2021年02月22日

 天皇と民主主義 その5

 ●民主主義と共産主義は双子の兄弟
 戦後、民主主義を最大限に利用したのが、左翼であった。
 大内兵衛と向坂逸郎、羽仁五郎の御三家は、教祖的なマルクス学者で、その下で、おびただしい数のマルクス主義者が教壇や学会、政界や官界、法曹界やマスコミへ送り出された。
 憲法学の重鎮、宮沢俊義もその一人で、ポツダム宣言受諾によって、日本に革命がおきて、主権が天皇から国民に移ったとする「八月革命」を主唱した。
 そのバイブルが日本国憲法で、左翼や護憲派が憲法を革命の聖典≠ニしてあがめるゆえんである。
「日本は戦争に負けて民主主義のよい国になった」という民主主義賛歌≠吹聴したのも、マルクス主義者で、それが、のちの「自虐史観」や反日主義へつながっていった。
 マルクス主義者は、なぜ、かくも、民主主義をもちあげるのか?
 理由は、共産主義と民主主義が「一卵性双生児」だからである。
 生みの親は、ともに、ルソーの一般意志≠ナある。
「個人の主権」を一本にまとめて「国民主権」としたのが一般意志である。

 国民には主権があるとおだてあげる。
 だが、その主権は、一人ひとりにではなく、全体にあたえられるものである。
 国民全体は、議事堂に入りきれないから、という理屈である。
 そして、一般化されたその国民主権≠為政者があずかる。
 いったん、この国民主権をあずかったら、独裁体制にしようと、大統領制にしようと、あるいは、議会主義にしようと、為政者の勝手である。
 これがルソーの詐欺まがいの論法で、この理屈にのって、フランスで革命がおきた。
 国民主権をあずかったとするジャコバン派がルイ16世とマリー・アントワネットの首をギロチンで落としたのである。
 マルクスの共産主義は、ルソー主義にユダヤの経典「タルムード」を足した代物で、ロシア革命のレーニンはこれを掲げて、ボリシェビキ(多数派)独裁を断行した。
 ジャコバン派の暗黒政治も、ボリシェビキの恐怖政治も、多数派による人民独裁で、民主主義を謳っている。

 日本国憲法の国民主権も、ルソー主義で、国民総体あたえられた主権である。
 ところが、日本人の半数以上が、一般化という概念を理解できずに、国民のひとり一人に主権があると思いこんでいる。
 主権は、君主権(ソブリンティ)なので、それでは、国民が、全員、王様になってしまう。
 国民主権を、独裁者があずかるのが人民独裁で、中国も北朝鮮も、人民政府である。中華人民共和国は、憲法と共産党規約で、朝鮮民主主義人民共和国は「党の領導」で、それぞれ独裁≠明記している。
 国民主権を、内閣や議会があずかるのが議会民主主義で、イギリスや日本の立憲君主制がこれにあたる。国民の主権を、大統領があずかるのがアメリカやロシアの大統領民主主義で、フランスやドイツ、イタリアなどは、その中間をとった半大統領制である。
 
 日本の左翼は、日本でも、かつて、市民革命がおきたと主張する。
 明治維新は、不徹底とはいえ、ブルジョア革命で、天皇は、革命勢力(薩長下級武士)に担がれたというのである。
 そして、第二次大戦の敗戦によって、アメリカから民主主義がはいってきて「敗戦革命(レーニン)」が実現した。
 マルクス・レーニン主義における「二段階革命論」である。
 まず、ブルジョア民主主義革命(明治維新)で、封建制度を廃止する。
 そののち、発達した資本主義をひっくり返して共産主義革命(敗戦革命)が実現されるという理屈である。
 戦後、左翼や反日勢力、護憲派らが民主主義をもちあげてきた理由がこれである。
 民主主義という伝家の宝刀を使えば、伝統破壊の市民革命から、体制転覆の共産主義革命まで、思いのままというわけである。
 左翼や反日勢力、GHQの恩恵をうけた敗戦利得者やマスコミが民主主義に入れあげるのは、革命を欲しているからで、一応、うなずける。
 わからないのが、保守政党たる自民党が、民主主義をもちあげる精神構造である。
 戦後、GHQ旋風が吹き荒れるなか、日本の保守政党が自由や民主を謳ったのはやむをえなかったろう。
 だが、多数決の原理と普通選挙法、一般化された国民主権をさすにとどまる民主主義を政治信条とするのはいかがか。
 日本の保守政治家は、保守思想や伝統主義について、無知なのではないかと疑わしい。
 次回以降、保守思想と伝統主義について、思うところをのべよう。
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2021年02月15日

 天皇と民主主義 その4

 ●西洋「500年の抵抗史」と民主主義 
「二重革命」なることばがある。フランス革命とイギリスの産業革命を一連の動きとしてとらえたもので、これにアメリカ革命をくわえて「大西洋革命」という呼び方もある。
 この大西洋革命に連動したのが日本の明治維新である。以下、時系列を示す。

 1775〜1783年/アメリカ革命(アメリカ独立宣言)
 1789〜1794年/フランス革命(フランス人権宣言)
 1807年/フルトン(アメリカ)が蒸気船を発明
 1830年/スティーヴンソン(イギリス)が蒸気機関車を実用化
 1853年/ペリー来航
 1858年/大政奉還・日米修好通商条約の締結
 1867年/パリ万国博覧会に日本が参加(参加国42国)
 1868年/戊辰戦争・五箇条の御誓文
 1872年/日本で鉄道敷設(1890年までに線路の総延長2250km)
 1880年/日本の主要都市で電信連絡網完成
 1889年/大日本帝国憲法公布


 フランス革命から明治維新までちょうど百年で、このかんに市民革命と産業革命、そして、極東日本の明治維新と近代化が同時進行した。
 蒸気船ができて50年もたたないうちに、ペリーが、その蒸気船(黒船)を率いて浦賀に来航。西洋で蒸気機関車が実用化された60年後、日本で鉄道の敷設総距離が2250kmにたっした。 
 日本は、開国後、半世紀おくれて、ヨーロッパの産業革命をとりいれたことになるが、これは、絶好のタイミングだったといえる。
 というのは、産業革命以前のヨーロッパから学ぶべきものはなにもなかったからで、文明や文化、民度のいずれも、日本のほうが上だった。
 一方、産業革命のあとでは、近代化した欧米から武力侵略をうける可能性があった。
 げんに、日英同盟(1902年)の直後、モロッコ事件など、ヨーロッパ列強による市場争奪戦がひきがねになって、第一次世界大戦(1914年)がおきている。

 西洋の近代は、フランス革命から一世紀もさかのぼるイギリスの清教徒革命(1642年)と名誉革命(1688年)にはじまる。
 フランス革命では、ルイ16世が王妃のマリ=アントワネットとともに処刑されたが、イギリスのピューリタン革命でもチャールズ1世が処刑されている。
 英仏とも王政復古して、イギリスは立憲君主制、フランスは共和政へ移ったが、ともに、歴史の連続性を断ち切った革命国家だったことは、否定できない。
 ここで、英仏と日本のさかさまの構図≠ェうきあがってくる。
 英仏が、絶対王政を倒して、民主主義をとったのにたいして、日本は、幕藩体制を捨てて、絶対天皇をとったのである。
 権力の政治利用だったにしろ、権威だった天皇が、突如、統治権を総攬して統帥権をもつ権力者として登場してきた。
 絶対王政やキリスト教会の強権を打破して、個人や自由、平等という価値を手に入れたヨーロッパにたいして、日本は「君民共治」という理想的な政治を捨てて、天皇制ファシズムという全体主義へむかったのである。

 戦後、左翼やリベラルは、民主主義を、人類が最後にたどりついた理想的な政治形態、文化様式であるかのように吹聴してきた。
 そして「日本人は民主主義をわかっていない」とこきおろしてきた。
 だが、西洋人も、民主主義を「ファシズムよりはマシ」(チャーチル)ほどの認識しかもっていない。
 それでは、なぜ、西洋人は、民主主義を必死にまもろうとするのであろうか。
 それには、ルネサンスから宗教改革、啓蒙時代へいたるヨーロッパ500年の歴史に目をむけなければならない。
 絶対王政とローマ教皇庁の強権下にあった「暗黒の中世」において、家畜のようなあつかいをうけていた民衆が、人間としての生き方や自由をもとめたのが、14〜16世紀のルネサンスだった。
 これに宗教改革がからんで、当時、多くの人命が失われた。「30年戦争」の犠牲者は、ドイツだけでも800万人にもおよび、ペストの流行とあいまってヨーロッパの人口は減少へむかったほどだった。
 17〜18世紀の啓蒙時代は、聖書や神学から、ヒューマニズムや理性へとむかう近代の入口であったが、ここでも、宗教の迷妄から逃れようとする多くの先進的な人々が異端裁判によって虐殺された。
 そして、500年にもわたる抵抗の末に、市民革命がおきて、ヨーロッパの人々は、権力の奴隷や神のしもべから、ようやく、人間となった。
 その象徴が、革命のスローガンとなった民主主義だった。

 民主主義は、多数決の原理と「普通選挙法」以外のなにものでもない。
 そう問うと、西洋人は「われわれが500年をかけてもとめてきたのは民衆(デモス)の力(クラトス)だった」と答えるだろう。
 民衆の暴力(デモス クラトス)が民主主義(デモクラシー)の語源である。
 民主主義の思想がすぐれていたのではなく、絶対権力を倒すには民衆の暴力≠ノ頼るほかなかったのである。
 クラトスという暴力が多数決へにおきかえられて、王を処刑するクラトスが実行に移された。
 クラトスは、正義ではなく、強さや力、勝利や暴力をさすことばである。
 日本人は、民主主義が唯一の希望となるような暗黒の歴史をもっていない。
 それでいながら、民主主義をもちあげるのは、公正や正義という意味を嗅ぎとっているのであろう。
 だが、民主主義に、そんな意味合いはまったくない。
 左翼は、日本が戦争に負けて、戦後、アメリカから民主主義がはいってのである。
 次回は、左翼リベラルと民主主義の関係についてさらに考えてみよう。


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2021年02月07日

 天皇と民主主義 その3

 ●天皇(権威)と民主主義(権力)の二元性
 ソクラテスやプラトンが紀元前4世紀に捨てた民主主義を18世紀のルソーが拾ってきて、これを啓蒙思想の主柱にすえ、ヨーロッパ全土に革命の嵐が吹き荒れた。
 そして、世界の主たる国はみな革命国家となった。
 原点が「人間は生まれながらに自由」や「自然に帰れ」などのルソー主義にあって、フランス革命の「人権宣言」にも「人間は生まれながらにして自由かつ平等である」(1条)とうたわれている。
 ルソーは、5人のわが子を孤児院へ捨てる一方で、教育論(『エミール』)を出版、『懺悔録』では自己弁護を並び立て、ホッブズの『社会契約説』を主旨が一八〇度反対の『社会契約論』へリライトして世にだした世紀の詐話師である。
 ところが、日本では、フランス革命の理論的支柱で、近代でもっとも偉大な思想家としてほめたたえられている。
 ルソーのことばは『社会契約論』の翻訳者でもあった中江兆民らをとおして神の声≠フようにつたえられた。日本では、マルクスやルソーら啓蒙主義や民主主義の思想家がすべて神格化されて、西洋の思想の研究が博士号取得の条件となっているほどである。
 その一方で、日本古来の伝統的な価値観や政治形態はふり返られない。
 西洋の革命思想はありがたいが、わが国をささえてきた保守思想には関心がないのである。
 だが、革命の成果は、散々で、イギリスやフランス、そしてロシアも、革命政府を取り消して、議会制や共和制をとった。共産主義をとっているのは中國と北朝鮮だけだが、マルクス経済などとっくに捨てられて、とられている経済体制は国家資本主義である。
 革命は、結局、貴族や地主ら特権階級を倒して、封建体制や歴史的価値観を破壊しただけだった。
 そして、平民・農民が手にしたのが民主主義だった。
 その民主主義というのは、多数決の原理と普通選挙法のことである。
 西洋人が民主主義を称えるのは、庶民を虫けら同然にあつかった絶対王政や暗黒の宗教支配、奴隷制度が、民主主義を謳う市民革命によって倒されたからであった。

 日本には、絶対王政も恐怖の宗教支配も、奴隷市場もなかった。
 天皇がいたからである。民の神格たる天皇が、民を支配する権力を監視する権威と権力の二元論≠ノよって、日本はヨーロッパのような政治の暗黒性をまぬがれてきた。
 ところが、戦後、日本も、西洋のような絶対主義だったという歴史改ざんがおこなわれて、ついに「自虐史観」に立った歴史教科書が出回るまでになった。
 GHQの「宣伝刊行物の没収覚書」によって皇国史観や神道から「茶の湯」にいたる日本の歴史や伝統、文化を語ったおびただしい書物が没収、焚書されている。協力したのが、GHQによって解放されたマルキストで、そのなかに、旧東京帝国大学教授の牧野英一や尾高邦雄、金子武蔵ら著名な学者もいる。かれらの指導をうけた日教組が叫んだスローガンが「日本は戦争に負けて民主主義のよい国になりました」だった。
 それでは、数千年にわたって積み上げられてきた日本の歴史的蓄積や民族の知恵、善や徳、文化は、多数決より劣るというのか。
 まちがってもらっては困るのは、西洋人が民主主義を称えるのは、市民革命以前まで、西洋では、絶対主義の下で、民が家畜同然の生活を強いられてきたからで、多数決がりっぱな制度だったからではない。

「市民革命」によって、民は、王権や地主、教会の権力から逃れて、ようやく人間としての権利を主張することができるようになった。
 ヨーロッパの民にとって、市民革命は、福音だったのである。
 日本では死刑の執行にも幕府の許可が必要だった。罪状を記した書面を幕府へ送って許可をとるまで数年を要したという。30年戦争で、ドイツの人口が1600万人から1000万人まで減少したヨーロッパとは精神構造がちがうのである。
 中江兆民が唱えた「君民共治之説」は、ルソーの『社会契約論』からとったものである。ルソーはそこで「君民共治が理想であるが、そのような国があるはずはないので、やむをえず民主主義をえらぶ」という主旨のことばをのべている。
 君民共治の一つのケースが石山一向一揆≠フ劇的な退却であろう。10年間にわたって織田信長と衝突してきた一向一揆も、天皇(正親町)の仲裁によって、突如、石山を去る。信長も一揆衆も天皇には逆らえなかったのである。一揆の指導者だった顕如はのちに本願寺の基礎を確立する。
 日本人は、民主主義の世の中にテロリズムが横行するのは嘆かわしいという。
 とんでもない思いちがいで、テロリズムを許容するのが民主主義である。
 ロックの社会契約説をとったアメリカ憲法は「革命権」までみとめている。
「民主主義と天皇は相容れない」という論者もいるが、これも誤りである。
 天皇は権威、民主主義は権力で、権力は、権威の支えがなければ成立しないのである。
 次回以降、天皇と民主主義に関係について、議論を深めていこう。

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2021年02月01日

 天皇と民主主義 その2

 ●天皇の象徴性と民主主義の具象性
 世界の国々は、現在、王朝国家か、かつて、王朝国家だった歴史もっている。
 多くが、近代になって、王朝を倒し、または離反して、革命国家となった。
 革命国家の代表として、フランスとアメリカ、ロシアと中国があげられる。
 一方、王朝を残している伝統国家も、日本やイギリスなど、すくなくない。
 同じ王朝国家といっても、日本とヨーロッパでは、基本的な構造が異なる。
 日本は、紀元前に成立して、古墳時代に基礎を固めた「大和朝廷」が国家の始原で、すめらみこと(皇尊)が国を治めた。
 エジプトのピラミッドや中国の始皇帝陵に並ぶ世界3大墳墓として知られる前方後円墳が、当時、大和朝廷が国家を統べていたあかしである。
 仁徳天皇をはじめ、85基の天皇陵、4800基の一般陵が前方後円≠ニいう統一された造形形式をとっていることから、古墳時代に、天皇にたいしてなんらかの象徴観念や共通認識ができあがっていたと思われる。
 神武天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)を初代とする大和朝廷が現在まで126代にわたってまもられてきたのは、皇祖が神武天皇となる父系相続=皇統だったからである。
 それが宮家で、皇統をひきつぐ皇族男子のみに宮号があたえられる。
 宮家は、神武天皇にはじまる皇統という大樹からのびた枝である。
 そして、現在の皇室は、第113代東山天皇の第六皇子直仁親王がひらかれた閑院宮という枝である。
 皇統という考え方は、中国の「天命」や西洋の「家門」とは異なる日本特有のものである。

 ヨーロッパの王室と日本の皇室がちがうのは、そもそも、国家の成り立ちが異なるからである。
 地中海のカルタゴを滅亡させてうまれたローマ帝国、その後のフランク王国や神聖ローマ帝国をへて、現在の国家形態をとるのは、17世紀(ウェストファリア条約/1648年)以降である。
 主導権を握ったのが家門で、ヨーロッパの国々は、家門をひきついだ王室を中心につくりあげられてゆく。
 イギリス王国のノルマン朝から現在のウィンザー朝、フランク王国のカロリング朝やブルボン朝、神聖ローマ帝国のハプスブルグ朝など多くの有力家門が複雑に血縁関係をむすび、ヨーロッパの王室は、王位継承権をもちあう巨大な家族的集団となった。
 門閥であるヨーロッパの王室では、血族が、男系と女系の両方へひろがってゆくリゾーム(根)型である。
 一方、男系相続の日本の皇室は、女系という横にのびてゆく系列がない男系一本のツリー(樹木)型となる。
 そこで、皇胤を拡充するために、宮家という横にのびる枝が必要となる。
 皇統という大樹からのびた枝をとおして、宮家は神武天皇の直系となる。
 戦後、11宮家が皇籍離脱させられたが、そのうち、5宮家(賀陽宮、久邇宮、朝香宮、東久邇宮、竹田宮)は男子に恵まれて、総数で20人をこえる。
 皇族と旧皇族の親交団体(「菊栄親睦会」)を発起された昭和天皇の念頭には皇位継承権を広げる意図もおありだったという。
 そのことが意味するところは、旧皇族が隠然と存在して、男子の皇胤がおられるかぎり、女系天皇による皇統の消滅は避けられるということである。

 王朝国家が、市民革命と産業革命にうねりにのみこまれて、形骸化あるいは消滅してゆくなかで、日本は、古代より、軍部に政治利用された近代の一時期をふくめてではあるが、現在にいたるまで、ゆるぎなく、存続してきた。
 市民革命によって、民主主義が唯一の基準になったのは、伝統的な価値観をすべて失ったからだった。
 民主主義は、多数決と多数派支配のことで、唯物論である。
 政治とは、個と全体を調和させることだが、どんな哲人も政治家も、これを実現させた者はいなかった。封建主義も専制独裁も、共産主義も、個と全体の矛盾を解消させるどころか、却って、ふくれあがらせただけだった。。
 例外があった。日本である。個と全体の衝突を回避して、効率のよい政治をおこなっていたのは、世界で、天皇と将軍を両立させている日本だけだった。
 権威と権力、国体と政体の二元論で、この二元論だけが、個と全体の矛盾を解消できる。
 権威は唯心論で、権力は唯物論だが、一方だけでは片手落ちである。
 カネや権力も必要だが、やさしさや安心をあたえるのも政治である。
 日本がその政治をおこなえたのは、権力を監視する権威の目がはたらいていたからであった。
 イギリスは、カナダやオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなど旧植民地の自治権をみとめる「ウェストミンスター憲章(1931年)」に署名して、イギリス連邦の権力者から、権威の座へ移られた。
 同憲章はこのとき象徴≠ニいうことばをつかった。
 日本において、天皇は、2000年前から象徴で、権力たる具象と二元論を構成してきた。
 わたしは、天皇の象徴性と民主主義の具象性も二元論ではないかと考える。
 次回以降、天皇と民主主義について、さらに、議論を深めていこう。


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