2019年04月21日

神道とはなにかA

 神道とはなにかA
 ●スタートは原始神道
 仏教と接触して、宗教の形態をとる以前の神道は、原始神道で、記紀由来の復古神道や古(神)道と区別される。
 高床式の神社社殿ができるのも、仏教と接触以後で、神明造(伊勢神宮)や大社造(出雲大社)、住吉造(住吉大社)などの建築法が確立されるのはさらに後世になってからである。
 社殿がつくられる以前、神が宿るは、岩(磐座/いわくら)や山(磐境/いわさか)、森(神奈備/かんなび)あるいは現世と常世の境界(神籬/ひもろぎ)などの自然物だった。
 聖徳太子の仏教奨励策のあと、仏教寺院が本格的に造営された。
 これにならったのが、神道で、神籬・磐境での祭祀が、社殿でおこなわれるようになった。
 中国の影響で、天神地祇も区別されて、神祇制度も整えられてきた。
 ちなみに、菅原道真公のたたりで知られる御霊信仰は、漢神信仰で、これも神仏・神儒習合の一つである。
 神祇制度が本格的に整備されたのは天武天皇の時代である。
 全国神社の整備がすすんで、伊勢神宮の式年遷宮が設定されたほか、未婚の内親王が巫女として奉仕する斎王も復活して、天皇と神社とりわけ伊勢神宮のつながりがいっそう深くなった。
『日本書紀』や『古事記』の撰修がはじまったのも、このころで、神話伝承が日本人のアイデンティティ形成に大きな役割をはたすことになる。
 日本人の精神や生活にむすびついているのは、無意識化されている原始神道で、初詣や結婚式は神道、葬式や法事は仏教といった宗教心も、原始神道というスピリッツの上に成立している。
 日本人は、神棚や位牌、仏壇をうけいれ、儒教や道教の道徳を重んじ、クリスマスやハロウィンを祝う。
 それらは、いずれも、行事で、信仰しているわけではない。
 根っこにあるのが原始神道で、そこに、原始神道のふところの広さがある。
 日本人は、神や仏、一神教の開祖を八百万の神々の一つ、太陽=天照大神の下にあるものとみているのである。
 現代においても、日本人のメンタリティは、原始神道の上に中国大陸文化と西洋文化をのせた三層構造になっていて、日本人ほど、心に世界的な奥行きや柔軟性をもっている民族はみあたらない。

 ●血肉化された神道のスピリッツ 
 アニミズム(万物霊)やシャーマニズム(神霊交流)という縄文の遺伝子をひきついだ原始神道が、最初に迎えた転換が、のちに、新嘗祭や大嘗祭にひきつがれる収穫祭であった。
 春の祈年祭と秋の収穫祭が、集落形成や祭政一致の大きな要素となって、儀式としての神道が確立される。
 そして、農業祭礼の祭祀王が、豪族らに担がれて、大王のちの天皇になってゆく。
 二つ目のステップボードが、仏教との接触と、神仏習合である。
 神道は、日本人の心性の根底をなす原始神道と、政(まつりごと)や祭祀をおこなう習合神道に分かれて、それが、幕末までつづく。
 聖徳太子が、仏教を宗教、儒教を道徳、神道を政治に仕分けた体制が延々と千年以上も維持されてきたのである。
 戦国時代のあと、織田信長と豊臣秀吉、徳川家康は、皇室の保護と神社の復興にあたった。
 以後、幕末・明治維新まで、神道が歴史の表舞台から消えたように見える。
 だが、それは、神道が、日本人の精神に血肉化されたからであった。
 その象徴が、伊勢参り(おかげ参り)で、江戸時代中期以降、ええじゃないかとねり歩いた参拝者は年間数百万人にのぼった。
 そして、大政奉還、王政復古ののち、明治新政府は、政治理念を復古神道にもとめて、祭政一致の政治をめざした。
 それが、国家神道だが、のべてきたとおり、一神教的な宗教観で、多神教の原始神道とは無縁の代物だった。
 宗教を語るにあたって、避けてとおることができないのが、死である。
 死や死の観念、死の恐怖、死後の世界、死からの救済という考え方を謳ったのが、キリスト教やイスラム教、仏教や儒教などの一神教だった。
 一神教は、天国や地獄、輪廻を発明して、世界の絶対的な支配者になった。
 神は、死という恐怖や絶望、苦しみをたっぷりあたえた上で、その苦しみを解こうというマッチポンプの商売上手で、キリスト教の信仰は、個人と神との契約である。
人々は宗教の奴隷となって、一方、教会や教団は、強大な権力と大きな富をえた。
 ヨーロッパでは、教会が、死と神を商売の道具にして、大衆から権力までをとりこんでしまったのである。
 日本では、神も信仰も、ひとの魂を抜き去るようなことはしなかった。
 神道は、無意識の宗教で、死に触れなかったのは、死は不浄だからである。
 死は、絶望なので、直視することも、考えることもできない。
 一神教では、死や死後を考えさせ、神が、人々をその絶望から救う。
 死について考えるから、このトリックにひっかかってしまうのである。
 だから、神道は、ことさらに、死を不浄として、遠ざけた。
 死ではなく、死について考えることが、絶望的なのである。
 ヤマトタケルは、死後、白鳥になってどこかへとんでゆくが、どこへ行ったのかわからない。
 それが、神道の死生観で、死後、魂はどこかへとんでゆき、死体も消える。
 死体があるのは、黄泉の国だが、イザナギが大石で黄泉の国へつうじる黄泉比良坂を塞いでしまったため、神話では、行き来ができた黄泉の国へいけなくなった。
 神道に、死や死後の世界、天国や地獄がないのは、死のことなど考えなくてもよいからである。
 仏教や禅が、無や空をもとめるのは、死につうじる意識を捨てるためである。
 意識は、一神教のもので、一元論である。
 一方、無意識は、多神教のもので、多元論である。
「考える」のが一元論で「かんじる」のが多元論といえる。
 意識は、一つのことしか考えられないが、無意識は、同時に、多くのことをかんじとる。
 それが、生きるということで、神道が、生の宗教といわれる所以である。
 次回以降も、神道と一神教の比較宗教論を展開してゆこう。

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2019年04月15日

神道とはなにか@

 神道とはなにか@
 ●国家神道と復古神道
 神道と聞いて、国家神道を思いうかべるひとがいるかもしれない。
 国家神道は、国家と天皇をむすびつけて、神道の国教化をはかったイデオロギーで、縄文時代に始原をもつ神道ほんらいのすがたから、大きくかけ離れている。
 思想家で、神道家でもあった葦津珍彦は、国家神道について、「神道的神霊を無視するもので、神社と神道の信仰をふみにじった」と慨嘆した。
 国家の保護によって、却って、神道本来の宗教的霊性が失われてしまったというのである。
 いずれにせよ、国家神道が、日本人の宗教観からみて、異様なものだったのは疑いがない。
 明治政府の神道分離令、太政官制における神祇官の設置、大教宣布の詔から廃仏毀釈へつきすすんだ国家神道の源流を遡れば、平田篤胤の「復古神道」にたどりつく。
 平田がうけついだのが、江戸時代中後期、儒教や仏教を退けて、日本固有の精神を研究した国学だった。
 その四大家が、契沖(けいちゅう)と荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵、本居宣長である。
 万葉・記紀研究の基礎をつくった契沖と荷田春満の跡をついだのが、日本の古代精神「いにしえごころ」「ますらおぶり」を謳った賀茂真淵だった。
 賀茂の門人にあたるのが、源氏物語の「もののあはれ」の本居宣長で、宣長は、30余年をかけて「古事記」を解読した。
 本居宣長没後、門人を自称したのが平田篤胤で、平田の復古神道が、幕末の尊王攘夷運動につながったのは、平田は、当時のベストセラー作家でもあったからだった。
 平田の神道観は、宣長のそれとはまるっきり異なっている。
 本居宣長の神道が「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり」とカミを日本的な感性でとらえたのにたいして、平田は、キリスト教の「最後の審判」の影響をうけた幽明審判思想を唱えた。
 さらに、その門人らが、天之御中主神を創造神とする一神教的な宗教理論を展開するにいたって、宣長の古道(古神道)精神は、根こそぎ書きかえられてしまった。
 国家神道が、日本の伝統的な精神である神道の異端児だったことは、明らかだが、さりとて、神道について、明確な定義があるわけではない。
 神道には多くの分派諸派があって、それぞれ、独自の主張をおこなっている。
 神道は、仏教との接触、神仏習合、神話や皇室神道、神社神道、伊勢神道や吉田神道などの教義的発展と、これまで、大きな節目をいくつもこえてきた。

 ●日本人的思考の根底にある神道
 だが、神道のもともとの形は、自然崇拝である。
 万物に精霊が宿っているとするアニミズム、シャーマンが霊的存在と交信するシャーマニズム、神と自然が同一であるとするパンセイズム(汎神論)が、神人合一の空間をつくりあげ、それが、現代にまで、つづいている。
 正月の初詣、初宮詣、七五三、建築関係では地鎮祭、上棟祭、人生の転機におこなわれる厄払い、合格祈願に至るまで、日本人の生活のなかに神社への参詣がそっくりとけこんでいるのである。
 神道と民俗・風習が、分かちがたく接している。
 神道という宗教があるというより、生命や生活の活動が、そのまま、神道という信仰空間になっているのである。
 神道は、自然や日本の風土にもとづいた原始信仰で、無意識なのは、キリスト教や仏教のような人格神がいないからである。
 それが、「神ながら言挙げせぬ国」ということである。
 縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけて、原型がつくられた神道は、日本人の生活や日本文化、日本人的思考の根底にあるもので、宗教であって、文化的・精神的な基盤でもあった。
 ところが、一神教は、神道のカミが、自然崇拝や庶物崇拝、祖先崇拝などの古代宗教に属するとして、劣等自然教とみなそうとする。
 多神教から一神教、自然神から人格神、精霊的な神から理性的な神、集団の神から個人の神へと、宗教が発達してきたとする進歩史観をもちだすのである。
 クリスチャンにとって、自然は神からあたえられた生活材である。
 自然合一などかれらにとって、なんの意味もなかったろう。
 一神教的な価値観に慣れた現代人は、合理や理性、論理に走る。
 だが、ヒトが、宗教へむかうのは、超越性や神秘性、卓絶したものをもとめるからである。
 すぐれた芸や作品から、人間の領域をこえたものをみると、ひとは、宗教的な感動をおぼえる。
 偉人は、祭られて、カミになるが、生きていても、神になる。
 国民栄誉賞や人間国宝がそれで、長嶋茂雄は野球の神さま≠ニ呼ばれた。
 日本では、超越的な力をもったひとは神さまなのである。
 次回以降、神道と一神教の比較信仰論を展開してゆこう。
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2019年04月04日

天皇と神道E

「日本の原光景」
 天皇と神道E
 万世一系は、皇統(天皇の血筋)が永久に続くことである。
 岩倉具視は「王政復古議」に「皇家は連綿として万世一系礼学征伐朝廷より出で候」と記した。
 これが「万世一系」の語の初出(慶応3年/1867年)といわれる。
 伊藤博文は『(旧)皇室典範』の制定(明治22年/1889年)にあたって以下の3項目を挙げた。
 第一 皇祚を践(ふ)むは皇胤に限る
 第二 皇祚を践(ふ)むは男系に限る
 第三 皇祚は一系にして分裂すべからず
 大日本帝国憲法の第一條には次のように記されている。
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
 万世一系は、血筋の連続性で、原始社会から現代にいたるまで、世襲という血統の相続によって、地位、氏族、家名、家格、家業、家柄などがまもられてきた。
 血統や世襲が時間軸的な連続性なら、八百万の神々が空間的な延長で、その広大な時空が神道の世界観である。
 神話や血筋、家系などに宿る祖霊と、地祇や産土、鎮守などの土地の神々が交差しているのが多神教の世界で、日本においては、家族から共同体、国家にいたるまで、神人合一の境地なのである。
 近代国家日本に憧れてやってきたアジアの留学生は、狐を祭ったお稲荷様を見て、驚くという。
 近代化は、古い因習や迷信を捨て、近代合理主義に近づくことと思っているかれらは、先進国家の日本に、動物神を祭った神社があることが理解できないのである。
 近代合理主義は、16世紀のルネサンス、17世紀のデカルト、18世紀の産業革命からうみだされたもので、伝統とは相容れない。
 近代合理主義は、革命や自然破壊、社会の荒廃をもたらした。
 経済や物質、競争ばかりを優先させてきたからである。
 近代合理主義がうみだしたのが、民主主義や男女平等で、皇位継承を男子に限定する万世一系は、男女平等に照らして疑問という声が、マスコミで、しばしば、とりあげられてきた。
 民進党の前政調会長で、女系天皇容認論者の山尾志桜里も「男系男子は論理必然ではない。新しい工夫や知恵が必要だ」とのべるが、千年の伝統を、昨日今日の思いつきでふみにじるのが合理主義というものである。

 万世一系は、戦前、国粋主義や皇国史観とむすびつけられた。
 そして、天皇の神格化や共産主義革命を否定する根拠とされた。
 といっても、万世一系は、明治維新のイデオロギーではない。
 万世一系は、歴史概念で、古来、神武天皇以来の男系男子の「血の系譜」と信じられてきた。
 その血の系譜が、第26代継体天皇で、継体系列は、神武天皇の男系血統という大樹からのびた一つの分枝ということができる。
 第25代武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したのち、大伴金村らの有力豪族が新しい天皇に担ぎ上げたのは、男大迹王のちの継体天皇で、第15代応神天皇の5世の子孫だった。
 それがわかっていたのは、当時、神武天皇の男系血統にたいする意識が高かったからで、武烈系統も応神系統も、神武という大樹からにびた枝なのである。
『万葉集』を編纂した大伴家持は「君の御代御代敷きませる」と天皇の歴史の古さを謳い、聖徳太子は『日本書紀』にしたがって、神武天皇が即位した年を王朝の起点とした。
 万世一系と天皇の歴史の古さを受け入れたのは、意外にも、中世のヨーロッパ人だった。
 建国の日付を西暦に計算しなおして、紀元前660年としたのもヨーロッパ人で、スペインの『ドン・ロドリゴ日本見聞録』にこうある。
「神武天皇という最初の国王が誕生したのは、主キリストの生誕に先立つこと六六三年、ローマ創建の八九年後で、日本は、ほぼ二二六〇年のあいだ、同じ王家の血統を引く者一〇八世代にもわたってあとを継いできた」
 16世紀末から約20年間、長崎に在住したスペインの貿易商ヒロンも同じようなことを書き残している。
「神武天皇が治世を始めたのは二二七〇年以上も昔で、建国は紀元前660年であった」(『日本王国記』)
 ドイツ人医師ケンペルの『日本誌』に以下のような記述がある。
「ジンム王朝は、キリスト以前の六六〇年がそのはじまりで、以後、キリスト紀元一六九三年にいたるあいだ、すべて同じ一族に属する一一四人の皇帝たちがあいついで帝位についた。かれらは、日本人の国のもっとも神聖な創建者である「テンショウダイシン」(天照大神)の一族の最古の分枝で、直系の子孫であることを誇りに思っている。
 戦後の日本人は、皇国史観や国家神道を否定する余り、合理主義や唯物史観へ走ってしまいがちである。
 だが、日本の歴史は、日本人の血が流れる民族の魂で、天皇も国体も、日本文化も日本文明も、その根本は、歴史のなかに息づいているのである。
posted by office YM at 20:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする