2018年09月28日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」63

 ●民主主義と権力主義(6)
 日本では、時折、邪道が正道をおしのけて、常軌を逸した事象が平然と姿をあらわす。
 とりわけ、伝統と革新がせめぎ合うシーンで、それは、よくみられる。
 伝統をまもることはむずかしく、革新が時代の潮流に乗りやすいのは、歴史が示すとおりだが、日本ではそれが、時代の節目にヒステリックな形であらわれてくる。
 ロッキード事件がおきたのは、対米従属一辺倒だった日米関係が、田中角栄によって転換されつつあったさなかだった。
 当時、角栄有罪を叫んだマスコミの狂奔がヒステリーでなくてなんだったろう。
「9条加憲」も、野党が弱体化して、自公あるいは自民党(保守陣営)単独で改憲に必要な三分の二議席を確保できそうな情勢下でおきた。
 9条加憲は、自衛隊を自衛ための必要最小限度の実力組織とした上で、同条の1項、2項を、自衛隊設置を妨げるものと解釈しないというものである。
 具体的には「第3項」で自衛隊設置を謳い、「前2項は自衛隊を設けることを妨げない」と但し書きを入れるというのだが、姑息すぎる。
 なぜ、「第2項」の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」を削除して、自衛隊を国軍とする、としないのか。
 共産党や社民党、旧民主党の一部が騒いでも、しょせん少数派で、多数決でおしきれるではないか。
 国益や国家理性、伝統に照らして、正当と思われることがなんの注釈もなくひっくり返される。
 元号問題も然りで、今上天皇のご譲位の時期において、次期元号の事前公表という前代未聞の不祥事が、政府の手によって、着々と準備されている。

 政令が定める元号は、内閣が政令を閣議決定して、天皇が公布する。
 政府は、付帯決議を根拠に、地方自治体や企業の意見も聞いた上で、今年5月、皇位継承1か月前の公表を想定して、各省庁のシステム改修などの準備をすすめるという。
 これにたいして、神社本庁の機関紙「神社新報」は、新元号が天皇の御世であることをふまえ、新天皇が御聴許の上、政令としてこれを公布し、公表するべきとする主張を展開した。
 安倍首相をささえてきた神社本庁が、元号の事前公表はノーといっているのである。
 超党派議員でつくる「日本会議国会議員懇談会」の会合でも、出席者から「元号の権威や伝統がどうまもられてのか」などの意見が相次ぎ、会長の古屋圭司衆院議院運営委員長が菅義偉官房長官に「新元号は新天皇から公布されるべき」と申し入れた。
 新天皇の践祚および即位の一か月前に新元号を事前公表をすることは、今上陛下の御代(平成)に次の天皇の時代の元号を謳うことになって、神事として成り立たない。
 新天皇の践祚前に新元号を公表すると一世二元となってしまうからである。
 御代替わりにあたって、宮中では、幾つもの重大な儀式が催される。
 これは国家的神事で、政府機関がおこなう御代替わりの式典は、この神の業(わざ)をうけるものにすぎない。
 践祚および即位は、国体の儀式であって、断じて、政体の行事ではないのだ。
 不都合だからといって、一世二元となる元号の事前公表をおこなえば、新元号発布が神事に則らないご都合主義となって、はなはだ、不穏当である。

 これと類似した問題に元号の開始月日がある。
 政府は、2019年5月1日に新元号を切り替える前提で、同年4月1日の公表を想定して準備をすすめると発表している。
 新元号が5月1日施行なのはなぜなのか。
 官邸は当初、「2018年末に新天皇が即位、2019年元日に改元する」という案を考えていたという。
 これに、天皇陛下の「ご意向」を重視する宮内庁が難色を示した。
 年末年始は皇室の重要行事が相次ぐ上、昭和天皇崩御から30年となる節目でもあって、「陛下ご自身が儀式をとりおこないたいお考え」を主張したといわれる。
 官邸は、次善の策として、年度替わりとなる「19年4月1日即位」の案を提出したところ、「年度替わりは転勤や入学などで慌ただしい」「中央官庁の人事異動と重なる」「3〜4月は統一地方選で政治家が多忙」といった異論が噴出して、結局、第3案の「5月1日即位」にゆきついたという。
 5月1日はメーデーである。
 保守主義者なら反射的に避ける月日で、忌避すべき理由やデメリットを挙げてゆけばきりがない。
 寿ぐべき元号の初日を、アメリカでは「ゼネスト記念日」としても知られるメーデーをあてたことをふくめて、親米主義者である安倍首相の政治姿勢には疑問をかんじざるをえない。
 ちなみに、私は、この件について、友人(福田富昭/国際レスリング連盟副会長/2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会評議員/文部科学省五輪対策チーム実行委員長)を介して、神社本庁に申し入れをおこなった。

 親米保守である安倍首相は、親米だけを取って、保守を捨てた売国政治家に変貌しつつあるのではないかと疑問を抱かざるをえない。
 今上天皇の譲位のご意志を、憲法4条の解釈にからめて政治決定としたのみならず、神事ともからむ元号決定を政治問題(政令)にして、天皇を除外したのは、改憲主義者とは思えない憲法原理主義≠フふるまいで、国民感情とも遊離している。
 安倍首相は、アメリカ人の感覚をもって、日本の政治をおこなっているのではないか。
 9条1項、2項の遵守は、日本を潜在的仮想敵国と位置づけるアメリカの思惑に合致しており、皇室の無力化は、GHQ以来、アメリカの既定方針である。
 安倍首相から、日本独自の、国益や誇り、固有文化を訴える迫力がまったくかんじられないのは、かれは、愛国者でも民族主義者でもなく、根っからのアメリカンボーイだったからではなかったか。
 トランプ大統領は、貿易摩擦を回避するため、日本が、アメリカ製の武器を大量に購入する予定と嬉々として記者会見している。
 安倍首相の政治ウエイトは、日本よりもアメリカにかかっている。
 このままでは、安倍政治は、アメリカのための憲法改正、アメリカのための外交、アメリカのための経済政策に転落してしまう危険性がある。
 現在、日本国憲法は、9条をもちながら、世界第六位の軍事力をもっていることからわかるように半ば死に体≠ノなっている。
 半分、死んでいる憲法を改正する必要などどこにあるだろう。
 下手に改憲すると、自主憲法どころか、むしろ、現在のものよりもっとリベラルな革命憲法ができあがってしまう可能性が大である。
 それより必要なのが、対米従属のマニュアルになっている「日米地位協定」の抜本的改革である。
 次回以降、論旨を対米関係へと移していこう。
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2018年09月25日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」62

 ●民主主義と権力主義(5)
 元号についての議論で気にかかるのが、便宜性から伝統を語ろうとする見当違いと外国にたいするへつらいである。
 元号を文化と見て、一刀両断的にいうなら、日本固有に文化なので、これを問答無用にうけいれなくてはならない。
 便宜性に問題がある、外国人にわかりにくいなど、そんなものはとるに足らない問題で、まともにとりあうほうがどうかしている。
 元号問題は、哲学で言うなら与件、絶対前提で、うごかすことにできない第一原因である。
 その絶対前提にあたるのが天皇の存在で、いみじくも、元号は、天皇の御世の尊号である。
 元号は、世界に類のない国宝級の伝統で、日本人たるものこれに誇りをもって世界に宣してよい。
 ところが、警察庁は、改元にあたって、運転免許証の元号表記を西暦に変更する改定案を発表した。
 理由は「元号が外国人にわかりにくい」「マイナンバー制度に西暦がもちいられている」の2点だが、警察庁の意識や知的レベルの低さには開いた口が塞がらない。
 運転免許所有者のうち外国人が何パーセントか知らないが、わずかな外国人が元号の不便性をうったえたとして、それがなんなのだ。
 外国人の元号へのクレームは、免許をあたえてくれた他国への無礼、文化侵害であって、警察庁がふるえあがって恐縮することではないのだ。
 マイナンバー制度の西暦は、有効期限表示で、十年後、元号が変わっている可能性があるので、便宜上、西暦だが、生年月日は元号である。

 元号と西暦の併記は、伝統と国際慣例の並立で、キリスト教国家ではないわが国は、元号法は整備されているが、西暦が法制化された事実はなく、明治5年以降、グレゴリオ暦(西暦/太陽暦)が国際慣例としてもちいられてきたにすぎない。
 警察庁はテロ防止キャンペーンに女性タレントを使って「私はテロをゆるさない」なるポスターをべたべた貼り出して自己満足にふけっている。
 頭のレベルがその程度なら元号など文化の根源に触れる問題には近づかないほうがよいのである。
 これに先立って、政府は、各省庁がコンピュータ・システムでやりとりする日付データについて、和暦(元号)と西暦で混在している現状を改め、今後、数年かけて日付データを西暦に一本化する考えだという。
 呆れた暴挙で、日本国の正式な年号(元号)を放逐して、便宜上の暦(キリスト暦)を国家の年号にしようというのである。
 理由は、便宜性と合理性、事務の簡便化だけである。
 便宜性や簡便化が理由だとしても、行政文書での元号使用を強制しなければよいだけの話で、それが、どうして、元号廃止の理由になるのか。

 元号廃止の背後にあるのは、一切の伝統を廃止する革命思想である。
 これは、広義の民主主義革命で、伝統・権威・制度が否定されると、社会が崩壊の危機にさらされる。
 この民主主義革命は、左翼暴力革命が血みどろの闘争であるのにたいして、一見、平和的で、そもそも、革命などという物騒なムードすらかもしださない。
 議会内革命・国民投票・大衆迎合がキーワードで、その三つを呑みこんでいるのが民主主義という大舟である。
 多数決や国民投票、大衆的討議の果てになにがあるかといえば、国民的堕落というふしだらさである。
 ゴミの処分場をつくれ、だが、自宅の近隣は絶対反対というのが大衆的ふしだらさである。
 政治的決定は、さまざまの条件や選択肢、価値観、信条などが検討されてでてくる高度な判断で、偉人や英傑、哲人らが人々から尊敬されるのは、かれらの決断がすぐれていたからにほかならない。
 ところが、現在、もてはやされているのは、衆愚のきわみである国民投票で、どの政治家も二言目には国民投票を口にする。
 国民投票は、英知や知性、知恵や知識、テーマにかんする情報や付帯条件をあたえられないか、それが、不十分なまま、感情や好悪、目先の利益や気分任せに投じる政治決定で、これがこれまで、最悪の結果を招いてきたケースは枚挙にいとまがない。。
 向上には、努力や忍耐が必要だが、国民投票ではいちばんイージーな政策が選択されるので、国民投票の結果、国家は、まっしぐらに衆愚政治へ転落してゆく。
 元号を国民投票にかけると「面倒」「西暦のほうが便利」などという理由から廃止になる可能性がきわめて大きい。
 文化的異義や伝統的価値を重んじる知的レベルの高いひとは、いつの世でも、少数派だからである。
 民主主義とは、圧倒的多数の愚論が少数派の賢者の論を踏み潰してゆくプロセスで、伝統(元号)には一円の価値もない叫ぶ亡者がふり回す亡国の斧だったのである。
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2018年09月21日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」61

 ●民主主義と権力主義(4)
 昭和54年、旧大東塾の影山正治は「一死似て元号法制化の実現を熱祷しまつる」とする遺書を残して割腹後、散弾銃により自決した。
 元号法が可決されたのはその直後(第87回国会)のことだった。
 日本において、元号は、かくのごとく思い意味をもっている。
 一人の天皇について一つの元号に限る「一世一元」によって、天皇と元号が一体化して、天皇への親近感と日本特有のアイデンティティ(文化)がつくりだされる。
 西暦645年の「大化」から西暦1989年の「平成」まで延べ1344年間、247の元号が重ねられてきたが、そのかん、元号にまつわる混乱は皆無だった。
 それだけ、元号は、日本人に深くなじんできたといえる。
 元号は天皇がおきめになるもので、明治憲法下でも、元号は、勅定=天皇の決定事項と明記されていた。
 その公表は、法的効力を持つ詔書で、明治憲法下における改元は、元首たる天皇の権威を示す一大イベントだった。
 ところが安倍政権は、元号の政府決定どころか、元号の事前公表までを計画している。
 さらに、パスポートや運転免許証、公的文書などへの西暦表記を関係省庁へ通達したという。
 戦後、GHQ命令によって、天皇の法的効力(勅定・詔書)は失われた。
 元号も法的根拠を失ったが、政府は歴史的慣習としてこれを存続させてきた。
 そして、昭和54年の元号法成立で、元号は、よみがえった。
 ところが、同法では「元号は、政令で定める」とされている。
 政令は、内閣による命令なので、元号を決めるのは天皇ではなく、内閣総理大臣ということになる。
 日本は独立国なので、天皇の法的効力(勅定・詔書)を復活させてよかったはずだが、どういう力がはたらいたのか、GHQ意向がそのまま残った。
 天皇ではなく、首相が元号をきめるのなら、元号の決定が天皇の権威を示すイベントとなりえないのではないか。
 元号制度をとる国は、世界で日本が唯一で、天皇の権威を示すものとなっている以上、新元号は、新天皇(皇太子)におきめいただく配慮がはたらいてしかるべきではなかったか。

 1979年(昭和54年)に元号法が成立してから40年近くが過ぎた。
 いまにいたって、元号を廃止する理由も根拠も見当たらない。
 にもかかわらず、安倍首相は、なぜ、パスポートや運転免許証、公的文書などへの西暦表記を関係省庁へ通達したのか。
 その謎を解くカギは、じつは、安倍首相の「9条加憲」にある。
 自衛隊を憲法で明文化する安倍首相の「9条加憲」は、護憲派ばかりか改憲派や中道、無党派層のいずれの層からもそっぽをむかれている。
 憲法9条の1項、2項をそのままにして、3項を追加して、そこに自衛隊の合憲化を書き込むというアイデアは、果たして可能であろうか。
 賛成反対以前に、論理的矛盾につきあたって、だれだって、お手上げである。
 このアイデアを名案として歓迎するムキが一つだけある。
 アメリカである。
「われわれ(アメリカ)がつくった憲法をまもって、わが国(アメリカ)との集団的自衛権を保持せよ」とアメリカから迫られた場合、日本は、論理的矛盾はさておき、9条に3項をくわえて、自衛隊の合憲を謳うしかない。
 これが、安倍首相の「9条加憲」の深層構造だったのである。
 アメリカは、9条の改正を望んではいない。
 事実、日米構造協議や年次改革要望書で、あれほど、露骨な内政干渉をしておきながら、アメリカは、集団的自衛権の妨害となっている憲法9条の改正にいちども言及したことがない。
 アメリカ人の大雑把な思考なら、1項、2項をそのままにして、3項で自衛隊を合憲化する論理的矛盾を意に介さない。
 どっちみち、日本を植民地のような国と思っている国なので、9条がどんな矛盾をひきおこそうが知ったこっちゃないのである。
 日本は、GHQが撤退して70年近くたっているのに、いまもって、憲法も天皇条項もそのGHQの金縛りになっているような国である。
 独立国家としての誇りや自主性をまったくもちあわせていないのである。
 国家としての誇りが元号で、これを新天皇の勅定とすることで、アメリカの呪縛をきっぱり断つことができるが、安倍首相にその気はさらさらない。
 安倍首相が、国家の誇りをもたない、アメリカべったりの拝米主義者だったのなら「9条加憲」から、パスポートや運転免許証、公的文書などの西暦表記や元号の政府決定・事前公表がうなずける。
 安倍首相は、日本の政治を、アメリカの視点に立って、おこなっているのである。
 アメリカにとって、元号はなんの意味もないどころか、西暦との二重表記はわずらわしいだけである。
 日本人のなかにもにも、西暦と元号の併記は面倒というひとがいるが、西暦(キリスト教暦)の使用は、あくまで、国際的な便宜のためで、西暦に660を足すと皇紀(2678年)になる。
 さらに問題なのは、安倍首相が、新元号を事前に公表しようとしていることである。
 今上天皇に元号を冠して(おくりな/諡・諡号)お呼びするのが非礼であるように、次期天皇の元号を前もって、宣するすることはゆるされない。
 ところが、安倍首相は、新元号発足の数カ月前に新元号を公表する腹づもりで、そうなれば、今上天皇による新元号の勅定という、儀礼上、辻褄のあわないことになる。
 安倍首相は、不便性を口にするが、それでは、伝統をもたない軽薄なヤンキーとかわるところがない。
 安倍首相が、伝統国家日本の首相ではなく、革命国家アメリカの使い走りというなら、われわれは、ちがう観点から、安倍首相を批判しなくてはならなくなるだろう。
 次回は、このテーマについて、議論を深めよう。
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2018年09月17日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」60

 ●民主主義と権力主義(3)
「神道政治連盟」は安倍政権と密接な関係の「日本会議」より先鋭的な思想をもつといわれる。
 思想が文化にかかわるものなら、多彩でも先鋭的でもいっこうにかまわないが、政治や権力にかかわるものならそうはいかない。
 政治的先鋭は、大抵の場合、権力の暴走を意味するからだ。
 一般的に、政治あるいは権力という場合、権力抗争であって、国家や国民の安全やゆたかさ念頭におくまつりごと(政)とは別物である。
 政治がまつりごとにおかれる場合、おおむね、よい政治で、権力抗争や政権構想におかれる場合、劣悪な政治といわねばならない。
 長友学園や加計学園は、権力抗争のネタで、まつりごととなんの関係もない。
 出会い系バーに入り浸っていた元文部事務次官が持ち込んだ文書など「だからなんだ」というレベルで、それよりも、50年以上も獣医学部をつくらせなかったことによる日本の獣医学のレベルダウンのほうがまつりごとにとってよほど大きな問題だろう。
 テレビや新聞は、連日連夜、森友学園や加計学園問題に集中砲火を浴びせたが、これは、野党とマスコミ労連提携による反安倍闘争≠ナあって、国民の利益ということはまつりごとを度外視した権力闘争であった。
 石破氏の党総裁選スローガン「正直、公正」は、野党とマスコミ労連の反安倍≠フ論法をそっくり頂戴したもので、次期首相候補者たるものが、野党の権力闘争の論法を借りてきてどうするといいたい。
 党総裁選に大きな波乱はないだろうが、かといって、安倍首相の政治姿勢に問題なしとはしない。
 というより、本来、権威の側に立つべき神社本庁(「神道政治連盟」)が権力(安倍政権)べったりというのは由々しき事態で、これでは、権威が権力からおびやかされた場合、手の打ちようがない。
 小泉純一郎の「皇室典範に関する有識者会議」が万世一系を否定したときに真っ先に異義を唱えるべきは神社本庁だったが、権力になびいて、沈黙した。
 これでは、国体がまもれない。
 万が一、共産党が天皇制の廃棄を謳ったら、神社本庁が共産党打倒の戦いを挑むというのが、伝統をまもる権威=神社本庁のあり方だが、権力べったりの現状では、旧民主党系・共産党政権ができた場合、自民党と心中で、とうてい、権力とはたたかえない。
 政権から距離をおくから、政権を監視できるのであって、政権の太鼓持ちを演じて、国体をまもることなどできない相談なのである。

 神社本庁の前身は戦前の内務省神社局(後の神祇院)で国家機関だった。
「国家神道」の推進者で、廃仏毀釈を実行した神官の集団でもあった。
 権力の走狗となったのは、権威としての自覚がなかったからである。
 権威は聖で、権力は世俗のものである。
 その認識こそが権威と権力を分かつ分水嶺で、そのみきわめがつかなければ権威は権力をもとめて俗に堕ち、権力は権威をもとめて汚れた手で聖を冒す。
 それが、明国皇帝から「日本国王」に冊封された義満で、わが子足利義嗣を皇位に据えて「太上天皇」の尊号を手する寸前、急死する。
 朝廷は義満に「太上天皇」を宣下したが、幕府(4代将軍足利義持/管領斯波義将)はこれを返上した。
 権力の座にあるものが権威となると、却って、権力の座が危うくなると知っていたのである。
 権威が空位になると、権威から授かる権力の正統性が不全となるのである。
 ところが、安倍首相には、足利義持や斯波義将の知恵がそなわっていなかった。
 神社とアメリカお両方を味方につけて、無人の野を往く風情なのである。
 神社本庁は、戦後、宗教法人となって、国家機関ではなくなった。
 だが、地方機関である都道府県の神社庁をつうじて、全国約8万社の神社を包括している。
 宮司など神職約2万人、信者約8千万人を擁する圧倒的なスケールで、全国各地の祭り(神事)を担う氏子総代会や保存会の潜在的パワーは、他の宗教教団を寄せつけるものではない。
 安倍内閣の閣僚20人中、19人がメンバーにくわわっている神道政治連盟(神政連)の中核は、神社本庁の神職たちで、各県の神社庁ごとに地方組織が置かれ、地方議員連盟も組織されている。
 神政連は、保守陣営の理論的中核で大票田でもあるが、政治家は、この神政連から一定の距離をおかなければならない。
 神政連を、権力という俗物性で汚してはならないからだ。

 その兆しはすでにあって、神政連(神社本庁)は、安倍内閣が、天皇のご退位、新天皇のご即位、改元日を5月1日にきめたことに一言もなかった。
 5月1日はメーデー(労働者の日)で、アメリカでは、5人が死刑になったゼネストの記念日として知られている。
 日本では、1952年、暴力革命を叫ぶ一部左翼団体が暴徒化して、警察官側に740人、デモ隊側に200人の負傷者(死者1人)がでたが、この人民闘争は、労働界・左翼革命勢力のなかで、いまなお、高く評価されている。
 新天皇の船出、新元号発足の当日がメーデーとかさなると、メーデー行進のデモ隊が「元号反対」や「天皇制反対」のスローガンをもちださないともかぎらず、そうなれば、新生日本国の門出にも、治安上にも、大きな問題を残す。
 安倍首相はなにを考えているのか。
 また安倍政権は、パスポートや運転免許証などの西暦表記、政府による元号決定と事前公表(今上天皇による新元号の勅令)などという不埒な計画を着々とすすめている。
 次回はこのあたりのデテールについてじっくりのべよう。
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2018年09月10日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」59

 ●民主主義と権力主義(2)
 社会を動かす原理が民主主義や自由主義であるかぎり、世界に平和や安定はやってこない。
 民主主義も自由主義も権力だからである。
 権力はかならず衝突して、火花を散らす。
 権力は一元論でもあって、権力の衝突は、政敵が存在するかぎり熄むことはない。
 平安時代や江戸時代、そして、戦後日本が平和だったのは、権力抗争がすくなかったからで、その一方、文化が隆盛をきわめた。
 権力と文化は、両極にある二元論で、権力は政治、文化は権威におきかえることができる。
 権力と政治、権威と文化は、それぞれ、同質で、権威と権力、政治と文化が次元の異なる二元論である。
 社会も国家も、権威と権力、政治と文化の二元論から成り立っている。
 両者は、補完関係にあって、一方だけでは、暗黒化するか、崩壊する。
 日本にも、建武の新政から南北朝、応仁の乱、戦国時代まで280年、第82代後鳥羽天皇(上皇)の討幕軍が鎌倉幕府に鎮圧された承久の乱を入れると400年にもおよぶ暗黒の中世があった。
 原因は、権威たるべき天皇が権力をもとめたため、権威の座が空位になってしまったためだった。
 権威が空位になると、権威によって正統性をあたえられない権力が、存続をかけて、群雄割拠の闘争に突入する。
 この争いは不毛で、権威が関与しなければ、最後には、すべてが、共倒れになってしまう。
 織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らが天下をとれたのは、天皇の後ろ盾を得たからで、第106代正親町天皇が信長を立て、第107代後陽成天皇が秀吉を太閤に叙し、家康を征夷大将軍に任じて、権威と権力の二元論が恢復した。

 権威から権力の正統性を授かって、権威も権力も、ともに安定する。
 それが江戸の平和で、権力が封じられて、民が文化を享受したのである。
 その平和を根底からゆるがしたのが「黒船来航」だった。
 ペリー率いるアメリカの艦船4隻が江戸湾浦賀に着岸するや、日本は幕末という怒涛の大動乱の時代へ突入していった。
 江戸幕府は、黒船来航の翌年、井伊直弼を立てて、日米修好通商条約をむすぶが、違勅調印として水戸藩士が朝廷に直訴、孝明天皇が江戸260年の禁を破って、水戸藩などへ幕府非難の勅諚を出すに到った。
 ここから、安政の大獄や桜田門外の変と幕末政治は大暗転して、討幕運動が加速してゆく。
 江戸幕府ではなく、薩長による開国が、戊辰戦争をへて、尊皇攘夷から文明開化、西洋化、欧米視察、西南戦争、鹿鳴館文化、廃仏毀釈と八方破れになっていったのは、伊藤博文や岩倉具視らが暗愚だったというよりも、権威である天皇が政治に口出ししたからだった。
 倒幕後、明治政府は、権威不在のまま、天皇(王)を頭に戴くヨーロッパ型帝国主義国家のみちを驀進してゆく。
 日本は、その後、日清戦争と日露戦争へと打って出るが、この両戦に負けていれば、清国やロシアの属国になっていたかもしれなかった。
 日本は、天皇=権威という国体を捨てて、天皇ファシズムという帝国主義のみちをすすみ、日本を亡国の危機にむかわせたのである。
 その運動原理となったのが、権威と権力の一体化だった。
 権威や文化には、だれもが、好意や敬意を抱き、よろこんでしたがう。
 一方、人々を暴力的に縛りつけ、支配しようとする権力は嫌悪される。
 この二つを噛み合わせると、権力が増強され、権威が失墜する。
 歴史や芸術、宗教などは大きく文化のカテゴリーに括られる。
 政策や権力、イデオロギーが政治にカテゴリーにあるのはいうまでもない。
 その境界線を取っ払ったのが、天皇ファシズムで、天皇が軍服を召されて、軍馬にお乗りになった。
 権力が強化される一方、権威が形骸化された一つの典型が、国家神道と廃仏毀釈だった。
 明治神祇官(神祇省・教部省/のちの神道本局・神祇院)には、全国神社の神官が就いたが、多くが、平田神道の影響をうけた国家神道の信奉者で、廃仏毀釈という日本史上、最悪の文化破壊をおこなった。
 権威=天皇をまもるべき神官が、神祇官として権力にとりこまれて、権力=政治の下僕となり、神道の権力化(国家化)に血眼になったのである。

 超党派の保守系議員でつくる「日本会議国会議員懇談会」は2018年6月「新元号の公表は改元当日の来年5月1日にすべきだ」との見解をまとめた。
 新元号の事前公表は、今上天皇を諡(おくりな/平成天皇)でお呼びすると同様、あってはならないことで、これは当然である。
 ところが、安倍内閣は、@改元月日を5月1日のメーデーにあてるA元号の事前公表B運転免許証やビザ(査証)、役所文書の西暦表示(元号廃止)の計画を着々とすすめている。
 問題なのは、安倍内閣の閣僚20人中、安倍本人を含めて、19人が「神社本庁」とかかわりの深い「神道政治連盟」のメンバーであることである。
 神社は、天皇=権威をささえる中核であって、安倍政権をささえる政治勢力であってはならない。
 そのことは、本稿で、縷々のべてきたとおりである。
 神社本庁は、安倍首相の元号抹殺という文化破壊に手を貸すのか?
 次回は、このテーマについて、つっこんだ議論を展開したい。
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