2019年05月09日

神道とはなにかC

 神道とはなにかC
 ●集団主義の神道と個人主義の一神教
 現代人は、じぶんが個人であることをあたりまえと思っている。
 だが、個人があらわれたのは、たかだか数千年前のことである。
 それまで、人々は、主客未分離の境地で、血族や部族、共同体中心の集団的な生を営んでいた。
 それが神道の淵源で、多神教の下では、個人という考え方はうまれない。
 400万年前に猿人から分化して以来、人類は、集団生活者だった。
 集団は、個が集まって、できあがったのではない。
 血族や部族、共同体などの集団が先にあって、ヒトは、その一部分だった。
 集団から個を一つとりだしたところで、単独の一人にはならない。
 切り分けられた集団の一部は、たとえ一人でも、集団なのである。
 単独では、子孫を残せない以上、ヒトは、人間ではなく、人類として集団を生きるほかなかった。
 信頼や善意、情や利他心などは、集団の心である。
 ヒトは、集団の一部であるとき、心ゆたかに生きることができるのである。
 一方、西洋は、個人主義で、その根本にあるのがキリスト教だった。
 同じキリスト教でも、カトリックとプロテスタントでは、神との接触方法が異なる。
 カトリックでは、信者は、神父を介して神と接触する。
 ところが、プロテスタントでは、個人が神とむきあう。
 個人が、直接、神と接触して、信仰を契約するのである。
 プロテスタンティズムによって、コミュニティや集団が解体されて、個人が台頭してきた。
 そこからうまれてきたのが「社会契約論」である。
 個人と神が契約するプロテスタンティズムを「個人と社会との契約」に移しかえて「社会契約論」がうまれた。
 ホッブスやルソー、ロックの思想的ルーツはキリスト教にあったのである。
 西洋における個人は、神の下に平等であって、精神の帰属先も、神である。
 キリスト教は、人々の帰属意識を共同体から切り離して、神にむかわせた。
 キリスト教的伝統の下でうまれた個人主義は、国家と対立する概念だったのである。
 そこから、抗争や革命、戦争がうまれた。
 結局、個人主義は、宗教という迷妄以外のなにものでもなかったのである。
 
 ●一神教がうんだ一元論
 キリスト教も西洋合理主義も、科学も民主主義も、一元論である。
 正しいものが一つしかない一元論の世界では、内ゲバがはじまる。
 キリスト教とイスラム教、カトリックとプロテスタントの宗教戦争が凄惨なものになったのは、唯一神ヤハウェやキリストをめぐる一元論の戦争だったからである。
 キリスト教もイスラム教も、仏教や儒教も、人間の頭によって考えだされた創唱宗教で、ことば(ロゴス)は、神からあたえられる。
 一神教は、意識と観念、ことばの宗教だったのである。
 一方、神道は、自然宗教である。
 自然界には、精神もことばも、観念も感情もない。
 神道は、自然をはじめ、無心にすべてをうけいれて、心安らかに生を営もうという宗教である。
 すべてうけいれるのは、多神教=多元論だからである。
 一神教=一元論では、排除の思想がはたらく。
 日本では、神道が仏教をうけいれたが、西洋では、宗教戦争がおきた。
 宗教戦争の本質は、「神の前に万人は平等」という個人(プロテスタント)と全体(カトリック=教会)の階級闘争でもあって、ドイツ30年戦争では、人々が殺しあって、人口が半分以下に減ってしまった。
 そのキリスト教がもちだしたのが愛だった。
 神道では、集団主義のなかに愛=情や利他心がふくまれている。
 だが、個人主義のキリスト教では、愛をもちださなければ、他者との良好な関係がつくれなかった。
 その愛の関係が、契約で、西洋は、いまでも、契約社会である。
 神と契約を交わす個人主義が、中世のルネサンスから近世の啓蒙思想や社会契約説をへて、近代のフランス革命やアメリカ革命(独立戦争)に至った。
 そして、個人主義が、人権と平等、民主主義とともに人類の普遍的な価値になった。
 個人主義が市民革命につながったのは、歴史や伝統、国体(文化形態としての国家)よりも、個人が大事とするプロテスタンティズムがはたらいたためである。
 個人主義と権利意識、ヒューマニズムの三位一体を掲げるのが、アメリカやイギリスなどの白人プロテスタント系だが、フランスやロシアなどの革命国家も、基本構造は、個人を全体に優先させるプロテスタンティズムである。
 近代は、その個人主義の上に成り立っている。
 だが、その個人主義にほころびが見えてきた。
 キリスト教にもとづく個人主義や人間主義、合理主義や科学主義が、馬脚をあらわしはじめたのである。
 集団的価値を否定する個人主義は、結局、孤独やエゴイズム、憎悪をうんだだけだった。
 自然破壊と人心の荒廃、犯罪や戦争、テロの恐怖もさることながら、人類は地球を何十回も破壊できる核兵器をもち、二度の大戦で、おびただしい人命を犠牲にした。
 一神教は、神と個人の契約なので、神に、加護や救済、利益を依願する。
 それが、個人主義やエゴイズムなのは、いうまでもない。
 そこから、万人の戦争がはじまるのは、人間は、エゴイストだからである。
 神道は、なにごとも願わない。
 惟神の道(かんながらのみち)にまかせて、安心する。
 神道の神々の予定調和は、すべてのひとの幸で、個人主義とは逆の考え方である。
 共感や共鳴、共通感覚によって、ひととひとがむすばれる。
 神道が理想とする世界観は、地域や共同体、国家とヒトの一体感である。
 キリスト教にもとづく個人主義を捨てなければ、人類は、犯罪や戦争などの暗黒性から永遠に自由になれない。
 今日的な問題でいえば、外国からの移民がふえてくると、自己の利益のみを追求する個人主義がひろく蔓延して、やがて、共同体の精神が崩壊する。
 そのとき、神道共同体としての日本は、大きな危機を迎えるだろう。
 次回は、日本人の心と神道について、あらためて、考えてみよう。
posted by office YM at 22:04| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする