2018年04月19日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」41

 ●天皇と国家「勅と法」(12)
 士族の反乱は、秩禄処分や征韓論をめぐる内紛だけが原因ではなかった。
 徴兵令(1873年)や廃刀令(1876年)などで士族の特権を根こそぎ奪われた武士が反革命ののろしをあげたのである。
 そこから、士族・武士が主人公ではなかった明治維新の性格がみえてくる。
 明治維新には市民革命の要素が大きい。
 市民にあたるのが、薩長土肥の足軽・中間以下で、イデオロギーにあたるのが文明開化やヨーロッパ化である。
 維新の志士たちが身分や幕藩体制をあっさり捨てたのは、伝統や体制の守護者ではなく、百姓上がりの雑兵だったからである。
 その象徴が明治政府軍(官軍)と会津藩・奥羽越列藩同盟・徳川旧幕府軍がたたかった会津戦争で、薩長土肥の官軍が残虐のかぎりをつくしたのは、官軍兵士が、士族にあらざる中間や百姓(兵)ばかりだったからである。
 戊辰戦争では、結局、千年の伝統をまもってきた武士は、幕府や藩とともに打倒される。
 勝ったのは、天皇を担いだ薩長土肥の雑兵で、天皇を奪われた武士は、幕府や藩ともども、明治維新という新体制の外へ放り出された。
 不平士族の反乱は、佐賀の乱につづいて、熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で前原一誠らによる萩の乱などがつづき、1877年には西郷隆盛を慕う私学校の乱、最大規模の内戦となった西南戦争がおこる。
 西南戦争では、政府軍が、兵数や装備、兵站などで西郷軍を圧倒していたにもかかわらず、西郷軍と同等の戦死者数、戦傷者数を出した。
 武士としての熟練度が低かったためである。
 熊本城に篭城せず、京をめざしていれば、途中、武士の大量参戦がみこめただけに、反革命クーデターが成功していた可能性が大きかった。
 西郷が京をめざさなかったのは、東征が天皇への反抗となるからだった。
 天皇を担いだ薩長明治政府の戦略が、結果として、功を奏したのである。
 士族の反乱が平定されたことで、明治維新後の日本は、武士の国から平民の国へとうまれかわって、近代化・ヨーロッパ化のみちをひた走る。
 西南戦争は、皮肉にも、薩長土肥出身者による藩閥を生み、日本のその後の富国強兵政策の礎になったのである。

 明治維新によって、権威としての天皇は失墜して、権力へとりこまれる。
 権力をにぎったのが、それまで、権力に近づいたことのなかった足軽以下の下層階級だった。
 天皇をとりこまなければ、とうてい、天下へ号令をかけることなどできない。
 明治新政府にとって、尊皇も攘夷も、口先だけで、頭にあったのは、天皇の政治利用だけだった。
 尊皇も攘夷も、朱子学や水戸学、国学にもとづく上級武士のもので、真の尊皇家が徳川慶喜なら、真の攘夷思想家は孝明天皇だった。
 尊皇や攘夷思想は、文化で、教養や品格、身分に宿る。
 一方、文明は、権力や冨、物質主義などの唯物論で、無教養で下品、身分の低い者は、先を争って、これに走る。
 それが、文明開化やヨーロッパ化、華族制度や鹿鳴館風俗、帝国主義や軍国主義で、それが災いして、日本は、百年もしないうち、1945年の国体の危機を招く。
 天皇を国家元首に立てる帝国主義においては、天皇が戦争責任を負わざるをえず、事実、日本は、敗戦よって、国体解体の危機にさらされた。
 この危機を救ったのが日本国民だった。
 終戦直後の1946年、新聞各社の協力の下で日本輿論研究所がおこなった「天皇制」のアンケート調査で、95%が「支持」と回答(支持3174票/支持しない174票)した。
 このアンケート結果に驚いたのが、GHQとりわけマッカーサー元帥だった。
 欧米の常識では、戦争に負けた場合、戦争責任者は、国外へ追放されないまでも、国民の支持を失って、失脚する。
 マッカーサーは、このとき、日本統治を成功させるカギが天皇にあると気づき、極東委員会(GHQの上部機関)がもとめる天皇処罰論を退ける一方、憲法で象徴天皇を打ち出して、極東委員会を沈黙させた。

 天皇への支持率95パーセントのなかに天皇の本質がある。
 天皇が権力者や宗教的権威であったら、95パーセントの支持率などありえない。
 まして、終戦直後で、日本人の多くが、肉親や家屋、財産を失い、食糧難に苦しんでいた。
 それでもなお、日本人のほぼ全員が天皇に敬愛の意を表し、驚くべきことに1946年から1954年までつづいた昭和天皇の巡幸中、一度も不敬事件がおきなかった。
 この奇跡のような事実を合理や論理で説明することはできない。
 日本人は、有史以前から、天皇という不可思議なる存在を、合理や論理で切り刻むことなく、ありがたいもの、かたじけないものとして、大事にしてきた。
 お伊勢参りをした西行は、その神々しさに胸を打たれて、こう詠んだ。
 なにごとの おはしますか 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
 それが日本人の民族の心である。
 元検察官で立憲民主党所属の衆議院議員、山尾志桜里はかつて「天皇の男系相続には合理的理由や論理的必然がない」とのべ立てた。
 天皇への敬愛心は、非合理や非論理・無論理そのものである。
 人生も、芸術やインスピレーション、愛や信仰、神話などの不可思議なものにつつまれている。
 合理的理由や論理的必然などで説明がつくものは、ただの唯物論で、つまらないものと相場がきまっている。
 それが明治維新のヨーロッパ化政策で、鹿鳴館時代、浮世絵などの伝統的な文化遺産の多くが海外へ流失した。
 海外の文明に比べて、日本の文化は拙く貧弱という民族的コンプレックスがはびったのである。
 次回は、日本が、歴史上、政治(合理)と文化(非合理)の折り合いをどうつけてきたのかみていこう。
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2018年04月12日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」40

 ●天皇と国家「勅と法」(11)
 明治維新は、複雑な経緯をたどった政変で、いまなお歴史的評価が定まっていない。
 江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が明治天皇に政権を返上して大政奉還(1867年)が成ったところで維新の目的は達成されたはずで、鳥羽・伏見の戦い(1868年)の引き金になった旧幕府勢力への強権圧迫は、まったく必要がなかった。
 まして、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟への常軌を逸した弾圧は、維新の本筋から逸脱しており、戊辰戦争にいたっては長州征伐の事実上の復讐でしかなかった。
 維新運動は、朝廷(公)の伝統的権威と幕府および諸藩(武)の世俗的権力をむすびつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする公武合体論が主流だった。
 それで明治維新が決着していれば、日本の近代化はまったくちがった道筋をたどっていたろう。
 1、武家政治がひきつがれた
 2、ヨーロッパ化(鹿鳴館・身分制度・帝国主義)のみちをたどらなかった
 3、天皇の政治利用(元首・明治憲法)はありえなかった
 ところが、歴史の歯車は、公武合体論に与しなかった。
 幕府信任の信念を変えなかった孝明天皇の崩御にともなって、薩長や公家の倒幕派が台頭、徳川慶喜の新政権参加が葬られると、公武合体論は政治生命を失い、以後、明治維新は、薩長土肥による討幕運動へつきすすんでゆく。
 主役は、孝明天皇暗殺の下手人とささやかれた岩倉具視で、薩摩・長州への「討幕の密勅」を工作するにいたって、明治維新は、政変から謀略へとすがたをかえてゆく。

 明治維新が政変から革命へと変容したのは、薩長らの下級武士が天下取りに走ったからで、その口実になったのが、尊皇攘夷だった。
 天皇を尊び、外敵を斥けようという尊皇攘夷は、水戸学や国学に影響を受けた維新期の政治スローガンで、公武合体と対立する。
 公武合体で、幕府と朝廷がむすべば、京都や江戸から遠く離れた薩長土肥の出番がなくなる。
 まして、同藩下級武士ともなれば、天下とりなど思いもおよばない。
 薩長の下級武士が尊皇攘夷を叫んだのは、公武合体をつぶす方便で、かれらの目的は倒幕だった。
 薩長土肥の下級武士が尊皇攘夷という政治スローガンを背負って台頭、これが明治維新のエネルギーとなったのは、天皇を立て、みずからを天皇の軍隊(官軍)と名乗る以外、江戸三百藩の大名とその家臣団を統率する方法がなかったからだった。
 この階級闘争が成功して、藩を廃止して廃藩置県(1871年)まで改革が一気にすすんだのは、薩長の下級武士が天皇をとったからで、幕府との抗争では「タマ(天皇)をとれ」が薩長の合言葉だった。
 下級武士といっても足軽以下で、西郷や大久保はかろうじて武士(御小姓与)だったものの、伊藤博文と山県有朋は武士にあらざる小物(中間)で、維新の志士のなかで上級武士は一人もいなかった。
 その意味で、明治維新は、非士族(足軽以下)が士族(藩士・幕臣)を排除して権力をにぎった階級闘争(=革命)といってよいだろう。

 明治維新の要諦は、尊皇攘夷から一転して、ヨーロッパ化で、筆頭に挙げられるのがヨーロッパ王政を真似た王政復古だった。
 日本には、皇親政治の第40代天武天皇(673〜686年)と建武の新政の第96後醍醐天皇(1318〜1339年)以外、王政の伝統はない。
 日本の皇室は、明治維新期につくりかえられたものだったのである。
 明治政府がとった文明開化路線、殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入は、西洋の産業革命の移入でもあって、日本は、1893年(明治26年)に国産の国産機関車(860形)を完成させる。
 日本が産業革命の成果をうけいれることができたのは、江戸時代の文明度がそれだけ高かったからで、世界史をながめても、異文化をこれほどスムースに受容したケースはまれである。
 明治政府は、廃藩置県につづいて、矢継ぎ早に革命的な政策をうちだす。
 大名・武士階級の廃止から四民(士農工商)平等や華族(公卿や大名)士族(旧幕臣・旧藩士)の身分制度などだが、いずれもヨーロッパの真似で、これが鹿鳴館文化や皇室の西洋化などの西洋コンプレックスへつながってゆく。
 制度改革のきわめつけは、江戸時代まで武士がもらっていた家禄(秩禄)を廃止した秩禄処分で、一時金(金禄公債)はえたものの、以後、武士の大半が経済的に没落してゆく。
 秩禄処分は、支配層が無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的に稀有な例で、天皇を政権にとりこんだ明治政府がいかに強力な権力構造だったかわかる。
 そのゆがみが一気に噴出したのが不平士族の反乱だった。
 次回は、士族の反乱から鹿鳴館文化、そして帝国主義へむかった天皇軍国主義への道筋をみていこう。
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2018年04月04日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」39

●天皇と国家「勅と法」(10)
 天皇は、戦後、憲法上の存在となった。
 そこに、三島由紀夫の憤怒と絶望があった。
「自衛隊は憲法をまもる存在になったのか」
 自衛隊市ヶ谷駐屯地の三島の雄叫びは、新憲法で育った戦後生まれの日本人にはピンとこないかもしれない。
 げんに、市ヶ谷の三島の演説は、自衛隊員の野次と怒号で掻き消された。
 戦後、左翼が中心になってすすめ、保守が迎合した「憲法は新しい国体」という思潮のなかで、大方の日本人、自衛隊員さえ、戦勝国から投げ与えられた属国憲法を金科玉条としてきた。
 三島は、自衛隊にこう檄をとばした。
「オレは自衛隊が怒るのを待っていた。だが、もはや、憲法改正のチャンスはない! 自衛隊が国軍になる日はない! 建軍の本義はない! それをオレは嘆いている。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。日本を守ることだ。日本を守るとはなんだ。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることだ。(略)自衛隊がたちあがらなければ、憲法改正ってものはないのだ。諸君は永久にアメリカの軍隊になってしまうのだぞ」
 現在、天皇も自衛隊も、憲法に規定される法的存在でしかない。
 憲法をもって国家を規制するのが共和主義である。
 革命をとおして伝統国家から共和(共産)制国家へと移行する。
 共和主義は、民主主義にもとづいて、君主制を廃止することである。
 このとき、歴史や伝統、習俗など、民族の文化が破棄される。
 三島にとって、憲法は、属国憲法である以上に、革命綱領であって、国体の破壊者でもあった。

 自衛隊が憲法違反というなら憲法を破棄すればよい。
 憲法は、もともと、共和制国家のもので、伝統国家には必要がない。
 共和制国家の支配構造は、憲法と大統領、議会の三つで、この三者が、民主主義(普通選挙法/議会の多数決)の原則にのっとって、国家を運営する。
 共和制国家における憲法の役割は、大統領の権限を制限することで、国家のありようを定めているわけではない。
 憲法は、いわばガードレールで、大きすぎる権力をもった大統領という車が道路からはみださないように見張っている。
 日教組教育をうけた者のなかには、憲法が、国家の監視役であるかのようにいう者がいるが、おおまちがいである。
 そんな理屈が通用するのは、憲法が、戦勝国が敗戦国を永続的に隷属させる占領法であるかぎりにおいてで、日本は、占領基本法を憲法として奉っている世界に稀有な国家なのである。
 伝統国家には、大統領は不要で、憲法も必要がない。
 歴史の英知や民族の知恵、伝統や習慣、独自の価値観、経験則など憲法とは比べようもないほどの文化をもっているからで、この歴史的規範が憲法をこえるのはいうまでもない。
 日本が憲法をもったのは、明治政府が樹立されてから22年後の1889年のことで、国内政治が一段落して、目を海外へむけた時期にあたる。
 日英通商航海条約と日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)、朝鮮併合(1910年)と、日本は西洋型の帝国主義をのみちをすすみはじめる。
 日本の憲法(大日本帝国憲法)は、ヨーロッパ化政策と天皇の政治的利用を目的にしたもので、モデルになったのが、主権者たる国王が国政に裁可権限を有するドイツのプロイセン憲法だった。
 プロイセン憲法において、国王は、権力者だった。
 プロイセン憲法の導入によって、文化概念としての天皇が政治概念としての天皇にきりかえられて、日本は、事実上、国体を失った。
 日本は、独自の文明をもった誇り高き伝統国家であって、列強を真似た帝国主義国家ではなかったからである。
 プロイセン王国は、第1次世界大戦の敗北によって滅びた。
 日本も、敗戦によって、第二のプロイセン王国になるところだったが、これを救ったのが、皮肉にも、日本国憲法の提唱者だったマッカーサーだった。

 日本国憲法が占領基本法だった以上、国家主権の否定や武装解除(憲法9条)、「天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務(憲法99条)」は当然だったろう。
 問題は、講和成立後、GHQが日本から撤退したあと、占領基本法の性格をもつ憲法を廃棄しなかったことである。
 戦後、勢力をもった社会主義・革命勢力(社会党・共産党・労組)が、日本の弱体化を企図したGHQ憲法を逆手にとって、憲法擁護を革命の戦略とした。
 共和主義を謳う現憲法下においては、議会内闘争をとおして、革命の実現が可能となるからである。
 革命は、憲法を停止させて、人民政府をつくることだが、現在の日本の状況では、憲法をまもることによって、左翼革命もしくは中国への属国化が容易に実現する。
 日本防衛の法的根拠は、日米安保条約と国連憲章、国際法や自然法であって、憲法には依拠していない。
 憲法には「敵が攻めてきたら白旗を掲げろ」としか書かれていないからである。
 革命の道具=民主主義だけが正義の現在の日本では、国体・国家の屋台骨はきわめてもろい。
 だから三島は自衛隊に憲法停止≠フ武装蜂起をうったえたのだった。
 日本には、国家反逆罪もスパイ防止法も、不敬罪もない。
 日本人の脳みそには「民主主義=正義」という方程式がインプリントされており、それは、皇室も例外ではない。
 今上天皇につづいて次期天皇(徳仁親王)も憲法擁護を口にされる可能性が高い。
 安倍首相は、憲法九条の維持をうったえている。
 そうなると、国体および国家がじりじりと共和制へ接近してゆきかねない。
 憲法をまもることが国体・国家の否定につながるジレンマに気づいていないのである。
 憲法や民主主義、近代主義や西洋合理主義などの相対的な価値観で、文化や歴史、伝統という絶対的な価値をまもることはできない。
 アメリカ民主主義は世界一の軍事力に支えられ、中・ロ・英・仏はむろんのこと北朝鮮も、軍事力が体制維持の主柱になっている。
 文化(菊)をまもるのは力(刀)で、それが、歴史の鉄則である。
 次回は、危機状態にある国体・国家防衛について、思うところをのべよう。

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