2016年05月27日

 天皇問題 Q&A特集A

 天皇問題Q&A
Q 戦後、天皇は象徴となりましたが、中世以降、天皇の地位は、事実上、象徴ではなかったのですか。
A マッカーサーが象徴ということばをもちいたのは、イギリス国王を英連邦の象徴と規定したウェストミンスター憲章(1931年)に倣ったのでしょう。
 イギリス国王は、名誉革命によって政治的実権を失い、首相の指名権などの儀礼的・形式的な権限をもつにすぎない非政治的な存在になりました。
 それが「君臨すれども統治せず」の立憲君主制で、国王が国家の象徴となる近代王制のモデルとなりました。
 日本で、中世以降、天皇が政治的権力をもたなかったのは、それまで、一体だった権威(祭祀王)と権力(大王)が分化したためで、権力が一元化されていたヨーロッパの革命とは、根本的な原理が異なります。
 天皇の権力は、摂政関白や征夷大将軍へ移りましたが、日本の場合、権威と権力が同位だったため、権力が移動しても、名誉革命によって権力を奪われたイギリス王制のように、政治的実権が失われたということにはなりません。
 天皇と摂政、朝廷と幕府の関係は、権力構造における分業で、一方が一方を支えることによって、はじめて、権力が権力に、権威が権威になりうる構造にあったからです。
 戦後憲法で、天皇が、日本国や日本国民統合の象徴になったのは、GHQが立憲君主制をとったためですが、その一方、天皇は、変更可能な憲法の下位におかれました。
 権力一元論で、しかも、革命を体験している西洋では、権威の歴史的意味が失われているため、GHQは、天皇をヨーロッパの国王と同様、儀礼的存在=象徴として、憲法や権力の下においたのです。
 天皇は、政治的意味合いの象徴ではなく、権力(政体)と同位にある国体の象徴なので、政体の一部である憲法で規定することはできません。
 天皇は、歴史や民族、日本文化の象徴であって、政体(=国家や国民統合)や権力の象徴ではないことに留意すべきでしょう。

Q 天皇とヨーロッパの王は具体的にどこがちがうのでしょう。
A 日本は、宗教的・文化的権威と世俗的・軍事力権力が並び立った古代国家の構造が2千年以上にわたって維持されてきた世界最古の伝統国家です。
 これは、古代ローマの国体(=権力の正統性)が現在まで継続しているような奇跡です。
 古代ローマの都市国家が畿内の大和朝廷なら、天武天皇の全国統一がローマ帝政にあたるでしょう。
 古代ローマは、多神教的な神話世界で、ローマ神話に登場する神々を祀ったパンテオン神殿などの遺跡からも、祭祀国家だったことがうかがわれます。
 帝政ローマにも、天武・持統朝の「二官八省」と同様、大神祇官という最高官職があり、摂政や太政官制にあたる元老院など古代日本の官制との類似点が多くみられます。
 ローマ帝国が一神教的な権力国家へ変質するのは、キリスト教を国教とした以後のことで、それが、一神教世界となったヨーロッパの原型として語られるローマ帝国です。
 西洋の国家論や政治学は、キリスト教やローマ帝国を母体にしてヨーロッパ世界が出現したのちのもので、古代ローマ文明とは断絶しています。
 西洋から政治学や歴史を学んだ日本の学者が、天皇や祭祀に無知で無関心なのはそのせいで、ヨーロッパの王制と天皇の区別すらつかないのが実情です。
 ヨーロッパの王は、ローマ帝国由来の覇王で、天皇は、古代祭祀国家由来の祭祀王です。
 王制が武力にもとづく権力なら、天皇は祭祀王にそなわった威力です。
 ヨーロッパ王制と天皇のちがいは、祭祀の有無にあります。
 多神教から一神教、古代合議体制から独裁、革命をへて近代国家へすすんできた西洋にあったのは、権力闘争だけですが、日本では、中世において、祭祀(権威)と施政(権力)の二元体制が復元されました。
 祭祀という文化的側面から国家統一をはたしたところに、ヨーロッパ王制と異なる天皇の特質があるといえるでしょう。

Q 「天皇制」という用語は日本共産党の造語で、保守系の論者は使わないようですが、他に適当な名称が思いつきません。
A 日本共産党が天皇制という用語を使った理由は3つあるでしょう。
 一つは、指摘するまでもなく、ソ連共産党(コミンテルン)から日本共産党への指令(1923年)に「天皇制打倒、天皇制廃止を専一にめざすべし」とあったためです。
 二つ目は、天皇制ファシズム=軍国主義という政治プロパガンダを展開するためで、「天皇制が侵略戦争を始めた」(宮本百合子)という論法が、反天皇のスローガンになりました。
 三つ目は、天皇を律令制や封建制のような制度とみなす歴史の捏造で、戦後、日本共産党の機関紙(赤旗)に天皇制という造語が載ると、大新聞から国語辞典、百科事典までがいっせいにこれにとびつきました。
 天皇ということばの歴史的初出は、聖徳太子が小野妹子に託した隋皇帝への国書「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」で、君主の表記として天皇の称号がもちいられたのは、天武朝からです。
 日本という国号の初出も天武朝(飛鳥浄御原令)で、日本制ということばがないように、天皇制ということばは、歴史的にも、語法的にも存在しません。
 天皇制ということばをつくったのはスターリンで、日本のマスコミや出版、教育界は、日本を共産化してソ連邦にとりこもうとしたスターリンがつくったことばをいまなお使用していることになります。
 天皇も日本も、身分や地位をあらわす固有の称号なので、そのままで、広義な内容を包みこんでいます。
 天皇制は、否定的な意図のもとで使用されることばで、天皇制に反対か否かの問いは、日本国存続の賛否を問うにひとしい愚問といってよいでしょう。

Q 天皇の戦争責任についての議論に決着はついたのでしょうか。憲法改正案における天皇条項、9条ともかかわりが深いと思うのですが。
A 戦争責任という概念も国際法もないので、天皇にも東条英機にも戦争責任はありません。
 いわゆる戦犯として世界各地で処刑された日本軍人約1000人余は敗戦国にたいする報復的殺人で、捕虜虐殺を正当化する論理が戦争責任や戦犯という用語です。
 ところが、敗戦国の日本で、この2つの用語が、いまなお、堂々と大手を振っています。
 百歩譲って、天皇に戦争責任があるとしても、東京裁判やサンフランシスコ講和条約で、戦勝国が無罪や不問を宣しているので、敗戦国の日本から天皇の戦争責任をいいだすのは異様な話です。
 戦争責任はなくても、開戦責任や敗戦責任はあるでしょう。
 開戦責任は、天皇に対米開戦を説得した永野修身元帥、中国大陸爆撃や真珠湾攻撃を計画、実行した米内光政ら海軍にあり、敗戦責任も、南洋攻略という不毛な戦略をとって、本土防衛をおろそかにした海軍にありますが、戦犯指名されたのは、永野と嶋田繁太郎だけで、ソ連参戦や原爆投下を天佑と発言した米内海軍大臣は、戦犯指定さえうけていません。
 天皇の戦争責任と憲法改正をからめて指摘すると、天皇を元首(自民党案)にした憲法で他国と交戦状態になると、天皇が戦争指導者とみなされかねません。
 また、戦力の不保持や交戦権の否定を謳った9条のもとで他国と戦争状態になると、日本は、敵のミサイルではなく、諜報活動や謀略工作、違憲訴訟など反日勢力による利敵行為によって、内部から崩壊してゆくことになるでしょう。
 戦争責任や戦犯などの用語をもてあそび、交戦権の放棄を平和のシンボルとうけとめる反日派の特殊な精神構造が、日本を危機にさらしているといってよいでしょう。
 ちなみに、戦犯ということばは、4度の国会決議(1952〜1955年)によって、すでに死語になっています。
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2016年05月20日

 天皇問題 Q&A特集@

 天皇問題 Q&A
「天皇の日本史(上下巻)」「天皇問題」など天皇に関する著作があり、講演や勉強会などでも、天皇について、多くの質問をいただいてきました。
 本ブログでも、現在、多くの方々から、ご意見や質問が寄せられています。
 そこで、今回から数回にわたって、これまでのご質問とわたしの拙い回答をQ&Aの形で整理してみようと思います。
 
Q 天皇と今上天皇、天皇陛下という呼称は、どのように使い分けられているのでしょうか。敬称抜きの天皇という呼び方は不敬にあたりませんか。
A 天皇ということばは、個人を超越した歴史上の存在という抽象的な意味をふくんでいます。
 国家統一、国民統合の象徴としての天皇という場合、さしているのは、天皇個人ではなく、歴史的実体としての天皇で、国体と同じ意味です。
 今上天皇は、現在の天皇という意味で、昭和天皇という尊号はありますが、平成天皇とはいいません。
 天皇個人への敬称は、陛下で、天皇陛下もしくは今上陛下とお呼びします。

Q 戦後、主権が、天皇から国民へ移ったと教えられました。天皇は、いつの時代から主権者となられたのですか。
A 明治憲法に主権という用語はありません。
 天皇主権ということばは、戦後憲法の国民主権に合わせて、戦後、つくりだされた造語です。
 国家体制が、権威(朝廷)と権力(幕府)に分離された鎌倉時代以降、日本には君主権が存在せず、明治天皇も、象徴元首だったにすぎません。
 したがって、歴史上、天皇主権という地位も実体も存在しなかったことになります。
 主権という考え方もことばも、ヨーロッパからに輸入で、君主権(ソブリンティ)は、絶対王権をさします。
 ヨーロッパでは、絶対王権が倒されて、主権が国民に移動したという解釈のもとで、君主権が、国家主権にうまれかわりました。国家は、国民の手によるものなので、国民主権は、国家主権とイコールという理屈です。
 日本の軍国化は、天皇の権威を利用して、軍部がつくりあげた超越的な権力構造で、天皇が主権をもった独裁体制という解釈は誤りです。

Q 万世一系は、なぜ、男系でなければならないのでしょうか。過去に、南北朝の王朝交代のように、天皇の家系が変更された事件があったのでしょうか。
A 万世一系と天皇家の家系は同一ではありません。
 万世一系は、神武天皇以来の男系血統で、これを木の幹にたとえると、天皇家は枝の一つで、戦後、臣籍降下された11家系もそれぞれ枝です。
 歴史上、皇統が絶えることがなかったのは、一本の枝で男系が絶えると元の幹に戻って、新たな枝から男系相続をもとめたからです。
 26代継体天皇は、25代武烈天皇に男子がなかったため、別の枝(応神天皇系5世)から天皇に就きましたが、このとき、仲哀天皇系(5世倭彦王)という選択肢もありました。
 南北朝は、89代後深草天皇(持明院統)と90代亀山天皇(大覚寺統)の両統迭立ですが、両系統とも父親が88代後嵯峨天皇なので、いずれも、男系継承(万世一系)となります。
 女系の場合、女帝の皇子が皇位に就くと、天皇の血統が、枝ではなく、別の木に移るので、万世一系が途切れます。
 遺伝子学的には、Y染色体は男子(XY)のみに相続され、X染色体は男子と女子(XX)の両方に相続されます。したがって、Y染色体をたどってゆくと男系の単一祖先にゆきますが、X染色体は、両性に相続されるので、歴史を遡るほど祖先が倍数的にふえてゆき、ルーツを特定できなくなります。
 神武天皇を祖とする男系相続(万世一系)には、遺伝子学的な根拠もあったのです。

Q 皇国史観は、過去の亡霊のようにいわれていますが、現在の日本史とどこがちがうのでしょうか。
『皇国史観』という歴史書があるわけではなく、『日本書紀』や『古事記』から北畠親房の『神皇正統記』、頼山陽の『日本外史』、徳川光圀の『大日本史』など日本の代表的な歴史書物が、戦後、すべて否定されて、大雑把に皇国史観と呼ばれるようになりました。
 戦前までの歴史観は、天皇中心ですが、これは、ヨーロッパの絶対王権とはまったくの別物です。
 天皇中心は、君民一体という意味で、天皇は、古代から国家の平穏と国民の幸福を祈る民族の祭り主として、国民の敬愛の対象とされてきました。
 幕府に、統治の正統性(征夷大将軍)を授ける権威として、権力を監視する役割も担ってきました。
 日本の歴史書は、こうした天皇中心の理想的な国の形を脈々と語りつたえてきたものです。
 ところが、戦後、日本古来の歴史観が、歴史学会や教育界、論壇、マスコミから「大東亜共栄圏の建設の名の下に国民を侵略戦争に駆り立てる上で大きな役割を果たした」「周到な国家的スケールのもとに創出された国定の虚偽観念の体系」(岩波ブックレット)と猛攻撃をうけることになりました。
 ここからうまれたのが自虐史観で、現在も、歴史学研究会(東京帝国大学系)と日本史研究会(京都帝国大学系)が、マルクス史観・自虐史観に立った反日運動をくりひろげています。
 戦後、国史否定論が過激になったのには、2つの理由があります。
 一つは共産主義革命で、もう一つは大東亜戦争の敗戦です。
 大東亜戦争は、皇国思想と民主主義の戦争だったといえるでしょう。
 民主主義は、革命と戦争のスローガンで、フランス・ロシア革命、アメリカ独立戦争、中国革命、そして米ソが同盟した第二次世界大戦まで、(人民)民主主義による伝統的体制の打倒が謳われました。
 世界を戦争に駆り立て、暴力革命をおこし、数億人といわれる犠牲者をだしたのは、原爆で大東亜共栄圏思想を打ち砕いた民主主義だったのです。
 日本は戦争に負けましたが、伝統的体制を維持して、現在に至っています。
 左翼陣営が皇国史観を目の敵にするのは、国史を完全否定することによって(人民)民主主義戦争を完遂しようという政治的意図がはたらいているからとみるべきでしょう。

Q「日本は神の国」の発言を批判された森喜朗が「命を大事にしよう。生命は神様がくれたもの。神は、天照大神でも日蓮でも、おしゃか様でもキリストでもよい」と弁明しました。『日本書紀』にもでてくる「神国」とは大きな隔たりがあり、違和感をおぼえました。
A『日本書紀』に記されている神国は、三韓征伐の際、新羅王が神功皇后の軍勢を見て「神国の兵である」としてたたかわずに降伏したという故事によるもので、幕末におきた神州不滅思想は、国家が危機に陥っても、元寇と同様に神風が吹くという戦前の「神国信仰」へとつながりました。
 もともと、神国は、祭祀国家のことで、古代律令制の官庁組織(二官八省)では、二官のうち神祇官が太政官の上位にありました。
 天武天皇の時代に、伊勢神宮をはじめ、全国の神社が整備されて、中央集権の基礎がつくられましたが、祭祀によって、国家が統一されたケースは、世界史的にも稀有でしょう。
 大和朝廷の前身である邪馬台(ヤマト)国の女王日巫女(ヒミコ)についても、魏志倭人伝に「鬼道で衆を惑わす」と記されていることから、古代日本は、ヒトとカミ、自然が渾然と一体化していた神の国だったことがうかがえます。
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2016年05月09日

 なぜ室町時代は暗黒の中世となったのかC

 ●信長が復元した権威と権力の二元構造
 日本の中世は、王朝から武家へと政治体制がきりかわった長すぎた転換期といえる。
 朝廷(=権威)と幕府(=権力)による権力構造の二元化ができあがったのが鎌倉時代である。
 朝廷から征夷大将軍≠フ官位を授かった鎌倉幕府は、全国に守護・地頭を置き、施政権を行使する一方、皇位継承権や祭祀権・人事権(叙任権)、公家や寺社の裁判権、寺社造営のための徴税権など朝廷の専権事項には干渉しなかった。
 この二元論を破綻させたのが、後鳥羽上皇による承久の乱だった。
 承久の乱の戦後処理で、皇位継承権をふくめて、朝廷の専権事項の多くが幕府へ移った。
 これがのちに「建武の新政」や「南北朝の対立」へつながってゆく。
 権威と権力が分離していた祭祀国家としての骨組みが解体して、乱世の構造が生じたのである。
 後鳥羽上皇は、乱をおこすにあたって、諸国の御家人、守護、地頭らに幕府(北条義時)追討の院宣を発している。
 院宣は、天皇の発する宣旨に相当する公文書で、歴史上、朝廷が、施政権を委託した権力実体に宣戦布告したケースは、承久の乱だけである。
 朝廷側は、「朝敵となった以上、義時に参じる勢力は千人もいないだろう」と士気が大いに上がったという。
 朝敵は、聖や永遠性、歴史にたいする侵犯であって、権威が一過性の世俗的権力をもとめては、朝敵のメカニズムがはたらかない。
 朝敵となった義時の軍勢は、わずか一か月で後鳥羽の軍勢をおさえこんだのである。

 朝敵と呼ばれたのは、後醍醐天皇の「建武の新政」から離反した足利尊氏と信長・家康連合軍に滅ぼされた武田勝頼、禁門の変で京都御所に発砲した長州藩、そして、薩長とたたかった(鳥羽・伏見の戦)15代将軍徳川慶喜である。
 朝敵ということばは、歴史上、便宜的にもちいられてきた。
 信長は、武田勝頼との合戦に朝廷から「朝敵征伐」の大義をとりつけ、戊辰戦争では、会津藩に遺恨をもつ長州藩が同藩に朝敵の汚名を着せ、冷酷非道の攻撃をくわえている。
 朝敵は、本来、朝廷(天皇)に反逆する一勢力という意味にとどまらない。
 国体への反逆が朝敵で、天皇の権威は、万世一系という歴史のなかに宿っている。
 その意味で、最大の朝敵は、皇位簒奪を謀った道鏡と足利義満ということになる。
 皇位の男系相続に別の血統が割って入れば、天照大神にはじまる皇祖皇宗の神話が消滅し、新天皇の祖先が、天皇歴代の祖である神武天皇ではなく、どこのだれともわからぬ入り婿≠フ祖先になってしまう。

 女帝の孝謙(重祚して称徳)天皇の寵愛をえて、太政大臣から法王、さらに、天皇の譲位を望んだ道鏡の野望は、死刑を覚悟で「道鏡除くべし」の神意を言上した和気清麻呂によって阻止されたが、足利義満の皇位簒奪を防いだのは、急死という突発的な事件だった。
 武家の最高位である征夷大将軍と公家の最高位である太政大臣の位階にくわえて、准三后という皇族待遇を与えられた義満は、明王朝への朝貢をとおして東アジア世界における公式な『日本国王』としての地位を手に入れ、勘合貿易(日明貿易)で莫大な利益を手にした大富豪でもあった。
 義満は、国家の祭祀・儀礼の場を朝廷から北山第に移管して祭祀権や叙任権(人事権)、高位聖職者(座主・門跡)の任命権を奪い、天皇の『綸旨』や上皇の『院宣』と同等の効力をもつ『御判御教書』を乱発して、武家と公家の両方を支配した。
 相国寺七重大塔の供養で、関白以下の公卿・公家・高僧から土下座で迎えられる地位にまで登りつめた義満が手にしていないのは皇位だけだった。
 正室・日野康子を後小松天皇の准母に仕立て、名目上の准上皇となった義満は、四男の足利義嗣を天皇にするべく、宮中において親王として元服の儀式をとりおこない、あとは、後小松天皇から義嗣への禅譲を待つだけというところで、突如、落命するのである。

 室町時代の朝廷は、経済的にも逼迫し、後土御門天皇(103代/室町幕府将軍11代足利義澄)が崩御された際は、葬儀の費用がなく、遺体が40日も御所におかれたままだったという。
 朝廷の権威失墜にともなって、幕府の威光も低下していった。
 朝廷の後ろ盾のない幕府は、その頃、力をつけつつあった守護大名とかわるところがなく、それでも、足利幕府が延命できたのは、朝廷をのみこむことによって、一応、公武統一政権の体裁を整えていたからで、足利長期政権の土台をつくったのも義満だった。
 義満の内政手腕は、狡知に長けたもので、同族対立や反乱の煽動、領地争い(分郡守護制度)を誘導して、斯波・細川・畠山の御三家(三管領)や山名ら有力守護大名の潰し合いを工作し、これが義満から三代下った足利義教に時代に京の都を焼け野原にする応仁の乱へ発展する。
 この乱では、全国の守護大名が細川勝元の東軍と山名宗全の西軍に分かれてたたかい、そのまま、戦国時代へなだれこんでゆく。

 義満の功績とされるのが、大内義弘を仲介させた『南北朝合一(持明院統と大覚寺統の両統迭立)』である。
 義満は、50年にわたって膠着状態にあった南北朝の対立を両統迭立の復活という形で解決したが、約束(明徳の和約)をまもる気などなかった。
 南朝の後亀山天皇は、義満の謀略にかかって、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位したのである。
 この年(1392年)には、北朝と室町幕府に徹底抗戦した楠木正勝(楠木正成の孫)が敗れて河内千早城が陥落するなど南朝の武士団が壊滅状態になっていた。
 義満は、南朝の劣勢を巧みに利用して、後亀山天皇をひっかけたのである。

 後醍醐天皇の建武の新政が失敗に終わったのは、武家政治の根幹を成す封建的君主制と律令制の王土王民思想や一君万民思想が、相容れなかったからだけではない。
 楠木正成は、後醍醐天皇に、尊氏との和睦を進言したが、聞き入れられず、湊川の決戦で「七生報国」のことばを残して散った。
 正成は、武家政治の時代が到来していたこと、平安時代の王朝政治をもとめた後醍醐天皇の政治が時代錯誤であることを知っていた。
 武家社会は、禄(土地)の安堵と身分の保証をしてくれる幕府や将軍にたいする御恩の代償として、命を惜しまない奉公という封建思想の上に成り立っている。
 正成の報国とは何だったのか。
 報国の国は、領土(政体)ではなく、国体で、奉公の思想は、天皇を敬う勤皇精神にゆきつく。
 それが、教育勅語にひきつがれた「忠君愛国」である。
 後醍醐天皇は、みずから権力をもとめたことによって、勤皇精神の拠り処を放棄してしまったことになる。
 その結果、うまれたのが、権威までを私物化した足利義満という大権力者だった。
 応仁の乱以後、日本が争乱の時代へ突入していったのは、天皇の権威という歯止めを失ったからである。
 日本が天皇中心の国という意味は、天皇が核となることによって、あらゆる価値が、二元的、相補的に共存しうるということで、だから日本は、多様性をのみこんだおおらかな国家なのである。

 戦国時代の幕を引いたのが織田信長だった。
 1568年、織田信長は、正親町天皇の保護という大義名分のもとで京都を制圧した。
 信長は、逼迫していた朝廷の財政を立て直し、祭祀の復活を援けた。
 そして、正親町天皇に勅命をもとめ、朝倉義景・浅井長政との戦い(1570年)、足利義昭との戦い(1573年)、石山本願寺との戦い(1580年)の講和させている。
 信長は、高倉天皇(80代)の外戚となって勢力を誇った平清盛ではなく、天皇を立て、天皇の権威をもって乱を鎮めた源頼朝の方法をとったのである。
 占領期の日本統治に昭和天皇を利用したマッカーサーのやり方も同様である。
 信長が天皇の地位を狙っていたという説がある。
 ありえない話である。
 信長の政治基盤は、たびたび、正親町天皇に講和の仲介をもとめたように、けっして磐石ではなく、天皇の権威なくして、全国を統治する権力に正統性がそなわらないことを知っていたからである。
 信長の薫陶をうけた秀吉や家康もまた、徹底した尊王政策をとって、権力の基礎を固めた。
 朝廷と幕府による権威と権力の二元化は、暗黒の中世という長いトンネルを抜け、信長の手によって、ようやく歴史的復元がなされたのである。


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2016年05月02日

 なぜ室町時代は暗黒の中世となったのかB

 ●権威と権力の癒着が乱の構造
 日本は、祭祀をもって国家を統一した稀有な歴史をもつ。
 制度的には、7〜10世紀頃まで実施された律令制によって、太政官と神祇官の二官と八省から成る中央集権構造がほぼ完成している。
 律令制という法体系のなかに、祭祀という文化体系を入れて、天皇を中心とする統一国家をつくりあげたのである。
 背景にあったのが百済滅亡と「白村江の戦い」の敗北という東アジア情勢の緊張だった。
 天武天皇の律令制定(飛鳥浄御原令)は、国家を統一しなければ外敵に対抗できない危機意識からうまれたもので、「凡(およ)そ政(まつりごと)の要は軍事なり」という詔を発している。
 祭祀というソフトと律令というハードを組み合わせた古代国家のフレームは、その後の国家体制の移り変わりに大きな影響をあたえることになる。
 権威と権力の二元構造が体制を安定させる一方、これが動揺すると乱の時代を招くという揺り戻しが、天武・持統朝以後、藤原不比等の登場から、暗黒の中世を挟んで、室町幕府崩壊まで、延々とくり返されるのである。

 律令体制は、太政大臣を世襲する藤原一族の摂関政治によって大きな変化をとげた。
 太政大臣は、朝廷における最高官職で、藤原氏は、その地位を利用して天皇と外戚関係をむすび、300年にわたって摂政・関白をつとめ、政治の実権を握るのである。
 律令制では、太政官が奏上する政策を天皇が裁可する。
 摂政関白では、摂関家が天皇の統治権を請け負う。
 これを権威と権力の分離とみなせないわけでない。
 ところが、皇子に恵まれなかった後冷泉天皇の崩御によって170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇(71代)が即位すると、摂関政治が急速に終息へむかう。
 政略結婚にもとづいた摂関政治は、普遍的な政治システムになりえなかったのである。
 摂関政治が衰えたあと、白河天皇(72代)は、八歳の堀河天皇に譲位して院政を開始する。
 院政は、鳥羽上皇(74代天皇)へ、さらに後白河上皇(77代天皇)へひきつがれる。
 保元の乱は、崇徳上皇(75代天皇)と後白河天皇が貴族や武士をまきこんで争った朝廷の内紛で、勝利した後白河天皇(上皇・法皇)は、以後、30年以上にわたって院政を敷き、平治の乱と平清盛の登場、平氏の栄枯と滅亡、源頼朝の鎌倉幕府成立など、武士が台頭してきた時代の黒幕的な存在として君臨する。
 後白河は、天皇四人(六条・高倉・安徳・後鳥羽)を皇太子のように扱って権力をふるった。
 一方、武士が権力をもつのをきらい、源頼朝がもとめた征夷大将軍の官位を拒絶している。
 権力者としてふるまいながら、権威としての立場も崩さなかったのである。

 院政は、権威(祭祀王)と権力(大王)を併せもった天武天皇の皇親政治を範としていたものと思われる。
 ところが、現存する養老律令に天皇に関する記述がなく、原典とされる大宝律令や飛鳥浄御原令にも、天皇条項があった形跡がない。
 ということは、当時、権威と権力は、峻別されていたのである。
 戦前、皇室典範は、大日本帝国憲法と二元化されて、議会も関与することができなかった。
 宮務法と政務法の別立ては、権威と権力の分離で、日本は、戦前まで、祭祀国家としての体裁をたもっていたのである。
 現憲法では、皇室典範が憲法に組みこまれている。
 そして、小泉政権下で、万世一系(男系相続)を否定する皇室典範改定案が内閣に提出された。
 これは、権力(民主主義)による権威(伝統)にたいするの侵犯で、祭祀という国体を有する伝統国家の自己否定である。
 中世日本でも、権威と権力の一元化という政治運動がおこった。
 暗黒の中世=戦国の乱世が生じた原因はそこにある。
 権力と権威が一元化すると、権威が失墜し、権力が暴走するのである。

 後白河の死後、征夷大将軍となって鎌倉幕府をひらいた頼朝は、朝廷を重んじるが、実朝が暗殺されて源氏が三代で絶えると、突如、承久の乱がおきる。
 鎌倉幕府の武家政権と京都の公家政権の二頭政治がつづくなか、後鳥羽上皇(第82代天皇)が討幕の兵を挙げたのである。
 討幕軍はあっけなく敗れ、後鳥羽ら3上皇は流刑に処される。
 戦後処理は過酷なもので、上皇らの所領は没収され、朝廷は、幕府の監視下(六波羅探題)におかれる。
 この時点で、一応、権威(朝廷)と権力(幕府)の分離(公武二元政治)が成立して、以後、元寇という国家的危機はあったものの、日本は、100年余の安定期に入る。
 破綻が生じるのは、鎌倉時代末期の皇位継承問題だった。
 承久の乱(1221年)以後、皇位継承に幕府の承認が慣例となっていた。
 幕府は、忠成王の即位を拒み、邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させ、後嵯峨法皇も後継(後深草・亀山)の決定を幕府にゆだねて崩御している。
 これが尾をひき、後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)が、両統に分裂する事態が発生するのである。
 鎌倉幕府の裁定は、両統が交互に即位する両統迭立(文保の和談/1317年)だった。

 幕府の皇位継承への干渉は、政体(権力)が、万世一系(男系相続)という国体の原則を変えようとした小泉政権の皇室典範改定のようなもので、権力による権威にたいする冒瀆である。
 後醍醐天皇は、大覚寺統と持明院統の対立と幕府の皇位継承への干渉という混乱のなかで即位する。
 権力の干渉に甘んじた朝廷に仰ぐべき権威はなく、権威を蔑ろにした幕府に安定した権力がそなわらない。
 それが、国家の危機の構造で、建武の新政の失敗から足利尊氏の反逆、南北朝の対立、足利義満の朝廷乗っ取りの謀略、応仁の乱、戦国時代まで、中世の日本が暗黒化したのは、日本が国体を失って、ユーラシア大陸的な一元的権力闘争の論理にのみこまれたからである。
 亡国の危機を救ったのが、祭祀国家の伝統である尊王意識だった。
 武田信玄や上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら、戦国武将のなかで天皇を脅かす者はだれ一人おらず、覇者は、上洛して、天皇から征夷大将軍の官位を戴くことだけに専心した。
 次回は、戦国時代と重なる室町時代から、織田信長が朝廷(正親町天皇)を立てて、戦国時代に終止符を打つ歴史の流れをみていこう。


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