2020年01月31日

伝統主義と民主主義D

四捨五入≠フ民主主義と弱者救済≠フ君民一体B
 ●民主主義は四捨五入≠フ論理
 伝統国家と革命国家のちがいは、歴史が否定されたか否か、である。
 日本は、伝統国家で、歴史が否定されることなく、国体として残っている。
 歴史にもとづく秩序の体系が権威で、人々は、権威に敬意をもって従う。
 権威は天皇で、権力は、天皇の親任のもとで、治世にあたる。
 西洋のデモクラシーにあたるのが日本の「君民一体」で、少数や弱者が尊重されるのは、民は天子(天皇)の赤子(せきし)だからで、君民一体は、政治制度であること以上に、歴史や伝統、文化やモラルの反映でもあった。
 一方、歴史を否定した秩序の体系が権力で、人々は、恐怖や力ずくで権力に従わせられる。
 この力ずくは、軍事力のことで、かつて、絶対王権や専制政治、共産主義やファシズムをささえた。
 現在は、軍事力が多数決にかわって、これが、民主主義と呼ばれている。
 日本人は、民主主義を、人類が最後にたどりついた最高の政体と思いこんでいる。
 だが、民主主義も、軍事力が投票に代わっただけの全体主義である。
 民主主義は、そもそも、革命の産物で、中国の国名が「中華人民共和国」で北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」である。
 民主では、国がもたない中国では、民主主義の代わりに人民として、人民の代表が人民政府(中国共産党)ということにしてある。
 民主主義が全体主義というのは力の支配(軍事力)≠ェ数の支配(多数決・少数派切捨て)≠ノ代わっただけだからである。
 力や数による国家統一は、歴史や伝統をふまえないヒトラーやスターリンのやり方で、かれらは、民主主義の信奉者だった。
 軍事力による支配も、民主主義による支配も、ただの政治手法で、フランス革命のギロチン政治、ロシア革命の粛清、文化大革命の大殺戮と、民主の名のもとで、すさまじい恐怖政治がおこなわれた。
 わたしが多数決に立つ民主主義を四捨五入≠フ論理と呼ぶのは、多数派を全体の意志として、少数派をバッサリと切り捨てるからである。
 民主主義が多数決という「数の論理」なら、君民一体は、調整や談合などの「文化の論理」で、君民一体には、善やモラル、分相応や相身互い、和の精神や惻隠の情などがふくまれる。
 しかも、少数派や弱者へやさしいまなざしがむけられている。
 奈良時代、病人や孤児の保護や治療、施薬などをおこなう施薬院や悲田院を建てられたのは、光明皇后(第45代聖武天皇后)で、天皇の弱者救済思想の一つのあらわれであったろう。

 主権や国民についても、数々の誤解や誤認がある。
 憲法前文では、主権にかんして、二通りの使われ方がされている。
 一つは「主権が国民に存することを宣言――」でもう一つは「自国の主権を維持――」である。
 これでは、主権が国民にあるのか、国家にあるのか、わからない。
 しかも、国民が、国民一人ひとりをさしているのか、国民総体をさしているのかが不明である。
 日本の書籍や論文で、国民が単数(一人)なのか複数(総体)なのか明らかにしたものは一つもない。
 理由は、当のルソーがあいまいにしているからである。
 ルソーは、希代の詭弁家にしてパクリ屋というのが世界的評価で、詐話師のマルクスと並んで評判がわるい。
 ところが、日本では、GHQの公職追放で、大学を追われた良心的日本人に代わってはいりこんだ左翼・共産主義の教授が、マルクス主義やルソー主義をふりまわして、日本人を洗脳した。
 欧米のインテリに保守が多いのにたいして、日本のインテリに左翼が多いのはそのせいである。
 ちなみに、ルソーの詭弁にユダヤの経典(タルムード)をかけあわせたのがマルクスの資本論である。
 ルソーがパクリ屋というのは、民主主義はソクラテスの古代ギリシャ、社会契約説はホッブズ、一般意志は「自然法」や「神の意志」からのパクリだったからで、しかも、すべて、真意をねじまげている。
 ソクラテスは、民主主義は衆愚政治で、多数派の独裁だと批判して、権力と民衆の怒りを買い、死刑判決をうけて自殺した。
 民主主義をたたえたことはいちどもなかった。
 ホッブズは、自然状態を悪としたが、ルソーはこれを善として、自然に帰れと叫んだ。
 一般意志は、神の意志を、政治の意志にすりかえたものだが、「人類の思想のなかでもっとも邪悪でおそろしいのは一般意志への服従」(バーリン)と痛烈な批判を浴びた。
 事実、フランス革命期、恐怖政治によって反対者を大量に処刑したジャコバン派のロベスピエールは「ルソーの血塗られた手」と呼ばれる。
 ルソーを手放しで礼賛するのは日本の新聞記者やインテリだけである。
 ヒトラーやスターリンら独裁者に利用されてきた「一般意志」が反映されているのがフランスの革命憲法(1791年)である。
 第3条で人民主権を謳い、第6条で「一般意志」が宣言されている。
 そして、それらがそっくりコピーされたのが日本国憲法である。
 GHQのニューディーラーが、わずか9日間で、日本の憲法をつくることができたのは、フランスの1791年憲法をコピーしただけだったからである。
 日本人は、ルソーがでっちあげた民主主義や国民主権、一般意志の騙しから目を覚まして、伝統国家の自覚を深くしなければならないのである。

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2020年01月24日

伝統主義と民主主義C

四捨五入≠フ民主主義と弱者救済≠フ君民一体A
 ●ヨーロッパは家系純血、日本は皇統混血
 日本とヨーロッパでは、血統にたいする考えかたが異なる。
 日本は嫡子(長男)相続で、ヨーロッパは外戚(女系)をふくむ家系相続である。
 正嫡(正妻の子)以外の家督相続がみとめられなかったキリスト教国家では、女系をみとめなければ、家系が断絶してしまうのである。
 ヨーロッパでは、国家ができる前に、家系や門閥、閨閥でつながった家があって、各国王室も、国家ではなく、家や血縁でつながっている。
 女系をみとめるヨーロッパの王室は、家単位(国をまたいで)王位継承順位をきめなければ、血統の正統性をまもれないのである。
 女系も血筋が重んじられる家系相続では、社会的地位や財産をまもるため、近い血統同士の婚姻がくり返される。
 その結果、子孫が虚弱化して、一族が滅びてしまった例に神聖ローマ帝国のハプスブルク家がある。
 一方、男子が皇位を継ぐ日本の皇統混血型では、母系の家系は問われない。
 皇后は、皇族や五摂家の出身でも、男児を産むのは側室ばかりで、近親婚による天皇は、古代を別にして、歴史上、一人もおられない。
 過去400年間で、側室の子ではなかった天皇は、109代明正天皇、124代昭和天皇、上皇(125代明仁)、今上(126代徳仁)天皇の4方だけである。
 皇位継承は、神武天皇という大樹から宮家という枝が出て、どの枝も皇統である。
 それが、万世一系で、日本が2000年以上、国体を維持することができたのは男系の皇統承継だったからである。
 天皇の権威は、皇統男系のもとで、直系と傍系、親等の遠近にかかわりなく世襲される。
 一方、女系相続をみとめるヨーロッパの王権は、直系にして親等の近い順に相続される。
 天皇が、歴史的地位なのにたいして、王権は血縁的地位なのである。
 一部の日本人は、万世一系を女性差別と批判するが、一般女性が天皇の母親になられる日本は、女性差別ではなく、男性差別で、権力者は、道鏡や足利義満らの例外を除いて、権威に近づくことができなかった。
 ●伝統を根絶やしにした革命の時代
 権威のささえをもたないヨーロッパ王室が、神を後ろ盾にして、みずからを神格化したのが「王権神授説」だった。
 そして、王権神授説をふりまわす絶対王政(絶対主義)が、徐々に無軌道になってゆき、それが、市民革命の伏線になってゆく。
17世紀のイギリス革命(清教徒革命・名誉革命)や18世紀末のアメリカ独立革命、フランス革命に産業革命がむすびついて、民主主義をベースとする近代市民社会ができあがる。
 そして、その一方、エジプトや中国、インドからエチオピア、ギリシャ、イランにいたるまで、紀元前にうまれた国は、日本を除いて、すべて、革命の洗礼をうけて消えてしまう。
 歴史の古い国を順に挙げてゆくと、エジプト(紀元前3100年)を筆頭に中国(紀元前2000年)、インド(紀元前1500年)エチオピア(紀元前980年)、ギリシャ(紀元前800年)イラン(紀元前550年)となる。
 エジプトは、古代エジプト以後、ローマ帝国やイスラム王国、オスマン帝国の支配下におかれた世界最古の国だが、1919年のエジプト革命で保護国のイギリスから独立して、現在のエジプトとなった。
 民主主義の発祥地で、ヨーロッパ文明のルーツというべきギリシャも、古代ギリシャから、ローマ帝国やビザンチン帝国、オスマン帝国の支配下にあったのち、1821年のギリシャ革命で、現在のギリシャへうまれかわった。
 易姓革命の国、中国では、万里の長城をこえて、しばしば、周縁国や異民族(遼・金・元・清)の支配をうけたのち、辛亥革命で清朝を滅ぼしたのが1911年で、中華人民共和国の成立が1949年である。
 インドの独立は、その2年前の1947年で、それまで、イギリスの植民地支配にあえいでいた。
 エチオピアは、1974年、皇帝を廃位して、社会主義へと転換した。
 かつてのペルシャと呼ばれたイランも、建国は、1979年のイラン革命によるものだった。
 ●民主主義と君民一体
 伝統国家と革命国家のちがいは、権威が否定されたか否か、である。
 人々を力ずくで、屈服させようとするのが権力である。
 一方、人々が、敬意をもって、従おうとするのが権威である。
 ヨーロッパの王政が権力で、日本の皇室が権威だったのは、みてきたとおりだが、その対比を端的にしめしているのが、民主主義と君民一体である。
 民主主義は、軍事力と並ぶ権力で、君民一体は、文化にもとづく権威である。
 ルソーが古代ギリシャの民主主義(衆愚政治)をもちだしたのは、たかだか250年前のことである。
 人類は、それまで、数千年にわたって、延々と、文化・文明の歴史を築き上げてきた。
 その歴史を断ち切ったのが革命で、そのスローガンとなったのが、ルソーの民主主義だった。
 そのルソーが君民一体を称えている。
「君民共治がこの世に存在するはずもないので、わたしは、やむをえず、民主主義をえらぶ」(『社会契約論』)
 ルソーは、日本の君民一体(共治)を知らなかったのである。
 日本は、先進国のなかで、唯一、革命を経験していない伝統国家である。
 その歴史を忘れて、無批判的に、民主主義にとびついたのが現在の日本である。
 次回は、憲法における民主主義と国民主権をみてゆこう。


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2020年01月17日

伝統主義と民主主義B

四捨五入≠フ民主主義と弱者救済≠フ君民一体
 ●日本の国造り、ヨーロッパの家門争い
 日本では、神話の段階で、すでに、国という概念ができあがっていた。
 イザナキとイザナミの「国産み」神話やニニギノミコトが天照大神の神勅をうけて高千穂峰へ天降った天孫降臨、そして、天津神が国津神から葦原中国をもらいうける国譲り神話などがそれである。
 日本は3世紀の古墳時代に統一国家(大和朝廷)の誕生させている。
 神話と天皇、民族と言語、習俗という伝統の上に国家がうまれたのである。
 そのころ、ヨーロッパはローマ帝国の退潮期で、封建制から絶対王政をへて主権国家がうまれるのは、それから千年も先の話である。
 民主主義を掲げる近代国家の誕生にいたっては、啓蒙時代や市民革命という嵐をかいくぐったわずか数百年前の話である。
 それまで、ヨーロッパにあったのは、家系や民族、土侯や領主など血と地の争いだけだった。
 ドイツを中心とする神聖ローマ帝国やイギリス王国群、フランク王国などの中世ヨーロッパの国王は、封建領主で、国土を政治的に支配していたわけではなく、国境もはっきりしていなかった。
 その端的なケースが、イギリスのプランタジネット家とフランスのヴァロワ家が王位を争った百年戦争(14〜15世紀)である。
 ジャンヌ‐ダルクによってフランスに劇的な勝利がもたらさなければ、この戦争で、フランスは消滅していたかもしれなかった。
 といっても、百年戦争は、英仏の国家間戦争ではなかった。
 フランスに領地をもっていたプランタジネット家がヴァロワ家を乗っ取りにかかったのである。
 百年戦争の後、イギリスの王位継承をめぐる内戦で、ランカスター家とヨーク家が30年間争い、ヴァロワ朝(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国)もまたイタリアを戦場に50年以上にわたってたたかった(15〜16世紀)。
 すべて、家門と血族、土侯、領主の争いで、国と国がたたかったいくさではなかった。
 何十年という長期間の戦争によって、やがて、封建領主が没落してゆく。
 封建時代が終わりを告げると、国家主権(君主権)と強力な軍事力をもった絶対王政が登場してくる。
 ●権威失墜と暗黒の中世
 16世紀は宗教改革の時代でもあって、国家の統合や国家間の争いに、同一民族の内戦(プロテスタントとカトリック)がくわわって、中世ヨーロッパにさらなる戦火がひろがってゆく。
 なかでも、悲惨だったのはドイツ三十年戦争で、この内戦によってドイツの人口は1600万から約3分の1の600万まで減少したといわれる。
 この時代、日本では、細川勝元と山名宗全がたたかって、京都を焼け野原にした応仁の乱がおきている。
 そして、その後、戦国時代へ、日本も暗黒の中世へつきすすんでゆく。
 応仁の乱のさなか、将軍足利義政は、義尚に将軍職を譲って東山の銀閣寺で豪奢風雅の趣味三昧にふける一方、朝廷は、御所で崩御された後土御門天皇の葬儀もおこなえず、遺体が40日間放置されるという貧困のなかにあった。
 この権威の失墜が戦国という乱の時代を招いたといってよい。
 ヨーロッパでも事情は同じだった。
 宗教改革は、ローマ・カトリック教会へのプロテスタントの反抗だった。
 したがって、ローマ教皇は、宗教戦争をおさえる権威たりえなかった。
 宗教戦争が、略奪や虐殺、領土拡張と無軌道になったのは、服すべき権威が存在しなかったからだった。
 時代は上るが、古墳時代、大和朝廷に服する豪族らが、競って前方後円墳をつくって、その数5000基(大型126基)に上ったが、この時代、内乱はほとんどおきていない。
 国家形成と秩序、和平は、権威の下ですすめられるのである。
 ●聖なる権威/俗なる権力
 日本の皇室は、宗教(神話)的権威で、ヨーロッパの王室は、世俗的権力である。
 聖なる権威にはみずから従い、俗なる権力にはムリやり従わされる。
 権威は、心象の唯心論、権力は、モノ・コトの唯物論である。
 唯物論と唯心論は、けっして交わらない。
 戦争も革命も、独裁も民主主義(多数決)も、権力行為で、力や数がものをいう。
 権力や冨、領地は、力ずくでこれを奪うことができる。
 だが、権威や伝統、文化や習俗など、心のなかの価値を力ずくで奪うことはできない。
 そこに、天皇が男系継承(万世一系)となった理由がある。
 父系の一本筋で皇祖にゆきつく万世一系では、女系(女性天皇の子)や入り婿、非皇籍の養子は、永遠に、皇祖につらなる皇統に入ることができない。
 皇統という価値は、力でも数でも、冒すことができない聖域なのである。
 したがって、日本の権力者(摂政や太政官、武家)は、天皇をたてて、その権威の下で、政治の実権を握るみちをえらんだ。
 これが権威と権力の二元論で、わが国は、その二元論の下で、国体と政体がささえあっている。
 天皇と万世一系、君民一体(共治)と権威と権力の二元論が、わが国の国体である。
 権威とは、世俗を超越した聖なるもので、聖なるものに合理性はない。
 キリスト教におけるマリアの処女懐妊、キリストの復活、海を割ってイスラエルの民をエジプト軍から救ったモーゼの奇跡(旧約聖書)など、聖なるものに合理性はないが、人間の社会は、合理と不合理、モノと心の両面からできている。
 山尾志桜里(立憲民主党)にように「論理必然ではない」として万世一系を否定するのは、海が割れるはずはないとモーゼ神話に食ってかかるようなものなのである。
 次回も、日本の皇室とヨーロッパの王室を対比しながら、伝統主義と民主主義の比較論をすすめていこう。
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2020年01月06日

伝統主義と民主主義A

 ●天皇は権威、ヨーロッパ王政は権力
 日本は、先進国のなかで、唯一、革命を経験していない伝統国家である。
 しかも、現存する国家(196か国)のなかでは、建国の歴史が2680年ともっとも古い。
 国史(古事記や日本書紀)にもとづく国家の起源は紀元前660年である。
 初代統治者は神武天皇で、神武の男系血統(万世一系)をうけつがれる今上天皇、徳仁(なるひと)陛下は、神武天皇の126代末裔にあたる。
 比較して、エリザベス女王が42代で、イギリス王室950年は、第2位のデンマーク王室1000年に次いで第3位である。
 ところが、日本人は、世界一の伝統国家であることの自覚や誇りをもっていない。
 そして、戦後、アメリカからはいってきた民主主義を人類最大の英知であるかのようにいう。
「君民共治がこの世に存在するはずはないので、やむをえず、民主主義をえらぶ」(『社会契約論』)といったのは、ジャン・J・ルソーだった。
 アメリカの建国は、わずか244年前の1776年だが、この建国の陰には、先住民(インディアン)1000万人のジェノサイド(民族殺戮)と500万人アフリカ人奴隷があったことを忘れるべきではないだろう。
 天皇と建国2680年の歴史、君民一体(共治)がわが国の国体である。
 国体は、権力ではなく、権威で、伝統国家は、権威の体系である。
 したがって、ヨーロッパやアメリカなどの革命国家と同列に語ることはできない。
 ちなみに、ヨーロッパの王室が女系相続をみとめるのは、世俗的権力だからである。
 権力からできあがっているヨーロッパでは、権威は「王権神授説」によってあとからつけたしたものでしかなかった。
 上部構造をもたない権力が、神を後ろ盾にして、みずからを絶対化したのである。
 日本の皇室が、万世一系なのは、宗教(神話)的権威だからである。
 権威をささえるのは、皇祖に連なる皇統(男系)でなければならない。
 一方、権威を教皇や神にあずけたヨーロッパで、権力を握ったのは、家系や門閥、閨閥などの血族(女系)で、国家ができる前に、血族がつながった家があった。
 ヨーロッパの王室は、国家ではなく、家や血縁でつながっているのである。

 ヨーロッパの国々のルーツがローマ帝国なのはいうまでもない。
 共和政ローマがカルタゴを滅ぼして、地中海の覇権を握ったのが、紀元前2世紀前後だった。
 帝政に移って、繁栄したが、ゲルマン人などの侵入があって、395年には東西に分裂した。
 西ローマ滅亡後、ギリシャ化がすすんでビザンツ帝国と呼ばれることになる東ローマ帝国は、イスラム帝国によって領土の大半を失うも、オスマン帝国に滅ぼされる1453年まで千年余、存続する。
 西ローマが滅亡した476年の段階で、まだ、ヨーロッパに国家はうまれていない。
 そのころ、日本は古墳時代の中期で、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とともに世界の三大墳墓の一つに数えられる仁徳天皇陵がつくられている。
 ヨーロッパで国家が生まれるのは、5世紀後半にゲルマン系のフランク人によって建てられたフランク王国が、カール大帝の時代(8〜9世紀)にイギリス諸島とイベリア半島を除く西ヨーロッパのほぼ全域を掌握したのちのことである。
 カール大帝の死後、ヴェルダン条約(843年)で、フランク王国は三つに分割されて、これが、イタリア・ドイツ・フランスの基礎となった。
 イギリスは、中世の初期にイギリス諸島に侵入したアングロ・サクソン人がつくった王国群(七王国)が土台である。
 10世紀には統合がすすみ、1066年のノルマン朝以後、テューダー朝、ハノーヴァー朝、ウィンザー朝(エリザベス女王)とイギリス王室の基盤が固まった。
 8世紀から15世紀まで、イスラム(ウマイヤ朝)の支配下にあったイベリア半島をイスラムから奪回したのがレコンキスタ(国土回復運動)である。
 その過程でうまれたのがポルトガルとスペインだった。
 これで、15世紀には、ヨーロッパの国々は、ほぼ出揃ったことになる。
 そのなかで、特異な存在だったのが、962年、ドイツ王のオットー1世がローマ教皇から皇帝の冠を授けられて以来、神聖ローマ帝国を名乗ったドイツである。
 神聖ローマ帝国には、ドイツのほか、オランダやベルギー、オーストリアやチェコ、スイス、フランス西部、さらにはイタリア北部までふくまれる。
 そして、700年にわたって、神聖ローマ帝国の帝位を独占したのがハプスブルク家だった。
 イギリスのステュアート家、フランスのブルボン家、イタリアのメディチ家をよせつけない権勢で、イギリスも、ステュアート朝の断絶を受けて、ハプスブルク帝国(神聖ローマ帝国)の系列にあったハノーヴァー家から、ドイツ人で英語を話せないジョージ1世を国王に迎え入れて、ハノーヴァー朝を成立させている。
 ヨーロッパでは、国家の前に家系や門閥、閨閥があって、その系列にそって国家および国家権力がつくりあげられた。
 国家主権のソブリンティは、君主権という意味で、国民主権なら、国民君主権というおかしなことになってしまう。
 君主権を神で補強したのが王権神授説だった。
 それこそが神聖ローマ帝国で、その帝位を独占したのが、ハプスブルク家という閨閥一族だった。
 いうまでもないが、家系や門閥、閨閥は、男系に限定されない。
 政略結婚をとおして王権をとりこみ、その王権を奪うには、女系でなければならないのである。
 娘を天皇に嫁がせ、閨閥を形成して、摂政の権勢をふるった蘇我氏や藤原氏と、政略結婚をとおして王政権力を握ったハプスブルク家には多くの共通点がある。
 相違点は、ハプスブルク家が王権を奪ったのにたいして、蘇我氏や藤原氏が天皇の地位に手をださなかったことである。
 ヨーロッパの王制は権力で、日本の皇室が権威だったからである。
 権力は、戦争も革命も、独裁も民主主義(多数決)も、力や数の論理でしかない。
 したがって、力尽くで奪うことができる。
 だが、伝統や文化、習俗や歴史的な価値を奪うことはできない。
 そこに、天皇が男系継承(万世一系)となった理由がある。
 女系継承では、歴史と伝統にもとづく価値観が転覆してしまいかねないのである。
 父系の一本筋で皇祖にゆきつく男系継承では、女系(女性天皇の子)や入り婿、非皇籍の養子は、永遠に、皇統に入ることができない。
 ちなみに、皇位簒奪をはかったのは、奈良時代の弓削道鏡だけである。
 したがって、日本の権力者(摂政や太政官、武家)は、天皇を立てて、その権威の下で、政治の実権を握るみちをえらんだ。
 一方、権威が不在だったヨーロッパでは、絶対王政(絶対主義)の嵐が吹き荒れて、それが、市民革命の伏線になってゆく。
 次回以降、日・欧・米の比較論を交えて、伝統と民主主義について、さらに論をすすめよう。

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