2021年03月29日

 天皇と民主主義 その10

 ●大久保と西郷を心から恨んだ島津藩主
 明治政府は、島津藩主島津久光の処遇に苦慮し、叙位・叙勲や授爵において最高級で遇したが、久光は、断髪廃刀令など明治政府の命令には一切従おうとしなかった。
 そして、大久保(利通)と西郷(隆盛)に騙されたと二人を呪いつづけた。
 それでも、明治政府は、明治20年、久光が亡くなると国葬をもって丁重に弔った。
 もう一人、明治政府が破格の扱いをした人物がいた。死の三年前、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された「グラバー商会」のトーマス・グラバーである。
 明治維新というクーデターは、この二人の存在を抜きには考えられない。
 徳川慶喜の大政奉還は、薩土盟約(武力倒幕の回避/1867年)の公武合体論にもとづいたもので、その裏にいたのが、島津斉彬と島津久光だった。
 島津藩と土佐藩は、王政復古後、摂関幕府を廃止したうえで「国家の意思は議事堂で決定されるべし」という国家新体制を提示して、明治維新の方向性を示した。
 この方針に反逆したのが、当初、公武合体論者で、そののち討幕派に転じた岩倉具視だった。
 岩倉は、薩摩藩の大久保と西郷を懐柔して、討幕戦争をけしかける。
 江戸攻撃は、勝海舟による江戸無血開城で、辛くも避けられたが、討幕軍の奥羽越列藩同盟とりわけ会津・庄内藩への攻撃はすさまじく、ジェノサイドの様相をていした。

 ここからが、明治維新の第二段階である。
 新政府の中心となった長州は、なぜ、あれほど戦争をしたがったのか。
 そして、なぜ、幕府軍を圧倒する戦闘能力をもっていたのか。
 長州軍は、薩摩経由で、アメリカ南北戦争の払い下げの新鋭銃(スナイドル銃・ミニエー銃・エンフィールド銃)を入手して、日本一の火器軍団になっていたからだった。
 長州征伐の余波で、長州は、幕府から武器の購入を禁止されていた。
 そこで、イギリスの「マセソン商会(グラバー商会)」は、薩摩の西郷隆盛や大久保利通、長州の高杉晋作、ハリー・パークス(イギリスの駐日公使)らをうごかして、仇敵同士の薩長をむすびつけた(薩長同盟/1866年)。
 長州に薩摩から武器を運びこみ、薩長連合の反政府軍をつくって、大規模な内乱をひきおこさせようというのである。
 それが、ヨーロッパ列強のアジア侵略の常套手段で、インドが好例だった。
 イギリスは、インド内戦の調停を装って、英軍と東インド会社を送りこんでインド全土を植民地化したのだった。
 マセソン商会は、その東インド会社の後継で、清国のアヘン市場を独占したばかりか、清国のアヘン輸出禁止令に対抗して大英帝国艦隊を清に展開させた世界的な悪徳コングロマリットである。
 そのマセソン商会が、長州五傑(井上馨や伊藤博文ら)の欧州派遣や薩摩藩のイギリス密航留学(五代友厚や寺島宗則ら19人)を斡旋している。
 薩長による反政府軍をつくる下心あってのことで、薩長連合は、ロンドンで原案がねられていたのである。
 薩長の密航留学生が学んだ政治手法が、一神教にもとづいた絶対主義国家の建設だった。
 一神教を天皇に置き換えるだけで、日本も、ヨーロッパのような絶対王権の国家がかんたんにできあがる。
 天皇を利用して、絶対王権的な帝国主義国家をつくるのが、薩長討幕派の狙いだった。
 島津久光が大久保と西郷に騙されたと地団駄を踏んだのは、大久保と西郷が藩論である「公武合体論」のためにはたらいていると思っていたからだった。
 ところが、薩長の討幕派は、外国勢力の手を借りて討幕にうごいていた。
 アメリカ南北戦争の払い下げ銃の供給をうけた薩長が、討幕にむかってつきすすんだのは、マセソン商会の思惑どおりで、大政奉還のおこなわれた1867年10月14日、薩長らに討幕の密勅が発せられた。
 岩倉具視の工作で、これに、大久保や西郷、薩長欧州留学組がのった。
 五代は、討幕の欧州留学組の一人である。
 久光は、五代にも騙されていたのである。
 その五代友厚やグラバーに利用されたのが、土佐脱藩組の坂本龍馬だった。
 坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)は、グラバー商会の斡旋で、薩摩藩名義で購入した武器を長州へ転売したほか、貿易や開運、航海術や海戦技術を養成して、長州軍とともに幕府軍ともたたかった。
 亀山社中は、薩長同盟に一役買ったほか、株式会社のモデル(土佐商会)となって、グラバーを顧問として迎えた岩崎弥太郎が、これを土台に、三菱郵便汽船(後の日本郵船)や三菱商事など三菱財閥をつくりあげた。
 ちなみに、竜馬の海援隊は「五代才助上申書(五代友厚)」にのっとったもので、竜馬は、グラバーや五代の隠れ蓑だったのである。
 竜馬の「船中八策」は、明治政府の「新政府綱領八策」「五箇条の御誓文」のほか、自由民権運動や大日本帝国憲法にまで影響をおよぼしたといわれる。
 現物は実在していないが、五代友厚のアイデアだったと思われる。
 八策目に「金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(金銀の交換レート法の改正)とあるが、竜馬に金銀レートにかんする知識はなかった。
 金銀レートの専門家といえば、のちに、金融界に転出して「金銀分析所」や「造幣寮」の設立した五代友厚である。
 孝明天皇の不審死と坂本龍馬の暗殺、そして、五代友厚の実業界への転出が明治維新の第3のターニングポイントである。
 維新後、明治天皇を担いだのが、孝明天皇が心から憎んだ長州だった。
 その長州が、徳川慶喜と京都守護職だった会津藩主・松平容保への敵意をむきだしにするが、孝明天皇がもっとも信頼を寄せていたのは、徳川慶喜と松平容保だった。
 岩倉具視が孝明天皇を毒殺して、公武合体論の竜馬を暗殺したという陰謀論がささやかれるのは、明治維新は、大政奉還後、天皇軍国主義というヨーロッパ型の帝国主義へまっしぐらにつきすすんでいったからだった。
 そのシナリオを書いたのは、維新十傑の大久保でも西郷でも、木戸孝允でも江藤新平でもない。高杉晋作でも坂本龍馬でも、吉田松陰でも佐久間象山でもない。
 天皇元首の大日本帝国憲法制定に執念を燃やし、59歳で死亡した(喉頭がん)岩倉具視だったのである。
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2021年03月22日

 天皇と民主主義 その9

 ●明治維新の立役者は五代友厚とグラバー
 岩倉具視が唱えた大政奉還≠ヘ、天皇大権の名目で国権を牛耳ろうとする謀略で、モデルは、王権神授説にもとづくヨーロッパの絶対王政だった。
 だが、日本には、ヨーロッパのように、天皇が、直接、民を支配した歴史的事実はない。
 大和朝廷は、天皇と豪族の連合政権で、皇親政治の天武天皇も、大宝律令の原形となる浄御原令(きよみはらりょう/681年)編纂を命じるなど、もとめたのは、律令体制だった。天皇政治をめざしたのは、後醍醐天皇の「建武の新政」だけだが、わずか数年で挫折している。
 権力を行使したのは、天皇から政治の実権をあずかった官僚で、聖徳太子の17条憲法は、官僚心得(行政法)だった。
「事を論ずるに……何事か成らざらん(第一条)」や「獨り斷むべからず必ず衆と與に論ふべし……(第十七条)」と、議論の重要性や独断の排除がくり返しのべられているのは、官僚が政治の実権を握っていたからである。
 17条憲法の議論重視の精神が反映されたのが「五箇条の御誓文(第一条/広く会議を興し、万機公論に決すべし)」で、近現代日本の議会制民主政治にもこれが受け継がれている。
 戦後、日本は、アメリカから民主主義を教えてもらって、よい国になったという左翼の言い分は、歴史を知らない者のたわごとで、日本には「事を論じて何事か成らざらん」や「万機公論に決す」という多数決にすぎない民主主義にまさる伝統的な政治形態があったのである。

 この政治理念を破壊したのが、岩倉具視の王政復古で、岩倉は、懐刀だった井上毅に天皇を元首とする明治憲法の基本構想をつくらせ、伊藤博文をドイツに派遣して、明治憲法起草の準備にあたらせた。
 昭和の軍国主義は、天皇を、法的には元首、精神論的には現人神に仕立てた天皇制ファシズム≠ナ、大東亜戦争だけで、300万人の兵士と国民が天皇絶対主義の下で死んでいった。
 日清・日露から大東亜戦争まで、世界戦争が可能だったのは、天皇が主権をもつ明治憲法下では、天皇の名で、好き放題に徴兵できるからだった。
 これに反発したのが、不平士族の乱で、辞官納地や秩禄処分などで収入源を断たれた上、徴兵令で、武士の誇りや特権を奪われて、士族が叛旗を翻さないわけはなかった。
 だが、これも、岩倉や大久保には、計算済みで、反乱鎮圧で、日本から武士がいなくなれば、封建体制が崩れて、ヨーロッパ化が一挙にすすむ。
 ちなみに、徴兵制度を採用して、日本の陸軍をつくった山縣有朋は、剣術を学ぶことをゆるされなかった足軽出身で、元帥になっても、腰からサーベルをぶらさげていた。
 日清・日露戦争に勝てたのは、軍隊の主力が、戦争のプロである武士だったからだが、大東亜戦争では、陸軍士官学校や海軍兵学校らのエリート(恩賜の銀時計や軍刀組)に軍の指揮をとらせた。
 武士がいなかったからで、インパール作戦の牟田口廉也、ノモンハン事件や島嶼作戦の辻政信、南方作戦の海軍左派(米内光政・山本五十六・井上成美)ら戦争のアマチュアは、東郷平八郎の助言を容れずに、本土防衛を疎かにして都市空襲や原爆投下を招き、日本を焼け野原にしてしまった。
 日本がこんな愚かな国になってしまったのは、明治維新が国家改造ではなく薩長のクーデターだったからである。

 このクーデターに深くかかわったのが、アヘン貿易で、大きな利益をあげた香港・上海「マセソン商会」とその日本支社の長崎「グラバー商会」だった。
 ちなみに、晩年、東京で過ごしたトーマス・グラバーは、1908年、外国人としては破格の勲二等旭日重光章を授与されている。
 明治維新における薩長政権樹立の最大の功労者が、このグラバーと薩摩藩の五代友厚だったことはほとんど知られていない。
 グラバー商会が、武器を売りつけた最大の取引相手が薩摩藩だった。
 そして、グラバー商会を相手にした薩摩藩の担当が五代友厚だった。
 五代友厚は、西郷隆盛や大久保利通と並んで「薩摩の三才」と呼ばれた。
 もっとも、下級武士の西郷や大久保よりも身分は上で、島津斉彬と島津久光の二代にわたって信任をえて、若い時代は、長崎に遊学して砲術、測量、数学などを学んだ。
 1862年、幕府が、各藩有志を乗船させ、上海に船を派遣した際、これにくわわって、同乗した長州藩の高杉晋作と意気投合、たちまち、肝胆相照らす仲となった。
 勝海舟は、島津斉彬に命じられて、長崎の幕府海軍伝習所で航海術を学んだ折の恩師で、島津両藩主からグラバー、西郷や大久保、高杉、グラバーをとおして坂本龍馬、そして、勝海舟と維新の雄との人脈がこうしてできていった。
 グラバー商会が、薩摩に売ったのが、アメリカ南北戦争で使われた銃だったことはすでにのべたが、アメリカから銃を大量に買い付けたのが英国の代表的な国際企業マセソン商会だった。
 マセソン商会は、井上聞多、伊藤博文ら長州五傑のロンドン留学を支援しているが、グラバー商会も、薩摩藩が、五代友厚ら3人の外交使節団と森有礼ら15名の留学生(遣英使節団)をイギリスに派遣した際、手引きをしている。
 長州五傑と薩摩藩士が、ロンドンで会合をかさねて、討幕の謀議をかさねていたのはいうまでもないが、これが、マセソン商会とグラバー商会が仕組んだ罠だったことに日本の歴史家はふれない。
 犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩をむすびつけた(薩長同盟)のは坂本龍馬ということになっているが、黒幕はグラバーで、当時、龍馬は、頻繁にグラバー邸を訪れて、資金援助を受けていた。
 龍馬率いる亀山社中(海援隊)が、薩摩藩名義でグラバー商会から購入した武器や軍艦などの兵器を長州へ転売したのも、グラバーの指図だった。
 五代友厚は、1864年、薩摩藩にたいして上申書を提出している。
「五代才助上申書」と呼ばれるもので、才助は友厚の幼名で、賢さに感心した島津斉彬のよる命名である。
 五代才助上申書にこうある。

(1)米・海産物などを上海に輸出し、これによって利益を得よ
(2)その利益で、製糖機械を購入し砂糖を製造、販売して収益を得よ
(3)砂糖輸出で得た収益で留学生を派遣、そして同行する視察員が軍艦、大砲、小銃、紡績機械を買い付けよ
(4)学校や病院、化学、印刷、鉄道、電話設備など産業革命の技術を学べよ

 坂本龍馬が作成したといわれる「船中八策」なる伝説(原本は存在せず)も五代友厚の作ではなかったかと思われる。内容が土佐藩脱藩志士の能力をこえていることにくわえ、そのなかにこんな一文があるからである。
 一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事
 幕末、日本から500万両の金が海外に流れている。
 マセソン商会の日本接近や黒船来航も、金をもとめてのことだった。
 金事情に詳しく、金の流失を悔しがったのが、のちに、金融界に転出して「金銀分析所」や「造幣寮」を設立した五代友厚だった。
 次回は、黄金の国ジパングと明治維新の関係についてのべよう。
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2021年03月15日

 天皇と民主主義 その8

 ●維新の2巨魁、岩倉具視と大久保利通
 明治維新が革命だったか、クーデターだったかという議論に、あまり意味はないだろう。
 明治維新は、政治的謀略だったからで、立案者は、公家の岩倉具視と薩摩の大久保利通だった。
 両名とも、当時から評判がわるく、岩倉には、孝明天皇の暗殺という風評が立ち、大久保は、士族の目から見れば「戊辰戦争」「士族の乱」をひきおこした大悪党だった。
 岩倉具視は、国葬第一号の超大物だが、公的な記録のほかに評伝がほとんどなく、自宅をやくざの賭場にしていたなどの悪評ばかりが残っている。
 大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)には、会津など旧奥羽列藩から実行犯の出身地、石川や島根、大久保の地元である薩摩の士族までがよろこび、薩摩への納骨がついに断念された(青山霊園に埋葬)ほどである。
 大久保は、佐賀の乱で、みずから鎮台兵を率いて鎮圧、首謀者の江藤新平ら13人を裁判抜きで処刑したばかりか、江藤を晒し首にして、その首を写真に撮って全国県庁に貼りだすというふるまいにでた。
 維新十傑の一人、かつての同志をこの扱いでは、西南戦争における西郷隆盛の場合も推して知るべしで、政府軍を指揮して、懸賞付きで西郷の首をもとめた。戦後、西郷の死を知って号泣したなどの話がつたわるが、すべて、のちの作り話である。

 岩倉具視は、国体を破壊して、大久保利通は、国家を毀損した。
 日本は、幕府(政体)と朝廷(国体)にもとづく「権力と権威」の二元論の伝統国家で、それが、当時、世界一の江戸文化を形成した最大の理由だった。
 岩倉と大久保がもとめたのは、天皇主権による絶対主義国家の建設だった。
 といっても、王権神授説にもとづくヨーロッパ的な王権国家をめざしたわけではない。
 天皇を政治利用して、薩長と公家の一部で、王政復古の名目で、専制国家をつくって、その権力をあやつろうという計略を立てたのだった。
 王政復古といっても、かつて、日本に王政などなかった。大和朝廷は天皇と豪族の連合政権で、天武・持統朝の皇親政治にしても、政治形態は、律令制であった。魏醍醐天皇の「建武の新政」に至ってはわずか数年で挫折している。
 国体を破壊したのが岩倉具視なら、政体をつくかえたのが大久保で、岩倉が天皇絶対主義を、そして、大久保は、内務省を設置して官僚機構の基礎をつくりあげた。
 王政復古の後、岩倉と大久保が画策したのが武士階級の廃絶だった。
 公武合体論で騙して、徳川慶喜に大政奉還(1867年)させたのち、版籍奉還(1869年)や廃藩置県(1871年)にもとづく辞官納地や秩禄処分などで武士の生活権を危機にさらして、廃刀令や徴兵令などによって、さらに旧来の特権を奪って、士族を追いつめたのである。
 岩倉と大久保のやり方は狡猾で、王政復古の後、徳川慶喜が出席していない小御所会議で、慶喜の辞官納地を主張した。
 新政府が、徳川慶喜を政権にくわえず、辞官納地を要求したことに、旧幕臣や幕藩士族らが憤激したのはいうまでももない。
 版籍奉還したのは、知藩事として、藩主が藩政を執ることをゆるされたからだった。ところが、その2年後の「廃藩置県」によって、県の政治は中央から送りこまれた役人(県令)にゆだねられることになって、藩主も藩士も権力や役職、収入を失うはめになった。
 徳川慶喜も全国の藩主、藩士も、岩倉具視に一杯食わされたのだった。
 慶喜は、1868年、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて、大坂から京都にむかう途上、薩長両藩を中心とする新政府軍と衝突して、ここに、戊辰戦争の火ぶたが切って落とされた。
 鳥羽・伏見の戦いで勝った新政府軍は、江戸へ引きあげた慶喜を朝敵として征討の軍をおこし、各地で旧幕府側の勢力を打ち破って、江戸に迫った。
「官軍」の名乗りと「錦の御旗」の前に戦意を失っていた慶喜は、恭順の意を示したため、新政府軍は戦うことなく江戸城を接収した。江戸城の無血開城の交渉は、1868年、新政府側を代表する西郷隆盛と旧幕府側を代表する勝海舟の間でおこなわれて、これで、政変は収束する方向へむかうはずだった。
 前年、すでに、大政奉還がおこなわれて、争いの種はなくなっている。

 ところが、ここからが岩倉と大久保の悪知恵で、日本は旧体制の破壊≠ニいう新しい局面へはいってゆく。
 岩倉と大久保が、フランス革命のロベスピエール、イギリス革命のクロムウェル、ロシア革命のレーニンとスターリンとなって、天皇軍事国家をつくってゆくのである。
 戊辰戦争をおこして、旧幕臣や奥羽越列藩を壊滅させた新政府軍が、つぎにもちだしたのが「版籍奉還」と「廃藩置県」だった。士族をおいつめて、1874年の佐賀の乱から神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして、1877年の西南戦争で、不平士族を一掃すると、徴兵令を敷き、日清・日露戦争の準備をすすめる。
 それにしても、幕府や列藩の軍隊は、なぜ、薩長軍に手も足もでなかったのであろうか。
 火器である。薩長の火器は、アメリカ南北戦争(1862〜1865年)で使用されたスナイドル銃やミニエー銃、エンフィールド銃が主力で、殺傷力がつよく、南北戦争では、約62万人の戦死者をだしている。
 アメリカから中古の銃を大量に輸入して、薩長に売りつけたのが、長崎県のトーマス・グラバー(「グラバー園」)で、その手先となったのが海援隊の坂本龍馬だった。
 長崎グラバー商会は、世界的財閥「ジャーディン・マセソン商会」(上海)の日本支社で、坂本龍馬のほか、五代友厚と岩崎弥之助とも親しく、五代ら十数名をイギリスに留学させている。
 マセソンが日本に目をつけたのは、日本の金で、当時、日本の金の産出量が世界の総産出量の3分の1を占めていたが、わずかの期間で、すべて流出している。
 次回は、明治維新の背後で、金をめぐってくりひろげられた国際陰謀についてのべよう。
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2021年03月08日

 天皇と民主主義 その7

 ●岩倉具視の謀略と公武合体論
 左翼は、明治維新が西洋の市民革命にあたるというが、当のイギリスやフランス、ロシアやアメリカで、はたして、その市民革命がおきたのだろうか?
 イギリス革命は、国王チャールズ1世を処刑した後、クロムウェルの独裁となって、王政復古後、ジェームズ2世を追放して、オランダから王妃と新王を迎えいれた。
 フランス革命は、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネット、その子らを処刑したロベスピエールの恐怖政治をへて、ナポレオンの軍事政権へ移っていった。
 ロシア革命は、ロマノフ王朝一族を処刑したのち、レーニンとスターリンの専制となって、粛清政治がおこなわれた。
 アメリカ革命は、ヨーロッパとりわけフランスの支援をえて、米大陸の13植民地が英国軍を破った事実上の全欧州による反英戦争にすぎなかった。
 これら政変の、どこで、市民が政治権力をにぎったろう?
 あったのは、権力の移動だけで、王権神授説にもとづいた君主権を否定した新しい権力が、人民代表を自称したにすぎない。
 革命政権が名乗ったのが民主主義≠ナ、伝統に代えて、人民の支持を権力の正統性としたのである。
 とりわけ、王政復古や独裁政治がなかったアメリカでは、民主主義を唯一の国家の背骨にすえなければならなかった。
 イギリスは議会、フランスは人権、ロシアはボリシェビキ(多数派)独裁を王権神授説に代わる政治の原理としたように、アメリカは、民主主義を国家の根幹としたのである。
 日本が憲法の国民主権を筆頭に、民主主義一辺倒なのは、戦後、アメリカの被占領国となったからで、右陣営の一部でさえ、憲法や民主主義を、第二の国体と心得ている者もいる。

 明治維新は、市民革命どころが、薩長土肥によるクーデターだった。
 暗躍したのが身分の低い公家ながら、孝明天皇の侍従に出世した岩倉具視と薩摩藩主島津久光の側近で、公武合体策をすすめた大久保利通だった。
 明治維新の核心は、岩倉と大久保がすすめた「大政奉還」と「王政復古」にあったのはいうまでもない。戊辰戦争以下、西南の役に至るまで、薩長の暴走もしくは怨恨で、維新の精神とは無縁の政争でしかなかった。
 明治維新のプランナーは、岩倉具視で、それにのせられたのが大久保や西郷隆盛だった。西郷は、西南の役で自刃する前に、徳川慶喜にすまぬことをしたと呟いたという。
 大久保や西郷が奔走したのは、薩摩藩の藩士として、藩主の島津斉彬の尊王攘夷や島津久光の公武合体論をささえる立場にあったからだった。
 尊王攘夷の尊王は、天皇を敬い、攘夷は、開国をもとめる外国を撃退しようとする思想である。
 ところが、その急先鋒だった薩摩と長州は、薩英戦争や下関戦争で外国船とたたかうものの、大砲の威力にちがいで圧倒される。
 すると、薩長は、あろうことか、尊王攘夷を捨てて、開国・倒幕へと方針を転換させる。
 だが、徳川は、すでに、大政奉還をきめていて、内乱の要素などなかった。
 このとき、岩倉は、徳川慶喜に大政奉還させ、しかるのちに、薩長に官軍を名乗らせて、幕藩体制をつぶそうという悪知恵をはたらかせる。
「公武合体」の立場をとっていた岩倉は、和宮親子内親王(孝明天皇の妹君)の14代将軍徳川家茂への降嫁を取り仕切って、これが、大政奉還の下敷きとなった。

 公武合体論は、欧米議会をモデルに、諸侯や有能な藩士を議員とする議会を中心とする画期的な国家構想で、坂本龍馬の「船中八策」や西周の「議題草案」津田真道の「日本国総制度」などもこれをとりいれ、当時、もっとも具体的な政権構想であった。
 徳川慶喜が大政奉還したのは、この新体制の「大君」の位置につけるという見通しがあったからで、大政奉還したその日に、岩倉具視が、薩長に「倒幕の密勅」を送りつけるとは夢にも思っていなかった。
 ところが、岩倉は、慶喜を騙したあと、公武合体論を返上して、戊辰戦争を工作する。そして、ヨーロッパの王権神授説を借りてきて、現人神による独裁国家を画策する。
 日本は、ゆたかな歴史や文化、伝統をもった武士の国から、国民皆兵の天皇の国となって、第二次大戦が終わるまで、この体制が維持される。
 岩倉具視の罪状を列挙すると以下である。
 
 1、大政奉還の工作と「倒幕の密勅」を偽造
 2、公武合体論の廃棄と討幕謀略
 3、「官軍」と」「錦の御旗」の偽造
 4、江戸城攻撃と戊辰戦争の工作
 5、天皇を国家元首とする国体の破壊
 6、辞官納地や秩禄処分などで不平士族の乱を招いた


 イギリス革命にはクロムウェル、フランス革命にはロベスピエール、ロシア革命にはレーニンやスターリンという悪役が登場したが、明治維新で登場したのは岩倉具視という悪で、岩倉には、孝明天皇や坂本龍馬の暗殺という容疑もかかっている。
 明治維新がブルジョア革命だったという左翼の言い分はとんでもない戯言だったのである。
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2021年03月01日

 天皇と民主主義 その6

 ●明治維新は革命かクーデターか
 明治維新は、革命だったのか、それとも、クーデターだったのか。
 この判定は、敗戦後のGHQ体制や戦後レジームの評価にもかかわってくる重大な問題である。
 左翼が明治維新を革命というのは、第二次世界大戦の敗戦を敗戦革命≠ニみてのことである。
 明治維新と先の敗戦を合わせて、レーニンのいう二段階革命がおきたといいたいのである。
 明治維新で封建体制を打ち破ったのちに、先の大戦に負けて、民主主義革命が実現されたという理屈である。 
 げんに、左翼や護憲派は、憲法学の宮沢俊義が唱えた「八月革命」論をいまなお信奉している。
 護憲派が八月革命論を支持するのは、憲法がそのバイブルになっているからである。
 日本の憲法では、国家主権が、すべて、国民主権にいれかわっている。
 これがフランス革命の「人権宣言」にあたると自画自賛する左翼もいるほどである。
 ちなみに、現行憲法には、国民と主権という文字が合わせて50回でてくるが、国家主権という文字は一度もでてこない。
事実上の国家主権である交戦権も否定されている。これは当然のことで、当時、日本は、被占領国で、武装解除されていた。
 したがって、1951年サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復した段階で、GHQ憲法を廃棄して、新憲法を制定すべきだった。
 ところが、左翼の抵抗と吉田首相が消極的だったこともあって、それができなかった。
 その意味で、現行憲法は、GHQではなく、左翼による押し付け憲法だったのである。

 左翼が、明治維新をブルジョワ革命とみるのは、封建体制が崩壊したとみるからである。
 代表的な論者が、大内兵衛や向坂逸郎ら労農派で、明治維新は不徹底ながらもブルジョア革命で、天皇はブルジョア権力にとりこまれたと論じた。
 これにいして、羽仁五郎ら講座派は、絶対的天皇制と封建性が残っているとして、革命論には立たなかった。
 だが、明治維新が、徳川幕府にたいする、薩長らのクーデターだったという見解をもつにはいたらなかった。
 戦後、羽仁五郎や遠山茂樹らマルキストの『明治維新』(岩波新書・書店)や『坂本龍馬と明治維新(ジャンセン)』、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が国民的ベストセラーになる一方、明治政権下の江戸幕府暗黒論がいきわたって、明治維新が輝かしい歴史的偉業ともてはやされた。
 明治維新は、徳川慶喜の協力で、わずか3年で達成されている。

 1867年 大政奉還 王政復古
 1868年 五箇条の御誓文
 1869年 版籍奉還(江戸城無血開城)


 明治維新は、徳川幕府と江戸300余藩が薩長土肥の下級武士による討幕の動きに応じて、早々に、政権返上を申し出たものである。
 それが、摂政や関白、幕府が権威である朝廷から権力をあずかる日本特有の政治機構で、徳川幕府もその伝統にしたがったのである。

 ところが、ここで、異変がおきる。
「大政奉還」がおこなわれた同年同日(1867年10月14日)、岩倉具視が「討幕の密勅」をデッチあげて、薩長に討幕をけしかけるのである。
 孝明天皇の徳川慶喜ににたいする信頼は厚く、大政奉還も、その信頼関係にもとづいたもので、慶喜にも、新体制の長に任じられるという自信があった。
 孝明天皇がきらっていたのは、むしろ、禁門の変で、京に火を放ち、御所に発砲した長州だった。
 その孝明天皇が、慶喜が大政奉還したその日、薩摩と長州に討幕の密勅≠発するわけがない。
 明治維新を倒幕運動へ変質させたのは、岩倉具視の謀略だが、その総仕上げとなったのが戊辰戦争だった。
 戊辰戦争は、新政府が、徳川慶喜を政権から排除して、辞官納地を要求したことにたいする旧幕臣や会津・桑名両藩士らの憤激を端に発する。
 慶喜は、1868年1月、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて京にむかったが、これを迎え撃ったのが、薩長両藩を中心とする新政府軍(官軍)であった。
「鳥羽・伏見の戦い」から戊辰戦争がはじまるが、これらの内乱と明治維新となんのかかわりもない。
 あったのは、薩長とりわけ「長州征伐」や「禁門の変」にたいする長州の遺恨だった。
 会津戦争における長州軍の強姦や強奪、無差別殺人、遺体の埋葬禁止などの残虐非道ぶりは、いまなお語り継がれているが、すべて、禁門の変で、京都守護役の会津藩(松平容保)に鎮圧された恨みである。
 現代でも、明治維新は、徳川を滅ぼして、近代をつくりあげた薩長の偉業ということになっている。
 次回以降、薩長政権の虚構と謀略にふれつつ、天皇を政治利用した明治維新の実体に迫っていこう。
posted by office YM at 16:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする