2017年12月24日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」26

 ●稲作文化と天皇(2)
 縄文晩期から弥生時代初期にかけて、大陸から稲作が伝来、定着したことによって、日本列島で、人類史上、劇的な変化が生じた。
 一粒の種籾から2000粒、2年で400万粒にふえる驚異的な繁殖力をもつ稲作(米穀)が、人類の生態を根本から変えてしまったのである。
 米穀が採集・狩猟よりはるかに食効率が高く、なによりも「余剰」を生み出す食糧だったことから、定住と人口の増加、備蓄と相俟って、社会の原型というべきものがつくりあげられたのである。
 定住が人口増加を、備蓄が冨を、集団化が権力をつくりだす一方で、飢えから解放された人類は、文化や宗教という無形の価値も手に入れた。
 それが祭祀国家の萌芽で、自然崇拝が穀霊崇拝という形をとって、収穫祭からのちの新嘗祭へ発展し、祭祀主としての天皇が出現する。
 稲作が伝来して、集落が発生してから数百年後、日本列島に、ユーラシア大陸には存在しなかった現人神≠ェあらわれたのである。
 その意味で、天皇は稲作からうまれたといってよいのである。
 そこで、古代史の最大のテーマでもある、天皇の権力や権威はどこからきたのかという大問題につきあたる。
 ヨーロッパのキングも中国の皇帝も征服王(覇王)で、軍隊をもたない祭祀王が、なぜ、覇王をしのぐ強い力をもちえたのか、長いあいだ、謎とされてきた。
 理由は、祭祀王=天皇が、権力ではなく、権威だったからである。
 権力にとって、権威は、決定的に重要な存在で、権力者がその地位にとどまることができるのは、権威が万全なかぎりにおいてである。
 人々の心をつかむのは、法や政治などの権力ではなく、文化や宗教という権威であって、権力は、権威と円満な関係にあるとき、安定する。
 権力者は、権威の構造が定まったところへ権力の基盤を打ち込む。
 権力者にとって、権威は、競合者どころか、かけがいのないパートーナーだったのである。

 それが日本特有の権力構造で、権力は権威を立てて、はじめて、権力者たりえるのである。
 権力者が思い上がって権威を倒した場合、その権力者は、早晩、他の権力者の標的となって、長期政権など望むべくもない。
 権威という絶対的存在がなければ、権力は、漂流するほかないのである。
 それが後醍醐天皇の「建武の新政」が失敗したあとの戦国時代で、権威が不在になれば武者たちの群雄割拠があるばかりである。
 権力者が天皇を絶対化したのは、おのれの権力を磐石にするためでもあった。
 権威と権力の二元性をわきまえていなかったのは、天皇にとって代ろうとした蘇我一族だけで、その蘇我氏を討った中臣鎌足の一族は、その後、権力の座について、のちのちまでも天皇を補佐するのである。
 その意味で、大化の改新は、中臣(藤原)一族が蘇我一族にしかけたクーデターということができる。
 天皇の絶対性は、藤原氏ら中心とする家臣団がつくりあげたもので、天皇が絶対であれば家臣団も絶対なのである。
 これが日本の権力構造で、権威と権力の二系統がたがいの支えあっているのである。
 そうなると、最大の善は、力の論理や個人主義ではなく、むしろ、対立を否定する中庸の精神やあいまいさ、決着を避けるグレーゾーンで、日本では、鎌倉から江戸まで権力(幕府)が内紛で瓦解した例は一つもない。

 ユーラシア大陸と日本の国家形態が異なるのは、稲作文化と麦作・狩猟文化のちがいでもあって、稲作国家において、もっとも高いモラルが聖徳太子のいう和の心≠ナある。
 一方、麦作・狩猟文化のモラルは闘争心≠ナ、ユーラシア大陸で通用するのは、個人主義と「力の論理」だけである。
 そこからでてくるのが唯物史観で、近代以降、西洋の国々は、英国のような伝統国家の形態をとる国をふくめて、すべて、革命国家となった。
 日本が、世界で唯一、伝統国家たりえているのは、稲作文化の国だからである。
 自然崇拝の流れをくむ穀霊祭(収穫祭)がそのまま政(まつりごと)になった国では、革命の必然性はどこからもでてこない。
 稲作の国は、飢饉さえなければ、すべての民が飢えることなく生きてゆける。
 だが、狩猟や麦作の国では、力のある者しか生きのびることができない。
 そこで、革命がおきて、過去と旧体制が清算される。
 革命は食糧の絶対的不足もその一因だったのである。
 稲作国家は、政治と自然、宗教が一体化しているので、革命による独裁権力の樹立ではなく、祭祀国家から宗教的な君主制への移動というおだやかな方法がとられる。
 稲作国家である日本が伝統国家として生き残ったのは、稲作という食文化の恩恵といえるだろう。
 長いあいだ、稲作は朝鮮半島からつたわったという曲解がまかりとおってきた。
 次回は、稲作がどこからどんな人々の手をとおって日本につたわったかを検証していこう。
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2017年12月15日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」25

 ●稲作文化と天皇
 日本は稲作文化の国である。
 稲作文化は、むろん、米食文化だけをさすのではない。
 狩猟文化が西洋文明の根幹になっているように、稲作文化が日本文明の土台になっているのである。
 稲作文化と狩猟文化とでは、自然観や宗教観、生命観に大きなちがいがある。
 自然を生活資材や糧とする狩猟文化は、自然を征服し、利用しつくし、ときには、殺してしまう。
 一方、稲作文化は、大自然と共にあって、互いにその恩恵にさずかっている。
 自然破壊の西洋において自然はモノだが、自然崇拝の日本では自然はカミなのである。
 コメづくりは、太陽や大地、水の調和で、自然神と生命を宿す精霊、八百万の神々との協業である。
 自然の神々が力を合わせて、コメという霊性の高い(穀霊)食べ物をつくったのである。
 稲作文化は、神と自然、ヒトが一体となった神話的な世界で、日本人の生活全般、宗教や歴史、習俗に稲作文化の影響がおよんでいる理由がそこにある。
 日本人の精神世界が神話的だからで、だから「日本は神の国」といわれるのである。

 稲作よって最初に生じた大変動が弥生初期の人口爆発だった。
 縄文時代晩期には十五万人程度で、絶滅の危険さえあった日本人の数が、稲作の普及によって急増して、やがて、弥生の小国家群の形成につながってゆく。
 米には高い生産性と備蓄性があるからで、1粒の種もみから80粒の米がつく苗ができ、この苗を田んぼに植えると10本ほどにふえるので、収穫は800粒にもなる。
 土地当たりの収穫性も高く、農地1ヘクタールで何人扶養できるかという試算では、日本を10とするとヨーロッパ諸国が2〜4、アメリカが1、オーストラリアが0・1という。
 コメは主食として完全食品であるところから、経済活動の中心で、生活技術や信仰儀礼、社会様式へも大きな影響力をもった。
 人類は稲作を知って、高度な集団生活を営めるようになったのである。
 日本の衣食住から、習俗、制度にいたるまで、稲作文化にかかわらないものはないが、律令・封建体制をささえたのも、役人や武士への録として米であって、貨幣経済も米本位制だった。

 稲作文化から生じたのが祭祀と祭祀王=天皇である。
 生産性の高いコメの伝来によって、人口の急増と集団化がすすみ、日本は、農耕(稲作)国家として歩みはじめるが、農耕国家ということは、とりもなおさず、祭祀国家ということでもあった。
 近代においてすら、冷害や日照り、自然災害などによって村落が全滅するというケースが、歴史上まれではなかったことから、古代社会において、天災による不作の恐怖はいかばかりであったろう。
 コメへの依存度が高まるほど、不作の恐怖も大きくなるが、人々は、ゆたかな実りを神に祈るしかなかった。
 イネの豊凶が村落存続の保障で、しかも、原始的農耕は、自然の脅威の前では無力に近かった。
 豊作の祈念や実りを感謝する収穫祭が、人々の最大の行事で、また、作物の出来がかれらの最大の関心事だったのである。
 そこから、共同体あげての挙げての儀礼中心の宗教(民族宗教/自然宗教)が営まれた。
 日本の土着的宗教=神道が集団宗教なのはそのためである。
 収穫祭が地域連合となって、それが政治連合へ発展していったのは、ヤマト連合政権が、覇権争いではなく、宗教的なむすびつきとして形成されていった経緯からもうかがえる。
 その宗教的むすびつきの中心におられたのが、収穫祭のちの新嘗祭の祭祀主としての天皇であった。
 天皇は、絶対者としての資質をみずからつちかったのではなく、祭祀国家という構造が、天皇=祭祀王という絶対者を必要としたのである。
 天皇は新嘗祭をとおして、世俗を超越して、神となったのである。
 のちの古墳時代において、朝廷の高官や豪族、有力者が、こぞって、大和朝廷の勢力圏であることを示す「前方後円墳」をつくっている。
 大和朝廷・連合政権の結束が、利害ではなく、つよい宗教的権威にもとづいていたとみるほかない。
 エジプトのピラミッドに匹敵する大型の前方後円墳の建造技術は、最低でも数百年の知的蓄積が必要で、祭祀の国家的統一も一朝一夕でできるわざではない。
 その歳月をのりこえて、国全体が大和朝廷へ同一化をはかったのは、祭祀主である天皇への絶対的信仰があったからである。
 時系列的にみると、稲作を身につけた弥生人が小国家群をつくったのが弥生初期(紀元前10世紀頃)であるとするなら、紀元前660年の初代神武天皇、天皇が祭祀主としてふるまった欠史八代、そして、九州北部だけでも100をこえる小国家がうまれ、10代崇神天皇が大和朝廷の国家運動にのりだした紀元前100年までが、大和朝廷の黎明期ということができるだろう。
 そして、その3世紀のちに古墳時代をむかえ、大和朝廷と天皇の権威が確立してゆく。
 次回は、日本というクニの国家形成に大きな役割をはたしたコメ、そのコメづくりを伝来した人々がどこからやってきたのかについて考えよう。

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