2016年04月25日

 なぜ室町時代は暗黒の中世となったのかA

 ●権威・権力の二元論と慈円の百王説
 二元論は、権威と権力、国体と政体、文化と軍事などのように、根本原理の異なる二者が、独立しつつ支えあう構造である。
 日本が、紀元前来、同一国家として存続しえたのは、二元論構造のたまもので、日本という国号が初めてもちいられた天武朝では、律令制度の導入と祭祀の制度化(神社)という異質なものの組み合わせによって、中央集権化と全国統一を実現している。
 土着文化と外来文化の融合は、ユーラシア大陸の極東に位置する島国日本において、地理的必然で、国風化という文化形態は、遣隋使の飛鳥時代から現在までひきつがれている。
 日本では、文化の国風化や神仏習合から権力構造に至るまで、価値の両立や共存という特有の原理が国をうごかしてきたのである。

 権威と権力の分離は、日本特有の政治風土で、一元論に立つユーラシア大陸で、民族紛争や宗教戦争、内戦、権力抗争がはてしなくくりひろげられてきたのにたいして、日本では、現在まで、万世一系という同一体制の維持が連綿とつづいてきた。
 中世において、乱の構造が生じたのは、この二元論がゆらいだからである。
 一元論の世界では、武力によって、生存競争の決着がつけられる。
 しかし、暴力や権力による覇権は、一過性のものなので、抗争が永遠に止むことがない。
 マルクス史観や権力史観は、一元論に立った歴史観で、戦後、日本の歴史家が祖国の歴史を見失ったのは、天皇史(皇国史観)を頭から否定してかかったからである。

 権力支配の構造を安定させるのが、権力の正統性である。
 権力は、権威から正統性を付与されなければ、施政権をもちえない。
 この二元論は、国家が権力構造でありながら、一方で、文化構造でもあるのと同じメカニズムである。
 日本における二元論は、魏志倭人伝の「卑弥呼は鬼道に事(つか)えて人々を惑わした」という記述からもうかがえる。
 鬼道は、日本を倭国、日巫女(太陽に仕える巫女)、日御子(太陽神の御子)を卑弥呼と表したのと同様、朝貢関係にある下位国にたいする蔑称で、当時の日本には、自然神=太陽信仰があったと思われる。
 魏志倭人伝によると、卑弥呼の死後、男子が王に立てられたが、邪馬壹国の人々はこれに服さず内乱状態となったため、卑弥呼の宗女、壱与(13歳)が立てられて、国が治まったという。
 同書に「佐(たす)けて国を治む」とある男弟は、卑弥呼にたいする行政官で、崇神天皇が、卑弥呼の男弟あるいは後継女王(壱与)の摂政だったという説が有力である。
 日本は、古代より、太陽崇拝と権力統治の聖俗二元体制にあったのである。

 魏志倭人伝に「もとは百余国」とある日本が、大和朝廷あるいは統一国家へ発展してゆく過程で、権力の一元化がはかられたのは疑いえない。
 とりわけ、7世紀からの律令化は、天皇を頂点とした中央集権(官僚体制)で、天皇に権威(祭祀王)と権力(大王)が集中した。
 天皇の権威と権力は、やがて、貴族や武士の台頭にともなって二元化される。
 天皇は、権力に施政権を親任する権威としての存在となってゆくのである。

 だが、それまでの道のりは、平坦なものではなかった。
 摂関政治と院政、武家政権の誕生によって、権威と権力の関係に大きな歪みが生じ、後醍醐天皇の「建武の新政」から足利幕府十五代の240年は、南北朝の混乱から応仁の乱、戦国時代と暗黒の中世となるのである。
 応仁の乱のさなか、後花園上皇の牛車が、騎馬の武士団に道を譲らされるという事件がおきている。
 後花園天皇は、前年からの大飢饉と疫病の流行で、都中に死者が溢れているにもかかわらず、銀閣寺の造営にうつつを抜かす八代将軍善政を諌める漢詩を送っている。
 残民争いて首陽の蕨を採る 処々炉を閉ざし竹扉を鎖(とざ)す 詩興吟は酸なり春二月 満城の紅緑誰のために肥ゆる
 生き残った者は、雑草を争って取り合い、家々の炊事場の火も消えているのに、将軍はこの世の春を謳歌して遊興に走っている、春の恵みはだれのためにあるのかと嘆いているのである。

 律令体制に代わる摂関政治は、藤原道長の子、関白道通の三女が入内した後冷泉が子をもうけることなく崩御し、藤原家と外戚関係のない後三条天皇が即位したため、以後、衰退してゆく。
 摂関政治が武家政権へ移る過渡期に登場したのが院政で、白河(72代)・(鳥羽(74代)、後白河(77代)・後鳥羽(82代)らの太上天皇による政治が100年近くもつづく。
 外戚関係にある公卿が政治を独占した摂関が、母系的なら、天皇を事実上の皇太子として、上皇や法王が天皇のようにふるまった院政は、父系型で、いずれも、この時代までは、政治の実権は朝廷が握っていた。
 ところが、天皇と上皇の対立に平氏と源氏が動員された保元の乱と、ともに勝者となった平清盛が源義朝を討った平治の乱、そして、木曽の源義仲が平氏を攻めて京都に入り、九州へ逃げた平氏が壇ノ浦で滅びたあと、朝廷の政治力は急速に衰えはじめる。
 頼朝が全国に守護・地頭を配すると、朝廷から任命された国司が公領荘園の管理を武家に委任して、やがて、地頭を従えた守護が国司の権限を奪って守護大名へ成長してゆく。
 守護大名の群雄割拠が、戦国時代の下敷きで、これに御恩と奉公、下克上の論理からまりあって、武家政権は、戦国の乱世へうごいてゆくのである。

 承久の乱の前年、新古今集の歌人で、朝廷、貴族、頼朝をつうじて幕府ともつながりが深い天台座主、慈円が著した「愚管抄」が朝廷に大きな動揺をあたえる。
 愚管抄に引用された中国の僧、宝誌の「野馬台詩」によると、日本の皇統は百代で断絶するというのである。
 これが、鎌倉時代以降、未来記として流布した百王説である。
 朝廷側の慈円が皇統の断絶を予言する百王説を唱えたのは、後鳥羽上皇への進言や朝廷の危機感を鼓舞するためなどの諸説あるが、天命という上天信仰のない日本では、天皇は万世一系で、易姓革命は成立しない。
 武士によって、朝廷が滅ぼされるという危機感を煽った百王説は、儒教的な一元論だったのである。
 三上皇が流刑となった承久の乱後、朝廷側の所領が没収されるなど、朝廷にたいする幕府の絶対的優位が確定する。
 鎌倉幕府は、朝廷の皇位継承問題にも干渉した。
 折しも、朝廷では、後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)が両統に分裂するという難問をかかえていた。
 鎌倉幕府の裁定は両統迭立だった。
 そこから、時局は、朝廷存続の危機をはらんで、後醍醐天皇の建武の新政へうごきだしてゆく。

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2016年04月19日

 なぜ室町時代は暗黒の中世となったのか@

 ●権力の正統性≠ェ失われた暗黒の中世
 ヨーロッパにおける暗黒の中世は、ゲルマン人がヨーロッパ全域に拡大して西ローマ帝国を滅亡させた4〜6世紀からルネサンスが勃興する15世紀までの1千年をさす。
 キリスト教支配のもとで、古代ローマ・ギリシア文化の破壊がすすめられたヨーロッパでは、多様性と伝統的な価値観が失われて、政治的にも文化的にも停滞した。
 日本にも暗黒の中世があった。
 後醍醐天皇の建武の新政(1334年)の失敗と南北朝の対立、足利尊氏が開いた室町幕府が滅亡(1573年)するまで、応仁の乱や戦国時代を挟んだ約240年である。
 背景にあったのは、ともに、神話的秩序の崩壊だった。
 日本では、天皇の親任のもとで、貴族や武士が施政をうけもってきた。
 権威と権力の二元体制が国家の安定をささえていたのである。
 ローマ帝国が1000年間もつづいたのは、多神教的なギリシャ文明をうけついだローマ文明の包容力がゆたかだったからで、神道的な祭祀国家を立てた大和朝廷の約1千年(紀元前3世紀の弥生時代〜飛鳥時代)とのあいだに類似性がある。
 大和朝廷は、大宝律令(701年)を制定して、倭国(倭)から日本へ国号が変えて、律令国家へ移り変わってゆくが、それまでは、1000年の長きにわたって、八百万の神々の神話的秩序のなかにあったのである。

 キリスト教による価値の一元化によって、古代ローマ・ギリシアの多元的な文化や秩序が破壊されてローマ帝国が滅び、ヨーロッパは、暗黒の中世へつきすすんでゆく。
 中世ヨーロッパの暗黒化には、掠奪経済や奴隷経済の限界、ゲルマン民族の大移動など、日本とは事情が異なるが、律令制度などの儒教文化の導入によって多神教的な秩序が廃れ、乱の時代にむかっていったプロセスには共通点がある。
 ヨーロッパではキリスト教が、日本では、儒教的価値観が神話的秩序を破壊してゆくのである。
 権力は、歴史の連続性や公的根拠、服従の妥当性などの正統性≠有していなければ、支配力や政治的機能をもちえない。
 この正統性が権威で、権威なき権力は、暴力や強制にすぎない。
 日本では、神話から実史にいたる歴史的実在者の天皇が権威となった。
 権威は合理性を超越している。
 神話からはじまる歴史の連続性や信仰、支配と服従の情緒は、権力のような物理的な力でも、法や制度のような唯物的な力でもないからである。

 日本の神話とギリシャ神話に類似性があるのは、ともに、多神教の国だったからで、ギリシャからは民主主義がうまれ、日本からは、ルソーが理想とした君民共治がうまれた。
 歴史上、天皇と民が対立したことはいちどもなく、戦後のアンケートによれば、GHQの予想に反して、天皇支持が95パーセントにもたっした。
 一方、啓示宗教(アブラハム宗教/ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)は一神教で、崇拝の対象が、救済者としての絶対神である。
 一神教から絶対君主制(王権神授説)がうまれたばかりか、キリスト教会が権力と化し、十字軍に号令をかけ、宗教戦争や悪夢のような異端裁判(魔女狩り)をくりひろげた。
 人為宗教である一神教は、権力の正統性となりえなかったのである。

 仏教は、解脱や悟りによって、死をのりこえることで、一方、儒教は、仁や天の思想によって、現世を生きる道を説く。
 解脱や悟り、仁や天の思想は、観念論で、本居宣長のいう漢意(からごころ)である。
 当時、解読不能だった古事記を読み解き、神話をよみがえらせた宣長はこういった。「大言壮語を並べる隣国において、争いや謀略が絶えないのは、漢意がうそだからである」
 こうとものべた。
「悟るべき事もなき世を悟らんと思う心ぞ迷いなりける」
 宣長が神話をそのままうけいれることをまこととして、漢意=観念論を排除したのは、一種の文化防衛で、権力の正統性を神話や天皇などの歴史的情緒に見たのである。
「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」

 ヨーロッパで、ギリシャ・ローマ文化がキリスト教によって破壊されたように、日本でも、神道的価値が神習合で神話性を失い、あるいは、儒教・道教の侵蝕をうけて、権威が権力化し、あるいは権力が権威をもとめるようになってゆく。
 端緒となったのが、武家政権を樹立(1160年)した平清盛だった。
 清盛は、摂関藤原一族にならって、外戚政治をとる。
 娘徳子を高倉天皇の中宮に入れ、外孫を安徳天皇として立てるのである。
 ここから、権威と権力の二元化がゆらぎはじめる。
 平氏軍は、屋島と最期の決戦となった壇ノ浦の戦い(1185年)で源氏に敗れて、一門は滅亡に至る。
 このとき、6歳の安徳天皇は、神璽と宝剣を身につけた祖母の二位尼(平時子)と母の建礼門院(平徳子)とともに壇ノ浦へ入水、徳子は、救助されるが幼い天皇は崩御する。
 天皇が、権力抗争の戦場で命を落とし、三種の神器のうち二つを失うという事態は、朝廷の権威を決定的に失墜させた。
 その36年後の承久3年(1221年)、こんどは、朝廷側がうごく。
 後鳥羽上皇が、武士から政権をとりもどそうとして、承久の乱をおこすのである。
 藤原一族の貴族政治が終焉して、名実ともに治天の君となった後鳥羽上皇が時の執権・北条義時追討の院宣を出したのだが、時代はすでに武家政治の時代に入り、貴族政治が終わったあとの後鳥羽院政には、祖父の後白河上皇のような合理性も権勢もなかった。

 藤原一族が天皇の外戚として摂政や関白などの要職を占め、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」と謳った藤原道長が摂政になったのが1016年で、白河上皇による院政が開始されたのが1086年である。
 摂関政治がすでに幕を閉じたのちの白河天皇(72代)と後白河天皇(77代)の院制は、台頭してきた武家に対抗するもので、源氏と平氏が、天皇と上皇の対立にくわわった保元の乱(1156年)と平清盛が源義朝を討った平治の乱(1159年)によって、武家政権が誕生している。
 壇ノ浦で平氏が滅び、1219年、鎌倉幕府も源実朝が暗殺されて、源氏が3代で絶え、北条政子が政治の実権をにぎったところで、朝廷が権力の奪回にうごいたのである。
 承久の乱は、後鳥羽上皇側の敗北で、3上皇は流罪、仲恭天皇は退位させられる。
 院の膨大な荘園は没収され、それまで、監視がゆきとどかなかった西国にも地頭が置かれ、鎌倉から京都のうごきを監視する機関として、京都守護にかわって、六波羅探題が設置される。
 承久の乱の戦後処理によって、朝廷は完全に無力化され、以後、明治時代になるまで政治的権勢がもどることはなかった。
 次回は、承久の乱や建武の新政の遠因となった慈円の百王説(『愚管抄』)にふれよう。
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2016年04月11日

 日本文明としての神道と天皇C

 ●近代国家と保守主義
 日本は、この150年のあいだに、二度、西洋化の嵐に見舞われた。
 明治維新のヨーロッパ化と戦後のアメリカ化である。
 その結果、日本独自の文化や習俗、価値観がゆらぎ、西洋の尺度で物事の価値をはかる風潮がはびこって、歴史観や国家観、文明構造までが歪められた。
 三島由紀夫が、文化防衛論を叫んだのは、その危機感からだった。
 政治や防衛、法治の根底にあるのが歴史や文化で、これをまもるには、改革とは比較にならないほどの困難とそれに打ち勝つ情熱や知的エネルギーがもとめられる。
 破壊をともなう改革は、一夜にして実現するが、文化防衛は、数千年の蓄積を背負うたたかいだからである。
 ところが、日本では、明治維新における薩長の下級武士、戦後の左翼・インテリが西洋かぶれに陥って、文化防衛どころか、率先して、自国文明の否定や排除にかかった。

 その悪しき伝統は、大正デモクラシーをへて、戦後までひきつがれている。
 GHQが、戦後、日本の文化文明を根絶やしにしようとしたのは、文化的征服が戦争の最終決着だからで、世界史では、敗戦国が、自国の伝統的習俗から言語までを棄てさせられたケースもある。
 くわえてアメリカは、伝統的価値をもたない革命国家で、国家の最古文書が1776年の独立宣言という新興国家でもある。
 戦後のアメリカ化には、西洋主義への屈服と革命思想の移入、新興国家の浅智恵という三重の縛りがかかっていたのである。
 どの国にも神話があり、文化の源泉をたどれば、神話にゆきつく。
 アメリカの神話は、自由や平等、幸福の追求を天賦の人権としたジョン・ロックの自然法思想である。
 その神話がそっくり移入されたのが、GHQ憲法で、西洋とは国の成り立ちが異なる日本の文化防衛は、憲法において正面突破されたのである。

 日本国憲法のどこにも、国体や歴史、日本文明にかかる記述がない。
 旧敵国の体制破壊という目的があったのは疑いえないが、革命国家アメリカには、国体にたいする認識も歴史を解する智恵もなかったのである。
 象徴天皇の象徴ということばも、ウェストミンスター憲章(1931年)からの借用で、「君臨すれども統治せず」「儀礼的・形式的な行為」と限定されている英連邦王国における王権には、象徴という用語がもちいられている。
 王権と天皇の区別がつかなかったGHQは、天皇に人間宣言をもとめ、象徴としての地位をあたえ、日本統治をやりやすくしたのである。
 GHQが、憲法から伝統国家の根幹である国体を排除したのは、アメリカには、国家の土台となる歴史がなく、あったのは、ロックの人権思想と個人主義、フロンティア・スピリット(開拓精神)だけだったからである。
 170年前にうまれた革命国家アメリカには、2000年以上の歴史をもつ伝統国家の憲法をつくる資質も資格もなかったのである。

 そのアメリカも、国体を否定した誤りに気づいて、神道指令や公職追放などの左翼的な対日政策の一部をすぐに解除している。
 ところが憲法は、事実上、GHQの強制であったにもかかわらず、形式上、日本の国会(衆議院・貴族院・衆議院・枢密院)で審議、可決後、公布されているので、解除することは不可能だった。
 戦後、GHQの失策に便乗した左翼・インテリは、官界や司法、マスコミや教育界、論壇や学会を支配して、国家主権や自衛権、皇室の永続性が放棄された憲法を武器に体制・国体攻撃を開始した。
 憲法をまもれという声は、GHQが計画した日本劣化$略を忠実に履行しろという自己破壊の声でもあって、教育界・歴史学会・日教組ら護憲派は、ついに、中・韓に土下座で詫びる自虐史観までつくりあげた。

 西洋の思想は、一神教=キリスト教にもとづく一元論である。
 一元論は、正義は一つという一元論で、終局的には、ジェノサイド(民族殲滅)やテロリズムにゆきつく。
 十字軍から海外侵略、植民地政策にいたる西洋の侵略思想は、異民族の征服と奴隷化、異文化の掠奪で、唯一神のもとでは、異教徒や神の恩恵をうけていない未開人は動物以下なのである。
 イスラムと白人社会のテロと空爆の応酬は、西洋の思想をつらぬく一元論からうまれた闘争原理だったのである。
 正しいものが一つしかないのであれば、その唯一性をめぐって争いが生じるのが必然で、世界史は、覇権戦争や宗教戦争、弾圧と抵抗、侵略と虐殺によって真赤に血塗られている。
 一神教を科学や合理主義におきかえたのが近代で、自由や平等、民主主義や共産主義は、いずれも、王権を市民にに移しかえた革命イデオロギーである。
 イデオロギーは、対立概念をゆるさない闘争的な一元論で、正しいものは一つしかないとする西洋思想は、近代になって、革命という形で継承されたのである。

 そこに日本の保守思想に課せられた大命題がある。
 日本の保守主義がまもるべきは、日本が明治維新や前大戦ののちにたどった政治路線ではなく、数千年にわたって継続されてきた天皇の歴史的存在である。
 日本の保守主義者は、フランス革命を批判して「保守主義の父」と呼ばれるエドマンド・バークをさかんにもちあげるが、バークは、アメリカ独立革命運動を支持する革新派でもあって、絶対王政にも反対した。
 議会政治や議会における国民代表や政党の定義づけをおこなうなど、近代政治哲学を打ち立てたバークが擁護したのは、革命政権であって、歴史上、連綿とつづいて王制は、過去の遺物として切り捨てられている。
 バークら、西洋の保守主義者が、国体=天皇という国のかたちを知る由もない。
 王権神授説を否定したのが、ホッブズやロック、ルソーの社会契約説である。
 ホッブズが必要悪としての国家、ロックが議会制民主主義、ルソーが人民政府を唱えたのは、国家以前に市民をおいたイデオロギーで、性善説と性悪説のちがいがあっても、いずれも、人民政府論である。
 王権を否定してブルジョワ革命をおこしたヨーロッパは、歴史の変更したのであって、歴史を保守したのではなかったのだ。

 米・英・仏・ロ・中の五大強国は、いずれも、王権神授説をひっくり返した革命国家である。
 近代国家は、王権を倒すことによって歴史的遺産=国定を捨て、市民革命をもって成立した。
 その論理でいうなら、江戸の市民文化は、衣食住から知的水準、社会制度のレベルにおいて、すでに、市民革命後のヨーロッパの都市をしのいでいた。
 江戸時代の日本は、世界で最初の近代国家だったのである。
 それを見抜けなかったのは、岩倉具視らヨーロッパ使節団の目が曇っていたからで、その欧米コンプレックスが、延々と現在にまでつながっている。
 西洋は、王権を倒して、近代国家を打ち立てたが、日本は、天皇をまもって、近代国家を打ち立てた。
 日本に西洋の王権神授説がなかったのは、権力の正統性が天皇から授かったからで、専制君主が存在しなかったのは、権威と権力が二元化されていたからである。
 日本の保守主義がまもるべきは、近代国家をつくりあげた天皇中心の歴史であって、西洋化の波に?まれたかつての政治路線ではない。
 市民革命以前の歴史を断ち切った欧米の保守主義(カンサバティブ)から学ぼうというのでは、日本の保守主義は、お先真っ暗なのである。
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2016年04月04日

日本文明としての神道と天皇B

 ●天皇と神社
 日本の史学研究者や歴史学会は、日本が大和朝廷成立以降、江戸末期に至るまで精緻に祭祀国家の形態を維持してきた歴史をつたえない。
 GHQによる皇国史観排除と歴史家の公職追放によって、戦後、唯物史観と歴史実証主義一色となった反日・歴史学会が、皇国史観を叩きつぶすためだけの存在になってしまったためである。
 皇国史観を嫌悪する余り、日本史の中核にある神道祭祀を無視して、日本という国家の起源や成り立ちをわからなくしてしまったのである。
 その結果、日本史は、唯物史観に立った西洋史ふうな権力史となって、歴史の物語をとおしてあらわれるはずの文化史・民族史が干上がってしまった。
 日本人の大半は、日本全国に8万社以上ある神社が祭祀国家の形成にどんな役割をはたしてきたのか知らない。
 伊勢神宮の祭神である天照大神や天神地祇、神社の氏神や産土神、八百万の神々の関連についてもなにも知らない。
 神道や神仏習合、祭祀や祭りにたいする知識もないにひとしい。
 そもそも、一神教とは異なる日本の祈り=祭祀をどれほどのひとが本当に理解しているだろうか。

 一神教の祈りは、絶対神との対話で、信仰と救済の契約である。
 日本の祈りは鎮めで、祈ることによって、万物に神が宿り、神が神になる。
 一神教では、ひとが神にひれ伏すが、日本の祈りは、ひとが神を称える。
 祈ることによって、荒魂が和魂へ変化して、人々に幸をもたらす。
 神社のお祭りは、神さまをお迎えして、称え、寿ぐ式典で、お祝いである。
 祭(祀)りを政(マツリゴト)というのは、当時は、豊作を祈る(祈年穀奉幣)ことが国家の大事業で、行政は、マツリゴトの一部だったのである。
 古代律令制の二官八省制は、祭祀をおこなう神祇官と八省を束ねる太政官の二頭政治だが、全国の神社を管轄する神祇官は、太政官をしのぐ諸官の最上位であった。
 天皇を頂点とする古代律令体制は、天神(天つ神)を祀る官庁組織と地祇(国つ神)を祀る地方行政による中央集権制で、神社は、地方行政の拠点だったのである。

 当時、神社には、人臣の身分や位階と同様、社格(神階)があって、体制の階層構造(ヒエラルキー)のなかに組み込まれていた。
 官(朝廷)が幣帛(神前供物)を奉納する官幣社と国司(知事)が代行する国幣社に大別されるが、これら名神大社には、さらに十六社や二十二社、総社や一宮などの区分があった。
 伊勢神宮・賀茂神社・春日神社などの有力神社でおこなわれた祈年穀奉幣をはじめ、宮中から全国の神社が主催した新嘗祭など、初期律令体制では、二十二社など中心に公祭(奉幣祭祀)が全国規模に広がっていった。
 神社を底辺とする日本の律令中央集権は、律(刑罰)と令(行政規定)ではなく、祭祀の全国化という世界史に類のないおだやかな方法によって構築されたのである。
 地方の祭祀をおこなっていた神社は、班幣(朝廷からの供物=幣帛)をうける荘厳な空間(官社)となって、ここに、王権と在地による二重の祭祀構造が完成した。
 大きな役割をはたしたのが、神祇官として天皇家に仕えた中臣氏や忌部氏ら神別氏族である。
 中臣鎌足は、蘇我氏を滅ぼして、中大兄皇子(天智天皇)らと大化の改新を断行、律令体制の基礎を築いた人物で、天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った。
 藤原姓を名乗ったのは、不比等ら直系だけで、中臣一族は、以後も神祇官の主流を占めただけではなく、伊勢神宮や鹿島神宮、香取神宮の大宮司をはじめ有力神社で大きな勢力を誇った。

 40代天武天皇は、祈年祭や大嘗祭などの国家的祭祀や神祇制度の整備をおこない、国史である『日本書紀』と『古事記』の編纂をすすめ、天皇の称号や日本の国号をさだめ、神道や神社、神話などの土着信仰や伝統文化のもとづく国づくりがおこなった。
 一方、大宝律令の前身である飛鳥浄御原令を制定(完成は没後)して、畿内に兵馬を装備、国司が地方豪族の軍事権を掌握して、勢力を畿内から全国へと拡大して、律令国家形成の基礎を固めた。
 天武・持統朝の時代、日本が、全国統一という新時代へふみこんでったのは、日本史上、最大の出来事だったのである。
 当時は、中央と地方、神道と外来宗教(仏教・道教)、律令制と祭祀、天つ神と国つ神、氏神と地祇、縄文文化と弥生文化などが混在していた時代で、天武天皇の英傑性がなかったら、日本は、国家統一どころか、千年の乱に陥っていたかもしれなかった。
 天武天皇の皇親政治は、天皇・皇族中心の専制政治というより、二官八省を皇族で独占して、有力な豪族の影響力を排除することに目的があり、合議制であれば、記紀の編纂や神社の国家管理などの大事業は実現しなかったかもしれなかった。

 天武天皇の全国統一を成功にみちびいた哲学が、日本に古くから根づいていた八百万の神々という土着信仰だった。
 すべてに神が宿っている、すべてが神であるという八百万信仰は、すべてを受容して、何も排除しない。
 八百万の神々信仰は、太陽もしくは大自然崇拝で、太陽の下では、すべてが共存して、無益に争わない。
 神道は、八百万信仰で、神仏習合では、天照大神と大日如来が同一視される。
 日本の歴史学会は、日本民族の祖先は、大陸から渡ってきた渡来人だとしてきた。
 大陸からやってきた弥生人が土着の縄文人を滅ぼして、稲作文化を形成したという唯物史観で、いまでも、すすんでいた大陸、遅れていた日本列島という表現が常套句になっている。
 ところが、弥生遺跡から縄文式土器が出土するなどの発掘成果から、いまではこの説が完全に否定されている。
 しかも、日本人のY遺伝子に大陸にはない縄文人のDNAが残っていることから、縄文人と弥生人は、混血という形で同化していったことがわかる。
 縄文人の神は、太陽や大自然で、空間軸に精霊をみいだすアニミズムである。
 一方、弥生人は、祖霊や地祇など時間軸に精霊をみいだすシャーマニズムである。
 両者を結びつけたのが、すべてに神が宿るとする八百万信仰で、汎神論(はんしんろん/パンセイズム)である。
 天武天皇の日本統一は、八百万の神々信仰によってなしとげられたのである。
 多神性や汎神性の哲学をうけついだのが、聖徳太子が制定した十七条憲法第一条「和を以て貴しとなす」だったのはいうまでもない。

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