2016年01月26日

日本は伝統国家≠ニして独自の道を歩めA

 ●アメリカの正体と二つ≠フ顔
 第二次大戦に勝利した英・米・仏・ロ・中の五大強国が、戦後秩序の象徴である国連の常任理事国をつとめている。
 だが、戦争に勝ったのは、ロシアと中国だけで、イギリスは植民地の多くを失い、アメリカは三十万人の戦死者と七十万人の負傷者、そして五千億ドルの出費と巨額の財政赤字を抱えただけで、えたものがあったとしても、共産主義の脅威ですべてチャラになった。
 スターリンは、テヘラン会議で英米仏の支援をとりつけ、ヤルタ会議で欲しいものをすべて手に入れたばかりか、中国の共産化を成功させ、その中国は、現在、ロシアとともに、五大強国の一角を占めている。
 米英は、常任理事国にフランスをくわえ、3対2で優勢を確保したが、米ソ冷戦にはじまった東西の緊張と摩擦は、現在、中国や北朝鮮をくわえ、さらに混迷の度を深めている。
 原因をつくったのは、日本に異常な敵愾心を燃やしたアメリカの二人の大統領である。
 ルーズベルトとトルーマンがまともな理性や判断力をもっていたら、ロシアの封じ込めに成功して、アジアに、共産主義国家(中国・北朝鮮)がうまれる事態にはなっていなかったろう。

 ルーズベルトとスターリンは、二度(テヘラン会談・ヤルタ会談)しか顔をあわせていない。
 にもかかわらず、ルーズベルトは、ヤルタ会談で、対日参戦の見返りに、一度しか会ったことがないスターリンに、日本領の千島列島や南樺太、ポーツマス条約によって日本が得た旅順港や南満洲鉄道など、それまで日本にはみとめようとしなかった満洲の権益をそっくりくれてやり、カイロ会議では、蒋介石に、満州と台湾、澎湖島の返還を約した。
 ルーズベルトのスターリンへの思い入れや蒋介石への身びいきが、度外れたものだったのは、チャーチルも呆れるほどで、ルーズベルトは、戦後、最大の敵となるスターリンを長年の盟友のようにあつかった。

 だが、これは、アメリカの真の姿ではない。
 アメリカは、一種の二体制″痩ニで、民主党と共和党では、政策も価値観も、別の国のように、まったく異なる。
 アメリカは、フランスやロシア、中国に先行する革命国家で、その革新性をひきずっているのがルーズベルトの民主党だった。
 ルーズベルトの政敵で、アメリカ共和党の主導的政治家だったハミルトン・フィッシュは著書(『日米・開戦の悲劇―誰が第二次大戦を招いたのか』)にこう記している。「ルーズベルトは民主主義者から民主主義左派・過激民主主義者を経て、社会主義者、そして共産主義支持者へと変貌していった」
 当時は、共産主義が人類の希望だった時代で、ルーズベルトが、政権内部に数百人の共産主義者をかかえていたことは広く知られている。
 そもそも、ルーズベルトのニューディール政策は、擬似共産主義で、労働者の最低賃金や最長労働時問の法的保証、労働組合の拡大促進、高所得者層への懲罰的税制がアメリカに与えたダメージは、はかり知れない。
 ニューディール政策が200万ドルという、過去の大統領31人がつくった赤字と同額の巨大な累積赤字を計上したのは、ルーズベルトが、労働組合に団体交渉権をみとめたからで、当時、アメリカでは、労働運動が猛威をふるっていたのである。
 1933年、大統領選挙で共和党のフーバー大統領が、民主党侯補のルーズベルトに破れて、悲劇の幕が切っておろされる。
 反共政党で、日本を敵に回す考えがなかった共和党に代わって政権を握った民主党は、ソ連や中国への接近を党是として、日本を米ソ・米中関係の妨害者とみなすのである。
 ルーズベルトは、大統領選の不戦公約≠ニマルクス主義的政策で1933年から12年間にわたって政権を握り、1945年から8年間、同じ民主党のトルーマンが政権をひきつぐ。

 ルーズベルトが、日米戦を望んだのは、チャーチルの要請に応じたものではなく、大恐慌(1929年)の痛手とニューディール政策による国家的赤字の解消には、第二次大戦への参戦以外、選択肢がなかったからだった。
 だが、ルーズベルトは、大統領選で不戦公約≠掲げていたため、ドイツや日本に宣戦布告するわけにはいかなかった。
 そこで、日本を苛め抜き、日本の暴走を誘発して、それを参戦のきっかけにしようとしたのである。
 その謀略にのったのが真珠湾攻撃≠ナ、海軍のトップ永野修身や海軍左派(米内光政・山本五十六・井上成美)ら親英米派・反独派が、基本国策要綱(1940年)や帝国国策遂行要領(1941年)になかった対米戦争へつっこんでいった経緯は、いまだ、謎である。
 ABCD包囲網から石油禁輸、真珠湾謀略、原爆投下、東京裁判、占領憲法のおしつけに至る日本にたいする敵対的な政策が、民主党政権下でおこなわれきたのは、民主党にとって、ソ連がイデオロギー的友邦で、日本が、アメリカが手にすべき中国利権を横取りした野蛮な悪の帝国だったからである。

 一方、反共政党の共和党は、日本を防共とアジア安定の要ととらえ、フーバー元大統領に至っては「戦後も朝鮮と台湾の日本領有をみとめるべき」と主張したほどである。
 日本が、戦後、分断統治されなかったのは、共和党が、ヤルタ協定を口実に北海道領有を望んだスターリンと九州割譲をもとめた蒋介石の野望をはねつけたからで、「日本の戦争は安全保障のためだった」としたマッカーサー証言も、共和党の基本認識と一致している。
 朝鮮戦争の体験をとおして、マッカーサーは、明治維新以降、日本が恐れていたロシアの脅威と日本が戦争をせざるをえなかった理由をようやく理解したのである。
 トルーマンが、朝鮮戦争のさなかにマッカーサーを解任したのは、中朝軍を撃退して、中国本土まで国連軍を進攻させ、中共政権を打倒、国民党政権を復帰させるべきと主張した共和党と歩調を一にするものだったからで、中共との和平をもとめたトルーマンは、中国共産党軍の要衝だった鴨緑工への空爆に許可をださず、国民党軍への援助を中止させている。
 現在、アメリカで使用されている中学・高校用の教科書には、日本の敗戦と中国内戦における国民党軍の敗退によって、全世界人口の四分の一近くが共産主義陣営に組み込まれることになったと記されている。
 民主党の容共主義とそれを批判する共和党の対立は、アメリカでは教科書にも載るほどの国民的常識になっているのである。

 アメリカの対日敵対政策は、フランクリン・ルーズベルト以降で、日露戦争講和を仲介したセオドア・ルーズベルトからフーバーへ至る共和党時代の日米関係は良好だった。
 とりわけ、セオドア・ルーズベルトの前任だったマツキンレー共和党大統領は、支那における露独仏の専制的支配に対抗する米英日の連携を訴えている。
 共和党の伝統をひきついだのがアイゼンハワーで、大統領在任中(一九五五年)に「非常に大きな過ちを犯したある大統領の名前を挙げることができる」として、ルーズベルトが対日謀略を練って日米開戦を導いたこと、日本へ必要のない原爆投下を命じたこと、ヤルタ協定でソ連に日本や東欧を売りとばしたことなどをきびしく批判している。
 ハミルトン・フィッシュによると、当時の共和党下院議員の90%が日本との戦争に反対していた。
 ハミルトンは著書にこう記している。
 ハルノートの存在は、アメリカ議会、外交院、軍人(マッカーサーをふくめて)、アメリカ国民にさえ知らされていなかった。日本はどんな条件でも呑む覚悟で戦争を避けようとしていたにもかかわらず、ルーズベルトは、どんな国であろうとも呑めないような内容をつきつけて、日本に戦争をけしかけ、ヨーロッパの戦争に介入しようとした。
 ハミルトンの指摘と1951年のマッカーサー証言、そして、東條英機の証言は完全に一致している。
 東條英機は宣誓供述書でこうのべている。
「断じて日本は侵略戦争をしたのではない。自衛戦争をしたのである」「国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった」
 次回以降、アメリカ民主党の罪と危険性についてのべていこう。
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2016年01月19日

日本は伝統国家≠ニして独自の道を歩め@

 ●米・英・仏・ロ・中の五大国は革命国家
 ロシアやフランスが革命国家であることは、常識として、だれもが認識している。
 だが、アメリカが革命国家であるという事実は、ほとんど知られていない。
 アメリカ革命が、独立戦争とよばれるのは、アメリカ大陸13植民地がフランス、スペイン、オランダの援軍をえて、大英帝国とたたかった領土戦争でもあったからだが、アメリカが新大陸に樹立したのは、母国との歴史的連続性を断ち切った革命政権だった。
 王政復古したイギリスも、チャールズ1世を処刑した清教徒革命とジェームズ2世を追放した名誉革命という2つの市民革命によって、伝統国家の資格を失っている。
 ドイツでは、11月革命(1918年)によってカイザー(皇帝)を廃位し、イタリアでは、第二次世界大戦後、国民投票(賛成54%)によって共和制を採択、国王(ウンベルト2世)を国外へ追放して、それぞれ、革命国家の仲間入りをはたした。
 オランダやノルウェー、スウェーデン、ベルギー、デンマーク、スペインらの王国も、世襲による君主主権から選挙による国民主権(共和制)に移行して、王政は、お飾りにすぎないものになっている。
 20世紀になって、ロシア革命や辛亥革命がおき、大国のなかで、伝統国家の文化や形式を継承する国家は、唯一、日本だけとなった。
 第二次大戦で、枢軸国の側についたフィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイのなかで、王国ではなかったのは、ロシアとたたかっていたフィンランドだけだったが、戦後、タイを除いて、王国は、すべて、共和制に移行した
 
 日本も、マッカーサーの決断がなかったら、天皇が廃位となった可能性が高かった。
 マッカーサーが、天皇をまもったのは、施政上の都合だけではなかった。
 朝鮮戦争の途中、トルーマンに解任されたマッカーサーは、帰国直後の昭和26(1951)年、米議会で、2つの重大な演説をおこなっている。
 一つは、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」で有名な退任演説(上下両院合同会議)で、もう一つは、「日本の戦争は自衛戦争であった」という当時の米世論を逆なでする演説(上院の軍事外交合同委員会)だった。
 このとき、マッカーサーは、「アメリカの最大の政治的過ちは、支那における共産主義勢力の増大を黙過したことである」と演説している。
 ニューヨーク市の凱旋パレードに700万人が集まった熱狂的支持が、この演説で一気に冷め、マッカーサーは、翌年に迫った大統領選挙への出馬辞退を余儀なくされる(当選したのはマッカーサーの元部下アイゼンハワー)。
 マッカーサーは、大統領の椅子とひきかえに、共産主義を理想視する風潮に警鐘を鳴らしたのである。

 マッカーサーが、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明した3か月後に毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立(1949年10月1日)する。
 マッカーシー上院議員が国務省に57人の共産党員がいると演説して、マッカーシー旋風(赤狩り)が吹き荒れるのが、翌1950年の2月からで、同年6月には、マッカーサーが吉田首相に共産党幹部24人の公職追放を指令している。
 日米のこの2つの動きは連動している。
 両者をつなぐのがヴェノナ文書≠ナある。
 米陸軍の暗号解読機関が、アメリカ国内のソ連情報部(KGB・GRU)がからモスクワ本部に打った暗号電報を傍受・解読して、このときすでに、連邦政府内部(ルーズベルト政権)の常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人ものソ連の工作員やスパイやエージェントがいたことをつきとめていたのである。
 そのなかに、ハルノートを作成したハリー・ホワイト(財務次官補)がいたことは、ルーズベルトの政敵だったハミルトン・フィッシュ(共和党党首)の著書(『日米・開戦の悲劇―誰が第二次大戦を招いたのか』)でも明らにされている。
 ルーズベルトがスターリンに無警戒だったのは、容共主義者というより無知だったからで、ハミルトンによると、ルーズベルトは、共産主義を平和主義や民族主義のようなものと思っていたという。
 ルーズベルトは、連合国がソ連援助を決定した第一回モスクワ会議(1941年)からカイロ会談をへてテヘラン会議(1943年)、ヤルタ会談(1945年)、同年のポツダム会談にいたるまで、スターリンの言いなりで、周囲のスタッフの半数が、コミンテルンの工作員とそのシンパだった。
 アメリカ革命は、戦後日本が反日≠ニいう毒を仕込まれたように、建国以来、容共≠ニいう毒をかかえこんでいたのである。

 フランス革命がルソー主義なら、アメリカ革命は、ロック主義である。
 ジャン・ジャック・ルソーもジョン・ロックも、国家は悪で、自然状態が平和、人間は生まれながらにして自由で平等という、日本国憲法や「九条を守る会」のようなノーテンキな思想家で、自然状態では「万人の戦争」がおきるとして、必要悪としての国家をもとめたホッブスの社会契約説をひっくり返してみせたにすぎない。
 共産主義の入口となったのが、ロックやルソーの自然権≠セった。
 フランス革命は、ルソーの直接民主主義(民衆の代表による独裁)を、アメリカ革命は、ロックの抵抗権・革命権(政府に預けた自然権の回復)を土台にしたものだが、ロシア革命では、これに唯物論がくわわる。
 マルクス主義は、唯物主義のユダヤ教義「タルムード」にルソーの「一般意思にもとづく独裁」、ヘーゲルの弁証法(二項対立をのみこむ第三項があらわれるという詭弁)をミックスした代物で、剰余価値の搾取などのマルクス経済学は「他人の財はすべてユダヤから奪ったモノ」というユダヤ教義の焼き直しなのである。

 17〜18世紀の市民(ブルジョワ)革命によって、ヨーロッパから王権が消滅したのは、ヨーロッパ王政が、権威ではなく、権力だったからである。
 そこに、牧歌的な王国が狂気の革命国家へ転落していった原因がある。
 ヨーロッパの王室は、権力の系譜で、国土も人民も王家の財産だった。
 近代になって、王政(家産制国家)の下で、主権国家が成立する。
 このとき、国家が、主権をもつ牙城として、人民の前に立ちはだかったのである。
 これが、革命の契機で、国家権力が人民の敵となったのである。
 日本で、市民革命がおきなかったのは、国家が、国体(天皇)と政体(幕府・政府)の二重構造になっていたからで、天皇から施政権を授かる幕府は、民の敵となる構造になっていない。
 幕府に施政権をあたえる天皇が、同時に、氏子である民とともにある祭祀王だったからである。
 幕府が奉じた大御心が、民を慈しむ皇祖皇宗の心であれば、民を粗末に扱うことは、天皇への反逆となるのである。
 江戸幕府が明治政府に移行したのは、政体交代であって、政体が国体の下におかれる仕組みに変更はなかった。
 わたしが、たびたび、天皇元首論に反対する論を展開してきたのは、天皇を政体にとりこむことによって、国体と政体の二重構造が崩壊するからで、明治憲法で、国家元首を謳った誤りが、天皇の戦争責任と戦犯処罰という1945年の危機を招いたことを忘れるべきではない。
 日本の保守主義者は、外国の思想家を並べて、日本の政治を論じるが、フランス革命を批判したバークやアメリカ民主主義を論じたトクヴィルを引き合いにだしたところで、天皇を中心に、数千年の共同体をまもってきた日本の保守構造を理解することはできない。
 そこに、日本が、世界唯一の伝統国家として、世界をリードできない最大の理由があるといえよう。
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2016年01月12日

 西洋文明と日本文明の衝突C

 ●日本文明≠ノ立脚した国際戦略
 西洋と日本のギャップは、解消するのがむずかしい。
 歴史や宗教、文明や価値観、国民性などの隔たりが大きすぎるのである。
 欧米やユーラシア大陸の国々が、異質といえば暴論になるだろう。
 普遍性をもっているのは、むしろ、西洋やユーラシア大陸だからだ。
 特殊なのは、日本のほうで、西洋とは、文化や価値観が根本的に異なる。
 日本は、世界最古の王朝国家でありながら、経済や技術、生活水準が世界のトップクラスにある。
 それだけで、十分に驚異に値するが、ロシアや中国をはじめ、英・米などの大国と戦って、負けたのが、原爆を落とされた先の大戦だけという強国でもあった。
 天皇の下で、士農工商の各階層がゆたかな文化をもち、江戸は、当時、ロンドンをしのぐ世界最大の都市だった。
 識字率が世界一で、絵画や文学、芸能や食文化などの庶民文化が栄え、一方、世界に類のない道徳国家でもあった。
 圧政と争乱、飢えと貧困、身分差別や奴隷制度などの旧弊に打ち沈んでいた中近世の暗黒世界にあって、江戸幕府は、2世紀以上にわたって、侵略をうけることも内乱で国をみだすこともなく、平和と繁栄を保ってきた。
 日本以外の国々や地域では、軍事的な侵略と文化的な同化によって同質性が築きあげられていったが、鎖国していた武士の国には、列強も、指一本ふれることができなかった。
 西洋文明やイスラム文明、中華文明など、世界を8つの文明圏に分けたハンティントン教授が日本を単一の文明圏とみなしたのは、日本が、他のどこにも属さない独自の歴史と文化、民族性をもつ伝統国家だったからである。
 それが、皮肉にも、日本と世界のギャップをつくることになった。

 西洋やユーラシア大陸の定規で、日本を測ることが不可能である。
 あえて測ろうとすれば、文化摩擦が生じる。
 その文化摩擦が、従軍慰安婦問題や侵略戦争説の核心で、西洋やユーラシア大陸の人々は、自らの暴虐性や残虐性をあてはめて、日本を責め立てている。
 日本と西洋、ユーラシア大陸では、価値観や文化が異なる。
 土地が農耕に適さないヨーロッパは、放牧・肉食文化圏である。
 土地・農民・作物の三位一体構造がない肉食文化圏で、国家の基礎となったのが、土地の強奪や掠奪経済だった。
 神が与え下さった恵みを取り返す(キリスト教)という好戦性や適者生存という競争原理(ダーウィニズム)がヨーロッパの中心思想で、十字軍の遠征や大航海、植民地侵略もその延長線上にあった。
 したがって、東インド会社などによるアジアの植民地化に、かれらはなんら罪悪感をかんじていない。
 白人の非白人・非キリスト者にたいする残虐非道ぶりは、インカやアステカ帝国の滅亡、アフリカの奴隷狩り、アメリカ・インディアン、オーストラリア・アボリジニの抹殺から大東亜戦争における都市空爆と原爆投下による非戦闘員大虐殺まで一貫したものがある。
 白人は、自らの生存と繁栄のためなら、人間性をかなぐり捨てるのである。
 この性向は、東アジアでも同様で、世界史上もっとも残酷だったといわれるモンゴル帝国に支配された中国、モンゴルの末裔である韓国・北朝鮮も、悪逆非道ぶりでは、西洋人にひけをとらない。
 一方、日本人の祖先は、一万年も昔から、三内丸山遺跡(5000年前)のような集落をつくって、採集や農耕を生業としてきた。
 集団的な農作業や作物の備蓄、交換から経済がめばえ、素朴な宗教や祭りから技術や文化がうみだされ、古代農耕集落群は、こうして、邪馬台国や大和朝廷へ発展していったのである。

 血で血を洗う闘争と虐殺の歴史を生きてきた民族には、和を重んじ、恵みの神々に祈りを捧げてきた民族を容易に理解できない。
 同様に、日本は、アジアを侵略して、暴虐のかぎりをつくす英米仏蘭の力の論理を容認できない。
 英米仏蘭にとって、日本軍の侵攻は、平和を脅かす悪魔の仕業だった。
 だが、日本にとっては、アジア解放をめざす聖戦だった。
 この文化摩擦が、大東亜戦争の本質で、その決着は、いまだついていない。
 その根底にあるのが人種差別で、欧米人にとって、黒人は奴隷で、黄色人種は使用人だった。
 西洋のリーダーには「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族」と演説して大統領になったアンドリュー・ジャクソンのような人物もいたほどで、下卑で無教養なトルーマンは、100万人の米兵の命を救った大統領というキャッチフレーズをみずから考案して、ポツダム宣言発表の前日、原爆投下の命令書にサインした。
 ロシアを打倒した日本が、民族・人種差別撤廃と植民地解放を主張して、国際社会に登場したとき、白人社会が、どれほどの驚愕と憎悪をもって、日本を迎えたか想像に難くない。
 それが、チャーチルとトルーマンが、日本への原爆使用と将来的な核管理について申し合わせたハイドパーク協定で、これが、大西洋憲章からヤルタ・ポツダム宣言へひきつがれた。

 異文化に迎合して、文化摩擦をのりこえることではない。
 その逆で、自らの文化をまもることによって、互尊の関係がうまれる。
 自国の文化をまもるには、三島由紀夫が『文化防衛論』で唱えたように「尚武の精神」がもとめられる。
 それには、GHQ憲法を廃棄して新憲法を建て、軍備を充実させ、国際社会で、日本独自の価値観を堂々とおしとおすだけである。
 オバマ大統領の介入によって、日韓両政府は、慰安婦問題について、「最終的かつ不可逆的」な合意をはたした。
 中国の軍事的脅威と北朝鮮の核実験によって、米日韓の結束を強化せざるをえなかったオバマが、朝鮮半島における軍事主権をテコに、朴槿恵を恫喝して慰安婦問題に決着をつけたのである。
 慰安婦問題の急転直下の解決には、日本側からのはたらきかけがあったことが明らかで、安倍首相は、電話でオバマに謝辞をのべている。
 従軍慰安婦問題や侵略戦争説は、文化防衛の失敗で、利敵行為となったのが「河野談話」「村山談話」だった。
 前大戦では「ゾルゲ事件」に加担して、日中戦争の長期化と日本軍の疲弊化を工作した朝日新聞記者(内閣嘱託)の尾崎秀実がスパイ罪で処刑されている。
 尾崎は、世界平和のためスパイになったと供述したが、村山富市も河野洋平も、講演会で同じようなセリフをふりまいている。
 日本と西洋、日本と中・韓のギャップや摩擦は、双方の主張が拮抗しているかぎり、平衡状態がたもたれる。
 これは、相互確証破壊という緊張関係が、平和という戦争のない状態≠つくりだすのと同じメカニズムである。
 日本は、安倍政権誕生以後、重い足取りではあるが、国防の要である「文化防衛の体制」が徐々にできつつある。
 野党連合は、安倍政権を危険視するが、西洋や中・韓の論理をそっくりうけいれているかれらの平和論ほど、日本を危機にさらすものはないのである。
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2016年01月04日

 西洋文明と日本文明の衝突B

 ●条約関係の見直しをサボった外務省の大罪
 戦後、外務省は、戦時中の条約関係の見直しをおこなっていない。
 日本が、サンフランシスコ講和条約締結後も、戦時中の不法・不当な条約や条約違反、国際法違反のもとで、いまなお、不利益をこうむりつづけているのは、そのためである。
 北方領土から、中・韓との外交的摩擦、日米の平等ならざる関係、戦争犯罪国家の汚名、さらには、憲法問題まで、日本がかかえる問題の根本にあるのが戦勝国の条約違反や不当な法的圧力で、「ヤルタ・ポツダム体制(YP体制)」と呼ばれる戦後の世界秩序は、敗戦国日本にたいする一方的な差別的処遇からできあがっている。
 アメリカの都市空襲や原爆投下が、民間人への攻撃を禁じた「戦時国際法」違反で、旧ソ連の日本兵抑留や北方領土占有が、「日ソ中立条約(1946年まで有効)」や領土不拡張や戦闘行為の中止を宣した「ポツダム宣言」違反だったのは、否定しえない事実である。
 戦勝国の戦争犯罪が咎められない一方、日本は、事実に反する南京大虐殺や従軍慰安婦問題、侵略戦争などで加害者の汚名を着せられ、執拗に謝罪をもとめられている。
 国内では、事後法(平和にたいする罪/戦争を計画・準備・実行した罪)で裁いた東京裁判やハーグ陸戦条約(占領軍による法改正の禁止)違反のGHQ憲法が、戦後精神の主流となって、大量の反日主義者をうみだした。
 そして、対外的には、YP体制への屈服が、アメリカの高圧的な日本支配や中・韓の反日・侮日政策を招いている。

 その責任の大部は、天皇や帝国の官僚からGHQの官僚に寝返った外務省にある。
 専門的な知識や情報、職制上の使命感をおびている外務官僚が、情熱をもって、条約処理という高度な問題に取り組まずに、どうして、戦後レジームから脱却できるだろう。
 条約締結権は、国家主権の一つで、主権国家は、不平等な条約や条約違反を拒絶し、排除する絶対的権利をもっている。
 この権利は、自衛権と同様、独立国家におのずと備わっている自然権であって、他国の同意や支持を必要としない。
 ところが、外務省は、その誇り高き権利をいちども行使したことがない。
 北方領土の解決が遠のき、尖閣危機や竹島の不法占拠という事態を招いたのは、外務省が、条約問題の解決を避ける一方、戦勝国による事後法やデッチ上げ、戦利的な不平等法を無条件に受け入れてきたためである。
 カイロ宣言にはじまって、サンフランシスコ講和条約で完結するYP体制は、戦勝国のデタラメとゴリ押しでつくりあげられている。
 外務省が、本気でその欠陥をつかなければ、戦後レジームが、永遠のくびきになる。
 どの国も、外務担当部門は、自国の利益をまもるため、内外の不当な圧力や妨害を排除しようと血眼である。
 わが国の外務省が、その作業をサボタージュしたのは、敗戦国の負い目というより、天皇や日本帝国という主を失って、アメリカや中国という戦勝国の犬になり下がったからである。

 トルーマン、チャーチル、スターリンの3首脳がベルリン郊外のポツダムに会して、昭和20年7月26日、日本に降伏を勧告する「ポツダム宣言」を発表した。
 だが、その前日(7月25日)、トルーマンは、すでに、陸軍戦略飛行隊に、原爆投下命令を発していた。
 この一事で、戦争終結と和平をもとめたとするポツダム宣言の正当性は、木端微塵になった。
 しかも、「ポツダム宣言」の第8条(「カイロ宣言の条項は履行する」)に謳われているカイロ宣言には、日付も三首脳の署名もなく、チャーチルは、イギリス国会(1955年)で、同宣言の存在を否定している。
 カイロ宣言には、1914年の第一次世界大戦以降に日本が獲得した満州と台湾、澎湖島の中国への返還が謳われている。
 チャーチルが「ダマされた」と国会証言したように、カイロ宣言は、蒋介石とルーズベルトが打った大芝居だったのである。
 嘘っぱちの「カイロ宣言」を土台にした騙しの降伏勧告、「ポツダム宣言」は、薄汚い謀略でしかなかった。
 アメリカの戦争参加を画策した「米英参謀会談」(1941年1月)から大西洋憲章の策定した「大西洋会談」(1941年8月)、各3回の「ワシントン会議」と「モスクワ会談」から、ヤルタ会談におよんで、日本憎しでこり固まったルーズベルトのスタンスは、スターリンと蒋介石に大きく傾いていたのである。

「樺太南部およびこれに隣接する島々」「全千島列島」と名指しで日本領のソ連への返還が謳われたのはヤルタ協定においてであった。
 だが、ソ連領のクリミア半島ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンが集っておこなわれた秘密協定は、米英ソの軍事協定であって、法的な拘束力をもつ国際条約ではなかった。
 アイゼンハワー大統領は、ソ連の参戦と日本領土の譲渡を約したルーズベルトとスターリンの密約は、個人的な約束事だったとして、無効宣言をだしている。
 しかも、ヤルタ協定は、当事国が関与しない領土の移転は無効という国際法にも違反しているため、ヤルタ協定にもとづくソ連・ロシアの南樺太と千島列島の占拠は、ドロボーの居座りということになる。
 法的根拠にもとづく日本の北方領土は、千島列島の全島と南樺太である。
 千島列島は、日露通好条約(1854年)によって、択捉島を北限とする四島を日本領――ウルップ島以北のクリル諸島までをロシア領を定めたのち、千島樺太交換条約(1875年の)で全樺太とひきかえに、全18島が日本領にくみいれられた。
 ロシア領となった樺太南部が、ふたたび日本の領土となったのは、日露戦争後のポーツマス講和条約(1905年)によってである。
 以後、北方四島をふくむ千島列島の全島および南樺太が、正式に北方領土となった。

 だが、外務省は、この歴史的事実を無視して、北方領土を四島に限定する。
 そして、ロシアにたいして、領土問題解決のテーブルにつくように懇願している。
 日本は「サンフランシスコ平和条約」で南樺太と千島列島を放棄させられた。
 だが、同条約第2条C項に「ポーツマス条約によって獲得した領土の放棄」という但し書きがある。
「千島樺太交換条約」は、ポーツマス条約締結より40年も前の1875年の話である。
 したがって、放棄させられたのは、南樺太だけで、千島列島はふくまれない。
 当時、南樺太も千島列島も、帰属先がきまっていなかった。
 平時において、領土は双方の条約できめられる。
 事実、日米は「サンフランシスコ条約」にサインして、沖縄や小笠原諸島を信託統治としたのである。
 旧ソ連は、サンフランシスコ条約に署名していない。
 その旧ソ連が、同条約を根拠に北方領土を領有する権利があるはずはない。
 日本は、放棄宣告をうけたが、領土の譲渡は、両国が条約を交わさなければ発効しない。
 放棄しても、正当な帰属先がない場合、国際慣例に従って、領有権は、元へ戻る。
 日本共産党でさえ、南樺太と千島18島を北方領土(日本領)としている。
 日本政府が、4島へ後退したへっぴり腰が、YP体制への屈服なのである。
 戦後の世界秩序は、戦勝国の謀略と悪知恵、身勝手と敗戦国の負け犬根性によって構築された。
 YP体制を打破するのに、大号令をかける必要はない。
 外務省と衆院外務委員会が、戦時中の条約見直しをおこなって、それを日本政府の正式見解にすればよいのである。
 そして、ハーグの国際司法裁判所に判断をゆだねる。
 日本が、条約処理問題に、毅然たる態度で臨めば、戦後レジームは、自然に消えてゆくのである。
posted by office YM at 16:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする