2018年05月23日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」45

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(3)
 日本は、神話とはいえ、紀元前660年を国の肇(はじめ)とする伝統国家で、わが国の国のかたち≠ヘ、古代から、昨年、譲位をきめられた125代今上陛下に至るまで連綿とひきつがれてきた。
 同一の体制(国体)を二千年以上もまもってきたわが国の歴史とりわけ古代史において、天皇を中心として、歴史の節目となる大事件がいくつかあった。
 ■3世紀/卑弥呼が邪馬台国(大和国)の女王に就く
 ■3世紀半ば〜7世紀末頃まで(古墳時代)/前方後円墳がつくられる
 ■3世紀半ば〜4世紀末頃/大和朝廷の勢力が全国規模に拡大
 ■527 筑紫国造磐井の乱
 ■587 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす(丁未の乱)
 ■604 聖徳太子が一七条の憲法および冠位十二階を制定
 ■645 大化の改新(中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を誅す)
 ■703〜745 皇親政治(天武天皇から聖武天皇の頃まで)
 ■729 藤原四兄弟の陰謀によって長屋王自殺(長屋王の変)
 本稿では、天皇の権力がどこからうまれ、どういう経緯をへて、国家へ組み込まれていったのかというテーマを追ってゆく。
 縄文文化の本質は自然合一で、神なるものも自然のなかにひそんでいる。
 縄文の遺伝子というべき自然霊崇拝(アニミズム)をひきついだのが神道である。
 縄文晩期から弥生時代にかけて稲作が入ってくると、自然崇拝から穀霊祭が派生して、シャーマニズムがうまれた。
 それが大嘗祭の起源で、大嘗祭の祭祀主(シャーマン)が大王である。
 覇者が王となるユーラシア大陸とちがい、わが国では、祭祀王であるシャーマンが大王となった。
 この仕組みは、大和朝廷が豪族の連合政権だったことに深い関連がある。
 豪族らが、大王頂点に立つ統一連合体をもとめたのである。
 群雄割拠して、権力抗争に入っていれば、共倒れになっていたか、永遠に争いがつづいたはずである。
 豪族らが共存をはかったのは、稲作によって、食糧を確保できたからで、かれらは、争うより、共同体をつくって、共存する方法をえらんだ。
 その共同体の長は、軍事力をもった豪族ではなく、稲作の守り神、穀霊祭の大祭司(祭祀主)でなければならなかった。
 共同体の長が豪族であれば、その座を狙って、ふたたび争いがはじまる。
 長が司祭主なら、どんな豪族もその座を奪うことができない。
 こうして、大司祭の下に豪族が大連合する政権ができあがった。
 豪族といえども、すべてが、磐石な基盤をもっているわけではなかった。
 支配地で民の支持が薄い場合も、競合相手に立場を脅かされる場合もあったろう。
 大王は、しばしば、遠方まで行幸におよんだ。
 大王を迎える豪族たちは、これを領内に広く知らしめ、大王との深い関係をアピールした。
 豪族が大王をささえたのではなく、大王が豪族の地盤固めに力を貸し、それが、結果として、大王を中心とした中央集権体制の完成に功を奏したのである。
 こうして、権威の下で、権力が連合する特有の政体ができあがった。
 これが権威(国体)と権力(政体)の二元論の原型である。
 すると、この時期、全国で一斉に前方後円墳がつくられた理由もわかってくる。
 地方の豪族らは、大王の直属であることを証明するために、競って、大和朝廷のシンボルである前方後円墳をつくったのである。

 紀元前に「分れて百余国となる(漢書地理誌)」と記されたわが国が紀元150年に至って大乱に陥った(後漢書他)という。
 二元論的体制が、なんらかの理由で破綻したからであろう。
 そのかん事情をうかがわせるのが魏志倭人伝の記述である。
「倭国で男王の時代に内乱があったので、女王(卑弥呼)を立てた」「卑弥呼の死後、男王が立てられるが内乱となって1000余人が死んだため、卑弥呼の宗女13歳の壹與を王に立て、国は治まった」
 中国の史書に倭国の記述があるのはこのころまでで、西暦266年から413年(空白の4世紀)まで、中国史書から、倭国の記述が消えた。
 したがって、文献から、邪馬台国と大和朝廷の連続性や大和朝廷の発展過程やスケール、全国的に前方後円墳がつくられるようになった経緯や事情を知ることはできない。
 国内にも、なんら明確な論説が存在しない。
 歴史実証主義の立場から、史料が存在しないのでわからないというのだが、遺跡を検討するだけで見えてくるものがある。
 奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡がそれである。
 纏向遺跡は3世紀からはじまる前方後円墳発祥の地で、倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている(宮内庁)箸墓古墳のほか行燈山古墳(崇神天皇)、宝来山古墳(垂仁天皇)、渋谷向山古墳(景行天皇)、佐紀石塚山古墳(成務天皇)などの古墳が分布する。
 崇神天皇が即位した3世紀の中ごろは、卑弥呼の時代であり、崇神天皇期の巫女だった百襲姫命を卑弥呼と同一視する説が有力視されている。
 箸墓古墳も、中国史書などによって、卑弥呼の墓とされる。
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の墓の大きさ(「径百余歩」)箸墓の後円部(約160m)と一致するばかりか、邪馬台国の時代と古墳時代が時間的につながって(3世紀中ごろ)、卑弥呼の死亡時期と重なる。
遺跡が語るもう一つの問題点は、大和朝廷の黎明期である。
 3世紀からはじまる前方後円墳の建設には、土木技術や計画性、指揮能力や人員動員など、高い文明力が必要だが、それには、数百年にわたる国家的文化蓄積があったはずである。
 仮にそれを500年とすると、紀元前2世紀には、国家ができていたことになって、古代のイメージがこれまでのものと大きく変わってくる。
 次回以降、古代史にひめられた国家と天皇の知られざる真実をみていこう。

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2018年05月14日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」44

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(2)
 縄文時代の自然神崇拝からアニミズム(精霊信仰)やシャーマニズム(精霊交信)が派生した。
 天皇の系譜がそこにあるのは、疑いがないところで、その根本に稲作がある。
 収穫率や栄養価、保存性において、奇跡といっていいほどにすぐれた米穀という自然の恵みは、日本に、祭祀(穀霊祭や祈祷)という文化をうみださずにいなかった。
 古代は、カミとヒトが共存していた時空で、合理性のかけらもない。
 生も死もカミが支配するところで、世界が神秘のベールにつつまれていたのである。
 豊作と凶作が自然神にゆだねられていた古代において、自然神と交信できるシャーマンが、権力者以上の力をもったのは、当然で、たとえ、闘争に勝っても、神の怒りにふれて、凶作や天災に見舞われては、どんな権力者も、滅びるしかなかった。
 権力のほかに権威が生じて、支配構造が覇者(軍事力)と祭祀王(天皇)の2系統となった。
 これが天皇の国=日本の最大の特性で、権力構造が、権力(政治)と権威(文化)の二重構造になっている。
 もっとも、権威と権力は、はじめからの二元論の形式をとっていたわけではなく、長い歳月をかけて、分離していった。
 天皇が権威と権力の両方をもった時代と、臣下たる豪族の長が天皇をしのぐ力をもった時代が交錯して、それが、第10代崇神天皇の大和朝廷黎明期から聖徳太子、大化の改新、壬申の乱をへて、皇親政治の第40代天武天皇、皇親政治から藤原氏の摂関政治へきりかわる第42代文武天皇、第45代聖武天皇まで延々とつづく。
 皇親政治が終焉したのは、長屋王(天武天皇の孫)が、藤原四兄弟の謀略にかかって倒れたからだった。
 長屋王は、藤原不比等の娘で、文武天皇の夫人宮子、聖武天皇の皇后光明の皇位への接近に反対して、藤原四兄弟の恨みを買ったのである。

 支配構造が覇者(権力)と祭祀王(権威)の2系統に分離された例は世界に例がない。
 権力と権威の分離は、政治と文化、男性(武力)と女性(巫女)の分離でもあって、西洋では権力の所有物にすぎなかった女性が、日本では、支配構造の一角を占める。
 卑弥呼や壱与、第7代孝霊天皇の皇女で第10代崇神天皇を補佐したモモソヒメ(百襲姫命)、第15代応神天皇の生母で三韓征伐の神功皇后など古代日本では、女性が神秘的な力を有する権力あるいは権威として、敬われていた。
 権力が男性由来なら、天皇の権威は、女性(巫女)由来といえる。
 一神教(ユダヤ・キリスト教・イスラム教)の絶対神(ヤハウェ)は男性であるが、自然崇拝(多神教/神道)の最高神格は女性(天照大御神)である。
 天照大御神を皇祖神とするのが天皇で、伊勢神宮や賀茂神社に、巫女として奉仕される天皇の皇女(内親王)が斎王または斎皇女である。
 天皇と巫女は、もともと、密接な関係にあって、崇神天皇と卑弥呼の関係がそれにあたる。
 天皇は、巫女あるいは巫女的な力を借りて祭祀をおこなうが、天皇の地位は男系相続である。
 女性が天皇になれないのは、血統の継承ができないからである。
 女性の遺伝子はXXで、男性の遺伝子はXYである。
 女系では、Y遺伝子が介在しないので、祖先が特定できない。
 藤原不比等の娘である文武天皇の夫人宮子、聖武天皇の皇后、光明子は神武天皇のY遺伝子を引き継いでいないので、その子が皇位を継ぐと、天皇の祖が宮子や光明子の夫の系統へ移ってしまう。
 長屋王と藤原四兄弟の確執はそこにあって、皇統をまもろうとした長屋王にたいして、藤原四兄弟は、藤原天皇を望んだのである。
 長屋王の死後、藤原四兄弟は、全員、天然痘にかかって死んでしまう。
 長屋王の祟りと噂されたもので、聖武天皇も、恭仁京、難波京、紫香楽宮と遷都をくり返して、長屋王の祟りから逃れようとした。

 神武天皇が即位したとされる紀元前660年は、考古学的には、弥生時代のはじめにあたるが、遺跡も史料もないので、神話の世界である。
 神話もりっぱな歴史で、建国が神話ではない国は、近代になって建国された革命国家以外、一つもない。
 炭素年代にもとづく縄文・弥生時代の年代検証によって、弥生時代の開始が500年さかのぼって、紀元前10世紀前後ということになった。
 紀元前660年なら、すでに水田稲作がはじまり、集落が発展していたはずで、衣食住も、これまでの常識から500年進歩させてよい。
 皇国史観と時代考証が近づいてくるが、そのことは、さして重要ではない。
 歴史は、その歴史を信じてきた人々の歴史でもあるので、神話や皇国史観をうけいれつつ、そこに、合理的な歴史観をかぶせていって、はじめて、本当の歴史がみえてくる。
 注目されるのが日本書紀(崇神紀)に「はつくにしらすすめらみこと(御肇国天皇/初めて国を治めた天皇)」と記されている第10代崇神天皇である。
 日本書紀(神武紀)では、この読み呼称(始馭天下之天皇)が神武天皇にも使用されている。
 それが実史と神話の読みわけで、紀元前660年の神武天皇即位と崇神天皇による大和朝廷の全国展開(四道将軍)は、いわば、歴史の裏と表なのである。
 そこで、クローズアップされるのが、邪馬台国と大和朝廷、とりわけ、崇神天皇と卑弥呼の関係である。
 次回は、邪馬台国の都に比定する説が有力視されている奈良県三輪山近くの纏向遺跡を中心に古代国家のすがたを探っていこう。
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2018年05月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」43

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(1)
 古代史は、記録(文字)が残っていないので、伝承や遺跡などから想像力をはたらかせるほかない。
 その意味で、古代史は、歴史というよりおとぎ話で、神話の延長線上にあるといってよい。
 民族の遺伝子的な記憶をさかのぼって、歴史をつくったわけで、その傑作が皇紀2600年の皇国史観だった。
 戦後、左翼や日教組、マスコミが、皇国史観を悪の権化としたのは、筋違いで、否定するなら、皇国史観ではなく、皇国史観を利用した軍部や軍国主義であろう。
 皇国史観は日本民族の文化であって、権力のプロパガンダでも、政治イデオロギーでもないからである。
 文献にもとづくのが歴史学、遺跡にもとづくのが考古学なら、戦後、日本の歴史学が手がかりとなったのが中国の史書(漢書地理志/後漢書東夷伝/魏志倭人伝)だった。
 八世紀のはじめに完成した記紀(古事記・日本書紀)は、伝承なので歴史学の範疇から外れるだろうが、中国の史書も、多くが伝聞で、どこまで信用できるか保証のかぎりではない。
 ■「漢書」地理志(1世紀に書かれた中国の歴史書)
 描かれている日本の時代/紀元前1世紀(日本にかんする最古の史料)。そのころ倭国が100あまりの小さな国に分かれていたと記されている。
 ■「後漢書」東夷伝(5世紀に書かれた中国の歴史書)
 描かれている日本の時代/57年(奴国の王が光武帝から金印が与えられた/その金印が江戸時代に福岡県の志賀島で発見された)107年(倭国の王が後漢に奴隷を贈った)147〜189年(倭国に戦いが多かった)
 ■「魏志」倭人伝(3世紀に書かれた「三国志」の一つ)
 描かれている日本の時代/3世紀ごろ(倭国の様子や習俗、地理や産物、習慣などについて書かれている)。邪馬台国の位置をめぐって、畿内説と九州説が対立してきた。女王卑弥呼が30余の国々をしたがえ統一国家(邪馬台国)をつくったと記されている。

 後漢書から2〜3世紀の倭国に争いが多かった(倭國大亂)ことがわかる。紀元前1世紀に「分かれて百余国を為す(漢書地理志)」とされる倭国は、大乱の時代(147〜189年)を経て、卑弥呼と壱与の邪馬台国に至って安定するまで、戦乱の渦中にあったのである。
 戦乱の原因は、農耕(稲作)社会と集落の成立であった。
 備蓄された余剰生産物をめぐって、武器をもった人々や防御的施設を備えた集落が争い、または統合されて、より大きな政治的な集落(クニ)へ発展していったのである。
 縄文晩期から弥生時代初期にかけて、日本列島で、人類史上、劇的な変化が生じたのは、一粒の種籾が一年で2000粒、2年で400万粒にふえる高い繁殖力の稲作が開始されたからである。
 採集・狩猟よりはるかに食効率が高く、なによりも「余剰」を生み出す稲作が、定住と人口の増加、備蓄と相俟って、社会の原型というべきものをつくりあげたのである。

 ここで、ふしぎなことがおこる。
 2〜3世紀まで闘争をくりひろげてきた倭国が、突如、争いをやめて、統一へむかい、一斉に、ヤマト朝廷への服従を意味する前方後円墳をつくりはじめるのである。
 これが古代史最大の謎で、たたかわずに成立した大和朝廷と、ピラミッドと並ぶ巨大遺跡の前方後円墳が大量につくられたことについて、なにもわかっていない。
 もう一つの大きな謎は天皇で、ヤマト朝廷を統一した天皇について、いまだに、定説が存在しない。
 中国の3史書もそのことにふれていない。
 卑弥呼の死後(248年)、13歳で女王になった卑弥呼の宗女壱与が洛陽に使いを送ったとされる266年以後、約150年間わたって中国の歴史書から倭国にかんする記載が消えた。
 これが「空白の4世紀」である。
 中国の史書がなければ、日本の古代史は暗闇にのまれるのである。
 中国が、晋の滅亡後、南北朝の分裂期にはいってしまったからだが、日本のほうも、国内の統一や建設、治世に精一杯で、外交に手がまわらなかった。
 その4世紀におきたのが、大和朝廷の発展と前方後円墳の建設だった。
 歴史学的にも考古学的にも、大和朝廷と前方後円墳は、大きな謎で、それが天皇とどのようにかかわるのか、そのことにふれた学説も論文も存在しない。
 天皇が穀霊祭(のちの大嘗祭)の祭祀王だったことに思い至れば、その謎が解ける。
 稲作社会は、天候不順や天災によって、集落の全員が飢え死にするリスクを負った社会で、稲作のゆたかさは飢餓の恐怖と背中合わせになっていた。
 天候不順や天災を避けるには、神とつうじる天皇もしくは巫女の祈念に頼るほかなかった。
 古代社会は、神霊に支配された非合理の世界で、当時、米の不作にたいする恐怖から、人々が、シャーマンとしての天皇を敬ったのは、卑弥呼の例をみるまでもない。
 自然崇拝と穀霊への敬い、それが神道の根本で、天皇への畏敬も、そこにある。
 次回以降、卑弥呼の邪馬台国から大和朝廷へつながる天皇の系譜へ目をむけよう。
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