親米なら革新でなければならない。
 なぜなら、アメリカは革命国家で、独立宣言以前の歴史や伝統をひきついでいないからである。
 スペイン人がマヤ文明やアステカ文明を滅ぼしたように、アメリカ人はインディアンを絶滅させ、数億頭いたバッファロー(野牛)をすべて撃ち殺した。
 ヨーロッパのプロテスタンティズムや産業革命をうけついでいるが、これは歴史の連続性をひきついだわけではなく、移民文化であって、そこが新興国家アメリカのスタート地点となった。
 親米保守の保守は、もともと、反共という意味合いで、1950年代のマッカーシズム以降、アメリカは、反共に転じたが、前大戦では、共産党国家ソ連と同盟関係にあった。
 日本の親米保守は、したがって、親米反共という意味になるが、反共ということばは、すでに死語である。
 すると、保守も反共もふっとんで、吉田茂以来の親米云々は、親米従属なるただの対米コンプレックスだったことになる。
 吉田ドクトリンは、安全保障をアメリカに依存して、経済復興と経済発展を最優先させる軽武装・経済外交型の国家戦略のことで、これと相補的な関係にあったのが、陸海空戦力と交戦権の放棄を謳った憲法9条だった。
 吉田ドクトリンは、憲法9条をテコに、日本の防衛をアメリカにおしつけるもので、このいびつな日米関係が、サンフランシスコ講和条約以降、日本の対米依存の基本構造となった。
 いびつというのは、9条というモラトリアム(責任免除)法が、対等であるべき二国間関係を阻害しているからで、アメリカにしてみれば、国家防衛(核の傘を含む)を依存しておいて、対等な国家関係をもとめるのは虫がよすぎるという理屈になる。
 もっとも、このいびつな関係は、アメリカにとって好都合でもあって、日本防衛を口実に極東に軍事拠点をもてるばかりか、自衛隊を極東米軍の支援部隊とすることができる。

 いずれにしても、憲法9条というモラトリアム法があるかぎり、アメリカは対日関係において、優位に立つことができる。
 それが如実にあらわれているのが日米地位協定と駐留米軍経費負担である。
 日独伊の駐留米軍経費負担率は次のとおり(2002年)である。
 日本   負担率74・5% 44億1134万ドル
 ドイツ  負担率32・6% 15億6392万ドル
 イタリア 負担率41・0%  3億6655万ドル
 日本の駐留米軍経費負担率は独伊の2倍余、金額にして3〜15倍の開きがある。
 さらに大きな差があるのは、地位協定で、米独、米伊関係が対等なのにたいして、日米関係だけが不平等になっている。
 たとえば、駐留米軍への適用法規だが、独・伊では、国内法が適用されるのにたいして、日本では、国内法が適用されない。
 米軍基地への立ち入り権についても、独・伊とも無条件に可だが、日本は不可である。
 訓練演習に対しては、独・伊の場合、事前通告と承認が必要となるが、日本の場合、通告も承認も必要がない。
 事故の調査権でも、独・伊が独自で調査できるのにたいして、日本は米軍の同意が必要となる。
 さらに差別的なのは、一般犯罪の捜査で、容疑者の米国兵士が基地内にいる場合、日本の捜査権・逮捕権・裁判権がおよばないばかりか、米軍が容疑者を除隊帰国させてしまうケースもあって、お手上げ状態である。

 日本がアメリカに譲歩的なのは、自国防衛をアメリカにゆだねているからである。
 現実はどうあれ、法の上では、日本は無防備で、交戦権をもたない。
 交戦権をもたないということは、国家主権を放棄するということで、国家としてこれほど恥ずべき醜態はないが、戦後のゆるみきった世相において、その反省はないにひとしく、かつて、誇り高かった日本人の名誉は完全に失われている。
 現在、日本は、解釈改憲で、世界第六位の軍事力を有している。
 だが、現実に、日本の軍事力を担保しているのは、日米安保条約である。
 対米関係がなければ、日本は、法文(条約)上、丸腰で、領土を奪われても攻め込まれても、抵抗もできない弱虫国家ということになる。
 国家主権の放棄――これを平和主義というのは、日本共産党とそのシンパの悪質なデマゴギーで、自国を防衛できない国は、平和どころか、紛争当事国となるのが、歴史の教訓である。
 独立国家の気概や尊厳を捨て去って、アメリカや中国、ロシアなどの大国と張り合うのはできない相談で、それどころか、日本は、韓国や北朝鮮からもばかにされている。
 憲法改正あるいは、自主憲法を制定すれば国家国民の誇りを取り戻すことができるだろうか。
 否である。
 自民党の改憲案にして、9条温存など、解釈改憲から大幅に後退している。
 これに公明党の環境権や社民主義的な人権法や福祉法、国家主権の制限法がくわわって、新憲法が現在のものより左翼的になるのは火を見るよりも明らかである。
 というのも、改憲議論になれば、朝日・毎日・中日を中心に新聞左翼がキャンペーンを張るはずだからで、民主主義に批判的な保守の論旨より民主主義に追従する革新・左翼の論調のほうが大衆受けするのである。
 次回以降は、天皇条項を中心に、自主憲法制定の基本ラインをのべよう。

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