2020年06月22日

官僚国家ニッポンの悲劇A

 ●官僚+官公労がつくった働かない公務員
 藤原弘達が『官僚の構造』のなかで、松本清張の『現代官僚論』を引用している。
 そこにこうある。上級公務員は「仕事については事大主義、消極、保守、非能率」「自己と周囲の関係としては、保身、出世、縄張り争い、派閥と階級性」「外部の下の者、つまり国民にたいしては、不親切、蔑視、支配観念」「自己より上の方には、無抵抗、従順、迎合、卑下、阿諛(へつらい)」といった性格をもっている。
 その他、官僚主義には、一般的に次のような批判がある。
「規則万能(規則にないからできない)主義」「責任回避や自己保身(事なかれ)主義」「秘密主義(情報の独占と隠蔽)「前例主義(前例にないからできない)」「画一的傾向(新しいことはやらない)」「権力主義・権威主義(権威や権力への接近/天皇の官僚からGHQの官僚への転進)」「文書主義(不必要な文書やデータを作成、保管することを業務と心得る)」「セクショナリズム(タテ割り行政や専門外管轄外の業務の回避)」などなど。
 もともと、官僚は、生産性がなく、ひたすら、税金を食うだけである。
 資本の論理や市場原理からも切り離されて、共同体意識ももっていない。
 ということは、モラルや常識、人間性を欠いているということで、かれらの社会的な地位をささえているのは、唯一、学歴だけである。
 どんなに下劣な人間でも、東大法卒で、国家公務員総合職(旧一種)試験に合格すれば天下のエリートで、順風満帆の人生が約束される。

 日本は、大昔から律令国家・太政大臣の国で、官僚は、天皇の手足のような存在であった。
 天皇という絶対権力のもとに権力行為を代行する官僚群がいて、両者の力がかみあって、はじめて、国家がなりたつのである。
 ちなみに、聖徳太子の17条憲法は、天皇に仕える官僚の心構えをのべたものである。
 官僚の究極は「宦官」で、天皇にお仕えするにあたって、去勢までする。
 官僚は、奉仕する相手がいて、存在価値が生じるが、仕える御主人がいない場合、壮大な根無し草になる。
 戦後、霞ヶ関は、天皇の官僚から、もののみごとに、GHQの官僚へと豹変した。
 GHQが驚いたのは、官僚の優秀さ以上に、昨日まで憎き敵だったGHQに献身的に尽くす官僚の変わり身のはやさだった。
 御主人が天皇であれ、軍部であれ、GHQであれ、官僚は、下僕であるかぎりにおいて、もちまえの能力をいかんなく発揮する。
 官僚が仕えるのは、天皇や軍部、GHQのような絶対権力で、寄り添う権力が大きいほど、えられる権限や権益も大きくなる。
 官僚に異変がおきたのは、サンフランシスコ講和条約がむすばれてGHQが日本から去ったあとである。
 官僚は、GHQという御主人様を失って、宙ぶらりんの状態になった。
 官僚が仕えるべき新しいご主人は、国民でも自民党政権でもなかった。
 エリート官僚に公僕精神などという殊勝な心構えなどあるはずもなかった。
 天皇が象徴となって、GHQが去った戦後日本で、官僚は、主人をもたない強大な権力機構として、霞ヶ関にそびえたった。
 そして、官僚は、みずからを主人として、官僚の、官僚による官僚のための政治を開始する。
 日本の戦後政治の主役は、永田町(政界)ではなく、霞ヶ関(官界)だったのである。

 戦後日本で、もう一つ、激変したのが労働運動、組合活動だった。
 1947年2月1日に実施される予定だったゼネラル・ストライキは、共産党と労働組合幹部による「民主人民政府」の樹立をめざしたもので、GHQのマッカーサー最高司令官の中止命令がでていなかったら、吉田内閣がふっとぶどころか、革命がおきていたかもしれなかった。
 日本共産党やマルクス学者らに指導されてきた日本の組合運動は、賃上げや労働者の権利拡大をこえて、共産主義革命をもとめるもので、当初、GHQがめざした日本の民主主義化とは方向が異なっていた。
 日本の組合運動は、ブルジョワ革命(民主主義化)を一足飛びした社会主義革命で、つねに、政権奪取を視野におさめている。
 英米の労働運動とはちがって、日本の組合活動は、後進国並みの階級闘争や文化大革命のおもむきがつよいのである。
 公僕意識を捨て、左傾化した権力組織が、自治労(全日本自治団体労働組合)と国公労連(日本国家公務員労働組合連合会)などで、赤旗を振って転落した官がおこした事件が消えた年金≠フ「年金記録」問題だった。
 資本主義において、勤労は、美徳であり、冨の源泉である。
 ところが、マルクス主義では、勤労や労働は、資本家に搾取されるものとあって、労働者は、立ち上がって、資本家を倒さなければならない。
 このアンモラル(不道徳)なマルクス主義が、5000万件の年金とともに社会保険庁を消滅させたが、赤化官僚は、懲りることなく、シロアリのように日本という国の大黒柱を侵食している。
 男女共同参画社会基本法や人権法案から、外国人参政権法案や外国人参政権法案、道州制や夫婦別姓、皇室の民主化まで、反日法案を陰ですすめているのは役人である。
 マスコミ(日本マスコミ文化情報労組会議)から官庁(自治労・国公労連)にいたるまで、日本および日本人は、組織的な左翼組合運動に脅かされつづけている。
 日本人は、日本が、マルクス主義という前世紀の亡霊に食い荒らされていることにもっと注意ぶかくあってよいだろう。

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2020年06月16日

官僚国家ニッポンの悲劇@

 ●日本を「IT後進国」にした官僚と労組
 新型コロナウイルスの影響で売上高が半減した中小企業に最大200万円を支給する「持続化給付金」の民間委託に不信の声があがっている。
 1つは、経済産業省が大手広告代理店の電通に丸投げした事業内容や構造が不透明なことと、給付金の支給が、例によって、遅滞していることである。
 2020年4月、経済産業省は、競争入札で一般社団法人サービスデザイン推進協議会へ「持続化給付金(769億円)」の委託をきめた。
 するとサービスデザイン推進協議会は、これを電通に再委託(749億円)した。
 そして、電通は、子会社5社に再々委託して、さらにそこから人材派遣会社パソナやITアウトソーシングの大手のトランスコスモス、大日本印刷などへ業務が外注された。
 サービスデザイン推進協議会ばかりか、電通の子会社らも、それぞれ、コミッションを抜いていたわけだが、国家の給付金事業に、多くのエージェントがくちばしをつっこんで利を漁る構造はいただけない。
 しかも、競争入札で指名をうけて、20億円を中抜きしたサービスデザイン推進協議会が、電通やパソナらがつくったペーパーカンパニーだったというのでは、この丸投げが、経産省ぐるみの悪だくみだったと白状したようなものである。
 もう1つは、業務の遅れで、全国民に一律10万円が支給される「特別定額給付金」と同様、事務処理に手間取って、振込みが遅々としてすすんでいないことである。
 アメリカでも、1人当たり最大1200ドル(約13万円)の給付金支給がきまったが、トランプ大統領が関連法に署名した半月後、対象者約8000万人の銀行口座へ現金が振り込まれた。
 ドイツでは、総額約7500億ユーロ(約90兆円)の経済対策を決定したのち、従業員の解雇や経営破綻を防ぐため、簡素化したオンライン申請方法を導入して、大半の対象者が、申請から2日後に助成金を受け取ったという。

