2020年01月17日

伝統主義と民主主義B

四捨五入≠フ民主主義と弱者救済≠フ君民一体
 ●日本の国造り、ヨーロッパの家門争い
 日本では、神話の段階で、すでに、国という概念ができあがっていた。
 イザナキとイザナミの「国産み」神話やニニギノミコトが天照大神の神勅をうけて高千穂峰へ天降った天孫降臨、そして、天津神が国津神から葦原中国をもらいうける国譲り神話などがそれである。
 日本は3世紀の古墳時代に統一国家(大和朝廷)の誕生させている。
 神話と天皇、民族と言語、習俗という伝統の上に国家がうまれたのである。
 そのころ、ヨーロッパはローマ帝国の退潮期で、封建制から絶対王政をへて主権国家がうまれるのは、それから千年も先の話である。
 民主主義を掲げる近代国家の誕生にいたっては、啓蒙時代や市民革命という嵐をかいくぐったわずか数百年前の話である。
 それまで、ヨーロッパにあったのは、家系や民族、土侯や領主など血と地の争いだけだった。
 ドイツを中心とする神聖ローマ帝国やイギリス王国群、フランク王国などの中世ヨーロッパの国王は、封建領主で、国土を政治的に支配していたわけではなく、国境もはっきりしていなかった。
 その端的なケースが、イギリスのプランタジネット家とフランスのヴァロワ家が王位を争った百年戦争(14〜15世紀)である。
 ジャンヌ‐ダルクによってフランスに劇的な勝利がもたらさなければ、この戦争で、フランスは消滅していたかもしれなかった。
 といっても、百年戦争は、英仏の国家間戦争ではなかった。
 フランスに領地をもっていたプランタジネット家がヴァロワ家を乗っ取りにかかったのである。
 百年戦争の後、イギリスの王位継承をめぐる内戦で、ランカスター家とヨーク家が30年間争い、ヴァロワ朝(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国)もまたイタリアを戦場に50年以上にわたってたたかった(15〜16世紀)。
 すべて、家門と血族、土侯、領主の争いで、国と国がたたかったいくさではなかった。
 何十年という長期間の戦争によって、やがて、封建領主が没落してゆく。
 封建時代が終わりを告げると、国家主権(君主権)と強力な軍事力をもった絶対王政が登場してくる。
 ●権威失墜と暗黒の中世
 16世紀は宗教改革の時代でもあって、国家の統合や国家間の争いに、同一民族の内戦(プロテスタントとカトリック)がくわわって、中世ヨーロッパにさらなる戦火がひろがってゆく。
 なかでも、悲惨だったのはドイツ三十年戦争で、この内戦によってドイツの人口は1600万から約3分の1の600万まで減少したといわれる。
 この時代、日本では、細川勝元と山名宗全がたたかって、京都を焼け野原にした応仁の乱がおきている。
 そして、その後、戦国時代へ、日本も暗黒の中世へつきすすんでゆく。
 応仁の乱のさなか、将軍足利義政は、義尚に将軍職を譲って東山の銀閣寺で豪奢風雅の趣味三昧にふける一方、朝廷は、御所で崩御された後土御門天皇の葬儀もおこなえず、遺体が40日間放置されるという貧困のなかにあった。
 この権威の失墜が戦国という乱の時代を招いたといってよい。
 ヨーロッパでも事情は同じだった。
 宗教改革は、ローマ・カトリック教会へのプロテスタントの反抗だった。
 したがって、ローマ教皇は、宗教戦争をおさえる権威たりえなかった。
 宗教戦争が、略奪や虐殺、領土拡張と無軌道になったのは、服すべき権威が存在しなかったからだった。
 時代は上るが、古墳時代、大和朝廷に服する豪族らが、競って前方後円墳をつくって、その数5000基(大型126基)に上ったが、この時代、内乱はほとんどおきていない。
 国家形成と秩序、和平は、権威の下ですすめられるのである。
 ●聖なる権威/俗なる権力
 日本の皇室は、宗教(神話)的権威で、ヨーロッパの王室は、世俗的権力である。
 聖なる権威にはみずから従い、俗なる権力にはムリやり従わされる。
 権威は、心象の唯心論、権力は、モノ・コトの唯物論である。
 唯物論と唯心論は、けっして交わらない。
 戦争も革命も、独裁も民主主義(多数決)も、権力行為で、力や数がものをいう。
 権力や冨、領地は、力ずくでこれを奪うことができる。
 だが、権威や伝統、文化や習俗など、心のなかの価値を力ずくで奪うことはできない。
 そこに、天皇が男系継承(万世一系)となった理由がある。
 父系の一本筋で皇祖にゆきつく万世一系では、女系(女性天皇の子)や入り婿、非皇籍の養子は、永遠に、皇祖につらなる皇統に入ることができない。
 皇統という価値は、力でも数でも、冒すことができない聖域なのである。
 したがって、日本の権力者(摂政や太政官、武家)は、天皇をたてて、その権威の下で、政治の実権を握るみちをえらんだ。
 これが権威と権力の二元論で、わが国は、その二元論の下で、国体と政体がささえあっている。
 天皇と万世一系、君民一体(共治)と権威と権力の二元論が、わが国の国体である。
 権威とは、世俗を超越した聖なるもので、聖なるものに合理性はない。
 キリスト教におけるマリアの処女懐妊、キリストの復活、海を割ってイスラエルの民をエジプト軍から救ったモーゼの奇跡(旧約聖書)など、聖なるものに合理性はないが、人間の社会は、合理と不合理、モノと心の両面からできている。
 山尾志桜里(立憲民主党)にように「論理必然ではない」として万世一系を否定するのは、海が割れるはずはないとモーゼ神話に食ってかかるようなものなのである。
 次回も、日本の皇室とヨーロッパの王室を対比しながら、伝統主義と民主主義の比較論をすすめていこう。
posted by office YM at 09:04| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月06日

伝統主義と民主主義A

 ●天皇は権威、ヨーロッパ王政は権力
 日本は、先進国のなかで、唯一、革命を経験していない伝統国家である。
 しかも、現存する国家(196か国)のなかでは、建国の歴史が2680年ともっとも古い。
 国史(古事記や日本書紀)にもとづく国家の起源は紀元前660年である。
 初代統治者は神武天皇で、神武の男系血統(万世一系)をうけつがれる今上天皇、徳仁(なるひと)陛下は、神武天皇の126代末裔にあたる。
 比較して、エリザベス女王が42代で、イギリス王室950年は、第2位のデンマーク王室1000年に次いで第3位である。
 ところが、日本人は、世界一の伝統国家であることの自覚や誇りをもっていない。
 そして、戦後、アメリカからはいってきた民主主義を人類最大の英知であるかのようにいう。
「君民共治がこの世に存在するはずはないので、やむをえず、民主主義をえらぶ」(『社会契約論』)といったのは、ジャン・J・ルソーだった。
 アメリカの建国は、わずか244年前の1776年だが、この建国の陰には、先住民(インディアン)1000万人のジェノサイド(民族殺戮)と500万人アフリカ人奴隷があったことを忘れるべきではないだろう。
 天皇と建国2680年の歴史、君民一体(共治)がわが国の国体である。
 国体は、権力ではなく、権威で、伝統国家は、権威の体系である。
 したがって、ヨーロッパやアメリカなどの革命国家と同列に語ることはできない。
 ちなみに、ヨーロッパの王室が女系相続をみとめるのは、世俗的権力だからである。
 権力からできあがっているヨーロッパでは、権威は「王権神授説」によってあとからつけたしたものでしかなかった。
 上部構造をもたない権力が、神を後ろ盾にして、みずからを絶対化したのである。
 日本の皇室が、万世一系なのは、宗教(神話)的権威だからである。
 権威をささえるのは、皇祖に連なる皇統(男系)でなければならない。
 一方、権威を教皇や神にあずけたヨーロッパで、権力を握ったのは、家系や門閥、閨閥などの血族(女系)で、国家ができる前に、血族がつながった家があった。
 ヨーロッパの王室は、国家ではなく、家や血縁でつながっているのである。

 ヨーロッパの国々のルーツがローマ帝国なのはいうまでもない。
 共和政ローマがカルタゴを滅ぼして、地中海の覇権を握ったのが、紀元前2世紀前後だった。
 帝政に移って、繁栄したが、ゲルマン人などの侵入があって、395年には東西に分裂した。
 西ローマ滅亡後、ギリシャ化がすすんでビザンツ帝国と呼ばれることになる東ローマ帝国は、イスラム帝国によって領土の大半を失うも、オスマン帝国に滅ぼされる1453年まで千年余、存続する。
 西ローマが滅亡した476年の段階で、まだ、ヨーロッパに国家はうまれていない。
 そのころ、日本は古墳時代の中期で、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とともに世界の三大墳墓の一つに数えられる仁徳天皇陵がつくられている。
 ヨーロッパで国家が生まれるのは、5世紀後半にゲルマン系のフランク人によって建てられたフランク王国が、カール大帝の時代(8〜9世紀)にイギリス諸島とイベリア半島を除く西ヨーロッパのほぼ全域を掌握したのちのことである。
 カール大帝の死後、ヴェルダン条約(843年)で、フランク王国は三つに分割されて、これが、イタリア・ドイツ・フランスの基礎となった。
 イギリスは、中世の初期にイギリス諸島に侵入したアングロ・サクソン人がつくった王国群(七王国)が土台である。
 10世紀には統合がすすみ、1066年のノルマン朝以後、テューダー朝、ハノーヴァー朝、ウィンザー朝(エリザベス女王)とイギリス王室の基盤が固まった。
 8世紀から15世紀まで、イスラム(ウマイヤ朝)の支配下にあったイベリア半島をイスラムから奪回したのがレコンキスタ(国土回復運動)である。
 その過程でうまれたのがポルトガルとスペインだった。
 これで、15世紀には、ヨーロッパの国々は、ほぼ出揃ったことになる。
 そのなかで、特異な存在だったのが、962年、ドイツ王のオットー1世がローマ教皇から皇帝の冠を授けられて以来、神聖ローマ帝国を名乗ったドイツである。
 神聖ローマ帝国には、ドイツのほか、オランダやベルギー、オーストリアやチェコ、スイス、フランス西部、さらにはイタリア北部までふくまれる。
 そして、700年にわたって、神聖ローマ帝国の帝位を独占したのがハプスブルク家だった。
 イギリスのステュアート家、フランスのブルボン家、イタリアのメディチ家をよせつけない権勢で、イギリスも、ステュアート朝の断絶を受けて、ハプスブルク帝国(神聖ローマ帝国)の系列にあったハノーヴァー家から、ドイツ人で英語を話せないジョージ1世を国王に迎え入れて、ハノーヴァー朝を成立させている。
 ヨーロッパでは、国家の前に家系や門閥、閨閥があって、その系列にそって国家および国家権力がつくりあげられた。
 国家主権のソブリンティは、君主権という意味で、国民主権なら、国民君主権というおかしなことになってしまう。
 君主権を神で補強したのが王権神授説だった。
 それこそが神聖ローマ帝国で、その帝位を独占したのが、ハプスブルク家という閨閥一族だった。
 いうまでもないが、家系や門閥、閨閥は、男系に限定されない。
 政略結婚をとおして王権をとりこみ、その王権を奪うには、女系でなければならないのである。
 娘を天皇に嫁がせ、閨閥を形成して、摂政の権勢をふるった蘇我氏や藤原氏と、政略結婚をとおして王政権力を握ったハプスブルク家には多くの共通点がある。
 相違点は、ハプスブルク家が王権を奪ったのにたいして、蘇我氏や藤原氏が天皇の地位に手をださなかったことである。
 ヨーロッパの王制は権力で、日本の皇室が権威だったからである。
 権力は、戦争も革命も、独裁も民主主義(多数決)も、力や数の論理でしかない。
 したがって、力尽くで奪うことができる。
 だが、伝統や文化、習俗や歴史的な価値を奪うことはできない。
 そこに、天皇が男系継承(万世一系)となった理由がある。
 女系継承では、歴史と伝統にもとづく価値観が転覆してしまいかねないのである。
 父系の一本筋で皇祖にゆきつく男系継承では、女系(女性天皇の子)や入り婿、非皇籍の養子は、永遠に、皇統に入ることができない。
 ちなみに、皇位簒奪をはかったのは、奈良時代の弓削道鏡だけである。
 したがって、日本の権力者(摂政や太政官、武家)は、天皇を立てて、その権威の下で、政治の実権を握るみちをえらんだ。
 一方、権威が不在だったヨーロッパでは、絶対王政(絶対主義)の嵐が吹き荒れて、それが、市民革命の伏線になってゆく。
 次回以降、日・欧・米の比較論を交えて、伝統と民主主義について、さらに論をすすめよう。

posted by office YM at 04:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする