2018年02月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」34

 ●天皇と国家「勅と法」(5)
 天皇陛下の退位の儀式(退位礼正殿の儀)は2019年4月30日に皇居で国事行為としておこなわれる。
 国民主権と象徴天皇制を定める憲法との整合性に配慮して、天皇がご自身の意思で皇位を譲ることを宣する「宣命」はおこなわれず、国民の代表たる首相が、国会が定めた特例法にもとづいて、陛下が退位される旨を表明する。
 陛下がおことばを述べられるのは、首相が天皇退位を宣言した後で、それも政治的な内容をふくまぬよう宮内庁や政府が慎重に調整するという。
 天皇がご自身の意思で皇位を譲る形になれば、天皇の国政関与を禁じた憲法4条にふれるからである。
 といっても一昨年7月、NHKが「天皇陛下が生前退位のご意向」と報じた翌月の8月8日、天皇陛下が譲位をにじませるビデオメッセージを公表された段階で、この原則は破られている。
 摂政を置くことを定めた憲法第5条があるにもかかわらず、天皇のご発言によって、皇位継承について定めてある皇室典範を改正せざるをえなかったからで、これが、今上天皇の一代に限って「生前退位」を認める特措法にかわったところで、天皇のご発言が政治をうごかした事実にかわりはない。
 そして一方、退位が、国民主権と象徴天皇制を定める憲法や国会が議決した特措法に縛られることによって、天皇が政治にコントロールされるという逆の事態も生じた。
 天皇の政治への関与が、政治の天皇への干渉を招いたわけで、国体と政体のもたれあいが、権威(天皇)と権力(政府)の二元論を危うくするのは、天皇を国家元首に据えた明治憲法から天皇に軍服を着せた昭和軍国主義まで、同じ構造である。
 国体と政体の二元論は、天皇と政府、権威と権力の癒着を避ける役割をはたしてきたのだが、これが一元論的になると、天皇の政治利用、天皇の権力化に歯止めがきかなくなる。

 もともと、超越的・超法規的存在である天皇を憲法のなかに封じ込めようというGHQの対日戦略が無謀で、そのGHQ憲法を70年間もひきずってきた怠惰のツケが、天皇退位に臨んで回ってきたといってよい。
 2013年、80歳を迎えた誕生日の記者会見で陛下は「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法をつくり、さまざまな改革をおこなって、今日の日本を築きました」と護憲の意思を明らかにされた。
 陛下が皇太子時代、家庭教師だったヴァイニング夫人は、リベラルな傾向をもつクェーカー教徒で、1969年、ベトナム反戦デモに参加して、ワシントンの国会議事堂前で逮捕されている。
 ヴァイニング夫人の影響をおうけになった陛下がいかにリベラルなお考えをもたれようと、国体と政体の二元論が成立しているかぎり、政治は影響をうけない。
 ちなみに天皇のお考えを御心というなら、歴史をつらぬく皇祖皇宗の真実が大御心で、葦津珍彦は「陛下がまちがったことを仰せになったら大御心だけに耳を傾けて、御心には耳をふさぐこと」とのべている。
 しかし、国体と政体の二元論が崩れると「天皇の御心」と「権力の意思」が政治の場と国体の場の二箇所でぶつかりあうことになる。
 一元論においては、真実は一つしかないので、一方が一方をつぶしにかかる。
 明治以降、とりわけ、昭和の軍国主義時代は、権力が肥大して、権威の影が薄くなった。
 権威たる天皇が権力の象徴たる軍服を召されたからである。
 天皇を現人神として神格化する必要が生じたのは、そのためで、権力とバランスをとろうとしたのである。
 それが天皇ファシズムで、天皇の政治利用のきわめつけであった。

 二元論では、真実が二つあるので、権威と権力は両立しつつ、ささえあう。
 国家を木にたとえるなら、権威は根で、権力は幹や枝、葉である。
 権威と権力が二元論的にはたらいて、国体も政体も安定する。
 ところが、今回の天皇陛下の退位は、その原則がはたらかなかった。
 天皇のおことばが政治をうごかし、結果として、退位の儀式が政治化されるという経緯において、権威と権力の分離という歴史の英知は、どこにもはたらかなかった。
 理由は、憲法が一元論のきわめつけだったからである。
 憲法99条にこうある。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
 天皇以下、すべての日本人に土下座をもとめる憲法という紙切れには、共産主義革命のスローガンとなった国民主権やアメリカ民主主義、敗戦国の罰則としての武装解除、国家主権の自己否定がつらつらと書き並べられている。
 ほとんどマンガだが、現在、日本では、憲法が「神聖ニシテ侵スヘカラス」ものになっている。
 大日本帝国憲法第3条(「天皇の神聖不可侵」)が天皇から憲法へそっくり入れ替えられているのである。
 次回以降、憲法と天皇の関係をもう一歩つきつめて考えてみよう。
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2018年02月21日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」33

 ●天皇と国家「勅と法」(4)
 権力は、正統性(レジテマシー)をえて、はじめて、権力たりうる。
 レジテマシーをもたない権力は、暴力装置で、盗賊とかわらない。
 民主党政権時代、自衛隊を暴力装置と発言した官房長官(仙石由人)がいたが、防衛大臣を何度も経験している自民党の石破茂も、自衛隊を軍隊と位置づけた上で、暴力装置と表現したことがある。
 レジテマシーのなんたるかをわかっていないのである。
 戦国時代、武田信玄や織田信長ら戦国武将が、上洛して、天皇謁見を望んだのは、権力のレジテマシーをもとめてのことで、天皇から征夷大将軍などの官位を戴かなければ、他の武将を従える天下人になることも、幕府をひらくこともできなかった。
 中国がいまなお毛沢東を称えるのは、権力は、カリスマというレジテマシーを必要とするからである。
 中国共産党人民解放軍といえども、中国共産党主席と中央軍事委員会主席を務めた毛沢東のカリスマ性なくしては、権力を維持できないのである。
 戦争や死刑執行が殺人罪にあたらないのも、国家には主権というレジテマシーがそなわっているからで、この超越性の上に成立しているのが国家である。

 主権は、なにものからも干渉をうけない絶対的な権利である。
 この主権は、歴史上、戦前まで、天皇=国体に属するものだった。
 主権が、政体たる幕府・政府ではなく、歴史や文化たる国体におかれていたのである。
 権力に権威というレジテマシーがそなわって、政体と国体が合一した国家という共同体ができあがる。
 ところが、戦後、歴史的存在であった天皇の地位と権威が憲法という文字を綴ったにすぎないものへ移しかえられた。
 その結果、権威が空洞化した。
 一方、憲法から、国家主権が抜け落ちている。
 日本では、現憲法の下、国家主権も、国家主権のレジテマシーたる権威も宙に浮いたままなのである。
 それが、天皇を無力化して、形だけを残したGHQ憲法のからくりである。
 日本国憲法は、日本をアメリカの都合のよい国につくりかえるための占領基本法である。
 憲法から日本の国家主権が抜け落ちているのは、占領中、日本の国家主権をもっていたのがアメリカだったからである。
 占領基本法である憲法には、歴史や権威にかんする記述が一つもない。
 交戦権を放棄した9条にいたっては、自然権や習慣法である国家防衛までを否定している。
 したがって、サンフランシスコ講和条約が締結されて、主権者だったGHQが去ったあと、日本は主権なき国家になった。
 国家主権のない憲法などさっさと捨ててしまうべきだが、日本は、いまから70年前、アメリカが日本を庇護下においた占領基本法を、いまもなお国家の基本法=憲法として重んじている。

 保守論陣のなかにも、憲法が権威だという論調がなきにしもあらずである。
 それが、憲法は第二の国体という主張で、その根拠が国民主権である。
 戦後、国家主権にとって代って、国民主権となったが、国民主権などというものは、そもそも、存在しない。
 国民には、なにものからも干渉をうけない絶対的な権利がそなわっていないからである。
 国民主権は、革命の産物で、旧体制を否定する口実にほかならなかった。
 共産主義や共和制における国民主権はタテマエで、国民の名を借りて奪った権力を為政者が横取りする。
 それが独裁で、民主主義は、衆愚による独裁ということである。
 米ロ英仏中ら国連常任理事国は、革命国家で、中国以外は、かつて、列強と呼ばれた。
 その列強が、散々、食い散らかしたのがアジアである。
 インドや東南アジアが列強の餌食になったのは、国家としての体裁が整っていなかったからだった。
 あったのは、国土ではなく領土で、国家としての統一性も同一性もなかった。
 そもそも、国家という概念が未熟だったので、国家意識が完成していた列強に歯が立つはずがなかった。
 どんな国も、神話や信仰、言語や習俗、民族の自立や誇りなどの共同体意識をもっている。
 それが国家のレジテマシーで、国家独立の条件である。
 インドや東南アジアが英仏蘭の餌食になったのは、領主が乱立して、争っていたからである。
 あったのは、広大な領地だけで、国家も国家主権も、国権をささえるレジテマシーもなかった。
 タイが唯一アジアで独立を保つことができたのは、英仏を相手の外交手腕もさることながら、王国だったからで、国家は、王という超越的な存在があってはじめて、国家という観念をもつことができる。
 領主が支配するところは領土にすぎないが、国権が支配するところは国土となる。
 国権をささえるレジテマシーの下で、権威と権力の二元論を形成するのが伝統国家で、そのレジテマシーにイデオロギーや法をもちこむのが革命国家である。
 日本が、薩長には動揺があったものの、列強の侵略をうけることがなかったのは、天皇がおられたからで、幕府や藩にとって、外国の侵略から天皇をまもることが最大の使命だった。
 次回は、今上天皇の譲位における「勅と法」について考えてみよう。
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2018年02月13日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」32

 ●天皇政治における「勅と法」(3)
 大川周明が古代史のヒーローとして、聖徳太子と中大兄皇子(天智天皇)をあげたのは、国家や法(律令)、天皇の概念を確立させたからで、天皇を中心とした日本という国の原型をつくったのはこの二人といってよい。
 33代推古天皇の摂政として、冠位十二階や十七条憲法を定めた聖徳太子がもとめたのは、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立であった。
 遣隋使を派遣して、国書に中国皇帝にしか使用されていなかった天子ということば(日出処の天子)を使って、日本が、隋と対等な関係にあるとしたのも聖徳太子で、日本は、七世紀初頭、国家や法、天皇の概念を立て、大国の隋を向こうにまわして、堂々と独立国家の道を歩みはじめたのである。
 聖徳太子と協力関係にあったかにみえた蘇我馬子だが、内実は異なる。
 蘇我氏には、国家も法も天皇もなく、あるのは、権力欲だけであった。
 聖徳太子没後、蘇我入鹿が聖徳太子の子山背大兄王を攻めて、一族を自殺に追いこんだのは、天皇を意のままにするためで、蘇我に服従的だった田村皇子(舒明天皇/敏達天皇系)を推す蘇我入鹿にとって、山背大兄王(用明天皇系)は邪魔者だったのである。
 蘇我馬子は東漢直駒という刺客を放って、32代崇峻天皇を弑逆している。
 稲目、馬子、蝦夷、入鹿の蘇我四代にとって、天皇は、権力を維持するための道具にすぎず、一族は、天皇の任命権どころか、生殺与奪の権利まで握っているかのようであった。
 蘇我氏が推した舒明天皇の崩御後、皇后の皇極天皇が即位したのは、継嗣となる皇子が定まらなかったからだが、皇極天皇の在位中は、蘇我蝦夷が大臣の地位につき、入鹿が国政を執った。

 その入鹿が、宮中で、中大兄皇子と藤原鎌足に襲われて、斬殺されるという事件(乙巳の変)がおき、入鹿の父である蘇我蝦夷も自宅に追手をかけられて自刃した。
 中大兄皇子は、舒明天皇と皇極天皇の子で、次の天皇候補だった。
 だが、山背大兄皇子と同様、蘇我一族の血を引いていないので、後継どころか、入鹿に襲われた山背大兄王の二の舞になる可能性すらあった。
 蘇我が推すのは、舒明天皇の第一皇子、古人大兄皇子で、母親が蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女であった。
 蘇我がめざしたのは、朝廷を外戚で固めた独裁体制で、蘇我は、天皇を政治利用してのしあがってきたのだった。
 天皇の政治利用は、近世になって、明治維新と昭和軍国主義と二度体験しているが、古代においては、物部氏や葛城氏、大伴氏、蘇我氏、藤原氏らによる外戚政治がまかりとおっていたのである。
 蘇我という絶大な権力が一瞬に崩壊したことによって、日本は、豪族支配の国から一挙に律令的な天皇の国へと変容する。
 大化の改新といわれるこの大改革は、豪族らの私有地を廃止する公地公民制や律令制にもとづく班田収授や租庸調などの土地制度や税法など法の導入が中心で、日本は、七世紀半ばにして、法治国家へ歩みだしたのである。

 だが、天皇の地位が磐石となるまで、まだ時間がかかる。
 乙巳の変から18年後、百済を救うため唐・新羅の連合軍と争った白村江の戦い(663年)で日本は大敗する。
 日本は唐からの攻撃を警戒して、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置き、大宰府の防衛のため水城を築いて、唐からの侵攻に備えた。
 中大兄皇子が天智天皇として即位した(668年)のは、大和の地から都を移した近江の大津宮で、この年に完成した「近江令」は、後の「大宝律令」の基礎となる法典である。
 671年、天智天皇は46歳で没して、その後、日本中をゆるがす権力闘争が勃発する。
 聖徳太子が基礎をつくり、大化の改新後、確立された天皇政治が、皇位継承をめぐって、大乱(壬申の乱)をひきおこすのである。
 大化改新を指導した天智天皇が近江大津宮で崩御して、第一皇子、大友皇子 (弘文天皇) が近江朝の主となると、妻(後の持統天皇)らと吉野宮に引退した天智天皇の実弟大海人が挙兵する。
 草壁皇子や高市皇子、大津皇子、地方豪族らを味方につけた大海人皇子がいくさに勝ち、大友皇子は自害する。
 大海人皇子が天武天皇で、即位後、天皇や皇族を中心とした「皇親政治」を敷いて、律令制による中央集権国家の建設に力を注ぐ。
 ここで、法(律令支配)と勅(天皇の権力)が重なり合って、天皇官僚制というべき体制ができあがる。
 それがのちの摂関政治や朝廷・幕府の二元論へひきつがれてゆくが、天皇の勅と官僚・摂関・幕府などによる法の支配は、微妙なバランスの上に成立してきた。
 それが、権威と権力の二元論で、その要諦は、権威と権力の分離にある。
 勅を権威のなかに封じ、権力を法で制御することによって、権力構造を安定させてきたわけだが、それが江戸300年の安泰につながった。
 次回以降、勅と法の関係が混乱してきた明治以降、天皇の御心、皇祖皇宗の大御心が問われる憲法や皇室のあり方について、考えてみたい
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2018年02月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」31

 ●天皇政治における「勅と法」(2)
 日本という国家の基本原理として二元論をあげることができる。
「権威(天皇)と権力(摂関・幕府)」「国体と政体」の二元論である。
 二元論という国家原理が、なぜ安定的で、数千年の歴史をもつ日本のような伝統国家をつくりうるのか、これまで、そのテーマが本格的に議論されてきたことはない。
 権力だけに依存する一元論の国家は、暗黒化して、やがて衰弱してゆく。
 他国に攻められて滅びるか、革命で倒される。
 権力と民の心が離れているので、国家を長きにわたって維持する国力がそなわらないのである。
 権威だけに依存する国家も、易姓革命によって、滅びへとむかう。
 易姓革命がおきるのは、儒教国家で、儒教において重要なのは、徳治主義である。
 徳治主義では、失敗や損失などの不利益の原因が、すべて、前王の徳が足りなさに帰されるので、徳のあるとされる新王があらわれて、前王の悪と不徳を徹底的に糾弾すれば、易姓革命が成立して、歴史の連続性が断たれる。
 天命によって、王朝が交替する易姓革命では、前王を否定することが新しい王になる絶対条件となるのである。
 徳治主義が後進的なのは、原因の究明をおこなわず、すべて、善悪や徳・不徳で片付けてしまうからで、当然、嘘や策略、陰謀がまかりとおる。
 天命という儒教的価値が革命の道具になっているのである。
 中国や朝鮮が、徳治主義の一元論だったのは、儒教の国だったからで、そこから合理的精神にもとづいた法治主義はでてこない。

 古代日本において、天皇の権威があったにもかかわらず、律令制などの法治主義がとられたのは、天皇の権威が権力の正統性を担保していたからである。
 権威と権力が二元化されていたので、権威の下で、権力による法治主義が可能だったのである。
 両者が一体化されると、権威は「勅」となって、権力の一部となる。
 権威が権力にとりこまれると、権威が空位となって、権力が暴走する。
 徳川幕府が、公家諸法度をおき、朝廷の権威を敬う一方、権力から遠ざけたのは、南北朝の動乱から応仁の乱をへて戦国時代にいたる暗黒の中世の悲劇をくり返さないためで、天皇が権力をもとめた「建武の新政」以来、権威が空位になって、日本は、250年以上にわたって、ユーラシア大陸的な権力闘争に明け暮れたのである。
 天皇の地位が定まるのは、大化の改新から壬申の乱をへて、天武・持統朝になってからで、藤原氏を中心とした摂関政治がはじまるのは、そののちのことである。

 大王(天皇)は、もともと、豪族の長(族長)で、紀元前において、祭祀王だったところ、大和朝廷の成立と発展にともなって、豪族間の勢力争いにまきこまれてゆく。
 最初の大豪族は、5世紀前半、子(磐之媛)が仁徳天皇(16代)の皇后となって履中(17代)・反正(18代)・允恭(19代)の三天皇を産んだ葛城氏で、のちに平群氏がこれに変わる。
 六世紀になって、後嗣を定めずに崩御した武烈天皇(25代)の後継に越前にいた応神天皇の5世の孫を26代天皇(継体)に迎えた功績で、大伴金村が台頭する。
 ところが、512年、百済に任那の4県をあたえた金村に反発した物部氏が大伴氏を追放、代わって勢いをえる。
 この物部に対抗したのが、帰化人を率いて朝廷の財政を握った蘇我氏だった。
 物部氏と蘇我氏は、朝廷を二つにわけるほどの力をもってにらみ合う。
 そしてのちに、天皇の継嗣問題や仏教の導入をめぐって、決定的に対立する。
 仏教の礼拝をめぐって物部守屋と蘇我馬子がたたかって物部氏が滅ぼされた争い(丁未の乱)にくわわった聖徳太子は、日本を天皇中心の国へむかわせるが、志半ばで死去して、蘇我氏の独裁体制ができあがってゆく。
 蘇我馬子は物部守屋が天皇に推した穴穂部皇子を殺し、みずからが推挙した崇峻天皇を弑虐し、聖徳太子の子、山背大兄王まで殺してしまう。
 大和朝廷は、豪族の連合国家で、大王(天皇)は、みこしののせられた族長にすぎず、蘇我氏のような大豪族におびやかされる存在だったのである。
 次回以降、天皇が権力者として、あるいは権威として地歩を固めていく歴史をみていこう。
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