マスコミ世論&タレント識者の俗論を撃つA
●池上彰が説く「女系宮家」のゴマカシ論法A
現在、皇統をめぐって、日本の世論は、男系男子派と女系女性派の真二つに分かれて、水面下で、はげしく、争っている。
男系男子派の学者は、小堀桂一郎(東京大学名誉教授)、新田均(皇學館大学教授)、百地章(法学者/日本大学名誉教授)、八木秀次(法学者/麗澤大学経済学部教授)、大原康男(國學院大学教授)、竹田恒泰(明治天皇の玄孫/慶応大学院講師)、松浦光修(皇學館大学教授)らで、論客として、谷田川惣や八幡和郎らがいる。
女系女性派の学者は、田中卓(皇學館大学元学長)、所功(京都産業大学名誉教授)、高森明勅(神道学者)、西修(駒澤大学名誉教授)、園部逸夫(元最高裁判所判事)らで、論客として、高橋紘、橋本明、山下晋司らがいる。
女系女性派が優勢なのは、マスコミや官僚、有識者会議につらなる学識者がついているからで、漫画家の小林よしのりやニュース解説の池上彰のほか、テレビの人気者や女性タレントも、メディアで、男女平等を挙げて、女系女性を支持している。
その効果はてきめんで、世論調査で、目下、愛子天皇待望論というべき状況がうまれている。
「女系・女性天皇に賛成7割」(時事通信)
「女性天皇『容認』76%」(朝日新聞)
現在、皇位継承順位第2位に悠仁親王殿下がおられる。
男系男子が皇位を継承すると定めた皇室典範にもとづく皇位継承順位は――
【1】秋篠宮文仁皇嗣殿下【2】悠仁親王【3】常陸宮正仁殿下
である。
女性天皇が容認されると、皇位継承順位はこう変わる。
【1】愛子内親王【2】秋篠宮文仁皇嗣殿下【3】眞子内親王【4】佳子内親王【5】悠仁親王【6】常陸宮正仁殿下【7】彬子女王【8】瑶子女王【9】承子女王
女性天皇が容認されると、皇位継承順位第2位の悠仁親王が5位に下がる。
この場合、皇位が、愛子天皇から悠仁親王もしくはその男性嗣子に継がれるという確たるルールができていなければ、歴史上、推古天皇など8人の前例がある女性天皇は、そのまま、前例のない女系天皇へ移ってゆくことになる。
皇胤の男子相続者がおられる現在でさえ、愛子天皇待望論が沸騰している。
これを思えば、将来、愛子天皇の直系への譲位が世論の大勢となるのは目に見えている。
皇統は世論に左右されてはならないが、天皇の地位が憲法に規定されているかのような風潮のなか、世論に抗うことはむずかしい。
愛子天皇の子が皇位を継承した場合、たとえ、その子が男性であっても、女系天皇となって、2700年にわたって、男系男子で貫いてきた万世一系の伝統に終止符が打たれる。
愛子天皇の長男が天皇に即位した瞬間、民間人である夫側の家系図に天皇が出現して、一方、神武以来の天皇家の皇統が断たれるのである。
池上彰はこういう。
女性天皇をみとめるように法を改正すれば、愛子さま、眞子さま、佳子さまも、皇位継承権をもつことができます。
それからこう畳みかける。
女性天皇をみとめても、愛子さま、眞子さま、佳子さまのお子さまは女系になるため、皇位継承権はありません。
そして、こうしめくくる。
将来、「女系天皇」をみとめるかどうか、という議論をしなければならないでしょう。
問題を先送りして、遠くない将来、女系天皇がうまれることに期待を寄せるのである。
これは、ごまかしとすりかえの論理で、万世一系を残す方法があるのに、民間人の天皇をもとめるのは、魂胆があるのである。
その魂胆というのが、女性天皇から女系天皇へのなしくずしの移行で、万世一系をひっくり返そうというのである。
伝統を破壊すれば、日本は、民主主義共和国になるほかない。
池上は、万世一系の牙城たる旧宮家の皇籍復帰の可能性を否定する。
女性天皇、女系天皇の容認や女性宮家の創設以外の方法として、旧宮家の皇籍復帰を唱える論者もいますが、旧宮家は戦後皇籍から離脱していますから、あらためて皇籍に復帰することは、現実的には難しいのではないでしょうか。
世論調査でも、旧宮家の皇籍復帰にたいしては、7割前後が反対しています。
女性天皇とは違って、国民感情としても、認めがたいのが現実です。
ウソである。
産経・FNN合同世論調査(2019年5月)によると、男系男子の皇族を増やすため、戦後に皇籍離脱した旧宮家の復帰を認めてもよいかという質問にたいして、「認めてもよい」(42・3%/自民支持50・7%)が「認めない方がよい」(39・6%/自民支持31・3%)を上回った。
旧宮家の皇籍復帰や男系男子の血統を持つ人々養子縁組案については、これまで、有識者や政府、マスコミなどは「長年、民間で暮らしていることから国民の理解は得られない」といいつづけてぃた。
ところが、とんだ思いちがいで、国民は、戦後、臣籍降下させられた11宮家にたいして、敬意と愛着をもっていたのである。
「女系・女性天皇に賛成7割」(時事通信)「過半数が女性天皇と女系天皇の違いを理解せず」「11宮家の皇籍復帰賛成派が反対派をこえる」(産経・FNN)とアンケート調査の結果はまちまちである。
マスコミや政府・権力の一部が世論を操作してきた結果、バラツキが生じたのである。
皇統をめぐる男系男子派と女系女性派の衝突は、日本人の魂とマスコミ世論のたたかいといえる。
そのたたかいは、はじまったばかりなのである。
2019年05月31日
2019年05月24日
マスコミ世論&タレント識者の俗論を撃つ@
マスコミ世論&タレント識者の俗論を撃つ
●池上彰が説く「女系宮家」のゴマカシ論法@
天皇問題から憲法、北方領土から移民問題にいたるまで、マスコミとりわけテレビが世論をリードしている。
それがマスコミ世論というもので、本来、別々だったマスコミと世論が一体化した衆愚政治である。
テレビで売れっ子のコメンテーターが、短絡した意見を吐いて、それが世論に反映されて、国家の羅針盤が狂いはじめる。
それが、ほぼ、定着したのが、昨今の日本の情勢である。
テレビが視聴率の上になりたっているのは、周知の事実で、ニュースも報道番組も、時事解説もバラエティも、事情はかわらない。
それらの情報が、すべて、視聴率という秤にはかられて、視聴者の耳や目に届くときには、別物になっている。
迎合的な内容に加工されて、本質がゆがめられるのである。
バラエティならヤラセや過剰演出ですむだろう。
だが、ニュースや時事問題ではそうはいかない。
誤った世論が形成されて、国家が、舵を誤ってしまいかねないのである。
とくに、民主主義と国民主権が大手をふるわが国では、マスコミ世論がかつての元老院や枢密院のような権威となって、国論や国政を左右する。
それが、小泉純一郎内閣の「皇室典範に関する有識者会議」だった。
「皇位継承資格を女子や女系の皇族に拡大することが適当」とする報告書(2005年)を提出した吉川弘之座長はこのとき「歴史観や国家観にもとづいて案をつくったのではない」「皇族や政治家の意見を聞くつもりはない」といってのけた。
歴史と伝統にもとづく皇室の世継ぎ問題を、民主主義と憲法だけで切りさばこうというのが、戦後文化人で、要は、伝統をアメリカ民主主義にきりかえてGHQ革命にのった敗戦利得者である。
現在、世論形成のリードオフマンといえば、池上彰で、テレビはでずっぱりで、ベストセラーの上位独占という怪物である。
NHK出身で、報道記者をへて、10年以上、『週刊こどもニュース』のキャスターをつとめたせいか「だよね」という子どもに語りかける口調で主婦層を中心に圧倒的な支持をえている。
その池上が、万世一系を否定する「女系宮家」の創設をうったえている。
その論法が、例の短絡のゴマカシで、天皇が憲法上の存在であるかのような設定で話をすすめる。
古代より連綿とつづいてきた天皇は、わが国の伝統文化の総家元というべき存在で、たかだか、130年前の明治憲法、わずか、70年前のGHQ憲法に定められた薄っぺらなものではない。
有識者ならば、天皇が歴史のもとづく伝統的な存在で、憲法上の存在でないことを国民につたえる立場にある。
生活に忙しい国民は、真実を知る機会がなく、正しい知識をもちえない。
有識者にあたえられた任務は、無知な国民を正しい知識をあたえて、目覚めさせることである。
ところが、池上は、こういってのける。
憲法の第1条には、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」とあり、第2条には「皇位は、世襲のもの」とあります。
この2点に着目すれば、皇室典範を改正して、女性天皇や女系天皇を認めることは、憲法上、何ら問題はありません。
池上は、戦後の日本人が陥った、天皇を憲法上の存在とする錯綜をそのままひきついで、堂々と万世一系を否定するのである。
池上は天皇退位特例法案にもりこまれた「女性宮家検討」の付帯決議≠もちだして、こんどは「女性宮家」創設を主張する。
憲法の次は政治判断で、池上流に付き合っていると、天皇が、法律や政治の飾り物にすぎないように思えてくる。
昨今の人気タレント識者は、判で押したように、伝統を否定する。
伝統の否定が、マスコミで生き残る条件にでもなっているのであろうか。
次回も人気タレント識者批判をつづけよう。
●池上彰が説く「女系宮家」のゴマカシ論法@
天皇問題から憲法、北方領土から移民問題にいたるまで、マスコミとりわけテレビが世論をリードしている。
それがマスコミ世論というもので、本来、別々だったマスコミと世論が一体化した衆愚政治である。
テレビで売れっ子のコメンテーターが、短絡した意見を吐いて、それが世論に反映されて、国家の羅針盤が狂いはじめる。
それが、ほぼ、定着したのが、昨今の日本の情勢である。
テレビが視聴率の上になりたっているのは、周知の事実で、ニュースも報道番組も、時事解説もバラエティも、事情はかわらない。
それらの情報が、すべて、視聴率という秤にはかられて、視聴者の耳や目に届くときには、別物になっている。
迎合的な内容に加工されて、本質がゆがめられるのである。
バラエティならヤラセや過剰演出ですむだろう。
だが、ニュースや時事問題ではそうはいかない。
誤った世論が形成されて、国家が、舵を誤ってしまいかねないのである。
とくに、民主主義と国民主権が大手をふるわが国では、マスコミ世論がかつての元老院や枢密院のような権威となって、国論や国政を左右する。
それが、小泉純一郎内閣の「皇室典範に関する有識者会議」だった。
「皇位継承資格を女子や女系の皇族に拡大することが適当」とする報告書(2005年)を提出した吉川弘之座長はこのとき「歴史観や国家観にもとづいて案をつくったのではない」「皇族や政治家の意見を聞くつもりはない」といってのけた。
歴史と伝統にもとづく皇室の世継ぎ問題を、民主主義と憲法だけで切りさばこうというのが、戦後文化人で、要は、伝統をアメリカ民主主義にきりかえてGHQ革命にのった敗戦利得者である。
現在、世論形成のリードオフマンといえば、池上彰で、テレビはでずっぱりで、ベストセラーの上位独占という怪物である。
NHK出身で、報道記者をへて、10年以上、『週刊こどもニュース』のキャスターをつとめたせいか「だよね」という子どもに語りかける口調で主婦層を中心に圧倒的な支持をえている。
その池上が、万世一系を否定する「女系宮家」の創設をうったえている。
その論法が、例の短絡のゴマカシで、天皇が憲法上の存在であるかのような設定で話をすすめる。
古代より連綿とつづいてきた天皇は、わが国の伝統文化の総家元というべき存在で、たかだか、130年前の明治憲法、わずか、70年前のGHQ憲法に定められた薄っぺらなものではない。
有識者ならば、天皇が歴史のもとづく伝統的な存在で、憲法上の存在でないことを国民につたえる立場にある。
生活に忙しい国民は、真実を知る機会がなく、正しい知識をもちえない。
有識者にあたえられた任務は、無知な国民を正しい知識をあたえて、目覚めさせることである。
ところが、池上は、こういってのける。
憲法の第1条には、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」とあり、第2条には「皇位は、世襲のもの」とあります。
この2点に着目すれば、皇室典範を改正して、女性天皇や女系天皇を認めることは、憲法上、何ら問題はありません。
池上は、戦後の日本人が陥った、天皇を憲法上の存在とする錯綜をそのままひきついで、堂々と万世一系を否定するのである。
池上は天皇退位特例法案にもりこまれた「女性宮家検討」の付帯決議≠もちだして、こんどは「女性宮家」創設を主張する。
憲法の次は政治判断で、池上流に付き合っていると、天皇が、法律や政治の飾り物にすぎないように思えてくる。
昨今の人気タレント識者は、判で押したように、伝統を否定する。
伝統の否定が、マスコミで生き残る条件にでもなっているのであろうか。
次回も人気タレント識者批判をつづけよう。
2019年05月17日
神道とはなにかD
神道とはなにかD
●日本精神をつくりあげた神道
現在、神道的な価値観が、世界的に見直されている。
その一つが、自然にたいする考え方である。
自然を征服する西洋にたいして、日本は、自然との共生で、地球にやさしくというキーワードは日本から発せられた。
もともと、神道は、自然崇拝の宗教である。
西洋には自然崇拝という考え方がない。
自然は神が創造したものだからである。
神が創造して、糧として、ヒトにあたえたものなので、煮て食おうが焼いて食おうが人間の勝手というのである。
西洋の神は、創造主にして唯一神、絶対神で、絶対的存在である。
西洋が神を中心とする世界観のもとで回転してきたのは、神が圧倒的な力をもって、人々を支配してきたからだった。
紀元後からルネサンスまで、ヒトは、人権どころか、人格や個性さえみとめられない神のしもべだった。
そして、宗教戦争では、神の私兵となって、多くが命を落とし、ドイツ農民戦争では、人口が半分になってしまったほどだった。
キリスト対イスラム、カソリック対プロテスタントの一神教の内紛がいまもなおつづいているのは、一神教の世界では、神が人間の心に占めるウエイトが日本人の想像がおよばないほど大きいからである。
西洋では、ことば(=ロゴス)までが神からあたえられた。
一神教における信仰は、神との契約で、ヒトは、ことばをとおして、神と約束をかわす。
西洋人の自我がつよいのは、直接、神とむきあうからである。
神という絶対的な後ろ盾をえて、かれらは、絶対的な自信を獲得する。
それが、オーマイゴットの精神で、キリスト者にとって、神の祝福や神との出会いがなによりも大事なのである、
日本には絶対神がいない。
縄文時代から多神教のアニミズムで、八百万の神々は、自然や人々とともに、世界からうまれた。
日本の神々は、世界を創造したのではなく、世界からうまれおちたのである。
八百万の神々やミコト、ヒトが、大自然のなかで共存する日本では、単独で存在するものなどない。
絶対神がいなかったので、自我も個人主義もうまれなかったのである。
かつて、ヒトは、主客未分離の境地で、血族や部族、共同体中心の集団的な生を営んでいた。
それが神道の淵源で、多神教の下では、集団的な生が栄える。
それがさいわいだったのは、そこでは、信頼や善意、情や利他心などの集団の心というべきよい心がはたらくからである。
神道は無意識の宗教ともいわれる。
すべて、直観やなりゆきにまかせきるからで、それが惟神(かんながら)の道である。
惟神というのは、神の摂理にあずけきってしまうことで、人間の考えほど浅はかなものはない。
このとき、意識が捨てられる。
集団に宿るのは、意識ではなく、無意識である。
無意識の神道は、自然崇拝の宗教でもあって、自然界には、意識もことばもない。
意識やことばは非自然物なので、自然崇拝(=自然と同一化)すると消えてしまうのである。
生きてゆくのに必要なのは、習慣やきまりごと、日常的なふるまいで、ほとんど無意識である。
集団は、意識をもつことも、モノを考えることもできない。
モノを考えるのは、かならず、個人であって、一人ひとり考えがちがう。
集団が個になって、無意識が意識に転じた。
ヨーロッパで、意識がうまれたのは、絶対神に出遭って、個に目覚めたのちのことである。
神から、汝はだれぞと尋ねられて、ヒトは、個のじぶんに出遭った。
キリスト教によって、ヒトは、無意識だった集団の一部から、意識をもった個人になったのである。
神が、個人をつくって、意識をさずけたのは、信仰を迫るためだった。
救ってやるが、その前に、たっぷり、孤独と死の恐怖、絶望を味わえというのである。
それが悲劇の誕生で、そこから、人類の苦しみや悲しみがはじまった。
神道は、その逆で、意識を捨てて、無意識をとれという。
キリスト教では、神を発見した意識は開明的で、一方、無意識は、神を見ることができない未開状態ということにされている。
西洋では、意識やことばが光で、無意識は、無神論の闇なのである。
日本は、その逆で、無や空は、悟りの境地である。
そして、意識は、しばしば、苦の原因とされる。
虚栄や嫉妬、不安や憎悪、絶望などの悪意やわるい感情も意識から生じる。
西洋が意識のなかに絶対神をもとめたように、日本人は、無意識のなかに無や空をもとめた。
それが神道の無意識で、集団の心である。
聖徳太子の和の心は、日本の伝統的な精神だったのである。
そして、その日本精神が、神道につちかわれたものだったことはいうまでもない。
●日本精神をつくりあげた神道
現在、神道的な価値観が、世界的に見直されている。
その一つが、自然にたいする考え方である。
自然を征服する西洋にたいして、日本は、自然との共生で、地球にやさしくというキーワードは日本から発せられた。
もともと、神道は、自然崇拝の宗教である。
西洋には自然崇拝という考え方がない。
自然は神が創造したものだからである。
神が創造して、糧として、ヒトにあたえたものなので、煮て食おうが焼いて食おうが人間の勝手というのである。
西洋の神は、創造主にして唯一神、絶対神で、絶対的存在である。
西洋が神を中心とする世界観のもとで回転してきたのは、神が圧倒的な力をもって、人々を支配してきたからだった。
紀元後からルネサンスまで、ヒトは、人権どころか、人格や個性さえみとめられない神のしもべだった。
そして、宗教戦争では、神の私兵となって、多くが命を落とし、ドイツ農民戦争では、人口が半分になってしまったほどだった。
キリスト対イスラム、カソリック対プロテスタントの一神教の内紛がいまもなおつづいているのは、一神教の世界では、神が人間の心に占めるウエイトが日本人の想像がおよばないほど大きいからである。
西洋では、ことば(=ロゴス)までが神からあたえられた。
一神教における信仰は、神との契約で、ヒトは、ことばをとおして、神と約束をかわす。
西洋人の自我がつよいのは、直接、神とむきあうからである。
神という絶対的な後ろ盾をえて、かれらは、絶対的な自信を獲得する。
それが、オーマイゴットの精神で、キリスト者にとって、神の祝福や神との出会いがなによりも大事なのである、
日本には絶対神がいない。
縄文時代から多神教のアニミズムで、八百万の神々は、自然や人々とともに、世界からうまれた。
日本の神々は、世界を創造したのではなく、世界からうまれおちたのである。
八百万の神々やミコト、ヒトが、大自然のなかで共存する日本では、単独で存在するものなどない。
絶対神がいなかったので、自我も個人主義もうまれなかったのである。
かつて、ヒトは、主客未分離の境地で、血族や部族、共同体中心の集団的な生を営んでいた。
それが神道の淵源で、多神教の下では、集団的な生が栄える。
それがさいわいだったのは、そこでは、信頼や善意、情や利他心などの集団の心というべきよい心がはたらくからである。
神道は無意識の宗教ともいわれる。
すべて、直観やなりゆきにまかせきるからで、それが惟神(かんながら)の道である。
惟神というのは、神の摂理にあずけきってしまうことで、人間の考えほど浅はかなものはない。
このとき、意識が捨てられる。
集団に宿るのは、意識ではなく、無意識である。
無意識の神道は、自然崇拝の宗教でもあって、自然界には、意識もことばもない。
意識やことばは非自然物なので、自然崇拝(=自然と同一化)すると消えてしまうのである。
生きてゆくのに必要なのは、習慣やきまりごと、日常的なふるまいで、ほとんど無意識である。
集団は、意識をもつことも、モノを考えることもできない。
モノを考えるのは、かならず、個人であって、一人ひとり考えがちがう。
集団が個になって、無意識が意識に転じた。
ヨーロッパで、意識がうまれたのは、絶対神に出遭って、個に目覚めたのちのことである。
神から、汝はだれぞと尋ねられて、ヒトは、個のじぶんに出遭った。
キリスト教によって、ヒトは、無意識だった集団の一部から、意識をもった個人になったのである。
神が、個人をつくって、意識をさずけたのは、信仰を迫るためだった。
救ってやるが、その前に、たっぷり、孤独と死の恐怖、絶望を味わえというのである。
それが悲劇の誕生で、そこから、人類の苦しみや悲しみがはじまった。
神道は、その逆で、意識を捨てて、無意識をとれという。
キリスト教では、神を発見した意識は開明的で、一方、無意識は、神を見ることができない未開状態ということにされている。
西洋では、意識やことばが光で、無意識は、無神論の闇なのである。
日本は、その逆で、無や空は、悟りの境地である。
そして、意識は、しばしば、苦の原因とされる。
虚栄や嫉妬、不安や憎悪、絶望などの悪意やわるい感情も意識から生じる。
西洋が意識のなかに絶対神をもとめたように、日本人は、無意識のなかに無や空をもとめた。
それが神道の無意識で、集団の心である。
聖徳太子の和の心は、日本の伝統的な精神だったのである。
そして、その日本精神が、神道につちかわれたものだったことはいうまでもない。
2019年05月09日
神道とはなにかC
神道とはなにかC
●集団主義の神道と個人主義の一神教
現代人は、じぶんが個人であることをあたりまえと思っている。
だが、個人があらわれたのは、たかだか数千年前のことである。
それまで、人々は、主客未分離の境地で、血族や部族、共同体中心の集団的な生を営んでいた。
それが神道の淵源で、多神教の下では、個人という考え方はうまれない。
400万年前に猿人から分化して以来、人類は、集団生活者だった。
集団は、個が集まって、できあがったのではない。
血族や部族、共同体などの集団が先にあって、ヒトは、その一部分だった。
集団から個を一つとりだしたところで、単独の一人にはならない。
切り分けられた集団の一部は、たとえ一人でも、集団なのである。
単独では、子孫を残せない以上、ヒトは、人間ではなく、人類として集団を生きるほかなかった。
信頼や善意、情や利他心などは、集団の心である。
ヒトは、集団の一部であるとき、心ゆたかに生きることができるのである。
一方、西洋は、個人主義で、その根本にあるのがキリスト教だった。
同じキリスト教でも、カトリックとプロテスタントでは、神との接触方法が異なる。
カトリックでは、信者は、神父を介して神と接触する。
ところが、プロテスタントでは、個人が神とむきあう。
個人が、直接、神と接触して、信仰を契約するのである。
プロテスタンティズムによって、コミュニティや集団が解体されて、個人が台頭してきた。
そこからうまれてきたのが「社会契約論」である。
個人と神が契約するプロテスタンティズムを「個人と社会との契約」に移しかえて「社会契約論」がうまれた。
ホッブスやルソー、ロックの思想的ルーツはキリスト教にあったのである。
西洋における個人は、神の下に平等であって、精神の帰属先も、神である。
キリスト教は、人々の帰属意識を共同体から切り離して、神にむかわせた。
キリスト教的伝統の下でうまれた個人主義は、国家と対立する概念だったのである。
そこから、抗争や革命、戦争がうまれた。
結局、個人主義は、宗教という迷妄以外のなにものでもなかったのである。
●一神教がうんだ一元論
キリスト教も西洋合理主義も、科学も民主主義も、一元論である。
正しいものが一つしかない一元論の世界では、内ゲバがはじまる。
キリスト教とイスラム教、カトリックとプロテスタントの宗教戦争が凄惨なものになったのは、唯一神ヤハウェやキリストをめぐる一元論の戦争だったからである。
キリスト教もイスラム教も、仏教や儒教も、人間の頭によって考えだされた創唱宗教で、ことば(ロゴス)は、神からあたえられる。
一神教は、意識と観念、ことばの宗教だったのである。
一方、神道は、自然宗教である。
自然界には、精神もことばも、観念も感情もない。
神道は、自然をはじめ、無心にすべてをうけいれて、心安らかに生を営もうという宗教である。
すべてうけいれるのは、多神教=多元論だからである。
一神教=一元論では、排除の思想がはたらく。
日本では、神道が仏教をうけいれたが、西洋では、宗教戦争がおきた。
宗教戦争の本質は、「神の前に万人は平等」という個人(プロテスタント)と全体(カトリック=教会)の階級闘争でもあって、ドイツ30年戦争では、人々が殺しあって、人口が半分以下に減ってしまった。
そのキリスト教がもちだしたのが愛だった。
神道では、集団主義のなかに愛=情や利他心がふくまれている。
だが、個人主義のキリスト教では、愛をもちださなければ、他者との良好な関係がつくれなかった。
その愛の関係が、契約で、西洋は、いまでも、契約社会である。
神と契約を交わす個人主義が、中世のルネサンスから近世の啓蒙思想や社会契約説をへて、近代のフランス革命やアメリカ革命(独立戦争)に至った。
そして、個人主義が、人権と平等、民主主義とともに人類の普遍的な価値になった。
個人主義が市民革命につながったのは、歴史や伝統、国体(文化形態としての国家)よりも、個人が大事とするプロテスタンティズムがはたらいたためである。
個人主義と権利意識、ヒューマニズムの三位一体を掲げるのが、アメリカやイギリスなどの白人プロテスタント系だが、フランスやロシアなどの革命国家も、基本構造は、個人を全体に優先させるプロテスタンティズムである。
近代は、その個人主義の上に成り立っている。
だが、その個人主義にほころびが見えてきた。
キリスト教にもとづく個人主義や人間主義、合理主義や科学主義が、馬脚をあらわしはじめたのである。
集団的価値を否定する個人主義は、結局、孤独やエゴイズム、憎悪をうんだだけだった。
自然破壊と人心の荒廃、犯罪や戦争、テロの恐怖もさることながら、人類は地球を何十回も破壊できる核兵器をもち、二度の大戦で、おびただしい人命を犠牲にした。
一神教は、神と個人の契約なので、神に、加護や救済、利益を依願する。
それが、個人主義やエゴイズムなのは、いうまでもない。
そこから、万人の戦争がはじまるのは、人間は、エゴイストだからである。
神道は、なにごとも願わない。
惟神の道(かんながらのみち)にまかせて、安心する。
神道の神々の予定調和は、すべてのひとの幸で、個人主義とは逆の考え方である。
共感や共鳴、共通感覚によって、ひととひとがむすばれる。
神道が理想とする世界観は、地域や共同体、国家とヒトの一体感である。
キリスト教にもとづく個人主義を捨てなければ、人類は、犯罪や戦争などの暗黒性から永遠に自由になれない。
今日的な問題でいえば、外国からの移民がふえてくると、自己の利益のみを追求する個人主義がひろく蔓延して、やがて、共同体の精神が崩壊する。
そのとき、神道共同体としての日本は、大きな危機を迎えるだろう。
次回は、日本人の心と神道について、あらためて、考えてみよう。
●集団主義の神道と個人主義の一神教
現代人は、じぶんが個人であることをあたりまえと思っている。
だが、個人があらわれたのは、たかだか数千年前のことである。
それまで、人々は、主客未分離の境地で、血族や部族、共同体中心の集団的な生を営んでいた。
それが神道の淵源で、多神教の下では、個人という考え方はうまれない。
400万年前に猿人から分化して以来、人類は、集団生活者だった。
集団は、個が集まって、できあがったのではない。
血族や部族、共同体などの集団が先にあって、ヒトは、その一部分だった。
集団から個を一つとりだしたところで、単独の一人にはならない。
切り分けられた集団の一部は、たとえ一人でも、集団なのである。
単独では、子孫を残せない以上、ヒトは、人間ではなく、人類として集団を生きるほかなかった。
信頼や善意、情や利他心などは、集団の心である。
ヒトは、集団の一部であるとき、心ゆたかに生きることができるのである。
一方、西洋は、個人主義で、その根本にあるのがキリスト教だった。
同じキリスト教でも、カトリックとプロテスタントでは、神との接触方法が異なる。
カトリックでは、信者は、神父を介して神と接触する。
ところが、プロテスタントでは、個人が神とむきあう。
個人が、直接、神と接触して、信仰を契約するのである。
プロテスタンティズムによって、コミュニティや集団が解体されて、個人が台頭してきた。
そこからうまれてきたのが「社会契約論」である。
個人と神が契約するプロテスタンティズムを「個人と社会との契約」に移しかえて「社会契約論」がうまれた。
ホッブスやルソー、ロックの思想的ルーツはキリスト教にあったのである。
西洋における個人は、神の下に平等であって、精神の帰属先も、神である。
キリスト教は、人々の帰属意識を共同体から切り離して、神にむかわせた。
キリスト教的伝統の下でうまれた個人主義は、国家と対立する概念だったのである。
そこから、抗争や革命、戦争がうまれた。
結局、個人主義は、宗教という迷妄以外のなにものでもなかったのである。
●一神教がうんだ一元論
キリスト教も西洋合理主義も、科学も民主主義も、一元論である。
正しいものが一つしかない一元論の世界では、内ゲバがはじまる。
キリスト教とイスラム教、カトリックとプロテスタントの宗教戦争が凄惨なものになったのは、唯一神ヤハウェやキリストをめぐる一元論の戦争だったからである。
キリスト教もイスラム教も、仏教や儒教も、人間の頭によって考えだされた創唱宗教で、ことば(ロゴス)は、神からあたえられる。
一神教は、意識と観念、ことばの宗教だったのである。
一方、神道は、自然宗教である。
自然界には、精神もことばも、観念も感情もない。
神道は、自然をはじめ、無心にすべてをうけいれて、心安らかに生を営もうという宗教である。
すべてうけいれるのは、多神教=多元論だからである。
一神教=一元論では、排除の思想がはたらく。
日本では、神道が仏教をうけいれたが、西洋では、宗教戦争がおきた。
宗教戦争の本質は、「神の前に万人は平等」という個人(プロテスタント)と全体(カトリック=教会)の階級闘争でもあって、ドイツ30年戦争では、人々が殺しあって、人口が半分以下に減ってしまった。
そのキリスト教がもちだしたのが愛だった。
神道では、集団主義のなかに愛=情や利他心がふくまれている。
だが、個人主義のキリスト教では、愛をもちださなければ、他者との良好な関係がつくれなかった。
その愛の関係が、契約で、西洋は、いまでも、契約社会である。
神と契約を交わす個人主義が、中世のルネサンスから近世の啓蒙思想や社会契約説をへて、近代のフランス革命やアメリカ革命(独立戦争)に至った。
そして、個人主義が、人権と平等、民主主義とともに人類の普遍的な価値になった。
個人主義が市民革命につながったのは、歴史や伝統、国体(文化形態としての国家)よりも、個人が大事とするプロテスタンティズムがはたらいたためである。
個人主義と権利意識、ヒューマニズムの三位一体を掲げるのが、アメリカやイギリスなどの白人プロテスタント系だが、フランスやロシアなどの革命国家も、基本構造は、個人を全体に優先させるプロテスタンティズムである。
近代は、その個人主義の上に成り立っている。
だが、その個人主義にほころびが見えてきた。
キリスト教にもとづく個人主義や人間主義、合理主義や科学主義が、馬脚をあらわしはじめたのである。
集団的価値を否定する個人主義は、結局、孤独やエゴイズム、憎悪をうんだだけだった。
自然破壊と人心の荒廃、犯罪や戦争、テロの恐怖もさることながら、人類は地球を何十回も破壊できる核兵器をもち、二度の大戦で、おびただしい人命を犠牲にした。
一神教は、神と個人の契約なので、神に、加護や救済、利益を依願する。
それが、個人主義やエゴイズムなのは、いうまでもない。
そこから、万人の戦争がはじまるのは、人間は、エゴイストだからである。
神道は、なにごとも願わない。
惟神の道(かんながらのみち)にまかせて、安心する。
神道の神々の予定調和は、すべてのひとの幸で、個人主義とは逆の考え方である。
共感や共鳴、共通感覚によって、ひととひとがむすばれる。
神道が理想とする世界観は、地域や共同体、国家とヒトの一体感である。
キリスト教にもとづく個人主義を捨てなければ、人類は、犯罪や戦争などの暗黒性から永遠に自由になれない。
今日的な問題でいえば、外国からの移民がふえてくると、自己の利益のみを追求する個人主義がひろく蔓延して、やがて、共同体の精神が崩壊する。
そのとき、神道共同体としての日本は、大きな危機を迎えるだろう。
次回は、日本人の心と神道について、あらためて、考えてみよう。
2019年05月03日
神道とはなにかB
神道とはなにかB
●現実主義に立った神道
日本人にとって、カミは、偉大な創造主でも、人間の心を支配する超越的な絶対神でもなかった。
彼岸から人々を見下ろす魔王ではなく、此岸にあって、あるときは、人々に恩恵をあたえる和魂(にぎたま)で、またあるときは、天変地異をひきおこす荒魂(あらたま)でもあった。
恵みでも禍でもある畏れ多いカミにたいして、人々ができることは、機嫌をそこねないように、お供えをして、丁寧に祭ることだけで、神道の祈りの多くが、荒魂の鎮魂(たましずめ)だった。
この世には、生と死、恵みと害い、禍と福が交互にあらわれる。
そこで、カミ、ミコト、ヒトが、お互いにささえあって生きる。
それが、絶対神がいない神道の世界である。
神道が仏教をうけいれたのは、カミが、ホトケに救いをもとめたからである。
神道の最高神官である天皇が、つきつぎ、仏教に帰依した。
天皇や貴族は、仏閣や仏像、仏画や経典、仏具にふれて、国家鎮護の霊験が大きいと見込んで、大仏までつくった。
神道は、国の外からやってきた仏陀まで、八百万の神々のうちの一柱にしてしまったのである。
すべてが太陽の下にあるという世界観では、天照大神にかなうものはない。
これは、歴史が培った日本人の伝統的精神で、日本人の宗教心の原点が太陽=自然崇拝にあったのはいうまでもない。
これは現実主義で、自然崇拝の自然は、まぎれもない現実である。
日本人は、宗教への関心が薄いといわれる。
宗教団体に帰属せず、唯一神への帰依、絶対神への信仰がないというのである。
だが、それだけで、日本人を無神論者ときめつけることはできない。
日本人の心は、西洋人の心ががキリスト教的である以上に、神道的である。
ことばから所作、習慣や習俗、精神構造にいたるまで、神道の影響をうけていない日本人がいないのは、神道が、縄文・弥生の大昔から、根っこで、日本精神をささえてきたからである。
正直や素直、親切や善意などの日本人の民族的美点も、遺伝子のなかにひそむ「神道的なるもの」のはたらきといえるだろう。
神道と仏教・キリスト教のちがいは、生と死である。
神道が生の宗教≠ナ、仏教・キリスト教が死の宗教≠ナある。
ユダヤ教も、神道と同様、死後の世界がないので、生の宗教といえる。
ユダヤ教の聖書ともいわれるタルムードは、生きる知恵集で、きわめつきの現実主義である。
神道は、縄文弥生の大昔、主客未分離・神人合一の境地からうまれた。
一種の神秘主義だが、これは、自然に奇異をみる態度で、現代人にとっても自然は不思議なのである。
自然が現実主義だったのはいうまでもない。
ところが、仏教やキリスト教は、死後という空想の世界を説く。
これは、オカルティズムで、昔の人がこれを信じたのは、信心深かったからである。
人々が、死について考えるのは、一神教がやってきたあとのことである。
仏教やキリスト教は、生や現実を否定して、死後にこそ、安らぎとしあわせがあると主張した。
これは、空想的観念論で、神道の現実主義と相容れない。
観念論は死をもてあそぶが、現実主義は、あくまで、生を相手にしようとする。
仏教やキリスト教は死をつかみだし、これをつきつけて、信仰を迫った。
神は、信仰と死の恐怖を取り引きして、牧歌的だった多神教の世界を暗黒の一神教世界へぬりかえてしまった。
そして、人々は、死の虜となって、魂の救済や成仏、天国往生をもとめた。
一神教の根本にあるのが、意識やことばで、キリスト教のバイブルやイスラム教のコーラン、仏教の経典、儒教の五経は、いずれも、観念論である。
神道に経典がなく、言挙げしないのは、観念論というブラックホールにはまりこんでいなかったからだった。
日本に、善悪や正邪、仁義礼智などの儒教的な教えがなかったのも、説教を垂れる人格神がいなかったからで、いたら、理屈やこじつけ、ウソがまかりとおって、神道の清澄と元気、正直はなかったろう。
一神教の信仰をもたない代わりに、日本人の生活には、神道や仏教の教えや価値観が溶けこんでいる。
「無我」や「縁起」は仏教由来で、俳句の季語は、自然崇拝の感性である。
日本人の精神の帰属先は、観念としての神ではなく、血縁や地縁、共同体や国家などの具体的な実体である。
日本は、八百万の神々という多様性をもって、外来の神(仏教の仏)をうけいれ、神道と仏教という異質な二つの神を共存させてきた。
聖徳太子は、仏教や儒教を公的機関から遠ざけて、神道を政(祭政一致)にあてた。
人間の心や共同体、国家が、観念にのみこまれるのをきらったのである。
わが国が、建国以来万世一系の皇統をまもりつづけ、神話と実史がむすんだ世界でも稀有な伝統国家を維持できたのは、多神論的な現実主義を立てたからで、一神教的な観念論を立てていたら、内部崩壊をおこして、とっくに滅びていたろう。
神道は、原始宗教どころか、覚めた精神だったのである。
●現実主義に立った神道
日本人にとって、カミは、偉大な創造主でも、人間の心を支配する超越的な絶対神でもなかった。
彼岸から人々を見下ろす魔王ではなく、此岸にあって、あるときは、人々に恩恵をあたえる和魂(にぎたま)で、またあるときは、天変地異をひきおこす荒魂(あらたま)でもあった。
恵みでも禍でもある畏れ多いカミにたいして、人々ができることは、機嫌をそこねないように、お供えをして、丁寧に祭ることだけで、神道の祈りの多くが、荒魂の鎮魂(たましずめ)だった。
この世には、生と死、恵みと害い、禍と福が交互にあらわれる。
そこで、カミ、ミコト、ヒトが、お互いにささえあって生きる。
それが、絶対神がいない神道の世界である。
神道が仏教をうけいれたのは、カミが、ホトケに救いをもとめたからである。
神道の最高神官である天皇が、つきつぎ、仏教に帰依した。
天皇や貴族は、仏閣や仏像、仏画や経典、仏具にふれて、国家鎮護の霊験が大きいと見込んで、大仏までつくった。
神道は、国の外からやってきた仏陀まで、八百万の神々のうちの一柱にしてしまったのである。
すべてが太陽の下にあるという世界観では、天照大神にかなうものはない。
これは、歴史が培った日本人の伝統的精神で、日本人の宗教心の原点が太陽=自然崇拝にあったのはいうまでもない。
これは現実主義で、自然崇拝の自然は、まぎれもない現実である。
日本人は、宗教への関心が薄いといわれる。
宗教団体に帰属せず、唯一神への帰依、絶対神への信仰がないというのである。
だが、それだけで、日本人を無神論者ときめつけることはできない。
日本人の心は、西洋人の心ががキリスト教的である以上に、神道的である。
ことばから所作、習慣や習俗、精神構造にいたるまで、神道の影響をうけていない日本人がいないのは、神道が、縄文・弥生の大昔から、根っこで、日本精神をささえてきたからである。
正直や素直、親切や善意などの日本人の民族的美点も、遺伝子のなかにひそむ「神道的なるもの」のはたらきといえるだろう。
神道と仏教・キリスト教のちがいは、生と死である。
神道が生の宗教≠ナ、仏教・キリスト教が死の宗教≠ナある。
ユダヤ教も、神道と同様、死後の世界がないので、生の宗教といえる。
ユダヤ教の聖書ともいわれるタルムードは、生きる知恵集で、きわめつきの現実主義である。
神道は、縄文弥生の大昔、主客未分離・神人合一の境地からうまれた。
一種の神秘主義だが、これは、自然に奇異をみる態度で、現代人にとっても自然は不思議なのである。
自然が現実主義だったのはいうまでもない。
ところが、仏教やキリスト教は、死後という空想の世界を説く。
これは、オカルティズムで、昔の人がこれを信じたのは、信心深かったからである。
人々が、死について考えるのは、一神教がやってきたあとのことである。
仏教やキリスト教は、生や現実を否定して、死後にこそ、安らぎとしあわせがあると主張した。
これは、空想的観念論で、神道の現実主義と相容れない。
観念論は死をもてあそぶが、現実主義は、あくまで、生を相手にしようとする。
仏教やキリスト教は死をつかみだし、これをつきつけて、信仰を迫った。
神は、信仰と死の恐怖を取り引きして、牧歌的だった多神教の世界を暗黒の一神教世界へぬりかえてしまった。
そして、人々は、死の虜となって、魂の救済や成仏、天国往生をもとめた。
一神教の根本にあるのが、意識やことばで、キリスト教のバイブルやイスラム教のコーラン、仏教の経典、儒教の五経は、いずれも、観念論である。
神道に経典がなく、言挙げしないのは、観念論というブラックホールにはまりこんでいなかったからだった。
日本に、善悪や正邪、仁義礼智などの儒教的な教えがなかったのも、説教を垂れる人格神がいなかったからで、いたら、理屈やこじつけ、ウソがまかりとおって、神道の清澄と元気、正直はなかったろう。
一神教の信仰をもたない代わりに、日本人の生活には、神道や仏教の教えや価値観が溶けこんでいる。
「無我」や「縁起」は仏教由来で、俳句の季語は、自然崇拝の感性である。
日本人の精神の帰属先は、観念としての神ではなく、血縁や地縁、共同体や国家などの具体的な実体である。
日本は、八百万の神々という多様性をもって、外来の神(仏教の仏)をうけいれ、神道と仏教という異質な二つの神を共存させてきた。
聖徳太子は、仏教や儒教を公的機関から遠ざけて、神道を政(祭政一致)にあてた。
人間の心や共同体、国家が、観念にのみこまれるのをきらったのである。
わが国が、建国以来万世一系の皇統をまもりつづけ、神話と実史がむすんだ世界でも稀有な伝統国家を維持できたのは、多神論的な現実主義を立てたからで、一神教的な観念論を立てていたら、内部崩壊をおこして、とっくに滅びていたろう。
神道は、原始宗教どころか、覚めた精神だったのである。