2021年05月31日

 天皇と民主主義 その19

 ●いまだ「八月革命説」に呪縛されている日本
 MIC(新聞や民放、出版などマスコミ労連)が、コロナ特措法に反対していることを多くの日本人は知らない。
 コロナ特措法にもとづく「緊急事態宣言」が憲法で保障されている「集会の自由」や「報道の自由」、「国民の知る権利」を脅かすばかりか、基本的人権の侵害につながりかねないというのである。
 その一方、マスコミは、これまで、安倍・菅両政権のコロナ対策をきびしく批判してきた。国を挙げてのコロナ特措法に反対して、自民党のコロナ対策が甘いというのは、ハンドルを右に切って左へ行けというようなもので、わけがわからない。
 世界各国が、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、厳しい罰則をもうけているなか、コロナ対策自体が憲法違反などといっているのは、世界広しといえども、日本だけである。
 これと同じ論理が、世界第6位の軍事力をもちながら、国家防衛が憲法9条に違反するという護憲派の言い分である。
 戦争反対という「普遍性」と、国家防衛という「個別性」を分別できないのである。
 普遍性というのは、すべての事物に共通する性質のことで、一般論である。
 個別性というのは、特定の事物だけにいえるケースで、特殊論ともいう。
「個と全体」の矛盾は解消できないが、普遍性と特殊性も、両立しない。
 生命の尊厳は普遍的だが、だからといって、死刑を廃止すれば、殺人事件が後を絶たなくなる。
 戦争には反対だが、正当防衛の原則と国際法・慣例法にそって、国家を防衛するというのが、普遍性と特殊性のバランスで、これは、二元論である。
 ところが憲法一元論≠ノ立つ左翼や護憲派は、国民の生命や健康、国家の安全や防衛よりも、憲法を優先しようという。
 二元論どころか「個と全体」や「普遍と特殊」の意味や矛盾(二律背反)を理解できないのである。

 左翼や護憲派のバックボーンとなっているのが「八月革命説」である。
 ポツダム宣言の受諾によって、戦後、事実上の革命がおき、主権が天皇から国民に移ったというのである。
 荒唐無稽な説だが、法曹界(日本弁護士連合会)から教育界(日教組)、論壇学会、労組やマスコミにいたるまでがこの説をとって、いまや、憲法は国家を監視する革命綱領というのが国民の常識になっている。
 司法試験も、それが模範解答で、そのせいで、日本の弁護士は、みな、左翼なのである。
「八月革命説」は、美濃部達吉の弟子で、東大教授の宮沢俊義が主唱したものだが、言い出しっぺは丸山真男で、宮沢の弟子にあたる芦部信喜や長谷部恭男(ともに東大教授)らが、これを法曹界や学会(日本公法学会)などで吹いてまわって、ついに宮沢憲法≠フ名称で、日本中で大手をふるようになった。
 当時、GHQの公職追放令と容共政策によって、日本の論壇や大学は、大内兵衛や向坂逸郎以下、都留重人や大塚久雄、丸山真男、羽仁五郎らのマルクス学者の巣窟になっていたからだった。

 八月(1945年8月にポツダム宣言受諾)革命というが、革命などおきていない。天皇主権が象徴天皇になったが、天皇の地位にかわりはなかったからである。
 しかも、新憲法は、手続き上、明治憲法の改定という形がとられた。
 新憲法制定にGHQが関与すれば、ハーグ陸戦条約43条(「占領国は被占領国の現行法律を変更してはならない」)違反となって、新憲法が失効することになるからである。
 そこで、日本が、みずからの意志で旧憲法を改定したようにとりつくろったわけだが、すぐに馬脚があらわれる。
 大日本帝国憲法は欽定憲法≠セが、日本国憲法は民定憲法≠ナある。
 当時、主権をもっていたのはGHQで、民が憲法を制定できるような情勢になかった。
 日本国憲法が、ポツダム宣言にもとづいたアメリカの対日占領基本法だったことは、だれの目からも明らかで、これをもって、日本で憲法革命がおきたと騒ぐのは、売国奴の卑劣な宣伝工作というほかない。

 八月革命説には、日本弁護士連合会の声明や学校教科書によると「立憲主義」「国民主権」「基本的人権」「平和主義」の4つの特徴がある。
 これらは、すべて、普遍的な観念で、個別的にして、具体的な事例をさしているわけではない。
 天皇は、天皇の象徴性や歴史的価値、権威のことで、普遍性をもっている。
 一方、天皇陛下は、陛下御自身のことで、個人的にして特殊な名称である。
 したがって、昭和軍国主義の「天皇陛下万歳」は、権威ではなく、権力者にひれ伏す個人崇拝だったことになる。
 天皇は、聖俗二元論の聖に属する、歴史上の普遍的な存在である。
 一方、権力者は、俗に属する、現世における個別的な存在である。
 日本の歴史において、天皇は権威であって、権力者だったことは、天武天皇の皇親政治など、2〜3の例外を除いて、ほとんどなかった。
「国民主権」の主権も、普遍的な意味における主権で、日本人の一人ひとりが主権をもっているわけではない。
 ちなみに、国民も、集合名詞で「国民として」ではなく「国民の一人として」と断りが入る。個人は、日本人の総体としての国民とイコールではないからである。
 基本的人権には、啓蒙思想の自由権と平等権のほか、参政権などの社会権もふくまれるが、基本的人権は、抽象的観念で、実体があるわけではない。
「平和主義」も観念論で、憲法で侵略戦争を否定している国は、日本のほかにイタリアやフランス、ドイツやハンガリーなど少なくない。
 戦力の保持や交戦権を否定している日本の憲法9条も「国際紛争を解決する手段として」「前項の目的を達するため」という但し書きがあって、国家防衛を禁じているわけではない。
 国家防衛は、国連憲章がみとめるように、国家主権の行使で、国際紛争にはあたらない。国家主権・国家管轄権には、自衛権や生存権(正当防衛)のほかに外交権、立法権、司法権、行政権、課税権があって、独立国家は、上位からなんの干渉もうけずに対内的・対外的に支配権を行使することができる。
 この原則は、法規についても同様で、左翼や護憲派が「立憲主義」の根拠として挙げる憲法98条(憲法の最高法規性)や99条(天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務)は、占領国であるGHQが、被占領国の日本を半永遠的に支配するための脅しの条文で、ハーグ陸戦条約違反のきわめつけである。
 左翼や護憲派が「立憲主義」を憲法の4大題目に掲げるのは、現憲法が革命憲法で、この憲法の下で、体制転覆が可能だからである。
 次回は、国体、憲法、イデオロギー、法規の関連についてのべよう。
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2021年05月23日

 天皇と民主主義 その18

 ●国家の三要素と国体、憲法、イデオロギー、法規
 国家は、そもそも、超法規的な存在である。
 それを示すのが、領土と国民、主権の「国家の三要素」である。
 そのつぎにくるのが、歴史や民族、習俗などの文化の体系で、国体である。
 国体は、権力の体系である政体に対応するもので、その象徴が天皇である。
 国体と政体、権威と権力、文化と政治の二元論が、わが国の国の形である。
 政体と権力、政治が「政権」ならば、国体と権威、文化が「民権」である。
 注意をむけるべきは、国体=天皇が、民権の側にいることである。
 したがって、政体=幕府は、天皇から征夷大将軍の官位をえなければ、民を治めることができなかった。
 天皇が権力者に権力の正統性(レジテマシー)をあたえる「征夷大将軍」の仕組みがはじまったのは、平安時代の坂上田村麻呂(桓武天皇任命)を初代として源頼朝(6代)、足利尊氏(17代)、徳川家康(32代)をへて、幕末の徳川慶喜まで46代、1000年以上におよぶ。
 聖徳太子の十七条憲法(604年)から645年の大化の改新4条(中大兄皇子/藤原鎌足)、天武天皇の飛鳥浄御原令(681年)および藤原不比等らによる大宝律令(701年)によって、律令国家としての仕組みや制度が定められた。
 だが、これらの制度がつくられても、国の形が定まったわけではなかった。
 摂政や院政、荘園制度による守護や地頭の台頭、大名の登場によって、律令制度は崩壊して、15世紀末から百年余の戦国時代へ突入してゆく。
 結局、残ったのは、権威と権力の二元論だけで、江戸幕府は、朝廷を権威として立てると同時に、公家諸法度(「天子は学問を第一と心得べきこと」など17条)を制定して、天皇の政治参加を制限した。
 象徴天皇は、日本の伝統でもあって、葦津珍彦はこうのべている。
「天皇が国民統合の象徴≠ニいわれるのは、目に見えない国民統合が、目に見える天皇の姿に象徴されているという意味である。国会で、政治を担当する議員が天皇に敬意を表する。それが、主権在民、天皇象徴の姿なのである」
 葦津もわたしも改憲論者だが、象徴天皇にかぎって、現憲法が日本の伝統に整合していると認識している。

 憲法はコンスティテューションの和訳で、原義は、みなで(コン)つくった構造物(スティテューション)ほどの意味合いで、法概念ではなく、政治概念である。
 日本の十七条憲法や律令も、法ではなく、あるべき姿をのべたべき論≠ナあって、政治概念である。
 法の前に政治があるのは、クラウゼヴィッツが「戦争とは政治の継続である」とのべたように、政治が戦争と連動しているからである。
 政治とイデオロギーは表裏の関係≠ノあって、国連の常任理事国5か国をはじめ、日本以外の近代国家は、すべて、革命を経験している。
 フランスの「人権宣言」や英国の「マグナ・カルタ(大憲章)」、アメリカの「独立宣言(自由と独立)」、旧ソ連や中国、北朝鮮の人民民主主義など世界の強国が、国家の基礎に据えているのは、法ではなく、イデオロギーである。
 日本国憲法も、法ではなく、イデオロギーの羅列で、日本国憲法をつくったGHQのニューディーラーが夢見ていたのは、スターリンがめざした一国主義にもとづく人民独裁(スターリニズム)だった。
 憲法に、自由と平等、権利や国民主権があって、国家主権がないのは、国家は、国民主権を奪って、つくるものだからで、日本国憲法の主権者は、GHQだったのである。
 それがルソーの一般化理論≠ナ、独裁者が国民主権をあずかって、人民政府ができる。
 したがって、サンフランシスコ講和条約が成立して、GHQが日本から去っていくと、事実上の主権者が不在となった。
 この時点で、日本は、国家主権を宣した自主憲法を制定すべきだった、
 だが、時の宰相、吉田茂は、GHQ憲法を放置した。国家主権の現行憲法の最大の欠陥は、国家主権が謳われていないことで、憲法それ自体が国家の主権者になっているのである。
 国民の幸福追求権(13条)をみとめて、国家の防衛をみとめない(9条)のがその矛盾のあらわれで、敵から攻められても防衛できないのなら、国民の幸福どころか、生命、財産すらまもることはできない。

 憲法改正ではなく「廃憲論」を主張したのが西部邁氏だった。
 たしかに、日本国憲法は、形骸化されて、廃憲の状態にある。
 日本国憲法は、前文の他11章(天皇/戦争の放棄/国民の権利及び義務/国会/内閣/司法/財政/地方自治/改正/最高法規/補則)からなる国家の構造で、その下に刑法や民法、商法などの法体系がつらなっている。
 憲法違反を問題にされるのが、1〜3条(天皇/戦争の放棄/国民の権利及び義務)で、憲法思想と法体系、現実が整合しないというのである。
 そうなら、空文にすぎない憲法を黙殺すべきというのが廃憲論で、しあわせになる権利や非武装平和を謳う憲法などおとぎばなしでしかない。
 村上正邦氏、西部邁氏との会食の席で、西部氏からこういう質問をうけた。
「山本さん、右の陣営は、なぜ、民主主義に矛先をむけないのですか? 憲法や民主主義が戦後日本の新たな国体になっているじゃありませんか」
 憲法国体論は、東大法学部の重鎮、宮沢俊義の「八月革命論」に立ったもので、戦後日本では、GHQ憲法によって、革命がおきたという説である。
 宮沢憲法論によると、日本という国家が、憲法から監視をうけている。
 それでは、戦後日本は、憲法の属国になったようなものではないか。
 国を監視するのは、司法や弁護士会、マスコミ、学会、国民で、日本という国が、憲法の定めた路線から外れるのを防ぐのだという。
 かかる記述が教科書にも載って、現在、憲法は、国家を監視する最高法規という常識ができあがっている。
 日本の司法界が左翼一色なのは、司法試験が宮沢の「八月革命論」をとっているからで、日本共産党と同じ思想の弁護士と検事、東大法卒の高級官僚が法を運用している。
 ちなみに、わたしが『民主主義が日本を滅ぼす(日新報道/2010年)』を上梓したのは、このときの議論がきっかけになっている。
 次回は、憲法と日本の司法のゆがみについても言及しよう。
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2021年05月17日

 天皇と民主主義 その17

 ●明治憲法と戦後憲法〜2度の国体喪失
 ルソーは『社会契約論』のなかで「君臣一体」「君民共治」の政治が理想的であるが、現実的には、望むべくもないので、やむなく、民主主義を選択するといっている。
 その根拠になったのが、ケンペルの『日本誌』だった。
 ディドロの『百科全書』に転載された『日本誌』が、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューら、ヨーロッパの一流人に愛読されて、19世紀のジャポニスムにつながっていった。
 当然、ルソーも読んでいるはずで、とりわけ、犯罪がほとんどなかった徳川綱吉の時代の善政(天和の治)と対外政策(鎖国)を記したくだりはルソーに大きな感銘をあたえたはずである。
 ジャポニスムは、19世紀後半にヨーロッパで流行した日本ブームのことである。
 浮世絵や錦絵、屏風や陶器などの美術・工芸品が賞賛されたが、極東の文化国家、伝統国家ジャポンにたいする畏怖や尊敬心もおおいにあがった。
 ケンペルは『日本誌』のなかで、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介している。
 ルソーの君臣≠烽アの記述を根拠にしているはずで、ヨーロッパで天皇とキングの区別がついているのは、ケンペルの『日本誌』のおかげといえる。

 明治政府の若い役人らが「われわれに歴史はありません。われわれの歴史はこれからはじまるのです」とのべて、ドイツ人医師ベルツを嘆かせた(ベルツの日記)のは、かれらが江戸や日本の歴史を否定した薩長の出身者だったからである。
 日本の伝統や江戸の文化をひきついでいない革命分子が、帝国主義や鹿鳴館文明など西洋の物マネに走ったのは、むしろ、当然であった。
 無知で身分の低い薩長の足軽以下、下級公家らが天下をとれたのは、天皇を政治利用したからで、悪知恵をはたらかせたのが岩倉具視だったことは、これまでのべてきたとおりである。
 明治維新が完了した段階で、天皇を元の地位へもどして、日本の国体と政体をもとの二元構造へ復元させておくべきだった。
 ところが、岩倉は、伊藤博文と井上毅に命じて、天皇を国家元首に仕立てた明治憲法を制定する。
 天皇をヨーロッパ型の専制元首に仕立てることによって、ファシスト国家をつくろうとしたのである。

 明治憲法下において、天皇主権は、国務大臣らの輔弼を必要としていたことから絶対権力者ではなかったという意見が多いが、問題は、そこにあるのではない。
 問題の核心は、権力側の天皇利用の悪質さにあって、天皇の名をもちいればどんな事案もとおった。
 それが、天皇軍国主義の要諦で、そこから、統帥権干犯問題(ロンドン海軍軍縮条約)や天皇陛下万歳≠フ昭和軍国主義、そして「宣戦布告」なき対米開戦(ワシントン日本大使館の怠慢説もある)へとつながった。
 日清・日露戦争に勝てたのは、軍隊の主力が、戦争のプロである武士だったからだが、負けていれば、亡国に危機に瀕していたはずである。
 げんに、大東亜戦争では、陸軍士官学校や海軍兵学校らのエリート(恩賜の銀時計や軍刀組)が軍の指揮をとって、ボロ負けして、原爆まで落とされた。
 明治憲法のツケが回ってきたのである。
 明治憲法の瑕疵は、分離されていた《権威=天皇》と《権力=政権》を一体化させて、国体を毀損したところにある。
 その責任は、憲法制定にあたって、ビスマルク憲法(ドイツ)を移入した岩倉具視と伊藤博文にあるのはいうまでもない。

 ●イデオロギー憲法で国家や国民をまもれるか
 戦後、国体観念が否定されて、マッカーサー憲法が、第二の国体といわれるようになった。
 そして、忘れ去られたのが、国体とイデオロギー、法と規制の区別だった。
 現在、日本は、すべて、憲法に下にあるという「憲法原理主義」を奉っている。
 MIC(新聞労連や民放労連、出版労連など)が、コロナ特措法に反対する根拠も「憲法で保障された基本的人権の侵害につながりかねない」というもので、憲法至上主義においては、人命も秩序も、防衛も安全も二の次なのである。
 坂本弁護士一家殺害事件から松本サリン事件、地下鉄サリン事件など未曾有の凶悪事件をおこしたオウム真理教に破防法をかけられなかったのは、法務省の外局である公安審査委員会やマスコミ、日本弁護士連合会が反対したからだった。
 破防法適用棄却決定にたいして、日本弁護士会は、これを歓迎して声明を発表している。「オウム真理教を対象とする破壊活動防止法は、憲法の保障する基本的人権を侵害するものであることは明白である。破防法にもとづく解散指定処分請求を棄却する公安審査委員の決定は、憲法の下で人権保障と民主主義を護りぬいたものとして、これを心から歓迎する。かかる決定をなすに至った公安審査委員各位の高い見識とご努力にたいして、深く敬意を表する」
 あきれてモノがいえないが、これが、日本の弁護士の知的レベルなのである。

「国土・国民・主権」が国家の三要素といわれる。
 いうまでもないが、国家の三要素には、法が通用しない。
 法は、国体や政体、あるいは、法的な秩序が施行されうる体制が整ってのちに効力をもつものだからである。
 法が通用しない国土や国民のなかに、歴史や文化、伝統や習慣など、唯心論的な価値もふくまれる。
 それが国体で、国体が法の支配をうけないのは、法以前の存在だからである。
 一方、主権には、国家の不可侵性や自衛権のほかに戦争をする権利(交戦権)までがみとめられる。
 国家間における武力行使が、結果として、法以上の公的秩序をもたらすからである。
 世界秩序が、法ではなく、軍事力という超法規的な手段によってまもられているのは厳然たる事実である。
 丸山穂高衆議院議員が「戦争で奪われた領土は戦争でとり返すほかない」と発言して、マスコミから袋叩きにあった。このとき、マスコミが根拠にしたのは、日本は、憲法九条にもとづいて戦争を放棄した平和国家というものだった。
 であれば、自衛隊と在日米軍の軍事力が尖閣諸島を中国軍からまもっているのも、憲法違反ということになってしまう。
 明治憲法も戦後憲法も、法概念ではなく、空疎なイデオロギーだったのである。
 次回は、国家の安全や国民の自由をまもっているのが、憲法ではなく、一般法と規制であることについて、のべよう。
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2021年05月10日

 天皇と民主主義 その16

 ●一神教の「権力」と多神教の「権威」
 日本は、神話が、そのまま、国家に移り変わったきわめて特異な国である。
 といっても、古代国家は、多くが、神話をいしづえとして国家をつくりあげてきた。
 古代ギリシャやローマ(王政)、その他、各地の神話も、日本の神話と大差がない多神教、自然神的な物語で、つくられた国も、いわゆる、王国であった。
 5世紀のイギリスの七王国も、古代ゲルマンの多神教の国で、ヨーロッパがキリスト教の影響をうけるのは、キリストの死後、400年以上もたってからである。
 キリスト教が国教に定められて、ローマ帝国の永遠と多神教の象徴であったウェスタ神殿の聖なる炎が消されたのが394年だった。
 初代ローマ教皇のレオ1世の在位が440〜461年で、これは、第16代仁徳天皇の時代と重なる。
 西ローマ帝国滅亡後、権力を握ったのが、そのローマ教皇庁だった。
 十字軍遠征や海外侵略を鼓舞したほか、魔女狩りや異端侵犯で、数百万人を火刑に処して、宗教戦争では、数千万人が犠牲になった。
 ローマ教皇庁のやり方は巧妙で、原罪や地獄などの宗教プロパガンダをもちいて、民を信仰の奴隷にして、王とは、叙任権をとおしてむすびついた。
 王に叙任権を与えて、世俗の富や地位をえたのだが、キリスト教の力は強大で、臣や民が屈したのは、皇帝権(政治)ではなく、教皇権(宗教)だった。
 中世ヨーロッパの国々は、すべて、ローマ教皇庁の支配下にあったのである。
 ヨーロッパの王国も、中世(5〜15世紀)以降、ローマ教皇庁とむすびついた名家名門の系列となった。
 神聖ローマ帝国(ドイツ)はハプスブルク家、フランク王国(フランス)はブルボン家で、エリザベス女王も、英国の君主である一方、ゴータ家=ランカスター家(ウィンザー家に改称)の相続者である。
 ヨーロッパの王室が、いずれも、大地主で大金持ちなのは、王国を継承する世俗的権力だったからである。

 日本の天皇とヨーロッパの王室を同一視するムキもあるが、キリスト教世界において、唯一神(ヤハウェ)以外に、権威など存在しない。
 教皇庁も皇帝も、騎士団(教皇庁系・国王系)や軍団をもつ権力で、これをひきついだのが、16世紀以降の絶対王政をささえた王権神授説である。
 王権神授説は、王権が神から直接さずかるとしたもので『国家論』のボダンや『家父長論』のフィルマーらが唱えた。
 といっても、王権が神から与えられたという説は、王を「神の代理人」としたメソポタミア文明や帝政ローマの神権政治にも例がある。
 王権神授説の特徴は、王権にたいするローマ教皇の干渉を排除したところにある。
 このとき、国家が、キリスト教という宗派から切り離された。
 国家主権、がソブリンティ(君主権)と呼ばれるのは、ローマ教皇庁こえて絶対化された王権が、そのまま、国家主権となった名残である。
 ヨーロッパの国家は、王国だった時代の王家名門から王権神授説、社会契約説にいたるまで、一元論で、ヤハウェという一神教の論理にのっている。
 一方、絶対神をもたない日本は、文化の体系である権威と施政権を行使する権力の二元論である。
 天皇と幕府、国体と政体が分離されて、権威が権力に正統性をあたえる。
 現在でも、内閣総理大臣や最高裁判所長官の任命、法律や政令、条約の公布や国会の召集は、天皇の国事行為になっている。

 日本が「君臣一体」「君民共治」なのは、多神教の神話をひきついでいるからである。
「君臣一体」は、天孫の邇邇藝命(ニニギノミコト)が、天照大御神の神勅をうけて高天原から高千穂峰へ天降ったとき、天皇を補佐する臣や連の大伴氏や物部氏、中臣氏らの祖先が先導、あるいは、一緒に降臨したという故事にもとづく。
 大伴氏が天忍日命(アメノオシノミコト)、物部氏が饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、中臣氏が天児屋命(アメノコヤメニミコト)を、それぞれ祖先としている。
 物部氏は軍事を担い、中臣氏は神祇をうけもち、物部氏が蘇我氏に討たれたのちは、本来、排仏派だった中臣氏(中臣鎌足)が中大兄皇子を助けて蘇我氏を倒し、のちに、蘇我氏に代わって、仏教の保護者になった。
「君民共治」は、民のための政治という意味で、近代にいたるまで、西洋には民のための政治という概念が存在しなかった。
 日本では、仁徳天皇の時代から、天皇が国民を「大御宝(おおみたから)」とする一方、権力も、民を天皇の「赤子(せきし)」としてきた。
 将軍を任命して民の幸を祈る日本の天皇は、権力を超越した権威で、世俗の権力や富はもたなかった。
 富や権力どころか、戦国時代の後土御門天皇や後柏原天皇は、葬儀や即位の費用に事欠くありさまで、京都御所も、荒れ放題だった。
 天皇が権力者として祭り上げられたのは、政治利用された明治憲法下だけであったことは、これをいくら強調しても、強調しすぎることはない。
 国をまもる武士を廃して、天皇の赤子たる国民を赤紙∴齧で戦場へ送り出す制度に憤慨したのが、佐賀の乱から秋月の乱、萩の乱、西南戦争にいたる24件にものぼった「士族の反乱」だった。
 専制独裁が一神教文化なら、君臣一体や君民共治は、多神教文化である。
 権力は、民を従わせ、従わない者は罰せられ、場合によっては殺される。
 一方、権威にたいしては、民も臣も、みずから、従おうとする。
 権力は、法と刑罰の体系で、権威は、常識と規律の体系である。
「君臣一体」「君民共治」は両者のバランスをとった政治体制だったのである。

 憲法で謳われている自由や平等、権利は、一方で、他人の自由や平等、権利を侵害しかねない危険性をおびる。
 そこで、規制が必要となる。真の自由や平等、権利は、規制されて、万人のものとなるのである。
 オウム真理教にさえ適用されなかった破防法やMIC(マスコミ労連)が反対しているコロナ特措法は、自由にたいする制限(規制)である。
 国家や国民の安全をまもるには、野放図な自由や平等、権利ではなく、常識と規律にもとづく規制が必要になるのである。
 次回は、すこし脇道へそれて「法と規制」について一言を発したい。
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2021年05月04日

 天皇と民主主義 その15

 ●ヨーロッパ絶対王政と天皇・幕府二元論
 中世のヨーロッパでは、2世紀以来、ゲルマン人の侵入などによってローマ帝国が衰え、代わって、ローマ帝国の国教となったキリスト教(ローマ教皇庁)が支配力をつよめた。
 国家権力の前に宗教権力が成立していた中世ヨーロッパにおいては、のちに国家となる王家名門が、すべて、ローマ教皇庁の教徒であった。
 王族間では、武力で覇を競い合ったが、国を治め、民を支配したのは、武力ではなく、キリスト教という宗教で、民は、異端裁判をおこなう教会の奴隷にひとしかった。
 ローマ皇帝ハインリヒ4世が、雪が降るなか裸足のまま断食と祈りを捧げて教皇グレゴリウス7世に赦しを乞うたのは、教皇庁から破門されると、臣下や民の信任を失ってしまうからだった(カノッサの屈辱/1077年)。
 たとえ、皇帝でも、ローマ教皇に歯向かえば、権力を失ってしまいかねないところに、日本人の理解がおよばない一神教の魔力性がある。
 ヨーロッパの国々が、キリスト教を土台にして国家をつくりあげていったのは歴史のしめすとおりである。
 ヨーロッパで、国家がうまれるのは、5世紀以後で、西ゴート王国(スペイン・ポルトガル)、七王国(イギリス)、西フランク王国(フランス)、東フランク王国のちの神聖ローマ帝国(ドイツ)、東ゴート王国(イタリア)などがそうである。

 むろん、これらの王国が、一足飛びに近代的国家になったわけではない。
 かつて、王国は、王家名門が所有する私有地で、王族の権力をささえていたのがローマ教皇庁だった。
 イスラム教徒とキリスト教徒がたたかった8世紀〜15世紀のレコンキスタ(イベリア半島の国土回復運動)や7回におよんだ十字軍の遠征(11〜13世紀)で陣頭指揮をとったのは、ローマ教皇庁で、教皇の影響下にあった諸侯や騎士団(テンプルや聖ヨハネなど)などが、国王にまさる権勢をふるった。

 日本の歴史家のなかにも、ローマ教皇と国王の関係を、日本の天皇と幕府の関係と同一視するケースがみうけられるが、一神教と多神教の宗教観のちがいをわきまえない誤りである。
 ローマ教皇や諸侯、騎士団や国王は、権力の体系で、同一線上におかれる。
 したがって、十字軍の失敗のあと、諸侯や騎士団の地位が低下して、教皇と国王(皇帝)の地位と接近することになった。
 中世の封建社会が崩壊して、絶対王政への時代へ移ってゆくのである。
 皇帝と教皇による叙任権闘争というものもあったが、これは、司教や修道院長の任命権の問題で、天皇が施政権を将軍(幕府)にゆだねる「権威と権力の二元論」とは構造的に異なる。
 ヨーロッパは、王権と教皇が権力というタテの一元論でつながっている。
 ところが、日本は、天皇と幕府が、権力と権威が横に並ぶ二元論である。
 あらゆる価値観の根底に、宗教観念があるのはいうまでもない。
 善悪や良否、正邪を区別する一元論が一神教のものなら、多元論的で多様性とあいまいさをもっているのが多神教の特徴である。
 ヨーロッパの国家が一元論的なのは、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教が一神教だからで、かつての、ギリシャ・ローマの多神教は、現在、遺跡として残っているだけである。
 一神教や唯物論、科学や合理主義という文明≠ヘ、多神教や唯心論、経験則や歴史という文化≠破壊した上に成立する。
 それが国家で、多元性や多様性を否定しなければ、中央集権という一元的な構造ができないのである。

 例外が日本で、多神教的な価値観の上に国家という一神教的な構造がのっている。
 日本の国家は、古代から、権威と権力、国体と政体、文化と制度などの二元論的構造の上になりたってきた。
 天皇の権威にたいする権力は、豪族から官吏、貴族や上皇、武士へ変わってきたが、国家の二元的な仕組みは、いまも、かわっていない。
 貴族や武士に代わって、現在、選良(代議士)が政治権力を、官僚群が行政権力を握っている。
 戦後、最大の価値とされてきた民主主義だが、議会の多数決と普通選挙法という政治の局面において有効なだけである。
 民主主義は、政治手法の一つにすぎないので、戦後、民主主義が導入されて日本はよい国になったという左翼の言い分はとおらない。
 日本には、君民共治から聖徳太子の17条の憲法、五か条の御誓文に至るまで、民主主義的な価値観が根づいていて、アメリカから民主主義がやってきたといって、国民が腰を抜かすほど驚いたわけではない。
 象徴天皇も、マッカーサーの発明ではなく、歴史的事実で、権威は、霊的な象徴として、世俗にある国土・国民・国家の安定や統一をみまもってきた。
 宗教は、あらゆる価値の根源で、一神教が文明を、そして、多神教が文化をつくってきた。
 天皇が、日本の文化なら、民主主義は、西洋の文明である。
 日本が、先進国で唯一、伝統国家たりえているのは《君臣共治》というかたちで、日本の文化をまもりながら、民主主義の原理をはたらかせてきたからである。
 天皇と行政官、民は「君・臣・民」の三位一体で、互いに支えあっている。
 天皇が権力に正統性をあたえ、権力に支配される民は、天皇の権威の源泉となっている。
 天皇の権威は、民の幸を祈って、権力を監視するところにある。
 民をまもってきたその天皇を、国家元首の現人神に仕立てて、国民を戦争に駆り出したのが天皇制ファシズムで、その根幹が明治憲法である。
 現人神神話と昭和軍国主義については、項を改めてのべることとする。
posted by office YM at 21:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする