2021年04月26日

 天皇と民主主義 その14

 ●廃仏毀釈と近代化という一神教♀v命
 明治天皇と大正天皇の主治医で、岩倉具視の臨終を看取ったドイツ人医師のベルツは、日本人は、自国の歴史に誇りをもっていないどころか、恥じてさえいるといって、嘆いた。
「なにもかもすべて野蛮でした」「われわれに歴史はありません。われわれの歴史はこれからはじまるのです」
 ベルツが「大変不快なこと(ベルツの日記)」と書き残した日本人のこの自虐史観は、いまも残っていて、日本共産党や日教組、朝日・毎日ら左翼マスコミのオハコである。
 自国の歴史を否定する自虐史観は、家の土台を壊すようなもので、マルクス主義者や西洋かぶれなどの国際派が、この愚行に走るのは、革命志向をもっているからである。
 ベルツは、日本に29年間滞在して、日本人妻とのあいだに4人の子をもうけたドイツ人医師で、日本人の自己否定や西洋コンプレックスを、終生、批判しつづけたのは、日本を愛するがゆえであった。

 自己否定の極みが廃仏毀釈≠ニいう明治維新の狂気だった。
 奈良興福寺では、二千体以上の仏像が焼かれて、経典が包み紙にされたほか多数の宝物が散逸して行方不明になっている。五重塔も、解体されて薪となる寸前で、二束三文の値までついた。
 興福寺があった場所は、現在、奈良ホテルや奈良公園になっているが、興福寺に並ぶ日本四大寺の一つで、広壮な伽藍を誇った内山永久寺は、文化遺産をふくめて徹底的に破壊されて、いまや、その痕跡さえ見ることができない。
 ベルツに「われわれに歴史はありません」といってのけた明治政府の若者の多くが薩長出身者だったが、廃仏毀釈がはげしかったのも薩長だった。
 薩摩藩では、藩内にあった1616寺院のすべてが失われ、現存する新興の481の寺に、国宝や重要文化財の仏像は1点もない。
 廃仏毀釈がはげしかったのは、薩長のほか、梵鐘・仏具から大砲をつくった水戸藩、土佐藩、伊勢神宮のお膝元、伊勢国、美濃国などだが、美濃の苗木藩では寺院すべてが廃寺となって、現在でも、葬式は神葬祭(土葬)である。

 神道は、神話で、宗教ではないことは、ギリシャ神話が、宗教ではないのと同様である。
 賀茂真淵や本居宣長の国学でも、神道は、古事記や万葉集に象徴される文化の体系で、それが、国体に反映されて、国のかたちができあがった。
 仏教も、元来、国家鎮護を目的としたもので、それが、東大寺の「大仏思想」である。
 国を鎮護するから大仏で、人間の悟りを導く広隆寺の弥勒菩薩は、人体よりも小さい。
 東大寺の大仏は、毘盧舎那仏(大日如来)で、神仏習合において天照大神と同一視された。
 神仏習合は、縄文アニミズムや神話が土台になっている神道の一部に仏教という外来宗教がとりこまれただけで、崇仏派の蘇我と排仏派の物部が、神道か仏教かの二者択一的な戦争をおこなった結果ではない。
 渡部昇一は、聖徳太子が「十七条憲法」の二で「篤敬三寶(仏・法・僧)』といいながら神道にふれていない点について「日本の神を崇めるのはあたりまえのことで、日本料理の本に、箸を片手に二本もって食べるべしと書いていないのと同じことである」と喝破している。

 古事記には、八百万の神々をつくった伊邪那岐尊(イザナギ)と伊邪那美尊(イザナミ)の直系、天照大神と瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子孫にあたる神武天皇が日本を治めたと記されている。
 ギリシャ神話にも、夫のイザナギが妻のイザナミに会いに黄泉の国へむかう同じ話がある。
 オルフェウスが毒蛇に噛まれて死だ妻エウリディケーを生き返らせてもらうために冥府にむかうという箇所で、両者に共通するのは、地上に出るまで妻を見てはならないという設定である。
 イザナギの場合は、イザナミが黄泉の亡者とともに追ってくるが、オルフェウスの場合は、姿を見られたエウリディケーがその場で石になってしまう。
 ヨーロッパで、キリスト教がギリシャ神話やローマ神話にとってかわったのは、国家を統一して、敵と戦うには、一元論の絶対神が必要だったからだった。
 価値観が多元的で多様な多神教は、おおらかで、敵を攻めることも、攻めてくる敵と武器をもってたたかうこともできない。
 アステカ・マヤ・インカ文明は、無抵抗に滅ぼされたが、抵抗したアメリカインディアンも、オーストラリアアボリジニもほぼ全滅させられた。
 ヨーロッパでは、多神教文明を滅ぼしたそのキリスト教文明が、権力版図を広げて国家をつくった。

 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、ゲルマン人の大移動がはじまる。
 そして、7世紀になると、、現在のドイツ、フランス、イタリアの基礎となるフランク王国がヨーロッパの中心となる。
 ローマ帝国は滅びたが、4世紀末にローマ帝国の国教となったキリスト教は衰えることなく、ローマ教皇は、8世紀後半、フランク王のカールと連携して強大な王国を築きあげた。
 教皇の呼びかけによって、十字軍の遠征がおこなわれた11世紀、フランク王国の王とローマ教皇とのあいだで権力闘争がおこる。
 ローマ教皇グレゴリウス7世が、フランク王国を継承する神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世を破門すると、ハインリヒは、雪のなか3日間、グレゴリウスがいた北イタリアのカノッサ城門前で、裸足のまま断食と祈りを続け、教皇に赦しを乞うのである(カノッサの屈辱)。
「教皇は太陽、皇帝は月」と呼ばれた時代で、教皇が圧倒的に優勢だった理由は、国家の支配原理が信仰だったからである。
 日本の歴史家は、ローマ教皇と国王との関係を、天皇と将軍の関係になぞらえて語るが、それはまちがいで、天皇は、権威であって、ローマ教皇のような権力者ではなかった。
 ところが、14世紀にはこれが逆転する。破門されたフランス王が、教皇を幽閉して、教皇が憤死するという事件がおきるのである。
 そして、16世紀になって『国家論』の、ボーダンらによって王権神授説が唱えられ、神以外、ローマ教皇ですら王権に干渉できないことになって、絶対王政が確立された。
 次回以降、日本の天皇とヨーロッパの王政のちがいをみてゆこう。
posted by office YM at 10:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする