2021年04月26日

 天皇と民主主義 その14

 ●廃仏毀釈と近代化という一神教♀v命
 明治天皇と大正天皇の主治医で、岩倉具視の臨終を看取ったドイツ人医師のベルツは、日本人は、自国の歴史に誇りをもっていないどころか、恥じてさえいるといって、嘆いた。
「なにもかもすべて野蛮でした」「われわれに歴史はありません。われわれの歴史はこれからはじまるのです」
 ベルツが「大変不快なこと(ベルツの日記)」と書き残した日本人のこの自虐史観は、いまも残っていて、日本共産党や日教組、朝日・毎日ら左翼マスコミのオハコである。
 自国の歴史を否定する自虐史観は、家の土台を壊すようなもので、マルクス主義者や西洋かぶれなどの国際派が、この愚行に走るのは、革命志向をもっているからである。
 ベルツは、日本に29年間滞在して、日本人妻とのあいだに4人の子をもうけたドイツ人医師で、日本人の自己否定や西洋コンプレックスを、終生、批判しつづけたのは、日本を愛するがゆえであった。

 自己否定の極みが廃仏毀釈≠ニいう明治維新の狂気だった。
 奈良興福寺では、二千体以上の仏像が焼かれて、経典が包み紙にされたほか多数の宝物が散逸して行方不明になっている。五重塔も、解体されて薪となる寸前で、二束三文の値までついた。
 興福寺があった場所は、現在、奈良ホテルや奈良公園になっているが、興福寺に並ぶ日本四大寺の一つで、広壮な伽藍を誇った内山永久寺は、文化遺産をふくめて徹底的に破壊されて、いまや、その痕跡さえ見ることができない。
 ベルツに「われわれに歴史はありません」といってのけた明治政府の若者の多くが薩長出身者だったが、廃仏毀釈がはげしかったのも薩長だった。
 薩摩藩では、藩内にあった1616寺院のすべてが失われ、現存する新興の481の寺に、国宝や重要文化財の仏像は1点もない。
 廃仏毀釈がはげしかったのは、薩長のほか、梵鐘・仏具から大砲をつくった水戸藩、土佐藩、伊勢神宮のお膝元、伊勢国、美濃国などだが、美濃の苗木藩では寺院すべてが廃寺となって、現在でも、葬式は神葬祭(土葬)である。

 神道は、神話で、宗教ではないことは、ギリシャ神話が、宗教ではないのと同様である。
 賀茂真淵や本居宣長の国学でも、神道は、古事記や万葉集に象徴される文化の体系で、それが、国体に反映されて、国のかたちができあがった。
 仏教も、元来、国家鎮護を目的としたもので、それが、東大寺の「大仏思想」である。
 国を鎮護するから大仏で、人間の悟りを導く広隆寺の弥勒菩薩は、人体よりも小さい。
 東大寺の大仏は、毘盧舎那仏(大日如来)で、神仏習合において天照大神と同一視された。
 神仏習合は、縄文アニミズムや神話が土台になっている神道の一部に仏教という外来宗教がとりこまれただけで、崇仏派の蘇我と排仏派の物部が、神道か仏教かの二者択一的な戦争をおこなった結果ではない。
 渡部昇一は、聖徳太子が「十七条憲法」の二で「篤敬三寶(仏・法・僧)』といいながら神道にふれていない点について「日本の神を崇めるのはあたりまえのことで、日本料理の本に、箸を片手に二本もって食べるべしと書いていないのと同じことである」と喝破している。

 古事記には、八百万の神々をつくった伊邪那岐尊(イザナギ)と伊邪那美尊(イザナミ)の直系、天照大神と瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子孫にあたる神武天皇が日本を治めたと記されている。
 ギリシャ神話にも、夫のイザナギが妻のイザナミに会いに黄泉の国へむかう同じ話がある。
 オルフェウスが毒蛇に噛まれて死だ妻エウリディケーを生き返らせてもらうために冥府にむかうという箇所で、両者に共通するのは、地上に出るまで妻を見てはならないという設定である。
 イザナギの場合は、イザナミが黄泉の亡者とともに追ってくるが、オルフェウスの場合は、姿を見られたエウリディケーがその場で石になってしまう。
 ヨーロッパで、キリスト教がギリシャ神話やローマ神話にとってかわったのは、国家を統一して、敵と戦うには、一元論の絶対神が必要だったからだった。
 価値観が多元的で多様な多神教は、おおらかで、敵を攻めることも、攻めてくる敵と武器をもってたたかうこともできない。
 アステカ・マヤ・インカ文明は、無抵抗に滅ぼされたが、抵抗したアメリカインディアンも、オーストラリアアボリジニもほぼ全滅させられた。
 ヨーロッパでは、多神教文明を滅ぼしたそのキリスト教文明が、権力版図を広げて国家をつくった。

 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、ゲルマン人の大移動がはじまる。
 そして、7世紀になると、、現在のドイツ、フランス、イタリアの基礎となるフランク王国がヨーロッパの中心となる。
 ローマ帝国は滅びたが、4世紀末にローマ帝国の国教となったキリスト教は衰えることなく、ローマ教皇は、8世紀後半、フランク王のカールと連携して強大な王国を築きあげた。
 教皇の呼びかけによって、十字軍の遠征がおこなわれた11世紀、フランク王国の王とローマ教皇とのあいだで権力闘争がおこる。
 ローマ教皇グレゴリウス7世が、フランク王国を継承する神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世を破門すると、ハインリヒは、雪のなか3日間、グレゴリウスがいた北イタリアのカノッサ城門前で、裸足のまま断食と祈りを続け、教皇に赦しを乞うのである(カノッサの屈辱)。
「教皇は太陽、皇帝は月」と呼ばれた時代で、教皇が圧倒的に優勢だった理由は、国家の支配原理が信仰だったからである。
 日本の歴史家は、ローマ教皇と国王との関係を、天皇と将軍の関係になぞらえて語るが、それはまちがいで、天皇は、権威であって、ローマ教皇のような権力者ではなかった。
 ところが、14世紀にはこれが逆転する。破門されたフランス王が、教皇を幽閉して、教皇が憤死するという事件がおきるのである。
 そして、16世紀になって『国家論』の、ボーダンらによって王権神授説が唱えられ、神以外、ローマ教皇ですら王権に干渉できないことになって、絶対王政が確立された。
 次回以降、日本の天皇とヨーロッパの王政のちがいをみてゆこう。
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2021年04月19日

 天皇と民主主義 その13

 ●河井継之助と小地谷の官軍問答
 ヨーロッパの市民革命は、主役が、市民(ブルジョワ)だった。
 ところが、明治維新は、反乱軍が「官軍」を名乗って、大政奉還したのちに恭順の意をしめした東北(陸奥、出羽、越後)の幕藩側に殲滅戦を仕掛けるという暴挙にでた。
 反乱軍が幕藩側にたいして攻勢にでたのは、アメリカから火器(南北戦争の中古銃=スナイドル銃・ミニエー銃・エンフィールド銃)をたっぷり仕入れていたからで、銃輸入の仲介に立ったのが、明治政府から、勲二等旭日重光章を授与されたトーマス・グラバーだった。
 グラバーは、中国のアヘン戦争を仕掛けたマセソン商会(イギリス)の日本支社(グラバー商会)で、マセソン商会は、世界的な武器商社だった。
 外国から仕入れた武器で、徳川幕藩体制を壊滅させ、孝明天皇に代えて明治天皇を国家元首に立てて、どうしてこれを、市民革命などということができるだろう。
 明治維新が、薩長の討幕派と宮廷の反孝明天皇派が手をむすんだクーデターだったことは明らかだが、歴史家は、だれ一人、この事実を語ろうとしない。
 日本の歴史家の大半が、遠山茂樹を筆頭に、マルクス史観に立っているからで、明治維新を市民革命と位置づけなければ気がすまないのである。
 憲法は「八月革命説」の宮沢俊義、近代史は「明治維新(岩波)」の遠山茂樹という二人の重鎮(東大左翼)に牛耳られていて、日本の法学や史学は、そこから一歩もうごけないのである。

 明治維新のキーワードが官軍≠ナある。
 官軍の征討大将軍には仁和寺宮彰仁、東征大総督には有栖川宮熾仁が任じられたが、任じたのは「討幕の勅書」や錦の御旗(錦旗)を偽造した岩倉具視や三条実美らで、年少だった明治天皇が関与したはずはない。
 官軍という呼称も、岩倉や三条ら反孝明天皇派の公卿の専断である。
 朝廷の軍が官軍だったのなら、孝明天皇の崩御後、一夜にして、孝明天皇がきらっていた長州が官軍になって、一方、孝明天皇の信頼が厚かった会津藩主松平容保が賊軍になるはずはない。
 孝明天皇が、突如、崩御(1866年12月25日)されると、2週間後の1867年1月9日、明治天皇が14歳で即位して、岩倉や中山忠能ら反孝明天皇派の公卿が続々と朝廷に復帰してきた。
 一方、孝明天皇派の側近だった中川宮朝彦親王や二条斉敬らの公卿が朝廷を追われる。
 そして、官軍を名乗る薩長軍が、孝明天皇の信が厚く、尊王思想が高かった陸奥、出羽、越後を賊軍として、討つという。
 長州は、御所に砲撃を浴びせ、孝明天皇の拉致をはかった逆賊である。
 その長州が、孝明天皇の不審死の直後、喪に服することもなく、反孝明天皇派の公卿らとともに官軍を創設して、天皇と将軍が一体化していた「幕藩朝廷体制」の破壊につきすすんでゆく。
 これは、二重の政変で、1つは、幕藩体制の否定である。
 そして、もう一つは、権力構造の変更である
 権力に正統性をあたえていた権威が、権力の座へ横滑りして、権力と権威の二元化という日本の国のかたちを破壊した。
 日本は、国体=天皇と政体=権力の「二元論」から成り立ってきた国である。
 国体と政体の二元論は「聖俗二元論」でもあって、軍事力をもたない天皇と文化的・宗教的価値をもたない幕府が、支え合って、国家をつくりあげてきたのである。
 古代の豪族との連立政権から律令体制、藤原氏の摂関政治、院政をへて武家政治にいたるまで、日本は、権威と権力の二元論をもって、国家を安定させてきた。
 それが、明治維新で壊れて、明治憲法で、天皇元首の一元論的な専制国家になった。そして、そこから、昭和の軍国主義へ、そして、第二次大戦の敗戦につながってゆく。

 孝明天皇から明治天皇へいたる思想的、政治的連続性がすっぱりと断たれている。
 そして、その断裂の前に、薩摩の大久保利通と西郷隆盛、大量の火器で武装して官軍を名乗った長州、岩倉具視や三条実美らの反孝明天皇派の公卿が控えている。
 官軍は、鳥羽・伏見の戦いから上野戦争(彰義隊)、会津戦争へと戊辰戦争を拡大させていった。
 会津戦争は、奥羽と北越でおきた官軍と旧佐幕系諸藩との戦いである。
 鳥羽・伏見の敗戦後、会津藩主松平容保は謹慎して、官軍に帰順の意を示す。
 斡旋に立った仙台藩と米沢藩は、官軍の会津追討の決定を無情として抗戦を決意して、奥羽の旧佐幕系諸藩を説いて、奥羽大同盟がむすばれた。
「奥羽越列藩同盟」は、現在の青森・岩手・宮城・福島(奥州)と秋田・山形(羽州)、新潟(越州)の7県(31藩)で、有力藩が100藩に足りなかった幕末当時、薩長が31藩を敵に回すのは、天下分け目の戦いといってよかった。
 官軍が勝ったのは、圧倒的な火器と「官軍」の威名によるもので、奥羽越列藩は、内部に官軍への恭順(無条件降伏)派をかかえ、最後まで、徹底抗戦の態勢が敷けなかった。
 長岡藩は小藩だったが、家老上席の河井継之助は、藩主牧野忠訓の絶対的な信頼の下で、英米の武器商人からアームストロング砲やエンフィールド銃などの火器を調達して、一朝有事にそなえる。
 長岡藩が、当時、2門所持してガトリング砲は、日本に3門しかなかったというが、戊辰戦争がはじまると、継之助は、江戸の藩邸などをすべて処分して軍備費にあてている。

 政府軍の岩村精一郎と越後の小千谷(慈眼寺)で会談した継之助は、降伏を迫る岩村に反問している。
「会津討伐の理由は何か」「賊軍を討つが官軍ぞ」「会津は賊軍に非ず」「官軍に歯向かうは賊軍ぞ」「天子を戴く官軍が同胞を討つはずがない」「会津は同胞に非ず」「さては貴殿ら官軍ではあらぬな」
 激高した岩村に継之助はこう言い放った。「賊軍を討伐するというのは天子の名を借りた私闘、権力をとるための野望であろう」
 北越戊辰戦争で、河井継之助が率いる長岡藩は、3か月にわたって政府軍を苦しめたが、戦死者が340人におよび、継之助も銃創がもとで死亡した。
 もっとも被害が大きかったのが会津藩で、白虎隊をふくめて戦死者2400人のほか、婦女ら数千人が虐殺されたが、埋葬禁止令によって、数千の死体が白骨化するまで捨て置かれた。
 藩主松平容保は助命されて、会津藩も取り潰しにはならなかったが、容保と生き残った会津藩士は極寒の陸奥斗南(青森県むつ市)移封を命じられた。
 実高40万石の有数の穀倉地帯だった会津若松の地から、火山灰で覆われた3万石の地に追いやられた会津藩士の多くが、病死や餓死に斃れて果てた。
 松平容保は、首から提げた小さな竹筒を、終生、肌身離さなかったという。
 なかに入っていたのは、孝明天皇の宸翰(天皇直筆の書簡)と「禁門の変」の折の容保の忠誠を称揚する御製の和歌であった。
 明治維新が、薩長と、反孝明天皇派の二重のクーデターだったことをいちばんよく知っていたのは、松平容保であったろう。

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2021年04月12日

 天皇と民主主義 その12

 ●朝廷クーデターでもあった明治維新
 明治維新は、天皇を担いだ薩長討幕派によるクーデターだった。
 だが、見方によっては、薩摩の大久保利通と西郷隆盛、長州藩をまきこんだ朝廷クーデターだったともいえよう。
 首謀者は、岩倉具視と三条実美、明治天皇から錦の御旗をさずかった有栖川宮熾仁親王(東征大総督)、戊辰戦争における官軍の大将に任じられた仁和寺宮嘉彰親王らである。
 このなかに、明治天皇の外祖父で、岩倉の協力者だった中山忠能や長州藩とむすんで討幕にうごき、京都を追われて長州に落ち延びた7公卿らもふくまれる。
 クーデターが成功して、岩倉ら親長州派の公家、薩摩の大久保・西郷、長州勢が天下をとったが、このクーデターで、標的になったのが、孝明天皇だったことに、なぜか、歴史家はふれようとしない。
 親徳川・反長州で「公武合体派」だった父・孝明天皇にたいして、15歳で即位した明治天皇は、親長州・反徳川で「尊皇攘夷派」だった。
 朝廷の人脈も、対立関係にあって、父と子でありながら、孝明天皇と明治天皇のあいだに、思想や政策の連続性がみられない。

 孝明天皇につかえたのが、中川宮朝彦親王や関白・二条斉敬ら、幕藩体制をささえた皇族や公卿で、孝明天皇が信頼をよせたのが、徳川慶喜や京都守護職で会津藩主の松平容保、京都所司代で桑名藩主の松平定敬だった。
 この宮廷クーデターで、戦闘部隊だった薩長が、最大の敵としたのが会津と桑名だったのは、両藩が、孝明天皇の京都御所をまもっていたからだった。
 クーデター成功後、徳川慶喜が政治生命を断たれ、朝彦親王や関白二条らが朝廷への出廷を禁じられたが、会津藩と桑名藩にたいしては、そんな手ぬるい処置ではすまなかった。
 天下をとった長州藩が、住民ともども皆殺しという、日本史上、比類のない蛮行にでたのである。
 かつて、会津藩と桑名藩によって、京都を追われたことを根にもってのことだった。

 クーデターの火ぶたが切られたのは「禁門の変」(1864年)だった。
 その前年におきた「八月一八日の政変」で、京都における地位を失った長州藩が兵を率いて上京、会津、薩摩の両藩と、京と御所蛤御門の付近で会戦して敗れている。
「八月一八日の政変」というのは、薩摩の島津久光ら公武合体派が、尊攘派の公卿や志士ら尊攘派を京都から追放した事件である。
 長州を中心とする尊攘派が、大和を行幸中の孝明天皇を拉致して、討幕軍のシンボルにする計画を立て、実行部隊のテロ集団(天誅組)を活動させていることが発覚したからだった。
「禁門の変」で、長州は、御所に発砲して、賊軍となっている。
 尊王の大儀をもちあわせていなかったからで、孝明天皇も、長州をきらっていた。
 長州にとって、天皇は、徳川から権力を奪取するための玉(ギョク)≠ノすぎなかった。
 天皇を政治利用して「天皇君主制」の専制国家をつくろうとしている薩長や長州派の公卿らにとって、公武合体論に立つ孝明天皇、天皇の信頼をえていた徳川慶喜や会津の松平容保、桑名の松平定敬がクーデターの最大の妨害だったのである。
 孝明天皇の崩御(1867年)について、毒殺説がささやかれるのは、病状から毒物中毒が疑われることと、長州征伐や薩長同盟、公議政体論などが交錯するなか、孝明天皇が、討幕派の前にたちはだかっていたからだった。

 事実、孝明天皇の崩御後、岩倉具視ら長州派公卿の赦免、薩長と共謀による討幕の密勅工作、公武合体論の坂本龍馬暗殺、大政奉還、小御所会議(王政復古)、徳川慶喜に辞官納地命令と流れが変わって、公武合体論は、完全に瓦解した。
 そして、翌1868年には、大久保利通と岩倉具視らが錦の御旗(錦旗)を大久保の妾につくらせ、偽造した錦旗を掲げた薩長軍に「官軍」を名乗らせている。
 そして、長州派の仁和寺宮嘉彰親王を「官軍」の大将にすえた。
 これを見て、幕藩勢が、朝敵になるのをおそれて、士気を阻喪したのはいうまでもない。
 すべて、狡猾な岩倉具視、陰険な大久保利通の工作で、これに15歳の明治天皇が関与したはずはない。
 戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)勃発後、西郷隆盛と勝海舟による江戸城開城となるが、これは、巷間つたわる薩長史観の美談ですむはなしではない。
 徳川慶喜の委任をうけた勝は、西郷にたいして、徹底的な恭順の意を示しただけで、事実上、東北地方(陸奥、出羽、越後)への報復的な攻撃を容認したのである。
 上野戦争(彰義隊決起)にも、勝は、官軍への降伏をうったえただけだった。

 かつて、明治天皇の別人説が流布した。孝明天皇の長男(裕宮)は「禁門の変」で、長州の砲撃に気を失った気弱な子だったというが「小御所会議(1868年)」にあらわれた15歳の明治天皇は、大柄で豪胆、しかも、内裏育ちではありえない左利きだった。
 だが、天皇ついて語ることは、タブーで、小御所会議で、岩倉具視は、幼い天皇を担ぐのは謀議ではないかと異議を唱えた山内容堂を逆に詰問して、謝罪させている。
「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の大日本帝国憲法第3条(1890年)の10年前に刑法(1880年)で「不敬罪」が発効している。
 天皇について語ることを畏れ多い≠ニしたのは、天皇を政治利用するための便法だった。
 そして、それが、天皇陛下の名を口にするときは「おそれおおくも」と直立不動の「気をつけ」の姿勢をとらせた昭和の軍国主義につながってゆく。

 明治憲法は立憲君主制で「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」(第55条)とあって、天皇の命令も、国務大臣の署名がなければ発令できなかった。
 その構造は、明治天皇が天地神明に誓約する形式で公卿や諸侯などに示した「五箇条の御誓文」(明治政府基本方針/1868年)でも明らかで「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」と民主主義的で、どこにも、天皇主権が謳われていない。
 それでは、どこから〈現人神信仰〉がでてきたのであろうか。
 天皇軍国主義は、法に拠らない宗教で、源流は廃仏毀釈≠フ狂気をうんだ明治天皇の「大教宣布詔」である。
 この詔にもとづいて「神仏分離令」(1870年)が発布された。
 音頭をとったのが「討幕の密勅」を工作するなど岩倉具視や三条実美に協力してきた中山忠能らで、大教宣布詔では、天皇に神格をあたえ、神道を国教と定めて、大日本帝国を「祭政一致の国家」とする国家方針を示した。
 中山のいう神道は、平田神道のことで、平田篤胤は、加茂真淵や本居宣長ら国学系の古神道とは異質の神秘主義を唱えた。
 宇宙論から法華宗、密教や道教、キリスト教や聖書などをとりいれた一種の新興宗教で、天皇=現人神の観念も、平田神道の産物である。
 薩長の王政復古や廃仏毀釈、欧化主義、現人神信仰は、一元論で、日本文化の根本である二元論・多元論と真っ向から対立する。
 次回は、河井継之助の小地谷会議における「官軍問答」や官軍思想が狂気の昭和軍国主義へ変質していった経過を見ていこう
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2021年04月04日

 天皇と民主主義 その11

 ●国譲りの「シラス」と「ウシハク」
 奥州藤原氏の中尊寺金色堂(平泉)や豊臣秀吉の黄金の茶室、そして、庶民までがもっていた小判を挙げるまでもなく、近世以前、日本は、世界で有数の金の産出国で黄金の国ジパング≠ニ呼ばれた。
「黄金の島ジパング」という記述は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」によるものだが、実際に日本へやってきたザビエルやフロイスら宣教師、博物学者で医師のケンペルやシーボルトらも、日本がゆたかな文明国であることを母国に克明につたえている。
 なかでも、日本には聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の二人の支配者がいると紹介したケンペルの「日本誌」は、ゲーテやカント、ヴォルテールやモンテスキューらの関心をひいて、これが、19世紀のジャポニスムにつながってゆく。
 ルソーも「日本誌」を読んでいるはずである。それで「君民共治という理想的な国が地上に存在するはずはないので、わたしは、やむをえず、民主主義をえらぶ(社会契約論)」といったのである。
 ルソーは、ゲーテやカントのように「日本誌」を信用しなかったが、天皇と将軍について、詳細に記述したケンペルの日本論は、最近、完訳がでた(今村英明訳)こともあって、一読する価値がある(毎日新聞)という。
 ケンペルは、明治時代に制定された神武天皇の即位の時代設定を、17世紀において、西暦に計算しなおして、紀元前660年と定めたほか、歴代天皇の「諱(いみな)」も明らかにしている。
 ヨーロッパ人が、天皇をキングと呼ばない理由は、ケンペルの「日本誌」をとおして、日本を理解していたからである。
 当時、ヨーロッパ人は、日本を錦絵や浮世絵、観賞用陶器をもった文化国家とみなしていた。
 ちなみに、ヨーロッパで、美術品が庶民のものになるのは、19世紀の産業革命の後のことである。

 中世から近世にかけて、世界最大の都市は、江戸で、ロンドンの80万人やパリの50万人にたいして100万人の人口を擁していた。
 現代の大学や専門学校にあたる私塾が1500、義務教育にあたる寺子屋に至っては15000もあって、識字率も、ロンドンの10%にたいして日本は70%以上だった。
 宣教師たちを驚かせたのは、下水道処理や流通などのライフラインが整っているばかりか、衣食住の文化が花咲いて、市街が清潔で美しいことだった。
 しかも、ヨーロッパに比べて犯罪が極端に少なく、小伝馬町の牢屋はいつもがらがらだった。
 日本で犯罪が極端に少ない理由について、ケンペルは「日本誌」で、天皇と将軍(幕府)の二元論にふれて、権力一本のヨーロッパと比較している。
 五代将軍徳川綱吉とも謁見しているケンペルは、徳川政権がもっとも栄えた元禄の天和の治≠ェ権力だけでもたらされたものではないことを知っていたはずである。
 日本学者だったケンペルは、日本の建国神話にも詳しかった。
 大国主命の「国譲り」(古事記)に「シラス」と「ウシハク」ということばがでてくる。
 シラスは、国がしぜんに治まってゆくさまで、ウシハクは、支配することである。
 汝之字志波祁流 此葦原中國者 我御子之所知國
「汝のウシハケる この葦原の中つ国は 我が御子のシラス国なるぞ(この国は天照大御神の子である天皇が治めるもので、大国主命が私有するものではないぞ」
 ウシハケルは「ウシ(=主人)ハケる(佩ける=所有する)」で、私物化するという意味の古語である。
 一方、シラスは、知らしむ、知らしめるということばの原形で、つたえるという意味である。
 シラスが「治める」となるのは、つたえるだけで、民がみずから従うからである。
 ウシハケルは「統治する」ことだが、権力の行使なので、ときには、抵抗と弾圧をまねき、凄惨な事件に発展する。
 世界史はウシハク≠フ歴史で、支配者は、権力を使って民を従え、他国を侵略してきた。
日本が、キリシタン禁止と鎖国政策をとったのは、スペインとポルトガルが侵略した国の支配権を分けあう「トルデシャリス条約(1494年)」の存在を知ったからで、侵略の先鞭となったのが、キリスト教の布教活動だった。
 鎖国は、侵略を防衛するためだったが、ケンペルは、日本の外交戦略を高く評価(『鎖国論』)している。

 一方、日本の歴史はシラス≠ナ、民は、権力から強制がなくとも、権威のシラスにたいして、みずからすすんで従うので、混乱がおきない。
 天皇の権威が不在だった戦国時代、加賀や長島などの一向一揆が大勢力となって織田信長を追いつめたとき、信長の意向をうけて、正親町天皇が調停に立つと、一向一揆(浄土真宗本願寺派/蓮如)はおとなくひきさがった。
 権力(ウシハク)には一歩も退かなかった一向一揆も、権威(シラス)には歯向かおうとしなかったのである。
 大日本帝国憲法第1条に「万世一系の天皇これを統治す」とある。
 憲法草案を考えたのは「教育勅語」を書いた井上毅で、原案には「天皇これをしらす」とあった。
 帝国憲法でも、天皇の役目は、統治権の輔弼や総攬にあって、憲法の条規が優先されるのは、立憲君主制として、当然のことであった。
 ところが、井上毅に憲法原案を書かせた伊藤博文、その伊藤をヨーロッパに派遣してビスマルク憲法の研究をさせた岩倉具視が望んだのは、立憲君主制ではなく、天皇を政治利用する絶対君主制だった。
 井上の「しらす」は、伊藤や岩倉らに「統治す」と書き直された。
 そして、統治権が軍令権を兼ねる統帥権にまで拡大されて、昭和の軍国主義がうまれるのである。
 昭和の軍国主義は、天皇の権威を借りた軍閥が民(国民)や臣(政治家)を支配した暗黒政治で、原型をつくったのは、岩倉具視だった。

「小御所会議」(1868年)の出席者は十五歳の明治天皇と皇族・公卿以外の大名の出席者は、元尾張藩主徳川慶勝、前越前福井藩主松平春嶽、前土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津茂久、安芸広島藩主浅野茂勲の五名だった。
 同会議の争点は「討幕派」の岩倉具視(参与)と「尊皇佐幕派」の山内容堂の対決だった。
 大政奉還は、天皇からあずかっていた権力をいったんお返して、もういちど政治体制を考え直すということである。
 したがって、そこに、前任者の徳川慶喜がいなければ、筋がとおらない。
 山内容堂は、徳川慶喜の不在に異議を唱え、さらに、同会議が、幼い天皇を担いだ謀議だと非難した。
 このとき、岩倉具視は「幼沖なる天子とは何事か!」と山内を一喝した。
 だが、核心を衝いた容堂の主張に松平春嶽、浅野茂勲、徳川慶勝が同調したため、却って、岩倉が窮地に陥って、会議は休憩に入った。
 参与の席には、後藤象二郎(土佐藩士)らのほか、西郷隆盛や大久保利通が控えていた。
 このとき、西郷が「短刀一本あれば片づく」と岩倉にシグナルを送った。
 岩倉は、広島藩の浅野茂勲に、西郷の決意をつたえ、これが、後藤象二郎をとおして、山内容堂と松平春嶽の耳にはいった。
 岩倉や西郷、大久保らは、天皇を担いで天下をとった悪党である。
「岩倉具視が孝明天皇を毒殺した」という噂が広がっていた。西郷も、江戸で強盗や殺人、放火をくりひろげた「薩摩御用盗」の首謀者として知られていた。
 自宅に博徒を集めて賭場をひらいていた三流公家の岩倉や犯罪集団の親分である西郷が刃傷沙汰ちらつかせて、大名らが臆さないわけはなかった。
 のちに、天皇の権威を借りた恫喝とテロの連鎖が「昭和軍国主義」をつくりあげてゆくことになる。
 その原型は、小御所会議にあったのである。
posted by office YM at 23:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする