2020年08月31日

 とりもどせ! 国家の主体性A

 ●アメリカ民主主義を国是にした愚
 戦後日本のフレームをつくったのが、経済主義・平和主義・民主主義の3つのイズム(主義)で、別名「吉田ドクトリン」である。
 国防は、アメリカにまかせて、日本は、経済だけに力を注ぐべしというのが吉田ドクトリンだが、そこから、主体性の欠如という、国家として、致命的な欠陥が生じた。
 国家の主体性は、国家防衛を契機として、うまれるものである。
 国の護りを外国に頼って、どうして、主体性がそなわるだろう。
 主体性というのは、それ自体の責任において、存在するということである。
 たとえば、日本は、あくまで、日本であって、独立自立して、なにものにも依存しない絶対的な存在である。
 それが、国家主権で、独立権から統治権、交戦権までがふくまれる。
 国をまもる気概や国を誇りに思う心も、主体性で、道徳心の基礎である。
 国家主権と道徳心がセットになって、国家防衛の体制がつくられる。
 ところが、戦後、日本では、国をまもる気概も手段も根こそぎ失われた。
 敗戦と日本軍の解体、武装解除(憲法9条)とGHQの進駐によって、国をまもるという概念が、旧陸海軍とともに、一夜にして、消失してしまったのである。
 極東委員会とGHQは、敗戦によって、四等国(マッカーサー)へ転落した日本に、さらに、財閥解体や産業破壊、農地解放、労組助成などで追い打ちをかけた。
 なかでも熾烈だったのは、産業破壊で、SCAP(連合国軍最高司令部)が画策したのは、ドイツと同様、工業部門の徹底的な破壊だった。
 重化学工業を中心に、日本中の工場が破壊されて、工業機械が没収あるいはスクラップになった。
 日本をアジアの一農業国に転落させるというSCAPの計画は、中国革命や朝鮮戦争がなかったら、実行に移されて、現在の日本の繁栄はとうていありえなかった。
 吉田茂が国家防衛を捨てて、経済主義に走ったのは、日本は、軍事的敗北につづいて工業破壊≠ニいう経済的敗北に直面していたからである。

 GHQによる国家解体の決定打となったのが「公職追放令」と「人権指令」だった。
 公職追放令は「好ましくない人物(連合国側にとって)を公職から追放」する命令で、対象者が21万人にのぼった。
 これらに要人に平均100名の部下がいたとして、合計で、2100万人が影響をうけたわけで、人口7200万人だった終戦当時、勤労男子のほとんどが公職追放令のとばっちりをうけたことになる。
 退役軍人(一般徴兵)700万人も公職追放の対象で、多くが公職への道を断たれている。
 一方、猛威をふるったのが「人権指令」である。
 治安維持法など、反体制活動を制限する15の法律や法令の廃止や政治犯の即時釈放、特高の廃止などを命じたもので、「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」とあるように、この人権指令は、共産主義者らの国際派にとって、願ってもない福音となった。
 公職追放令で生じた空隙に、マルクス主義者らの国際派がはいりこんだのはいうまでもない。
 とりわけ、大学教壇や学会、マスコミや言論界、官界や法曹界は、共産主義者の牙城となった。
 こうして、日本は、戦前とガラリと様相を変えた左翼の国になってしまったのである。
 日本は、戦後、天皇主権からアメリカ民主主義へ、180度、体制転換した。
 そして、民主主義を採用するよい国へ生まれ変わったとみずから喧伝した。
 だが、民主主義は、日本人が思っているほどすぐれた制度ではない。
 日本には、君民一体や自他共栄、もちつもたれつ、相身互いなど民主主義に該当する文化や習慣がある。
 アメリカが、民主主義を唯一の社会規範としてきたのは、歴史の蓄積がない多民族の新興国家では、多数決を、唯一のルールにして、最高の文化的価値とするほかなかったからである。
 日本人は、民主主義が、国民主権と同様、個人のものと思っている。
 だが、実際は、民主主義は、多数決全体主義で、国家のものである。
 げんに、アメリカの第二次大戦のスローガンは、封建体制の打破と民主主義の防衛だった。
 ヨーロッパにとって、民主主義は手段だが、アメリカにとって、民主主義は目的だったのである。
 ちなみに、国民主権も、国家があずかる国民総体の権利で、国家に属する。
 日本国憲法には、アメリカ民主主義が反映されていて、日本の伝統的な価値観は一行もしたためられていない。
 日本および日本人が、主体性を失ってしまった最大の原因は、国是を、わが国固有の歴史や伝統、文化ではなく、アメリカ民主主義としたところにあったのである。
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2020年08月24日

 とりもどせ! 国家の主体性@

 ●日本はなぜ国家の主体性を失ったのか
 日本が、国家の主体性を失ったのは、戦争に負けたからである。
 それも、東京大空襲と広島・長崎への原爆投下で、30万人以上の非戦闘員を虐殺されるという酷い負け方であった。
 日本軍の戦死者は、230万人で、終戦当時、日本兵が、710万人だったことを思えば、じつに、3割以上が戦場で命を落としたことになる。
 すべて、甲種合格のりっぱな日本男子だった。
 日本は、戦後、指導的立場に立つべき230万人ものリーダーを失ったままアメリカ(GHQ)に占領されたのである。
 日本が、国家として、いまだ、主体性をもてない理由の一つに、甲種合格の日本男子230万人を失った歴史的な痛手をあげなければならない。
 そして、その代わりに、日本の中枢へ入りこんだのが、日本の敗戦を利得とした国際派やマルクス主義者、日本人の誇りを捨て去った卑しい人々の群れであった。
 GHQにしっぽをふった敗戦利得者については、のちに、詳しくふれる。
 戦後、軍国主義に代わって、猛威をふるったのが、GHQの思想改造だった。
 思想改造というのは、軍事制圧と上陸占領につづいて、戦勝国がとる第三の手段で、敗戦国の歴史や伝統、文化などの精神的価値を根こそぎ否定しようというのである。
 軍国主義の根絶やしから神道指令、WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)にいたるGHQの文化侵略には、教科書の黒べた塗りから武道禁止、茶などの古典焚書などもふくまれる。
 なかでも、大きな効果を発揮したのが、新憲法と民主主義だった。
 憲法は、占領基本法の焼き直しで、国家主権の放棄と武装解除が宣言されている。
 戦勝国が、敗戦国の国家主権を奪って、武装解除するのは、戦争の大原則である。
 ただし、これは、戦争行為であって、平時には、通用しない。
 そこで、GHQは、占領政策を憲法に格上げすることにした。
 そうすれば、敗戦国=日本を、永遠に、戦勝国=連合国総司令部(GHQ)の支配下におくことができる。
 だが、占領下における法改正は、ハーグ陸戦条約で禁止されている。
 はなはだしく、被占領国に、不利益をもたらすからである。
 マッカーサー憲法は、国際法違反だったのである。

 護憲主義者は、武装解除(憲法9条)を平和主義などといって歓迎する。
 だが、自衛権の放棄は、平和とはなんの関係もないただの売国思想である。
 というのも、国家の主体性は、国家の防衛を土台にしているからである。
 国家でも人間でも、自己をまもる本能がはたらいて、はじめて、尊厳がたもたれる。
 国家の尊厳は、自国は自国でまもるという主体性にたいして、そなわるものなのである。
 日本は、憲法で交戦権が否定されているので、敵国が攻めてきたら降伏するしかないと主張する者たちがいる。
 とんでもない妄言で、国家の自衛権は、生存権で、おのずとそなわっている権利である。
 むしろ、交戦権の放棄を謳った憲法9条が、国際法や慣習法、国連憲章などと整合しない異端法で、じじつ、日本の安全保障は、慣習法と日米安保条約によってまもられている。
 日本が、国家としての主体性を危うくしている最大の理由は、国家をまもる気概を失ったことにある。
 その原因を4つあげることができる。
 @国家防衛をアメリカ任せにしたこと
 A政治を捨てて、経済主義に走ったこと
 B民主主義を全体主義と気づかなかったこと
 C自主憲法制定にふみきらなかったこと

 次回から、以上4つのテーマと、ワンマン宰相、吉田茂の功罪について順次のべていこう。
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2020年08月10日

コロナ後の世界展望と民主主義C

 ●コスモポリタイズムと原爆体験
 アメリカの原爆投下から75年が経過して、8月6日に広島で、そして本日(8月9日)長崎で、75回目の「原爆の日」の式典がおこなわれた。
 原爆による犠牲者数は、広島市において、人口35万人のうち4割にあたる14万人、長崎でも、少なくも、7万4000人が死亡している。
 全員、生きながらの焼死で、その寸前まで、日常の生活がおこなわれていた。
 たとえようがない残酷で野蛮なおこないだが、アメリカは、ビキニ環礁などで、水爆などの核実験を百回以上もおこない、美しい南太平洋の海を死の海に変えてしまった。
 現在、9か国が1万4525基の核兵器を保有している。
 人類は、世界を500回、滅亡させることができる核を保有していることになるが、皮肉なことに、これが、核の使用を不可能にしている。
 そして、その一方、核は、防衛手段としての有効性を高めつつある。
 北朝鮮は、核を保有して、はじめて、体制維持が可能になったのである。
 今回も「原爆の日」の式典で、参列した政治家が声を揃えて核兵器の廃絶をうったえたが、これほど、壮大なる虚言≠フセレモニーはない。
 いくら誓おうと叫ぼうと、核兵器がなくなることはないからである。
 それなら、核兵器を前提とした安全保障、国家防衛の具体策を立てなければならない。
 だが、日本人は、大言壮語をもてあそぶだけで、具体的な対策を考えようとしない。
 そして、平和主義者と称する者たちが漫才師(太田光)の「憲法9条を世界に輸出しよう」などというたわごとをもちあげる一方、安倍首相の「敵基地攻撃能力」への言及を戦争主義とくってかかる。
「敵基地攻撃能力」に関する政府記者会見で、新聞記者が中国や韓国の理解がえられるかという愚問を発して、河野太郎防衛相が「わが国の領土を防衛するのになぜ中国や韓国の了解が必要なのか」と気色ばむシーンがあった。
 平和主義の前で思考停止に陥っているのが、日本のマスコミで、りっぱなことばさえ発していれば、現実的な対応や対策はどうでもよいのである。

 広島を訪れたパル判事は、慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは くり返しませぬから」ということばから大きな衝撃をうけた。
「ここに祀られているのは、原爆犠牲者の霊で、原爆を落としたのはアメリカである。過ちを詫びるのは、日本人ではなく、アメリカであろう」(1952年11月3日)
 これにたいして、碑銘を書いた広島大教授の雑賀忠義はパルに猛反論した。
「われわれは広島市民であるとともに世界市民である。原爆投下は広島市民の過ちではないというのは世界市民につうじないことばだ。そんなせせこましい立場に立つと、過ちをくり返さぬということが不可能になって、霊前でものをいう資格はない」
 なにをいっているのかさっぱりわからない。
 だが、これが日本平和主義の原点となって、ここから原水協(共産党系)や原水禁(旧社会党系)の核廃絶から護憲派の自衛権の放棄にいたる平和運動が展開されてきた。
 雑賀は、もともと英文学者で、心の故郷が英米にあるコスモポリタンである。
 コスモポリタニズムは、世界主義のことで、ノーベル賞の大江健三郎はこううそぶいた。
「日本が悪いから、原爆を落とされた。原爆は、日本人にあたえられた反省の材料である。だが、わたしは日本人ではない。ノーベル賞をうけ、文化勲章を断ったのは、世界市民だからである」
 日本の平和主義者は、例外なく、コスモポリタンで、「9条の会」の小森陽や羹尚中、高橋哲哉ら東大教授に代表される日本の学者や学会、マスコミ、教育界、法曹界、共産党から自民党左派にいたるまでの政党が、コスモポリタニズムに毒されている。
 国から甘い汁を吸う一方で、国を足蹴にするのがコスモポリタニズムという卑劣な思想で、かれらが信奉するのが、自由や平等、そして、民主主義である。
 民主主義には、愛国心も同胞愛も、正義も道義も、モラルすらもない。
 パル判事は、戦争が主権国家の交戦権の行使である以上、戦勝国が「平和にたいする罪」や「人道にたいする罪」という事後法で敗戦国を裁くのは違法と主張した。
 これが、英国法曹界の重鎮ハンキー卿に支持された結果、東京裁判は違法という考え方が世界の常識になって、ウエッブ裁判長もこれをみとめた。
 東京裁判が違法だと世界にうったえて、成果をあげた日本人がいたろうか。
 1959年に広島の原爆資料館を訪れたキューバの革命家、チェ・ゲバラは「きみたち日本人はなぜ腹を立てないのか」と憤った。
 以後、キューバでは、毎年8月6日と9日に国営放送で特番を組み、広島と長崎の原爆投下について教えている。
 原爆投下がアメリカの戦争犯罪だと世界にうったえた日本人がいたろうか。

 日本では、戦後、国権を立てて、国家や国民の利益をまもったことがいちどもない。
 日韓併合や従軍慰安婦、徴用工、南京大虐殺問題などで、中国や韓国のデマゴギーにたいして、国家としての反論定説を一つも用意せずに、謝ってばかりいた。
 日本では、主権が国家にあって、国家主権や国家理性、国家意志が不在なのである。
 それが、如実にあらわれたのが、コロナ禍における日本政府の対応だった。
 戦後、最大の国難にあたって、ただのいちども禁止や命令をださなかったのは、原爆投下や東京裁判にたいして、国家主権を立てていちどもモノをいってこなかったこととけっして無縁ではない。
 日本人は、為政者をふくめて、民主主義が最高価値で、主権は国民にあって国家にはないと思っているのである。
 禁止や命令は国家主権の行使である。
 日本では、国家主権の法的根拠を憲法にもとめることができない。
 国家主権が不在の日本では、国民にお願いして、諸外国に頭を下げるしかないのである。
 日韓併合も、大韓帝国一進会の李容九が百万人の署名をそえて、李完用首相に送った「韓日合邦を要求する声明書」(1909年)が発端で、日本が武力侵攻したわけではない。
 ちなみに、この声明書には「これまでの朝鮮の悲劇は、朝鮮民族がみずからまねいたことであり、朝鮮の皇帝陛下と日本の天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、国を発展させようではないか」と記されている。
 なぜ、日本は、国家主権の下で、国益や国民をまもり、外国に堂々とモノをいうことができないのであろうか。
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2020年08月07日

 コロナ後の世界展望と民主主義B

 ●民主主義を国家精神≠ノしてしまった戦後日本
 今回の世界的なコロナ禍で、改めて問われたのは、民主主義の真価だった。
 民主主義の先進国であるアメリカやヨーロッパなどでパンデミック(大規模流行)が発生したのにたいして、中国や台湾、韓国やベトナムなど国家権力がつよい国では、ある程度、コロナウイルスがおさえこまれた。
 コロナ防衛は、民主主義と全体主義のたたかいでもあって三密≠フ回避やマスク着用、ソーシャルディスタンスは、民主主義や個人主義と折り合わない全体主義にもとづいた政策であった。
 したがって、欧米では、外出禁止令などにたいする反対デモが頻発した。
 全体主義は、当然、強制をともなうので、中国や韓国、台湾の罰則のきびしさは、語り草になったほどだった。
 欧米で、全体主義が反発を買うのは、民主主義ではなく、個人主義の風潮がつよいからで、パンデミックに突入しても、マスク着用は半数にみたなかった。
 日本で、マスク着用やハンドウオッシュが徹底したのは、清潔好きの国民性のたまものであろうが、一方、国内からも海外からも不評だったのが、政治的な指導力の欠如である。
 日本政府が強権を発動しないのは、発動すれば、野党やマスコミから非民主的と叩かれる可能性があったからで、事実、60年安保では、全野党・全マスコミが「反安保」ではなく「民主主義をまもれ」と叫んだものである。
 だが、政府・自民党が、コロナ対策に強権をうちださない理由は、それだけではない。
 民主主義を善≠ニとらえ、強制力をともなう全体主義を悪≠ニ見立てる価値観に立っているからである。
 したがって、国家主権や国家理性をふまえた命令″痩ニ的な決断力を下せないのである。

 コロナ後の世界展望において、民主主義を最良の政治手段としてきた時代は終わりを告げたとみてよい。
 コロナ以後、多数決で物事をきめるような情勢ではなくなる。
 今後、世界は、強力なリーダーシップの下で、全体主義的な方向をたどってゆくはずである。
 さて、政治とは、個(個人)と全体(国家)の矛盾を調整する手段である。
「個と全体の矛盾」は、プラトンの大昔から、人々が頭を悩ましてきた大きな問題だった。
 プラトンは、聡明な、たとえば哲学者による独裁を考えたが、全体の利益に奉仕する思想家も権力者も、ついに、あらわれなかった。
 人間が愚かというより、個と全体の矛盾は、こえられない壁として、人類の前に立ちはだかってきたのである。
 そして、近代になって、民主主義が、「独裁よりマシ(チャーチル)」という理由から、政治手段や人民支配の便法としてもちいられることになった。
 日本人には、戦後、GHQがもちこんだ「アメリカ民主主義」の印象がつよいだろう。
 当時、日教組やマスコミ、インテリらは、喜々として、「日本は民主主義の国にうまれかわりました」と叫んだものである。
 だが、かれらは、民主主義が全体主義であることには気づかなかった。
 多数派独裁が、全体主義であることは、すこし考えればわかるだろう。
 49パーセントの少数派を断ち切って、どうして、民主になるのか。
 左翼の宣伝屋は、民主主義は個を大事にするというが、ウソである。
 左翼が大事にするのは、多数派で、レーニンが率いたボリシェビキ党のボリシェビキは、多数派という意味である。
 ヒトラーは、民主主義を利用して独裁体制を打ち立て、人民を虫けらのようにあつかう北朝鮮は、国名に民主主義を謳っている。
 啓蒙思想の一つであるルソーの民主主義は、古代ギリシャの衆愚政治を揶揄したことばで、それがフランス革命の精神になったのは、革命も、衆愚政治の一つだったからである。

 そのルソーも、民主主義が個人のものなどとは、一言もいっていない。
 国民総体の意志(一般意志)が、最高にして絶対の権力(人民主権)となるという内容が革命権とうけとめられただけである。
 ルソーの国民は、一般化された国民で、日本人一億まとめて国民である。
 憲法の国民主権も、国民一般の主権で、一人ひとりの日本人に主権があるといっているわけではない。
 ところが、大方の日本人は、ひとり一人の日本人が主権をもっているように思っている。
 主権は、ソブリンティ(君主権/国権)のことである。
 ソブリンティには、徴兵して戦争をおこす権利、国民を逮捕して、処刑する権利までがふくまれる。
 国民ひとり一人がそんな主権をもっているはずはない。
 もっているというなら、個人が交戦権をもち、他人を処刑する権利をもっているというようなもので、これでは、ホッブスの「万人の戦争」どころの話ではない。
 保守系をふくめて、多くの政治家が、民主主義がなにかりっぱな思想であるかのような錯覚に陥っている。
 そして、民主を優先させて、国益をないがしろにする。
 国民にマスクを支給するのが、民主主義的な政治家のように思っているようだが、国民が首相に望んでいるのは、マスクなどではなく、コロナ防衛という国益に立ったつよいリーダーシップである。
 旅行業界のドン、二階幹事長は「GO-TOキャンペーン」を強引にすすめて受託業者から4200万円以上の献金をうけている。
 国家や国益という大道から外れると、結局、私利私欲の罠に落ちるのである。
 二階は、女系天皇容認の弁に「民主主義、男女同権の世の中に」と口走った。
 民主主義を語る者には、国家や国体、歴史や伝統、国益や国家理性の認識がぽっかりと欠落しているのである。
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