2018年12月16日

 なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのかC

 【緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(4)
 1956年7月。重光葵外相を主席全権、松本を全権として、日ソ平和条約交渉がモスクワで開始された。
 重光は、四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見て、歯舞・色丹二島返還へと方針を変更するべく、このとき、本国へ請訓電を発している。
 しかし、保守合同によって発足した自由民主党が、四島返還を党議決定したこともあって、重光の提案は拒否された。
 秘書官・吉岡羽一によると、松葉杖で身体を支えてクレムリンの長い廊下を歩いてきた重光は、このとき、腹の底から絞り出すような声でこういったという。
「畜生め、やはりそうだったか」
 重光の呪詛はだれにむかって吐かれたのか。
「日ソ共同宣言」に5か月先立つ1956年5月9日。
 クレムリンでおこなわれた日ソ漁業交渉で、河野一郎農相は、随行していた外務省の新関欽哉参事官を部屋から閉め出し、ソ連側通訳をとおして、ブルガーニン首相にこうもちかけた。
「北洋水域のサケ・マス漁業を認めてくれれば、北方領土の国後・択捉の返還要求は取り下げてもいい」
 サケ・マスなどの漁獲量・操業水域・漁期などをとりきめる漁業協定がまとまらなければ出漁できない。
 水産業界からは「北方領土は国交回復の後に交渉しろ」という声が高まっていた。
 日ソ漁業交渉をまとめた河野一郎農相は、1956年5月26日、羽田空港で、日の丸の旗をかざし、のぼりを立てた漁業関係者の大歓迎団に迎えられている。
 日ソ共同宣言の重光全権団のモスクワ入りが1956年7月だった。
 2か月先行した河野一郎は、重光の知らぬまま、ソ連側と密約をむすんでいたのである。

 1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相は、モスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。
 日ソ共同宣言には、平和条約締結後、歯舞と色丹が日本に引き渡されることが明記されている。
 しかし、国後・択捉の文字はなかった。
 河野一郎が漁業交渉とひきかえに、国後・択捉の放棄をブルガーニン首相と約束したからだった。
 河野・ブルガーニンの密約によって、ソ連は、領土問題で強硬姿勢に転じる。
 国後、択捉の返還を拒否しても日本側は譲歩すると判断したのである。
 歯舞・色丹の二島返還による平和条約の締結という共同宣言の原則は、このときできたといってよい。
 鳩山は、平和条約締結をあきらめ、領土問題を継続協議にして、共同宣言で国交回復をめざす。
 訪ソ直前になって、政権与党の自由民主党は、国交回復の条件として「歯舞と色丹の返還、国後・択捉の継続協議」を党議決定していた。
 鳩山らは、歯舞・色丹の「譲渡」と国後・択捉の「継続協議」を共同宣言に盛り込むよう主張した。
 だが、フルシチョフは、歯舞・色丹2島返還だけで、領土問題の打ち切りをはかった。
 そして、河野に、国後・択捉の継続協議を意味する「領土問題をふくむ」の字句の削除をもとめた。
 河野は、いったんもちかえり、結局、これもうけいれる。
 日ソ漁業交渉はうまくいったが、領土交渉は、日本側の敗北だった。

 重光葵や吉田茂の秘書官を務めたことがある自民党の北沢直吉は、日ソ共同宣言調印後の批准国会(外務委員会)で、河野農相と激しくやりあっている。
「河野・ブルガーニン会談で、クナシリ、エトロフはあきらめるから漁業権のほうはヨロシクたのむ、といったのではないか」
 河野はシラを切った。
「天地神明に誓ってそのようなことはない」。
 重光は秘書官の吉岡羽一秘書にこういっている。
「河野にしてやられた。シェピーロフ(外相)からすべて聞いた」
 重光はシェピーロフにこうたずねたという。
「貴下は、モスクワ会談の際、領土問題について、一貫して、解決済みであるとのべられたが、いかにして解決済みと考えるのか、その内容について説明がなされなかった。この機会に率直に真意を聞きたい」
 シェピーロフはこう答えた。
「モスクワで漁業交渉中の河野大臣は、交渉打開のため、ブルガーニン首相とクレムリンで会談した。その席で、河野大臣は、ソ連がエトロフ、クナシリを返還しない場合でも、日本は、平和条約を締結すると約束した」
 河野はこうともいったという。
「私は日本政界の実力者の一人で、将来、さらに高い地位につくであろう」
 そのとき、ブルガーニンは得たりとばかりにたたみかけた。
「帰国後、ただちに、全権団をモスクワに送ることができるか」
 河野はできると答えている。
 それが、1956年7月の重光全権団、9月の松本全権団、そして10月に訪ソした鳩山首相を団長とする全権団だった。
 日ソ共同宣言における2島返還は、ソ連共産党の既成路線ではなかった。
 河野・ブルガーニン密約で、急きょ、きまったのである。
 安倍首相は、歯舞・色丹の引き渡しを明記した日ソ共同宣言を基礎にプーチン大統領と平和条約の交渉をすすめるという。
 4島返還という本筋が忘れられているなか、2島返還論の旗を振っているのが鈴木宗男と佐藤優である。
 安倍首相の意向をうけて、国民を洗脳しているとしか思えない。
 鈴木は、サンフランシスコ条約で、日本が国後・択捉を放棄したという。
 だが、実際は、日ソ間の政治取引だった。
 4島返還という従来の基本方針を下ろすのも、二島返還で決着をつけたのちに国後・択捉の経済協力という方法をとるのも一つの政治選択であろう。
 だが、北方4島が日本固有の領土で、ロシアがこの4島を不法占拠したという歴史的事実を忘れてはならない。
 領土問題における安易な妥協は、かならず将来、大きな禍根を残すことになるのである。
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2018年12月09日

 なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのかB

 【緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(3)
 サンフランシスコ平和条約で、日本は、千島列島を放棄した。
 この千島列島のなかに北方4島はふくまれない。
 ロシア(旧ソ連)は、終戦直後、千島列島に北方4島がふくまれないことを知りながらこれを不法占領した。
 外務省発行の『われらの北方領土』には「択捉島以南の四島の占領は、計画のみで中止された北海道北部と同様、日本固有の領土であることを承知の上でおこなわれた」とある。
 そして、その不法占拠が、今日にいたるまでつづいている。
 そもそも、ロシアは、北方4島どころか、戦後、日本が放棄した千島列島を占有する法的な根拠をもっていない。
 サンフランシスコ条約に署名していないからで、あるのは、実効支配という戦争状態の継続だけである。
 北方領土を画定するには、二国間の平和条約締結が必要となる。
 日本は、1954年以降、ソ連との国交回復をめざした鳩山一郎内閣のもとで、平和条約を結ぶべく、ソ連との折衝がはじまったを開始した。
 日本の国連加盟の支持や抑留日本人の送還、戦時賠償の相互放棄、漁業条約の締結など日ソ間の懸案事項がすくなくなかった。
 1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相は、モスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。
 戦争状態の終結と国交回復が宣言された瞬間だった。
 当初は「平和宣言」の締結を目指していた。
 だが、交渉が折り合わず、結局は「共同宣言」という形をとった。
 交渉が折り合わなかった理由は北方領土だった。
 日本側は「4島返還」をもとめたが、ソ連は、歯舞・色丹の「2島返還」をゆずらなかった。
「共同宣言」には、ソ連が歯舞・色丹の2島の日本への引き渡しに同意すると書かれている。
 ただし、2島返還は、平和条約が締結されたのちと明記された。
 同宣言は両国で批准された。
 だが、歯舞・色丹の日本への引き渡しは実現しなかった。
 平和条約締結にいたらなかったからである。

 以後、長らく、日ソ交渉が停滞する。
 1960年、日米安保条約が改定延長されると、ソ連が、歯舞・色丹の引き渡し条件に「外国軍隊の日本からの撤退)をもちだしてきた。
 1961年、フルシチョフは、一方的に「領土問題は解決済み」との声明を出して、日ソ共同宣言の内容を後退させる。
 米ソ冷戦構造が北方領土に影をおとしていたのである。
 日ロ間で、領土問題がうごきだすのは、30年後のソ連崩壊(1991年)以後である。
 それまでは、田中角栄とブレジネフのあいだで北方4島返還をめぐる応酬があっただけである。
 1973年、田中首相は、モスクワで、ブレジネフ書記長との会談に臨んだ。
 折しも、検討されている日ソ共同声明のなかに「第二次世界大戦時から未解決の諸問題」という文言があった。
 外務省東欧第一課長として会談に同席していた新井弘一によれば、このとき角栄は、4本の指を突き立てて、「未解決の諸問題に北方四島の返還問題はふくまれるのか?」とブレジネフに迫ったという。
 ブレジネフは、「ヤー、ズナーユ(私は知っている)」と曖昧な答えで逃げを打った。
 角栄は「イエスかノーか?」と机を叩いて迫った。
 ブレジネフはついに「ダー(イエス)」と応じた。
 ブレジネフが、第二次世界大戦時からの未解決な諸問題の一つに北方四島の返還問題があるとみとめたのである。
 1991年、ゴルバチョフ書記長が来日して、海部俊樹首相と6回にわたる首脳会談をおこない、北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが初めて文書の形で確認された。
 ゴルバチョフは「解決済み」としていたソ連側の見解を転換したのである。
 以後、日ロの首脳会議では、歯舞・色丹・国後・択捉の帰属問題と平和条約がワンセットとして考えられてきた。
 ■1993年/東京宣言(細川護熙首相とエリツィン大統領)
 ■1997年/クラスノヤルスク合意(橋本龍太郎首相とエリツィン大統領)○1998年/川奈提案(橋本龍太郎首相とエリツィン大統領)
 ■1998年/モスクワ宣言(小渕恵三首相とエリツィン大統領)
 ■2000年/日ロ共同声明(森喜朗首相とプーチン大統領)
 ■2001年/イルクーツク声明(森喜朗首相とプーチン大統領)とロシアの〇2003年/日ロ共同声明(小泉純一郎首相、プーチン大統領)
 橋本、小渕、森までは、2島(歯舞・色丹)先行で、国後・択捉については段階的に考えるというものだった。
 いずれも、基本ラインは4島返還で、方法論がちがうだけだった。
 ところが、今回の安倍・プーチン会談では、国後・択捉が捨てられた。
 歯舞・色丹のみを引渡すとした1956年の日ソ共同宣言へ逆戻りである。
 どうして、そんなことになってしまったのか。
 かつて、日本は、漁業交渉とのかけひきで、国後・択捉を放棄した。
 そのつけがまわってきたのである。
 次回はその経緯にふれよう。
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2018年12月02日

なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのかA

  緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(2)
 サンフランシスコ講和条約で、日本が、国後・択捉を放棄したという意見がある。
「南サハリン(樺太)と千島列島にかんしては、サンフランシスコ講和条約の締結にあたって、日本が放棄しました」(池上彰/週刊文春)というのである。
 池上のいう千島列島のなかには国後と択捉が入っている。
 鈴木宗男や佐藤優も同じ見解で、2島(歯舞・色丹)返還論者である
 西村熊雄条約局長が、1951年、衆院特別委員会で、「南千島(国後・択捉)は千島にふくまれる」と答弁している。
 だが、この答弁は、1956年、衆議院外務委員会で、森下國雄外務政務次官によって、正式に否定された。
 日本政府は、国後・択捉は、サンフランシスコ条約で日本が放棄した千島にふくまれないとしたのである。 
 その後、国後・択捉を指す「南千島」という用語も使われなくなった。
 もともと、北方4島は、日本固有の国土である。
 国後・択捉は、日本人の手で開拓された島で、根室や函館とのあいだに航路があって、定住者も多かった。
 歯舞・色丹にいたっては、北海道の一部である。
 かつて、『島は還らない』(昭和52年)という本を上梓した。
 そこに、北方領土の概略や歴史、ソ連の領土侵略について記した。
 そこから引用しよう。
 北方領土の画定は、1855年、下田条約(日露和親条約)にはじまる。
 江戸幕府とロシア帝国のあいだでむすばれた日魯通好条約(日露和親条約)によって、択捉島とウルップ島のあいだに境界線が引かれた。
 この境界線によって、択捉島以南の4島は日本の領土となった。
 4島とは、歯舞・色丹・国後・択捉である。
 一方、ウルップ島以北のクリル諸島(千島)18島がロシア領となった。
 日本政府は、この日魯通好条約を根拠に、「歯舞・色丹・国後・択捉」4島を北方領土としてきたのである。
 1875年(明治8年)、日本は、ロシアと樺太千島交換条約を締結する。
 日本は、樺太(サハリン)の領有権を放棄する代わりに、ロシアからクリル諸島(千島列島)を譲り受けた。
 シュムシュ島からウルップ島にいたる18島である。
 サンフランシスコ講和条約で日本が放棄した千島列島は、そのときロシアと交換したクリル諸島18島のことである。
 18島のなかに北方四島(歯舞・色丹・国後・択捉)はふくまれていない。
 引用した『島は還らない』には副題がついている。
「歴史・条約上の根拠とカーター大統領への手紙」と銘打った。
 わたしは、日本が放棄した18島のなかに北方4島がふくまれていないことを確認するために、カーター大統領へ手紙を書き、実際に会いにもいった。
 もっとも、カーター大統領との対面は、民主党のアジア太平洋民主党大会の会場で握手をしただけではあったが。

 サンフランシスコ講和条約の締結時、日本が放棄した千島列島に北方領土がふくまれていなかった。
 それだけではなかった。
 サンフランシスコ講和条約にくわわっていないロシア(旧ソ連)には、そもそも、南樺太・千島列島・色丹島・歯舞群島の領有権がゆるされていなかったのである。
 サンフランシスコ条約第二十五条によると、同条約に調印・批准していない国へは、いかなる権利や権原、利益もあたえられないとある。
 もともと、北方4島は、火事場泥棒的な略奪であって、ロシアのいう戦利品ではない。
 背景にあったのが、南樺太と千島列島のソ連領有を承諾したヤルタ秘密協定だった。
 スターリンは、ヤルタ会談で、ルーズベルトから「ソ連の対日参戦の代償として『千島列島』(ウルップ島以北)を譲り受ける約束をした。
 これは、秘密協定で、領土の譲渡は、領土不拡大を宣した「カイロ宣言」や終戦後も攻撃と占領をつづけた「ポツダム宣言」違反である。
 しかも、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄して、領土を奪った。
 広島に原爆が投下されてから2日後の1945年8月8日、ソ連は、当時まだ有効だった日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。
 8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受諾して、連合国に降伏した。
 しかし、ソ連軍は、その後も千島列島を南下し、9月5日までに「北方領土(歯舞・色丹・国後・択捉)」を占領した。
 8月16日、スターリンはトルーマン大統領に秘密電報を打っている。
 千島列島と北海道の北半分をソ連の占領地とすることをもとめたのである。
 トルーマンは、千島列島をソ連領とすることには同意したが、北海道北部の占領については拒否した。
 かつて著した『レポ船の裏側』(昭和57年/日新報道)で、千島占領作戦の経緯を書いた。
 通訳としてソ連軍に同行した水津満・北千島守備軍作戦参謀の体験談である。
 引用しよう。
「8月27日、中千島南端、得撫(ウルップ)島の沖合に着く。結局、ソ連軍は得撫島に上陸することなく、北に向かって引き返した。南千島の武装解除に立ち会うことを想定していた水津はウォルフ参謀に理由をたずねた。これより先はアメリカの担任だからソ連は手をだせないのだ、という返事だった」
 ソ連軍は、8月18日から千島列島の占領を開始し、27日には、北方領土の北端である択捉島の手前まで来て、一旦引き返した。
 この時点で、ソ連は、千島列島に北方領土がふくまれないと認識していたのである。
 ところが、ソ連は、北方領土に米軍がいないと知って、方針を一転させた。
 8月28日、ソ連軍は、南千島へ侵攻を開始して、9月3日までのあいだに歯舞・色丹・国後・択捉の四島を占拠する。
 ソ連軍が北方四島を略奪したのは、米軍が不在だったからだったのである
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