2017年11月24日

神道と世界最古の文明「縄文文化」24

 ●伝統としての天皇と神話
 日本において、皇位の簒奪が不可能だった理由は、皇位が、制度ではなく、伝統だったからである。
 伝統は歴史という時間軸のなか、制度は現在性という平面軸のなかにある。
 皇位は、歴史のなかに用意された玉座であって、歴代天皇はそこへお座りになられた。
 天皇は、空間的存在ではなく、歴史的存在なのである。
 わが国で、天皇にとって変わろうとするものがでてこなかったのは、制度が歴史をこえることができなかったからで、歴史=伝統が天皇を支えてきたのである。
 伝統は、歴史をつうじて後代へ受け継がれていくもののうち変更が不可能な文化で、神話や宗教、血統や祭祀のほか、習慣や習俗、思想や芸術などもふくまれる。
 伝統の対極にあるのが、革命や進歩、自由や平等、民主主義などの近代思想である。
 これらは、変更が可能というよりも、社会の変革や改革、伝統破壊を目的とした文化である。
 極端なケースが暴力革命だが、民主主義や改革も同じ線上にあって、伝統の価値をみとめないばかりか、改革の抵抗や妨害者と見て、敵視する。
 改革主義に対抗するのが保守主義である。
 伝統と保守主義は同じ陣営にあって、ともに革命や改革主義と対抗する。
 革命や改革主義がなければ、伝統をまもる保守主義も右翼もうまれなかったろう。
 保守主義や右翼、民族派は、フランス革命やロシア革命を全否定する。
 そして、神話であろうと実史であろうと、歴史を全肯定する。
 それが、伝統主義に立つ右の陣営の根本思想である。

 天皇の伝統や権威、根拠が歴史にもとづくのはいうまでもない。
 その一つに、神武以来、万世一系の血統が維持されてきた皇紀2600年をあげることができる。
 そして、もう一つあげられるべきは、日本書紀がつたえる「三つの神勅」の神話である。
「三つの神勅」は、天孫ニ二ギノミコトが高天原から葦原中国に天下られるに際して、天照大神から賜った三つのお告げである。

『宝祚無窮(ほうそむきゅう)の神勅』
 葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
 秋に稲穂が実る葦原瑞穂の国(日本)は、わが(天照大神)の子孫が治めるべき地である。我が子よ、行って治めなさい。天孫が継いでいく限り、この天壌(天と地)はけっして窮することがありません。
『同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅』
 吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし。
 わが子よ、この鏡をわれ(天照大神)と思ってみなさい。そして、この鏡を宮殿内に安置し、お祭りの神鏡にしなさい。
『斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅』
 吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし。
 わが(天照大神)高天原に実った神聖な田の稲穂を、わが子に授けよう。

「三つの神勅」は日本書紀に記された神話であるが、その神話が、天皇や宮中祭祀、神道、米づくりなど、日本という国家や国体の根幹とむすびつき、日本精神や日本的な価値観のようなものをつくりだしている。
 新嘗祭の起源とされているのが『斎庭の穂の神勅』である。
 日本では、古くから五穀の収穫を祝う風習があった。
 宮中祭祀としての新嘗祭が最初におこなわれたのは、飛鳥時代の皇極天皇の御代とつたえられるが、収穫祭の起源はもっと古く、穀物の収穫や備蓄が安定的になって、集落規模も大きくなった縄文晩期から弥生時代にかけてであったろう。
 収穫祭は新嘗祭の原型である穀霊祭でもあって、祭祀主が新穀を天神地祇に供え、みずからもこれを食して、その年の収穫に感謝する。
 当時、穀物の実りは最大の関心事で、穀霊がアニミズムなら、穀霊に祈りを捧げる祭祀主はシャーマンであったろう。
 縄文晩期から弥生時代にさしかかる紀元前10世紀頃、新嘗祭の原型となる収穫祭(穀霊祭)がおこなわれていたと思われる。
 それが日本書紀に記された「三つの神勅」神話とふれあっている。
 縄文時代の素朴な信仰心が、穀霊祭をとおして、神道へ近づいていった。
 自然(穀霊)崇拝のアニミズムが新嘗祭へ、穀霊祭の祭主としてのシャーマニズムが天皇へとうごいて、日本の国体の原型が徐々にできあがってゆくのである。
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2017年11月16日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」23

