2020年04月04日

右翼とはなにか、左翼とはなにかB

 ●「君民一体」は大御心と大御宝
 保守系とりわけ右翼は、天皇制ということばをきらう。
 日本共産党がいいだしたことばだからというより、天皇は、制度ではないからである。
 天安門広場に肖像が掲げられている毛沢東を、だれも、制度と思わない。
 毛沢東は、カリスマ的偶像で、国家は、法を超えた神話や精神性、統治者と民をむすびつけるおとぎ話を必要とするのである。
 国家も、物心(心身)二元論で、身体と精神からできている。
 身体が、領土や経済力、軍事力なら、精神が歴史や言語、文化である。
 前者が権力にもとづく政体で、後者が権威にもとづく国体である。
 これが権力と権威の二元論で、伝統国家は、政体と国体の両方をもっている。
 日本共産党が天皇制ということばを使うのは、革命国家には、文化としての国体がなく、あるのは、制度としての政体だけだからである。
 制度は、法や習俗、規範などにもとづいてつくられた仕組みで、政体である。
 具体的には、律令制度や封建制度などをさすが、そのなかに民主主義や議会制度もふくまれる。
 民主主義も議会主義も、政体の一部で、政治機能にすぎなかったのである。
 日本人は、民主主義に文化的価値をみようとするが、民主主義も議会主義も多数決の原理でしかない。
 ちなみに、共産主義も多数派独裁で、多数派の代表が独裁者となる。
 共産主義と議会主義の中間が大統領制で、トランプも独裁者である。
 政体は、相対的で、日本でも、律令制度から摂政、院政、幕府、そして政府へと移りかわってきた。
 だが、国体は、絶対的で、歴史や伝統や文化、民族は永遠である。
 国家は、永遠でなければならないがゆえに、国体=天皇を必要とするのである。
 天皇は、国体の象徴で、政体を掌握する権力に正統性をさずける権威である。
 ここでいう天皇は、個人ではなく、皇祖皇宗の大御心で、この地位は、神武以来、万世一系のもとで、2000年以上、延々とひきつがれてきた。
 国民は大御心を敬い、天皇は、国民を大御宝として大事にした。
 大御心と大御宝の組み合わせが「君民一体」である。
 民主主義は、多数決以外のなにものでもないが、君民一体は、ルソーが社会契約論で、望むべくもない最高の政治形態(君民共治)とのべたとおり、歴史の叡智をそなえている。

 明治政府は、天皇を国家元首に仕立てて、権力の側にひきこんだ。
 そして、現人神と吹聴して、軍部独裁政権をうちたてた。
 だが、日本人は、天皇が現人神などと思っていなかった。
 したがって、戦後、天皇が人間宣言≠ウれても、すこしも驚かなかった。
 日本人が信じたのは、現人神ではなく、国体神話であって、天皇は、国体という文化構造が擬人化された、歴史と国体の存在なのである。
 戦後、天皇は、憲法上の存在となって、上皇や今上天皇、秋篠宮殿下もそのようにお考えのようだが、憲法は、政体上の法規で、刑法や民法、交通法などの上位法にすぎない。
 明治憲法は131年前。皇室の存続が念頭になかったGHQ憲法にいたっては、わずか74年前につくられたもので、これらの法規が、皇紀2680年の天皇を規定すると思うほうがどうかしている。
 現行憲法第99条(天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務)では、天皇も憲法に従うべしとあるが、これは、GHQの支配体制を恒久化するための置き土産で、憲法が占領政策の道具に使われているのである。
 国連の常任理事国の米・英・ロ・仏・中の5か国など、市民革命を体験した先進諸国は、国家が丸ごと制度で、それが、国体を否定して、民主主義や共産主義を立てた近代国家である。
 近代国家といっても、近代的な国家という意味ではない。
 啓蒙主義・近代主義にもとづいて、伝統的秩序や価値観を捨てて、人工的につくった国家で、民主主義国家も共産主義国家も、大統領制国家も共和制国家も同じ穴のムジナである。
 自由や平等、民主主義などの啓蒙主義・近代主義は、一神教にもとづく一元論である。
 正しいのは自分だけという一元論は、共存も自他共栄もなく、永遠に闘争をくり返して、最後には、自分さえも滅びてゆく。
 革命からうまれた民主主義は、絶対的なものをすべて否定するからである。
 小泉純一郎内閣の「皇室典範に関する有識者会議」が万世一系を否定したのは、メンバーが民主主義の信奉者だったからである。
 ヨーロッパの右翼は、権力内の存在で、選挙に出て、当選する者もいる。
 日本の右翼がヨーロッパの右翼のように権力の側にあったら、天皇が憲法に規定される地位に貶められても、異議を立てることはできない。
 右翼が異義を立てることができるのは、権力の外側にいるからである。
 権力の外側にあるのは、権威=国体で、歴史や伝統、文化である。
 日本の右翼が、権力=政体に反逆するのは、天皇が権威たることをもとめる国体の防人だからである。
 三島由紀夫は、自衛隊市ヶ谷のバルコニーで、自衛隊員にこう叫んだ。
「自衛隊は、国軍を否定する憲法をまもる軍隊になり下がったのだ。どうしてその誤りに気がつかないのだ」
 そして、天皇陛下万歳を三唱して、割腹自決した。
 三島がまもろうとしたのは、制度(政体)ではなく、文化(国体)だった。
 日本がいかに伝統をまもってきたか、次回は、その歴史を振り返ってみよう。

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2020年03月30日

右翼とはなにか、左翼とはなにかA

 ●政体をまもる反共右翼、国体をまもる伝統右翼
 かつて、森喜朗の「神の国」発言が世間を騒がせた。
「神の国」が現人神$_話を連想させたのであろう。
 2000年5月、森喜朗首相の「日本は天皇が中心の神の国」という発言に共産党や社民党、民主党ばかりか、与党の公明党までが猛反発して、森内閣は、解散に追いこまれた。
 このとき、朝日・毎日を筆頭に産経をふくめた新聞マスコミが「国民主権や政教分離に違反する」「戦前の軍国主義を思いおこさせる」と大キャンペーンを張った。
 森首相は記者会見で「(天皇中心の神の国は)日本の悠久の歴史と伝統文化という意味で申し上げており、戦後の主権在民となんら矛盾しない」と弁明した。
 だが、その記者会見で「神は天照大神でも日蓮でも、お釈迦さまでもキリストでもよい。じぶんが信じる神仏でよい」と口を滑らせて、馬脚をあらわした。
 このとき、森が「神々の国」といっていれば、大きな騒ぎにはならなかった。
 神々の国なら、多神教で、日本の国情に合致するからである。
 ところが、森のいう神は、お釈迦さまでもキリストでもよいという一神教の神で、日本古来の八百万の神々ではなかった。
 明治憲法下、政府や軍部は、天皇を現人神≠ノまつりあげて、帝国主義と戦争政策のシンボルとした。
 現人神は、明治政府がつくりあげた一神教的な偶像で、日本本来の多神教の神格ではなかった。
 天皇ファシズムは、軍部による天皇の政治利用で、これに国民も騙された。
 神の国発言に世論が拒絶反応をしめしたのは、天皇の政治利用という歴史的悪夢を忘れていなかったからであろう。

 日本文明と西洋文明のちがいは、一神教か多神教かのちがいである。
 一神教の西洋は、正しいものが一つしかない不寛容な一元論である。
 正しいものが一つしかないので、そこから、抗争の論理がうまれる。
 それが権力で、右翼と左翼は、どちらかが滅びるまで争う。
 ヨーロッパの近代は、革命と戦争の時代で、その結果、伝統国家が、すべて消えてしまった。
 革命と戦争の時代が終わって、民主主義の時代がやってきた。
 そして、自由主義国家と全体主義国家がにらみあう構造がうまれた。
 自由主義が資本主義で、全体主義が共産主義なのはいうまでもない。
 右翼と左翼にわかれた権力構造が、2つの体制をつくったのである。
 西側陣営が自由民主主義、東側陣営が人民民主主義で、ルーツは、いずれもルソーが古代ギリシャからパクッた民主主義である。
 民主主義は、ただの政治手法で、秩序や法則、徳性をしめすものではない。
 もともと、武力の代替で、物事を、大勢の人間が死ぬ武力衝突ではなく、死人がでない多数決できめようというのである。
 その多数決を議会にゆだねるのが自由民主主義で、独裁者が人民からこれをあずかるのが、人民民主主義である。
 このとき、民主主義を巡って争いがうまれるのは、右翼と左翼は、宿命的な立関係にあるからで、その典型が米ソ冷戦構造だった。
 そこから派生したのが左翼(共産主義)と右翼(資本主義)の抗争である。
 右翼=保守が、反共主義を掲げたのは、共産革命を防ぐためだった。
 それが反共右翼で、大川周明や北一輝らの国家社会主義も反共・尊皇だった。
 かつて、右翼は、反共の尖兵として、権力に利用されてきた。
 60年安保が、その代表的ケースで、暴力団まで、右翼陣営にくわわった。
 だが、ソ連邦の崩壊などで、革命の危機が去って、反共という旗印が効力を失った。
 反共は、政治イデオロギーで、もともと、歴史や民族、文化から切り離されている。
 権力も反共右翼をまもる気などさらさらなかった。
 すがたを消したのは、反共右翼だけではなかった。
 暴力革命をめざした極左も消滅した。
 権力をもとめたからで、極左どころか、日本共産党さえ、国家権力からマークされる存在なのである。

 多神教の日本は、すべてが共存できる寛容の多元論である。
 一元的な権力は左翼と右翼に分裂して、いがみあう。
 ところが、二元論の権威と権力は互いに補完しあう。
 戦後の日本人は、民主主義をあたりまえと思っているが、民主主義は権力の体系で、有徳性や文化性のないただの多数決である。
 日本は、多数決万能の革命国家ではなく、伝統国家である。
 したがって、多数決より、秩序や道徳、習慣やしきたりを重くみる。
 これを保守主義というならば、右翼は、生粋の保守思想家で、国体や文化の防衛者、天皇の防人なのである。
 室町から戦国時代にかかて、権力(戦国大名)が覇権を争ったのは、権威(朝廷)が不在だったからだった。
 戦国時代に幕が下りたのは、織田信長が正親町天皇とむすんで、朝廷の権威を復活させたからである。
 日本の右翼は、反共や国家社会主義だけではない。
 国体護持という別の系統があって、むしろ、こっちのほうが本流である。
 楠木正成や北畠親房、あるいは、西郷隆盛や頭山満、内田良平らが心をむけたのは、皇道思想や伝統主義、日本主義という別の系譜である。
 次回は、国体の守護者としての伝統右翼をみていこう。
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2020年03月22日

右翼とはなにか、左翼とはなにか@

 ●政権をもとめる左翼、国体をまもる右翼
 日本で、保守思想や国粋主義が右翼と呼ばれるようになったのは、フランス革命時の議事場で、議長の右側に「保守、穏健派」、左側に「共和、革新派」が配置された故事からである。
 西洋から政治学を学んだ学者らが、これを引用して、右翼と左翼の呼び名が定着したが、フランス革命は、231年前の1789年の出来事である。
 田沼意次が老中をつとめた江戸時代後期にあたるが、当時の日本に、国体という概念はあっても、右翼や左翼などということばも観念もなかった。
 したがって、日本古来の国粋思想や皇国思想を右翼というのはあたらない。
 そもそも、右翼や左翼は、権力の用語で、権力が保守派と革新派に分かれて争った18世紀ヨーロッパの市民革命からうまれたモダニズム(近代主義)の概念である。
 西洋では、権力によって、国家がつくられた。
 それを補佐したのが宗教で、王権神授説のキリスト教国家も、国家が宗教の道具にすぎなかったイスラム教国家も、国家が権力構造そのものであった。
 国家が一神教と合体して、政体(権力)だけがあって、国体(権威)が不在の一元論に陥っているのである。
 一神教も権力も、他との共存をゆるさない一元論である。
 したがって、周囲をすべて敵と見立てて、徹底的に殲滅しようとする。
 それが十字軍やジハードなどの聖戦思想で、その一元論的な世界観が、異端審判や宗教戦争をへて、ルネサンスや啓蒙思想から市民革命と産業革命、科学主義や近代主義、そして、侵略や世界大戦へ一直線にすすんできた。
 戦争と差別、飢餓と貧困、憎悪と恐怖などの世界悪の根本にあるのが一神教文化=権力主義で、新コロナウイルスで世界中が震え上がっているなか、アフリカでは、1日8000人の幼児が餓死している。
 キリスト教文明がアフリカを侵略した傷跡がまだ癒えていないのである。
 インカ・マヤ・アステカの三大古代文明を滅ぼした西洋文明も、後進国から略奪のかぎりをつくした植民地主義や帝国主義も、源流はキリスト教である。
 ユダヤ教やキリスト教、イスラム教が、排他的にして独善的、好戦的なのは唯一神ヤハウェを信じる一神教だからで、戦争や自然破壊など、現在、世界が直面している災禍は、すべて、一神教(文明)によってもたらされたといって過言ではないだろう。

 北畠親房の『神皇正統記』の冒頭に「大日本は神国なり」とある。
 日本という国家をつくりあげているのは、神意で、権力ではないと宣言しているのである。
 神意というのは、神話からうけつがれてきた多神教的な文化構造で、国体がこれにあたる。
 国体は、歴史や伝統、価値や秩序の体系で、これが、権威である。
 権力がつくりあげるのが政体で、権威のもとにあるのが国体である。
 日本の右翼は、権威と権力、国体と政体をわけたときの権威、国体の防人である。
 世俗の権力をもとめて、選挙に打ってでるヨーロッパの右翼と日本の右翼は思想が異なるのである。
 西洋に権威(=国体)がないのは、権力(=政体)の一元論だからである。
 くわえて、近世・近代にいたって、先進国のすべが革命国家となった。
 革命というのは、市民革命のことで、伝統的な秩序や価値観を捨てて、民主主義をとったのである。
 民主主義に慣れている戦後の日本人は、国家と聞けば、ヨーロッパ的な権力国家を連想するだろう。
 だが、日本は、世俗の権力ではなく、聖なる権威によって拓かれた神の国である。
 弥生時代から古墳時代、飛鳥時代にわたる日本の古代(大和時代)が、権力ではなく、権威によって統一されていたことは、当時、4800基にものぼる前方後円墳がつくられたことからも明らかである。
 このかん、領土戦争はほとんどおきていない。
 権力同士がつぶしあったのではなく、多神教的な権威の下で、国造りがすすめられていったのである。
 中東からキリスト教が入ってくる以前のヨーロッパも多神教で、豊穣多産の女神信仰やケルト人の精霊信仰、ギリシャ神話などが知られる。
 その頃、ヨーロッパも、日本と同様、神話的な世界で、宗教的権威と世俗的権力が切り離されていたはずである。
「クフ王ピラミッド」と「秦の始皇帝陵」、「仁徳天皇陵」が世界の三大墓陵といわれるが、いずれも、多神教的な権威のもとにおける大事業だった。
 エジプトは、太陽神ラーを中心とする多神教、焚書坑儒の始皇帝は法治主義(法家)、そして、日本は神道の自然崇拝で、絶対神(ヤハウェ)を崇める一神教とは宗教観が根本的に異なっている。
 唯物史観から見る世界史は、革命や戦争、征服などの権力の歴史で、文化史や生活史、人類史がみえてこない。
 したがって、大和朝廷の成立過程や古墳の文化的・文明的意義、源氏物語の歴史的背景、日本経済をささえてきた農本主義の構造などの歴史の謎は、なに一つ明らかにされていない。
 日本の歴史学会はマルクス史観、歴史実証主義一辺倒で、戦前の皇国史観を否定するためだけに存在しているようなものなのである。
 一神教や一元論、権力主義のどこからも、共存という考え方はでてこない。
 したがって、日本人の「和の精神」や「共栄思想」が西洋人にはわからない。
 個人と神が信仰契約する一神教では、じぶん以外は、すべて、敵となるからである。
 現在、世界が直面しているのは、キリスト教的な闘争史観や近代主義のゆきづまりで、突破口となるのは、日本の多神教的文化(=日本主義)であろう。
 次回以降も、神の国をテーマに、日本のおける右翼と左翼の衝突をみていこう。


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2020年03月06日

日本主義の復活と近代主義の終焉C

 ●万世一系と男女平等の両方を尊重する日本人
 自由や平等、権利や民主主義などの近代主義は、ヨーロッパ中世のルネサンスや宗教改革、近世の啓蒙時代をへて、近代の市民革命、産業革命へといたる道筋をとおってあらわれた。
 異端審問や魔女裁判が横行した暗黒の中世において、人間は、神のシモベというより人権も人格もない宗教の奴隷で、宗教裁判で火刑になった無垢の民はおびただしい数にのぼる。
 カトリックとプロテスタントが争った宗教戦争も凄惨で、ドイツ30年戦争では人口の三分の一が減少、経済も壊滅的になった。
 啓蒙思想や市民革命をとおして、ヨーロッパに自由や平等、民主主義があらわれた背景には、ローマ法王庁と絶対王権の凄まじい圧政、そして、キリスト教という絶対神の硬直した宗教観があったのである。
 ヨーロッパと日本では、歴史や風土、文化がまったく異なっていて、同列に語ることができないのはいうまでもない。
 とりわけ、異なるのが、宗教観である。
 西洋は、キリスト教やユダヤ教、イスラム教など一神教、絶対神である。
 一方、日本は、多神教で、自然崇拝や神話信仰である。
 民族の価値観は、宗教に根ざしていて、西洋人は一元論で、日本人は多元論である。
 西洋は、正義や真実、絶対善をもとめて、それ以外を排除する。
 キリスト教徒にとって、異教徒は悪魔で、大航海時代、インカ、マヤ、アステカ文明を滅ぼして、なんの痛痒もかんじることがなかった。
 アメリカインディアンを全滅させ、広島と長崎に原爆を投下するのが、異教徒を人間と思わないキリスト教徒の本性で、大東亜共栄圏などという人のよいことをやっていて、アメリカとの戦争に勝てるはずはなかった。
 戦後日本は、アメリカから、自由や平等、権利のほか国民主権や民主主義をおしつけられた。
 憲法として、明文化されたものをうけいれたわけだから逃げ場がなかった。
 西洋人は、自国の文化を他国におしつけて、文明化してやったという傲慢な民族で、異文化にたいしては、徹底的に不寛容だった。
 異文化への寛容は、異教の容認につながりかねないからである。
 GHQは、天皇に人間宣言をさせて、神道指令を発令、公職追放令で戦前の要人を追放して、日本の中枢機関へ左翼を送りこんだ。
 それで、日本は劇的に変貌を遂げるはずだった。
 ところが、日本はまったく変わらなかった。
 1946年4月の世論調査(日本輿論研究所)では、天皇制支持3174票(95%)にたいして、天皇制否定が164票(5%)で、他の新聞社アンケートも同じような結果だった。
 日本人は、天皇を神だと思っていたのではないか。その天皇が、人間宣言をしたにもかかわらず、なぜ、天皇への敬愛心を失わないのかと、GHQは首をひねった。
 日本文化の特質にタテマエとホンネという二重性がある。
 西洋人は、異端審問で、有罪なら悪魔の使いというレッテルを貼って火刑にしてしまう。
 ところが、日本人の価値観は、情と理、法と徳、個と集団などの二重構造になっているので、西洋人のように、YESかNOかの一元論にも絶対主義にも陥らない。
 日本人は、天皇は現人神というタテマエをとりながら、ホンネでは、生身の人間であることを知っていた。
 したがって、天皇が人間宣言しても、日本人は、だれも驚かなかった。
 日本は、憲法9条で「戦争の放棄・軍備および交戦権の否認」を宣言する一方、世界第6位の軍事力を有する。
 護憲論者が自衛隊を憲法違反というのは、日本人的な価値観をもたない唯物論者だからで、二重規範(ダブルスタンダード)をもつ日本人にとって、そんなことはあたりまえである。
 全体と部分、集団と個の矛盾は調整がつかないが、日本人は、権威と権力の二元論で、これを解消させた。
 権力だけの西洋では、圧制と反抗、革命という一元論のみちをたどる。
 ところが、権威と権力が分離している日本では、権力が自制して、独裁的な政治がおこなわれない。
 権力は、権威から権力の正統性を戴いて、天皇の大御宝たる国民を支配する。
 どうして、権力が民を虐げることができるだろう。
 西洋から政治学を学んだインテリは、ヨーロッパの権力を日本にあてはめてモノをいうが、すべて、的外れで、日本には、唯物史観も宗教戦争もなかったのである。
 自民党の二階俊博幹事長は、皇位継承について、男女平等と民主主義をあげて、女系天皇を容認するが、男女平等も民主主義も、日本人にとってタテマエであって、正面きって、だれも反対しないが、ホンネは、ちがうところにある。
 日本人は、万世一系の伝統と、男女平等や民主主義などの近代主義の両方を尊重するのである。
 憲法改正も、姑息な「9条加憲法(三項)よりも、解釈改憲の二重規範のほうが有効なケースもありうる。
 政治家は、タテマエとホンネを併せもつ日本人の懐の深さをもっとよく理解すべきだろう。


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2020年03月02日

日本主義の復活と近代主義の終焉B

 ●旧皇族の皇族復帰に反対する朝日・毎日
 天皇家という呼称は、天皇の唯一の血筋という誤解を招くおそれがある。
 実際は、一つの宮家(皇族)で、皇統という大樹からのびた一本の枝である。
 今上天皇(第126代天皇徳仁)は、世襲四親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮)のうちの閑院宮という系統で、始祖は、第113代東山天皇の第六皇子直仁親王である。
 閑院宮の第2代目当主典仁親王の第六男子、兼仁親王が第119代光格天皇として践祚して以来、現在の皇室まで、直系(親子関係)よって、皇位が継承されてきた。
 閑院宮は、1947年(昭和22年)に皇籍離脱したが、一方で、光格天皇以来、今上天皇まで、直系7代にわたって、皇統を継承してきた。
 現在、残っている宮家は、秋篠宮、常陸宮、三笠宮、高円宮の4家である。
 戦後、GHQが11宮家を皇籍離脱させたのは、天皇を戦犯として裁くつもりだった連合軍に皇室を存続させる意図はなかったからである。
 したがって、サンフランシスコ講和条約締結時に、憲法と教育基本法、11宮家の皇籍離脱を撤廃しておくべきであった。
 ところが、吉田茂首相は、占領体制のなかで経済を復興させる吉田ドクトリンを掲げて、政治向きのことにはなにも手をつけなかった。
 そのしっぺ返しが、皇統の危機で、小泉純一郎元首相の「皇室典範に関する有識者会議」(2005年/平成17年)が女性・女系天皇を容認する報告書を提出するにいたって、国体の万世不変の原則たる万世一系が危機に瀕した。
 その翌年、秋篠宮文仁親王と同妃紀子さまのあいだに悠仁親王がお生まれになって、皇統の危機は、一応、先延ばしになったが、危機の構造が解消されたわけではない。
 将来、悠仁(ひさひと)天皇が男子に恵まれなかった場合、宮家断絶という不測の事態によって、再び、皇統断絶、皇室消滅の危機が生じることになる。
 皇祖皇宗が、民間人のだれとも知れない祖先にすりかわる女系天皇は、皇統の否定で、ここでは論外である。
「九条の会」の呼びかけ人の一人で護憲派の理論的支柱である奥平康弘(東京大学名誉教授)が、月刊『世界』(平成16年8月号)に寄稿した論文によると女系天皇論者は、女系天皇を手にするや、万世一系の伝統から外れた天皇には正統性がないと主張して、今度は一転して、皇室制度を廃止にもっていこうとすると腹だとみずから告白している。

 そのときに使われる口実が男女平等≠ナある。
 ここで、伝統主義と近代主義の衝突がおきるのである。
 自民党の二階俊博幹事長は「男女平等、民主主義を念頭におけばおのずから結論は出ると」と、女系天皇について理解をしめしたが、新聞世論も80%が女系天皇を支持する。
 もっとも、このうち、半数以上が女系・女性天皇のちがいを理解していない(産経・FNN合同世論調査)ことがわかっているが、朝日は、小泉政権下の有識者会議の提言をもちあげ、一方、毎日は「前近代まで確固とした皇位継承の原則がなかった」という珍学説までくりだして、女系天皇を推す。
 皇位継承の原則がなかったというのは、第26代継体天皇(先代武烈天皇と10親等差)、第100代後小松天皇(先代後亀山天皇と11親等差)、第119代光格天皇(先代後桃園天皇と7親等差)などをさすのであろうが、親等というのは、男系女系をふくめた家系図における考え方である。
 父母と子は1親等、祖父母や兄弟姉妹は2親等、一代を経るごとに1親等がくわわるが、皇統は、親等で数えることはできない。
 神武天皇の血(遺伝子)をひきついているかいないかだけで、是か非だけである。
 大伴金村が、越前に住んでいた応神天皇5世にあたる継体天皇を探し出したのは、親等ではなく、神武天皇の血統を継いでいるかいないかだけで、それが万世一系である。
 女系天皇を推しているのは、皇室打倒を掲げていた共産党と、かつて皇室を「生理的にいやだと思わない? ああいう人達というか、ああいうシステム、ああいう一族がいる近くで同じ空気を吸いたくない」と語った辻元清美が幹事長代行を務める立憲民主党で、両党の背中を押しているのが朝日と毎日である。
 秋篠宮文仁親王と悠仁親王という皇位継承者がいるのに皇室典範を改正してまで「女系天皇を誕生させよう」というのは、魂胆があるからで、女系天皇を実現させて、そのあとで、皇室を転覆させようという二段階革命である。
 明治天皇の玄孫にあたる作家の竹田恒泰は、現在の皇統の危機をつくったのは、11宮家を皇籍離脱させたGHQと断じる。
 皇籍離脱した11宮家は、伏見宮、北白川宮、梨本宮、閑院宮、山階宮、東伏見宮の6宮家と賀陽宮、久邇宮、朝香宮、東久邇宮、竹田宮の5宮家である。
 前の6宮家は男子がなく断絶となったが、あとの5宮家には男子に恵まれた。
 賀陽宮(未婚2人)、久邇宮(未婚1人・既婚1人)、朝香宮(既婚1人)、東久邇宮(未婚5人・既婚5人)、竹田宮(未婚2人・既婚4人)と20人をこえており、今後、子どもの人数はさらにふえる。
 旧皇族をふくめると皇室には後嗣がゆたかなのである。
 旧宮家の皇籍復帰と養子制度の容認、旧皇族との婚姻に限定した女性宮家の創設は、皇室典範の改正によって、すみやかに実現できる。
 これに朝日・毎日らが猛烈に反発して、世論を煽るはずで、11宮家の皇籍復帰について、一度、民間人になったひとが皇族に復帰することは国民感情がゆるさないと力説する。
 民間人が后妃となった美智子様、雅子様、紀子様が皇族として国民に仰がれて、一方、旧皇族が皇族に復帰して国民が違和感を覚えるという論は、失当である。
 皇室の存続は、11宮家の皇籍復帰をめぐる朝日・毎日らの近代主義と伝統を重く見る日本主義のたたかいにかかっているのである。
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2020年02月25日

日本主義の復活と近代主義の終焉A

 ●近代主義は革命と戦争の産物
 近代は、革命と戦争の時代で、近代主義は、18世紀の啓蒙主義や市民革命からうまれた自由や平等、民主主義、権利意識などをさす。
 もともと、革命思想とあって、歴史や伝統、宗教や習俗などを否定して、合理主義や科学主義、唯物論をもちあげる。
 ちなみに、国連常任理事国の米・英・仏・ロ・中の五大国をはじめ、世界の先進国は、王政復古した英国をふくめて、すべて、革命国家である。
 旧体制が新体制にきりかわった近代のキーワードが民主主義で、英国革命やフランス革命、アメリカ独立戦争から共産主義革命、ヒトラーのナチズムまでが民主主義を掲げ、あるいは、民主主義を利用した。
 革命国家ではなかったのは、日本だけだが、だからといって、日本が民主的な思想や価値観を欠いた後進的な国だったということにはならない。
 それどころか、ヨーロッパで、絶対王権の圧制と奴隷制度、キリスト教教会の異端裁判や魔女狩りでおびただしい人々が犠牲になった同じ時代、日本では市民社会が成立して、衣食住にわたって、庶民文化が花開いた。
 日本には、古くから君民一体≠フ国体のほか、分相応や相身互い、もちつもたれつなどの民主主義的な社会通念があって、7世紀の初めには、第1条に和の心を謳った一七条憲法がつくられている。
 絶対王権とキリスト教教会の二重支配をうけて、塗炭の苦しみに喘いでいたヨーロッパの民にくらべて、君民一体の日本人がいかに文化的で、しあわせであったことか。
 君民一体というのは、天皇と民が一体化しているということである。
 稲作国家における天皇は、豊作祈念の祭祀王で、その名残が新嘗祭である。
 民の大多数が稲作に従事して、米が経済の中心だった原始農本主義の国家において、天皇=祭祀王がいかなる地位にあったか、多くの説明は必要がないであろう。
 そして、権力は、天皇から民をあずかって、施政権を行使した。
 権力が、民に暴虐な政治をおこなわなかったのは、民が天皇の大御宝だったからで、君民一体の政治を古事記は「しらす(しろしめす)」と記述している。
「葦原中国は、我が(天照大御神)御子の知らす国と言依し賜へりし国」
 日本で、市民革命がおきなかったのは、天皇中心の日本には、民を苦しめる絶対的な王権や皇帝権(ローマ・カトリック教会)がなかったからである。

 戦後、近代主義がもちこまれて、明文化されたのが、現行憲法である。
 アメリカがもちこんだ民主主義や国民主権にたいして、日本人は、違和感をもたなかった。
 明治の民権思想や大正デモクラシーに慣れていたというよりも、君民一体の天皇の知らす国では、民は、ヨーロッパのように、権力から虐げられることがなかったからである。
 ところが、GHQの若い将兵は、日本人は、天皇を個人崇拝する野蛮人だと思いこんで、民主主義といっしょにダーウインの進化論を教え込もうとした。
 なにしろ、日本人を文盲ときめつけて、漢字の代わりに、ローマ字を国語にしようとしたほどで、日本のことなどなにも知らなかった。
 とりわけ、憲法をつくったGHQ民政局(GS)はニューディーラーの巣窟で、わずか9日間で、日本の憲法をつくることができたのは、民主主義や国民主権を謳ったフランス革命のテキストをコピーしただけだったからである。
 日本国憲法は、GHQ民政局の独善で、日本の国体に根ざした国家基本法ではなく、近代主義をてんこもりにしたユートピア啓蒙書だったのである。
 最大の誤りは、戦前まで、憲法と同格の法規だった皇室典範(両者を合わせて典憲)を憲法の下位の民法や商法、刑法などと同等の一般法にしてしまったことである。
 これでは、天皇の地位や皇統継承、祭祀が、国会の多数決や裁判所の判断によって左右されることになってしまいかねない。
 秋篠宮さまは、昨年の誕生日会見で、大嘗祭は国費ではなく、天皇ご一家の私的活動費でまかなうべきとの見解を示した上で「聞く耳を持たなかった」と宮内庁長官をつよいことばで非難されて「大嘗祭の御禊」をご欠席された。
 秋篠宮さまのご発言の根拠は憲法で、憲法によると、宮中祭祀は、天皇家の私的行事で、憲法原理主義に立つなら、天皇=国体までが、吹けば飛ぶような憲法に依拠するという話になってしまう。
 これにたいするネット上の反発は、すさまじいもので、27億円の大嘗祭をケチるなら43億円のお住まいの邸宅新築も辞退すべきという意見もとびだす炎上ぶりだった。
 大嘗祭は、国家国民の歴史的祭祀で、天皇ご一家の私的活動ではないとする意見がほとんどで、宮中祭祀が、憲法20条や89条が禁止する宗教的活動にあたるとする憲法解釈は、国民にうけいれられていなかったのである。
 天皇にたいする尊敬心と、秋篠宮さまへの反発は、日本人の天皇観を如実にあらわしている。
 日本人の天皇への敬愛心は、神話にはじまる日本の歴史や伝統にねざすもので、憲法という近代主義にもとづいたものではない。
 憲法は、伝統を否定した近代主義の寄せ集めで、合理主義に立っている。
 多くの日本人が秋篠宮さまに反発した理由は、秋篠宮さまのご発言が憲法を根拠にされていたからである。
 日本人の尊皇心は、道徳や公徳心のような公的な情緒で、個人崇拝や私的な感情ではない。
 天皇の権威や祭祀の正統性、皇祖皇宗の大御心は、歴史上の神格で、天皇の地位は、皇祖皇宗が就いてこられた歴史上の玉座にある。
 次回は、天皇家ではなく、皇統へ視点を移して、天皇を考えてみよう。
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2020年02月17日

日本主義の復活と近代主義の終焉@

 ●明治維新と百年の動乱
 令和元年10月22日、皇居において、天皇陛下の御即位を日本の国内外に宣明する「即位礼正殿の儀」が執りおこなわれた。
 このとき、前夜からの激しい雨が、突如、あがって、即位礼がおこなわれた約9分間、雲間からのぞいた青空の下、皇居をつつみこむようにみごとな虹がかかった。
 天の浮橋(虹)を渡って下界に降りて来られたイザナギとイザナミの神話を思わせる出来事で、イギリスBBCなどの海外メディアも奇跡と報じた。
 だが、奇跡はこれだけではないだろう。
 江戸幕府の大政奉還から明治、大正、昭和、平成、令和にいたる143年をへて、第126代徳仁天皇陛下が、何事もなかったように、即位されたことが一つの奇跡のように思われる。
 敗戦による国体の危機や60年安保は、いったい、なんだったのか。
 西南の役や戊辰戦争、日清・日露と大東亜戦争、敗戦とアメリカ民主主義の移入と共産主義の蔓延、全学連や右翼が衝突した安保闘争など、日本を動乱へ巻きこんだ根本原因が、いま一つ、明らかになっていない。
 日本の近現代史は、日本主義と近代主義がぶつかりあって新しい時代精神をつくりだしてゆく、いわば、産みの苦しみの百年ではなかったろうか。
 そうであれば、その根本原因が明治維新にあったことは明らかである。
 薩長の倒幕は、軍事クーデターで、これが成功したのは、天皇を担いだからである。
 さらに、薩長政府は、1890年(明治23年)、大日本帝国憲法を公布して天皇を元首(「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ」明治憲法4条)にまつりあげた。
 これで、国体(権威)と政体(権力)の二元論から成っていたわが国2000年の国のかたちが壊れて、ヨーロッパ型の一元論的、王権神授説的な国家へ移り変わっていった。
 そして、まっしぐらに帝国主義と世界戦争の道へつきすすんでいった。
 日本の近代(欧化)化は、天皇の政治利用によって実現したのである。
 薩長が天皇を担いだのは、江戸300藩をまとめる力がなかったからである。
 天皇の政治利用という妙案が的を射て、諸藩の版籍奉還と岩倉具視の「王政復古の大号令」によって、徳川幕府は息の根を断たれる。
 明治維新の立役者は、天皇のお側(孝明天皇侍従/明治天皇の側近)として仕えながら、維新の三傑(薩摩の西郷隆盛と大久保利通、長州の木戸孝允)を操った岩倉具視で、明治政府の欧化主義も、岩倉使節団の影響だった。
 改憲論に、明治憲法に還るべしという声もあるが、明治憲法も、プロイセン(ドイツ)憲法が手本で、外国思想の移入という点において、民主主義や国民主権を盛りこんだGHQ憲法と変わるところがない。
 日本主義と近代主義の分岐点はそこにあるだろう。
 日本主義が、イギリスのコモン・ローにつうじる言挙げをしないあいまいな文化なのにたいして、18世紀の啓蒙主義に端を発する近代主義は、反伝統の進歩主義で、合理や科学、自由や平等、民主主義や唯物論を基調としている。
 封建社会を民主社会へおしすすめたのが近代主義で、その究極の形が革命である。
 明治維新の欧化主義と明治憲法、帝国主義、大正デモクラシー、昭和の軍国主義、戦後のGHQ憲法から共産主義運動までが、近代主義という一本の線でつながっている。
 そしてそれが、日本の現近代百年の混乱の底流となっているのである。

 戦前右翼の大物といえば、北一輝と大川周明、玄洋社の頭山満であろう。
 北一輝は、直接的関与がないにもかかわらず、二・二六事件をおこした若手将校らに影響をあたえたとして、銃殺刑に処された。
 憲兵隊に虐殺された大杉栄らと同様、官憲テロで、社会主義者とみなされていた北の「日本改造法案大綱」は、現在の日本国憲法と非常に似ている。
 大川周明は、キリスト教からマルクス、ダンテ、ヘーゲル、日本精神、インド哲学を渡り歩いた思想の天才だが、革命家で、5・15事件や陸軍革新派のクーデター計画(三月事件、十月事件)に連座して投獄されている。
 陸軍のクーデター計画をすすめた桜会がのちに合流したのが統制派である。
 合法的に軍部独裁政権を樹立しようとした統制派にたいして、武装蜂起して天皇親政をもとめたのが皇道派である。
 だが、2・26事件で天皇の怒りを買って、北をふくめた首謀者19人全員が銃殺刑に処される。
 皇道派の壊滅後、統制派の天下となって、大東亜戦争へつきすすんでいったのは、歴史書にあるとおりである。
 北一輝と大川周明が寄って立ったところが近代主義だった。
 一方、アジア主義の頭山満は、理屈をいわない実践家で、日本主義の支柱としたのが西郷隆盛だった。
 西郷隆盛が、右翼の源流とされるのは、頭山満が敬ったからである。
 西郷が大久保利通の新政府と決裂したのは、廃藩置県や徴兵令、秩禄処分や廃刀令などによって、武士階級が廃絶されたからで、明治政府は、徴兵令をすすめた山縣有朋やのちに総理大臣になる伊藤博文ら、足軽以下の中間という低い身分の者たちにささえられていた。
 不平士族の乱は、武士の魂を失った明治政府にたいする反乱で、維新十傑に数えられる江藤新平の「佐賀の乱」につづき、廃刀令や断髪令に反対した太田黒伴雄の「神風連の乱」、秋月藩士宮崎車之助らの「秋月の乱」、徴兵令に反対した前原一誠の「萩の乱」、そして、旧薩摩藩の士族が西郷隆盛を大将に担いだ「西南戦争」とたて続けに反乱が勃発するが、いずれも、激戦の末、鎮圧される。
 そして、大久保利通も、西南戦争の翌年、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷で、不平士族6人に斬殺された。
 西郷と大久保が斃れて、明治維新は、一応の決着を見る。
 だが、その後も、日本主義と近代主義は、激しくぶつかりあう。
 そして、日清・日露戦争、大正デモクラシー、昭和軍国主義、大東亜戦争の敗戦をへて、1945年の国体の危機に直面するのである。


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2020年01月31日

伝統主義と民主主義D

四捨五入≠フ民主主義と弱者救済≠フ君民一体B
 ●民主主義は四捨五入≠フ論理
 伝統国家と革命国家のちがいは、歴史が否定されたか否か、である。
 日本は、伝統国家で、歴史が否定されることなく、国体として残っている。
 歴史にもとづく秩序の体系が権威で、人々は、権威に敬意をもって従う。
 権威は天皇で、権力は、天皇の親任のもとで、治世にあたる。
 西洋のデモクラシーにあたるのが日本の「君民一体」で、少数や弱者が尊重されるのは、民は天子(天皇)の赤子(せきし)だからで、君民一体は、政治制度であること以上に、歴史や伝統、文化やモラルの反映でもあった。
 一方、歴史を否定した秩序の体系が権力で、人々は、恐怖や力ずくで権力に従わせられる。
 この力ずくは、軍事力のことで、かつて、絶対王権や専制政治、共産主義やファシズムをささえた。
 現在は、軍事力が多数決にかわって、これが、民主主義と呼ばれている。
 日本人は、民主主義を、人類が最後にたどりついた最高の政体と思いこんでいる。
 だが、民主主義も、軍事力が投票に代わっただけの全体主義である。
 民主主義は、そもそも、革命の産物で、中国の国名が「中華人民共和国」で北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」である。
 民主では、国がもたない中国では、民主主義の代わりに人民として、人民の代表が人民政府(中国共産党)ということにしてある。
 民主主義が全体主義というのは力の支配(軍事力)≠ェ数の支配(多数決・少数派切捨て)≠ノ代わっただけだからである。
 力や数による国家統一は、歴史や伝統をふまえないヒトラーやスターリンのやり方で、かれらは、民主主義の信奉者だった。
 軍事力による支配も、民主主義による支配も、ただの政治手法で、フランス革命のギロチン政治、ロシア革命の粛清、文化大革命の大殺戮と、民主の名のもとで、すさまじい恐怖政治がおこなわれた。
 わたしが多数決に立つ民主主義を四捨五入≠フ論理と呼ぶのは、多数派を全体の意志として、少数派をバッサリと切り捨てるからである。
 民主主義が多数決という「数の論理」なら、君民一体は、調整や談合などの「文化の論理」で、君民一体には、善やモラル、分相応や相身互い、和の精神や惻隠の情などがふくまれる。
 しかも、少数派や弱者へやさしいまなざしがむけられている。
 奈良時代、病人や孤児の保護や治療、施薬などをおこなう施薬院や悲田院を建てられたのは、光明皇后(第45代聖武天皇后)で、天皇の弱者救済思想の一つのあらわれであったろう。

 主権や国民についても、数々の誤解や誤認がある。
 憲法前文では、主権にかんして、二通りの使われ方がされている。
 一つは「主権が国民に存することを宣言――」でもう一つは「自国の主権を維持――」である。
 これでは、主権が国民にあるのか、国家にあるのか、わからない。
 しかも、国民が、国民一人ひとりをさしているのか、国民総体をさしているのかが不明である。
 日本の書籍や論文で、国民が単数(一人)なのか複数(総体)なのか明らかにしたものは一つもない。
 理由は、当のルソーがあいまいにしているからである。
 ルソーは、希代の詭弁家にしてパクリ屋というのが世界的評価で、詐話師のマルクスと並んで評判がわるい。
 ところが、日本では、GHQの公職追放で、大学を追われた良心的日本人に代わってはいりこんだ左翼・共産主義の教授が、マルクス主義やルソー主義をふりまわして、日本人を洗脳した。
 欧米のインテリに保守が多いのにたいして、日本のインテリに左翼が多いのはそのせいである。
 ちなみに、ルソーの詭弁にユダヤの経典(タルムード)をかけあわせたのがマルクスの資本論である。
 ルソーがパクリ屋というのは、民主主義はソクラテスの古代ギリシャ、社会契約説はホッブズ、一般意志は「自然法」や「神の意志」からのパクリだったからで、しかも、すべて、真意をねじまげている。
 ソクラテスは、民主主義は衆愚政治で、多数派の独裁だと批判して、権力と民衆の怒りを買い、死刑判決をうけて自殺した。
 民主主義をたたえたことはいちどもなかった。
 ホッブズは、自然状態を悪としたが、ルソーはこれを善として、自然に帰れと叫んだ。
 一般意志は、神の意志を、政治の意志にすりかえたものだが、「人類の思想のなかでもっとも邪悪でおそろしいのは一般意志への服従」(バーリン)と痛烈な批判を浴びた。
 事実、フランス革命期、恐怖政治によって反対者を大量に処刑したジャコバン派のロベスピエールは「ルソーの血塗られた手」と呼ばれる。
 ルソーを手放しで礼賛するのは日本の新聞記者やインテリだけである。
 ヒトラーやスターリンら独裁者に利用されてきた「一般意志」が反映されているのがフランスの革命憲法(1791年)である。
 第3条で人民主権を謳い、第6条で「一般意志」が宣言されている。
 そして、それらがそっくりコピーされたのが日本国憲法である。
 GHQのニューディーラーが、わずか9日間で、日本の憲法をつくることができたのは、フランスの1791年憲法をコピーしただけだったからである。
 日本人は、ルソーがでっちあげた民主主義や国民主権、一般意志の騙しから目を覚まして、伝統国家の自覚を深くしなければならないのである。

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2020年01月24日

伝統主義と民主主義C

四捨五入≠フ民主主義と弱者救済≠フ君民一体A
 ●ヨーロッパは家系純血、日本は皇統混血
 日本とヨーロッパでは、血統にたいする考えかたが異なる。
 日本は嫡子(長男)相続で、ヨーロッパは外戚(女系)をふくむ家系相続である。
 正嫡(正妻の子)以外の家督相続がみとめられなかったキリスト教国家では、女系をみとめなければ、家系が断絶してしまうのである。
 ヨーロッパでは、国家ができる前に、家系や門閥、閨閥でつながった家があって、各国王室も、国家ではなく、家や血縁でつながっている。
 女系をみとめるヨーロッパの王室は、家単位(国をまたいで)王位継承順位をきめなければ、血統の正統性をまもれないのである。
 女系も血筋が重んじられる家系相続では、社会的地位や財産をまもるため、近い血統同士の婚姻がくり返される。
 その結果、子孫が虚弱化して、一族が滅びてしまった例に神聖ローマ帝国のハプスブルク家がある。
 一方、男子が皇位を継ぐ日本の皇統混血型では、母系の家系は問われない。
 皇后は、皇族や五摂家の出身でも、男児を産むのは側室ばかりで、近親婚による天皇は、古代を別にして、歴史上、一人もおられない。
 過去400年間で、側室の子ではなかった天皇は、109代明正天皇、124代昭和天皇、上皇(125代明仁)、今上(126代徳仁)天皇の4方だけである。
 皇位継承は、神武天皇という大樹から宮家という枝が出て、どの枝も皇統である。
 それが、万世一系で、日本が2000年以上、国体を維持することができたのは男系の皇統承継だったからである。
 天皇の権威は、皇統男系のもとで、直系と傍系、親等の遠近にかかわりなく世襲される。
 一方、女系相続をみとめるヨーロッパの王権は、直系にして親等の近い順に相続される。
 天皇が、歴史的地位なのにたいして、王権は血縁的地位なのである。
 一部の日本人は、万世一系を女性差別と批判するが、一般女性が天皇の母親になられる日本は、女性差別ではなく、男性差別で、権力者は、道鏡や足利義満らの例外を除いて、権威に近づくことができなかった。
 ●伝統を根絶やしにした革命の時代
 権威のささえをもたないヨーロッパ王室が、神を後ろ盾にして、みずからを神格化したのが「王権神授説」だった。
 そして、王権神授説をふりまわす絶対王政(絶対主義)が、徐々に無軌道になってゆき、それが、市民革命の伏線になってゆく。
17世紀のイギリス革命(清教徒革命・名誉革命)や18世紀末のアメリカ独立革命、フランス革命に産業革命がむすびついて、民主主義をベースとする近代市民社会ができあがる。
 そして、その一方、エジプトや中国、インドからエチオピア、ギリシャ、イランにいたるまで、紀元前にうまれた国は、日本を除いて、すべて、革命の洗礼をうけて消えてしまう。
 歴史の古い国を順に挙げてゆくと、エジプト(紀元前3100年)を筆頭に中国(紀元前2000年)、インド(紀元前1500年)エチオピア(紀元前980年)、ギリシャ(紀元前800年)イラン(紀元前550年)となる。
 エジプトは、古代エジプト以後、ローマ帝国やイスラム王国、オスマン帝国の支配下におかれた世界最古の国だが、1919年のエジプト革命で保護国のイギリスから独立して、現在のエジプトとなった。
 民主主義の発祥地で、ヨーロッパ文明のルーツというべきギリシャも、古代ギリシャから、ローマ帝国やビザンチン帝国、オスマン帝国の支配下にあったのち、1821年のギリシャ革命で、現在のギリシャへうまれかわった。
 易姓革命の国、中国では、万里の長城をこえて、しばしば、周縁国や異民族(遼・金・元・清)の支配をうけたのち、辛亥革命で清朝を滅ぼしたのが1911年で、中華人民共和国の成立が1949年である。
 インドの独立は、その2年前の1947年で、それまで、イギリスの植民地支配にあえいでいた。
 エチオピアは、1974年、皇帝を廃位して、社会主義へと転換した。
 かつてのペルシャと呼ばれたイランも、建国は、1979年のイラン革命によるものだった。
 ●民主主義と君民一体
 伝統国家と革命国家のちがいは、権威が否定されたか否か、である。
 人々を力ずくで、屈服させようとするのが権力である。
 一方、人々が、敬意をもって、従おうとするのが権威である。
 ヨーロッパの王政が権力で、日本の皇室が権威だったのは、みてきたとおりだが、その対比を端的にしめしているのが、民主主義と君民一体である。
 民主主義は、軍事力と並ぶ権力で、君民一体は、文化にもとづく権威である。
 ルソーが古代ギリシャの民主主義(衆愚政治)をもちだしたのは、たかだか250年前のことである。
 人類は、それまで、数千年にわたって、延々と、文化・文明の歴史を築き上げてきた。
 その歴史を断ち切ったのが革命で、そのスローガンとなったのが、ルソーの民主主義だった。
 そのルソーが君民一体を称えている。
「君民共治がこの世に存在するはずもないので、わたしは、やむをえず、民主主義をえらぶ」(『社会契約論』)
 ルソーは、日本の君民一体(共治)を知らなかったのである。
 日本は、先進国のなかで、唯一、革命を経験していない伝統国家である。
 その歴史を忘れて、無批判的に、民主主義にとびついたのが現在の日本である。
 次回は、憲法における民主主義と国民主権をみてゆこう。


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2020年01月17日

伝統主義と民主主義B

四捨五入≠フ民主主義と弱者救済≠フ君民一体
 ●日本の国造り、ヨーロッパの家門争い
 日本では、神話の段階で、すでに、国という概念ができあがっていた。
 イザナキとイザナミの「国産み」神話やニニギノミコトが天照大神の神勅をうけて高千穂峰へ天降った天孫降臨、そして、天津神が国津神から葦原中国をもらいうける国譲り神話などがそれである。
 日本は3世紀の古墳時代に統一国家(大和朝廷)の誕生させている。
 神話と天皇、民族と言語、習俗という伝統の上に国家がうまれたのである。
 そのころ、ヨーロッパはローマ帝国の退潮期で、封建制から絶対王政をへて主権国家がうまれるのは、それから千年も先の話である。
 民主主義を掲げる近代国家の誕生にいたっては、啓蒙時代や市民革命という嵐をかいくぐったわずか数百年前の話である。
 それまで、ヨーロッパにあったのは、家系や民族、土侯や領主など血と地の争いだけだった。
 ドイツを中心とする神聖ローマ帝国やイギリス王国群、フランク王国などの中世ヨーロッパの国王は、封建領主で、国土を政治的に支配していたわけではなく、国境もはっきりしていなかった。
 その端的なケースが、イギリスのプランタジネット家とフランスのヴァロワ家が王位を争った百年戦争(14〜15世紀)である。
 ジャンヌ‐ダルクによってフランスに劇的な勝利がもたらさなければ、この戦争で、フランスは消滅していたかもしれなかった。
 といっても、百年戦争は、英仏の国家間戦争ではなかった。
 フランスに領地をもっていたプランタジネット家がヴァロワ家を乗っ取りにかかったのである。
 百年戦争の後、イギリスの王位継承をめぐる内戦で、ランカスター家とヨーク家が30年間争い、ヴァロワ朝(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国)もまたイタリアを戦場に50年以上にわたってたたかった(15〜16世紀)。
 すべて、家門と血族、土侯、領主の争いで、国と国がたたかったいくさではなかった。
 何十年という長期間の戦争によって、やがて、封建領主が没落してゆく。
 封建時代が終わりを告げると、国家主権(君主権)と強力な軍事力をもった絶対王政が登場してくる。
 ●権威失墜と暗黒の中世
 16世紀は宗教改革の時代でもあって、国家の統合や国家間の争いに、同一民族の内戦(プロテスタントとカトリック)がくわわって、中世ヨーロッパにさらなる戦火がひろがってゆく。
 なかでも、悲惨だったのはドイツ三十年戦争で、この内戦によってドイツの人口は1600万から約3分の1の600万まで減少したといわれる。
 この時代、日本では、細川勝元と山名宗全がたたかって、京都を焼け野原にした応仁の乱がおきている。
 そして、その後、戦国時代へ、日本も暗黒の中世へつきすすんでゆく。
 応仁の乱のさなか、将軍足利義政は、義尚に将軍職を譲って東山の銀閣寺で豪奢風雅の趣味三昧にふける一方、朝廷は、御所で崩御された後土御門天皇の葬儀もおこなえず、遺体が40日間放置されるという貧困のなかにあった。
 この権威の失墜が戦国という乱の時代を招いたといってよい。
 ヨーロッパでも事情は同じだった。
 宗教改革は、ローマ・カトリック教会へのプロテスタントの反抗だった。
 したがって、ローマ教皇は、宗教戦争をおさえる権威たりえなかった。
 宗教戦争が、略奪や虐殺、領土拡張と無軌道になったのは、服すべき権威が存在しなかったからだった。
 時代は上るが、古墳時代、大和朝廷に服する豪族らが、競って前方後円墳をつくって、その数5000基(大型126基)に上ったが、この時代、内乱はほとんどおきていない。
 国家形成と秩序、和平は、権威の下ですすめられるのである。
 ●聖なる権威/俗なる権力
 日本の皇室は、宗教(神話)的権威で、ヨーロッパの王室は、世俗的権力である。
 聖なる権威にはみずから従い、俗なる権力にはムリやり従わされる。
 権威は、心象の唯心論、権力は、モノ・コトの唯物論である。
 唯物論と唯心論は、けっして交わらない。
 戦争も革命も、独裁も民主主義(多数決)も、権力行為で、力や数がものをいう。
 権力や冨、領地は、力ずくでこれを奪うことができる。
 だが、権威や伝統、文化や習俗など、心のなかの価値を力ずくで奪うことはできない。
 そこに、天皇が男系継承(万世一系)となった理由がある。
 父系の一本筋で皇祖にゆきつく万世一系では、女系(女性天皇の子)や入り婿、非皇籍の養子は、永遠に、皇祖につらなる皇統に入ることができない。
 皇統という価値は、力でも数でも、冒すことができない聖域なのである。
 したがって、日本の権力者(摂政や太政官、武家)は、天皇をたてて、その権威の下で、政治の実権を握るみちをえらんだ。
 これが権威と権力の二元論で、わが国は、その二元論の下で、国体と政体がささえあっている。
 天皇と万世一系、君民一体(共治)と権威と権力の二元論が、わが国の国体である。
 権威とは、世俗を超越した聖なるもので、聖なるものに合理性はない。
 キリスト教におけるマリアの処女懐妊、キリストの復活、海を割ってイスラエルの民をエジプト軍から救ったモーゼの奇跡(旧約聖書)など、聖なるものに合理性はないが、人間の社会は、合理と不合理、モノと心の両面からできている。
 山尾志桜里(立憲民主党)にように「論理必然ではない」として万世一系を否定するのは、海が割れるはずはないとモーゼ神話に食ってかかるようなものなのである。
 次回も、日本の皇室とヨーロッパの王室を対比しながら、伝統主義と民主主義の比較論をすすめていこう。
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