2019年05月03日

神道とはなにかB

 神道とはなにかB
 ●現実主義に立った神道
 日本人にとって、カミは、偉大な創造主でも、人間の心を支配する超越的な絶対神でもなかった。
 彼岸から人々を見下ろす魔王ではなく、此岸にあって、あるときは、人々に恩恵をあたえる和魂(にぎたま)で、またあるときは、天変地異をひきおこす荒魂(あらたま)でもあった。
 恵みでも禍でもある畏れ多いカミにたいして、人々ができることは、機嫌をそこねないように、お供えをして、丁寧に祭ることだけで、神道の祈りの多くが、荒魂の鎮魂(たましずめ)だった。
 この世には、生と死、恵みと害い、禍と福が交互にあらわれる。
 そこで、カミ、ミコト、ヒトが、お互いにささえあって生きる。
 それが、絶対神がいない神道の世界である。
 神道が仏教をうけいれたのは、カミが、ホトケに救いをもとめたからである。
 神道の最高神官である天皇が、つきつぎ、仏教に帰依した。
 天皇や貴族は、仏閣や仏像、仏画や経典、仏具にふれて、国家鎮護の霊験が大きいと見込んで、大仏までつくった。
 神道は、国の外からやってきた仏陀まで、八百万の神々のうちの一柱にしてしまったのである。  
 すべてが太陽の下にあるという世界観では、天照大神にかなうものはない。
 これは、歴史が培った日本人の伝統的精神で、日本人の宗教心の原点が太陽=自然崇拝にあったのはいうまでもない。
 これは現実主義で、自然崇拝の自然は、まぎれもない現実である。
 日本人は、宗教への関心が薄いといわれる。
 宗教団体に帰属せず、唯一神への帰依、絶対神への信仰がないというのである。
 だが、それだけで、日本人を無神論者ときめつけることはできない。
 日本人の心は、西洋人の心ががキリスト教的である以上に、神道的である。
 ことばから所作、習慣や習俗、精神構造にいたるまで、神道の影響をうけていない日本人がいないのは、神道が、縄文・弥生の大昔から、根っこで、日本精神をささえてきたからである。
 正直や素直、親切や善意などの日本人の民族的美点も、遺伝子のなかにひそむ「神道的なるもの」のはたらきといえるだろう。

 神道と仏教・キリスト教のちがいは、生と死である。
 神道が生の宗教≠ナ、仏教・キリスト教が死の宗教≠ナある。
 ユダヤ教も、神道と同様、死後の世界がないので、生の宗教といえる。
 ユダヤ教の聖書ともいわれるタルムードは、生きる知恵集で、きわめつきの現実主義である。
 神道は、縄文弥生の大昔、主客未分離・神人合一の境地からうまれた。
 一種の神秘主義だが、これは、自然に奇異をみる態度で、現代人にとっても自然は不思議なのである。
 自然が現実主義だったのはいうまでもない。
 ところが、仏教やキリスト教は、死後という空想の世界を説く。
 これは、オカルティズムで、昔の人がこれを信じたのは、信心深かったからである。
 人々が、死について考えるのは、一神教がやってきたあとのことである。
 仏教やキリスト教は、生や現実を否定して、死後にこそ、安らぎとしあわせがあると主張した。
 これは、空想的観念論で、神道の現実主義と相容れない。
 観念論は死をもてあそぶが、現実主義は、あくまで、生を相手にしようとする。
 仏教やキリスト教は死をつかみだし、これをつきつけて、信仰を迫った。
 神は、信仰と死の恐怖を取り引きして、牧歌的だった多神教の世界を暗黒の一神教世界へぬりかえてしまった。
 そして、人々は、死の虜となって、魂の救済や成仏、天国往生をもとめた。
 一神教の根本にあるのが、意識やことばで、キリスト教のバイブルやイスラム教のコーラン、仏教の経典、儒教の五経は、いずれも、観念論である。
 神道に経典がなく、言挙げしないのは、観念論というブラックホールにはまりこんでいなかったからだった。
 日本に、善悪や正邪、仁義礼智などの儒教的な教えがなかったのも、説教を垂れる人格神がいなかったからで、いたら、理屈やこじつけ、ウソがまかりとおって、神道の清澄と元気、正直はなかったろう。
 一神教の信仰をもたない代わりに、日本人の生活には、神道や仏教の教えや価値観が溶けこんでいる。
「無我」や「縁起」は仏教由来で、俳句の季語は、自然崇拝の感性である。
 日本人の精神の帰属先は、観念としての神ではなく、血縁や地縁、共同体や国家などの具体的な実体である。
 日本は、八百万の神々という多様性をもって、外来の神(仏教の仏)をうけいれ、神道と仏教という異質な二つの神を共存させてきた。
 聖徳太子は、仏教や儒教を公的機関から遠ざけて、神道を政(祭政一致)にあてた。
 人間の心や共同体、国家が、観念にのみこまれるのをきらったのである。
 わが国が、建国以来万世一系の皇統をまもりつづけ、神話と実史がむすんだ世界でも稀有な伝統国家を維持できたのは、多神論的な現実主義を立てたからで、一神教的な観念論を立てていたら、内部崩壊をおこして、とっくに滅びていたろう。
 神道は、原始宗教どころか、覚めた精神だったのである。
posted by office YM at 18:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする