2017年08月11日

神道と世界最古の文明「縄文文化」F

 ●日本の神話とギリシャ神話
 神道では、死ぬと魂が身体を離れて、モノ(鎮守の森など/祖神)やコト(祭事など/氏神)になり、あるいは、高天原へ帰ってゆく。
 神社の教えに、命は先祖からもらった宝なので、先祖に感謝すべきというのがあるが、これは神仏儒習合の思想であって、神道は、元来、無念無想である。
 神は、物思うという人間のちっぽけな思惟を超えた存在だからである。
「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」(柿本人麻呂)とあるように言挙げしないのが神道の本質で、それが仏教(経)や儒教(観念)、キリスト教(ロゴス)と決定的に異なるところである。
 言語化されるのは万物の表層や一部であって、モノ・コトの大半は非言語のなかをただよっている。
 言挙げすることによって、非言語の領域にあるものが見失われる。
 神道は直観の世界でもあって、ことばや理屈(観念)は不在でも、すべてを直観でみとおす。
 わかるものとわからないものがあるのは当然で、本居宣長は、わかることもつきつめてゆくと奇異にぶつかるので、結局、すべてが奇異なのだというふうにいっている。
 古事記を解読した宣長は、昔の人が理解したように理解するのが正しい読み方で、不合理だの辻褄が合わないとケチをつけては、本当に読んだことにならないともいっている。

 神道が仏教や儒教と際立って異なるのが死生観であろう。
 仏教にとって死は輪廻転生の結節点で、儒教にとって死は招魂再生の開始である。
 仏教とって、遺骸はかつての魂の入れ物で、死ねば用がなくなる。
 一方、儒教にとって、遺骸は魂の依りどころ(依り代/魄)で、墓を立ててこれをまもる。
 墓や位牌を大事にする日本の仏教は、インド仏教(小乗)ではなく、儒教と習合した中国仏教(大乗)なのである。
 神道は魂の宗教なので、墓も位牌もないが、仏教のように単体として輪廻をくり返すわけでもない。
 神道にとって、死は生の次のステップで「祀り上げ」によって、神になる。
 ひとは死して神になるが、それには、「祀り上げ」という神的行事が必要なのである。
 それが祭祀やお祭りで、マツリが十分でなければ、霊が悪霊となって災いをもたらす。
 日本の三大怨霊とされる菅原道真は天満宮、平将門は神田明神、崇徳天皇は白峯神宮にマツられて、神になったが、霊を粗末に扱っていたときには様々な災いが襲ってきたという。
 神道の死生観において、死が不浄とされたのは、古墳時代以降で、それまで死者は、神や司祭者と考えられており、冥界も陰惨な世界ではなかった。
 これには、神武天皇と崇神天皇を含めた欠史8代のなかに百歳以上が7人もいることとも関連がある。
 初代神武(127歳)、5代孝昭(114歳)、6代孝安(137歳)、7代孝霊(128歳)、8代孝元(116歳)、9代開化(115歳)、10代崇神(120歳)。
 天皇が司祭者だった場合、崩御されても、司祭者でありつづけることができるので、祭祀体制さえ整っていれば、死せる天皇が生者のごとく扱われる。
 7人の天皇は、死後も、祭祀主でありつづけたのである。
 神道において、死と死体は別物で、死によって魂は肉体から離れるが、肉体は地に還る。
 魂は祀られて神になり、肉体は地に還って、地の滋養となるのである。
 ただそれだけのことだが、記紀では、死が黄泉の国のイザナギ・イザナミのおどろおどろした話につくりかえられている。

 日本の神話とギリシャ神話には多くの共通点がある。
「古事記」は元明天皇(持統天皇の異母妹)の詔により太安万侶が稗田阿礼の誦するところを筆録した(712年)ものである。
 稗田阿礼についって、何の記録も残っていない。
 太安万侶は、正五位上太朝臣安万侶だが、阿礼には姓や官位がない。
 聡明な記憶力を買われて、天武天皇の舎人として仕えるようになったというが、平安初期に編纂された氏族名鑑「新撰姓氏録」に稗田という氏族は載っていない。
 二十八歳にして国史編纂という大事業の主役に抜擢されたとされる稗田阿礼はペンネームで、記紀の編纂にあたったインテリ集団の一人か、責任者だった藤原不比等だった可能性もある。
 唐の成立によってシルクロードが栄え、当時、シルクロードの終着駅である奈良へもキリスト教文明やギリシャ風様式が及んだ。(正倉院・法隆寺)
 萩原朔太郎(『日本への回帰』)は法隆寺に、堀辰雄(『大和路・信濃路』)は唐招提寺にギリシャの影響を見たが、なにより、正倉院にはギリシャやローマ、ペルシャなど異国の宝物が収められている。
 記紀の編纂にあたったインテリ集団がギリシャ神話を知っていてむしろ当然だったろう。
 イザナミを追って黄泉国に入ったイザナギは、振り返ってはならないというイザナミとの約束を破ったため、妻を連れ帰ることに失敗する。
 これは、妻エウリュディケを冥界から連れ帰ろうとしたオルペウスが、振り返ってはならないという約束を破ったため、妻を連れ帰ることに失敗するギリシャ神話(琴座神話)と瓜二つである。
 第12代景行天皇の皇子、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、父の命を受けて九州で熊襲(くまそ)を平定、東国で蝦夷(えみし)などの敵対勢力を平定した帰路、病に倒れて葬られたのち、白鳥になって大和へ飛び立ってゆく。
 これも、恋人レーダーに会うために白鳥に姿を変えた全知全能のゼウス神を思わせる(白鳥座神話)。
 因幡の白兎がとびこえたワニ(和邇)の背中はサメではなく、日本にいないワニで、鰐の背中をとびこえる民話は世界中にある。
 イザナギ・イザナミの黄泉の国の話は、儒教や仏教、ギリシャ神話の知識をもった8世紀の知識人の創作で、かならずしも、古代日本の習俗を語ったものではなかったのである。
 次回以降、祀りと並ぶ神道の特質、禊についてふれよう。

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2017年08月09日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」E

 ●宗教的宇宙観が異なる儒教と仏教、神道
 儒教の背後にある観念論を漢意(からごころ)≠ニして徹底的に批判したのが本居宣長である。
「中国には仁や義、礼など立派な教えがあるが、人々は憎みあい、戦争ばかりしているではないか」というのである。
「物の理(ことわり)は、仕舞いにみな不可思議なところに落ちこんでいくもので、陰陽も太極無極も阿字真如も、なんの役にも立たないただのお喋りにすぎない」
 儒教は、壮大なる観念論で、物事の善悪や是非、物の道理(原理・原則)をとうとうとのべ立てるが、現実や身体、日常性からは大きくかけ離れている。
 宣長は、その空理空論を漢意と称して、排除したのである。
 儒教の世界では、中国が父(大中華)で、朝鮮が兄(小中華)、そして日本は中華思想の外にある夷狄で、侮蔑の対象となる。
 韓国が日本に侮蔑と敵愾心をむきだしにするのは儒教国家だからで、日本にたいして、弟分のくせにという小中華の思い上がりが隠れている。
 韓国の未熟さ、後進性は、儒教の自己中心性によってもたらされたといってよい。
 儒教は、道徳と宗教が背中合わせの構造になっている。
 五常(仁・義・礼・智・信)にたいする五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)がそれである。
 儒教の父子関係は、祖先から末代に連続する生命の一つの局面で、一つの生命が親から子、長から幼、君から臣などの関係へひろがって、社会全体が硬直した年功階層におしこめられる。
 それもまた中華思想で、その頂点が入れ替わるのが易姓革命である。
 父子や君臣、長幼の絶対秩序によって争いがなくなるというのは、空想的な観念論で、中国は、孔子がうまれた覇権主義の春秋時代からやがて群雄割拠の戦国時代へと突入してゆく。

 儒教の生命観は魂魄≠ノつきるだろう。
 死は「魂は天へ昇って魄は地へ帰る」現象だが、儒教には、天国や地獄という考え方も輪廻転生という思想もない。
 いったん天に昇った魂は、空に漂ったあと、地にある魄(白骨/墓)へ舞い戻ってくる。
 それが招魂で、墓を参ることによって、先祖と子、孫が再会する。
 生命は先祖から末代まで直線的につながっているので、墓は、生者と死者の面会所なのである。
 仏教は、輪廻転生なので、生命が連続するという思想も、死者の墓をつくる習俗も、むろん、先祖の墓に参るなどの習慣もない。
 日本の入ってきた仏教は、仏儒習合したのちの中国仏教なので、本尊のほかの先祖霊を祀る。
 それが墓や仏壇で、仏壇のなかでは本尊と父母の位牌が並んでいる。

 儒教と仏教、神道では、死生観や宗教的宇宙観がそれぞれ異なる。
 儒教は天上と地上、地下が一体となった一元的世界で、あるのは時間の連続性だけである。
 仏教は輪廻転生がおこる多元的世界で、六道(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)のほか、六道を超越した浄土までが用意されている。
 神道は高天原と葦原中国、黄泉国の三次元、海の向こうの常世国を入れると四次元のように思えるが、実際には、高天原と中つ国(葦原中国)の二次元である。
 中つ国は高天原の反映で、高天原のようにあれかしというのが神道の理想である。
 これは、プラトンのイデア論に似ている。
 この世のことは、すべて、本質にたいする影のようなもので、見えないところに現象(影)をつくりだす大元があるというのがイデア論である。
 高天原のあるのが、実体なのかイメージなのか、それともエネルギーなのかわからないが、高天原の運動によって、中つ国(この世)でさまざまな出来事がおきる。
 天照大御神は、この世を高天原のようなところにしようと思って、ニニギノミコトを天降らせた(天孫降臨)が、実際にはそうならなかった。
 地上には、大国主命らの国つ神や災いをひきおこす荒魂、祟りなどの悪霊が跋扈していたからである。
 神道で、荒魂や悪霊(祟り)を畏れるのは、いかに神さまでも手に負えないからで、それが、神道が仏教を受容した理由の一つである。

 鎮護国家に蕃神(ばんしん/となりのくにのかみ)を借りてきたのである。
 東大寺大仏がその代表だが、8世紀後半には、こんどは、寺院が神を鎮守や守護神にするようになった。
 興福寺における春日大社がそれで、東大寺も宇佐八幡神を勧請して鎮守(手向山八幡宮)とした。
 ちなみに、七福神も蕃神で、最古の仏教説話集『日本霊異記』では、蕃神が「隣国の客神」とされている。
 神が仏(蕃神)の助けを借りたのが神仏習合で、互いにささえあっている。
 神道には絶対神がいない反面、太陽(天照大御神)はすべてを平等に照らし出すので、異神(蕃神)を寛容にうけいれる。
 仏教には荒魂(天災)や悪霊(祟り)という概念がなく、浄土は完成された世界なので、神は仏に、疫病や天災、飢饉などの災いから逃れるための法力をたのんだのである。
 ちなみに、日本では、儒教の宗教性は仏教に吸収されて、鎌倉時代以降、観念だけが支配階級にうけいれられてゆく。
 大義名分論(名称にもとづく秩序)や朱子学(天の思想や理の自己純化)、陽明学(知行合一)などがそれだが、それがやがて、武士道から尊皇攘夷思想へつながってゆく。
 次回以降、神道と仏教、儒教それぞれの発展過程をみていこう。

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2017年08月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」D

 ●日本独自の歴史観をつくれない悲劇
 三内丸山遺跡は、縄文都市で、縄文人は太平洋を股にかける海洋国際人でもあった。
 毛皮を身にまとい、森で小動物を追いまわしていたとする縄文人観は一日もはやく払拭したほうがよい。
「縄文時代」以前を「石器時代」、縄文時代以後を「弥生時代」と呼ぶのは旧い常識だが、三内丸山遺跡は、この常識をも覆した。
 縄文時代は、たんなる時代区分ではなく、世界四大文明を凌駕する人類最古の文明だったのである。
 ところが、膨大な予算と組織をもつ文化審議会(文化財分科会)は、縄文文化が世界四大文明に先駆ける古代文明のであることをみとめようとしない。
 世界文化遺産登録をめざす「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、4年連続で国内推薦を見送られたのはそのせいで、縄文人を原始人とみなす文化審議会の石頭が引退しないかぎり、三内丸山遺跡の世界文化遺産登録は、関係者のかなわぬ夢で終わるだろう。
 さて、その縄文人はどこからきたのか。
 歴史教科書は、日本が大陸と陸続きだった時代、大陸からやってきた人々が日本人の祖先になったと説明する。
 そして、中国が父で、朝鮮が兄、日本が末子という固定観念を捨てることができない日本の歴史家は、文明が、中国から朝鮮半島を経て日本へつたわったという自虐史観をふりまわす。
 日本独自の歴史観がうまれてこないのは、韓国や中国の歴史観とすりあわせるのに懸命で、日本の縄文文明の核心を見ようとしないからである。
 それどころか、韓国や中国の歴史ねつ造につきあい、あっちこちで辻褄の合わないことになって、貝のように沈黙するだけである。

 日本の歴史学者は、稲作が、弥生時代、朝鮮半島からつたわったと主張してきたが、実際は、その逆だったことは、本ブログBですでに指摘した。
 そして、こんどは任那の存在について、韓国と日本の歴史家の大嘘がバレた。
 戦前の日本の歴史教科書には、朝鮮半島南部の地域が任那と記され、日本が半島の一部を支配していたという歴史観が明治時代から60年間つづいてきた。
 ところが、この記述は、韓国側からのクレームで見直されて、任那があった伽耶地方は「小さな国に分かれていた」という意味不明な表記に変更された。
 むろん日本の支配下にあったなど一言も触れられていない。
 日本が朝鮮半島を支配した事実を否定する韓国の歴史ねつ造に日本が従ったのである。
 1990年以降、朝鮮半島の南部で13の前方後円墳が発見されている。
 韓国の歴史学会やマスコミは、一時、日本の前方後円墳のオリジナルは朝鮮半島にあったと大騒ぎしたが、これらの古墳が、五世紀末から6世紀につくられたものとわかって、調査を中断、なかには古墳を破壊してしまったケースもあったという。
 日本に4800基ある前方後円墳は、3世紀からはじまって、6世紀末にはつくられていない。
 大和朝廷の全国統一が完了したからである。
 このことから、前方後円墳が、大和朝廷の勢力範囲を示すモニュメント的な建造物だったとわかる。
 大和朝廷に服する意思表示として、あるいは、大和朝廷の一員であることを内外に示す証として、大和朝廷の高官や豪族、支配権を与った首長などが判で押したように前方後円墳をつくったのである。
 韓国南部で前方後円墳がみつかったのは、日本府があった任那で、この地に前方後円墳があったということは、大和朝廷の勢力範囲が半島南部(伽耶)の全域におよんでいた何よりの証拠である。
 日本の歴史学者はこれを何と説明するおつもりか。
 日本が、伽耶地方の任那に日本府をおき、百済と同盟関係をむすんだ理由の一つに中国南朝 (宋・斉・梁・陳)とその後の隋との関係をあげることができる。
 日本と南朝、隋との外交関係に欠かせなかったのが、海洋経路の途中にある伽耶と百済だった。
 当時、南朝や隋、百済は、大国で軍事国家だった高句麗の脅威にさらされており、日本も高句麗と戦火を交えている。

 聖徳太子が隋の煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(607年)という国書を小野妹子にもたせ、怒りを買った(帝覧之不悦)といわれるが、卑屈な憶測にすぎない。
 隋にとって日本は、ともに高句麗を敵とする同盟国であって、そんなことに腹を立てる余裕などなかったはずで、事実、隋は、10年後、唐に滅ぼされて(618年)いる。
 唐・新羅連合軍は白村江の戦いで百済復興を目指す百済遺民と日本の連合軍を破る(663年)と668年には高句麗を滅ぼしている。
 日本が朝鮮半島に領土をもっていなければ、国境を破って、新羅の朝貢国にしたり、高句麗と戦ったりできるはずはないが、日本の歴史家は、伽耶地方の日本統治や任那の日本府をいまなお否定しいる。
 韓国側から「申し入れがあったから」というのだが、そこに、本ブログの第二のテーマである「神道・仏教・儒教」の葛藤がある。
 中国を父、朝鮮を兄としてみる日本の卑屈な態度の根底にあるのが儒教である。
 次回以降、「神道・仏教・儒教」の葛藤へと論旨をふりかえていこう。

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2017年08月02日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」C

 ●日本文明の土台は縄文文化
 縄文文化を代表する遺跡が三内丸山遺跡(青森県青森市)である。
 全国に縄文遺跡は数多くあるが、三内丸山ほど大規模で、人々の生活形態が浮き彫りになっている遺跡は他に例がない(2000年特別史跡に指定)。
 大規模な竪穴住居や掘立柱建物の建設には、労働力や団結力、指導力のほか高い技術力が必要となる。
 縄文人は、ことばのほか、抽象的な観念ももっていたのである。
 縄文時代前期から中期(約5,500年〜4,000年前)にかけて、これほどハイレベルな文明があったことに、縄文人=原始人と思いこんでいた考古学・歴史学会は大きな衝撃をうけたはずである。
 計画的な集落設計、舗装(アスファルト)道路と墓列などの大規模な造成のほか、高床式倉庫跡や貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場などもみつかっていることから、三内丸山遺跡にいまや「縄文都市」という冠辞がつけられている。
 縄文土器(鉢類や皿)、石器(やじり、槍、磨製斧)、木器(掘棒や朱漆)のほか袋状編み物(ポシェット)、編布、土偶、石や木製の装身具、骨角牙貝製器(針、釣り針、刺突具)などが次々に出土して、当時の人々の暮らしが徐々に明らかになりつつあるが、驚くべきは、堅果類(クリ・クルミ・トチなど)のほか、一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメまでを栽培していたことである。
 縄文人は、毛皮を身につけて森で獣を追っていたとする日本の考古学会との乖離は甚だしいものがあるが、文化審議会などの学者グループは、三内円山遺跡の世界遺産への推薦を頑強に拒みつづけている。
 西洋の古代観を裏切る日本の高度な縄文文化を意地でもみとめたくないのである。

 縄文人が方向・計数感覚にすぐれた海洋民族だったこともわかってきた。
 三内丸山遺跡のシンボルである3層の掘立柱建物は、6本の巨大木柱を組み合わせた三階建ての建造物で、柱穴の間隔が4.2mに統一されている。
 4.2mは35p(縄文尺)の12倍で、4.2mを3尺、4尺、5尺で折り返せば直角三角形(ピタゴラス三角形)ができ、直角(90度)がえられる。
 三内丸山遺跡の6本の木柱は正長方形に配置されていることから、かれらがピタゴラス三角形を知っていたと考えるほかない。
 かれらが数学力をもっていたのは、海洋民族だったからで、航海には星座を読む幾何学のほか、方位や暦の知識ももとめられる。
 3層の掘立柱建物の使用目的はわかっていないが、これが灯台か、漁業用の物見やぐらだったことは、立地条件から明らかだろう。
 当時、三内丸山は海岸線に隣接しており、体長1mのマダイやマグロ、ブリなどの骨のほか、釣り針やモリ(骨器)、1mのオールも出土していることから沖合で大型魚を捕獲していたことがうかがわれる。
 船は、丸太の双胴船かアウトリガー(舷外浮材)付きの丸太船で、それなら波の荒い外洋航海に耐えられる。
 太平洋諸島の先住民は、アジア南部からアウトリガー付き丸太船を使って移動してきたと考えられているが、南太平洋では、現在もアウトリガーの付きカヌーを見ることができる。
 縄文人が外洋航海を得意としていたことは、糸魚川でしか産出されない翡翠や産地(長野・静岡・神奈川・伊豆七島)が限定されている黒曜石が出土していることから明らかである。

 縄文人は海洋民族でもあって、文化の伝播も、陸路ではなく、海路だった。
 世界最古の日本の縄文土器は、朝鮮半島をはじめ日本列島から6000Kmも離れた南太平洋のバヌアツ共和国(エファテ島/1996年/太平洋考古学の篠籐喜彦博士)、中米エクアドル(1965年/バルディビア遺跡/クリフォード・エヴァンス、ベティー・メガーズ博士夫妻博士夫妻)にまでひろがっていたという。
 篠籐博士が発見したバヌアツ共和国の縄文土器は、成分分析の結果、5000年前に青森県で焼かれた円筒下層式土器である事が証明された。
 縄文土器はおよそ1万4000年前にうまれ、簡単なものから徐々に複雑な模様に変化していったが、エクアドルで出土した土器は、発展過程がなく、とつぜん複雑な縄文式土器が出現している。
 このことから、エヴァンスとメガーズ博士夫妻は、縄文人が土器文化を携えて太平洋を渡って移住してきた可能性が高いと発表している。
 縄文人の太平洋横断を可能にしたのは海流である。
 日本付近から黒潮にのると約2か月でアメリカ西海岸に到達する。
 サンフランシスコ沖からカリフォルニア海流にのって南下、赤道反流に乗り移ると、次にぶつかるのが、バルディビア土器が発見されたエクアドルあたりである。
 海流速度や風力、手漕ぎのスピードを計算すると、アウトリガー式の丸木舟で、日本からエクアドルまで約6か月で到着できるという。
 食糧は船陰に集まってくる魚で、水は10日に1度の割合で降る雨を貯める土器が役に立ったはずである。
 寒冷化による飢饉、噴火や大地震による縄文人の難民となって、命からがら外洋に出て、その一部が南米や南太平洋へたどりついた可能性を否定することはできない。
 縄文人は、海を生活圏とする海洋民族で、すぐれた航海技術をもち、太平洋を股にかけて海洋交易をおこない、地球の反対側にまで文明をつたえていたのである。
 日本人は、日本文明の土台が縄文文化にあったことに一日も早く気づくべきだろう。

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