2018年12月27日

「天皇の地位」A

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」A
 前大戦で、日本は、連合国に降伏して、敗戦国になった。
 たちまち、国体が危機に瀕した。
 国体は、国家を建造物とするなら、設計図のようなものである。
 歴史や伝統、文化などが国体で、国家は、国体の上に成り立っている。
 したがって、国体という設計図が失われると国家という建造物が瓦解する。
 葦津珍彦は、国体を体質といった。
 国家が実体のある身体なら、国体は、目に見えない体質というのである。
 国体も体質も、目に見えなくても、根底で、国家や身体性をささえている。
 国体の危機というのは、国家という実体ではなく、設計図がおびやかされることで、戦後、伝統的な価値観や国民的信条、歴史観が、GHQの思想改造にさらされた。
 なかでも、衝撃的だったのが、天皇の人間宣言であった。
 1946年1月1日の詔勅のなかで、天皇は、みずからの神格を否定された。
 この詔書は、国家神道を廃止した神道指令につづいて、天皇にたいする思想改革をはかったもので、GHQの民間情報教育局が中心となって、宮内省関係者や幣原首相らが関与、天皇の発意で、五箇条の誓文がくわえられた。
 天皇の人間宣言によって、日本人は、大きなショックをうけたであろうか。
 否で、日本人は、天皇が人間宣言されても、動揺することがなかった。
 国民は、明治維新が捏造した現人神など信じていなかったのである。
 それでは、日本人は、なにをもって、天皇への敬意と敬愛の根拠としたのであろうか。
 私心を有さない天皇の公的な存在にたいしてである。
 日本では、私心をもたないことが、尊敬の対象で、権威となる。
 GHQ民間情報教育局は、天皇が現人神ではないことを日本人に教えるために、ダーウインの進化論をテキストにしようとしたという。
 だが、日本人は、天皇が神であるなどと思っていなかった。
 人間であると知っていて、それでもなお、天皇の神性を信じた。
 天皇は、無私の存在で、天皇の宗教である神道も、天皇の祈りである祭祀も無私という神聖なる地平にある。
 日本の精神風土において、無私は、神域にあって、たとえば、偉人は死して祀られて神になる。
 死ぬことによって、私心が消滅して、神的な存在となるという神道的な哲学なのである。

 無私ということは、公ということで、日本では、私的なものと公的なものがはっきりと区別される。
 区別されるのは、公と私だけではない。
 国体と国家、設計図と建造物、抽象と具体も表裏の関係で、二元論である。
 天皇の神性はこの二元論からでてくる。
 かつて昭和天皇は、大元帥として、軍服を召されて、軍馬に跨れた。
 だが、それは、世俗的権力を有する天皇陛下であって、歴史上の存在である天皇ではなかった。
 天皇陛下は個人でもあって、2・26事件では「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん」(本庄繁侍従武官長日記)とのべられた。
 考えや感情をもち、いわゆる御聖断も、天皇陛下のお考えにもとづくものであった。
 国民は、天皇陛下のお考えやふるまい、お人柄などに畏敬の念を抱いているのではない。
 国民が畏敬しているのは、御心をおもちの天皇陛下ではなく、私心をおもちにならない天皇のほうで、天皇の神性はそこにある。
 天皇は、基本的人権や選挙権、憲法が保障する国民的諸権利や自由をもっておられない。
 天皇が世俗におられないからで、天皇がおられるのは、国家という世俗ではなく、国体という聖域である。
 そこは、歴史や文化、国体という抽象の世界で、目に見える具体的世界ではない。
 憲法第1条に「天皇は、日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意にもとづく」とある。
 憲法前文および1条では国民主権が謳われている。
 国民統合や国民主権は、抽象観念で、しかも、矛盾にみちている。
 民主主義において、国民統合は不可能で、国民主権は、実体を有さない。
 ところが、天皇が、国民統合や国民主権という目に見えないものをみずから象徴することによって、国民統合や国民主権が正統性をおびる。
 目に見えない抽象的な観念が、天皇という目に見えるおすがたに象徴される。
 それが、世俗や私、個からの超越している天皇の神性なのである。
 次回は、秋篠宮さまの 大嘗祭「異例発言」についてのべよう。

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2018年12月20日

「天皇の地位」@

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」@
 歴史上、天皇が神だったことはなかった。
 天武・持統朝から奈良前期の皇親政治において天皇は絶大な権力を誇った。
 天皇が神格化されもした。
 だが、神ではなかった。
 神格化と神であることは分けて考えておかなくてはならない。
 神のような存在と神とは別物なのである。
 現人神思想は、古代や中世にはなかった。
 天皇が神そのものになったのは、近世の明治維新においてで、歴史の例外といってよい。
 それまで、天皇は、祭祀王で、政治権力をもっていなかった。
 それどころか、江戸時代は、公家諸法度にがんじがらめに縛られていた。
 ところが、維新後、近代天皇制のもとで、政治大権、軍事大権、祭祀大権を一手に掌握する現人神となった。
 この天皇大権は、大日本帝国憲法下において、国務大臣らが輔弼責任をもつので、天皇の絶対権力が、権力者によって、恒常的に、政治利用されることになった。
 現人神が天皇大権をもつことによって、明治維新という怪物的な時代背景ができあがったのである。
 現人神という観念は、記紀や万葉集などの現神や現御神(あきつかみ)とは異なるもので、祭祀王という古代、縄文時代からの宗教観や伝統的な価値観をひきついだものではない。
 そもそも、日本には、シャーマンとしての巫女や宗教儀礼を主催する祭祀王はいても、宗教的な絶対者はいなかった。
 ヨーロッパの王のような政治的絶対者もいなかった。
 王政復古というが、日本には、本格的な王政の時代があったわけではない。
 天皇の絶対権力には、歴史的な必然性がなかったのである。

 それでは、この天皇大権は、どこからきたものであろうか。
 大日本帝国憲法が、ドイツ(プロイセン)憲法を手本にしたことはよく知られている。
 フリードリヒ大王以来、君主権がつよかったプロイセン憲法はヨーロッパの絶対王政をひきついでいる。
 帝国憲法は、第1条で天皇主権を定めたほか、統帥大権や外交大権、非常大権などの広範な天皇の大権を謳っている。
 プロイセン憲法と帝国憲法は双生児なのである。
 ヨーロッパの絶対王政は、王権神授説で、一神教である。
 一神教では、一元論の原理がはたらくので、かならず、闘争になる。
 イギリス革命(ピューリタン革命・名誉革命)では、プロテスタントとカトリックなどが衝突して、国王チャールズ1世が処刑された。
 イギリス革命は、王政復古したものの、市民革命で、いちど歴史が断絶しているのである。
 明治維新もまた、西洋化という革命で、このとき、日本の歴史が断ち切られた。
 西郷隆盛が西南戦争で叛旗を翻したのは、日本の伝統をまもろうとしたのである。
 旧武士階級が明治政府にたいしておこした「士族の反乱」も、国体をまもる戦いだった。
 われわれは、明治維新が近代化を実現した歴史の扉のように思っている。
 だが、それは誤解で、開国や近代化は、徳川幕府のもとでおこなわれるべきだったかもしれない。
 それが、日本の国体に合ったすがたで、倒幕から大政奉還、王政復古そして戊辰戦争、鹿鳴館へとつづくみちは、西洋の革命の道筋であった。
 幕末の騒乱から開国、維新まで、日本は、ヒステリー状態にあった。
 尊皇攘夷が西洋化へ180度転換したのもそのためで、日本は、国体という国家の土台を見失っていた。
 江戸城桜田門外の変で、大老井伊直弼が暗殺された。
 井伊が勅許をえずに日米修好通商条約に調印したことにたいして、尊王攘夷派の水戸・薩摩の脱藩浪士らが反発したものだが、条約交渉は万全で、井伊の判断が正しかった可能性が高い。
 だが、勢いにのる討幕派の前に、幕臣側に勝ち目はなかった。
 会津戦争に際して、会津藩が組織した白虎隊の悲劇も、幕府軍の残虐非道な行状も、和を重んじる日本民族の本来のものではなかった。
 当時、吹き荒れていたのは、革命思想で、国体は、忘れられていた。
 西洋化と帝国主義が明治維新の成果で、日清・日露戦争と大陸進攻が国是となって、日本は、世界の強国へのしあがった。
 その帰結が、前大戦の敗戦と国体の危機だった。
 次回以降も、国体と神道、祭祀をめぐる議論を展開していこう。
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2018年12月16日

 なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのかC

 【緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(4)
 1956年7月。重光葵外相を主席全権、松本を全権として、日ソ平和条約交渉がモスクワで開始された。
 重光は、四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見て、歯舞・色丹二島返還へと方針を変更するべく、このとき、本国へ請訓電を発している。
 しかし、保守合同によって発足した自由民主党が、四島返還を党議決定したこともあって、重光の提案は拒否された。
 秘書官・吉岡羽一によると、松葉杖で身体を支えてクレムリンの長い廊下を歩いてきた重光は、このとき、腹の底から絞り出すような声でこういったという。
「畜生め、やはりそうだったか」
 重光の呪詛はだれにむかって吐かれたのか。
「日ソ共同宣言」に5か月先立つ1956年5月9日。
 クレムリンでおこなわれた日ソ漁業交渉で、河野一郎農相は、随行していた外務省の新関欽哉参事官を部屋から閉め出し、ソ連側通訳をとおして、ブルガーニン首相にこうもちかけた。
「北洋水域のサケ・マス漁業を認めてくれれば、北方領土の国後・択捉の返還要求は取り下げてもいい」
 サケ・マスなどの漁獲量・操業水域・漁期などをとりきめる漁業協定がまとまらなければ出漁できない。
 水産業界からは「北方領土は国交回復の後に交渉しろ」という声が高まっていた。
 日ソ漁業交渉をまとめた河野一郎農相は、1956年5月26日、羽田空港で、日の丸の旗をかざし、のぼりを立てた漁業関係者の大歓迎団に迎えられている。
 日ソ共同宣言の重光全権団のモスクワ入りが1956年7月だった。
 2か月先行した河野一郎は、重光の知らぬまま、ソ連側と密約をむすんでいたのである。

 1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相は、モスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。
 日ソ共同宣言には、平和条約締結後、歯舞と色丹が日本に引き渡されることが明記されている。
 しかし、国後・択捉の文字はなかった。
 河野一郎が漁業交渉とひきかえに、国後・択捉の放棄をブルガーニン首相と約束したからだった。
 河野・ブルガーニンの密約によって、ソ連は、領土問題で強硬姿勢に転じる。
 国後、択捉の返還を拒否しても日本側は譲歩すると判断したのである。
 歯舞・色丹の二島返還による平和条約の締結という共同宣言の原則は、このときできたといってよい。
 鳩山は、平和条約締結をあきらめ、領土問題を継続協議にして、共同宣言で国交回復をめざす。
 訪ソ直前になって、政権与党の自由民主党は、国交回復の条件として「歯舞と色丹の返還、国後・択捉の継続協議」を党議決定していた。
 鳩山らは、歯舞・色丹の「譲渡」と国後・択捉の「継続協議」を共同宣言に盛り込むよう主張した。
 だが、フルシチョフは、歯舞・色丹2島返還だけで、領土問題の打ち切りをはかった。
 そして、河野に、国後・択捉の継続協議を意味する「領土問題をふくむ」の字句の削除をもとめた。
 河野は、いったんもちかえり、結局、これもうけいれる。
 日ソ漁業交渉はうまくいったが、領土交渉は、日本側の敗北だった。

 重光葵や吉田茂の秘書官を務めたことがある自民党の北沢直吉は、日ソ共同宣言調印後の批准国会(外務委員会)で、河野農相と激しくやりあっている。
「河野・ブルガーニン会談で、クナシリ、エトロフはあきらめるから漁業権のほうはヨロシクたのむ、といったのではないか」
 河野はシラを切った。
「天地神明に誓ってそのようなことはない」。
 重光は秘書官の吉岡羽一秘書にこういっている。
「河野にしてやられた。シェピーロフ(外相)からすべて聞いた」
 重光はシェピーロフにこうたずねたという。
「貴下は、モスクワ会談の際、領土問題について、一貫して、解決済みであるとのべられたが、いかにして解決済みと考えるのか、その内容について説明がなされなかった。この機会に率直に真意を聞きたい」
 シェピーロフはこう答えた。
「モスクワで漁業交渉中の河野大臣は、交渉打開のため、ブルガーニン首相とクレムリンで会談した。その席で、河野大臣は、ソ連がエトロフ、クナシリを返還しない場合でも、日本は、平和条約を締結すると約束した」
 河野はこうともいったという。
「私は日本政界の実力者の一人で、将来、さらに高い地位につくであろう」
 そのとき、ブルガーニンは得たりとばかりにたたみかけた。
「帰国後、ただちに、全権団をモスクワに送ることができるか」
 河野はできると答えている。
 それが、1956年7月の重光全権団、9月の松本全権団、そして10月に訪ソした鳩山首相を団長とする全権団だった。
 日ソ共同宣言における2島返還は、ソ連共産党の既成路線ではなかった。
 河野・ブルガーニン密約で、急きょ、きまったのである。
 安倍首相は、歯舞・色丹の引き渡しを明記した日ソ共同宣言を基礎にプーチン大統領と平和条約の交渉をすすめるという。
 4島返還という本筋が忘れられているなか、2島返還論の旗を振っているのが鈴木宗男と佐藤優である。
 安倍首相の意向をうけて、国民を洗脳しているとしか思えない。
 鈴木は、サンフランシスコ条約で、日本が国後・択捉を放棄したという。
 だが、実際は、日ソ間の政治取引だった。
 4島返還という従来の基本方針を下ろすのも、二島返還で決着をつけたのちに国後・択捉の経済協力という方法をとるのも一つの政治選択であろう。
 だが、北方4島が日本固有の領土で、ロシアがこの4島を不法占拠したという歴史的事実を忘れてはならない。
 領土問題における安易な妥協は、かならず将来、大きな禍根を残すことになるのである。
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2018年12月09日

 なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのかB

 【緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(3)
 サンフランシスコ平和条約で、日本は、千島列島を放棄した。
 この千島列島のなかに北方4島はふくまれない。
 ロシア(旧ソ連)は、終戦直後、千島列島に北方4島がふくまれないことを知りながらこれを不法占領した。
 外務省発行の『われらの北方領土』には「択捉島以南の四島の占領は、計画のみで中止された北海道北部と同様、日本固有の領土であることを承知の上でおこなわれた」とある。
 そして、その不法占拠が、今日にいたるまでつづいている。
 そもそも、ロシアは、北方4島どころか、戦後、日本が放棄した千島列島を占有する法的な根拠をもっていない。
 サンフランシスコ条約に署名していないからで、あるのは、実効支配という戦争状態の継続だけである。
 北方領土を画定するには、二国間の平和条約締結が必要となる。
 日本は、1954年以降、ソ連との国交回復をめざした鳩山一郎内閣のもとで、平和条約を結ぶべく、ソ連との折衝がはじまったを開始した。
 日本の国連加盟の支持や抑留日本人の送還、戦時賠償の相互放棄、漁業条約の締結など日ソ間の懸案事項がすくなくなかった。
 1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相は、モスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。
 戦争状態の終結と国交回復が宣言された瞬間だった。
 当初は「平和宣言」の締結を目指していた。
 だが、交渉が折り合わず、結局は「共同宣言」という形をとった。
 交渉が折り合わなかった理由は北方領土だった。
 日本側は「4島返還」をもとめたが、ソ連は、歯舞・色丹の「2島返還」をゆずらなかった。
「共同宣言」には、ソ連が歯舞・色丹の2島の日本への引き渡しに同意すると書かれている。
 ただし、2島返還は、平和条約が締結されたのちと明記された。
 同宣言は両国で批准された。
 だが、歯舞・色丹の日本への引き渡しは実現しなかった。
 平和条約締結にいたらなかったからである。

 以後、長らく、日ソ交渉が停滞する。
 1960年、日米安保条約が改定延長されると、ソ連が、歯舞・色丹の引き渡し条件に「外国軍隊の日本からの撤退)をもちだしてきた。
 1961年、フルシチョフは、一方的に「領土問題は解決済み」との声明を出して、日ソ共同宣言の内容を後退させる。
 米ソ冷戦構造が北方領土に影をおとしていたのである。
 日ロ間で、領土問題がうごきだすのは、30年後のソ連崩壊(1991年)以後である。
 それまでは、田中角栄とブレジネフのあいだで北方4島返還をめぐる応酬があっただけである。
 1973年、田中首相は、モスクワで、ブレジネフ書記長との会談に臨んだ。
 折しも、検討されている日ソ共同声明のなかに「第二次世界大戦時から未解決の諸問題」という文言があった。
 外務省東欧第一課長として会談に同席していた新井弘一によれば、このとき角栄は、4本の指を突き立てて、「未解決の諸問題に北方四島の返還問題はふくまれるのか?」とブレジネフに迫ったという。
 ブレジネフは、「ヤー、ズナーユ(私は知っている)」と曖昧な答えで逃げを打った。
 角栄は「イエスかノーか?」と机を叩いて迫った。
 ブレジネフはついに「ダー(イエス)」と応じた。
 ブレジネフが、第二次世界大戦時からの未解決な諸問題の一つに北方四島の返還問題があるとみとめたのである。
 1991年、ゴルバチョフ書記長が来日して、海部俊樹首相と6回にわたる首脳会談をおこない、北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが初めて文書の形で確認された。
 ゴルバチョフは「解決済み」としていたソ連側の見解を転換したのである。
 以後、日ロの首脳会議では、歯舞・色丹・国後・択捉の帰属問題と平和条約がワンセットとして考えられてきた。
 ■1993年/東京宣言(細川護熙首相とエリツィン大統領)
 ■1997年/クラスノヤルスク合意(橋本龍太郎首相とエリツィン大統領)○1998年/川奈提案(橋本龍太郎首相とエリツィン大統領)
 ■1998年/モスクワ宣言(小渕恵三首相とエリツィン大統領)
 ■2000年/日ロ共同声明(森喜朗首相とプーチン大統領)
 ■2001年/イルクーツク声明(森喜朗首相とプーチン大統領)とロシアの〇2003年/日ロ共同声明(小泉純一郎首相、プーチン大統領)
 橋本、小渕、森までは、2島(歯舞・色丹)先行で、国後・択捉については段階的に考えるというものだった。
 いずれも、基本ラインは4島返還で、方法論がちがうだけだった。
 ところが、今回の安倍・プーチン会談では、国後・択捉が捨てられた。
 歯舞・色丹のみを引渡すとした1956年の日ソ共同宣言へ逆戻りである。
 どうして、そんなことになってしまったのか。
 かつて、日本は、漁業交渉とのかけひきで、国後・択捉を放棄した。
 そのつけがまわってきたのである。
 次回はその経緯にふれよう。
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2018年12月02日

なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのかA

  緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(2)
 サンフランシスコ講和条約で、日本が、国後・択捉を放棄したという意見がある。
「南サハリン(樺太)と千島列島にかんしては、サンフランシスコ講和条約の締結にあたって、日本が放棄しました」(池上彰/週刊文春)というのである。
 池上のいう千島列島のなかには国後と択捉が入っている。
 鈴木宗男や佐藤優も同じ見解で、2島(歯舞・色丹)返還論者である
 西村熊雄条約局長が、1951年、衆院特別委員会で、「南千島(国後・択捉)は千島にふくまれる」と答弁している。
 だが、この答弁は、1956年、衆議院外務委員会で、森下國雄外務政務次官によって、正式に否定された。
 日本政府は、国後・択捉は、サンフランシスコ条約で日本が放棄した千島にふくまれないとしたのである。 
 その後、国後・択捉を指す「南千島」という用語も使われなくなった。
 もともと、北方4島は、日本固有の国土である。
 国後・択捉は、日本人の手で開拓された島で、根室や函館とのあいだに航路があって、定住者も多かった。
 歯舞・色丹にいたっては、北海道の一部である。
 かつて、『島は還らない』(昭和52年)という本を上梓した。
 そこに、北方領土の概略や歴史、ソ連の領土侵略について記した。
 そこから引用しよう。
 北方領土の画定は、1855年、下田条約(日露和親条約)にはじまる。
 江戸幕府とロシア帝国のあいだでむすばれた日魯通好条約(日露和親条約)によって、択捉島とウルップ島のあいだに境界線が引かれた。
 この境界線によって、択捉島以南の4島は日本の領土となった。
 4島とは、歯舞・色丹・国後・択捉である。
 一方、ウルップ島以北のクリル諸島(千島)18島がロシア領となった。
 日本政府は、この日魯通好条約を根拠に、「歯舞・色丹・国後・択捉」4島を北方領土としてきたのである。
 1875年(明治8年)、日本は、ロシアと樺太千島交換条約を締結する。
 日本は、樺太(サハリン)の領有権を放棄する代わりに、ロシアからクリル諸島(千島列島)を譲り受けた。
 シュムシュ島からウルップ島にいたる18島である。
 サンフランシスコ講和条約で日本が放棄した千島列島は、そのときロシアと交換したクリル諸島18島のことである。
 18島のなかに北方四島(歯舞・色丹・国後・択捉)はふくまれていない。
 引用した『島は還らない』には副題がついている。
「歴史・条約上の根拠とカーター大統領への手紙」と銘打った。
 わたしは、日本が放棄した18島のなかに北方4島がふくまれていないことを確認するために、カーター大統領へ手紙を書き、実際に会いにもいった。
 もっとも、カーター大統領との対面は、民主党のアジア太平洋民主党大会の会場で握手をしただけではあったが。

 サンフランシスコ講和条約の締結時、日本が放棄した千島列島に北方領土がふくまれていなかった。
 それだけではなかった。
 サンフランシスコ講和条約にくわわっていないロシア(旧ソ連)には、そもそも、南樺太・千島列島・色丹島・歯舞群島の領有権がゆるされていなかったのである。
 サンフランシスコ条約第二十五条によると、同条約に調印・批准していない国へは、いかなる権利や権原、利益もあたえられないとある。
 もともと、北方4島は、火事場泥棒的な略奪であって、ロシアのいう戦利品ではない。
 背景にあったのが、南樺太と千島列島のソ連領有を承諾したヤルタ秘密協定だった。
 スターリンは、ヤルタ会談で、ルーズベルトから「ソ連の対日参戦の代償として『千島列島』(ウルップ島以北)を譲り受ける約束をした。
 これは、秘密協定で、領土の譲渡は、領土不拡大を宣した「カイロ宣言」や終戦後も攻撃と占領をつづけた「ポツダム宣言」違反である。
 しかも、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄して、領土を奪った。
 広島に原爆が投下されてから2日後の1945年8月8日、ソ連は、当時まだ有効だった日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。
 8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受諾して、連合国に降伏した。
 しかし、ソ連軍は、その後も千島列島を南下し、9月5日までに「北方領土(歯舞・色丹・国後・択捉)」を占領した。
 8月16日、スターリンはトルーマン大統領に秘密電報を打っている。
 千島列島と北海道の北半分をソ連の占領地とすることをもとめたのである。
 トルーマンは、千島列島をソ連領とすることには同意したが、北海道北部の占領については拒否した。
 かつて著した『レポ船の裏側』(昭和57年/日新報道)で、千島占領作戦の経緯を書いた。
 通訳としてソ連軍に同行した水津満・北千島守備軍作戦参謀の体験談である。
 引用しよう。
「8月27日、中千島南端、得撫(ウルップ)島の沖合に着く。結局、ソ連軍は得撫島に上陸することなく、北に向かって引き返した。南千島の武装解除に立ち会うことを想定していた水津はウォルフ参謀に理由をたずねた。これより先はアメリカの担任だからソ連は手をだせないのだ、という返事だった」
 ソ連軍は、8月18日から千島列島の占領を開始し、27日には、北方領土の北端である択捉島の手前まで来て、一旦引き返した。
 この時点で、ソ連は、千島列島に北方領土がふくまれないと認識していたのである。
 ところが、ソ連は、北方領土に米軍がいないと知って、方針を一転させた。
 8月28日、ソ連軍は、南千島へ侵攻を開始して、9月3日までのあいだに歯舞・色丹・国後・択捉の四島を占拠する。
 ソ連軍が北方四島を略奪したのは、米軍が不在だったからだったのである
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