2017年10月29日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」S

 ●縄文時代にさぐる日本国のルーツ
 大川周明は日本史を4期に分けて、第一期を建国から大化の改新までとした。
 実史から天皇以前≠割愛したのである。
 建国以前は縄文時代で、歴史学的には、ほとんど史料がない。
 縄文時代は、歴史学者によると、原始時代で、人々が毛皮をまとって、獣を追っていたとされるだけで、人文科学的な分析がまったくなされていない。
 古道(神道)や天皇のルーツは、その縄文時代にある。
 古道という土着的宗教が、自然崇拝からアニミズム、シャーマニズムなどをへて文化的な発育をとげたと思われるのが縄文時代だが、のべたように、縄文時代の文化史的な研究にみるべきものはなく、むろん、推論も存在しない。
 手がかりになるのが青森県の三内丸山縄文遺跡(5500〜4000年前)である。
 紀元前30世紀から20世紀にかけて、東北中心に「縄文都市」というべき文明が存在していた。
 同遺跡では、約1500年間つづいた集落跡の遺構や遺物から、住んでいた人々の生活技術から精神世界までをみることができる。
 竪穴住居跡、掘立柱建物跡、大型掘立(竪穴)柱建物跡、道路跡から、当時の文化レベルが明らかで、大人と子どもの墓、縄文土器や石器、釣り針、刺突具などの骨角牙貝製器、土偶、土・石製の装身具、袋状編み物や編布などの日用品から当時の人々の生活様式がうかがえる。
 注目されるのが、遠隔地から運ばれたと思われるヒスイやコハク、黒曜石が出土したことで、DNA分析によって、ヒョウタンやゴボウ、マメなどのほかにクリまでが栽培されていたことがわかっている。

 三内丸山の縄文文化は、まぎれもなく、日本文化のルーツで、日本は、紀元前5500〜4000年前からこの土着文化を連綿と保守してきたのである。
 天皇史は、記紀にもとづいて、紀元前7世紀の神武東征や神武天皇の即位を起点にしている。
 それ以前は神話で、記紀神話は、天皇の正統性を謳ったものである。
 神話に隠れて、実史がみえにくくなっているが、日本列島に誕生した文明と文化が、神武神話をはるかにさかのぼって誕生したのはいうまでもない。
 保守は連続性で、神道や天皇という文化、大和朝廷という文明をうみだした縄文文化は、古墳時代をへて、やがて、飛鳥や奈良、平安の日本史へ合流してゆく。
 有史以前から神話、実史をつらぬいているのは、保守という潮流で、日本は同一の宗教観・価値観を有史以前からうけつぎ、今日まで継承してきた。
 それが祭祀国家の原型で、根底にあったのは、自然崇拝と自然を畏れ、敬う素朴な宗教感情だった。
 日本の土着宗教が自然崇拝となったのは、自然が恵みだったからで、砂漠の宗教(キリスト教・イスラム教)が闘争的な一神教なのにたいして、日本の宗教は、平和的な多神教(アニミズム)であった。
 一方、自然は、荒魂が暴れる脅威でもあって、自然神と交流をはかる卑弥呼のようなシャーマンが要請された。
 それが天皇の原型で、紀元前1世紀に「分かれて百余国となる」(漢書地理志)とある国々の族長≠ニしての天皇が、そのはるか以前から存在していたのである。

 天皇や大和朝廷から切り離せないのが古墳である。
 古墳は、権力の象徴として、大和朝廷が日本国家の統一をなした3世紀後半から7世紀にかけてつくられた。
 古墳造成が400年以上つづけられたのは、そのかん、権力の動揺がなかったからである。
 古墳は、当時、世界最大の土木工事で、大手ゼネコン大林組の試算によると、日本最大の仁徳天皇陵に要した日数が15年8か月、必要人員は延べ680万人、かかった費用が2000億円という。
 当時、このような大工事が可能だったのは、大和朝廷が権力国家ではなく、宗教(祭祀)国家だったからで、すでに大和朝廷は、磐石の基盤をもっていたのである。
 三内丸山縄文遺跡と古墳をつなぐのが大規模な土木技術である。
 三内丸山遺跡の3層の掘立柱建物は、6本の巨大木柱を組み合わせた堅牢な建造物で、高度な土木技術のほか、集団的労働力や計画性、すぐれた指導力があったことをうかがわせる。
 吉野ヶ里の弥生遺跡(紀元前3世紀〜紀元3世紀)の復元された掘立柱建物では、直径50p以上の柱が使用されていることから大きな宮殿が建立された可能性が高い。
 日本国の歴史の連続性と4000年の保守思想は、年代をまたぐ遺跡として、歴然として輝いているのである。
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2017年10月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」R

 ●文明の衝突としての神道・儒教・仏教その2
 日本に仏教が伝来したのは6世紀半ばである。
 そして、崇仏派の蘇我馬子と聖徳太子が排仏派の物部守屋を討った「丁未の乱(587年)」ののち、中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼした「大化の改新(645年)」後も、仏教が国教としての地位をえてきた。
 仏教が日本で栄えた理由を三つ挙げることができるだろう。
 一つは、仏教が文明とうけとめられたことで、仏教は、宗教という枠組みをこえ、日本に新文明の導入と普及、その発達という形で開花した。
 大川周明はこう指摘している。
「仏教の渡来とともに寺工、仏工が入国したので、建築・彫刻が俄然として発達した。推古天皇の十八年に高麗より渡来せる僧雲徴は紙及び墨の製法を伝え、同じく推古天皇の時代、百済僧観勒は天文・地理学及び暦本を献じて、播種・収穫その他一般農業上に非常なる進歩を促し、孝謙天皇の時に渡来せるシナ僧鑑真はわが国における医術の祖と呼ばれた」
 土着信仰である神道(古道)が内なる神だったのにたいして、大陸から伝来した仏教は、文明という威をそなえた外なる神で、多神教世界だったわが国において、仏教は、内なる神と並び立つ有力な神となったのである。
 仏教が日本で栄えた二つ目の理由に仏像仏画をあげることができる。
 日本の土着信仰には、神の像を彫り、画いてこれを拝するという習俗はなかった。
 ところが仏教は、万物皆空・諸行無常を説きながら、実際には物象主義的であって、仏像仏画を飾り、堂塔伽藍を建立して、慈悲・偉大・荘厳なる仏陀の福音を形象化することにつとめた。
 抽象的道理はかならずしもひとをうごかさない。
 理論を以って理性にうったえるよりも、具体的な崇拝の対象をあたえ、感情にうったえうることことのほうが、はるかに人心を惹きつける。
 百済から朝廷に仏教をつたわったとき、欽明天皇は「相貌端厳、全く未だ看ざるところなり」と仰せられている。
 古道には神体=偶像がないので、仏像の荘厳美麗なるすがたが当時の人々の信仰心をはげしくゆさぶったのである。
 崇拝の対象を具体化する仏像仏画によって、日本では、仏教の布教が急速にすすんだのである。
 ちなみに、神道が神殿や聖堂をもつにいたったのも、仏教の影響で、それまで小さな祠や自然の一部だった祈祷場が、仏教の堂塔伽藍を模して、大規模な建造物をもつにいたった。
 仏教が日本で栄えた第三の理由に、朝廷が率先して、仏教に帰依した事実をあげることができる。
 僧官を置き、官寺を各国に建立して、国家の鎮護と人民の布教を任じることによって、僧侶は国家における特別の地位を占め、仏教伝道は、国家の事業であるがごとき様相を呈した。
 といっても、皇室の伝統に仏教がとりいれられることはなかった。
 仏教の「輪廻転生」「解脱」が、個人のものであるのにたいして、神道の「八百万の神々」「自然崇拝」が集団や共同体のものだったからである。
 もともと、朝廷が仏教を重んじたのは、仏教が、内神の及ばない力をもつと信じられる外神だったからで、朝廷は、天変地異や疫病などの災いから国家や民をまもるために、外神の霊験に頼ったのである。

 大陸や半島から日本につたわった大乗仏教は、解脱や個人の悟りをもとめる小乗仏教にたいして、大衆救済や社会奉仕という公共的な要素を多くふくんでいた。
 大乗仏教の代表的な人物が、朝廷から初めて仏教界の最高位である「大僧正」の官位をあたえられた行基である。
 1000人をこえる門弟集団を擁していた行基は、49の道場や寺院、15の溜池、9筋の溝と堀、6所の架橋、困窮者のための布施屋9所のほか多くの灌漑事業などの社会事業をおこなった。
 そして、疫病や飢饉、天災に苦しむ民の救済をねがう聖武天皇の要請をうけて、東大寺の大仏を造った。
 大乗仏教が絶対善となったのは、慈悲の思想からだった。
 だが、その後、仏教は、開祖や宗派によって、密教(天台宗/真言宗)や念仏信仰(日蓮宗/浄土宗/浄土真宗)へ変容しながら、それぞれ別個の発展をとげてゆき、行基の社会善から大きくかけ離れたものになっていった。

 中国から伝来した大乗仏教は、もともと、先祖崇拝の儒教や道教(地獄)と習合していたため、祖先崇拝の教義をもっていた。
 これに切支丹禁止令と表裏の関係にある檀家制度があいまって、江戸時代に墓参り仏教、葬式仏教ができあがった。
 一方、孔子思想としての儒教は、学問として武士層にうけいれられて、武士道や忠君愛国、尊皇思想へ変化していった。
 神道と仏教、儒教のなかで、日本的な精神としていまに残っているのは、結局、大川周明のいう古道、神道だけということになる。
 神道の原型は、古代史上、いつごろ萌芽したものであろうか。
 もともと、自然崇拝や大自然にたいする畏怖、一体感に由来するものだったはずで、古道は、本居宣長の大和心にもつうじるだろう。
 次回以降、日本の心としての古道の原点がどこにあったのかをさぐっていこう。
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2017年10月19日

神道と世界最古の文明「縄文文化」Q

 ●文明の衝突としての神道・儒教・仏教
 大川周明は日本史を4期に分けて、第一期を建国から大化の改新、第二期を大化の改新から鎌倉幕府、第三期を鎌倉幕府から徳川幕府の大政奉還、第四期を明治維新から現代までとした。
 その根底にあるのが、儒教と仏教、神道、西洋思想の衝突とその分化・棲み分けであろう。
 大川は、儒教が学問、仏教が宗教、神道が政治、西洋思想が文化への傾きを深めて、日本史の4期の区分けができあがったというのである。
 聖徳太子は、神道をもって政治の根本主義をなし、儒教をもって国民の道徳的生活を向上せしめ、仏教をもって宗教的生活の醇化をはかったと大川は指摘する。
 そして、道徳と政治を兼ね備える儒教は、日本固有の思想と相容れざるものだったと警告する。
 儒教は、天は有罪を討ち、有徳に命じて主権者たらしめると教える。
 それは、とりもなおさず易姓革命であって、力による王位の争奪である。
 シナは易姓革命を幾度となく繰り返して今日におよんでいる。
 ところが、日本においては、神武天皇の直系でなければ主権者となることができない。
 わが国の主権者たる天皇は「天神にして帝王」なるが故に命を受くるところがないと大川はいう。
 大川は天皇を「族の長」としてとらえ、これをして絶対者とする。
 日本が神武以来、万世一系の安泰を保ってきたのは、天皇が族長≠ニいう絶対的存在にして高天原が至高の理想だったからで、その根本にあるのは神道である。
 仏教や儒教がいかに栄えても、皇室においては、神道が尊ばれて、仏儒思想が入り込む余地はなかった。

 仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた丁未の乱(587年)によって、仏教は、国教に準ずるものとなった。
 だが、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣(藤原)鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼして孝徳天皇を即位させ、中大兄皇子が皇太子として実権を握った大化の改新(645年)によって、日本は、政治から仏教勢力を一掃するという古代政治史上最大の改革をなしとげる。
 蘇我氏打倒はその後の日本の政治に決定的な影響をおよぼす。
 国体としての天皇と、政体としての権力(摂政・幕府)の二元性が確立されてのち、その体制が鎌倉・江戸幕府から現代にまで継承されるのである。
 大化の改新以後の朝廷の安定は、易姓革命や宗教政治を排除した神道の絶対性と無縁ではない。
 根幹において変化がないことが国家安定の基盤で、大川が族長≠ニ呼んだこの絶対性は、血統であり神性であり歴史であって、一切の変更をみとめない。
 新嘗祭に代表される皇室の儀式はすべて神道で、太古よりなにもかわるところがない。
 それが祭祀国家の本質で、民の幸と国家の繁栄の祈りは、永遠にして不変なのである。
 国体が絶対にして不変である一方、政体が柔軟だった理由に、蘇我一族や藤原氏ら天皇の外戚(女系)が独占した摂政制度をあげることができる。
 日本で易姓革命がおきなかったのは、摂政あるいは幕府がしばしば交代したからである。
 有徳をもって権力者となるのは、政体の主であって、国体の主ではなかったのである。
 権力抗争は政体の出来事であって、原則として、国体は、権力抗争に関与しなかった。
 摂政あるいは幕府が交代しても、国体が関与しないかぎり、天下の大乱にはならない。
 大川周明が、鎌倉幕府から徳川幕府の大政奉還までを一時代としたのは、700百年近くつづいた武家政権において、国体がまもられたからだった。
 例外が「建武の新政」で、後醍醐天皇がもとめたのは倒幕という権力抗争であって、国体の安泰ではなかった。
 湊川の戦いで散った楠正成の「七生報国」は儒教の思想で、北畠親房の神皇正統記は南朝の正統性を主張して、皇統が神武以来100代にして滅びるという慈円「愚管抄」の百王説を否定した。
 後醍醐天皇、絶対的権威ではなく、相対的権力をもとめて挙兵したのである。
 武家政治をささえた武士道にも、その中心に江戸時代に奨励された朱子学をはじめ陽明学などが中心にあって、それが、御恩と奉公から幕末の維新運動にまで援用された。
 権力をもとめてゆれうごくのが文明の相なら、権威の下で不動なのが文化の相である。
 日本文明は、縄文文化という歴史の下敷きにそって展開されてきた独自の文明運動で、中華文明や西洋文明などと衝突しながら四つの時代区分をかけぬけてきた。
 これもまた大川周明流の『文明の衝突』なのである。
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2017年10月10日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」P

 ●皇国史観排除によって失われた日本人の歴史感覚
 大国主命は、出雲の国(島根県)で八十神を滅ぼし、葦原中国の王となったが、協力者のスクナビコ(小人神少彦/一寸法師のモデル)が常世国へ去って途方に暮れる。
 そのとき、われを大和国の三輪山に祀るべしという声が聞こえてくる。
「その声はだれや」と問うと「我は汝の幸魂(さちみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。
 声の主は大国主命自身で、聞こえたのは自身の魂の声だったのである。
 ここでフィクションと史実、史料が交錯する。
 第10代崇神天皇を支えた第8代孝元天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命は三輪山の神である大物主神(大国主命)の妻(神婚)になったという。
 百襲姫が魏志倭人伝のいう「卑弥呼」で、援けた男弟が「崇神天皇」だったことは、百襲姫の墓(箸墓)が、死期や大きさなどから卑弥呼の墓とみられることからも明らかだろう。
 大国主命と百襲姫の伝説が、卑弥呼の墓(箸墓)という史実をとおしてむすびついているのである。
 神話は、その神話を信じてきた人々の歴史でもあって、実証主義的な実史よりもいきいきと描かれている。
 それが、天孫降臨や神武東征、紀元前660年の神武天皇の即位で、皇国史観は、考古学的にして物語性を欠いた実史よりはるかにゆたかな内容をもっている。

 神武天皇は、大国主命を祀った三輪山麓に朝廷をひらき、10代崇神天皇は三輪山(大和)から全国覇権の第一歩をふみだす。
 ここで問題になるのは三輪山麓の大和という土地柄である。
 大和は地政学的に見て日本国を統一支配するには不適切な地域である。
 四方を山に囲まれた盆地で、陸路・海路から隔たった閉鎖的な場所だからである。
 農業生産の拠点としても狭隘で、河川流域という都市の第一条件を満たしてもいない。
 神武天皇が即位し、都を築いたのは、その大和の南端に近い橿原である。
 大和の中心は、現在の奈良や天理市が近い北方で、南はさびれている。
 神武天皇が橿原で即位した理由は、当時、そこが、豪族たちの力がおよんでいない半ば打ち捨てられた地域だったからではないか。
 神武天皇は、大和をめざしたのではなく、たどりついた地が大和南部だったのである。
 そして、橿原の地で、欠史八代の永きにわたって、地歩を固めて、10代崇神天皇にいたって、全国制覇に打って出る。
 記紀の編纂者は、大和東遷を合理化するために、大国主命の三輪山エピソードを神話に仕立てたのであろう。
 神武東征は、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和の地に至って、橿原宮で即位するまでが記されている。
 東征が東遷とも呼ばれるのは、都を日向から大和に移すという意味である。
 カムヤマトイワレビコは兄のイツセ(五瀬命)とともに、葦原中国を治めるべく、日向(高千穂)から東へむかい、岡田宮で1年余、阿岐国で7年、吉備国で8年を過ごす。
 進軍が遅れたのは敵対勢力の妨害が激しかったからで、イツセは、浪速国の戦闘でついに戦死する。
 熊野まで来たとき、大熊があらわれて、兵士たちはみな気絶してしまう。
 このとき、カムヤマトイワレビコは、熊野のタカクラジ(高倉下)が運んできた一振りの太刀によって目を覚まし、熊野の荒ぶる神を切り倒し、兵士たちも元気を回復した。
 この太刀は、タカクラジの夢にあらわれたアマテラスとタカミムスビ(高木神)から下されたという。
 これは、天孫族のカムヤマトイワレビコに高天原からの神助があったという兆しで、一行はタカミムスビから遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、大和の宇陀に至った。
 カムヤマトイワレビコは、宇陀のエウカシ・オトウカシ兄弟、エシキ(兄師木)・オトシキ(弟師木)兄弟、土雲の八十建、ナガスネヒコ(登美毘古)らと壮絶にたたかう。
 有名なのが戦いの最中、カムヤマトイワレビコの弓の先にとまった金色の鵄(とび)で、ナガスネヒコの軍は、金鵄の光輝に眩惑されて戦闘不能に陥る。
 こうして、カムヤマトイワレビコは、荒ぶる神たちを服従させ、ついに畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)で神武天皇として即位する。
 
 神武東征は、物語が単純ではなく、多くの示唆に富んでいる。
 一つは敵が多かったこと、高天原からの神助があったこと、ひたすら大和の地をめざしたことである。
 敵が多かったのは史実だろうが、神助はフィクションで、大和を目指したのは結果論であろう。
 もっと重要なのは、軍団を率いて、長い歳月をかけて、日向から大和をめざしたカムヤマトイワレビコが橿原宮で即位するにいたった文化の力である。
 戦後日本人は、70年前、皇国史観を捨て去って、日本史を歴史実証主義にゆだねてきた。
 歴史教科書の縄文時代晩期の紹介では、土器や竪穴住居があるだけで、小集団の原始人が狩りや採集で生計を立てていたとする。
 小集団だったのは、確保できる食糧が少なかったからという。
 出土した土器と竪穴住居跡などの史料から一歩も出ないのである。
 ところが、神武東遷の神話には、当時の様子が物語性ゆたかに描き出されている。
 歴史実証主義が見失っている文化の力が、神話のなかでみごとによみがえっているのである。
 皇国史観排除という名目で、戦後、日本人は、歴史を奪われてきた。
 次回以降、日本の基礎を固めた古代天皇の足跡を見ていこう。

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