 ●絶対権力者としての天皇の系譜
 大川周明は、古代史のヒーローとして、聖徳太子と中大兄皇子(天智天皇)の二人をあげる。
 聖徳太子は、推古天皇の摂政として、蘇我馬子と協調して政治をおこない、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の基礎をかためた。
 遣隋使を派遣して、国書に中国皇帝にしか使用されていなかった天子ということば(日出処の天子)を使って、日本が、隋と対等な関係にあるとしたのも聖徳太子で、これは、冊封体制からの離脱宣言だったとみてよい。
 日本は、七世紀初頭、聖徳太子によって、華夷秩序から脱して、独立国家の道を歩みはじめたのである。
 一方、中大兄皇子は、藤原鎌足とともに蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷を自害に追いこみ(乙巳の変)、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたって絶対的権力をふるった蘇我氏を滅ぼして、天皇中心国家の根幹をつくりあげた。
 大川は、大化の改新を断行した中大兄皇子を強者と評価する一方、蘇我馬子と協調関係にあった聖徳太子にたいしては逆の評価をする。
 聖徳太子が強者になれなかったのは、蘇我の閨閥関係(外戚)にあったからだろう。
 聖徳太子の子山背大兄王が蘇我入鹿に攻められて一族が自殺に追い込まれたのは、田村皇子(舒明天皇)との皇位争いに敗れてのことで、ここで、聖徳太子の血筋は完全に絶えてしまう。

 628年、推古天皇の没後、舒明天皇が蘇我蝦夷に擁立されて即位する。
 当事、天皇の任命権まで、蘇我氏に握られていたのである。
 舒明天皇は即位13年目で崩御する。
 皇位は皇太子の中大兄皇子に継承されるはずだったが、若すぎた(16歳)ために皇后の宝皇女が皇位に就いた。
 これが第35代皇極天皇である。
 皇極天皇は中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)の生母である。
 大化の改新後、皇極天皇の弟の孝徳天皇に譲位したが、孝徳天皇が没すると重祚して斉明天皇となった。
 皇位継承権のある中大兄皇子、古人大兄皇子、山背大兄王の争いを避けるためだったと思われる。
 孝徳天皇が崩御した後も、中大兄皇子は即位しない。
 661年に斉明天皇が崩御するが、それでも、中大兄皇子は即位せず、皇太子のまま政務にあたる。
 663年、朝鮮半島の白村江にて、友好国の百済を救うため、日本軍は唐・新羅の連合軍と争うが、大敗する(白村江の戦い)。
 その後、日本は唐からの攻撃を警戒し、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置くなどして侵攻に備えた。
 中大兄皇子が天智天皇として即位した(668年)のは、外国からの襲来に備えて、歴代の天皇が都を構えた大和から遠く離れた近江大津宮だった。
 ちなみに、天智天皇が完成させた「近江令」はのちの「大宝律令」の基礎となる法典である。
 天智天皇は、その三年後の671年、46歳で亡くなる。
 そして、その後、日本中をゆるがす権力闘争が勃発する。
 聖徳太子が基礎をつくり、大化の改新後、確立された天皇政治が、皇位継承をめぐって、大乱(壬申の乱)をひきおこすのである。

 壬申の乱は、天智天皇の弟(大海人皇子)と天武天皇の子大友皇子との争いである。
 たたかいは、草壁皇子や高市皇子、大津皇子、地方豪族を味方につけた大海人皇子の勝利に終わって、大友皇子は自害する。
 大海人皇子がのちの天武天皇である。
 皇位をめぐるこの内乱が、結果として、天皇の絶対主義を固め、天武天皇の皇親政治をうみだすことになった。
 天武天皇は「日本という国の原形をつくりあげた」といわれるほど、日本に大きな影響を与えた天皇である。
『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じ、天皇の名称や日本の国号を制定したのも天武天皇といわれる。
 神道を制度化したのも天武天皇で、各地の神を祀る祭儀を朝廷公式の儀礼へ取り込み、新嘗祭を創設した。
 天武天皇は、唐をモデルとした新たな都、藤原京を建設する。
 ソフト面は飛鳥浄御原令、ハード面は藤原京を建設することによって、天武天皇は、天皇を中心とした本格的な律令権国家を築き上げようとしたのである。
 日本史をふり返って、聖徳太子から中大兄皇子(天智天皇)、天武天皇へつながる権力者・天皇の強烈な系譜は他に例がない。
 蘇我氏を討った中大兄皇子や皇親政治の天武天皇の強権が、天皇絶対主義の土壌をつくりだして、やがて、摂関政治や権威と権力の二元論的へとすすんでゆく。
 次回は、この歴史をふまえて、日本において、なぜ皇位の簒奪が不可能だったのかを考えてみたい。
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2017年11月12日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」22

 ●神道と天皇の誕生
 記紀の時代(8世紀)からみて、紀元前660年は、千年をはるかにこえる大昔で、神武東征も橿原における神武天皇即位も、空想=神話世界の出来事であったろう。
 だが、神話であろうと実史であろうと、日本人にとって、皇紀2600年と神武天皇の真実は、ゆるがぬ歴史の記憶で、歴史は、民族の記憶であり、伝承なのである。
 実在したとされる10代崇神天皇を初代天皇に見立てるむきもあるが、それも、神話と実史のつながる時期が異なるだけで、歴史観に大きな変化が生じるわけではない。
 人々が信じてきたもの、それが歴史なのであって、神話と実史が融合している天皇の歴史は、永遠に変わるところがない。
 大きく変わったことは、崇神天皇の時代に、シャーマニズムとアニミズムの原始宗教が終わって、天皇の時代がはじまったということである。
 自然崇拝にもとづくシャーマニズムは、新嘗祭(穀霊祭)に代表される宮中祭祀へひきつがれ、アニミズムも天神地祇の祭事へ吸収された。
 宮中三殿の賢所は天照大神を祀り、皇霊殿は皇祖皇宗(歴代天皇)と皇族の霊を祀る。
 そして、神殿では八百万の神々(天神地祇)が祀られる。
 これが神道のはじまりで、天皇は、収穫祭の祭祀主だったのである。
 
 縄文文化のエッセンスである神話や素朴な原始宗教が宮中祭祀へと結実する一方、祭祀王だった天皇は、為政者・権力者としての顔をもちはじめる。
 神武以降、欠史八代(紀元前581年〜98年)の約500年にわたる神話時代が終わって、崇神天皇の時代(紀元前97〜30)から人間天皇の物語がはじまるのである。
 ※崇神天皇を3〜4世紀の天皇とする説もある。
 崇神天皇による四道将軍(北陸・東海・西道・丹波)派遣は、神武から9代開化天皇にいたるまで、畿内にとどまっていた大和朝廷が、全国規模の政権へふみだした画期的な一歩であった。
 もっとも、日本全土の支配権を確立するのは、崇神天皇の四道将軍派遣ではなく、崇神から二代下った12代景行天皇の子ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の西方の熊襲征伐、東方の蝦夷平定にあったと思われるが、ヤマトタケルノミコトはたたかいのさなかに命を落とす。
この時代は、内憂外患の時代でもあって、14代仲哀天皇の急死(200年)後、269年まで政事を執った神功皇后は、新羅征討の兵を挙げ、朝鮮半島の広い地域を服属下におき、このとき、新羅や高句麗、百済(馬韓・弁韓・辰韓)は朝貢を約して、人質をさしだしたという。
 三韓征伐は、日本・朝鮮両国の史書ばかりか、支那の史書にも「三韓の地はあるときは支那に臣従し、あるときは倭に服属していた」と記されている。
 これは、日本の外史上、画期的なことで、日本の三韓支配は、日本が日本軍と百済復興軍が唐・新羅の連合軍とたたい、敗れた白村江の戦(663年)までつづく。
 このかん、筑紫の国造磐井が新羅と結んで任那に赴く大和朝廷軍に対抗した磐井の反乱(527年)があったが、物部氏に平定されている。
 以後、地方政権の抵抗は収束して、大和朝廷は、完成期へむかうことになる。

 これが3世紀中頃から7世紀にいたる大和時代(古墳時代)である。
 日本の古代史は、『漢書』や『後漢書』、『隋書』、『魏志倭人伝』など中国の歴史文献に依存している。
 したがって、中国の歴史文献に倭国の記述があらわれてこない266年から413年までの約150年が「空白の4世紀」と呼ばれて、大和朝廷の成立や変遷が謎に包まれたままである。
 だが、大和時代に、朝廷の支配がつよまって、古代国家の基礎が整えられたことは、巨大な前方後円墳がさかんにつくられたことからも明らかである。
 大和時代の初期に、全国で11番目の大きさの前方後円墳である箸墓古墳がつくられている。
 箸墓は倭迹迹日百襲姫命の墓で、魏志倭人伝がつたえる卑弥呼の墓でもある可能性が高い。
 すると、邪馬台国と大和朝廷が一線上につながって、天皇の時代としての大和時代がクローズアップされる。
 といっても、前期は、大伴・物部・蘇我らの各豪族が実権を握って、日本という国のかたちも定まっていなかった。
 天皇中心の政治へ変換していったのは、聖徳太子の法律(十七条憲法)および官制(冠位十二階)改革を経て、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏を討った大化の改新(645年)後のことである。
 大化の改新が成功していなかったら、日本は、蘇我氏らによって、儒教的な国家へみちびかれていたと思われる。
 儒教的な国家というのは、徳治主義に立った国家で、王は、正しいか否かで判定される。
 といっても、正しさの物差しはなく、後任者が前任者を否定することによって、正しさが否定され、体制がひっくり返る。
 これが易姓革命で、儒教思想に染まった蘇我一族とそのとりまきに、天皇に敬意を抱く者はなかった。
 蘇我馬子が、東漢直駒という刺客をさしむけて、崇峻天皇を弑逆した背景にあったのは、儒教思想だったのである。
 次回以降、天皇が権力者として、日本という国の土台をつくってゆく過程をみてゆこう。
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2017年11月05日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」21

 ●縄文文化と原日本人像
 三内丸山縄文遺跡の発見によって、縄文時代の歴史認識ががらりとかわってしまった。
 弥生時代も、そのはじまりが500年もさかのぼるなど、古代史の枠組みが大きく変動した。
 弥生時代のはじまりが早まったのは、水田稲作の伝来時期が、近年の年代測定によって紀元前10世紀とされたためで、従来の縄文晩期が、新しい年代の設定法によって、弥生時代の早期・前期へ書き直された。
 すると、神武天皇が即位した紀元前660年は、縄文の晩期ではなく、弥生の前期にあたることになって、吉野ヶ里弥生遺跡へイメージがつながりやすくなってくる。
 三内丸山縄文文化から1千数百年が経過し、吉野ヶ里弥生文化まで数百年という年代背景を思えば、紀元前7世紀は、野蛮な原始時代ではなく、稲作や集落、集団生活や食料備蓄が定着した古代社会だったと思われる。
 服装も、土偶などから、貫頭衣や巻布衣のほか、袖のついた衣服、ズボンを身に着けていたことがうかがえ、歴史学者のいう原始時代とはかなりイメージがちがう。
 紀元前660年にたいするわれわれのイメージは、考古学にもとづく学者の見解とはずいぶん異なるのである。
 縄文が謎につつまれているのは、1万数千年前から1万年にもおよぶ時代の長さゆえで、三内丸山(約5500年〜4000年前)の縄文文明も、どこへ消えたのか定説がない。

 原日本人がどこからきたのかもわかっていない。
 日本の歴史家は、大陸や半島からやってきた人々が日本人の祖先となったと主張してきた。
 だが、日本人と大陸人・半島人のあいだに血縁関係はまったくない。
 アジアで支配的なY染色体はO系統やC2系統で、日本人のY染色体は「ハプログループD1b縄文系」と「ハプログループO1b2弥生系」の二種類だけである。
 ハプログループはYAP型ともいわれるが、このYAP型は朝鮮人や中国人(漢民族)にはまったく見られない。
 YAP型のハプログループD1b型はアイヌ人・沖縄人・日本人の3集団に多く見られるタイプで、一方、「ハプログループO1b2弥生系」は大陸沿岸人と思われる。
 このことから、縄文人は、どこかから渡来してきたのではなく、数万年前、日本列島に忽然とすがたをあらわし、大陸沿岸部からやってきた同類のハプログループO1b2弥生系と混血して、現在に至ったということになる。
 大陸・半島に「ハプログループO1b2弥生系」が存在しないのは、O系統やC2系統の内陸人に滅ぼされたからで、一部が日本にやってきて、縄文人と混血したのである。
 結局、原日本人=縄文人のルーツはわからない。
 縄文文化も、一万数千年前、忽然とすがたをあらわし、弥生文化と融和したのち、古墳時代をへて、クニ(大和朝廷)を全国規模に広げていった。
 その末裔が今上天皇で、世界最古の伝統国家日本には、縄文人(YAP型)と縄文文化という二本の主柱がそなわっている。
 神道や天皇のルーツについても、日本列島土着である以上のことは、なにもわかっていない。
 1世紀前後に、日本文明が中華文明から分枝した(ハンチントン)というのは、むろん、科学的根拠をもたない見当外れである。

 山田康弘(『つくられた縄文時代』)は「戦前、縄文時代ということばがもちいられたことはなく、一律に石器時代という呼称が使用されてきた」とのべている。
 石器時代は、銅、青銅、鉄がもちいられなかった時代という意味で、人間の歴史の大部分は石器時代に該当し、ほとんど200万年にわたっている。
 原日本人=縄文人のルーツは、旧石器時代の200万年の深い闇にのまれてしまったわけだが、いえることは、縄文文化や日本民族は、どこかからやってきたのではなく、日本列島にうまれていまに残っているという厳然たる事実である。
 それを保守といいうるなら、日本という国家は、日本列島に樹立された世界一の保守国家なのである。
 縄文時代は、紀元前一万年前からはじまる新石器時代にあたるが、世界的な歴史区分にはないので、縄文は、時代的概念ではなく、文化概念ということになる。
 これまで、三内円山からはじまる縄文文化を探ってきたのは、天皇と神道のルーツをもとめるためだった。
 その核心にふれるポイントが記紀の神武東征と紀元前660年の神武天皇の即位であった。
 考古学的には否定されているが、それは大きな問題ではないだろう。
 神話にしろ実史にしろ、大事なのは、物語性のほうである。
 歴史は文化概念で、われわれが記紀を尊重するのは、古人がそれを信じてきたという物語性のほうである。
 天皇や神道の真実も物語にあって、だれも見たことのない実史と空想でしかない神話がないまぜになっているのが歴史である。
 縄文文化のアニミズムとシャーマニズムが、長い時間をへて、古道の原型をつくって、やがて、神道へ発展していった。
 そして、神道=古道から、天皇の権力および権威がうまれた。
 次回以降、日本という国家の誕生にともなう天皇の権力および権威について考えてみよう。
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