2018年02月13日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」32

 ●天皇政治における「勅と法」(3)
 大川周明が古代史のヒーローとして、聖徳太子と中大兄皇子(天智天皇)をあげたのは、国家や法(律令)、天皇の概念を確立させたからで、天皇を中心とした日本という国の原型をつくったのはこの二人といってよい。
 33代推古天皇の摂政として、冠位十二階や十七条憲法を定めた聖徳太子がもとめたのは、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立であった。
 遣隋使を派遣して、国書に中国皇帝にしか使用されていなかった天子ということば(日出処の天子)を使って、日本が、隋と対等な関係にあるとしたのも聖徳太子で、日本は、七世紀初頭、国家や法、天皇の概念を立て、大国の隋を向こうにまわして、堂々と独立国家の道を歩みはじめたのである。
 聖徳太子と協力関係にあったかにみえた蘇我馬子だが、内実は異なる。
 蘇我氏には、国家も法も天皇もなく、あるのは、権力欲だけであった。
 聖徳太子没後、蘇我入鹿が聖徳太子の子山背大兄王を攻めて、一族を自殺に追いこんだのは、天皇を意のままにするためで、蘇我に服従的だった田村皇子(舒明天皇/敏達天皇系)を推す蘇我入鹿にとって、山背大兄王(用明天皇系)は邪魔者だったのである。
 蘇我馬子は東漢直駒という刺客を放って、32代崇峻天皇を弑逆している。
 稲目、馬子、蝦夷、入鹿の蘇我四代にとって、天皇は、権力を維持するための道具にすぎず、一族は、天皇の任命権どころか、生殺与奪の権利まで握っているかのようであった。
 蘇我氏が推した舒明天皇の崩御後、皇后の皇極天皇が即位したのは、継嗣となる皇子が定まらなかったからだが、皇極天皇の在位中は、蘇我蝦夷が大臣の地位につき、入鹿が国政を執った。

 その入鹿が、宮中で、中大兄皇子と藤原鎌足に襲われて、斬殺されるという事件(乙巳の変)がおき、入鹿の父である蘇我蝦夷も自宅に追手をかけられて自刃した。
 中大兄皇子は、舒明天皇と皇極天皇の子で、次の天皇候補だった。
 だが、山背大兄皇子と同様、蘇我一族の血を引いていないので、後継どころか、入鹿に襲われた山背大兄王の二の舞になる可能性すらあった。
 蘇我が推すのは、舒明天皇の第一皇子、古人大兄皇子で、母親が蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女であった。
 蘇我がめざしたのは、朝廷を外戚で固めた独裁体制で、蘇我は、天皇を政治利用してのしあがってきたのだった。
 天皇の政治利用は、近世になって、明治維新と昭和軍国主義と二度体験しているが、古代においては、物部氏や葛城氏、大伴氏、蘇我氏、藤原氏らによる外戚政治がまかりとおっていたのである。
 蘇我という絶大な権力が一瞬に崩壊したことによって、日本は、豪族支配の国から一挙に律令的な天皇の国へと変容する。
 大化の改新といわれるこの大改革は、豪族らの私有地を廃止する公地公民制や律令制にもとづく班田収授や租庸調などの土地制度や税法など法の導入が中心で、日本は、七世紀半ばにして、法治国家へ歩みだしたのである。

 だが、天皇の地位が磐石となるまで、まだ時間がかかる。
 乙巳の変から18年後、百済を救うため唐・新羅の連合軍と争った白村江の戦い(663年)で日本は大敗する。
 日本は唐からの攻撃を警戒して、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置き、大宰府の防衛のため水城を築いて、唐からの侵攻に備えた。
 中大兄皇子が天智天皇として即位した(668年)のは、大和の地から都を移した近江の大津宮で、この年に完成した「近江令」は、後の「大宝律令」の基礎となる法典である。
 671年、天智天皇は46歳で没して、その後、日本中をゆるがす権力闘争が勃発する。
 聖徳太子が基礎をつくり、大化の改新後、確立された天皇政治が、皇位継承をめぐって、大乱(壬申の乱)をひきおこすのである。
 大化改新を指導した天智天皇が近江大津宮で崩御して、第一皇子、大友皇子 (弘文天皇) が近江朝の主となると、妻(後の持統天皇)らと吉野宮に引退した天智天皇の実弟大海人が挙兵する。
 草壁皇子や高市皇子、大津皇子、地方豪族らを味方につけた大海人皇子がいくさに勝ち、大友皇子は自害する。
 大海人皇子が天武天皇で、即位後、天皇や皇族を中心とした「皇親政治」を敷いて、律令制による中央集権国家の建設に力を注ぐ。
 ここで、法(律令支配)と勅(天皇の権力)が重なり合って、天皇官僚制というべき体制ができあがる。
 それがのちの摂関政治や朝廷・幕府の二元論へひきつがれてゆくが、天皇の勅と官僚・摂関・幕府などによる法の支配は、微妙なバランスの上に成立してきた。
 それが、権威と権力の二元論で、その要諦は、権威と権力の分離にある。
 勅を権威のなかに封じ、権力を法で制御することによって、権力構造を安定させてきたわけだが、それが江戸300年の安泰につながった。
 次回以降、勅と法の関係が混乱してきた明治以降、天皇の御心、皇祖皇宗の大御心が問われる憲法や皇室のあり方について、考えてみたい
posted by office YM at 09:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする