2016年02月29日

憲法論議は戦後最大の思想戦A

 ●憲法より憲法学者の脳を改正すべし
 政治や外交において、主権ほど重要な概念はない。
 国家は、領土や国民、国益にわたる主権的実体で、世界史は、主権をめぐってくりひろげられた戦争や革命、国家興亡の記録といってよい。
 一方、主権は、定説のない不確かな概念でもあって、そのあいまいさが政争や紛争の火種となってきた。
 ヨーロッパで主権という概念が生じたのは、絶対王権(王権神授説)の根拠や宗教権力にたいする国家権力の優越性を示すためで、元々、便宜的なものだった。
 超越的な絶対権力を立てなければ、王権が安定せず、宗教戦争や領土紛争に決着がつけられなかったからで、国家主権を国家のあいだで承認しあったのがウェストファリア条約(1648年)だった。
 同条約が、国家法や国際法の出発点で、ほかに主権を定めた条約や国際的な合意は存在しない。
 交戦権が国家主権の代名詞となったのは、法を超える主権を法的に規定することができないからである。

 ところが、日本国憲法では、国家主権をとびこして、唐突に「主権が国民に存する」(前文)「主権の存する日本国民」(第1条)とでてくる。
 国民が宗教権力や他国の軍事・政治圧力にまさる超越的な絶対権力をもっていると、根拠を示すことなく、堂々と宣言しているのである。
 法律家・法学者が、なんの疑問も抱かず、これにとびついたのは、かれらが法の専門家以前に左翼だったからである。
 国民主権は、ジョン・ロックによると、革命権をあわせもっている。
 左翼にとって、降って湧いた国民主権は、棚ボタで、これを頂戴しない手はないというわけで、これで一躍、GHQが左翼陣営の救世主となった。
 ところが、憲法原案で国民主権をもちだしたアメリカも、ポツダム宣言で「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国」、憲法前文で「自国の主権を維持」と主権が国家にあることをみとめている。
「日本国の主権」(ポツダム宣言)と「国民に存する主権」(前文)が矛盾するのは、素人でもわかるが、法律の専門家や左翼には、「日本国の主権」のほうは目に入らなかった。
 学校や国会、法廷ですら、主権者は国民という珍説がまかりとおっているのは、憲法の誤読でなければ、捏造なのなのである。

 国民主権は、天皇主権との対比でもちいられる。
 だが、天皇主権は、天皇を政治利用するための世紀の大工作だった。
 主権を天皇にあずけ、天皇をとりこむことによって、明治政府は、一夜にして、日本を帝国主義国家へ改造したのである。
 戦後、主権が天皇から国民へ移ったとする「八月革命説(宮沢俊義)」が憲法学の主流となった。
 天皇主権が、天皇の政治利用で、歴史的真実ではなかったと見抜けなかったのなら、あえて、天皇を主権者に見立て、国民主権を際立たせようとしたのである。
 主権は、西洋の概念で、主権者にあたる日本語も存在しない。
 法的・政治的な最高権力者なら幕府の長で、征夷大将軍という官職にあたる。
 征夷大将軍を任命するのが天皇で、日本は、西洋でいう元首のさらに上位の存在である。
 西洋には、天皇にあたる権威が存在せず、あるのは、王という権力である。
 天皇主権は、西洋の王政国家を模倣した明治政府の創作だったのである。
 現憲法の国民主権も然りで、こっちはルソーの発明品である。
 国民主権は、王政を倒すスローガンになったが、これを絶対原理とした国家は、市民革命がおこなわれたヨーロッパにおいてすら存在しない。
 ヨーロッパは、君主制の下で、国民主権を立てたのであって、革命後、初の憲法(1791年)を制定したフランスでさえ、謳われたのは、国民主権ではなく、ナポレオンの権力基盤となった立憲君主制だった。
 立憲主義を絶対原理としたアメリカでは、制限されない権力にあたる主権は、憲法違反で、アメリカ憲法には国民主権の字句すらない。

 国民主権を標榜したのが、ドイツのワイマール憲法だが、法は、法によって破られるので、議院内閣制・基本的人権・議会制民主主義の停止措置によって、ナチス=ドイツ(第三帝国)が成立、国民主権がヒトラー独裁へ化けた。
 共産主義国家では、人民独裁となって、国民主権が実現するはずだったが、革命政府の指導者が、人民代表となるので、スターリンや毛沢東のように悪質な独裁者が出現しただけだった。
 三権分立が否定される独裁国家では、法治主義が機能せず、中国では、現在も、憲法が、共産党による政治決定の下位にある。
 国民主権は、これを標榜した革命国家によって、もっとも荒々しく踏みにじられるのである。
 GHQが日本国憲法に共産主義革命のスローガンをもちこんだのは、無知でなかったのなら、日本を、当時、人類の理想とされた人民国家に改造するつもりだったのであろう。
 西洋の権力は、王権から国権まで一元的で、これをささえるのが、権威ではなく、軍事力である。
 権力が主権となった理論的根拠は、王権が王権神授説、国権がジャン・ボダンの『国家論』だった。
 革命は、人民がその主権を奪い取ることだが、実際は、革命軍が人民代表を名乗っただけで、人民が蜂起した革命は、世界史上、いちどもおきていない。

 権力と権威が二元化されている日本には、主権という概念が存在しない。
 天皇主権説は、象徴天皇や日本共産党の天皇制と同様、西洋の権力観をもちこんだもので、天皇の本質から大きく逸脱している。
 日本の権力構造は、朝廷(権威)と幕府(権力)の二元論で、権力は、権威の親任をえて、はじめて、統治者としての正統性を獲得する。
 天皇が権力者に統治権を委ねるのは、民の国父、クニの氏神だからである。
 民の国父は、主権者でも元首でもなく、クニの氏神は権力の象徴ではない。
 したがって、天皇が主権者となりえないばかりか、そもそも、日本では、権力が単独で主権者たりえない。
 左翼は、憲法をふりあげて、国民主権を叫ぶが、憲法には、国民主権が比喩的にのべられているだけで、条文で定義されている主権は、国家に属する。
 憲法には、国家主権に言及した条文が二箇所ある。
 第9条の1 国権の発動たる戦争
 第41条 国会は国権の最高機関
 9条と41条でいう国権が国家主権で、憲法は、国家主権が交戦権で、国会が国家主権の範囲にあると明確に指摘している。
 アメリカ憲法に国民主権の文字がないのは、立憲制が国民的合意という前提に立っているからで、米最高裁も、この見解に立っている。
 第1次世界大戦後、多くの国が「国民主権体制」に移ったが、君主制や立憲制、共和制、社会主義を問わず、国民主権が国家主権にのみこまれて消滅した。
 国民主権が、国権(国家主権)に優先するとするのは、世界で唯一、日本の法学者の頭のなかだけである。
 憲法を改正する以前に、左翼と憲法学者の脳を改正するほうが先なのである。
posted by office YM at 13:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

 憲法論議は戦後最大の思想戦@

 ●憲法に活かせ「国体・政体・国民」の三位一体
 現行憲法には、必要がない字句や条文が、ダラダラと並べられている。
 日本の憲法に、第18条(「奴隷的拘束からの自由」)をのせる必要がどこにあっただろう。
 日本で、他人の身体的自由を奪う蛮行がまかりとおった歴史的事実はない。
 あたりまえのことを法で定めると、あたりまえが、あたりまえでなくなってしまう。
 憲法で禁じていなくとも、盗みや人殺しはけっしてゆるされない。
 日本に18条の必要がなかったのは、歴史がつちかった良識が、奴隷や私刑などの悪しき習俗を禁じていたからで、伝統国家は、あたりまえ(コモン)という目に見えない規範をもっている。
 日本国憲法に、伝統国家のコモンが反映されていないのは、150年前まで奴隷制度をもっていた革命国家アメリカがつくった法だからである。
 革命国家は、伝統国家のコモンにあたる歴史の文化遺産に乏しい。
 したがって、国家の形から国民のありようまで、成文法を立てて、規制しようとする。
 イギリスが成文憲法をもたないのは、常識や慣習、判例などの過去の智恵がコモンロー(不文法)として機能しているからである。
 日本も、イギリス以上に長い国史をもっているので、コモンローで十分間に合い、国防などでは、非常識な成文法を補填してさえいる。
 
 成文法で、国家や国民の全領域を規制することは、もともと、不可能である。
 聖徳太子の「憲法十七條」も明治天皇の「五箇条の御誓文」も為政者の心構えや新制度の運用を簡潔に記しただけで、法で、国家の根本や価値観をきめるようなだいそれた性格はもっていなかった。
 革命国家や新興国家が、憲法を重視するのは、人工の法が、国の形をきめる唯一の規範だからである。
 GHQが、日本に革命憲法をあたえたのは、大日本帝国が滅亡して、焦土と化した国土と飢えた人民だけが残った新興国家だったからだった。
 GHQの論理の受け皿となったのが、宮沢俊義の「八月革命説」だった。
 昭和20年のポツダム宣言受諾によって、主権が天皇から国民に移り、事実上の革命がおきたとする説で、レーニンの「敗戦革命」から借り物である。
 これにとびついたのが、公職追放令によって、左翼の独壇場となった学界・言論界・法曹界だった。
 宮沢は、憲法学の大重鎮にのしあがり、法曹人ばかりか、学者や文化人までが「八月革命説」の信奉者となって、憲法擁護の旗を振りはじめた。
 アメリカの6回からドイツの58回に至るまで、先進諸国がくり返している憲法改正が、日本で不能なのは、GHQ憲法が左翼陣営の聖典になっているからである。
 憲法問題は、伝統国家のコモンと革命国家のイデオロギーの衝突で、戦後70年、改憲できなかったのは、日本が、いまなお、思想的に被占領状態にあるからなのである。

 明治憲法が帝国主義のテキストだったように、戦後憲法は、人民主義のマニュアルで、改憲にしろ、廃憲後の新憲法制定にしろ、あるいは憲法無視という第三の方法にしろ、憲法をめぐる思想的混乱に決着をつけないまま改憲を急ぐと、自民党試案のような明治憲法とGHQ憲法の混血児がうまれることになる。
 試案の天皇元首論は、明治憲法への先祖返りで、国民主権・基本的人権・平和主義は、GHQ憲法の踏襲である。
 どちら遺伝子をうけついでも、伝統国家の体裁を保てないのは、国体が見えてこないからである。
 大方の日本人は、天皇が政治権力をもたない権威であること、国民が万能たる主権をもちえず、基本的人権は国家あってのもので、平和主義が空想と知っている。
 それが歴史の智恵で、そんなことがわからないようでは、改憲案などひっこめたほうがいい。
 改憲の要諦は、革命国家アメリカが、伝統国家日本に、新興国が掲げるような薄っぺらな憲法をあたえ、日本の左翼陣営がこれを伝統破壊の道具に使っている構造を打ち破ることで、条文の一部を手直しして、片が付く問題ではないのである。

 憲法は、本来、革命国家のものなので、革命のスローガンが並べられる。
 伝統国家が成文憲法をもつとすれば、示されるのは、スローガンではなく、伝統的価値である。
 伝統的価値は、日本においては、以下3つである。
 ■日本国は、国体を有す。
 国体は、歴史や民族固有の価値観、伝統や習俗などの文化の体系で、天皇がその象徴である。
 ■日本国は、主権を有す。
 主権を行使するのは、政体(政府・行政・司法・自衛隊などの権力機構)の任務であって、国体・国民とも主権を有さない。
 ■日本国は、国民の福利と諸権利を守る義務を負う
 国民は、権利と義務をとおして、政体と互恵関係をたもち、情緒や文化的なきずなによって国体とむすびついている。
 国体が政体に施政権を委ね、政府(政体)が民を治め、民が国体を敬愛する三位一体が、日本の伝統的体制で、革命国家の場合は、国体がイデオロギーにおきかえらる。
 護憲論者が、憲法を政体(権力)の監視役(権威)と主張するのは、憲法を新しい国体と見立てているからだろう。
 イギリスでは国王への忠誠、日本では天皇の権威が、権力の上位におかれる。
 したがって、伝統国家では、政体の最高権力者ではなく、国王が国家元首に、天皇が国家の最高位につく。
 自民党改憲案の天皇元首は、イギリス王室の模倣だろうが、英国国王も政治的権力をもたない象徴的存在で、GHQ憲法の象徴天皇は、英国国王がイギリス連邦結束の象徴(シンボル)となったウェストミンスター憲章(1931年)を根拠にしたものと思われる。
 権力が儀礼化されて、象徴になったわけだが、儀礼や象徴は、政治において無力でも、文化において決定的な力を有する。
 この文化の力が国体で、国体観が欠落した改憲案なら、現憲法を無視する第三の方法のほうが気が利いている。
 もともと、ヨーロッパの王制は権力の系譜で、明治憲法における天皇も、伊藤博文が「独逸各国の国王は一切の諸般の政権を統攬」と記したように、ヨーロッパの国王を意識したものだった。
 次回は、戦後、天皇から国民に移ったとされる主権について考えてみよう。

posted by office YM at 15:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月08日

日本は伝統国家≠ニして独自の道を歩めC

 ●祭祀王であり大王でもあった天皇
 世界史をふり返って、国家と人民の関係が円満だった時代は、ほとんどみあたらない。
 国と民は、全体と個の利害が矛盾するように、もともと、対立するようにできているのである。
 絶対王権や専制政治では、国家が人民をおさえこみ、革命によって、権力が人民の手に移っても、結局、同じことがくり返される。
 人民政府は、絶対化・独裁化するので、恐怖政治によって、人民抑圧という悪政が、さらに悲惨なものになるのである。
 近代国家は、専制と独裁、革命の苦い経験からうまれたもので、議会制度や民主主義、普通選挙法が採用されたのは、国家と人民の対立や摩擦を緩和するためだった。
 近代国家だからといって、国家と人民の対立、全体と個の矛盾が解消されたとするのは早とちりである。
 国家と人民の対立が、議会制や政党政治や民主主義、多数決にもちこされただけで、全体と個の利害は、依然として、解消されていないのだ。
 強行採決にたいして、マスコミは「民主主義は死んだ」などというセンセーショナルな見出しをつけて批判するが、多数決の強行こそが、民主主義と議会主義の正体で、国家的な大仕事に取り組む大臣を謀略にかけ、鬼の首でもとったようにはしゃぐのが、政党政治の本性なのである。

 革命国家においては、民主主義や議会制、政党政治が、第二の独裁になる。
 多数決は、武器を投票用紙におきかえた戦争なので、勝ったほうがすべてを牛耳ることになるからである。
 小選挙区制では、51パーセントが100パーセントに、49パーセントが0パーセントになる。
 それが民主主義による独裁のメカズムで、アメリカの大統領選挙でも、日本の総選挙でも、負けた政治家や政党は、権力の座から追われる。
 しかも、革命国家では、権力がそのまま国家(ステート)となるので、選挙結果によって、国の形までが変更されてしまうことになる。
 伝統国家においては、権力の政体と権威の国体が分離されているので、専制政治や独裁という権力の暴走はおこりえない。
 日本で、平安時代の390年、江戸時代の265年、鎌倉時代の148年と長期政権がつづいたのは、政体が国体の下位にあったからで、戦国時代の100年間と南北朝時代の57年間は、朝廷の権威低下によって、権力が空中分解をおこしたからだった。

 権威があって、権力がそれにつらなるのではない。
 権力が安定をもとめて、権威をもとめるのである。
 そのメカニズムを熟知していたのが、上洛途中で病死した武田信玄とのちに政権をとった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康だった。
 そして、その原理を忘れたのが、院政をはじめた白河天皇、承久の乱をおこした後鳥羽上皇、建武の新政の後醍醐天皇、天皇を国家元首と定めた明治政府だった。
 国体と政体を混同、一体化させると、権威と権力の二元性が崩壊して、ユーラシア大陸型の一元的な専制国家ができあがる。
 市民革命によって、伝統的体制が失われるのは、すでに国体が失われていたか、政体にとりこまれていたからで、政変によって、国家がまるごと変容してしまう。
 専制国家が革命国家に転身するのは、時間の問題で、主要8か国(G8)のなかで、国体という伝統的体制を有しているのは、日本だけである。

 かつて、天皇は、大王でもあって、祭祀王と権力者の両方の顔をもっていた。
 日本は、有史以前から祭祀国家で、軍事国家だったユーラシア大陸の国々とは、自然観や宗教観が異なる。
 島国日本は、変化に富んだ地形や3大海流に洗われる海岸線があり、自然の幸に恵まれている。四季があり、稲作のほか農耕がさかんで、動物を殺さずに食糧を確保できる農業国だった。
 反面、4つのプレートの上にのった地震国で、列島が台風の通り道になっている。
 自然とともにあった日本人は、八百万の神々に和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)の2つの側面を見て、寿(ことほ)いて祭り、畏(かしこ)みて祀るという独自の信仰をまもってきた。
 その二元論的宗教観の頂点にあるのが祭祀王としての天皇、権力者としての大王で、魏志倭人伝に「鬼道によって人々を惑わす」と記されている卑弥呼の政(まつりごと)も祭祀をさしている。

 大和(古墳)時代の第16代仁徳天皇が、三年間の免税をおこなって「民のかまどは賑いにけり」と謳ったのは、祭祀王の顔で、一方、朝鮮半島の百済や新羅、高句麗の軍とたたかい、東晋に使者を送り、宋の皇帝から称号をうけたのは、大王(倭五王のうちの讃)としての顔である。
 元首という用語は、一元論的な西洋のもので、天皇の位は、聖と俗、国体と政体、権威と権力の両方にまたがっていたのである。
 日本の国家観が、国体と政体の二元論に立つのは、祭祀国家の伝統で、源流をたどれば、神武天皇と同一人物といわれる第10代崇神天皇にたどりつく。
 崇神天皇は、縄文弥生時代から原始信仰(自然崇拝)の象徴だった三輪山の山麓に初期の大和朝廷(三輪王朝)を建て、大物主神がのりうつったとされる百襲姫にマツリゴトをおこなわせている。
 山麓一帯には、崇神天皇(行灯山古墳)や第12代景行天皇(渋谷向山古墳)の陵のほか、卑弥呼の墓といわれている箸墓古墳がある。
 崇神天皇の治世が邪馬台国の時代の後半と重なるところから、魏志倭人伝に蔑称で記されている卑弥呼が百襲姫だった可能性はきわめて高い。

 崇神天皇は、四道(北陸、東海、西道、丹波)に4人の将軍を派遣して平定させている。
 神を崇める祭祀王だった天皇は、一方で、大和朝廷を日本全国規模の政権に育て上げた政治の天才でもあった。
 祭祀王である天皇が、同時に、為政者として有能であることは困難で、そののち、天皇の政治力は、摂関政治や院政、武士の台頭によって、徐々に形骸化されてゆく。
 第45代聖武天皇は、「三世一身の法」「墾田永年私財法」を発して、天皇がすべての土地と人民を支配する天皇政治の原則を放棄している。
 藤原不比等や長屋王にゆだねられた政治は、やがて、源平藤橘4氏が中心と貴族政治から武家政治へとすすんでゆく。
 その一方、天皇の権威は、ゆらぐことはなかった。
 天皇の権威と実力者の権力が二元化しながら、離れることがなかった最大の理由は、もともと、天皇が、祭祀王と大王を兼ねていたからある。
 このとき、天皇が、国体と政体をむすぶ象徴的存在となった。
 象徴や元首は、ステート(国家)とネーション(国民)、カントリー(国土)と同様、西洋の概念で、政体にかかる用語である。
 日本国憲法に、天皇が「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とあるのも、シンボルの意味合いで、国民主権の代名詞にすぎない。
 したがって、憲法から、日本国のすがたがみえてこない。
 天皇の象徴性は、歴史や文化、民族性などの国体と、国家の繁栄や民の幸をもとめる政体の一致にあって、その芯を貫いているのが祭祀である。
 対立関係にある国家と民が、寿(ことほ)いて祭り、畏(かしこ)みて祀る祭祀によって、日本においては、有史以前から融合してきたのである。
posted by office YM at 11:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月01日

 日本は伝統国家≠ニして独自の道を歩めB

 ●『フーバー大統領回想録』で空中分解した自虐史観
 アメリカやイギリス、カナダなどは二大政党体制である。
 多党体制の日本やヨーロッパの国々も、連立政権を組む場合、二大ブロックに落ち着くので、二大政党体制と大きなちがいはない。
 二大政党(ブロック)は、一方が保守なら一方が革新で、この構図は、先進国において、ほぼ共通している。
 保守は、国家によって、国民がまもられるという考え方で、アメリカの共和党やイギリスの保守党、自民党右派がこれにあたる。
 バックボーンになっているのが、国家を必要悪とするホッブス的な保守主義である。
 革新は、国民によって、国家つくられるという反対の考え方で、アメリカの民主党、イギリスの労働党、日本の民主党左派がこれに該当する。
 土台になっているのが、国家を国民の管理・監視の下におくルソーやロック的な進歩主義で、傍系に社会主義や共産主義がある。

 保守主義が、国家中心主義なら、進歩(革新)主義は、人民中心主義ということができるだろう。
 国家中心主義は、国民をまもるには、国家が磐石でなければならないという歴史の経験則に拠って立つ。
 一方、人民中心主義は、国家が国民をまもるという歴史的原理を否定して、人民の諸権利を、おのずとそなわっている自然権とする。
 その最たるものが日本国憲法で、国民の権利が、天から降ってきたことになっている。
 これは、アメリカ・プロテスタンティズムで、神が御子のために国をおつくりになったという聖書崇拝が、日本国憲法にひきつがれたのである。
 といっても、自然権は、かんたんに破られてしまうので、どうしても国家が必要になる。
 そこで、人民主義は、国家を人民権利の牙城≠ニするべく、人民の代表による独裁政府を構想する。
 もっとも過激なのが、暴力革命を許容する無神論の共産主義で、やや穏健な社会主義や社民主義では、体制内改革をすすめて、人民政府を樹立しようとする。

 二大政党体制は、結局、国家中心主義と人間中心主義のにらみあいで、個と全体の矛盾が永遠に解消されないように、保守政党と革新政党の対立は、どこまでいっても平行線をたどる。
 民主主義や議会政治、普通選挙法、多数決は、保守と革新の対決を調整する手立てであって、政党政治が人類最高の統治制度というのは、おかどちがいなのはいうまでもない。
 ※個と全体矛盾、国と民の対立を解消するには象徴≠ニいう概念が必要となるが、そのテーマについては、次回、のべよう。
 政党政治の弱点をさらけだしたのが、民主的手続きで独裁政権を打ち立てたヒトラーの暴走と、日米戦争を工作したルーズベルトの謀略だろう。
 アメリカ民主党は、ナチス党と同様、戦争をひきおこして、ルーズベルトとトルーマンは、ヒトラーのユダヤ人虐殺と同様、大都市空襲と2発の原爆投下で、日本人虐殺を実行に移した。
 ルーズベルトは、議会をとおさず、スターリンや蒋介石とむすび、日米戦争を仕掛けて、結果として、共産主義国家ロシアの戦勝と中華人民共和国建国の最大の貢献者となったにすぎなかった。
 
 
 47年間封印されてきたフーバー元アメリカの大統領の回想録『裏切られた自由』がアメリカで刊行されて、戦後、日本人を洗脳してきた東京裁判史観がそっくり書き直されることになりそうだ。
 大統領選でルーズベルトに敗れたハミルトン・フィッシュの「日米・開戦の悲劇―誰が第二次大戦を招いたのか」も同様の主旨で、ルーズベルトの前任者と政敵によって書かれた二冊の大著が、戦後、70年、日本人を騙しつづけてきた自虐史観派の左翼や反日主義者、学者や教職者、政治家、マスコミ文化人らの売国的にして犯罪的な嘘っ八をあますところなく暴きだすはずである。
 ■日本を戦争にひきこみ、開戦後、米軍をヨーロッパ戦線におくりだす目的で、日本に実弾なき戦争=経済封鎖を仕掛けた。
 ■日本は、経済封鎖を避けるため、天皇以下、和平交渉に能う限りの努力を尽くしたが、ルーズベルトは和平交渉を拒絶した。
 ■最後通牒となった「ハルノート」は秘密文書で、議会の承認をえたものではなく、議会の知るところとなっていれば、破棄されていたはずだった。
 ■カイロ・ヤルタの密約は、ルーズベルトの個人的な約束で、米政府は関与していない。
 ■ルーズベルトは、真珠湾攻撃の5か月前、大量の爆撃機とパイロットを中国に送って、中国から日本本土を奇襲爆撃する計画(「JB─355」/フライングタイガー)を承認していた。
 ■18発の原爆投下を計画したルーズベルトとポツダム宣言発表の前日に原爆投下を命じたトルーマンは、ヒトラー以上の殺人狂だった。

 フーバー元大統領とハミルトン元党首、マッカーサーは、共和党である。
 共和党は、真珠湾攻撃まで非戦和平派で、マッカーサーは、議会で、大統領指名候補を棒に振ってまで、日本の戦争が自衛のためだったと証言している。
 国家や歴史、民族などに重点をおく保守主義の共和党が、非戦和平派だったのは、国益を考慮すれば、スターリンや蒋介石と手を組み、日本に戦争を仕掛ける必要も選択肢もなかったからである。
 国家中心主義の保守政党が好戦的というのは、左翼がふりまいたデマゴギーで、功利的・現実的な観点に立つ保守派は、国家防衛に熱心でも、国家を危機にさらす戦争には、極力、慎重なのである。
 一方、空想的な理想をもとめる革新政党は、国家や歴史、民族という枠組みに縛られない。
 しかも、衆愚政治の民主主義は、民主的な手続きで政権を握ったヒトラーのナチス党のように独裁化しやすい。
 革新政党がもとめるのは革命的破壊で、破壊は、破壊すべきものがなくならないかぎり、際限がなくつづく。
 スターリンとむすんだ共産主義者シンパのルーズベルトが戦争につきすすんでいったのは、戦時法における大統領権限がほぼ無制限で、民主党が、革命政党だったからである。
 ヒトラーが第三帝国を名乗って、スターリンや毛沢東と同様、戦争や粛清に狂奔したのは、ナチス党が革命政党(国家社会主義ドイツ労働者党)だったからだった。
 ルーズベルトやトルーマンが日本殲滅≠ニいう、フーバーとハミルトンが想像もおよばない狂人的な目的にむかってつきすすんでいったのも、民主党が破壊主義の革命政党だったからである。

 フーバーとハミルトン、アメリカ歴史学会の第一人者チャールス・ビアード博士が、戦後、はげしくルーズベルトを批判したのは、「ハルノート」の謀略を知ったからだった。
「ハルノート」は、スターリンのスパイ、ハリー・ホワイトに作成させた秘密文書で、日本に開戦以外の選択肢を奪い、議会の関与なしに戦争の道をひらく世紀の大謀略だった。
『フーバー回想録』にこうある。
「ルーズベルトは、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその1か月後に日本にたいして全面的な経済制裁(1941年/石油の対日全面禁輸)をおこなった。経済制裁は、本質的には戦争であった」
 この時点で、民主党のパートナーは、共和党ではなく、ソ連共産党となったのである。
 ヒトラーの脅威に脅えたスターリンは、チャーチルと同様、アメリカの参戦が喉から手が出るほど欲しく、ルーズベルトも、大統領選の非戦公約≠反故にできる妙案をもとめていた。
 日本を罠にはめて、戦争にひきずりこみ、国家を壊滅させ、中国と満州の利権を一手に握る――それがルーズベルト民主党の野望だったのである。
 日本にとって、幸運だったのは、日本の新たな支配者となった連合国軍最高司令官のマッカーサーが共和党に近く、天皇をまもったことだった。
『フーバー回想録』によって、ルーズベルトとトルーマンが、アメリカの自由と平和をまもった英雄どころか、世界史に永遠に汚名が刻まれるべき残虐非道な極悪人だったことが明らかになった。
 ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポルポトは、大量虐殺者の烙印を押されて人類の敵となったが、ジェノサイドを計画し、実行したルーズベルトとトルーマンは、いまなお、偉人としての称号をぶらさげている。
 今後、日中、日韓の歴史認識など下らない議論は止めて、日米開戦の真実を明らかにすべきだろう。
 その成果は、村山談話や従軍慰安婦、靖国問題などけしとんでしまうほどの大きなインパクトをもって、かならず、日本人の胸に迫ってくるだろう。
 
posted by office YM at 12:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする