2017年03月31日

 伝統と民主主義A

 ●不毛なる民主主義への反撃
 伝統をまもるにはつよい意志と高い精神性がもとめられる。
 一方、伝統を破壊するには、無節操と野蛮さがあればよい。
 戦後、日本中に吹き荒れたのは、伝統破壊という荒っぽい突風だった。
 主役を演じたのは、GHQの容共政策に乗じた左翼で、戦後日本は、教育界(日教組・大学)から論壇・学会、マスコミに至るまで、伝統破壊をもくろむ横着なやからであふれ返った。
 伝統破壊の合言葉が民主主義だった。
 日本の民主主義は君民一体(共治)なので、伝統と矛盾しない。
 もともと、多数決にすぎない民主主義は、権力(政体)のカテゴリーにあって、文化(国体)の領域におよぶものではない。
 ところが、左翼の民主主義は、多数決によって、国民の主権を独裁者に委任するという革命理論なので、伝統と真っ向から対立する。
 インチキなのが国民主権である。
 国民という実体はなく、主権(君主権=ソブリンティ)は、君主から国家へ委譲されたものなので、国民主権という概念は成立しない。
 その国民主権=民主主義をもって伝統国家を倒すのが革命である。
 戦後、左翼が躍進して、社会主義(共和制)者や共産主義(一党独裁)が先進的社会のモデルであるかのようなムードが高まった。
 この危機的情況がGHQ憲法と相俟って、のちに敗戦革命(八月革命)≠ニ呼ばれることになる。
 現在でも、日本では、民主主義が絶対的な正義になっている。
 戦後の左翼ブームが、いまなお猛威をふるっているのである。
 そして、民主主義的なるモノが、次々と伝統を放逐している。
 音頭をとっているのは、男女平等をもちだして万世一系を否定した自民党の二階幹事長や小泉政権下の「皇室典範に関する有識者会議」の吉川弘之座長ら日本の指導的な立場にある者たちで、かれらこそ、アメリカ民主主義に民族の魂を抜かれて、日本が伝統国家であることを忘れてしまった典型的な戦後日本人なのである。

 伝統は、文化的遺産や歴史的芸能、古典や遺跡だけをさすのではない。
 歴史の連続性そのものが伝統であって、それがなければ、人間も国家も原始時代のままである。
 コンピュータは、数字が発明された紀元前からの歴史的産物で、人類は数千年の文化的な蓄積を伝統という形でうけついで、子どもでもスマホをあやつる現代のIT社会を築きあげた。
 伝統を否定すれば、コンピュータどころか、いつまでも、指で数をかぞえる原始人のままである。
 現在がコンピュータの時代だからといって、手動計算機を否定するのは伝統破壊で、人間も、幼児や青年だった時代を否定すると成人となった現在の自分は存在しない。
 歴史も同様で、天武天皇の治世がなければ日本の原型はなく、秀吉の検地や刀狩り、キリシタン禁止令、家康の鎖国がなかったら、現在の日本はなかったろう。

 歴史の連続性を断ち切るのが革命である。
 その結果、国を束ねてきた伝統的な価値観や社会的規範がすべて失われる。
 そこで、紀元前のギリシアでうまれた民主主義や貨幣ができる前の古代共産主義を借りてきて、革命国家が人工的につくりあげられた。
 民主主義が賛美されるのは、すぐれたイデオロギーだからではない。
 革命国家には、民主主義以外、規範となる文化的な価値や基準が存在しないのである。
 伝統国家には、民主主義や共産主義よりもはるかにすぐれた道徳や習慣など伝統にもとづいた精神文化の高さがそなわっている。
 したがって、古代社会の多数決制や共産制を採る必要が生じなかった。
 左翼がいくら煽っても、日本で革命がおきなかったのは、伝統をまもることによって、独自の文化と高度な文明社会を維持できるからである。
 戦前、日本人は、伝統国家であることに自信と自尊心をもっていた。
 その象徴が天皇で「天皇陛下万歳」は、伝統国家であることを誇る雄叫びであって、革命国家でいう個人崇拝やカリスマ支配とは本質が異なる。
 マックス・ウェーバーは国家支配の類型を三つに分類した。
 合法的支配(官僚)とカリスマ的支配(独裁)、伝統的支配(権威)である。
 ソ連が崩壊(1991年)したのは、共産党官僚の腐敗とカリスマ的指導者の不在、そしてなにより、歴史に根ざす価値観(権威)がなかったからだった。
 あったのは民主主義(人民独裁)だけだったが、権力争奪や独裁の手続きにすぎない民主主義に治世の英知が宿っているわけではない。

 スターリンやルーズベルトら第二次大戦の指導者が絶対的権力をふるったのは、米ソとも民主(人民)主義を基盤とした革命国家だったからで、ヒトラーも、民主主義(ワイマール憲法)を逆手にとって、独裁者となった。
 日本人が賛美してやまない民主主義は、独裁権力の製造機にすぎなかったのである。
 現在、先進諸国のなかで、革命を経験していない伝統国家は日本だけである。
 革命国家と伝統国家では、国家の成り立ちや価値観、歴史観が異なる。
 歴史にもとづいた伝統国家とイデオロギーを土台にした革命国家では、文化構造が本質的にちがうのである。
 第二次大戦は「民主主義とファシズムの対決」といわれるが、実際は「革命国家と伝統国家の対決」で、日本以外の戦争当事国は、すべて革命国家だった。
 戦後、日本で民主主義旋風が吹き荒れたのは、戦争に勝ったのが、米英ソを中核とする革命国家群だったからである。
 戦争に負けた日本は、憲法から制度、社会通念にいたるまで革命国家のものへと改造された。
 日本の危機は、伝統国家でありながら、革命国家の憲法を有しているねじれにある。
 権力機構(政体)からだけではなく、文化構造(国体)から憲法問題を見直す必要があるのはいうまでもない。
 戦後、日本で民主主義を人類の英知であるが喧伝してきたのは、政権奪取をめざす左翼のデマゴギーで、民主主義は、伝統破壊以外、何一つ歴史の智恵を宿していない。
 民主主義の不毛さを世に広く知らしめることが、戦後から現在まで尾を引く敗戦革命≠ヨの反撃となるのである。
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2017年03月23日

 伝統と民主主義@

 ●「君民一体」と民主主義
 日本は、大和朝廷以来、現在にいたるまで、いちども革命を経験していない伝統国家である。
 にもかかわらず、伝統国家としての自覚に乏しく、伝統の意味すらわきまえない日本人が少なくない。
 戦争に負けて、誇り高く、伝統を重んじる民族が百八十度豹変してしまったのである。
 戦後、GHQによって、憲法が革命国家の内容に書き直されて、進歩主義や唯物史観が蔓延した。
 科学や合理主義、革命によって近代がつくりあげられたという歴史観の前では、過去や歴史、伝統が根こそぎ否定されてしまう。
 それがのちにいう「民主主義革命」で、標的となったのが、伝統という精神文化だった。
 戦後、GHQと左翼が手をむすんだ敗戦革命によって、国体に危機が生じていたのである。
 くわえて、皇国史観や教育勅語を悪の権化とする日教組やマスコミ、論壇や歴史学会の反伝統主義にはすさまじいものがあって、天皇を「土人の酋長」と教える日教組の教員さえいる。
 この風潮に対抗するのがインターネット世論である。
 それまで、一方通行だったマスコミ情報に、インターネットという第三者が介在しないメディアが異議を唱えはじめた。
 伝統破壊を売り物にするマスコミにたいして、かつての日本人の気風を残している草莽の一般国民が、ネットで反日メディアに対抗する流れがうまれてきたのである。

 ネット投稿蘭の「野蛮国の証拠」「税金のムダ遣い」という若者の天皇批判にたいして、同世代と思われる人々から反論が寄せられている。
「日本は『君臨すれども統治せず』の君主制と民主制が共生する国です。天皇は祭事などの伝統儀式で『国民の安寧』と『国家の平和』を祈りつづけておられる。このような『滅私奉公(民)』という崇高な御心をもった君主は諸外国にはいらっしゃいません」
「天皇は太古の昔から、日本国民の「 精神的支柱 」(=国民統合の象徴)なのです。あなた(投稿者)のような、歴史も、伝統も、文化も分からないような人間に『皇室廃止』などという傲慢不遜極まりないことを言ってほしくない」
「あなた(投稿者)の言動は、二千六百年の歴史・文化・伝統をもった日本国と日本列島に住む一億三千万人の日本国民、道義と品格の体現者ともいうべき天皇とともに歴史を歩みつづけてきた私たちの祖先にたいする夜郎自大、傲慢不遜、思い上がりも甚だしい冒涜と侮辱以外の何ものでもありません」
 投稿への反論者がネットウヨ≠ニ呼ばれる人々で、左翼・反日陣営ばかりか、意外なことに、右からも批判を浴びている。
 理由は、かれらが、戦後の日本人が絶対善としているアメリカ民主主義の信奉者ではないからである。

 右も左も、民主主義を最高の価値とするが、そこに落とし穴がある。
 左翼・反日のいう民主主義や主権在民は、国民の一般意思≠ニいう実際には存在しない抽象概念を独裁者にゆだねる革命の手法にすぎない。
 民主主義が国民主権へつながったのは、政権を多数決にゆだねると自動的に国民(人民)政権が成立するという理屈からで、それがルソー流の革命理論である。
 ところが日本人は、民を主とする考え方が民主主義で、民が主権をもつことを主権在民であるかのように誤解している。
 君民一体の民≠ニ民主主義の民≠混同させているのである。
 観念にすぎない民主主義の民は、観念上の存在で、実在しない。
 一方、君民一体は、天皇が実際におられるので、民も実在する。
 天皇の実在と民の実在が同位にあるのが君民一体で、ルソーもそんな理想的なクニ(君民共治)があるなら民主主義はいらないと書き残している。
 天皇を戴いているという事実は、わが国が革命イデオロギーや空疎な理想論に浸食されていない証で、民の幸も国家の繁栄も、現実のものとして、天皇や国民とともにあるのである。

 民主主義は、権力=政体のカテゴリーにあって、一方、君民一体は、文化=国体に属する。
 それが日本の伝統で、日本という国のかたちは、国体という文化構造と政体という権力機構が二元論的に両立している。
 民主主義や主権在民は、歴史上、政体(権力)が国体(権威)から施政権をあずかる君民一体のなかに組み込まれている。
 左翼・反日が伝統に牙を剥くのは、君民一体の伝統が、君民を対立させる革命理論にたいする妨害となるからである。
 多数決によって歴史までひっくり返せる西洋の民主主義と日本の臣民一体の伝統が、ここで決定的に対立する。
 右翼は民主主義に反対しているのではない。
 君民一体の国体のなかにあって、革命思想としての民主主義を排除しようとするだけで、そこから伝統をまもるという闘争的な姿勢がでてくる。
 伝統を破壊するには、下劣な品性と感情論だけですむが、まもるには見識と打って出る行動が必要となる。
 専守防衛だけでは、気づいたときには一面焼け野原となっているのである。
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2017年03月13日

謀略国家アメリカの正体C

 ●憲法・日教組・大新聞が反日主義の元凶
 テレビの討論番組で「反日主義のどこがわるい」と居直った若者が、日本という国家自体が憲法違反だという珍論をくりだした。
 そして、左翼憲法学者の論を借りてきて「国家を監視するのが憲法」と主張した挙げ句、「憲法は国体」と言い放った。
「国家は悪である」というルソーの革命思想と大統領の権力を憲法で制限するアメリカ民主主義、そして、国家主権が否定されている戦後憲法の三者を組み合わせて、珍妙なる理屈をこねたわけだが、それが反日主義の論法である。
 反日思想を培養したのは日教組と大新聞である。
 日教組教育をうけ、朝日新聞を読んでいるとほとんどが左翼か反日主義者になってしまう。
 くわえて、日本国憲法は、国家主権を否定して、国民主権を謳っている。
 戦後、日本から伝統国家の精神が消えたのは、憲法が共和制(革命国家)のものになっているせいでもある。
 17世紀のイギリス革命から20世紀のロシア革命にいたる200年ほどのあいだヨーロッパでは革命の嵐が吹き荒れた。
 この理論的支柱となったのがロック(アメリカ独立戦争)とルソー(フランス革命)そしてマルクス(ロシア革命)だった。
 遊離した国家と人民の関係をむすびなおそうとしたのが社会契約説である。
 万人の万人に対する闘争を避けるために国家が必要としたホッブスの半世紀後にロックが人民の抵抗権を、百年後にルソーが直接民主主義を、20世紀になって、マルクスが暴力革命によるプロレタリアート独裁を唱えた。
 戦後、革命の経験も必要もなかった日本でヨーロッパの革命思想が流行したのは、じつに奇妙な話で、よほど、西洋の真似をしてみたかったのであろう。

 ルソーの人民主権(直接民主主義)は、議会に収容することできない人民の意思を一般化して、一人の独裁者にゆだね、ロックは、人民の主権を議会や三権分立に委託した。
 前者がナポレオンやヒトラー、スターリンなら、後者がアメリカの大統領というわけだが、アメリカの場合、大統領と議会、憲法が三つ巴の関係で、ルソーとロックがごちゃまぜになっている。
 首相公選制や国民投票、地方分権は、革命国家の政体であって、伝統国家である日本にはそぐわない。
 ロックやルソーをもちださずとも、日本には、万人の戦争を避けうる国体と国家の二元構造があって、その伝統が天皇の存在である。
 先の若者は、革命思想を吹き込まれて、伝統のなんたるかを知らなかったのであろうが、戦後、日本では、革命を進歩的、改革ともちあげ、伝統を守旧的、反動、右翼と悪し様にいう風潮がはびこってきた。
 さらに大きな誤りは、民主主義を文化の領域にまでひろげて、歴史の否定をおこなったことである。
 社会常識や習慣などの文化的規範に法の範疇にある自由や平等、人権や民主主義をもちこみ、いらぬ混乱や摩擦をひきおこしているのである。

 日本というクニは、国体と政体の二本の柱からできている。
 国体は、歴史にもとづく文化の系統で、政体は、政治をおこなう権力の系統である。
権力(政体)に正統性を授けるのは、権威(国体)という文化構造である。
 したがって、伝統国家には憲法が要らない。
 イギリスが憲法をもたないのは伝統国家の体裁をとっているからで、文化の歴史的蓄積ができているため一般的慣習法(コモンロー)ですべて足りるのである。
 ところが、歴史のないアメリカには、歴史に培われた社会規範がない。
 したがって、なんでも裁判で決着をつけなければならない。
 そこにアメリカが過剰な法治主義に陥っている原因がある。
 多数決(民主主義)と法だけで決着のつくのは文化果つる野蛮な地で、戦争や軍事力を背景にした「力の支配」だけがまかりとおるのである。
 アメリカがアメリカたりえているのは、超軍事大国にして、国家の仕組みが軍産複合体という臨戦体制になっているからで、日本は、どうあがいても、アメリカのような国になれず、なる必要もない。
 アメリカは自由の国といわれるが、その自由は、ジャングルの自由で、武器の携帯がゆるされているのは、自由のリスクは、命がけでまもらなければならないからである。
 日本では、あらゆる権利が憲法で保障されているが、反対給付の自己責任や義務はほとんどない。
 それでも、日本で「万人の戦争」がおきないのは、自由には節度、平等には分相応、人権には人格という常識や良識、社会通念がはたらいているからである。
 その意味で、日本は、文化的には伝統国家だが、政治的には、新興国並みである。
 民主主義と法だけを社会規範とする新聞論説など幼稚園並みといってよい。
 アメリカで、民主主義と法だけですべて片がつくのは、それ以外の社会的な規範がないからで、自由と個人主義のリスクと自己責任は、日本人が想像できないほど大きい。
 国家は悪だ、武器を捨てれば平和になると叫ぶ反日主義は、恥ずべき「甘えの構造」なのである。
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2017年03月09日

謀略国家アメリカの正体B

 ●文化の領域に侵入してきた民主主義
 現在、世界中で、リベラリズムと保守主義が対立している。
 個と全体の矛盾が二つの潮流となって、政治の場で衝突しているのである。
 個を重く見るのがリベラルで、全体を重視するのが保守である。
 保守と革新の対立は、マルクス主義の破綻と保守主義の中道化によってほぼ解消されて、残っているのは、いまや、国家と個人が対立する構図だけとなった。
 個(個人)と全体(国家)の絶対矛盾はけっして解消されることはない。
 個は全体の一部で、一方、全体は、個なくして成り立たないからである。
 したがって、先進国の政党は、たとえ野党でも、国家を第一義におく。
 それが「大きな政府・小さな政府」論である。
 民主主義や国民主権を国家運営の根幹に据える国などどこにもない。
 政治がコントロールできるのは国家であって、個は政治の外にある文化の領域におかれているからである。
 ところが日本の場合、野党(反日勢力)が個である民主主義をタテにとって全体(政府・国家)を否定するというヒステリー状態が戦後から現在までつづいてきた。
 それを象徴するのが鳩山由紀夫の「日本列島は日本人だけのものではない」や官直人の「国民主権」発言だった。
 多数派独裁の手続きでしかない民主主義=国民主権を、国民が中心となった政治と曲解して、国権や国家を悪とみなすというトンチンカンをやってのけているのである。
 政治は国家運営のことだが、旧民主党政権には、その国家が不在だった。
 あったのは、国民主権や国権の制限など、反政府的なスローガンだけだったが、マスコミ総がかりでとった政権に居座って、反国家的な政策を打ち出した結果、対米関係の悪化と中韓の侮日という重大な国益の毀損がもたらされた。
 反政府運動を煽ることしか能がない旧民主党には、もともと、政権担当能力がそなわっていなかったのである。

 民進党(旧民主党)をリベラル政党ということはできない。
 リベラルは保守と方法論が異なるだけで、ともの国益をもとめるが、日本の場合、リベラルは反体制で、国家や国益、国家の威信を民主主義の反対概念ととらえるのである。
 国家は、機能でありながら文化概念でもあって、両者は表裏の関係にある。
 したがって、伝統文化と民主主義は、二元論的に両立する。
 ところが、自民党左派をふくめる左翼・反日は、民主主義という政治概念をもって、国家を国家たらしめている文化概念を否定しようとする。
 二階官房長官が、女性天皇の問題にからめて、皇位の男系相続が男女平等に反すると発言して一部で物議をかもした。
 政治と文化の区分けがついていないのである。
 戦後民主主義はマッカーサー憲法を原典とする。
 皇室典範(日本国憲法第2条及び第5条に規定)の第一章(第一条)に「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」とある。
 日本に民主主義をもちこんだマッカーサーが男系男子(万世一系)をみとめたのは、民主主義という政治概念と伝統という文化概念が並立するとしたからである。
 民主主義は、政治権力の主体を民におき、それを為政者があずかる手続きにすぎず、一片の政治理念も示されていない。
 まして徳性や文化とは無縁の代物で、かつて、武力に頼っていた権力闘争の手段が多数決に代わっただけの話である。
 ところが戦後、マスコミや文化人は、民主主義を、人類が到達した最高道徳であるかのような言説をふりまいてきた。
 民主主義は、権力奪取の手段であって、文化的要素などそなわっていない。
 文化とは、伝統を継承し、過去から学ぶことで、歴史の知恵である。
 したがって、保守主義に文化が宿るが、民主主義は文化不毛の地となる。
 ヨーロッパでも、民主主義が文化や善、正義としてとらえられることはない。
 それどころか、日本で偉人扱いのルソーが奇人や妄想家の扱いである。
 戦後、日本で、自由や平等、人権や民主主義がもてはやされ、道徳や歴史的な価値観がないがしろにされてきたのは、左翼のプロパガンダにのせられてのことだったのである。
 それが、戦後、絶対善となった民主主義と国民主権の正体である。

 アメリカはリベラル(民主党)と保守(共和党)の二大政党である。
 リベラルは大きな政府(=経済への政府関与)を、保守は小さな政府(=市場主義)を掲げる。
 自民と反自民の権力抗争といった低次元のレベルではなく、政策による選択肢があたえられるのである。
 ニューディール政策のルーズベルトは民主党の大統領で、コミンテルンから多大な影響をうけた経済政策はアメリカ版共産主義≠ニ呼ばれ、最高裁から違憲判決までうけている。
 共和党のトランプ大統領が、共和党の一部から批判され、民主党の一部から支持されているのは、共和党の新自由主義を捨て、政府が経済政策に積極的に関与する民主党の路線をとったからである。

 識者のなかには、民進党(民主党+維新の党)をアメリカの民主党にたとえるひともいるが、民進党は反日主義の権力集団で、同党の蓮舫代表は、国家を乗っ取ることしか頭にない政治的クレーマーである。
 民進党の民主主義や人権は、国家打倒のスローガンで、議会内革命をめざす日本共産党とも共闘関係にある。
 民主主義は権力の系譜なので、民進党や共産党は、文化がゼロの政党ということができる。
 アメリカ民主党は、たとえていえば、自民党の保守本流(宏池会)で、共和党が非主流(岸信介・鳩山一郎派)である。
 日本では、政治向けの政策をおこなう非主流派と経済政策をもっぱらとする保守本流が交代に政権を担当して、バランスをとってきた。
 このサイクルが狂ったのが、細川護煕政権(非自民・非共産8党派連立政権/1993年)と民主党政権(2009年)だった。
 自民党が8党派連立政権に政権を明け渡したのは、宮沢首相の指導力欠如と分派行動が原因だったが、民主党に政権を奪われたのは、マスコミ総出の反自民キャンペーンによるもので、このとき民主党ブームがおこって、議席占有率(64.2%)は過去最高となった。
 アメリカにおける政権交代は、自民党左派と右派の主導権争いのようなもので、民進党や共産党のような反体制政党が政治の表舞台に登場することはありえない。
 先進国にして成熟した資本主義国家である日本で、反体制派(政党)が政権争いに参入してくるのは、国家基本法(憲法)が反体制派のバイブルになっているからである。
 保守系論者のなかにも、戦後、憲法が国体となったとのべる者もいる。
 権力にすぎない民主主義が、憲法をとおして、文化の領域に侵入してきたのである。
 次回は憲法と反日主義の関連についてのべよう。
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2017年03月03日

 謀略国家アメリカの正体A

 ●民主主義を文化概念でとらえた誤り
 戦後、日本人は、自由や平等、人権や民主主義が人類の普遍的な価値であるかのような教育をうけてきた。
 そして、戦前の教育勅語や道徳教育を「軍国主義」の象徴として、徹底的に排除した。
 このとき、忠孝や友愛、礼儀や謙虚などの伝統的な道徳観念が捨てられた。
 日本人は、人格の代わりに人権、節度の代わりに自由、恭順や慎みの代わりに平等を採ったのである。
 自由や平等、人権は、民主主義と同様、啓蒙主義から市民革命へいたるなかからうまれてきたことばで、革命を善とする進歩主義である。
 完全なる自由や平等、人権は、だれも手にできない空想である。
 それを手にしようと思えば、勢い、体制批判となる。
 実現不能な欲求を立て、実現できない責任は政府(あるいは国家)にあるというデマゴギーをふりまくのが左翼や反体制派、無政府主義者らのやり方で、自由や平等、人権は、そのプロパガンダにもちられてきた戦略用語である。

 ヨーロッパには、法の下では万民平等でも、身分制度が残っている。
 現実と空想の仕分けができているのである。
 ところが、日本では、法の外にある不平等までが差別として糾弾される。
 奴隷制度や身分制度を体験したことがないため、法の制約にすぎない平等を「人間は生まれながらにして平等である」と観念的にとらえてしまうのである。
 人権や平等も同様で、ルソーの「自然に帰れ」を盲信して、国家がまもっている人権や法の上の平等を、国家が奪ったと逆転させる。
 パスポートを失い、不法滞在で長期拘留されたひとは、母国の大使館に救出されて、はじめて、人権が自然権ではなかったことを知る。
 人間は生まれながらにしてあらゆる権利をもっているという左翼のウソに一杯食わされてきたわけだが、その片棒を担いできたのが、日教組やマスコミ、論壇である。

 絵空事でしかない自由や平等、生まれながらの人権、紀元前の大昔に退けられた民主主義をよみがえらせたのは18世紀のルソーである。
 革命という歴史破壊には、ルソー主義という大嘘が必要だったのである。
 革命の熱が冷めて、現実政治に立ち返った近代において、自由や平等などのことばは法の専門用語として残ったにすぎず、国民主権も、実効的な意味合いを失っている。
 ところが、戦後日本では、国民主権が大手をふるい、保守系政治家さえこの空語を連呼して、国体や国家主権、国益については貝のように口をつむぐ。
 国民の利益以外のことを口にすれば、あるいは国家に言及すれば、右翼と叩かれて選挙に落ちるからである。

 前項で、民主主義が文化的観念ではなく、力(ポリティカルパワー)であると指摘した。
 この大衆的な力には感情がふくまれるので、民主主義の政治は、扇情政治や衆愚政治をうみだす。
 民主主義は、革命や選挙をとおして、力へと変化した国民主権)を独裁者が一手にあずかるという思想である。
 国民主権を煽って、選挙に勝てば、ヒトラーやトランプのように、国民的な支持の下で、独裁者になれるのである。
 国民主権は、多数派の独裁ということであって、政治の技能をもたず、権力操作ができない民衆に代わって、為政者が権力を掌握するだけ話で、民主主義はかならず衆愚政治という名の独裁となる。
 民主主義において、大衆は主権者だが、個人はふくまれず、少数派は政治勢力から除外されるからである。
 それをあたかも、個人に主権があるようにいってきたのが、戦後民主主義である。
 民主主義は、政治力学として不合理で、政策や理念がなく、まして、一片の文化的要素も宿していない。
 戦後、日本人が、人類最高の英知としてもちあげてきた民主主義の正体がこれである。

 政治はきわめつきの現実主義である。
 国益と国家防衛という全体利益の追求が政治で、個人的な心情がはいりこむ余地はない。
 個をなげうって、国家や国民のために現実的な判断を下し、実行に移すのが政治で、個人的心情にもとづいて、国家を犠牲にする鳩山や官、河野や村山のような者たちは、政治家ではなく、社会的扇動家にすぎない。
 ところが、国民は、候補者が政治家か扇動家か区別がつかない。
 政治にはデマゴギーがゆるされるので、自由や平等、人権や福祉などの美辞麗句を並び立てられると、国民は、国家への貢献度ではなく、個人的な心情にしたがって一票を投じる。
 それが民主選挙で、事の是非や善悪、適不適という基準が排除されたただの「数の論理」でしかない。
 多数派が正しいとするのが民主主義で、戦後、日本がこれをもちあげてきたのは左翼の戦術で、数の論理は、暴力同様、問答無用に政府(国家)を転覆できる潜在能力をひめているからである。
 それには、主権が国民にあって、国民の多数が望むなら、なんでもできるという既成観念をつくっておかなければならない。
 それがリベラリズムで(自由主義)で、左翼的ニュアンスが濃いのは、自由や民主は、歴史から学び、過去を土台とする保守や伝統と真っ向から対立するからである。
 次回以降、リベラリズムと世界中で台頭しつつある保守主義の対立の構図をみていこう。
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