2020年06月08日

国益は正義である――という大原則C

 ●「国際主義」と「民族主義」へ分裂した日本
 近代日本において、盲目的に国際化をすすめたのが、それまで、尊皇攘夷をキャッチフレーズにしてきた薩長の明治政府だった。
 文明開化とは、ヨーロッパ化のことで「西洋のものなら何でもよい」という風潮がはびこった当時、明治政府は、日本土着の文化習俗を「悪弊」「旧習」と切り捨てて、ヨーロッパの猿マネである鹿鳴館文化をつくりあげた。
 日本史のなかで、これほど極端にイデオロギーを豹変させた権力集団は例がない。
 脱亜入欧も、文明開化と同じような意味合いでもちいられるが、福沢諭吉の「脱亜論」とは別物である。
 諭吉の「脱亜論」は、前近代的な支那や朝鮮につきあっていると日本が立ち遅れてしまうという危機感からでてきたもので、入欧ということばはいちども使っていない。
 欧米の文明を吸収すべきだが、それは「一身独立して一国独立する」(『学問のすすめ』)のためのもので、大事なのは、文明開化や民権よりも国権だとする論を、諭吉は、みずからが発行する「時事新報」をとおして主張した。
 第二の「文明開化」が第二次大戦後のGHQ革命だった。
 このとき、アメリカ民主主義とソ連共産主義が同時に入ってきて、戦後日本の思想的混乱は、革命前夜さながらとなった。
 革命がおきなかったのは、天皇がおられたのと、GHQが逆コース(反共路線)≠とったからである。
 このとき、日本国内で、国際主義と民族主義の2つの系統が生じた。
 国際派と伝統派といってもよいが、この2派は、価値観が根本的に異なる。
 そして、この2つの系統が日本に深い亀裂を生じさせて現在に至っている。
 伝統派(民族主義)は、日本人本来の伝統的な価値観で、これはあらためてのべるまでもない。
 問題なのは、国際派で、かれらは、日本人としての魂も価値基準ももたない。
 福沢諭吉が、みずからすすめた文明開化や民権思想を、あえて、国権の下においたのは、もっとも優先されるべきは、歴史や文化、国家の利益だったからである。

 国際派は、国権の真反対にある概念で反日≠ニ呼んでもよい。
 国際派が最大の価値とするのは、マルクス主義から啓蒙主義、新自由主義にいたるまで、すべて、西洋から借りてきた価値基準で、要するに、西洋かぶれである。
 小泉純一郎が皇室典範を変えて、万世一系を否定しようとしたのは、新自由主義にかぶれた改革主義者だったからである。
 戦後の混乱のなかで、特筆されるべきは、憲法学の権威で東大法学部教授の宮沢俊義が唱えた「八月革命説」である。
 日本が戦争に負けて革命がおきたという論で、GHQがつくった日本国憲法を革命憲法と規定して、これを不磨の大典として、戦後の法学界を脳死状態に陥れた。
 日本の司法試験は、宮沢法学とあって、日本の弁護士会は左翼なのである。
 日本の大学はマルクス主義学者の牙城で、日本共産党はマルクス政党である。
 左翼・マルクス主義は、共産党政権志向なので、戦後、日本は、国体をおびやかされつづけてきたのである。
 国際派のもう一つの流れが啓蒙思想で、このなかには、アメリカ民主主義や人権思想、男女平等(フェミニズム)から表現の自由までがふくまれる。
 啓蒙思想が、日本の文化習俗と折り合うことができれば、問題はない。
 自由や平等、権利は、日本人にとって、物珍しいものではなかった。
 ところが、国際派の啓蒙主義は、そんな生易しい代物ではない。
 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」では、天皇の肖像を焼いて踏みつける映像や特攻隊を愚弄する画像、慰安婦像を表現の自由として扱っているが、表現の自由のメッカといわれるアメリカで、星条旗やキリストの肖像を焼いて、ただですむか。
 東京大学や芸大有志、現代美術画廊らが、文化庁の予算執行停止にたいして異義を唱えているが、予算申請の際、展示内容を偽った大村秀章愛知県知事と監督の津田大介には、詐欺などの刑事罰が適用されるべきである。
 国家侮辱罪やスパイ罪がない日本は、文化テロに国家が予算を騙しとられるほど風紀や規律がゆるんでいるのである。

 自国に絶対的な価値基準を打ち立てられない国際派が重視するのが、海外の評価である。
 今回のコロナ騒動で、その一端がハシなくもあらわれた。
「PCR検査」数が少ない日本のコロナ感染の公式発表は信用できないとする海外メディアなどの評価をもって、マスコミや文化人、タレントらが、日本のコロナ対策にあらんかぎりの嘲罵を浴びせかけたのだが、日本は、世界のなかで、もっともコロナ防衛に成功した国だった。
 日本に、日本独自の価値観や基準があるのは当然で、海外の評価や基準に左右されることはない。
 海外の評価や評判に一喜一憂するのは、じつは、危険な兆候である。
 自民党の甘利明衆院議員が、5月の連休前、ツイッターで、こう綴った。
「東日本大震災でも日本人は世界の尊敬を集めました。要請だけで人的接触をここまで減らせる日本って、やっぱり凄いですね。あと一息です。ゴールデンウィークをステイホームで『さすがニッポン!』って、もういちど世界に言わせませんか」
 愚かにも、世界の目をアテにして、日本人の公徳心や行動倫理を規制しようというのである。
 日本が、コロナ防衛に一応の成功を収めたのは、集団性が高い日本人の国民性や独自の宗教観によるもので、それが日本の内なる根源力である。
 ところが、甘利は「もういちど世界に『さすがニッポン!』と言わせませんか」と外へ目をむける。
 外国の評判を気にかける精神が危ういのは、民族の魂というべき価値基準をもたないからである。
 衆院当選12回で、筋金入りの保守政治家だったはずの甘利が、歴史上前例がない女系天皇をみとめる発言をして、保守層から批判を浴びている。
 女系天皇をみとめれば、その瞬間、王朝が変わって、国体が崩壊する。
 だが、外国人にとって、国体も万世一系も、特殊な文化で、かれらの普遍的な価値観は男女平等である。
 甘利が、女系天皇をみとめる発言をおこなった落とし穴がそこにある。
 伝統をまもる覚悟をもたない者は、国際主義にのまれて、国体や万世一系という国家や民族の価値などどうでもよくなってしまうのである。
 それが、国際主義が大手をふっている現代日本の最大の弱点であり、体制の危機なのである。

posted by office YM at 05:55| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする