2017年10月19日

神道と世界最古の文明「縄文文化」Q

 ●文明の衝突としての神道・儒教・仏教
 大川周明は日本史を4期に分けて、第一期を建国から大化の改新、第二期を大化の改新から鎌倉幕府、第三期を鎌倉幕府から徳川幕府の大政奉還、第四期を明治維新から現代までとした。
 その根底にあるのが、儒教と仏教、神道、西洋思想の衝突とその分化・棲み分けであろう。
 大川は、儒教が学問、仏教が宗教、神道が政治、西洋思想が文化への傾きを深めて、日本史の4期の区分けができあがったというのである。
 聖徳太子は、神道をもって政治の根本主義をなし、儒教をもって国民の道徳的生活を向上せしめ、仏教をもって宗教的生活の醇化をはかったと大川は指摘する。
 そして、道徳と政治を兼ね備える儒教は、日本固有の思想と相容れざるものだったと警告する。
 儒教は、天は有罪を討ち、有徳に命じて主権者たらしめると教える。
 それは、とりもなおさず易姓革命であって、力による王位の争奪である。
 シナは易姓革命を幾度となく繰り返して今日におよんでいる。
 ところが、日本においては、神武天皇の直系でなければ主権者となることができない。
 わが国の主権者たる天皇は「天神にして帝王」なるが故に命を受くるところがないと大川はいう。
 大川は天皇を「族の長」としてとらえ、これをして絶対者とする。
 日本が神武以来、万世一系の安泰を保ってきたのは、天皇が族長≠ニいう絶対的存在にして高天原が至高の理想だったからで、その根本にあるのは神道である。
 仏教や儒教がいかに栄えても、皇室においては、神道が尊ばれて、仏儒思想が入り込む余地はなかった。

 仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた丁未の乱(587年)によって、仏教は、国教に準ずるものとなった。
 だが、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣(藤原)鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼして孝徳天皇を即位させ、中大兄皇子が皇太子として実権を握った大化の改新(645年)によって、日本は、政治から仏教勢力を一掃するという古代政治史上最大の改革をなしとげる。
 蘇我氏打倒はその後の日本の政治に決定的な影響をおよぼす。
 国体としての天皇と、政体としての権力(摂政・幕府)の二元性が確立されてのち、その体制が鎌倉・江戸幕府から現代にまで継承されるのである。
 大化の改新以後の朝廷の安定は、易姓革命や宗教政治を排除した神道の絶対性と無縁ではない。
 根幹において変化がないことが国家安定の基盤で、大川が族長≠ニ呼んだこの絶対性は、血統であり神性であり歴史であって、一切の変更をみとめない。
 新嘗祭に代表される皇室の儀式はすべて神道で、太古よりなにもかわるところがない。
 それが祭祀国家の本質で、民の幸と国家の繁栄の祈りは、永遠にして不変なのである。
 国体が絶対にして不変である一方、政体が柔軟だった理由に、蘇我一族や藤原氏ら天皇の外戚(女系)が独占した摂政制度をあげることができる。
 日本で易姓革命がおきなかったのは、摂政あるいは幕府がしばしば交代したからである。
 有徳をもって権力者となるのは、政体の主であって、国体の主ではなかったのである。
 権力抗争は政体の出来事であって、原則として、国体は、権力抗争に関与しなかった。
 摂政あるいは幕府が交代しても、国体が関与しないかぎり、天下の大乱にはならない。
 大川周明が、鎌倉幕府から徳川幕府の大政奉還までを一時代としたのは、700百年近くつづいた武家政権において、国体がまもられたからだった。
 例外が「建武の新政」で、後醍醐天皇がもとめたのは倒幕という権力抗争であって、国体の安泰ではなかった。
 湊川の戦いで散った楠正成の「七生報国」は儒教の思想で、北畠親房の神皇正統記は南朝の正統性を主張して、皇統が神武以来100代にして滅びるという慈円「愚管抄」の百王説を否定した。
 後醍醐天皇、絶対的権威ではなく、相対的権力をもとめて挙兵したのである。
 武家政治をささえた武士道にも、その中心に江戸時代に奨励された朱子学をはじめ陽明学などが中心にあって、それが、御恩と奉公から幕末の維新運動にまで援用された。
 権力をもとめてゆれうごくのが文明の相なら、権威の下で不動なのが文化の相である。
 日本文明は、縄文文化という歴史の下敷きにそって展開されてきた独自の文明運動で、中華文明や西洋文明などと衝突しながら四つの時代区分をかけぬけてきた。
 これもまた大川周明流の『文明の衝突』なのである。
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2017年10月10日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」P

 ●皇国史観排除によって失われた日本人の歴史感覚
 大国主命は、出雲の国(島根県)で八十神を滅ぼし、葦原中国の王となったが、協力者のスクナビコ(小人神少彦/一寸法師のモデル)が常世国へ去って途方に暮れる。
 そのとき、われを大和国の三輪山に祀るべしという声が聞こえてくる。
「その声はだれや」と問うと「我は汝の幸魂(さちみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。
 声の主は大国主命自身で、聞こえたのは自身の魂の声だったのである。
 ここでフィクションと史実、史料が交錯する。
 第10代崇神天皇を支えた第8代孝元天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命は三輪山の神である大物主神(大国主命)の妻(神婚)になったという。
 百襲姫が魏志倭人伝のいう「卑弥呼」で、援けた男弟が「崇神天皇」だったことは、百襲姫の墓(箸墓)が、死期や大きさなどから卑弥呼の墓とみられることからも明らかだろう。
 大国主命と百襲姫の伝説が、卑弥呼の墓(箸墓)という史実をとおしてむすびついているのである。
 神話は、その神話を信じてきた人々の歴史でもあって、実証主義的な実史よりもいきいきと描かれている。
 それが、天孫降臨や神武東征、紀元前660年の神武天皇の即位で、皇国史観は、考古学的にして物語性を欠いた実史よりはるかにゆたかな内容をもっている。

 神武天皇は、大国主命を祀った三輪山麓に朝廷をひらき、10代崇神天皇は三輪山(大和)から全国覇権の第一歩をふみだす。
 ここで問題になるのは三輪山麓の大和という土地柄である。
 大和は地政学的に見て日本国を統一支配するには不適切な地域である。
 四方を山に囲まれた盆地で、陸路・海路から隔たった閉鎖的な場所だからである。
 農業生産の拠点としても狭隘で、河川流域という都市の第一条件を満たしてもいない。
 神武天皇が即位し、都を築いたのは、その大和の南端に近い橿原である。
 大和の中心は、現在の奈良や天理市が近い北方で、南はさびれている。
 神武天皇が橿原で即位した理由は、当時、そこが、豪族たちの力がおよんでいない半ば打ち捨てられた地域だったからではないか。
 神武天皇は、大和をめざしたのではなく、たどりついた地が大和南部だったのである。
 そして、橿原の地で、欠史八代の永きにわたって、地歩を固めて、10代崇神天皇にいたって、全国制覇に打って出る。
 記紀の編纂者は、大和東遷を合理化するために、大国主命の三輪山エピソードを神話に仕立てたのであろう。
 神武東征は、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和の地に至って、橿原宮で即位するまでが記されている。
 東征が東遷とも呼ばれるのは、都を日向から大和に移すという意味である。
 カムヤマトイワレビコは兄のイツセ(五瀬命)とともに、葦原中国を治めるべく、日向(高千穂)から東へむかい、岡田宮で1年余、阿岐国で7年、吉備国で8年を過ごす。
 進軍が遅れたのは敵対勢力の妨害が激しかったからで、イツセは、浪速国の戦闘でついに戦死する。
 熊野まで来たとき、大熊があらわれて、兵士たちはみな気絶してしまう。
 このとき、カムヤマトイワレビコは、熊野のタカクラジ(高倉下)が運んできた一振りの太刀によって目を覚まし、熊野の荒ぶる神を切り倒し、兵士たちも元気を回復した。
 この太刀は、タカクラジの夢にあらわれたアマテラスとタカミムスビ(高木神)から下されたという。
 これは、天孫族のカムヤマトイワレビコに高天原からの神助があったという兆しで、一行はタカミムスビから遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、大和の宇陀に至った。
 カムヤマトイワレビコは、宇陀のエウカシ・オトウカシ兄弟、エシキ(兄師木)・オトシキ(弟師木)兄弟、土雲の八十建、ナガスネヒコ(登美毘古)らと壮絶にたたかう。
 有名なのが戦いの最中、カムヤマトイワレビコの弓の先にとまった金色の鵄(とび)で、ナガスネヒコの軍は、金鵄の光輝に眩惑されて戦闘不能に陥る。
 こうして、カムヤマトイワレビコは、荒ぶる神たちを服従させ、ついに畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)で神武天皇として即位する。
 
 神武東征は、物語が単純ではなく、多くの示唆に富んでいる。
 一つは敵が多かったこと、高天原からの神助があったこと、ひたすら大和の地をめざしたことである。
 敵が多かったのは史実だろうが、神助はフィクションで、大和を目指したのは結果論であろう。
 もっと重要なのは、軍団を率いて、長い歳月をかけて、日向から大和をめざしたカムヤマトイワレビコが橿原宮で即位するにいたった文化の力である。
 戦後日本人は、70年前、皇国史観を捨て去って、日本史を歴史実証主義にゆだねてきた。
 歴史教科書の縄文時代晩期の紹介では、土器や竪穴住居があるだけで、小集団の原始人が狩りや採集で生計を立てていたとする。
 小集団だったのは、確保できる食糧が少なかったからという。
 出土した土器と竪穴住居跡などの史料から一歩も出ないのである。
 ところが、神武東遷の神話には、当時の様子が物語性ゆたかに描き出されている。
 歴史実証主義が見失っている文化の力が、神話のなかでみごとによみがえっているのである。
 皇国史観排除という名目で、戦後、日本人は、歴史を奪われてきた。
 次回以降、日本の基礎を固めた古代天皇の足跡を見ていこう。

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2017年09月19日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」O

 ●神話に隠された歴史の真実
 スサノオは、天照大神や月読命とともに、イザナギの禊からうまれた3神のうちの一柱である。
 天照大神は高天原を、月読命は夜の食国(オスクニ)を、そしてスサノオは海原を治めるようイザナギに命じられるが、スサノオは、イザナミのいる根之堅洲国に行きたいと泣き叫び、中つ国から追放されてしまう。
 スサノオは、天照大神に別れ告げるため高天原へ上るが、天照大神はスサノオが攻めて来たと思い、武装して待ち構える。
 二神は互いの疑いを解くために誓約(うけい)をおこなう。
 誓約は結果が宣言どおりか否かによって、邪心のあるなしを判断する卜占である。
 天照大神がスサノオの持っている十拳剣を噛み砕き、吹き出した息から三柱の女神(宗像三女神)が産まれた。
 この三女神を祀るのが、2017年に世界遺産登録された沖の島宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮である。
 次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を噛み砕くと、宣言どおり、吹き出した息から五柱の男神が生まれた。
 スサノオの潔白は証明されたが、高天原に滞在することになったスサノオが乱暴をはたらいたため、天照大神は嘆いて、天の岩屋に隠れてしまう。
 これが天の岩戸隠れで、太陽神=天照大神が身を隠したため世界が真っ暗になってしまう。
 高天原を追放されて、出雲の鳥髪山へ降ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇の生贄になりかけていた美しい少女櫛名田比売(くしなだひめ)と出会う。
 スサノオは、櫛名田比売を櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治する。
 そして八俣遠呂智の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち)を天照御大神に献上し、それが三種の神器の一つとなった(熱田神宮の御神体)。
 こうして、スサノオは櫛名田比売を妻として、出雲の根之堅洲国に留まる。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまごみ)に 八重垣つくる その八重垣を」
 スサノオは、日本で最初の和歌を詠った歌人でもあったのである。

 スサノオは、天つ神ではなく、国つ神である。
 国つ神の代表であるオオクニヌシ(大国主命)はスサノオの子孫である。
 この設定は多くの示唆をふくんでいる。
 一つ目は、天孫族(天つ神)と地祇(国つ神)が対立関係にあったこと。
 二つ目は、天つ神と国つ神は、全面戦争を避けて、棲み分けしたこと。
 三つ目は、世界を現象界(=顕界)と観念界(=幽界)に分け、前者を天つ神、後者を国つ神が支配するとしたこと。
 肉体の目に見える顕界と、魂の目に見える幽界の二元論である。
 幽界が設計図なら、設計図どおりにつくられたのこの世が顕界で、両者は表裏の関係にある。
 神道では、高天原と葦原中国、天つ神と国つ神、天照大神(伊勢神宮内宮祭神)と豊受大神(伊勢神宮外宮祭神)というふうに二項対立(二元論)が基本原理になっている。
 これが、権威と権力の二元論にひきつがれて、天皇に地位が確定する。

 天皇中心の政治というのは、天皇と摂政、天皇と幕府の二元体制で、天皇は祭祀、為政者は権力をあずかった。
 祭祀と権力もまた二元論で、祭祀は国家の安泰と民の幸を祈念し、権力者は政体をコントロールする。
 政体は、法や権力を操作する一過性の形や状態である。
 したがって、政体(権力)が変わっても国体(権威)に変化は生じない。
 その二元構造が日本を世界一の伝統国家たらしめてきたといってよい。
 中世以降、二元構造が崩壊に瀕する危機が二度あった。
「建武の新政」と明治維新から第二次大戦敗戦までの80年余である。
 後醍醐天皇の新政が失敗すると「応仁の乱」から戦国時代へ日本は「暗黒の中世」へ突入してゆく。
 権力をもとめた権威が空洞化したため、権力が手綱を失った暴れ馬のように暴走したのである。
 後醍醐天皇や北畠親房、楠木正成らが傾倒していたのが儒教で、親房の『神皇正統記』は徳治と名分論を謳った易姓革命のテキストだった。
 建武の新政は、神道が後退した時期の政変だったのである。
 もう一つは、天皇を国家元首に担いだ明治憲法体制で、国体と政体の合一によってつくりあげられた帝国主義は、ヨーロッパの政治システム真似た軍部による天皇の政治利用でもあった。
 その結末が1945年の国体の危機で、朝鮮戦争がなかったら、日本は共産主義革命にのみこまれていたろう。

 戦後の平和と繁栄は、国体護持の賜物で、象徴天皇の存続によって、国体と政体の二元論が復活して、日本再生が曲がりなりにも実現した。
 戦後、日本は、民主主義の国になったが、民主主義は、課税や法律、行政と同様、政体の範疇にあるもので、国家の安全や発展、民の幸という国体概念を超えるものではない。
 国会の開会式に天皇陛下がご臨席されるのは、日本が、国体(権威)と政体(権力)が二元論に立っているあかしで、天皇が憲法上の存在であるというのは、左翼反日の妄想にすぎない。
 憲法が最高法規で、民主主義が最高の意志決定手段というのは、政体=国家の革命国家のルールであって、国体を有するわが国には通用しない。
 伝統国家では、法規や多数決など政体の一過性のルールだけではなく、習慣や伝統、しきたりが重んじられる。
 国体は歴史の一部なので、過去が現在に反映されるのである。
 政治の目的は、国家・国民の繁栄の継続であって、国家は、現在を生きるにすぎない人々の占有物ではない。
 国民投票でEUから脱退したイギリスや大統領公選制のアメリカにあるのはのは、多数決(民主主義)だけであって、国体という政治の理想がない。
 神道の伝統にもとづき、権威と権力の二元論を立てた日本の国の形は、世界でもっとも洗練された政治体制といっていいであろう。
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2017年09月15日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」N

 ●神話と実史の融合点と断絶点
 神武天皇の祖先にあたるのが、神代のイザナギ・イザナミである。
 そこに神話と実史の接点がある。
 イザナギ・イザナミが国土や多くの神々を生み、黄泉国から帰ったイザナギが禊払いしたときに天照大神・月読尊・須佐之男命が生まれている。
 ここまでが神話である。
 天照大神の孫で、天孫降臨したニニギノミコトの曾孫が神武天皇である。
 ニニギノミコトが地上に降り立ったあとが人代(実史)にあたる。
 イザナギ→天照大神→アメノオシホミミ→ニニギ→山幸彦→ウガヤフキアエズ→神武天皇。
 したがって、皇室の祖は、イザナギでもイザナギからうまれた天照大神でもなく、天照大神から2代下った人代のニニギノミコトということになる。
 女系天皇論者が、天照大神を皇室の祖というのは、神話と実史の混同で、天照大神は、皇祖ではなく、皇祖神である。
 ちなみに天皇以外の氏族もすべて、イザナギ・イザナミからはじまっている。
 大伴氏はアメノオシヒノミコト、物部氏はニギハヤヒミコト、中臣氏(藤原氏)はアメノコヤネが祖先で、神を祖先にしていない大豪族は百済出身といわれる蘇我氏だけである。
 有力豪族が天皇に忠実だったのは、かれらの祖先がニニギの降臨に従った神々(五伴緒/イツトモノオ)だったからで、神話秩序の下にあった支配層の手によって、天皇中心の体制をつくりあげられてゆく。
 日本史で、唯一、天皇に刃をむけたのは、第32代崇峻天皇を弑逆した蘇我馬子だけだが、大化の改新で、蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿の直系4代による独裁体制が破られて、天皇中心の体制が復活する。
 ちなみに、蘇我氏が大きな力をもったのは、天皇の外戚(女系)だったからで、天皇の妃は蘇我一族がほぼ独占していた。

 天皇が尊いのは、神の子孫だからではなく、神武以来の血統(万世一系)がまもられてきたからである。
 その伝統こそが天皇の正統性である。
 天皇の地位は、歴史に用意された血統(男系相続)という玉座≠ノあって、そこに座られるのが天皇陛下である。
 皇位は、歴史上の地位であって、皇室の家系にとどまるものではない。
 女系天皇容認論は、歴史をつらぬいてきた真実を裏切る伝統破壊にほかならず、女性天皇という事態になれば、天皇の正統性が根こそぎ失われる。
 皇室断絶の危機を回避する唯一の方策は、旧皇族の皇籍復帰か、旧皇族への皇統承継権の付与しかなく、GHQが図った皇室断絶政策(11宮家の臣籍降下)をいつまでもひきずるほど愚かな歴史的選択肢はない。
 まもらなければならないのは、天皇の正統性で、天皇陛下も皇室も、皇位という歴史に刻まれた玉座をまもることによってまもられる。
 世界遺産に登録された沖ノ島(宗像神社)が神の島とされているのは、神性をおびているからではなく、4世紀から現在まで厳しく伝統がまもられてきたからである。
 沖ノ島にはきびしい入島制限と女人禁制がある。
 それが伝統で、世界遺産委員会は、女人禁制をふくめて歴史遺産としたのである。
「いまは男女平等の時代」などといって、女性宮家・女系天皇をみとめようというのは、伝統を毀損、破壊する亡国の徒のたわごとにすぎない。

 神話へ話をもどそう。
 天皇にかかわる神話は国譲り≠ナあろう。
 これは、ニニギノミコトの降臨(天孫降臨)に先だち、高天原から国土委譲をもとめる使者が派遣され、大国主命がこれを承認して、出雲(出雲大社)に祀られる話である。
 この神話から、大国主命は「国譲りの神」とも呼ばれる。
 国譲りの第一の使者、天穂日神(アメノホヒノカミ)は大国主命に媚びて命をつたえず、第二の使者、天若日子(アメノワカヒコ)は問責使の雉を射たために神意によって矢に当たって死ぬ。
 最後の使者、建御雷神(タケミカヅチノカミ)には、大国主命の二人の子のうち、事代主神は委譲すべきと答え、もう一人の建御名方神は、力くらべを挑むが、敗れて諏訪湖に逃げて、国譲りが決定する。
 大国主命で有名なのが「因幡の白兎」である。
 心やさしい大国主命が兄たちと争ったヤマガミヒメを娶ったあと、次に恋したのが大国主命から六代遡った祖先スサノオの娘スセリビメである。
 スサノオは幾多の試練に耐えた大国主命を婿としてみとめ、中つ国を治める大任を授ける。
 このあたりのストーリーは粗雑で、スサノオと大国主命、スセリビメの関係や時系列が不自然である。
 ヘビやムカデのいる部屋で寝かされ、野原で火をかけられる試練、寝ているスサノオの髪を柱に縛って刀と弓を奪って遁走するストーリーは奇想天外だが、それが神話で、かつて日本人は、神話と実史を重ね合わせて、日本を神の国としたのである。
 次回はスサノオの神話へ目を転じてみよう。
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2017年09月11日

神道と世界最古の文明「縄文文化」M

 ●理≠ニ非理≠併せ呑む日本精神
 自我が誕生したのは紀元前3000年頃という説がある。
 それまで、ヒトは、動植物と同じように、自然の一部だったのである。
 じぶんと世界が切り離されたとき、人類は、自我という個人領域を獲得した。
 人類にとって、これは革命的なことで、世界がじぶんの外部のものとなったのみならず、他者が他者として、じぶんとは別の存在となった。
 自我のめざめは、人類を自由に、そして孤独な存在にしたが、さらに大きな衝撃は、死の発見だった。
 全体の一部から個となった人類にとって、死は最大の不条理で、死によって、じぶんのみならず、世界が消失する不安と恐怖にさらされた。
 自我にめざめた人々は、超自然的な存在に救済をもとめずにいなかった。
 そこから、祈りや信仰がうまれ、やがて、宗教が誕生する。
 宗教といっても、あったのは、仏教やヒンズー教、儒教などの人為宗教ではなく、自然崇拝や万物に精霊が宿っているとするアニミズムなどの原始宗教である。
 農業がはじまると農業神、家族的なつながりから祖霊、神概念から神と世界を一体とみるパンセイズム(汎神論)、超越的な力を信仰するマナイズム、神と交流するシャーマニズムが派生して、素朴な土着宗教が形成される。
 そこへやがて、仏教がつたわってきた。

 日本に仏教が伝来したのは538年、百済の聖王一六年のこととされている。
 欽明天皇(29代)は臣たちに仏教を受け入れるべきか否かをたずねている。
 蘇我稲目は受け入れに賛成し、物部尾輿(物部守屋の父)や中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は反対した。
 当初、仏教は、蘇我一族(蘇我稲目・馬子)だけのものだった。
 その状況を一変させたのが聖徳太子だった。
 聖徳太子は、馬子が物部守屋を討った丁未の乱に参戦して、蘇我氏のクーデターが成功すると、翌年、20歳で皇太子となり、摂政の位(33代推古天皇)についた。
 その後、数十年、聖徳太子は、新羅討伐軍を送り、遣随使をつかわすなどの積極的な外交をすすめ、国内にあっては、十二階の冠位、十七条憲法などを定めた。
 日本の土着的な信仰が神道という形態を整えたのは、曽我一族や聖徳太子が仏教擁護に走ったこの頃だったと思われる。
 推古天皇に「勝鬘経」や「法華経」を講じ、三経義疏を完成させた聖徳太子に対抗して、神道も体系化をすすめ、35代皇極天皇に時代には、皇室神道にもとづいた新嘗祭がとりおこなわれている。
 蘇我一族が仏教の国教化をはかったのにたいして、朝廷は、あくまで神道をまもったのである。

 仏教と神道が共存できたのは、仏教が個人の死生観にもとづき、神道が共同体や国家の安泰に眼目をおいたという理由だけではなかった。
 教義をもたない(「言挙げせず」)神道と経典仏教には対立点がなかったからで、神仏習合は、神道の心と仏教のことばの合体といってよいだろう。
 仏教と神道の棲み分け≠ェ成立したわけだが、実際は、仏教が土着信仰である神道の影響をうけ、日本化してゆく。
 理としての仏教にたいして、神道は非理で、世界は非理に満ち、理で説明がつくものはわずかしかない。
 それが日本精神で、奇異や不思議をそのままうけとめ、一方、理については徹底的に合理性をもとめる。
 現代の文明社会において、ビルの地鎮祭や初詣、七五三のお参りが廃れないのは、日本人が奇異や不思議と合理主義を両立させる二元論的な心根をもっているからである。
 古くは隋・唐文化の国風化から、戦後のアメリカナイゼーションの日本化にいたるまで、日本は、外来文化に吞みこまれることなく、そこから、独創的な文化をあみだしていった。
 その能力の高さは、神仏習合の伝統で、そこに、言挙げしない神道のふところの深さがあるといってよいだろう。
 非理(あいまい)の精神は、どっちつかずということではない。
 両方をうけいれる寛容さで、したがって、西洋の宗教戦争のような「抗争の構図」がうまれない。

 大和朝廷の成立過程で武力闘争がおこなわれた形跡がないのは、無神論的な唯物論者ではなかったからで、日本人は、太古の昔から、非理という唯心的な世界観をもっていたのである。
 それが、神道のベースとなる自然崇拝で、自然界に理のみで説明できるものはほとんどない。
 この原始神道が、自我がうまれたとされる紀元前3000年頃から、延々とつづいてきて、仏教がはいってきた6世紀になって、様式化された。
 神道は、6世紀になってできたのではなく、縄文時代からつづいてきた精神世界が、用明(31代)・皇極(33代)、聖徳太子の時代に、仏教に対抗する形で様式化(新嘗祭)されたのである。
 日本人の精神や民族性に神道という非理の精神が深く根を下ろしている。
 キリスト教や明治維新の西洋文明、戦後のアメリカ文明、そして民主主義にいたるまで、すべて、理の宗教であり、合理の文明である。
 日本精神は、これを否定も肯定もせず、よいところを利用するだけである。
 したがって、根本にある神道的な価値観はいささかもゆるがない。
 皇統の男子継承に「合理性がない」とのべて、女系天皇論者から絶賛された民進党のホープ山尾志桜里議員は不倫スキャンダルで失脚した。
 山尾は、みずからが否定した非理の世界に足をとられたのである。
 山尾を支持してきた小林よしのり(山尾宰相論)や女系天皇論者、高森明勅や田中卓(皇學館大学元学長)、所功らには、日本精神というべき原始神道(縄文文化)にたいする認識がゼロである。
「男系継承は支那の男系主義の影響にすぎない」というのは、日本文化のなんでもかんでも「大陸や半島からの影響」で片をつけるコンプレックスで、こういうやからは、いつか、非理の世界に足をとられて馬脚をあらわすのである。
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2017年09月05日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」L

 ●ニニギノミコトを天皇霊と定めている大嘗祭
 皇室の祖が天照大神であるとして、これを女系天皇の肯定根拠にする暴論がまかりとおっている。
 天照大神は皇室の皇祖神であって、日本人の総氏神とする神話にもとづいた空想上の神である。
 記紀によれば、天照大神は太陽が神格化された天照坐皇大御神で、伊勢神宮(内宮)の祭神でもある。
 皇室の始祖は、天照大神の命によって、高天原から地上に降り立ったニニギノミコト(天孫降臨)で、天皇の血統は、ニニギノミコトから三代下った神倭伊波礼毘古命(神武天皇)からはじまる。
 ニニギノミコト以前は神代で、以後は人代である。
 世系第一/天照大神(禊によって、イザナギの左目から生まれる)
 世系第二/アメノオシホミミ(アマテラスとスサノオの誓約から生まれる)
 誓約(ウケヒ)は吉凶や正邪を占う神事(卜占)で、天照大神とスサノオの誓約では、天照大神がスサノオの十拳剣を噛み砕き、吐き出した息から三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。
 次に、スサノオがアマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を噛み砕き、吐き出した息から五柱の男神が生まれた。
 その内の一柱が天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)で、勾玉の持ち主が天照大神だったところから天照大神の子という俗説がうまれた。
 アメノオシホミミとヨロヅハタトヨアキツシヒメ(萬幡豊秋津師比売命)とのあいだにうまれたのがニニギノミコトである。
 豊秋津師比売命は造化三神の一柱、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)の子で、性別のない独神(ひとりがみ)である高御産巣日神の娘、豊秋津師比売命と、誓約からうまれた天之忍穂耳命からニニギノミコトがうまれたのである。
 ここが神話と実史の分かれ道で、ニニギノミコト以前は神話、以後は、この世(葦原中国)の物語となる。
 世系第三/ニニギノミコト(妻は木花佐久夜姫)
 世系第四/山幸彦(妻は豊玉姫)
 世系第五/ウガヤフキアエズ(妻は玉依姫)
 世系第六=皇統第一/神武天皇(妻は阿比良姫)
 天照大神は女神とされるが、独身で、世俗的な意味での夫や子はいない。
 そもそも、女神は性別ではなく、性格であって、スサノオを夫とする俗説には、神である天照大神を人的系統である皇統へ組み入れようとする意図が隠されている。

 神話と実史のつながりを理解するには、世界を3次元でとらえる必要があるだろう。
「造化三神(別天津神をふくめて五柱)」と、最後にイザナギ(男神)イザナミ(女神)が登場する「神世七代」までが第1次元の天(宇宙)である。
 イザナギの禊ぎからうまれた天照大神から、天照大神とスサノオの誓約からうまれたアメノオシホミミまでが第2次元の高天原である。
 高天原は、第1次元の天と第3次元の葦原中国をつなぐイデア(理想郷)であって、神代と人代の橋渡しの役割を担っている。
 神であるイザナギとイザナミが地上で夫婦神になるのも、造化三神が、葦原中国に干渉し、あるいは、天照大神に助言をあたえるのは、のちに天照大神が主になる第2次元の高天原というイデアをとおしてである。
 そして、葦原中国は、高天原という理想をめざして、国づくりをはじめる。
 イデアである高天原と葦原中国は、存在次元が異なっており、神話と実史という大きな段差がある。
 禊ぎや誓約から子がうまれるのが神代で、夫婦神から子が生まれるが人代である。
 天照大神が皇室の祖という主張は、神話と、神話に脚色された人代の区別がつかないオカルティズムにほかない。

 天皇がニニギノミコトの子孫であるという証が大嘗祭(だいじょうさい)の儀式において明快に示されている。
 大嘗祭は、天皇が即位の礼の後、初めてとりおこなわれる新嘗祭(にいなめさい)である。
 新嘗祭は毎年11月に天皇がおこなう収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇みずからも食す祭儀である。
 大嘗祭において天皇は、ニニギノミコトという名に象徴されるにぎにぎしく実った稲穂の姿をみずから体現される。
 その稲穂は皇祖神=天照大神から皇祖=ニニギノミコトに授けられた「斎庭の稲」(天壌無窮の神勅)である。
 天皇が、皇祖(ニニギノミコト)が葦原中国にもってこられた稲を食されることは、天皇みずからが皇祖の霊威を体現し、皇祖とご一体になられるということである。
 それが大嘗祭の本義で、ニニギノミコトの神霊と新穂の実り、天皇の再生が一体となったのが、民族学の泰斗、折口信夫のいう「天皇霊」である。
 大嘗祭の当夜、天皇は廻立殿に渡御し、小忌御湯で潔斎して斎服を着け、深夜、悠紀殿に入る。悠紀殿には、南枕に布団(衾)が敷いてあり、沓(くつ)と沓を載せる台も布団の北隣に置いてある。
 この寝具類がマドコオフスマ(真床襲衾)で、折口は講演「大嘗祭の本義」でマドコオフスマを、天孫降臨の際、ニニギノミコトが身に着けて地上に降り立った御衾と見立てた。
 御衾に包まれたニニギの姿が象徴するのは、穂に包まれた稲で、マドコオフスマは、稲魂の誕生、「天皇霊」は稲の霊そのものだったである。
 悠紀殿で神饌(お供え)を神に供し、告文を奏して、天皇みずからも神饌を食される(直会/なおらい)。
 次いで廻立殿にもどられ、その後、主基殿にはいられて、悠紀殿と同じことをおこなう。
 大嘗祭は「皇室の行事」とされるが、これは「皇室の私的な行事」ではなく「皇室の公的な行事」である。
 大嘗祭の予算は、通常の内廷費以外の臨時費で賄われており、「国事行為」といってよい。
 政府発表によれば、大嘗祭が「国事行為」とされなかった理由は、憲法上の天皇の「国事行為」が「内閣の助言と承認」を必要とするのにたいして、皇室の伝統祭祀である大嘗祭は、それを必要としなかったからである。
 女神である天照大神が皇室の祖なので、女系天皇に正統性があると主張する者たちは、大嘗祭という準「国事行為」において、ニニギノミコトを天皇霊と定めていることを知らないのである。
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2017年08月30日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」K

 ●民に代わって祈る天皇の無私の祈り
 新嘗祭は、収穫祭にあたるもので、11月23日(勤労感謝の日)に、宮中三殿の神嘉殿にて執り行われる代表的な宮中祭祀である。
 とりいれ後、秋の一夜を徹して、新穀を捧げて神とともに新穀を食べる儀礼が新嘗祭で、飛鳥時代の皇極天皇(35代)の御世にはじまったとつたえられる。
 日本では古くから五穀の収穫を祝う習俗があり、それが長年、変化を遂げた一つの形が新嘗祭で、もともと、わが国には、共同体単位で収穫を祝う伝統が根づいていた。
 日本は、ユーラシア大陸の国々ように、他国の攻め、収穫物を奪って成立した国家ではない。
 日本という国家にとって、もっとも大事だったのは、農耕をとおして、民を養う十分な収穫物をえることで、それが国家建設の絶対条件だった。
 いくさに勝って、収穫物を奪えば、奪われたほうの民は生きていけない。
 日本で、覇王が出現しなかったのは、奪い合うより、民が全員、生きることができる収穫そのものを大事にしたからだった。
 したがって、王権は、収穫祭の司祭たる「祭祀王」にさずかった。
 そこが、覇王が延々と殺しあった春秋・戦国時代の中国と決定的に異なる。
 大和朝廷の成立過程で、いくさがほとんどなかったのは、農耕による収穫の価値が掠奪や覇権主義を圧倒していたからで、これが、のちの世の農本主義へつながってゆく。

 オオキミが宗教的権威になったのは、収穫祭の司祭者だったからで、祭祀と政治を、ともにマツリゴトとして一体化する「祭政一致」の観念は、大和朝廷の基本的な政治理念であった。
 祭政一致は、収穫祭と集団の生活、政治、軍事、秩序と合一して国家形成へとむかい、原始神道の発展を促し、やがて、天皇の祭祀(皇室神道)として体系化される。
 マツリゴトと神道をむすんだのが神話である。
 古代国家の確立にともない、天皇の政治支配を基礎づけるために国家誕生の神話が整えられた。
 古代神道は、大和朝廷が信仰する神々を天つ神、もともとの土地神を国つ神として、天つ神を優位においた国産み神話の上に構築された。
 一方、土地には土地神(地祇)、個人には祖霊がおり、万物には八百万の神が宿り、ムスヒ(産巣日/生産する霊力)の神も存在する。
 神道が諸神を吞みこんでしまったのは、最高神が太陽だからで、太陽をこえるものはどこにも存在しない。
 ここが神道のおおらかなところで、自然崇拝を基礎とする神道は、人為の理法やあざとさを否定して、大自然の不可思議をすべて受容する。
 そこでは、人と神、奇異と常道の区別もあいまいのままである。
 神道が仏教と習合したのは、そのおおらかさゆえであった。
 6世紀頃から仏教、儒教、道教など外来思想の受容がはじまった。
 そして、8世紀の奈良時代になって、仏教の全盛期であった隋、唐の影響をうけて、日本は、仏教国家としての体制をつくりあげた。
 古代国家の仏教は、宗教、思想、学芸、技術など文化の全般にわたる高度に発達した体系であって、政治支配を支え、国家を鎮護する外神であった。
 神までが仏にすがって救われることを願う風潮のなか、ミヤ、ヤシロなどの社殿がつくられ、人間の姿をした神像が造顕されるようになったのも、仏教の影響だった。
 ところが、皇室神道は、仏教や儒教の影響をうけることなく、701年の大宝律令から927年の「延喜式」に至る二世紀余の間に制度化され、体系的に整備された。
 神道は、皇室のなかで、日本精神として、純粋培養されていたのである。
 そして、天皇の祭祀の中心をなすイネの収穫祭が新嘗祭として定型化された。
 その理由は、仏教や儒教が個人の世俗的宗教だったのにたいして、皇室神道が非個人(共同体や国家)の非世俗(秘儀)的宗教だったからである。
 神道は、個ではなく、全体の利益をもとめる宗教だったのである。
 収穫祭にあたる新嘗祭は、天皇が五穀の新穀を天神地祇に供し、みずからもこれを食して、その年の収穫に感謝する。
 この宮中祭祀は、一方で、天皇を権威づけるものとして、正統化されることになった。
 祭祀王としてカミと交流する天皇は、生産力と生命力を秘めた新穀を食する儀式によって、生まれ変わり、新しい生命を獲得するのである。
 収穫祭は、翌年のイネの実りを約束する祭りでもあったので、祭祀でカミと合一した祭祀主は、翌年のイネの実りを左右する力をもつ霊的な存在となった。
 新嘗祭は、大嘗祭が天皇の一生一度の即位式と同格であるように、年ごとにおこなわれる即位式でもあったのである。
 天皇の祈りは、民に代わって、民の平安と国家の安泰を祈る無私の祈りで、だからこそ、国民は、天皇や皇室に敬愛の感情を抱く。
 天皇への敬愛は「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる(西行)」という日本の民族的な宗教感情にささえられているのである。
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2017年08月28日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」J

 ●天皇の権威と聖俗%元論
 天皇の権威は収穫祭の司祭に由来する。
 天皇は権力者ではなく、民のために「神に祈る神」なのである。
 収穫祭は、農耕神への信仰と自然にたいする畏敬や畏怖、万物に神が宿るとする原始神道の合作で、収穫祭の司祭は、古人の尊敬の対象だった。
 農耕の普及にともなって、共同体が小集団から大集団へ、大集団の連合から単一国家へ移っていくと、各地の収穫祭が統合されて、その頂点に立つ司祭が新嘗祭を主催する大司祭(オオキミ)となった。
 収穫祭の最高儀礼が新嘗祭であることは、天皇が新穀を神に捧げ共に食する儀式内容からも明らかである。
 収穫祭が国家祭祀(新嘗祭)に、そして、新嘗祭を催す大司祭がオオキミになって、日本は世界に類のない祭祀国家としての体裁を整える。
 日本は、武力で覇権を争ったユーラシア大陸の国々とは別の道筋をとおって国家をつくりあげたのである。
 それが祭祀国家で、天皇という国家の核をもっている。
 天皇は文化概念で、日本は、革命国家が権力を収奪して政体をつくりあげたのにたいして、祭祀という文化の力で国家を形成した。
 収穫祭という民の祭事を、国家祭祀にまで高めた日本は、権力国家ではなく文化国家なのである。
 国家の頂点に祭祀王が立つということは、民の代表が主権者になったということで、日本という国家は、主権が、権力ではなく、民の側におかれている。
 天皇主権は国民主権と同義(君民一体)で、天皇陛下万歳は、民の代表万歳だった。
 君民一体は究極の民主主義にほかならず、日本は、もともと、民主主義国家だったのである。
 日本が皇紀元年以降、2677年にわたって国体を維持できたのは、天皇が民と共にある祭祀王だったからで、君民一体では革命がおこるはずがないのである。

 権力は、権威という後ろ盾をえて、はじめて安定する。
 民が権威に従順なのは、敬愛心からで、民はみずからすすんで従う。
 一方、民が権力に従順なのは、恐怖心からで、民は強制されて従う。
 前者が伝統的支配なら、後者が権力的支配である。
 権力だけの政権は、専制や独裁に陥って、フランス革命後のジャコバン派やナチスのような強権・恐怖政治となる。
 武力によって一時的に覇権を握ることができても、中国の春秋・戦国時代のように、めまぐるしく覇王が入れ替わって、止むことがない。
 春秋・戦国時代に決着をつけた始皇帝の秦ですら短期政権だったのは、民の支持がなかったからだった。
 権威の源泉は民の支持で、権威なき権力は盗賊とかわるところがない。
 権力と権威を分かつのが、世俗と神聖の二元性である。
 そして、この二元性を統一するのが収穫祭≠セった。
 収穫祭は、世俗における生の賛歌である一方、祭祀王が祭祀をとおして神と交流する神聖な行為でもある。
 国体(権威)と政体(権力)は二元論で、人の世は聖俗二元論≠ゥら成り立っている。
 俗なるものが権力で聖なるものが権威である。
 聖なるものは不可知論でもあって、ひとは、奇異なるもの不可思議なるものを、俗なるものよりも深く信仰する。
 知りえぬもののなかに真実があることを知っているのである。
 それが伝統で、継承される過去には合理的な説明がつかないものが多い。
 一方、合理は即物的・唯物論的で、それが権力である。
 権力には、警察や軍隊のほか、法や制度、民主主義までがふくまれる。
 革命は権力闘争の結果で、民主主義と合理主義ですべて片付ける。
 民主主義も権力で、ヒトラーは、民主主義的な手法(一般投票)で独裁者になり、北朝鮮ですら国名に民主主義を謳っている。
 民主主義には一片の権威もそなわっていないのである。

 権力だけあって、権威が不在なとき、乱世となる。
 後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗以降、日本が、応仁の乱から戦国時代にいたる暗黒の中世≠ヨ突入していった。
 天皇が俗なる権力をもとめたため、聖なる権威が空位になったからだった。
 一方、朝廷と幕府が不離不即の関係にあった江戸時代は、権威と権力の二元論的力学がはたらき、280年にわたる平和と秩序がまもられた。
 2・26事件で銃殺刑に処された磯部浅一大尉はこんな日記(獄中日記)を残している。
「天皇陛下、なんという御失政でござりますか。なぜ奸臣を遠ざけて、忠烈無双の士をお召しになりませぬか」「何というザマです。皇祖皇宗に御あやまりなさいませ」
 磯辺は、聖なる権威を捨てて、俗なる権力に取り込まれた天皇陛下を叱ったのである。
 明治憲法は、天皇を政治的な主権者、陸海軍の大元帥に立てて、権力の側に取り込み、国民の代表たる新嘗祭の大祭司であることを放棄させた。
 そして、戦後、天皇主権は国民主権に変わって、民主主義革命が達成されたと左翼を狂喜させた(八月革命説)。
 だが、本来、天皇主権は、収穫祭の祭祀王という次元で国民主権とイコールであって、明治憲法の天皇元首も戦後憲法における象徴天皇もインチキだったのである。
 現憲法の国民主権は、実際には行使できないので、これを権力があずかるというルソー流で、国民主権は、権力に利用されているにすぎない。
 民主主義は、権力にとって、きわめて都合のよい代物なのである。
 戦後日本は、民主主義一辺倒の国になって、教育勅語や皇国史観が徹底的に排除された。
 日本は、君民一体の祭祀国家から民主独裁の権力国家へ変容したのである。
「皇統の男系男子相続には合理的な根拠が乏しい」とする民進党の山尾志桜里議員の発言がむなしく響くのである。

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2017年08月24日

神道と世界最古の文明「縄文文化」I

 ●収穫祭と神道、国家のトライアングル
 天皇の権威はいつごろうまれたのであろうか。
 そのとき、古代神道や縄文文化はどんな状態にあったのか。
 もっとも興味深いテーマだが、それを明快に語る学説や書物は存在しない。
 文献や史料が乏しく、歴史的な想像力が不足しているからで、あるのは本筋を外れた瑣末な議論ばかりである。
 天皇の深淵を探るには、紀元前をはるかに遡った太古の歴史観と文化的考証が必要なのはいうまでもない。
 キーワードは宗教と食糧だろう。
 宗教と権威は切り離すことができないばかりか、ほとんどイコールである。
 どんな権威も、たとえそれがいかに素朴な信仰であっても、宗教的権威だからである。
 もう一つの要素が食糧である。
 イネの豊凶は、村落存続の決定的なカギで、日照りや冷害などによる凶作や洪水などの災害によって、村が全滅するケースさえあった。
 ここで、天皇と食糧問題をむすぶテーマとして、新嘗祭が浮上してくる。
 天皇の宗教的権威が収穫祭と深い関連性をもっていることは、新嘗祭の原型が日本の原始農耕社会でひろくおこなわれていたイネの収穫祭だったことからも明らかだろう。
 人力が自然の脅威の前に無力である一方、生産を支配する大地、水、太陽の精霊、穀霊の存在が大きかった古代社会では、収穫祭は、人間の非力さや死生観、当時の自然観や宗教観を反映した生きるための儀式だった。
 万物に霊が宿っているとするアニミズム、自然現象や自然の力を神格化する自然崇拝、超越的な力を信仰するマナイズム、神と交流するシャーマニズムや祖霊崇拝、呪術などの原始的宗教観念が人々の生活を支えていたのである。

 イネづくりの広範な普及によって、小集団だった原始社会の人的規模が拡大し、文化的にも飛躍的に向上して、より高度な古代社会へと歩みはじめる。
 日本の原始農耕社会は、弥生前期にはじまった稲作の全土的な普及によって本格化し、弥生時代中期の紀元前100年頃には、大きな規模をもつ農業共同体に発展して、九州北部では100を超える小国家がうまれたとされる。
 農業の発展にともなって、国家が形成されるのは、世界共通の現象である。
 弥生以前、縄文晩期には、一部でイモ類の栽培がおこなわれていただけとされてきたが、三内丸山縄文遺跡(縄文時代前期から中期/紀元前35世紀〜20世紀)の発見によって、その認識が大幅にかわった。
 三内丸山では、堅果類(クリ・クルミ・トチなど)のほかエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメ類が栽培されていたことがわかっている。
 また、日本の陸稲栽培は、6700年前まで遡ることができるので、縄文の中期には、イネが中心の農耕共同体ができあがっていたはずである。
 国立歴史民俗博物館が土器に付着した炭化米を放射性炭素年代測定にかけた結果、紀元前10世紀頃のものとわかった(2003年発表)という。
 炭化米が付着した土器が弥生式だったことから、弥生時代を紀元前10世紀まで遡らせる騒ぎとなったが、このことから、紀元前10世紀には米穀が主な農産品の一つだったことが明らかになった。
 農耕儀礼を中心とする原始神道の起源は、縄文時代から弥生時代にかかる紀元前3〜2世紀頃とされてきたが、弥生時代の見直しによって、紀元前10世紀前後へ繰り上げになった。
 稲作と神道は収穫祭(新嘗祭)をとおしてむすびつく。
 すでに稲作がはじまっていた皇紀元年(紀元前660年)には、古代神道もまた一応の完成をみていたはずである。

 縄文晩期から弥生にかけて、水田耕作が普及すると、農業の生産力は大幅に上昇し、集落ごとに穀物の備蓄も増え、吉野ヶ里遺跡の高床式倉庫や物見櫓のような建造物も立てられた。
 吉野ヶ里遺跡は、弥生時代がそっくりあてはまる紀元前三世紀から紀元三世紀までの600年間にわたる遺跡だが、その600年のあいだに、小集落から大集落、小国家から小国家連合のような国家形成がすすんだ。
 東海・北陸をふくむ西日本各地で有力な地域勢力が形成されたのが紀元1世紀頃で、2世紀末から3世紀にかけて畿内でヤマト政権が成立、3世紀中頃から古墳時代に移ってゆく。
 これが、これまでの古代史観で、国家がうまれたのは、稲作農業社会が成立をみた弥生時代とされてきた。
 この歴史認識も見直されなければならない。
 国家および原始神道がうまれたのは、弥生時代以前、紀元前10世紀頃の縄文時代後期だったと思われるからである。
 なにしろ、弥生時代が500年以上、遡ってしまったのである。
 この500年にすっぽりおさまるのが欠史8代である。
 2代綏靖天皇以降、9代開化天皇までの史料が乏しいのは、焼失などの特殊な事情があったのでなければ、天皇が収穫祭を執行する大祭司だったからであろう。
 祭祀王は、祭祀という聖域にあって、政治の舞台に登場しなかったのである。
 いずれにしろ、土器に炭化した米が付着していた紀元前10世紀以降、収穫祭(イネ祭り)が継続的におこなわれてきたはずで、古事記には、天照大神が新嘗祭をおこなった神話が残っている。
 集落ごとのイネの収穫祭は、集落唯一のマツリゴト(政)でもあった。
 ここで、食糧問題としての収穫祭と天皇、国家の三つがリンクする。
 集落が小国家へ発展していくなかで、祭司は、より大きな収穫祭を主宰するようになって、やがて、オオキミ(大王)になってゆく。
 大祭司として収穫祭を執行するオオキミは、新嘗祭をとおして、国家の神と一体化して、あらためて王権の保持者となったことを内外に示した。
 年ごとの収穫祭(新嘗祭)は、オオキミの再生の儀礼、反復される即位式にほかならなかったのである。
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2017年08月18日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」H

 ●神道は究極の平和主義
 神道は、縄文時代の後期から弥生時代にかけて、原型ができあがっていたと思われる。
 神道ということばの初見は『日本書紀(用明天皇紀)』である。
「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」とあって、聖徳太子の父・用明天皇(31代)が外来宗教の仏教と神道を並び立てていることがわかる。
 神道には、創唱者や経典が存在せず、奈良時代以降、仏教との習合が本格化したこともあって、神道本来の思想内容がなかなかつたわってこない。
 特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついていたことから、地域的・閉鎖的という指摘もあるが、神祇信仰が全国規模で広がっていたことからも、かならずしも、限定的ということはできなかろう。
 神道の特性を挙げてみよう。

1、共同体の安寧を祈るもので、個人宗教とは一線を画す
2、八百万の神々への信仰とアニミズム(万物に精霊が宿る)の類似性
3、「惟神の道(かんながらのみち/神と共にある)」と汎神論(神と自然は同一)の類似性
4、祭祀/祭祀主とシャーマニズム(宗教的職能者を中心とした信仰)の類似性
5、開祖や経典が存在せず、教義・解釈がことばによって明らかにされない(「言挙げせず」)
6、神話(天皇を天津神の子孫とする)と一体化している。
7、禊ぎや祓い、浄めという特有の意識や感覚を有する

 神道は、苦悩や絶望からの救済である仏教やキリスト教とはちがい、来世を見ない現実主義で、浄めによって、すべてを水に流す楽観的な世界観に立っている。
 伊勢神道では、内宮祭神の天照大御神と外宮祭神の豊受大神(天之御中主神や国常立尊)とのあいだで幽契(かくれたるちぎり)がむすばれて、国の形がきまったとされる。
 幽契の内容は、この世を高天原のような理想郷にするというもので、現在を神代の延長としてとらえた思想が中今≠ナある。
 神道においては、地上は、キリストの愛や仏陀の慈悲にすがらなければならないような苦悩の地でも穢土でもないのである。
 キリスト教でも、創造主は、この世を理想の地としてつくったはずである。
 その地が穢れたのは、人間が罪を犯したからというのが、キリスト教の原罪で、そこから、神に許しを乞うという信仰構造と神に選ばれた者だけが天国へいけるという差別的な救済思想がうまれた。
 そこに神道との決定的ちがいがある。
 神道には苦悩、絶望、死の恐怖を抱える個人という視座が用意されていない。
 その意味では、全体主義で、見ているのは、共同体や国家の安泰だけである。
 個人主義がでてくるのは、近代以降で、権力が個人の自由を奪った反動からである。
 そういう事情を度外視すれば、本来、全体の利益は個人の利益につながる。
 国が富めば民も富み、民がゆたかになれば国もゆたかになる。
 そこに個と全体の矛盾はない。
 そもそも、自然界においては、個と全体は矛盾せず、すべてが雄大なリズムのなかを滑らかに回転している。
 そのリズムを壊すのは、個人のエゴで、神道的にいえば穢れである。
 穢れは、禊ぎによって浄化され、水に流される。
 ところがキリスト教では、禁断の実を食べたアダムとイブがエデンの園から追放される寓話や堕落した人類が神の怒りにふれて洪水によって滅ぼされるノアの箱舟という物語をつくって、神に許しを乞うという特有の宗教原理をつくった。
 原罪という足鎖を用意して、人々を宗教の奴隷にしたのである。
 大乗仏教は、輪廻転生という釈迦の思想と儒教の祖霊をくっつけて、人々を二重に拘束して、それを教団の利益にむすびつけた。
 檀家制度は、江戸幕府のキリスト教禁止令とセットになっていて、キリスト教徒ではないという証として広がったのが寺請(証文)だった。
 人為宗教は、神話やタブーを教団の利益にむすびつけるのである。
 神道は、自然崇拝という民族古来の素朴な信仰心がそのまま宗教になったので、人為がはたらいていない。
 記紀の編纂にたずさわった藤原不比等には、天皇を天孫族として権威づける意志がはたらいていたであろうが、神話には脚色がつきもので、それを素直に読むのが純心にほかならず、批判は、あくまで付け足しの小智恵にすぎない。
 神道は約束(幽契)の宗教で、自然と自然の一部である人間が協和しながら自己完結的に生を営むことによって、平和や繁栄という約束が果たされる。
 それが日本人=縄文人(万葉人)の素朴な宗教心で、それが、数千年、数万年に年にわたって、脈々と民族の血のなかで生きつづけてきた。
 身を浄め、穢れを捨て去ることによって、高天原とこの世のあいだの幽契が実現するというのは、究極の楽観論だが、これほど平和で聡明な宗教は世界のどこにもないのである。

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