2021年04月12日

 天皇と民主主義 その12

 ●朝廷クーデターでもあった明治維新
 明治維新は、天皇を担いだ薩長討幕派によるクーデターだった。
 だが、見方によっては、薩摩の大久保利通と西郷隆盛、長州藩をまきこんだ朝廷クーデターだったともいえよう。
 首謀者は、岩倉具視と三条実美、明治天皇から錦の御旗をさずかった有栖川宮熾仁親王(東征大総督)、戊辰戦争における官軍の大将に任じられた仁和寺宮嘉彰親王らである。
 このなかに、明治天皇の外祖父で、岩倉の協力者だった中山忠能や長州藩とむすんで討幕にうごき、京都を追われて長州に落ち延びた7公卿らもふくまれる。
 クーデターが成功して、岩倉ら親長州派の公家、薩摩の大久保・西郷、長州勢が天下をとったが、このクーデターで、標的になったのが、孝明天皇だったことに、なぜか、歴史家はふれようとしない。
 親徳川・反長州で「公武合体派」だった父・孝明天皇にたいして、15歳で即位した明治天皇は、親長州・反徳川で「尊皇攘夷派」だった。
 朝廷の人脈も、対立関係にあって、父と子でありながら、孝明天皇と明治天皇のあいだに、思想や政策の連続性がみられない。

 孝明天皇につかえたのが、中川宮朝彦親王や関白・二条斉敬ら、幕藩体制をささえた皇族や公卿で、孝明天皇が信頼をよせたのが、徳川慶喜や京都守護職で会津藩主の松平容保、京都所司代で桑名藩主の松平定敬だった。
 この宮廷クーデターで、戦闘部隊だった薩長が、最大の敵としたのが会津と桑名だったのは、両藩が、孝明天皇の京都御所をまもっていたからだった。
 クーデター成功後、徳川慶喜が政治生命を断たれ、朝彦親王や関白二条らが朝廷への出廷を禁じられたが、会津藩と桑名藩にたいしては、そんな手ぬるい処置ではすまなかった。
 天下をとった長州藩が、住民ともども皆殺しという、日本史上、比類のない蛮行にでたのである。
 かつて、会津藩と桑名藩によって、京都を追われたことを根にもってのことだった。

 クーデターの火ぶたが切られたのは「禁門の変」(1864年)だった。
 その前年におきた「八月一八日の政変」で、京都における地位を失った長州藩が兵を率いて上京、会津、薩摩の両藩と、京と御所蛤御門の付近で会戦して敗れている。
「八月一八日の政変」というのは、薩摩の島津久光ら公武合体派が、尊攘派の公卿や志士ら尊攘派を京都から追放した事件である。
 長州を中心とする尊攘派が、大和を行幸中の孝明天皇を拉致して、討幕軍のシンボルにする計画を立て、実行部隊のテロ集団(天誅組)を活動させていることが発覚したからだった。
「禁門の変」で、長州は、御所に発砲して、賊軍となっている。
 尊王の大儀をもちあわせていなかったからで、孝明天皇も、長州をきらっていた。
 長州にとって、天皇は、徳川から権力を奪取するための玉(ギョク)≠ノすぎなかった。
 天皇を政治利用して「天皇君主制」の専制国家をつくろうとしている薩長や長州派の公卿らにとって、公武合体論に立つ孝明天皇、天皇の信頼をえていた徳川慶喜や会津の松平容保、桑名の松平定敬がクーデターの最大の妨害だったのである。
 孝明天皇の崩御(1867年)について、毒殺説がささやかれるのは、病状から毒物中毒が疑われることと、長州征伐や薩長同盟、公議政体論などが交錯するなか、孝明天皇が、討幕派の前にたちはだかっていたからだった。

 事実、孝明天皇の崩御後、岩倉具視ら長州派公卿の赦免、薩長と共謀による討幕の密勅工作、公武合体論の坂本龍馬暗殺、大政奉還、小御所会議(王政復古)、徳川慶喜に辞官納地命令と流れが変わって、公武合体論は、完全に瓦解した。
 そして、翌1868年には、大久保利通と岩倉具視らが錦の御旗(錦旗)を大久保の妾につくらせ、偽造した錦旗を掲げた薩長軍に「官軍」を名乗らせている。
 そして、長州派の仁和寺宮嘉彰親王を「官軍」の大将にすえた。
 これを見て、幕藩勢が、朝敵になるのをおそれて、士気を阻喪したのはいうまでもない。
 すべて、狡猾な岩倉具視、陰険な大久保利通の工作で、これに15歳の明治天皇が関与したはずはない。
 戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)勃発後、西郷隆盛と勝海舟による江戸城開城となるが、これは、巷間つたわる薩長史観の美談ですむはなしではない。
 徳川慶喜の委任をうけた勝は、西郷にたいして、徹底的な恭順の意を示しただけで、事実上、東北地方(陸奥、出羽、越後)への報復的な攻撃を容認したのである。
 上野戦争(彰義隊決起)にも、勝は、官軍への降伏をうったえただけだった。

 かつて、明治天皇の別人説が流布した。孝明天皇の長男(裕宮)は「禁門の変」で、長州の砲撃に気を失った気弱な子だったというが「小御所会議(1868年)」にあらわれた15歳の明治天皇は、大柄で豪胆、しかも、内裏育ちではありえない左利きだった。
 だが、天皇ついて語ることは、タブーで、小御所会議で、岩倉具視は、幼い天皇を担ぐのは謀議ではないかと異議を唱えた山内容堂を逆に詰問して、謝罪させている。
「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の大日本帝国憲法第3条(1890年)の10年前に刑法(1880年)で「不敬罪」が発効している。
 天皇について語ることを畏れ多い≠ニしたのは、天皇を政治利用するための便法だった。
 そして、それが、天皇陛下の名を口にするときは「おそれおおくも」と直立不動の「気をつけ」の姿勢をとらせた昭和の軍国主義につながってゆく。

 明治憲法は立憲君主制で「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」(第55条)とあって、天皇の命令も、国務大臣の署名がなければ発令できなかった。
 その構造は、明治天皇が天地神明に誓約する形式で公卿や諸侯などに示した「五箇条の御誓文」(明治政府基本方針/1868年)でも明らかで「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」と民主主義的で、どこにも、天皇主権が謳われていない。
 それでは、どこから〈現人神信仰〉がでてきたのであろうか。
 天皇軍国主義は、法に拠らない宗教で、源流は廃仏毀釈≠フ狂気をうんだ明治天皇の「大教宣布詔」である。
 この詔にもとづいて「神仏分離令」(1870年)が発布された。
 音頭をとったのが「討幕の密勅」を工作するなど岩倉具視や三条実美に協力してきた中山忠能らで、大教宣布詔では、天皇に神格をあたえ、神道を国教と定めて、大日本帝国を「祭政一致の国家」とする国家方針を示した。
 中山のいう神道は、平田神道のことで、平田篤胤は、加茂真淵や本居宣長ら国学系の古神道とは異質の神秘主義を唱えた。
 宇宙論から法華宗、密教や道教、キリスト教や聖書などをとりいれた一種の新興宗教で、天皇=現人神の観念も、平田神道の産物である。
 薩長の王政復古や廃仏毀釈、欧化主義、現人神信仰は、一元論で、日本文化の根本である二元論・多元論と真っ向から対立する。
 次回は、河井継之助の小地谷会議における「官軍問答」や官軍思想が狂気の昭和軍国主義へ変質していった経過を見ていこう
posted by office YM at 11:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする