2020年02月25日

日本主義の復活と近代主義の終焉A

 ●近代主義は革命と戦争の産物
 近代は、革命と戦争の時代で、近代主義は、18世紀の啓蒙主義や市民革命からうまれた自由や平等、民主主義、権利意識などをさす。
 もともと、革命思想とあって、歴史や伝統、宗教や習俗などを否定して、合理主義や科学主義、唯物論をもちあげる。
 ちなみに、国連常任理事国の米・英・仏・ロ・中の五大国をはじめ、世界の先進国は、王政復古した英国をふくめて、すべて、革命国家である。
 旧体制が新体制にきりかわった近代のキーワードが民主主義で、英国革命やフランス革命、アメリカ独立戦争から共産主義革命、ヒトラーのナチズムまでが民主主義を掲げ、あるいは、民主主義を利用した。
 革命国家ではなかったのは、日本だけだが、だからといって、日本が民主的な思想や価値観を欠いた後進的な国だったということにはならない。
 それどころか、ヨーロッパで、絶対王権の圧制と奴隷制度、キリスト教教会の異端裁判や魔女狩りでおびただしい人々が犠牲になった同じ時代、日本では市民社会が成立して、衣食住にわたって、庶民文化が花開いた。
 日本には、古くから君民一体≠フ国体のほか、分相応や相身互い、もちつもたれつなどの民主主義的な社会通念があって、7世紀の初めには、第1条に和の心を謳った一七条憲法がつくられている。
 絶対王権とキリスト教教会の二重支配をうけて、塗炭の苦しみに喘いでいたヨーロッパの民にくらべて、君民一体の日本人がいかに文化的で、しあわせであったことか。
 君民一体というのは、天皇と民が一体化しているということである。
 稲作国家における天皇は、豊作祈念の祭祀王で、その名残が新嘗祭である。
 民の大多数が稲作に従事して、米が経済の中心だった原始農本主義の国家において、天皇=祭祀王がいかなる地位にあったか、多くの説明は必要がないであろう。
 そして、権力は、天皇から民をあずかって、施政権を行使した。
 権力が、民に暴虐な政治をおこなわなかったのは、民が天皇の大御宝だったからで、君民一体の政治を古事記は「しらす(しろしめす)」と記述している。
「葦原中国は、我が(天照大御神)御子の知らす国と言依し賜へりし国」
 日本で、市民革命がおきなかったのは、天皇中心の日本には、民を苦しめる絶対的な王権や皇帝権(ローマ・カトリック教会)がなかったからである。

 戦後、近代主義がもちこまれて、明文化されたのが、現行憲法である。
 アメリカがもちこんだ民主主義や国民主権にたいして、日本人は、違和感をもたなかった。
 明治の民権思想や大正デモクラシーに慣れていたというよりも、君民一体の天皇の知らす国では、民は、ヨーロッパのように、権力から虐げられることがなかったからである。
 ところが、GHQの若い将兵は、日本人は、天皇を個人崇拝する野蛮人だと思いこんで、民主主義といっしょにダーウインの進化論を教え込もうとした。
 なにしろ、日本人を文盲ときめつけて、漢字の代わりに、ローマ字を国語にしようとしたほどで、日本のことなどなにも知らなかった。
 とりわけ、憲法をつくったGHQ民政局(GS)はニューディーラーの巣窟で、わずか9日間で、日本の憲法をつくることができたのは、民主主義や国民主権を謳ったフランス革命のテキストをコピーしただけだったからである。
 日本国憲法は、GHQ民政局の独善で、日本の国体に根ざした国家基本法ではなく、近代主義をてんこもりにしたユートピア啓蒙書だったのである。
 最大の誤りは、戦前まで、憲法と同格の法規だった皇室典範(両者を合わせて典憲)を憲法の下位の民法や商法、刑法などと同等の一般法にしてしまったことである。
 これでは、天皇の地位や皇統継承、祭祀が、国会の多数決や裁判所の判断によって左右されることになってしまいかねない。
 秋篠宮さまは、昨年の誕生日会見で、大嘗祭は国費ではなく、天皇ご一家の私的活動費でまかなうべきとの見解を示した上で「聞く耳を持たなかった」と宮内庁長官をつよいことばで非難されて「大嘗祭の御禊」をご欠席された。
 秋篠宮さまのご発言の根拠は憲法で、憲法によると、宮中祭祀は、天皇家の私的行事で、憲法原理主義に立つなら、天皇=国体までが、吹けば飛ぶような憲法に依拠するという話になってしまう。
 これにたいするネット上の反発は、すさまじいもので、27億円の大嘗祭をケチるなら43億円のお住まいの邸宅新築も辞退すべきという意見もとびだす炎上ぶりだった。
 大嘗祭は、国家国民の歴史的祭祀で、天皇ご一家の私的活動ではないとする意見がほとんどで、宮中祭祀が、憲法20条や89条が禁止する宗教的活動にあたるとする憲法解釈は、国民にうけいれられていなかったのである。
 天皇にたいする尊敬心と、秋篠宮さまへの反発は、日本人の天皇観を如実にあらわしている。
 日本人の天皇への敬愛心は、神話にはじまる日本の歴史や伝統にねざすもので、憲法という近代主義にもとづいたものではない。
 憲法は、伝統を否定した近代主義の寄せ集めで、合理主義に立っている。
 多くの日本人が秋篠宮さまに反発した理由は、秋篠宮さまのご発言が憲法を根拠にされていたからである。
 日本人の尊皇心は、道徳や公徳心のような公的な情緒で、個人崇拝や私的な感情ではない。
 天皇の権威や祭祀の正統性、皇祖皇宗の大御心は、歴史上の神格で、天皇の地位は、皇祖皇宗が就いてこられた歴史上の玉座にある。
 次回は、天皇家ではなく、皇統へ視点を移して、天皇を考えてみよう。
posted by office YM at 11:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月17日

日本主義の復活と近代主義の終焉@

 ●明治維新と百年の動乱
 令和元年10月22日、皇居において、天皇陛下の御即位を日本の国内外に宣明する「即位礼正殿の儀」が執りおこなわれた。
 このとき、前夜からの激しい雨が、突如、あがって、即位礼がおこなわれた約9分間、雲間からのぞいた青空の下、皇居をつつみこむようにみごとな虹がかかった。
 天の浮橋(虹)を渡って下界に降りて来られたイザナギとイザナミの神話を思わせる出来事で、イギリスBBCなどの海外メディアも奇跡と報じた。
 だが、奇跡はこれだけではないだろう。
 江戸幕府の大政奉還から明治、大正、昭和、平成、令和にいたる143年をへて、第126代徳仁天皇陛下が、何事もなかったように、即位されたことが一つの奇跡のように思われる。
 敗戦による国体の危機や60年安保は、いったい、なんだったのか。
 西南の役や戊辰戦争、日清・日露と大東亜戦争、敗戦とアメリカ民主主義の移入と共産主義の蔓延、全学連や右翼が衝突した安保闘争など、日本を動乱へ巻きこんだ根本原因が、いま一つ、明らかになっていない。
 日本の近現代史は、日本主義と近代主義がぶつかりあって新しい時代精神をつくりだしてゆく、いわば、産みの苦しみの百年ではなかったろうか。
 そうであれば、その根本原因が明治維新にあったことは明らかである。
 薩長の倒幕は、軍事クーデターで、これが成功したのは、天皇を担いだからである。
 さらに、薩長政府は、1890年(明治23年)、大日本帝国憲法を公布して天皇を元首(「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ」明治憲法4条)にまつりあげた。
 これで、国体(権威)と政体(権力)の二元論から成っていたわが国2000年の国のかたちが壊れて、ヨーロッパ型の一元論的、王権神授説的な国家へ移り変わっていった。
 そして、まっしぐらに帝国主義と世界戦争の道へつきすすんでいった。
 日本の近代(欧化)化は、天皇の政治利用によって実現したのである。
 薩長が天皇を担いだのは、江戸300藩をまとめる力がなかったからである。
 天皇の政治利用という妙案が的を射て、諸藩の版籍奉還と岩倉具視の「王政復古の大号令」によって、徳川幕府は息の根を断たれる。
 明治維新の立役者は、天皇のお側(孝明天皇侍従/明治天皇の側近)として仕えながら、維新の三傑(薩摩の西郷隆盛と大久保利通、長州の木戸孝允)を操った岩倉具視で、明治政府の欧化主義も、岩倉使節団の影響だった。
 改憲論に、明治憲法に還るべしという声もあるが、明治憲法も、プロイセン(ドイツ)憲法が手本で、外国思想の移入という点において、民主主義や国民主権を盛りこんだGHQ憲法と変わるところがない。
 日本主義と近代主義の分岐点はそこにあるだろう。
 日本主義が、イギリスのコモン・ローにつうじる言挙げをしないあいまいな文化なのにたいして、18世紀の啓蒙主義に端を発する近代主義は、反伝統の進歩主義で、合理や科学、自由や平等、民主主義や唯物論を基調としている。
 封建社会を民主社会へおしすすめたのが近代主義で、その究極の形が革命である。
 明治維新の欧化主義と明治憲法、帝国主義、大正デモクラシー、昭和の軍国主義、戦後のGHQ憲法から共産主義運動までが、近代主義という一本の線でつながっている。
 そしてそれが、日本の現近代百年の混乱の底流となっているのである。

 戦前右翼の大物といえば、北一輝と大川周明、玄洋社の頭山満であろう。
 北一輝は、直接的関与がないにもかかわらず、二・二六事件をおこした若手将校らに影響をあたえたとして、銃殺刑に処された。
 憲兵隊に虐殺された大杉栄らと同様、官憲テロで、社会主義者とみなされていた北の「日本改造法案大綱」は、現在の日本国憲法と非常に似ている。
 大川周明は、キリスト教からマルクス、ダンテ、ヘーゲル、日本精神、インド哲学を渡り歩いた思想の天才だが、革命家で、5・15事件や陸軍革新派のクーデター計画(三月事件、十月事件)に連座して投獄されている。
 陸軍のクーデター計画をすすめた桜会がのちに合流したのが統制派である。
 合法的に軍部独裁政権を樹立しようとした統制派にたいして、武装蜂起して天皇親政をもとめたのが皇道派である。
 だが、2・26事件で天皇の怒りを買って、北をふくめた首謀者19人全員が銃殺刑に処される。
 皇道派の壊滅後、統制派の天下となって、大東亜戦争へつきすすんでいったのは、歴史書にあるとおりである。
 北一輝と大川周明が寄って立ったところが近代主義だった。
 一方、アジア主義の頭山満は、理屈をいわない実践家で、日本主義の支柱としたのが西郷隆盛だった。
 西郷隆盛が、右翼の源流とされるのは、頭山満が敬ったからである。
 西郷が大久保利通の新政府と決裂したのは、廃藩置県や徴兵令、秩禄処分や廃刀令などによって、武士階級が廃絶されたからで、明治政府は、徴兵令をすすめた山縣有朋やのちに総理大臣になる伊藤博文ら、足軽以下の中間という低い身分の者たちにささえられていた。
 不平士族の乱は、武士の魂を失った明治政府にたいする反乱で、維新十傑に数えられる江藤新平の「佐賀の乱」につづき、廃刀令や断髪令に反対した太田黒伴雄の「神風連の乱」、秋月藩士宮崎車之助らの「秋月の乱」、徴兵令に反対した前原一誠の「萩の乱」、そして、旧薩摩藩の士族が西郷隆盛を大将に担いだ「西南戦争」とたて続けに反乱が勃発するが、いずれも、激戦の末、鎮圧される。
 そして、大久保利通も、西南戦争の翌年、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷で、不平士族6人に斬殺された。
 西郷と大久保が斃れて、明治維新は、一応の決着を見る。
 だが、その後も、日本主義と近代主義は、激しくぶつかりあう。
 そして、日清・日露戦争、大正デモクラシー、昭和軍国主義、大東亜戦争の敗戦をへて、1945年の国体の危機に直面するのである。


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