 日本で、行政の事務処理が滞る最大の原因は、デジタル化の遅れにある。
 海外メディアは、厚生労働省と全国の自治体が、PCR検査のデータの一部をファックスでやりとりしている事実を、驚きをもって報じた。
 韓国の『中央日報』は日本を「IT(情報技術)後進国」と断じたが、その根拠の一つとされたのが、ITを知らない「IT政策担当相」の竹本直一(元建設省キャリア官僚/79)とパソコンを使ったことがないサイバーセキュリティー戦略本部担当相(五輪担当相と兼務)の桜田義孝(70)の登用だった。
 世界は「IT(情報技術)」や「AI(人工頭脳)」、「5G(第5世代移動通信システム)の時代で、欧米と中国の全面対決に韓国やアジア諸国が参戦する構図になっているが、日本は、世界から一周遅れとも二周遅れともいわれている。
 素材や部品、工作機械で、世界経済をリードする日本経済が、なぜ、ITやAI、5Gの分野で、ここまで、後退してしまったのであろうか。
 そのことと、日本が、世界の最たる官僚国家であることを切り離して考えることはできない。

 2007年、国会で、登録者が不明な年金記録が5000万件にもたっすることが明らかになって、大問題となった。
 年金記録漏れの原因は、手書き原簿からコンピュータに入力する際のミスが原因で、責任は、すべて、当事者たる社会保険庁にある。
 といっても、実際にパソコンを使って作業をおこなったのは、社会保険庁の職員ではなく、アルバイトの主婦や学生だった。
 社会保険庁の職員が、国民年金のオンライン化計画という重要な業務をアルバイトにまかせっきりで、十分な管理もおこなわなかったのは、コンピュータ導入にあたって、社会保険庁と自治労がとんでもない覚書を交わしていたからだった。
 その覚書には、労働強化にならない配慮とあって、具体的に「キーボードを45分操作したら15分休憩」「キーボードの入力は1日当たり平均5000字以内」と記載されている。
 5000字は、母音と子音からなる日本語では2500字で、30分ほどの作業で終わってしまう。
 社会保険庁の職員は、それ以上の作業は労働強化にあたると反発、職場に電動式の全身マッサージ器までおいて、残りの時間をサボっていたのである。

 パソコンを労働強化とする思想は、都道府県庁や市町村を仕切る自治労から国家公務員などが組織する国公労連にまで浸透していて、世界を動かしているITやAI分野が、日本の官僚や労働界にとって、民間や資本からのびてくる悪魔の手だったのである。
消えた年金≠アと年金記録問題の主犯は、民主党の支持母体だった自治労にあったわけだが、マスコミは、悪いのは自民党政権だと叩きに叩いて、自民党を政権からひきずりおろして、その自治労が支持する民主党政権を実現させることに成功した。
 世界がITやAIの研究開発に心血をつぎこんでいるさなか、日本の官僚と労組は、拳をふりあげて、ITやAIの排斥を叫び、自民党政権においても、ITやAIがなんのことやらわからない大臣が、IT担当相になるありさまである。
 中国や韓国、台湾などでは、ITやAIの国際的専門家が大勢、国家の担当部署につき、台湾で行政のデジタル化を担当するオードリー・タン(唐鳳)は国際的に名が知られたプログラマーである。
 台湾や韓国、東南アジアで、コロナ対策がうまくいったのは、ITやAIを駆使した行政システムが機能したからだった。
 ところが、日本では「マイナンバー」のオンライン化どころか、登録すら途中でとまっている。
 役人が働こうとしない日本では、左翼組合の追い風をうけて、壮大なる事務の停滞が生じてしまうのである。
 日本の大学や研究機関のITやAIが、世界に比べて、それほど劣っているわけではない。
 ところが、行政権を一手に握る役人は、けっして、民間の組織や団体に協力をもとめない。
 縦割り行政のなかで権限をふりまわしている役人は、ITやAIなどという世界のきびしい風に身をさらすのは真っ平なのである。

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2020年06月08日

国益は正義である――という大原則C

 ●「国際主義」と「民族主義」へ分裂した日本
 近代日本において、盲目的に国際化をすすめたのが、それまで、尊皇攘夷をキャッチフレーズにしてきた薩長の明治政府だった。
 文明開化とは、ヨーロッパ化のことで「西洋のものなら何でもよい」という風潮がはびこった当時、明治政府は、日本土着の文化習俗を「悪弊」「旧習」と切り捨てて、ヨーロッパの猿マネである鹿鳴館文化をつくりあげた。
 日本史のなかで、これほど極端にイデオロギーを豹変させた権力集団は例がない。
 脱亜入欧も、文明開化と同じような意味合いでもちいられるが、福沢諭吉の「脱亜論」とは別物である。
 諭吉の「脱亜論」は、前近代的な支那や朝鮮につきあっていると日本が立ち遅れてしまうという危機感からでてきたもので、入欧ということばはいちども使っていない。
 欧米の文明を吸収すべきだが、それは「一身独立して一国独立する」(『学問のすすめ』)のためのもので、大事なのは、文明開化や民権よりも国権だとする論を、諭吉は、みずからが発行する「時事新報」をとおして主張した。
 第二の「文明開化」が第二次大戦後のGHQ革命だった。
 このとき、アメリカ民主主義とソ連共産主義が同時に入ってきて、戦後日本の思想的混乱は、革命前夜さながらとなった。
 革命がおきなかったのは、天皇がおられたのと、GHQが逆コース(反共路線)≠とったからである。
 このとき、日本国内で、国際主義と民族主義の2つの系統が生じた。
 国際派と伝統派といってもよいが、この2派は、価値観が根本的に異なる。
 そして、この2つの系統が日本に深い亀裂を生じさせて現在に至っている。
 伝統派(民族主義)は、日本人本来の伝統的な価値観で、これはあらためてのべるまでもない。
 問題なのは、国際派で、かれらは、日本人としての魂も価値基準ももたない。
 福沢諭吉が、みずからすすめた文明開化や民権思想を、あえて、国権の下においたのは、もっとも優先されるべきは、歴史や文化、国家の利益だったからである。

 国際派は、国権の真反対にある概念で反日≠ニ呼んでもよい。
 国際派が最大の価値とするのは、マルクス主義から啓蒙主義、新自由主義にいたるまで、すべて、西洋から借りてきた価値基準で、要するに、西洋かぶれである。
 小泉純一郎が皇室典範を変えて、万世一系を否定しようとしたのは、新自由主義にかぶれた改革主義者だったからである。
 戦後の混乱のなかで、特筆されるべきは、憲法学の権威で東大法学部教授の宮沢俊義が唱えた「八月革命説」である。
 日本が戦争に負けて革命がおきたという論で、GHQがつくった日本国憲法を革命憲法と規定して、これを不磨の大典として、戦後の法学界を脳死状態に陥れた。
 日本の司法試験は、宮沢法学とあって、日本の弁護士会は左翼なのである。
 日本の大学はマルクス主義学者の牙城で、日本共産党はマルクス政党である。
 左翼・マルクス主義は、共産党政権志向なので、戦後、日本は、国体をおびやかされつづけてきたのである。
 国際派のもう一つの流れが啓蒙思想で、このなかには、アメリカ民主主義や人権思想、男女平等(フェミニズム)から表現の自由までがふくまれる。
 啓蒙思想が、日本の文化習俗と折り合うことができれば、問題はない。
 自由や平等、権利は、日本人にとって、物珍しいものではなかった。
 ところが、国際派の啓蒙主義は、そんな生易しい代物ではない。
 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」では、天皇の肖像を焼いて踏みつける映像や特攻隊を愚弄する画像、慰安婦像を表現の自由として扱っているが、表現の自由のメッカといわれるアメリカで、星条旗やキリストの肖像を焼いて、ただですむか。
 東京大学や芸大有志、現代美術画廊らが、文化庁の予算執行停止にたいして異義を唱えているが、予算申請の際、展示内容を偽った大村秀章愛知県知事と監督の津田大介には、詐欺などの刑事罰が適用されるべきである。
 国家侮辱罪やスパイ罪がない日本は、文化テロに国家が予算を騙しとられるほど風紀や規律がゆるんでいるのである。

 自国に絶対的な価値基準を打ち立てられない国際派が重視するのが、海外の評価である。
 今回のコロナ騒動で、その一端がハシなくもあらわれた。
「PCR検査」数が少ない日本のコロナ感染の公式発表は信用できないとする海外メディアなどの評価をもって、マスコミや文化人、タレントらが、日本のコロナ対策にあらんかぎりの嘲罵を浴びせかけたのだが、日本は、世界のなかで、もっともコロナ防衛に成功した国だった。
 日本に、日本独自の価値観や基準があるのは当然で、海外の評価や基準に左右されることはない。
 海外の評価や評判に一喜一憂するのは、じつは、危険な兆候である。
 自民党の甘利明衆院議員が、5月の連休前、ツイッターで、こう綴った。
「東日本大震災でも日本人は世界の尊敬を集めました。要請だけで人的接触をここまで減らせる日本って、やっぱり凄いですね。あと一息です。ゴールデンウィークをステイホームで『さすがニッポン!』って、もういちど世界に言わせませんか」
 愚かにも、世界の目をアテにして、日本人の公徳心や行動倫理を規制しようというのである。
 日本が、コロナ防衛に一応の成功を収めたのは、集団性が高い日本人の国民性や独自の宗教観によるもので、それが日本の内なる根源力である。
 ところが、甘利は「もういちど世界に『さすがニッポン!』と言わせませんか」と外へ目をむける。
 外国の評判を気にかける精神が危ういのは、民族の魂というべき価値基準をもたないからである。
 衆院当選12回で、筋金入りの保守政治家だったはずの甘利が、歴史上前例がない女系天皇をみとめる発言をして、保守層から批判を浴びている。
 女系天皇をみとめれば、その瞬間、王朝が変わって、国体が崩壊する。
 だが、外国人にとって、国体も万世一系も、特殊な文化で、かれらの普遍的な価値観は男女平等である。
 甘利が、女系天皇をみとめる発言をおこなった落とし穴がそこにある。
 伝統をまもる覚悟をもたない者は、国際主義にのまれて、国体や万世一系という国家や民族の価値などどうでもよくなってしまうのである。
 それが、国際主義が大手をふっている現代日本の最大の弱点であり、体制の危機なのである。

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2020年06月01日

国益は正義である――という大原則B

 ●伝統派と国際派に分断された日本
 新聞労連や民放労連、出版労連などをかかえる「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」は、2020年3月10日、市民の自由や集会・報道の自由を脅かすとして「新型コロナ対策特別措置法に反対する声明」をだしている。
 もっとも、これは、マスコミに公表されていない。
 万が一、この事実が報道されていたら、マスコミが、新型コロナウイルスとたたかう日本人の敵であることが明らかになって、マスコミと国民のあいだに大きな摩擦や軋轢がうまれたはずである。
 いうまでもなく、緊急事態宣言は、コロナ特措法にもとづいている。
「新型コロナ対策特別措置法」が成立していなかったら、日本は、西浦教授が懸念したように、パンディミックが発生して、日本中、死体の山ができていたかもしれなかった。
 WHO以下、欧米は、安倍内閣が、新型コロナウイルスの防衛に成功したとしぶしぶみとめたが、首をひねっているのが、内閣支持率の低さである。
 欧米では、コロナ禍によって、国家と国民のむすびつきがつよまって、政権支持率が軒並み大幅上昇している。
 日本で内閣支持率が低迷している理由は、表立って、政府の緊急事態宣言に反対できないマスコミ(MIC)が、PCR検査不足から医療崩壊、給付金や支援金、マスク給付にいたるまで、安倍内閣に批判や非難の集中攻撃をくわえたからである。
 ニュースキャスターやタレント、評論家が、「呆れはてた」「開いた口がふさがらない」と、連日、安倍首相に罵詈雑言を浴びせかけ、立川談四楼などは「ブン殴ってやりたい」とまで息巻いた。
 そして「敬意や感謝、きずなの力があれば、かならず、ウイルスに打ち勝つことができます」という首相の真摯なことばをせせらわらって「安倍のどこに危機管理能力があるのだ」と毒づいて、マスコミは、これを立川師匠の苦言としてもちあげた。
 このコロナ禍で、マスコミ関係者は、MICにシナリオどおり、安倍批判に走って、多くの日本人もその尻馬にのって、安倍首相や政府を罵った。
 そして、世界がコロナで甚大な被害をこうむったなか、最小の被害ですんだ功績にたいする評価や感謝どころか、安堵や無事をよろこぶ声すらなかった。

 こんどのコロナ禍で、日本人は、文明論的に、伝統派と国際派に分断されていることがはっきりした。
 自粛と我慢で、コロナ禍をのりきった大方の日本人は、伝統派である。
 かれらは、歴史や伝統、良識や和の心をたずさえた昔ながらの日本人である。
 これにたいして、国際派は、マルクス主義とアナキズム、啓蒙主義の3つにくくられる西洋化された人々で、日本人としての魂をもっていない。
 マスコミ人(MIC)やタレント、評論家や学者、弁護士らがそうで、かれらの価値観やアイデンティティ=心の故郷は、日本ではなく、西洋にある。
 伝統派と国際派は、社会契約説の3人の思想家ホッブズ、ロック、ルソーにそれぞれふりわけることができる。
 伝統派は、自然状態では「万人による万人の戦争」がおこるとしたホッブズの考え方に近い人々で、ホッブズは、必要悪としての国家や君主をみとめた。
 英国も日本も、ホッブズ型の伝統国家である。
 国際派の筆頭にあげられるのは、人間は、うまれながらにして自由で平等としたルソーである。
 だが、民主主義のルソーには、国家観がなく、万民の一般意志をひきうける万人のため人民政府は、フランス革命において、ロベスピエールの恐怖政治をつくりだしただけだった。
 2つ目はマルクス主義インターナショナル(コミンテルン)である。
 マルクス主義は、ルソー主義にユダヤ経典(タルムード)をくっつけただけの代物で、ソ連のコミンテルン日本支部から発展した日本共産党が、天皇制と資本主義の打破を二大テーゼとするのは、日本の歴史や国体が眼中にない国際主義だからである。
 3つ目のロックの社会契約説は、革命権(抵抗権)を容認する間接民主主義(選挙/多数決)で、ロック主義のアメリカ民主主義は、歴史的・伝統的価値をもたない。
 日本国憲法をつくったGHQのニューディーラーが、その典型で、かれらの多くが、伝統を旧弊としか考えられない共産主義者であった。
 国際派の正体が徐々にわかってきた。
 一つは、マルクス主義者で、日本共産党と大学の教職に残存している。
 2つめは、ルソー主義で、民主主義や表現の自由、人権などを叫ぶが、国家や全体性との整合性をもたないので、秩序や全体の利益を害い、他人へ多大な害をおよぼす。
 ルソー主義には、アナキズムやフランクフルト学派(批判理論)がくわわる。
 アナキズムは、革命を忘れた反体制運動で、すべての権威や権力を否定した革命前夜のなかに、人間性の解放をみる。
 フランクフルト学派は、人類を苦しめてきた政治体制を批判することだけが目的で、否定がゆくつく果てに、否定しえない理想郷があるとする。
 3つ目は「八月革命説」の宮沢俊義(東大法学部教授)で、宮沢はGHQがつくった憲法を徹底的に擁護して、左翼でなければ司法試験に合格しない仕組みまでつくって、議会内左翼革命の準備をすすめた。
 以上3つが、日本の国際派だが、かれらには、おそるべき欠陥がある。
 日本を敵視するばかりか、日本を貶めることを善と考えるのである。
 それが露骨にあらわれたのが、今回のコロナ騒動で、マスコミは、海外の情報を根拠に日本のPCR検査や医療体制を非難する一方、成功したわが国のコロナ対策について一言も報じなかった。
 西洋の基準に立って、自国を嘲るのが、国際派で、かれらが金科玉条にするのが、MICも掲げた「言論の自由」「表現の自由」と「男女平等」である。
 次回は、この自由が、いかに野蛮な自由であったかについてのべよう。
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