2018年07月30日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」54

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(12)
『国体の本義』を著した国学者の山田孝雄は、国体を空気にたとえた。
 国体は、空気のようにあたりまえの存在なので、とりたてて、意識できないというのである。
 国体と同様、天皇と神道も、日本人の無意識のなかにひそんでいる。
 日本人にとって、きわめて重要な文化的概念で、圧倒的な心的影響力をもちながら、あまりにも、歴史的・民族的な普遍性が高いので、却って、意識することができないのである。
 無意識という雲の上にあった神道や天皇が、国家の宗教的支柱や現人神として、国民から意識されるようになったのは、けっして、古い話ではない。
 明治政府の国家神道が、神社を国家の丸抱えにした神道の政治利用だったのなら、現人神はもっと新しく、2・26事件で、皇道派将校19人が銃殺刑になって、統制派が、荒木貞夫や真崎甚三郎ら皇道派の重鎮をすべて追放したのちのことである。
 統制派は、戦陣訓や軍人勅諭をもちだして、みずから、天皇の官僚・軍属であることをアピールし、東条英機などは「生きて虜囚の辱を受けず」(陸訓一号/1941年)などの訓令をだして、玉砕や自決による日本兵の大量死をまねいた。
 明治の軍隊は、海軍の薩摩、陸軍の長州と薩長閥だったが、西郷隆盛の下野と西南戦争における敗死、紀尾井坂の変の大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、政界・軍部ともに、伊藤博文や山縣有朋ら長州閥の独り勝ちとなった。

 これに反発したのが、政界や財界とむすんで、軍部の影響力を強めていった統制派で、その代表が、永田鉄山陸軍少将や東條英機陸軍大将だった。
 政・官・財界と組んで力をつけてきた統制派は、皇道派や薩長閥を排除して栄達の道を歩みはじめるが、薩長閥のような実績や人脈がなかった。
 そこで、かれらが権力の正統性としたのが、天皇と学歴だった。
 永田鉄山は、陸大をトップででて恩賜の軍刀を贈られているが、東条英機も丸暗記で有名な勉強家で、陸大をトップに近い成績で卒業している。
 知将今村均、猛将山下奉文、賢将石原莞爾が冷や飯を食わされたのは、日本の軍部が、陸軍士官学校や陸大、海軍兵学校の成績順位だけで、軍人の身分をきめていったからで、連合艦隊参謀長の宇垣纏は、海軍兵学校や海軍大学校の卒業順次がじぶんより下の者へ、敬礼も返さなかったという。
 昭和の日本軍は、極端な偏差値社会だったわけで、薩長の出身者がほとんどいなかった当時の軍事エリートは、勉強はできたが、薩長とは比べものにならないほど戦争が下手だった。
 中国大陸侵攻や南洋島嶼作戦は、陸軍と海軍が予算を分捕るためにおこした意味のない戦争で、その一方、サイパン島・硫黄島の要塞化など、本土防衛に必要だった作戦はなに一つ実行に移されなかった。
 日本は、統制派の狭量と権力主義、官僚主義のために戦争に負けたのである。
 旧日本軍上層部のでたらめをささえたのが「承詔必謹」で、十七条憲法第3条「詔を承りては必ず謹め」(君主がいうことに臣下はしたがえ)を借りてきて、国民は天皇の命令に逆らってはならないとした。
 これは、とんでもない誤りで、聖徳太子の時代の豪族(氏族)政治において、氏上や民たる氏子はいたが、国民などおらず、氏子とて、天皇との接点はなかった。
 承詔必謹は、臣下や官僚、地方豪族にたいするもので、かれらは、群卿百寮(第8条)、群臣百寮(第14条)と名指しされている。
 国民という概念は、大化の改新の「公地公民」からのもので、そこから50年近くも遡る聖徳太子の時代に、天皇が国民に「承詔必謹」を呼びかけるはずはない。
 昭和の軍部は、天皇陛下という号令に、だれもが、直立不動の姿勢をとって服従する現人神$_話を悪用して、数百万人の日本兵を死地に駆りだした。
「承詔必謹」はその悪夢の呪詛で、もっとも悪質な天皇の政治利用であった。

 漫画家の小林よしのりは「皇后さまの『承詔必謹』を見習うべし」としてネット上に以下の文章を載せている。
 皇后陛下の82歳の誕生日のお言葉を、産経新聞と東京新聞が全文載せていた。
 産経新聞は皇室のニュースを割と大きく報じて、いかにも尊皇心があるようなふりをする。
 ところが「承詔必謹」は全くない!
 それどころか、天皇陛下に平然と異議を唱える論客(逆賊)ばかりを紙面に登場させる。
 要するに自分たちの希望する「天皇像」に今上陛下は合致しないのである。
 Y染色体・男系血脈としての天皇を彼らは尊崇していて、個人としての天皇には興味がない。
 彼らの主張はこうだ。
 天皇は祭祀だけをしていればよい、公務は余計だ、御簾の奥に隠れてカリスマ性を保て、閉ざされた皇室が望ましい。
 天皇陛下が公務をなさり、国民に直接「お言葉」を伝えると、彼らは不愉快になるのだ。
 彼らは「承詔必謹」なきエセ尊皇家である
 皇后陛下でも、天皇陛下には、承詔必謹を心がける。
「私は以前より、皇室の重大な決断がおこなわれる場合、これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり、その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので、皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も、謹んでこれを承りました」
 この箇所は、8月8日の玉音放送を受けての、態度表明として非常に重大な言葉である。
 皇后陛下でも「承詔必謹」なのだから、国民も、国民の代表者たる国会議員も、本来は「承詔必謹」で臨まなければならない。
 それを悟らせるために皇后陛下は「謹んで承った」と仰ったのだろう。
 
 小林は、女系天皇論者で、男系祖先がどこの馬の骨とも知れぬ天皇に「承詔必謹」という絶対権力を与えよという。
 それでは、北朝鮮の主体思想(チュチェ思想=カリスマ崇拝)となにもかわらない。
 小林の尊皇は、長州藩のそれと同じで、天皇をギョク(玉)と呼び、御所に大砲を撃ちこみ、天皇の誘拐をくわだてる尊皇で、目的とするところは、天皇の政治利用にほかならない。
 万世一系という皇統の大原理を捨て、なお、尊皇というのは、天皇の政治的な利用価値のみを見ているからで、こういう輩は、歴史の真実ではなく、制度や機関として天皇をとらえているので、いつ反天皇に転じるかわかったものではない。
 小林は、天皇の御心に従わねば「承詔必謹」に反するという。
 だが、承詔必謹は、明治維新以降、とりわけ昭和軍国主義の産物で、天皇の政治利用の方便だった。
 日本は、承詔必謹をもって、戦争を遂行し、国体を危うくしたのである。
 葦津珍彦は、皇祖皇宗の大御心は、天皇の個人の意思よりも遥かに高い所にあって、万が一、天皇個人の御心が大御心に反した場合、これを諌めてもよいとのべている。
 葦津氏は、大御心は日本民族の一般意思ともいっているが、それが、天皇の祈りであり、象徴ということなのである。
 次回は、江戸国学の歪曲から現人神がうまれた経緯をみていこう。
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2018年07月23日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」53

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(11)
 縄文の遺伝子というべきアニミズム(八百万の神々)やシャーマニズム(神との交信)が、紀元前千年前後と思われる稲作の伝来にともなう穀霊祭や収穫祭と合流して、天皇の原型というべき祭祀王が誕生した。
 神武天皇が即位した紀元前660年から欠史八代、第十代崇神天皇にいたる千年におよぶ天皇の古代史は、神話と実史の綯い交ぜで、崇神天皇の四道将軍派遣にいたるまで、神武以来の天皇は、大和という一地方の霊神だったはずである。
 崇神天皇は、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王ととらえる見方が有力で、記紀に記された事績の類似性にくわえ、諡号の共通性から神武天皇と同一人物とする説もある。
『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読めるからである。
 大和朝廷の黎明と邪馬台国の末期が年代的に重なるところから崇神を「卑弥呼の後継の女王だった台与の摂政」「『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟」とみる説のほか、卑弥呼を、崇神に仕えた倭迹迹日百襲姫命(第7代孝霊天皇皇女)とみる説もある。
『日本書紀』に百襲姫の墓と記されている「箸墓」は、全国で最古・最大級(全長約280M・後円部の直径が約150M)の前方後円墳で、これを卑弥呼の冢に比定する説がある。
 根拠は、年代の一致と『魏志倭人伝』に記されている「倭国の女王卑弥呼の墓は径百余歩」という記述で、径百余歩は約150Mである。
 卑弥呼が、崇神を操った百襲姫だったのなら、日本は、古代から、巫女というシャーマンが大きな力をもっていた国ということになる。

 卑弥呼から台与、百襲姫や神功皇后、推古天皇ら8人の女性天皇は、巫女の系統で、皇統の男系をまもる男性天皇は、巫女の援けをうけてきた皇胤の系統といえる。
 それが、万世一系で、男系をたどってゆけば、神武天皇にゆきつくところに天皇の権威がある。
 天皇の権威がどこから生まれたのか、それが、古代史の最大の謎であった。
 その謎を解くカギの一つが万世一系(皇位の男系相続)だろう。
 女系相続なら、婚姻のたび、祖先が婿方(Y染色体)へ替わってしまう。
 祖先をたどることができるのは、父から息子へつたわるY染色体だけだからで、XとYの両方の染色体をもっているのは、男性だけである。
 女性(X染色体×2)はY染色体をもたないので、天皇が女系になった場合は、女性天皇の相方が、たとえば、外国人なら、天皇の祖先が、その外国人のY染色体をたどって、海のむこうのとんでもないところにいってしまう。
 皇室の祖は、イザナギから天照大神、ニニギの尊、神武天皇へつづく神話の系統で、日本人は、その神話を共有することによって、日本人たりえている。

 ヨーロッパの王権は、武力や政治、神授説の産物で、一元的にできている。
 日本の場合、権力(摂政・院政・幕府)と権威(天皇)の二元論で、権威は権力をささえ、一方、権力は、みずからの権力の正統性(レジティマシー)を権威にもとめる。
 血統相続による皇胤は、権力で奪うことができないので、これを権威として立て、権力と並立させ、権力の安定に役立たせたほうが得策だった。
 権力が天皇を立ててきたのは、そのためで、天皇の権威は、権力がつくったともいえるのである。
 天皇の権威は、天皇が生来的にもっているものではなく、権力が必要としたためにうまれたもので、権威は、二次的な文化的産物といえる。
 血統という歴史の連続性や伝統、言語や習俗も文化で、権力に文化的な要素がなければ、民を安んずらせ、国を治めることはできない。
 権威を立てることによって、権力は、文化という新しい鎧を身に着けることができる。
 それが日本の伝統的支配構造で、権力には、武の一元論に立つヨーロッパ型のほかに、文武二元論の日本型があるのである。

 日本史において、天皇が神だったことはいちどもなかった。
 政治権力をふるった天皇も、皇親政治の第40代天武天皇や平安京の遷都をすすめた第50代桓武天皇、西日本を勢力下においた朝廷が東日本を勢力下におく鎌倉幕府執権(北条義時)討伐の兵を挙げた後鳥羽上皇の承久の乱(1221年)、鎌倉幕府を討滅して天皇親政による復古的政権を樹立した後醍醐天皇の建武の新政(1333年)があるにすぎない。
 天皇は、権力者どころか、飾り物で、摂政や院政がはじまると、天皇はあたかも皇太子のような存在になってゆく。
 その典型が幼帝で、摂関家や上皇・法皇が、みずからの権力をふるうために幼い天皇を利用したのである。
 第56代清和天皇(即位9歳/藤原良房が政治の実権)、第66代一条天皇(即位7歳/摂政・藤原兼家)、第73代堀河天皇(即位8歳/摂政・藤原師実)、第74代鳥羽天皇(即位5歳/白河法皇が院政)、第80代高倉天皇(即位8歳/父・後白河院が院政)、75代崇徳天皇(即位4歳/鳥羽天皇が院政)、第76代近衛天皇(即位3歳/鳥羽天皇が院政)らが幼帝で、天皇は、権力の道具になっていった。
 江戸時代、禁中公家諸法度に縛られた天皇は、明治維新後、一転して、主権者にして現人神というとんでもない存在に仕立てられてゆく。
 次回は、幕末の復古神道から狂気をはらんだ軍人勅諭へ、天皇の政治利用の軌跡を追っていこう。

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2018年07月16日

神道と世界最古の文明「縄文文化」52

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(10)
 日本という国家の原型をつくったのは、疑いもなく、聖徳太子である。
 第2回遣隋使「日の出づる処の天子」(607年)と第3回遣隋使「東の天皇敬みて西の皇帝に曰す」(608年)の派遣(小野妹子)で、聖徳太子は、隋の皇帝煬帝にたいして、倭国が対等の立場にあることを宣している。
 倭国が律令国家としての体裁を整えたのは、冠位十二階と17条憲法制定にによってだが、それには、第一回遣隋使外交の失敗という手痛い教訓がばねになっていた。
 第一回遣隋使派遣(600年)の記録は『隋書(東夷傳俀國傳)』にはあるが『日本書紀』にはない。
 外交関係を拒絶されたことを愧じて、記録に残さなかったのだろう。
 東夷傳俀國傳には「高祖曰 此太無義理 於是訓令改之(高祖曰く 此れ大いに義理なし 是に於て訓えて之を改めしむ)」という一文がある。国書ももたずに外交をもとめる俀國(倭国)にたいして、隋の皇帝文帝が道理から外れているので改めるよう「所司」をつうじて訓令したというのである。
 その3年後の603年。廐戸皇子(聖徳太子)30歳のとき、冠位十二階が制定された。
 翌604年 廐戸皇子が31歳の折、憲法十七条を制定する。
 そして、607年の第2回遣隋使、608年の第3回遣隋使へとつづく。
『日本外史』の頼山陽は、蘇我氏の血を色濃く受け継ぐ(父方母方とも祖母が蘇我稲目の娘)廐戸皇子にたいして批判的で、異教である仏教の移入に努めたばかりか、蘇我馬子による崇峻天皇弑逆を放置したことをきびしく糾弾(『日本政記』)している。
 ところが「日の出づる処の天子」についえは、易姓革命による中華王朝の存亡流転と対比させ、万世一系の皇統を護る日本の国体の永久不変を謳った(『日本楽府』)ものとしてたたえている。
 蘇我馬子とともに物部守屋を滅ぼした15歳の廐戸皇子が、19歳で推古天皇の摂政となって、冠位十二階と憲法十七条を定め、34歳で、国体の永久不変を「日の出づる処の天子」と謳ったわけだが、廐戸皇子のこの思想的変遷には、ある人物が深くかかわっている。

 廐戸皇子22歳の折、高句麗から僧・慧慈(えじ)が来日する。
 この慧慈が、廐戸皇子の終生の師にして友人で、皇子が著した仏教の注釈書『三経義疏(『法華経』『勝鬘経』『維摩経』)』を携えて高句麗へ帰国した(615年)のち、廐戸皇子の訃報にふれて、翌年の同じ日に浄土で廐戸皇子と会うことを誓約して、623年の皇子の命日に、高句麗で没したという。
 隋と高句麗は、当時(598年〜614年)交戦中で、スパイ僧でもあった慧慈は、当然ながら、隋の事情につうじていた。
 廐戸皇子は、慧慈から、隋が仏教を厚く保護していること、長安には寺院が多くあって、仏教文化が花開いていることなどを教えられた。
 とりわけ皇子の関心をひいたのが隋の国家体制だった。
 中央集権国家が完成しており、官僚の規律として、儒教が重んじられていることなどを知ったが、なによりも貴重な知恵は、国家には、だれもが平伏する指導者=権威が必要とするということだった。
 慧慈の知恵を借りて、廐戸皇子は、冠位十二階と憲法十七条を制定したのち小野妹子に「日の出づる処の天子」「東の天皇敬みて西の皇帝に曰す」の国書ををもたせて隋に送り、隋の煬帝は、小野妹子の帰国に際して、裴世清を使節として日本に送った。
 慧慈がいうとおり、天皇の存在を宣することによって、煬帝は、倭国を国家としてみとめたのである。
 裴世清がもってきた返書が『日本書紀』に残っている。
「(略)倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う」
 天皇の呼称は、第3回遣隋使の国書にもちいられたことからはじまったいうのが定説で、隋の煬帝も、返書に倭皇ということばをもちいている。
 百余国(漢書地理志)あるいは三十余国(魏志倭人伝)に分裂していた倭国が稲作伝来以来の祭祀王(大王)を立てて大和朝廷を統一させ、隋と外交関係をむすぶにあたって、天皇を立てたというのが天皇の権威の歴史的推移であろう。
 天皇が神になったのは、8世紀の古事記・日本書紀以降、江戸末期における復古神道以降で、天皇は、もともと、国家の権威だったのである。
 
 したがって、33代推古天皇以前は、すべて大王で、10代崇神天皇以前の欠史八代は、その時期に伝来した稲作の収穫を祈念し、寿ぐ大和の地における祭祀王だったのではないか。
 天皇をつくったのは、慧慈の知恵を借りた聖徳太子で、蘇我氏の出自でありながら、蘇我王国ではなく、冠位十二階と憲法十七条にもとづいた官僚国家をめざした。
 その思想が、やがて大化の改新へつながってゆくが、その前に、聖徳太子がおこなった偉業をもう一つあげておかなければならない。
 仏教と神道、儒教の仕分けである。
 聖徳太子は、仏教を宗教、神道を政治、儒教を道徳に分けて、これらの一元化を避けた。
 仏教と神道、儒教のうち、いずれが優越しているか、絶対的かといういうのが一元論で、それが、明治の神国思想や廃仏毀釈というヒステリーにつながったのはいうまでもない。
 仏教と神道、儒教の共存は、和の精神ともいえるが、日本の固有的な考え方である『棲み分け理論(今西錦司)』でもあって、一元論の西洋や中華思想にはみられない。
 次回は、天皇が神になっていった歴史的経緯をふり返ってみよう。
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2018年07月10日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」51

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(9)
 国体を空気にたとえたのが『国体の本義』を著した国学者の山田孝雄だった。
 国体が空気なら、国家は無意識下の身体で、それが山田の「国家有機体説」である。
「国体は国の体なり。喩えば人の体あるが如し。人とは何か。之を物理学的に見れば、一個の有機体なり。之を科学的に見れば、各種元素の組織体なり」というのである。
 国家有機体説は、国家を一個の生物とみなす国家観で、古くはプラトンから絶対的精神のヘーゲル、保守主義のエドモンド・バーク、ホッブスらによって論じられてきた。
 ヘーゲルによれば、国家は、個と全体の調和が実現された有機的な統一体であって、バークによれば、国家は、現在、生きている人々のみならず、かつて生きていた人々、将来、生きるであろう人々、その三者の共同体である。
 そして、ホッブスは、国家(リヴァイアサン/怪物)を、人間がみずからを模してつくりあげた人工物とみた。
 この人口的国家は「万人の万人にたいする闘争」をくりひろげるであろうから、国家には、超越的主権が必要というのである。
 国家有機体説は、国家を機械的な制度とみるジャン・J・ルソーの社会契約説や美濃部達吉の天皇機関説、穂積八束・上杉慎吉の天皇主権説とは逆の立場で、国家が、文化や倫理という精神性、生産や消費という物質性を併せもった歴史的存在、生きている有機体つまり生命体であるとする。

 生命体である国家にとって、国体は空気で、とりたてて意識されない。
 意識されるのは、革命国家や独裁国家、全体主義国家におけるイデオロギーや法、暴力性をともなう権力で、圧政と暗黒政治、抑圧政策は、人々の自由を奪い、虐げ、心を牢獄につながずにいない。
 民主主義も人権も、自由も平等もイデオロギーで、絶対王権や専制・独裁に喘いできたユーラシア大陸ならいざしらず、天皇の権威が権力の専権横暴から民をまもってきた日本には無用の長物で、そこに、日本人特有の民族性があるといってよい。
 日本人は、民主主義や人権ではなく、被災地で地べたに膝をつき、被災者のご心配をなさる天皇皇后の善や愛、やさしさの文化にまもられてきたのである。
 政治や権力、法から無縁のほうがしあわせなのはいうまでもない。
 歴史上、日本人ほど政治や権力、法に縛られなかった民族はいなかった。
 その理由は、天皇がおられたからで、幕府(政府)は、民の側に立つ天皇の認可をえて、はじめて、統治権や徴税権を行使することができた。
 政治や権力、法で、民を苦しめて、どうして、天皇から権力の正統性をさずかることができたろう。

 天皇が権力者ではなく、権威となった鎌倉時代以降、人々にとって、天皇は、意識されざる空気のような存在であった。
 空気を失えば、死んでしまうが、だれも、空気の有難さに気づかない。
 天皇=国体は、血肉化して、無意識の領域にあったのである。
 だからこそ、憲法公布の直後におこなわれた世論調査では、各新聞社や米国調査とも、象徴天皇制への支持が90%近くにものぼったのである。
 江戸時代、天皇は、京都御所におられるお内裏さま、天子さまで、庶民とは直接かかわりのない存在だった。
 ところが、明治維新で天皇が国家元首・大元帥にまつりあげられると、徴兵令で集められた日本兵の最高上官になって「天皇陛下万歳」という精神文化が生じた。
 天皇制ファシズムは、天皇の政治利用の極めつけで、その嚆矢が薩長による倒幕と維新政府樹立だったのはいうまでもない。
 軍部は「大日本帝国憲法第3条(天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス)」を盾に軍令を勅令におきかえて、これを「承詔必謹」と称した。
 この四文字によって、天皇が空気ではなく、権力の牙城として、国民の上に君臨するようになったのである。
 承詔必謹は聖徳太子の「十七条憲法」第三条の「詔を承りては必ず謹め」の成句で、天皇陛下のことば(詔)はかならずつつしんでうけたまわれというのである。
 といっても、承詔必謹は、民にむかって発せられたことば(勅)ではない。
 聖徳太子は、憲法の形を借りて、豪族にたいして、天皇への帰服を諭したのである。
 当時は、豪族政治の時代で、ヤマト王権を構成していたのは、畿内や地方に蟠踞する氏族だった。
 聖徳太子の承詔必謹は、氏族の長、氏上にたいして発したことばで、これは第一条の「和を以て貴しとなす」も同様である。
 豪族は、相和して、天皇の詔を重んじて、大和朝廷の発展に尽くせというのである。
 以和為貴や承詔必謹を民にむけたことばとするのは後世の脚色である。
 とりわけ、承詔必謹は、戦時中、天皇の命令を絶対化するための便法としてもちいられた。
 次回以降、この承詔必謹が、大化の改新をへて、天皇政治=皇親政治につきすすんでいった過程、および、近世にいたって、このことばが、天皇神格化の道具になっていったプロセスをみていこう。
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2018年07月03日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」50

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(8)
 豪族(氏族)が跋扈していた倭国が、三世紀中頃から四世紀にかけて、次第に統一されていった。
 それが天皇を中心とする大和朝廷(奈良県)で、次第に勢力を広げ、やがて西は九州から、東は関東までを勢力圏内におさめてゆく。
 さらに、四世紀半ばには、朝鮮半島にまで勢いをのばして、それが白村江の戦い(663年)までつづく。
 5世紀以降、大和朝廷が大きな力をもっていたことは、仁徳天皇陵のような巨大な墳墓(前方後円墳/大阪府堺市)が数多くつくられたことからもわかる。
 大和朝廷を形成した豪族には、大伴氏や物部氏、蘇我氏、中臣氏のほか、葛城氏、平群氏、巨勢氏、膳部氏、紀氏などがいるが、大きくは、二つの系統に分けられる。
 一つは、軍事や祭祀をうけもっていた「大連」の物部氏(物部尾輿)の系統で、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中臣氏は、仏教受容問題で、物部氏とむすんで蘇我氏と対立した。
 もう一つは、財政や外交を担当していた「大臣」の蘇我氏(蘇我稲目)の系統である。
 蘇我馬子と物部守屋がたたかった「丁未の変」では、廐戸皇子(聖徳太子)や泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子(敏達天皇・推古天皇の子)ら蘇我氏の血を引く皇族のほか、紀氏や巨勢氏、膳部氏、葛城氏、大伴氏、安倍氏、平群氏などの有力豪族も蘇我馬子の軍にくわわった。
 神道・祭祀系の物部派と仏教・渡来系の蘇我派が睨みあっていた豪族政治において、天皇の存在は、かならずしも、磐石ではなかった。
 592年。聖徳太子19歳の折、崇峻天皇が、蘇我馬子が放った刺客、東漢直駒に弑逆される。
 豪族連合に擁立された祭祀王=天皇はけっして絶対的な存在ではなかったのである。

 飛鳥時代は、外来と土着をめぐって、文化や宗教、民族が衝突した古代史における最大の革命期であった。
 渡来人が活躍した時代でもあって、中国や朝鮮半島から、文字や仏教、儒教のほか、建築や鍛冶、織物、養蚕などの大陸文化が流れこんできた。
 外来文化は主に帰化人によって伝えられたが、東漢氏や西文氏らの渡来人や帰化人を擁していたのが蘇我氏で、当然、仏教導入にも熱心だった。
 そのため、排仏を主張する物部氏や中臣氏、忌部氏らと対立して、これがのちの「丁未の変」へつながってゆく。
 外交や宗教、文化、民族問題が混沌としていたこの時期、忽然とあらわれたのが「丁未の変」で、蘇我馬子についた聖徳太子だった。
 蘇我氏は渡来人と結びつくことで勢力を伸ばし、二人の娘を欽明天皇の妃とする(天皇の外戚)ことによって、地位を確固たるものにしていた。
 聖徳太子の父方も母方も祖母は蘇我稲目の娘で、蘇我の血を濃く受け継いでいる。
 推古天皇も、母は蘇我稲目の女(堅塩媛)で、推古天皇、聖徳太子とも蘇我氏の血族であることから、蘇我の時代にゆるぎはないかのように見えた。
 592年。推古天皇が豊浦宮で即位して、甥の廐戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政となった。
 すべて蘇我氏の思惑どおりであった。
 ところが、聖徳太子の政治は、蘇我家の期待にかなうものではなかった。
 聖徳太子の最大の功績は、蘇我氏の独断を排除して、天皇と豪族との関係を正したことである。
 それが、冠位十二階と憲法十七条である。
 冠位十二階が外からの規範的改革とすると、十七条憲法は、内からの精神的改革で、聖徳太子がもとめたのは、豪族政治からの脱皮と中央集権国家建設の基礎となる官僚政治への移行だった。
 冠位十二階によって、人材登用の道がひらかれて、蘇我独裁体制にブレーキがかかった。
 追い打ちをかけたのが十七条憲法だった。
 十七条憲法でよく知られているのが、第一条の「以和為貴。和を以って貴しとなし」と第三条の「承詔必謹。詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め」であろう。
 第一条の「和を以って貴し」はともかく、第三条の「承詔必謹」には誤解があるので、付言しておく。
 女系天皇論者で、漫画家の小林よしのりが、皇后さま82歳の誕生日の宮内記者会のご発言から、承詔必謹を読みとって、男系天皇論者を「承詔必謹なきエセ尊皇家」と罵っている。
 皇后さまは、天皇陛下の御放送にふれて、こうのべられた。
「皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされた陛下の御表明も、謹んでこれを承りました」
 小林よしのりは、このご発言をもって、皇后さまの承詔必謹を見習うべしというのだが、見当違いもはなはだしいどころか、これは、一種の危険思想である。
 十七条憲法の承詔必謹は、大和朝廷の構成員である豪族にたいして発した戒めで、天皇の神格化を前提としてはいない。
 天皇の神格化は、明治政府が、天皇を政治利用するためにあたってもちいた政治トリックで、日本史上、天皇を神(現人神)としたのは、この時期だけである。
 小林はこういう。
「皇后さまでも、承詔必謹なのだから、国民も、国民の代表者たる国会議員も承詔必謹で臨まなければならない。それを悟らせるために皇后陛下は、謹んで承ったと仰ったのだろう」
 小林は、愚かにも、戦時中の天皇トリック≠もちだして、悦に入っている。
 聖徳太子が「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す/日本書紀)」として、天皇を立てたのは、隋に、天皇が中心となった中央集権体制の完成をつたえるためだっただろう。
 第一回遣隋使が、国家の体裁をなしていないとして、倭国が外交を拒絶された反省から、聖徳太子は、第二回以降、小野妹子に託した国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無きや(隋書倭国伝)」と天子、天皇を謳ったのである。
 国書をうけとった皇帝煬帝は怒ったともつたえられるが、実際は、裴世清を使者に立てて、丁重なる返書を送ってきている(日本書紀)。
 日本は、天皇を立てることによって、隋から国家としてみとめられたのである。
 ちなみに、岩倉具視使節団は、国書(天皇の委任状)をもっていかなかったため、アメリカで条約調印ができなかった。
 神格化せずとも、天皇は、歴史上、日本という国家の中心におられるのである。
posted by office YM at 13:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする