●国譲りの「シラス」と「ウシハク」
奥州藤原氏の中尊寺金色堂(平泉)や豊臣秀吉の黄金の茶室、そして、庶民までがもっていた小判を挙げるまでもなく、近世以前、日本は、世界で有数の金の産出国で黄金の国ジパング≠ニ呼ばれた。
「黄金の島ジパング」という記述は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」によるものだが、実際に日本へやってきたザビエルやフロイスら宣教師、博物学者で医師のケンペルやシーボルトらも、日本がゆたかな文明国であることを母国に克明につたえている。
なかでも、日本には聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の二人の支配者がいると紹介したケンペルの「日本誌」は、ゲーテやカント、ヴォルテールやモンテスキューらの関心をひいて、これが、19世紀のジャポニスムにつながってゆく。
ルソーも「日本誌」を読んでいるはずである。それで「君民共治という理想的な国が地上に存在するはずはないので、わたしは、やむをえず、民主主義をえらぶ(社会契約論)」といったのである。
ルソーは、ゲーテやカントのように「日本誌」を信用しなかったが、天皇と将軍について、詳細に記述したケンペルの日本論は、最近、完訳がでた(今村英明訳)こともあって、一読する価値がある(毎日新聞)という。
ケンペルは、明治時代に制定された神武天皇の即位の時代設定を、17世紀において、西暦に計算しなおして、紀元前660年と定めたほか、歴代天皇の「諱(いみな)」も明らかにしている。
ヨーロッパ人が、天皇をキングと呼ばない理由は、ケンペルの「日本誌」をとおして、日本を理解していたからである。
当時、ヨーロッパ人は、日本を錦絵や浮世絵、観賞用陶器をもった文化国家とみなしていた。
ちなみに、ヨーロッパで、美術品が庶民のものになるのは、19世紀の産業革命の後のことである。
中世から近世にかけて、世界最大の都市は、江戸で、ロンドンの80万人やパリの50万人にたいして100万人の人口を擁していた。
現代の大学や専門学校にあたる私塾が1500、義務教育にあたる寺子屋に至っては15000もあって、識字率も、ロンドンの10%にたいして日本は70%以上だった。
宣教師たちを驚かせたのは、下水道処理や流通などのライフラインが整っているばかりか、衣食住の文化が花咲いて、市街が清潔で美しいことだった。
しかも、ヨーロッパに比べて犯罪が極端に少なく、小伝馬町の牢屋はいつもがらがらだった。
日本で犯罪が極端に少ない理由について、ケンペルは「日本誌」で、天皇と将軍(幕府)の二元論にふれて、権力一本のヨーロッパと比較している。
五代将軍徳川綱吉とも謁見しているケンペルは、徳川政権がもっとも栄えた元禄の天和の治≠ェ権力だけでもたらされたものではないことを知っていたはずである。
日本学者だったケンペルは、日本の建国神話にも詳しかった。
大国主命の「国譲り」(古事記)に「シラス」と「ウシハク」ということばがでてくる。
シラスは、国がしぜんに治まってゆくさまで、ウシハクは、支配することである。
汝之字志波祁流 此葦原中國者 我御子之所知國
「汝のウシハケる この葦原の中つ国は 我が御子のシラス国なるぞ(この国は天照大御神の子である天皇が治めるもので、大国主命が私有するものではないぞ」
ウシハケルは「ウシ(=主人)ハケる(佩ける=所有する)」で、私物化するという意味の古語である。
一方、シラスは、知らしむ、知らしめるということばの原形で、つたえるという意味である。
シラスが「治める」となるのは、つたえるだけで、民がみずから従うからである。
ウシハケルは「統治する」ことだが、権力の行使なので、ときには、抵抗と弾圧をまねき、凄惨な事件に発展する。
世界史はウシハク≠フ歴史で、支配者は、権力を使って民を従え、他国を侵略してきた。
日本が、キリシタン禁止と鎖国政策をとったのは、スペインとポルトガルが侵略した国の支配権を分けあう「トルデシャリス条約(1494年)」の存在を知ったからで、侵略の先鞭となったのが、キリスト教の布教活動だった。
鎖国は、侵略を防衛するためだったが、ケンペルは、日本の外交戦略を高く評価(『鎖国論』)している。
一方、日本の歴史はシラス≠ナ、民は、権力から強制がなくとも、権威のシラスにたいして、みずからすすんで従うので、混乱がおきない。
天皇の権威が不在だった戦国時代、加賀や長島などの一向一揆が大勢力となって織田信長を追いつめたとき、信長の意向をうけて、正親町天皇が調停に立つと、一向一揆(浄土真宗本願寺派/蓮如)はおとなくひきさがった。
権力(ウシハク)には一歩も退かなかった一向一揆も、権威(シラス)には歯向かおうとしなかったのである。
大日本帝国憲法第1条に「万世一系の天皇これを統治す」とある。
憲法草案を考えたのは「教育勅語」を書いた井上毅で、原案には「天皇これをしらす」とあった。
帝国憲法でも、天皇の役目は、統治権の輔弼や総攬にあって、憲法の条規が優先されるのは、立憲君主制として、当然のことであった。
ところが、井上毅に憲法原案を書かせた伊藤博文、その伊藤をヨーロッパに派遣してビスマルク憲法の研究をさせた岩倉具視が望んだのは、立憲君主制ではなく、天皇を政治利用する絶対君主制だった。
井上の「しらす」は、伊藤や岩倉らに「統治す」と書き直された。
そして、統治権が軍令権を兼ねる統帥権にまで拡大されて、昭和の軍国主義がうまれるのである。
昭和の軍国主義は、天皇の権威を借りた軍閥が民(国民)や臣(政治家)を支配した暗黒政治で、原型をつくったのは、岩倉具視だった。
「小御所会議」(1868年)の出席者は十五歳の明治天皇と皇族・公卿以外の大名の出席者は、元尾張藩主徳川慶勝、前越前福井藩主松平春嶽、前土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津茂久、安芸広島藩主浅野茂勲の五名だった。
同会議の争点は「討幕派」の岩倉具視(参与)と「尊皇佐幕派」の山内容堂の対決だった。
大政奉還は、天皇からあずかっていた権力をいったんお返して、もういちど政治体制を考え直すということである。
したがって、そこに、前任者の徳川慶喜がいなければ、筋がとおらない。
山内容堂は、徳川慶喜の不在に異議を唱え、さらに、同会議が、幼い天皇を担いだ謀議だと非難した。
このとき、岩倉具視は「幼沖なる天子とは何事か!」と山内を一喝した。
だが、核心を衝いた容堂の主張に松平春嶽、浅野茂勲、徳川慶勝が同調したため、却って、岩倉が窮地に陥って、会議は休憩に入った。
参与の席には、後藤象二郎(土佐藩士)らのほか、西郷隆盛や大久保利通が控えていた。
このとき、西郷が「短刀一本あれば片づく」と岩倉にシグナルを送った。
岩倉は、広島藩の浅野茂勲に、西郷の決意をつたえ、これが、後藤象二郎をとおして、山内容堂と松平春嶽の耳にはいった。
岩倉や西郷、大久保らは、天皇を担いで天下をとった悪党である。
「岩倉具視が孝明天皇を毒殺した」という噂が広がっていた。西郷も、江戸で強盗や殺人、放火をくりひろげた「薩摩御用盗」の首謀者として知られていた。
自宅に博徒を集めて賭場をひらいていた三流公家の岩倉や犯罪集団の親分である西郷が刃傷沙汰ちらつかせて、大名らが臆さないわけはなかった。
のちに、天皇の権威を借りた恫喝とテロの連鎖が「昭和軍国主義」をつくりあげてゆくことになる。
その原型は、小御所会議にあったのである。