2018年08月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」58

 ●民主主義と権力主義(1)
 私は、昔から、右翼人や保守主義者たる以前に反権力主義者で、現在もそうである。
 右の運動も保守主義の涵養も、根幹にあるのは、思想ではなく、反権力という情操である。
 権力にたいして、猛烈な反発心があって、これは、気性なので仕方がない。
 一方、権力主義の本領は、左翼暴力革命につきるだろう。
 共産主義もまた、思想ではなく、革命運動のイデオロギーで、マルクスも、英国のインド侵略にはエールを送っている。
 マルクス主義は、自由でも平等でもなく、権力主義で、暴力革命とギロチンがその象徴である。
 夢想家ルソーはフランス革命家に、自然権のロックはアメリカ独立運動に、反資本主義のマルクスはロシア革命に、それぞれ、利用されただけで、革命の本質は、くり返すようだが、思想ではなく、権力闘争である。
 かつて、右の運動が反共・反革命にむかったのは、反権力だったからである。
 しかし、その後、右の陣営は、権力の擁護者となって、反権力の衣を捨てた。
 これが右翼の堕落で、権力にとりこまれた右翼は、体制の一員の大政翼賛会にすぎない。
 神社本庁は、安倍内閣の応援団になっているが、神社がまもるべきは天皇の権威であって、安倍政権でも自民党政権でもないはずである。
 このテーマについては次回にゆずるとして、閑話休題。
 さて、右翼が反権力主義力といっても、むろん、無政府主義ではない。
 国家権力をみとめるのは、保守主義者も同様で、西洋では、社会契約説のホッブスがいる。
 ルソーやロックも、王権神授説を超えた社会契約説だが、国家権力を大前提とするのはホッブスだけで、だから、フランス革命を批判したエドマンド・バークとともに保守主義者の父と呼ばれるのである。
 保守主義者は、日本でいえば、玄洋社の頭山満が筆頭で、大アジア主義の立場から、日露戦争の折、満州義軍(馬賊)を結成するも、朝鮮併合や満州事変、日華事変(日支戦争)では、政府に異を唱えた。
 そして、蒋介石との和平を望み、蒋も尊敬する頭山とは和平に応じる構えだった。
 これは、統制派から阻止されたが、一方、頭山は、同志だった犬養毅首相らから入閣をいくら請われても応じなかった。
 右翼人、大アジア主義者、思想家には、権力は無用なのである。

 保守主義は、改革や現状打破、進出・侵略を望まない。
 ふり返ってみるに、明治以降の西洋化と帝国主義が、原爆による敗戦に帰結して、3百万人戦死・戦災死をふくめて、すべてを失ったことを考えると、戦争を避けようとした保守主義は、もっとも賢明な政治哲学だったとわかる。
 保守主義が権力のブレーキになりうるのは、国体(天皇)という文化構造が権力という政治構造の上位におかれるからで、頭山満の玄洋社の憲則三条には、第一条皇室を敬戴すべし、第二条本国を愛重すべし、第三条人民の権利を固守すべし、とある。
 保守主義を国家主義・全体主義とみるのはおおまちがいである。
 国家主義はヨーロッパ型の帝国主義、全体主義は共産・共和主義で、保守主義は、天皇が権力ではなく、民の側にあったように、むしろ、人民の側に立つ。
 玄洋社の頭山満、黒龍会の内田良平が、日本政府のアジア戦略に反対したのは、東亜連携が、同胞のきずなではなく、アジアを植民地にした列強の支配・被支配の立場に立ったからであった。
 大東亜戦争のアジア解放も、独立運動のきっかけにはなったものの、当初は、英米蘭仏に代わって、日本の軍部が統治の実権をにぎった。
 日本の軍部および日本という国家が権力的だったのは、否定できない事実で、その権力主義を、戦後、そっくりひきついだのが民主主義であった。
 民主主義が、民権運動の延長線上にあって、権力主義の対極にあるかのように錯覚しているひとがいるかもしれない。
 私に反*ッ主主義の共同戦線をもちかけてきた西部邁氏がのべたように、民主主義は、自由も平等も、善もモラルも有さない、ただの多数決で、数の暴力にほかならない。
 民主主義を最大限に利用したのがヒトラーやスターリン、ルーズベルトで、ルーズベルトが日本への原爆投下をきめたのが民主的に4回目の大統領当選をはたした直後であった。
 ナチス党が政権をとるのに、民主主義は、なんの抵抗にもならなかったどころか、党の情宣活動から普通選挙法に到るまで、徹頭徹尾、追い風の役割をはたしただけだった。
 ロシア革命のボルシェヴィキ(多数派)は、プロレタリアート(労働者階級)独裁プロレタリアート政党と同義で、多数派をつくる民主主義ほど暴力的で強烈な権力はないのである。

 フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』で、民主主義(政治)と自由主義(経済)が最終的価値として残されたと記した。
 だが、それは、その二つが、哲学的な普遍性をもっているからではなく、民主・自由がもっとも野蛮で手がつけられない原理だったからである。
 民主・自由だから、平和や繁栄がもたらされるのではなく、逆に、ホッブスの万人の戦争ではないが、混乱と紛争、格差拡大がひきおこされるだけである。
 ひるがえって、保守主義はなにかと考えるに、これは、民主と自由の制御にほかならない。
 保守=伝統は、歴史的価値観に添いしたがうことで、それは、とりも直さず、権威にたいする謙(へりくだ)りで、現実的な力としての権力が権威によって制御されて、それが、社会や精神のバランスであり、節度である。
 民主主義も自由主義も、権力なので、放埓で、ブレーキも自己制御もきかない。
 それを利用したのが、前世紀における暴力革命だが、民主主義信仰が深く根を下ろしている現代においても、民主主義は、十分に、暴走しうる。
 先日、ある集会で、伊吹文明衆院議員が「民主主義は衆愚政治を生む」と発言されたのを印象ぶかく聞いたが、伊吹議員の認識はまれで、大方は、民主主義が賢明な政治手法にして人類の英知の結晶と考えている。
 警戒心がないだけに、その民主主義が暴走しても、チェック機能がはたらかないのは、小泉内閣の「皇室典範有識者会議」における万世一系否定の民主的決議をみてわかるとおりである。
 民主主義は、元来、一過性のもので、たとえ、民主政権(人民政府)が誕生しても、民衆は議事堂に入りきらないので、多数決の絶対権利は、個人(独裁者)や政党(一党独裁)にゆだねられる。
 こうして、統治権が取り引きされて、独裁政権がうまれる。
 権力が独占されるから独裁なのではない。
 委任された多数派権力≠ェ大きすぎるので、強権独裁になるのである。
 多数決の権力は絶大で、絶対である。
 第一次世界大戦は、20世紀の初頭(1914〜1918年)におきたが、時代的には、議会民主主義が定着して、議会の多数決で参戦がきめられる情勢下にあった。
 第一次世界大戦の戦死者が、第二次大戦をこえる1600万人、戦傷者2000万人にたっしたのは、多数決(開戦)と徴兵令、武器の近代化の三つがかみあった結果だった。
 第一次世界大戦は多くの犠牲者をだすに価する戦争ではなかった。
 ところが、民主主義体制においては、安易に、多数決という非人格的・機械的判断(決定)が下されるため、善悪の判断や忍耐、善意などの人間らしさが封じ込まれて、軍事衝突を回避することができなくなる。
 多数決は、縛り首(私刑)の論理で、かつて、アメリカでは、多数決によって、公的死刑の何倍、何十倍もの人々が吊るし首(奇妙な果実)にされた。
 世界大戦が民主主義の戦争だったことにだれも気がつかないのは、民主主義信仰がきわまっているからで、将来、世界戦争や大規模な紛争がおきるとすれば、引き金になるのは、民主主義という名の権力主義であって、君主の判断ではない。
 むしろ、紛争にブレーキをかけるのが、政治的無色の君主で、それが、反権力=伝統主義という権威である。
 権威が権力を制御できるのは、頭山満の高弟でもあった葦津珍彦が指摘したとおり、権威=君主は政敵を有さぬ(帝王学)からである。
 政治や権力が「敵と味方の峻別(C・シュミッツ)」であるなら、文化の範疇にある権威は、敵と味方の区別をつけないことで、この泰然たるところによって、国家間の紛争や利害の対立、民族の憎悪をのりこえることができる。
 右翼人・保守主義者が、反権力の立場に身をおき、歴史や文化、国体、天皇に最大の重きをおいてきたのはそのためである。
 次回は、元号と改元、安倍内閣をささえる神社本庁のありようについてのべよう。
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2018年08月19日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」57

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(15)
 私事になるが、過日、講演中に、聴衆の一人から「あなたは腹を切れるか」と問われた。
 明治維新以降、とりわけ、昭和軍国主義における「承詔必謹」および現人神信仰にたいして、わたしは、一つ疑問を呈した。
 皇祖皇宗の大御心と天皇の御意志に齟齬が生じた場合、これを諌めてもよいというのが歴史を重視する態度で、葦津珍彦は、天皇が世襲である以上、大御心も世襲であるとのべている。
 腹を切れるか云々は、天皇諫言論にたいする反発で、承詔必謹(「天皇の詔を承ったからには必ず謹め」)に異議を立てるなら、その覚悟はあるのかというのである。
 臣下が主君を諌める場合、死の覚悟をもって不忠を清算するのが諫死という考え方で、儒教にもとづく封建思想である。
 だが、民は、天皇の臣下だったことはなく、十七条憲法でも、承詔必謹の対象は豪族や官僚で、太子は群卿(豪族/第四条)や群臣(官僚/第十四条)ということばを使っている。
 そもそも、民という概念がうまれるのは、十七条憲法から40年下った大化の改新(公地公民)以降のことで、それまでは、民も土地も、氏上が所有する私地私民だった。
 天皇と民の接点はなく、したがって、天皇と民のあいだで、承詔必謹や諫死の思想が生じたと考えることはできない。
 民には、お上(幕府将軍)の上に天子様というもっと尊い貴人がおられるというほどの認識しかなく、庶民はおろか、大名ですら、天皇と会うことはできなかった。
 なにごとの 在しますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
伊勢神宮に参った西行法師のうたであるが、庶民にとって、天皇は、どなたさまかは存じ上げないが、ただひたすらかたじけない存在であった。
 だからこそ、天皇は、日本の歴史や文化、民族の象徴なのである。
 
 わたしが呈した疑問というのは、天皇と民主主義の兼ね合いだった。
 天皇=伝統主義と革命の産物である民主主義は、対立概念で、民主主義においては、小泉純一郎内閣の「皇室典範に関する有識者会議」が公然と万世一系を否定したように、伝統がまもるべき価値ではなく、破棄されるべき旧弊となるのである。
 かつて、故西部邁氏から「右陣営はなぜ民主主義に攻勢をかけないのか」とハッパをかけられたことがあったが、さすがに鋭い目のつけどころであった。
 わたしは、西洋の民主主義を日本精神の破壊者と見るもので、むろん、民主主義の信奉者ではない。
 しかしながら、日本が民主主義を捨てて、日本主義に回帰する可能性は万に一つもない。
 そうなら、民主主義と折り合いをつけて、共存する以外、天皇を未来永劫にわたってまもってゆく方法がない。
 象徴天皇は、戦後、GHQがもちこむ以前に、摂関・院政・武家政権において、すでに定着しており、天皇が、権力ではなく、歴史や文化、民族の象徴にして、権威であることは、日本の歴史の真実である。
 民主主義にしても、ルソーが国家の理想とした君民共治≠ェ古代においてすでに実現されており、革命の産物であるデモクラシーより、日本の民主主義(君民一体)のほうがはるかに伝統的なのである。
 歴史的に実現されていた天皇と民主主義の共存を破壊したのが、明治憲法の天皇元首(大元帥/統治権の総攬者)と昭和軍国主義の現人神信仰だった。
 西部氏は、天皇主権も国民主権もみとめなかったが、わたしも同感で、主権は、国家のもの、しかもそれは、権利にともなう義務のほうが大きい、国家の負荷というべきものでなければならない。

 そこで、障碍になってくるのが天皇元首論と「承詔必謹」である。
 かさねて指摘しておくが、天皇は、歴史上、国民に、直接、下命することはなかった。
 その大原則をひっくり返したのが徴兵令(全国徴兵の詔/明治5年) だった。
 大元帥となった天皇は、理論上、国民皆兵の指揮者となって、ここで、天皇と国民がむきあう関係になった。
 この構造を利用して、政府は、赤紙一枚で、大量の国民を戦場に駆り立てることができるようになって、日露戦争では1か月の局地戦(203高地・旅順要塞攻略)で戦死者1万6千人、戦傷者4万4千人という未曽有の大被害をだした。
 赤紙一枚でいくらでも兵隊をとれる徴兵令が、対米戦争(南洋島嶼作戦)や中国戦線の戦線拡大につながって、大東亜戦争の戦死者は、二百十二万人にもおよんだ。
 西部氏の教え子で京大教授の佐伯啓思氏が朝日新聞(異論のススメ/2018年7月6日)で「日米戦争と重なる悲劇 自刃した『西郷どん』の精神」なる一文を寄せている。
「明治維新のもつ根本的な矛盾とは、それが攘夷、すなわち日本を守るための復古的革命であったにもかかわらず、革命政府(明治政府)は、日本の西洋化をはかるほかなく、そうすればするほど、本来の攘夷の覚悟を支える日本人の精神が失われてゆく、という矛盾である」「盟友の大久保利通らと袂を分かって鹿児島へ帰郷し、4年後に明治政府に対する大規模な反乱(西南戦争)をおこしたあげく最後は自刃する。西郷を動かしたものは、攘夷の精神を忘れたかのように西洋化に邁進する明治政府への反発や維新の運動に功をなしたにもかかわらず報われずに零落した武士たちの不満であった」
 佐伯氏はふれていないが、士族の反乱の根底に、徴兵令があったのは疑いえない。
 志願兵制度(「壮兵」)を構想していた西郷隆盛や「萩の乱」の首謀者として処刑された前原一誠、西郷隆盛とともに私兵を率いて政府軍と戦い、壮絶なる最期を遂げた桐野利秋(中村半次郎)らは「国家のために死ぬ武士の名誉を奪うもの」として、徴兵令に反対した。
 佐伯氏のいう日本人の精神の頂点に、国家のために死ぬ武士の名誉があったはずで、葦津珍彦も「近代民主主義の終末/日本思想の復活)」で同様の論述をくりひろげている。
 承詔必謹が、日本人を戦場に送り出すため、軍人が17条憲法から盗用した論法で、天皇の政治利用だったことに気づかなければ、天皇=国体の純粋性を未来永劫にわたってまもってゆくことはできないのである。
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2018年08月12日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」56

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(14)
 神武天皇の末裔である天皇は祭祀王で、今上天皇は、いまなお、五穀豊穣と国の弥栄、民の幸を高天原に祈っておられる。
 それが神道あるべき姿で、神道は、宗教ではなく、祈りの儀式なのである。
 聖徳太子が、仏教を宗教、儒教を道徳、神道を政治に仕分けたのは、賢明な判断で、祭祀国家である日本の政治は、高天原の理想(幽契=天照大神と豊受大神の約束)の実現を祈る儀式で、天皇の祈りは高天原の祈りなのである。
 アニミズムの最高頂点が高天原なら、シャーマニズムが、卑弥呼や草薙剣を授けて日本武尊の難を救った倭姫命らの系統で、シャーマンが男性天皇にうけつがれたのは、万世一系という歴史的伝統によってだった。
 世襲においては、神武の血統へとたどりつく男系が絶対で、女系では、代がかわるごとに男系の祖がかわって、伝統を維持できない。
 壬申の乱ののちに皇親政治を敷いた天武天皇を除いて、天皇が絶対権力者ではなかったのは、天皇の権威は、神武の血統継承者にして神道の最高神官という二点にあったからである。
 大王家と大和豪族の連立政権は、葛城や蘇我、物部、中臣らの豪族が大王に統一されたのではなく、豪族らが統一の象徴として、大王を立てたというのが実際のところで、天皇の権威は、豪族や太政官、摂関家、上皇ら権力構造との微妙なバランスの上に成立していた。
 穴穂部皇子(欽明天皇の皇子)や崇峻天皇が蘇我馬子に殺されたのは、その力関係のあらわれで、天皇は、大和朝廷という政(マツリゴト)の御みこしのような存在だったのである。
 道鏡の皇位簒奪事件では、弓削道鏡を寵愛する孝謙上皇が、道鏡排除の乱をおこした藤原仲麻呂にたいして、仲麻呂の専制に不満を持つ貴族を結集させて仲麻呂を滅ぼし、さらに、仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁天皇を廃位に追いこみ、淡路国に流刑途上、ひそかに殺害している。
 重祚復位した称徳天皇のもとで、太政大臣から法王にまでのしあがった道鏡は、みずからを天皇にという宇佐八幡神のお告げを工作するが、和気清麻呂に破られて、称徳天皇の病没後、失脚する。
 そのかんの度重なる政変で、多くの親王・皇子・天皇が粛清され、藤原仲麻呂の乱では、淳仁天皇以下、15人の皇族が流刑になっている。
 天皇や皇族にたいする最高刑が流刑なのは、死刑にすると祟られるからで、配流は事実上の死刑だった。

 歴史上、天皇が絶対者や現人神だったことは一度もなく、江戸時代は、禁中公家諸法度によって、権力からきびしく遠ざけられていた。
 天皇を権力者にしたのは明治維新の薩長政府で、天皇を担いで、武家政治を転覆させた。
 薩長や倒幕公家(岩倉具視・三条実美)に担がれた天皇が、権力の後ろ盾となったのが明治維新の基本構造で、その思想的背景に、国学という文化の範疇にあった神道(神ながらの道)の宗教化があった。
 神道を絶対化すれば、天皇を元首に戴く維新政府の天皇ファシズムが万全になって、明治政府は、戦争遂行をふくめた帝国主義政策を強力におしすすめることができる。
 明治憲法を萌芽として、昭和初期の軍国主義にむかって、天皇ファシズムがすすんでいった背景に、神道を国家神道に仕立て、国家自体を神がかりにして政治を思うままにすすめようという薩長の企てがあったのである。
 皇室の儀式だった神道が、江戸時代に脚光を浴びた理由は、国学者の契沖や荷田春満、賀茂真淵、本居宣長が、古事記や万葉集、古今和歌集の研究をとおして、神道のなかに日本精神を見出したからだった。
 江戸時代の学問は、漢学(四書五経)と国学に大別される。
 国学者たちの神道は、あくまで、古典研究の範囲でとどまっていた。
 ところが、本居宣長の死後、平田篤胤という人物があらわれて、神道のオカルト化をはかる。
 平田は驚くべき勉強家で、仏教・儒教・道教・キリスト教のほか西洋医学やラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していた。
 本居宣長の弟子を自称していたにもかかわらず、宣長がきらった漢意(からごころ)の大家だったのである。

 平田が試みたのは、神道のキリスト教への大改造だった。
 キリスト教は一神教で、多神教・汎神論の神道と折り合いがつくはずがない。
 天皇が「神に祈る神(のようなひと)」で、歴史上、現人神だったことが一度もなかったのは、日本が多神教世界だったからである。
 平田神道の一神教は、天皇の神格化で、天皇がキリストに仕立てられた。
 ゴッド(全能の創造神)は、天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の三神で、キリスト教の三位一体になぞらえられている。
 世の悪を人間の責任に帰しているのが原罪思想なら、最後の審判で、死後の人間を裁くのが、天孫降臨以後、国土を天皇の祖神に譲って幽世に移り住んだとされる大国主神である。
 なにからなにまでがキリスト教的なのである。
 平田神道のきわめつけが「黄泉の国」である。
 死者の世界(異界)は現世のあらゆる場所にあって、神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は、この世にとどまって、永遠に家族や友人をみまもるという。
 平田神道に、下級武士から神職、地主、在郷商人まで千人以上が門人として殺到したのは、キリスト教的な合理性をもっていたからだが、平田神道(復古神道)とラジカルな水戸学がむすびついたのが「尊王攘夷」論だった。
 儒教的秩序・歴史観にもとづく水戸学の尊皇攘夷と異国の文物を汚らわしいものとみなす平田神道の排他性が共鳴したわけだが、そこから、現人神という思想がでてくる。
 君民の秩序として天皇を重んじる水戸学と天皇をキリストとみる平田神道が合体して、理性を失った天皇崇拝がでてくるわけだが、日本史上、天皇が神となったのは、これがはじめてである。
 平田神道は、神社の神官につよく支持されるが、この神官たちが政府に登用(神祇官)されて、廃仏毀釈運動(神仏分離令)という日本史上最悪の文化破壊がおこなわれる。
 この狂信性が、国体破壊であって、元凶は、天皇の政治利用である。
 そして、対米戦争というとんでもない方向へ日本をひっぱってゆく。
 そのときに悪用されたのが「承詔必謹(天皇のみことのりには必ず従え)」という観念である。
 小林よしのりは皇后陛下の「謹んでこれを承りました」というおことばをとらえて、これを見習えという。
 そして、こう悪態をつく。
 皇后陛下のおことばが産経新聞の愛読者である「男系血脈派」に届くのか?
 自民党の国会議員に届くのか?
 竹田恒泰を奉じる日本会議系の国会議員に届くのか?
 安倍政権に届くのか?
 有識者会議に届くのか?
 答えは風に舞っている。
「承詔必謹」に一片の批判精神ももちあわせない小林という男はなんという愚かな男であろうか。
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2018年08月05日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」55

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(13)
 神道がいつごろから宗教の形態をとったのか、正確にはわかっていない。
 神道という文字の初見は『日本書紀』の用明天皇紀で、そこに「天皇、仏法を信けたまひ、神道を尊びたまふ」(6世紀末)とある。
 神道が表舞台にでてきたのは天武・持統朝の「律令祭祀制(7世紀末〜8世紀初頭)」からで、新嘗祭や朝廷から全国官社へ幣帛が下される「幣帛班給制度」もこのときからはじまった。
 伊勢神宮の整備や斎宮制度(未婚の皇女または王女が伊勢神宮の祭神=天照大御神に仕える)を整えたのも天武天皇だが、大宝律令など、当時の律令制度にかんする歴史的史料は残っているものの、神道の発生や実態を示す記述や記録はほとんど存在しない。
「葦原の 瑞穂の国は神ながら 言挙げせぬ国(柿本人麻呂)」だからで、日本人が神道を信仰してきたのは、神道の原点たる高天原が日本民族の魂の故郷だからである。
 神道に経典や教義、戒律がなく、キリスト経やイスラム教のような絶対神がいないのは、神格にあたるのが、非人格の高天原だからである。
 神道は、啓示宗教とちがい、神のことばや人間理性にもとづかない自然宗教(崇拝)で、神にあたるのが、人格神ではなく、言挙げをしない高天原という聖地なのである。
 そこから、神話や八百万の神々、ミコト(尊)や英雄、巫女や神官、日本人の祖先にあたる氏子などがうまれて、日本開闢の物語が展開される。
 中心になるのが天皇で、日本人は、どこかからやってきたのではなく、天孫神話を共同幻想とする民族で、高天原から降りてきたのである。
 これを事実と反するというのは、大馬鹿者で、民族もヒトも、神話や幻想を共有して、はじめて、万物の霊長たりうるである。
 わたしたちが、孤独な個人ではなく、一人ひとり、日本民族の同胞たりえているのは、天皇が、わたしたちが共有する神話や歴史世界の中心におられるからである。
 といっても、天皇は、日本民族の象徴で、個人崇拝の対象ではない。
 天皇を個人崇拝(現人神)の対象としたのは、軍人勅諭(1882年)と戦陣訓(1941年)だが、これについては、次回に詳説することにして、今回は、文化概念だった神道が宗教へ、文化的存在だった天皇が現人神へと仕立てられていったプロセスをみてゆこう。

 日本土着の素朴な信仰心は、縄文時代に、アニミズム(自然崇拝)やシャマニズム(神との交流)、祖霊崇拝などと混交して、おそらく、弥生時代になってから、高天原神道(神話)となって、祭祀の儀式にとりいれられていった。
 神道の参拝は、何事も念じない。
 拝礼して、高天原の理想(幽契=天照大神と豊受大神とがとり結んだ約束)をうけとめるだけである。
 神社あるいは祭祀は、そのための祈りの場(神籬=ひもろび)で、高天原につうじるこの世の異空間である。
 高天原とこの世は、神社や鎮守の森でつながっている。
 なにごとの 在しますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
 伊勢神宮に参った西行法師のうたである。
 高天原につうじるひもろびだからこそ、伊勢神宮を訪れる日本人は魂をゆさぶられるのである。
 降る雪や 静寂厳 このやしろ 高天原へ 白き神籬(山本峯章/2016年)
 なんの装飾も華美さもない、簡素なたたずまいの神社に、これほど降る雪が似合うのは、高天原につながっているからなのである。

 高天原は、万物の産み出る処で、一切をはらみつつ、一切をもたない、知慮分別を超えた、空無の聖空間である。
 その摩訶不思議を崇め、畏れるのが神道の精髄で、日本人は、高天原という絶対無比を、古来より、唯一の信仰対象としてきた。
 神道の神格は、あくまで、高天原だが、高天原は、万物の有である一方、無一物の無で、そこに、日本精神の根本原理がある。
 日本文化の特性の一つに、無と空がある。
 親鸞の無上仏から無心の善や美、般若心経の色即是空と空即是色、鈴木大拙ら禅宗の空は、西洋の虚無(ニヒリズム)とちがって、何かを産みだす力の源泉である。
 高天原の思想をうけついでいるのである。
 高天原神道は、近世・近代になって、三神を創造主とする平田(篤胤)神道や祝詞(神社)神道、廃仏毀釈をうんだ国家神道などへ枝分かれしていった。
 古事記と日本書紀にも、造化三神による天地創造の神話がある。
 けれども、天地創造したあと、すがたを消して、二度とあらわれない。
 造化三神は、高天原そのもので、この世の神ではなかったからである。
 天地創造は、無の高天原から有の葦原中つ国(この世)がつくりだされた神の御所為で、西洋の天地創造とは、根本構造が異なる。
 近代精神においても、有を生むのは、無である。
 目に見える物質(有)と目に見えないエネルギー(無)は、不即不離の関係にあり、万有引力や物理の法則、自然現象をつくりだす原理、生物を生育させる力も、目に見ることができない無の力である。
 本居宣長は、無や空の力を産巣日(ムスビ)といい、ムスビの力によって生成される一切を「神の御所為(ミシワザ)」とよんだ。
 そして、理屈を並べ、賢しらに説明しようとする作為を漢意(カラゴコロ)として排した。
 それが、古事記から再構築された近代神道=高天原神道である。
 神道を原始信仰という学者がいるが、けっして、そうではない。
 むしろ、「汝はわれのほかを神としてはならない」というモーゼの十戒に比べて、はるかに高い普遍性をもっている。
 次回は、高天原信仰と天皇のありようを根本的にゆるがした平田神道をみていこう。
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