●拝察≠ニいう天皇の政治利用
宮内庁の西村泰彦長官が東京五輪・パラリンピックに際して、天皇陛下が新型コロナウイルスの感染拡大を心配されているとした上で「国民に不安の声があるなかで、開催が感染拡大につながらないか懸念されていると拝察している」と発言して、政府を慌てさせた。
菅義偉首相や加藤勝信官房長官は「西村長官がご自分の考えをのべたもの」として矛をおさめようとしたが、野党やマスコミは黙っていない。
オリンピック開催の延期や中止をもとめている立憲民主党の安住淳国会対策委員長はこう息巻く。「西村氏個人の意見と思っている国民はいない。(陛下の)ことばの重みを踏まえて対応すべきだ」
マスコミも、天皇の政治的発言や西村長官の傲岸不遜な拝察≠ノ疑問をむけるどころか、菅首相や加藤長官の対応を「不敬」やら「天皇の御心を無視」やらという大時代的な語句をもちだして批判した。
保守をきらっていたはずの大手メディアが「天皇の御心(文春オンライン)」などといいだすので、たしかめるとこんな記述があった。
1928年、当時の田中義一首相は「張作霖爆殺事件」に日本軍が関与していた場合、関係者を厳重に処分する旨、昭和天皇に内奏したが、のちに方針を転換して、天皇の不信を買い、内閣総辞職に追い込まれた。明治憲法下の天皇と平和憲法下の天皇では、事情が異なるが、天皇の御心を無視して五輪開催を強行して、万が一、感染爆発や医療崩壊を引き起こしたら、菅内閣は総辞職では済まされないのではなかろうか。
さらに、ニュースポストセブン(小学館)はこう論じる。
「大御心」とは天皇の御心のことだ。加藤官房長官は、なんと、この大御心を否定したのである。拝察が西村長官の独断だったのであれば大スキャンダルである。大御心を捏造した長官を、即刻、更迭すべきであろう。拝察が正しいか正しくないか判断できないなら、皇居に参上し、直接、天皇の気持ちを聞いてみればよい。そして、これが大御心だったとみとめるなら、国民の声と同等に尊重すべきものだから、五輪開催について、改めて検討、検証すればいい。菅内閣はそのいずれもしないだろう。普段は「保守だ」「天皇への尊崇だ」と軽口を叩いていても、かれらの尊王などこんなものなのだ。菅内閣と、それを支える保守派の誠意と良心が問われている。
小学館は、大事にあたって、ご聖断を仰げと、幕末の勤皇派のようなことをいう。あまりにも粗雑な話で、反論する気にもならないので、葦津珍彦の記述(『日本の君主制』)を紹介しておこう。
「大御心は後天的思慮から生じてくる意思ではない。個人の意思よりも遥かに高い高い所に在るのである。(略)そこに歴史的な民族の一般意思、皇祖皇宗の遺訓たる大御心を、日本人が神意と解し、天皇を現津御神と申し上げる根源がある」
大御心は、歴史や民族の真実、皇祖皇宗の遺訓であって、天皇個人の御心ではないと葦津はいう。
文春も小学館も、大御心を、天皇個人の御心と思いちがいをしている。
「天皇の御心を無視して(文春)」「天皇陛下のご懸念を否定する菅内閣はあまりにも不敬ではないか」「皇居に参上して、直接、天皇の気持ちを聞いてくればよい(小学館)」というが、これは、天皇が国政に関する権能を有しないとする憲法4条違反である以前に、天皇の本質をわきまえない妄言である。
天皇は、ご自身の考えや感情をもたれない。たとえもっていたとしても、表にだされることはない。それが、帝王学のイロハで、考えや感情を表に出すと敵をつくることになって、もはや、権威たりえない。
大御心は、神話によれば、皇祖が皇孫を日本国の君として定められたときに神鏡を授けて此れの鏡はもは(専)ら我が御魂として吾が前をいつ(拝)くがごとくいつ(斎)き奉れ(古事記)≠ニのべられた神勅(神鏡奉斎)である。
『国体の本義(昭和12年)』にもこうある。天皇がこの御鏡を承けさせ給ふことは、常に天照大神と共にあらせられる大御心であつて、即ち天照大神は御鏡と共に今にましますのである。
どの文献をひらいても、大御心が天皇の個人的な御心としたものはない。
万が一、天皇の御心があらわれたら、聞こえなかったふりをすべきと葦津はいう。天皇の個人的な御心を、大御心とうけとめてしまう過ちが生じかねないからである。
国を治めることをシラスというのは、政治が、大御心を臣民につたえることだからである。国譲り神話では、建御雷神が大国主神に 『汝がウシハケル(領有する)葦原中国は我が御子のシラス(治める)国であるぞ』と宣言している。
祭政一致のわが国では、祭祀も、高天原と葦原中つ国の交流である。
この世(葦原中つ国)が高天原のようにあれかしとねがうのが祭祀である。
けれども、そのねがいは、天皇個人のねがいではない。高天原と葦原中つ国とのあいだでむすばれた幽契(かくれたるちぎり)で、この世の弥栄は、高天原の最高神である天之御中主神と、その次の位で、葦原中つ国をつくった天照大神との約束事である。
したがって、神に祈る祭祀王である天皇は、その約束がはたされることを見守るべく粛々と祭祀をとりおこなうだけである。
天皇は祭祀にあたって、祈りのことばを発せられない。神々の約束は人間の考えやことばを遥かに超えているからで、人間が祈りのことばを吐けば、神を冒涜することになる。
「天皇の御心を重くみるべし(文春)」「天皇陛下のご懸念を否定するのは不敬」「直接、天皇の気持ちを聞いてくればよい(小学館)」という物言いが危険なのは、天皇尊重を売り物に、あるいは、天皇の気持ちを忖度(拝察)するだけでかんたんに天皇の政治利用が可能になるからである。
横田耕一(九大教授)や百地章(国士舘大教授)は今回の西村長官の発言を越権行為といったが、その越権こそが天皇の政治利用のメカニズムなのである。
ロンドン軍縮調印を「統帥権干犯」と騒いだ海軍軍令部が天皇を担いで日米開戦のご聖断≠とりつけた。そして、アメリカの参戦を決定的にした真珠湾攻撃と、都市大空襲と原爆投下を招いたサンパン島放棄と南洋作戦(ガダルカナル、インパール)に打って出て、日本を惨憺たる敗戦においこんだ。
東条英機は、真珠湾攻撃を知らなかった。なにしろ、陸海軍の合同作戦本部がなかったのである。陸海軍とも「天皇の大御心をおしはかるに」という忖度をふりまわして、予算の分捕り合戦に奔走するばかりで、陸海軍とも、日支事変制圧後、真珠湾攻撃成功後の世界戦略をもちあわせていなかった。
天皇の軍事顧問は、海軍の三顕職(連合艦隊司令長官・海軍大臣・軍令部総長)を経験した唯一の軍人である海軍の永野修身で、天皇は、海軍に担がれて日米開戦へつきすすんだ。
ちなみに、アメリカの参戦をおそれていたのが陸軍だったが、天皇は、東条英機例外、陸軍がきらいで、耳を貸さなかった。
永野は、御前会議で、天皇陛下に、真珠湾攻撃の日時を、日曜日を月曜日の早朝とまちがえてつたえている。その講釈が「敵さんは、日曜日に遊び疲れてぐったりとしていましょうから」だった。そこで、ついたあだ名がぐったり大将≠セった。
ハーバード大学留学やアメリカ大使館付武官などでアメリカに知己が多く、アメリカを心から愛した(永野修身の四女、美紗子)永野は、A級戦犯の容疑で巣鴨プリズンに収監中、風邪をひき、横浜の米国陸軍病院へ搬送された直後、死亡して、遺体だけが送り返されてきた。
戦後、陸軍と東条英機が悪玉になって、日本を日米戦争にまきこみ、無惨な敗戦をまねいた海軍は、スター扱いで、阿川弘之の『山本五十六』『米内光政』『井上成美』の海軍提督三部作はベストセラーになった。
ちなみに、海軍でA級戦犯として死刑になった軍人はいない。
次回は、天皇の政治利用と昭和軍国主義の実態をみてゆこう。
2021年07月26日
2021年07月19日
天皇と民主主義 その25
●天皇の政治利用と明治維新
薩長と長州の下級武士によって、明治維新という歴史的大事業が達成された背景に、天皇の政治利用があったのはいうまでもない。
明治天皇を担いだ下級公家の岩倉具視と大久保利通、西郷隆盛の薩摩、木戸孝允や大村益次郎らの長州に徳川列藩がおさえこまれたのは、当時、水戸藩の水戸学を筆頭に尊王思想がめばえて、一大思潮をつくりあげていたからだった。
そのピークとなったのが、江戸幕府大老井伊直弼が尊王攘夷派の水戸浪士らに暗殺された「桜田門外の変」だった。
この事件によって安政の大獄≠ニ呼ばれる強権下、日米修好通商条約などをすすめていた幕府の威信が一挙に失墜して、公武合体論が浮上してくる。
公武合体論を契機に登場してきたのが岩倉具視と薩摩の島津久光、大政奉還を建白した土佐藩の山内容堂らで、薩摩には西郷隆盛、大久保利通、土佐には坂本龍馬がいた。
「禁門の変」で、薩摩に討たれた長州が宿敵薩摩と同盟をむすんだのは、その坂本龍馬の仲介によるもので、背後にいたのがアヘン戦争の黒幕マセソン商会(グラバー商会)だった。
世界有数の武器商人だったマセソン商会は、アメリカ南北戦争で使用された大量の中古銃を薩長に売って、討幕を支援した。薩摩から長州へ武器を運んだのが坂本龍馬の海援隊で、薩長同盟を発案したトーマス・グラバーには、明治政府から、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与されている。
狂ったような攘夷思想が、開国派へ転じたのは、薩長の有志がヨーロッパで見聞を広げたからで、ヨーロッパ留学を斡旋したのがマセソン商会(井上馨や伊藤博文ら「長州五傑」)とグラバー商会(五代友厚や森有礼ら19人英国留学派遣)だった。
当時、ヨーロッパも、産業革命と市民革命によって、大変貌をとげて、1830年には、マンチェスターとリバプール間を蒸気機関車が走っている。アメリカの鉄道は10年遅れの40年代、日本の鉄道にいたっては40年も後れをとって1872年だった。
薩長の欧州留学は、新橋と横浜間を蒸気機関車が走る10年ほど前で、ヨーロッパでは、当時、産業革命がピークを迎えていた。欧州留学組が腰を抜かすほど驚いたのは、田舎者だったからで、欧州留学組も約半数が、キリスト教に転向している、
尊王攘夷≠フ尊王が、討幕の大義名分にもちいられる一方、夷(い)を攘(はら)うはずだった攘夷は、こうして、あっというまに西洋崇拝へ転じて、文明開化や鹿鳴館文化に化けた。
この思想転換の核心は、第二代水戸藩主徳川光圀の「大日本史」にはじまる水戸学にひそんでいる。
水戸学は、儒教を土台に国学や史学、神道をくわえた大義名分論で、名分を正すことによって、正しく社会を治めるという政治イデオロギーである。
司馬遼太郎はこうのべている。「大義名分論は、なにが正で、なにが邪であるかを論じることである。こういう神学論争は、次第に狭くなる正以外のすべてを邪とする独善(一元論)に陥る」
後醍醐天皇による「建武の新政」の論理的支柱となった北畠親房の『神皇正統記』は、慈円の『愚管抄』と並ぶ歴史哲学書で、大義名分論を基調とする。
『神皇正統記』からつよい影響をうけたのが徳川光圀や新井白石、『日本外史』の頼山陽らで、大義名分論は、本居宣長が漢意(からごころ)としてきらった儒教(朱子学)の一元論的な観念論である。
幕末の親王思想に大きな影響を与えたのが、その本居宣長の弟子を自称する平田篤胤の国家神道だった。
本居宣長は『古事記伝』など学問的な研究に実績があるが、平田の膨大な著作は、死後の世界や神話的宇宙論など、国学と無縁な分野におよび、ついには、一神教的、キリスト教的な様相をおびるにいたる。
平田神道の影響をうけたのが1868年の神仏分離令にハネ上がった全国の国粋主義者で、国家神道の高揚に合わせて、寺院を壊せ、仏像を壊せ、経典を焼け、坊主を成敗せよという廃仏毀釈の大暴動に発展した。
破壊された寺院のなかでも奈良興福寺や日本四大寺の一つに数えられた内山永久寺の惨状は筆舌に尽くし難い。徹底的に破壊され尽くされて、現在、その痕跡さえ残っていないのである。
仏教は、聖徳太子が布教に力を注ぎ、奈良時代の神仏習合から仏教も神道と並んで日本の国教となった。
その仏教を排斥したのは、ヨーロッパ的な専制国家にするためには、ヨーロッパのキリスト教に匹敵する一神教が必要となったからだった。
それが、キリスト教の要素を大胆にとりいれた平田神道で、ここで、日本の伝統的な宗教観が決定的に瓦解する。
日本的な価値観の破壊にとどめを刺したのが、岩倉具視が執念をかけた明治憲法で、天皇が、ついに主権者となって、国体も崩壊する。
仏教排斥は、平田神道をキリスト教に見立てた一神教で、その先にあったのが天皇の神格化だった。「尊皇攘夷」を叫び、天皇を利用して天下を取ったあと、日本は、攘夷どころか西洋化に走って、文明開化や富国強兵へむかうのである。
明治維新を成功させるために天皇を政治利用した岩倉と薩長政府は、維新が成功したのち、天皇を本来の権威の座へもどしておくべきだった。
だが、岩倉は、天皇絶対の制度的確立を念頭において太政官大書記官井上毅に明治憲法の基本構想をつくらせ、伊藤博文をドイツに派遣、ドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)を研究させ、明治憲法起草の準備にあたらせた。
それが、明治憲法下における現人神思想で、これが、昭和軍国主義へつながってゆく。
昭和軍国主義は、天皇を神格化することによって、国民を沈黙させ、国家を自在に操縦しようとする権力の支配イデオロギーだったが、その結果が1945年の敗戦と国体の危機であった。
歴史の存在である天皇を、世俗の権力に仕立てて、国体をまもることはできない。
昭和軍国主義の失敗は、天皇に、議会や内閣も関与できない統帥権や統治権(総攬者)をあたえた明治憲法にあったのである。
薩長と長州の下級武士によって、明治維新という歴史的大事業が達成された背景に、天皇の政治利用があったのはいうまでもない。
明治天皇を担いだ下級公家の岩倉具視と大久保利通、西郷隆盛の薩摩、木戸孝允や大村益次郎らの長州に徳川列藩がおさえこまれたのは、当時、水戸藩の水戸学を筆頭に尊王思想がめばえて、一大思潮をつくりあげていたからだった。
そのピークとなったのが、江戸幕府大老井伊直弼が尊王攘夷派の水戸浪士らに暗殺された「桜田門外の変」だった。
この事件によって安政の大獄≠ニ呼ばれる強権下、日米修好通商条約などをすすめていた幕府の威信が一挙に失墜して、公武合体論が浮上してくる。
公武合体論を契機に登場してきたのが岩倉具視と薩摩の島津久光、大政奉還を建白した土佐藩の山内容堂らで、薩摩には西郷隆盛、大久保利通、土佐には坂本龍馬がいた。
「禁門の変」で、薩摩に討たれた長州が宿敵薩摩と同盟をむすんだのは、その坂本龍馬の仲介によるもので、背後にいたのがアヘン戦争の黒幕マセソン商会(グラバー商会)だった。
世界有数の武器商人だったマセソン商会は、アメリカ南北戦争で使用された大量の中古銃を薩長に売って、討幕を支援した。薩摩から長州へ武器を運んだのが坂本龍馬の海援隊で、薩長同盟を発案したトーマス・グラバーには、明治政府から、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与されている。
狂ったような攘夷思想が、開国派へ転じたのは、薩長の有志がヨーロッパで見聞を広げたからで、ヨーロッパ留学を斡旋したのがマセソン商会(井上馨や伊藤博文ら「長州五傑」)とグラバー商会(五代友厚や森有礼ら19人英国留学派遣)だった。
当時、ヨーロッパも、産業革命と市民革命によって、大変貌をとげて、1830年には、マンチェスターとリバプール間を蒸気機関車が走っている。アメリカの鉄道は10年遅れの40年代、日本の鉄道にいたっては40年も後れをとって1872年だった。
薩長の欧州留学は、新橋と横浜間を蒸気機関車が走る10年ほど前で、ヨーロッパでは、当時、産業革命がピークを迎えていた。欧州留学組が腰を抜かすほど驚いたのは、田舎者だったからで、欧州留学組も約半数が、キリスト教に転向している、
尊王攘夷≠フ尊王が、討幕の大義名分にもちいられる一方、夷(い)を攘(はら)うはずだった攘夷は、こうして、あっというまに西洋崇拝へ転じて、文明開化や鹿鳴館文化に化けた。
この思想転換の核心は、第二代水戸藩主徳川光圀の「大日本史」にはじまる水戸学にひそんでいる。
水戸学は、儒教を土台に国学や史学、神道をくわえた大義名分論で、名分を正すことによって、正しく社会を治めるという政治イデオロギーである。
司馬遼太郎はこうのべている。「大義名分論は、なにが正で、なにが邪であるかを論じることである。こういう神学論争は、次第に狭くなる正以外のすべてを邪とする独善(一元論)に陥る」
後醍醐天皇による「建武の新政」の論理的支柱となった北畠親房の『神皇正統記』は、慈円の『愚管抄』と並ぶ歴史哲学書で、大義名分論を基調とする。
『神皇正統記』からつよい影響をうけたのが徳川光圀や新井白石、『日本外史』の頼山陽らで、大義名分論は、本居宣長が漢意(からごころ)としてきらった儒教(朱子学)の一元論的な観念論である。
幕末の親王思想に大きな影響を与えたのが、その本居宣長の弟子を自称する平田篤胤の国家神道だった。
本居宣長は『古事記伝』など学問的な研究に実績があるが、平田の膨大な著作は、死後の世界や神話的宇宙論など、国学と無縁な分野におよび、ついには、一神教的、キリスト教的な様相をおびるにいたる。
平田神道の影響をうけたのが1868年の神仏分離令にハネ上がった全国の国粋主義者で、国家神道の高揚に合わせて、寺院を壊せ、仏像を壊せ、経典を焼け、坊主を成敗せよという廃仏毀釈の大暴動に発展した。
破壊された寺院のなかでも奈良興福寺や日本四大寺の一つに数えられた内山永久寺の惨状は筆舌に尽くし難い。徹底的に破壊され尽くされて、現在、その痕跡さえ残っていないのである。
仏教は、聖徳太子が布教に力を注ぎ、奈良時代の神仏習合から仏教も神道と並んで日本の国教となった。
その仏教を排斥したのは、ヨーロッパ的な専制国家にするためには、ヨーロッパのキリスト教に匹敵する一神教が必要となったからだった。
それが、キリスト教の要素を大胆にとりいれた平田神道で、ここで、日本の伝統的な宗教観が決定的に瓦解する。
日本的な価値観の破壊にとどめを刺したのが、岩倉具視が執念をかけた明治憲法で、天皇が、ついに主権者となって、国体も崩壊する。
仏教排斥は、平田神道をキリスト教に見立てた一神教で、その先にあったのが天皇の神格化だった。「尊皇攘夷」を叫び、天皇を利用して天下を取ったあと、日本は、攘夷どころか西洋化に走って、文明開化や富国強兵へむかうのである。
明治維新を成功させるために天皇を政治利用した岩倉と薩長政府は、維新が成功したのち、天皇を本来の権威の座へもどしておくべきだった。
だが、岩倉は、天皇絶対の制度的確立を念頭において太政官大書記官井上毅に明治憲法の基本構想をつくらせ、伊藤博文をドイツに派遣、ドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)を研究させ、明治憲法起草の準備にあたらせた。
それが、明治憲法下における現人神思想で、これが、昭和軍国主義へつながってゆく。
昭和軍国主義は、天皇を神格化することによって、国民を沈黙させ、国家を自在に操縦しようとする権力の支配イデオロギーだったが、その結果が1945年の敗戦と国体の危機であった。
歴史の存在である天皇を、世俗の権力に仕立てて、国体をまもることはできない。
昭和軍国主義の失敗は、天皇に、議会や内閣も関与できない統帥権や統治権(総攬者)をあたえた明治憲法にあったのである。
2021年07月11日
天皇と民主主義 その24
●国民統合の象徴と国民主権
憲法第1条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」とある。
そして、第2条に「皇位は、世襲のものであって、皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とあり、皇室典範には「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する(第1章第1条)と明確に記されている。
第3条には「天皇の国事に関わるすべての行為は、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負ふ」とあって、天皇の政治介入を遠ざけている。
権力は、太政大臣から摂政関白、征夷大将軍と中央政府が握って、鎌倉幕府とりわけ江戸幕府は「禁中並公家諸法度」をおき、権威として敬う一方、天皇の政治干渉を徹底的に排除してきた。
憲法の天皇条項は、おおむね国体に沿っていて、マッカーサーが考えた民主主義と天皇体制に、根本的なちがいがなかったことは、戦後、75年の歴史が証明している。
天皇が権力者だったとする唯物史観は、天皇が軍隊をもっていなかったことから、とうてい、成り立つ理屈ではない。
日本が、古来、君臣一体、君民共治の祭祀国家だったことは、古墳時代の4000基にのぼる前方後円墳の存在が証明している。マルクス主義の歴史学会が否定しても、エジプトのピラミッド、秦の始皇帝陵とともに「世界三大墳墓」の一つに数えられる仁徳天皇陵が、古来、日本が祭祀国家だった証拠で、世界が、この歴史的事実をみとめている。
「君臣一体」は、天皇を補佐する大伴氏や物部氏、中臣氏が、天皇の祖である邇邇藝命(ニニギノミコト)とともに高天原から高千穂峰へ天降った天忍日命(アメノオシノミコト)、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、天児屋命(アメノコヤメニミコト)の子孫だったことに由来するもので、君臣ともに、神話から歴史へ移ってきたのである。
一方、「君民共治」は、民が、権力の所有物ではなく、天皇の赤子(せきし)という構造からでてきたもので、権力が民を治めるには、天皇から、権力の正統性を示す征夷大将軍の官位をえなければならなかった。
それが、権力をその下におく権威のありようで、象徴の意味もそこにある。
象徴は、歴史や文化、習俗や民族、信仰など、形のない観念を、形をもった実在物におきかえることである。
憲法の文脈でいえば、天皇は、日本国や日本国民統合という目に見えないものにおける目に見えるシンボルで、キリスト教おける十字架、国家における国旗や国歌、富士山のようなものである。
象徴能力は、人間だけのもので、犬や猫、サルに、抽象的なものを具体的なものに見立てる象徴化の能力はそなわっていない。
そもそも、動物は、言語も、抽象観念ももっていない。
ところが、人間にも、抽象化や象徴化の能力をもたない者がいる。
皇位継承策を議論する政府の有識者会議で意見をのべた本郷恵子(東京大学史料編纂所教授)もその一人である。
「(女系による皇位継承)は伝統を更新する意義をもつ」というのだが、更新ができないから伝統なのであって、国家の伝統は、賃貸アパートの契約更新とはわけがちがうのである。
もう一人、脳がサル並みなのが『国体論ー菊と星条旗』で若者の支持を集めた反日マルキスト白井聡で、最近、『主権者のいない国』という著書で、憲法で国民主権を謳っているにもかかわらず、日本には主権を行使しようとする者がいないと息巻いている。
あたりまえで、国民主権は、抽象観念で、そんなものは実在しない。
白井とそのシンパは、国民を一人の個人と思っている。「戦艦ポチョムキンの反乱は、腐った肉を食わされたことから始まりました。腐った肉には我慢ならないという感性が、上官を倒す階級闘争にまで発展したのです」
共産党カブレの中学生のような空論だが、むろん、国民も階級も、目で見ることができない観念で、普通名詞ではなく、抽象名詞である。
国家や国民、国民統合という目に見えない抽象的な観念を、天皇という目に見える具体的な存在におきかえたのが象徴化だった。
国民も国家も、文化も歴史も、抽象観念だから、天皇という象徴を必要とするのである。
それがわからないようでは、犬や猫、サルと変わらない。
ちなみに、動物は、礼儀や尊敬心、恥などの象徴力をもっていない。
あえてここで白井の『主権者のいない国』をとりあげたのは、皇位継承策の政府の有識者会議で、明らかにすべきだったのは、その国民主権だったからである。
マッカーサー民主主義と天皇は矛盾しない。
民主主義は、政治的手法で、天皇は文化だからで、両者は、棲み分ける。
問題なのは憲法の「主権の存する日本国民の総意に基づく」と「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところ」とある二点である。
安定的な皇位継承策を議論している政府の有識者会議(座等/清家篤・慶応大学名誉教授)は「男系男子」による皇位継承と女性宮家創設の両立てで議論をすすめる方針のようだが、本来、同会議に課せられた使命は、日本の皇室にたいするGHQの干渉を排除する二点にあるべきである。
一つは、皇室典範の独立性で、もう一つは、旧皇族の復帰である。
今回の議論で「旧皇族の皇籍復帰」が検討されたのは評価できる。
しかも「皇族との養子縁組」と「新たに皇族とする」の二案が盛りこまれている。これで、神武天皇の系統樹がゆたかになって、百年後、5百年後、千年後の皇室の安泰が約束される。
男系相続はきわめて賢明な習慣で、男系に限定しなければ、相続をめぐって永遠の抗争が生じる。好例が、イギリス王(エドワード3世)とフランス王(フィリップ6世)が王位継承を争った14世紀の「百年戦争」である。
当時は、国家の前に王朝があって、王朝同士が、争い、存亡をくり返したのは、姦淫をタブー(十戒/マタイ伝)としたキリスト教が一夫一婦制の厳守と婚姻外性関係および離婚や再婚を絶対禁止したからである。
したがって、女系相続をみとめなければ、王朝は、すべて、血筋が絶える。
西洋の王政が女系をみとめるのは、男女平等だからと考える日本人が少なくないが、実際は、女性に婚姻の自由がなかったからである。
当時、ヨーロッパでは、夫を失うと妻は売春婦か掃除婦になるほかなかった。
ちなみに、魔女の箒は、寡婦の象徴で、数百万人の寡婦が魔女裁判で火刑に処された記録が残っている。
フランス革命の「人権宣言」から女性が除外されていることからわかるように、ヨーロッパは、女性蔑視の国で、女性が「山の神(女神)」だった日本とは雲泥のちがいなのである。
日本で、古来、相続がすべて男系だったのは、女系では、抗争が生じるからだった。女系では入り婿≠ニいう形で、相続と血統の正統性が、かぎりなく分散してゆく。
女性相続をみとめたヨーロッパでは、王政がただの血縁関係となって、イギリスの王位継承者は約5000人にものぼる。そのなかにノルウェーやスウェーデン国王、デンマーク女王やギリシャ王妃、オランダ前女王までがふくまれる。
男系で、抗争が生じないのは、他の男系が入りこめないからである。
女性は、天皇の母として、皇統の血筋をうけつぐが、天皇の女(むすめ)もその夫も、皇統から除外される。
日本の皇室は、女性をうけいれ、皇統以外の男系を排除したのである。
皇統の男系男子は、親等(女系)がいくら隔たっていても直系である。
皇統以外の男系が入りこんでいないからで、大伴金村が、武烈天皇の後継として越前国を治めていた継体天皇をみつけだしたのは、皇統の男系系譜をたどっただけである。
25代武烈天皇と26代継体天皇のあいだには10親等もの隔たりがある。
にもかかわらず、皇統が相続されたのは、10代崇神天皇から、15代応神天皇、20代安康天皇をへて、武烈天皇と継体天皇にいたるまで、男系という一本の筋でつながっていたからである。
縦軸にのびる男系とちがって、横へ広がる女系では、祖先がいれかわる。
どこの馬の骨とも知れない女性天皇の夫の祖先が、古事記・日本書記にしるされた神武天皇を始祖とする日本建国の神話にとってかわるのである。
歴史学者トインビーは「神話を失った国はかならず亡びる」と喝破した。
女系天皇論者は、犬や猫、サルのように、象徴性の意味が理解できないのである。
憲法第1条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」とある。
そして、第2条に「皇位は、世襲のものであって、皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とあり、皇室典範には「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する(第1章第1条)と明確に記されている。
第3条には「天皇の国事に関わるすべての行為は、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負ふ」とあって、天皇の政治介入を遠ざけている。
権力は、太政大臣から摂政関白、征夷大将軍と中央政府が握って、鎌倉幕府とりわけ江戸幕府は「禁中並公家諸法度」をおき、権威として敬う一方、天皇の政治干渉を徹底的に排除してきた。
憲法の天皇条項は、おおむね国体に沿っていて、マッカーサーが考えた民主主義と天皇体制に、根本的なちがいがなかったことは、戦後、75年の歴史が証明している。
天皇が権力者だったとする唯物史観は、天皇が軍隊をもっていなかったことから、とうてい、成り立つ理屈ではない。
日本が、古来、君臣一体、君民共治の祭祀国家だったことは、古墳時代の4000基にのぼる前方後円墳の存在が証明している。マルクス主義の歴史学会が否定しても、エジプトのピラミッド、秦の始皇帝陵とともに「世界三大墳墓」の一つに数えられる仁徳天皇陵が、古来、日本が祭祀国家だった証拠で、世界が、この歴史的事実をみとめている。
「君臣一体」は、天皇を補佐する大伴氏や物部氏、中臣氏が、天皇の祖である邇邇藝命(ニニギノミコト)とともに高天原から高千穂峰へ天降った天忍日命(アメノオシノミコト)、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、天児屋命(アメノコヤメニミコト)の子孫だったことに由来するもので、君臣ともに、神話から歴史へ移ってきたのである。
一方、「君民共治」は、民が、権力の所有物ではなく、天皇の赤子(せきし)という構造からでてきたもので、権力が民を治めるには、天皇から、権力の正統性を示す征夷大将軍の官位をえなければならなかった。
それが、権力をその下におく権威のありようで、象徴の意味もそこにある。
象徴は、歴史や文化、習俗や民族、信仰など、形のない観念を、形をもった実在物におきかえることである。
憲法の文脈でいえば、天皇は、日本国や日本国民統合という目に見えないものにおける目に見えるシンボルで、キリスト教おける十字架、国家における国旗や国歌、富士山のようなものである。
象徴能力は、人間だけのもので、犬や猫、サルに、抽象的なものを具体的なものに見立てる象徴化の能力はそなわっていない。
そもそも、動物は、言語も、抽象観念ももっていない。
ところが、人間にも、抽象化や象徴化の能力をもたない者がいる。
皇位継承策を議論する政府の有識者会議で意見をのべた本郷恵子(東京大学史料編纂所教授)もその一人である。
「(女系による皇位継承)は伝統を更新する意義をもつ」というのだが、更新ができないから伝統なのであって、国家の伝統は、賃貸アパートの契約更新とはわけがちがうのである。
もう一人、脳がサル並みなのが『国体論ー菊と星条旗』で若者の支持を集めた反日マルキスト白井聡で、最近、『主権者のいない国』という著書で、憲法で国民主権を謳っているにもかかわらず、日本には主権を行使しようとする者がいないと息巻いている。
あたりまえで、国民主権は、抽象観念で、そんなものは実在しない。
白井とそのシンパは、国民を一人の個人と思っている。「戦艦ポチョムキンの反乱は、腐った肉を食わされたことから始まりました。腐った肉には我慢ならないという感性が、上官を倒す階級闘争にまで発展したのです」
共産党カブレの中学生のような空論だが、むろん、国民も階級も、目で見ることができない観念で、普通名詞ではなく、抽象名詞である。
国家や国民、国民統合という目に見えない抽象的な観念を、天皇という目に見える具体的な存在におきかえたのが象徴化だった。
国民も国家も、文化も歴史も、抽象観念だから、天皇という象徴を必要とするのである。
それがわからないようでは、犬や猫、サルと変わらない。
ちなみに、動物は、礼儀や尊敬心、恥などの象徴力をもっていない。
あえてここで白井の『主権者のいない国』をとりあげたのは、皇位継承策の政府の有識者会議で、明らかにすべきだったのは、その国民主権だったからである。
マッカーサー民主主義と天皇は矛盾しない。
民主主義は、政治的手法で、天皇は文化だからで、両者は、棲み分ける。
問題なのは憲法の「主権の存する日本国民の総意に基づく」と「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところ」とある二点である。
安定的な皇位継承策を議論している政府の有識者会議(座等/清家篤・慶応大学名誉教授)は「男系男子」による皇位継承と女性宮家創設の両立てで議論をすすめる方針のようだが、本来、同会議に課せられた使命は、日本の皇室にたいするGHQの干渉を排除する二点にあるべきである。
一つは、皇室典範の独立性で、もう一つは、旧皇族の復帰である。
今回の議論で「旧皇族の皇籍復帰」が検討されたのは評価できる。
しかも「皇族との養子縁組」と「新たに皇族とする」の二案が盛りこまれている。これで、神武天皇の系統樹がゆたかになって、百年後、5百年後、千年後の皇室の安泰が約束される。
男系相続はきわめて賢明な習慣で、男系に限定しなければ、相続をめぐって永遠の抗争が生じる。好例が、イギリス王(エドワード3世)とフランス王(フィリップ6世)が王位継承を争った14世紀の「百年戦争」である。
当時は、国家の前に王朝があって、王朝同士が、争い、存亡をくり返したのは、姦淫をタブー(十戒/マタイ伝)としたキリスト教が一夫一婦制の厳守と婚姻外性関係および離婚や再婚を絶対禁止したからである。
したがって、女系相続をみとめなければ、王朝は、すべて、血筋が絶える。
西洋の王政が女系をみとめるのは、男女平等だからと考える日本人が少なくないが、実際は、女性に婚姻の自由がなかったからである。
当時、ヨーロッパでは、夫を失うと妻は売春婦か掃除婦になるほかなかった。
ちなみに、魔女の箒は、寡婦の象徴で、数百万人の寡婦が魔女裁判で火刑に処された記録が残っている。
フランス革命の「人権宣言」から女性が除外されていることからわかるように、ヨーロッパは、女性蔑視の国で、女性が「山の神(女神)」だった日本とは雲泥のちがいなのである。
日本で、古来、相続がすべて男系だったのは、女系では、抗争が生じるからだった。女系では入り婿≠ニいう形で、相続と血統の正統性が、かぎりなく分散してゆく。
女性相続をみとめたヨーロッパでは、王政がただの血縁関係となって、イギリスの王位継承者は約5000人にものぼる。そのなかにノルウェーやスウェーデン国王、デンマーク女王やギリシャ王妃、オランダ前女王までがふくまれる。
男系で、抗争が生じないのは、他の男系が入りこめないからである。
女性は、天皇の母として、皇統の血筋をうけつぐが、天皇の女(むすめ)もその夫も、皇統から除外される。
日本の皇室は、女性をうけいれ、皇統以外の男系を排除したのである。
皇統の男系男子は、親等(女系)がいくら隔たっていても直系である。
皇統以外の男系が入りこんでいないからで、大伴金村が、武烈天皇の後継として越前国を治めていた継体天皇をみつけだしたのは、皇統の男系系譜をたどっただけである。
25代武烈天皇と26代継体天皇のあいだには10親等もの隔たりがある。
にもかかわらず、皇統が相続されたのは、10代崇神天皇から、15代応神天皇、20代安康天皇をへて、武烈天皇と継体天皇にいたるまで、男系という一本の筋でつながっていたからである。
縦軸にのびる男系とちがって、横へ広がる女系では、祖先がいれかわる。
どこの馬の骨とも知れない女性天皇の夫の祖先が、古事記・日本書記にしるされた神武天皇を始祖とする日本建国の神話にとってかわるのである。
歴史学者トインビーは「神話を失った国はかならず亡びる」と喝破した。
女系天皇論者は、犬や猫、サルのように、象徴性の意味が理解できないのである。
2021年07月04日
天皇と民主主義 その23
●民主主義という文化は存在しない
「民主主義ってなーに?」「民主主義は、みんなのことは、みんなが話し合って決めることで、世界中の国々が民主主義を採用しています」
日本人は、小学生のころから、民主主義は正しい考えと教えこまれてきた。
そして、中学生になると、戦後、民主主義が入ってきて、日本は、よい国にうまれかわりましたと教わって、空想的な美辞麗句が並べられた憲法の前文を暗記させられる。
これで、日本人が、左翼にならなかったらどうかしている。
自民党の二階俊博幹事長は、女性天皇と女系天皇について「男女平等の民主主義を念頭におけばおのずから結論は出る」とのべた。
民主主義のなかに、自由や平等から国民主権、男女平等までがもりこまれていると思っているのである。
ところが、民主主義の原典とされるフランス革命の「人権宣言」から女性が除外されている。「ひとは自由かつ権利において平等なものとして生存する(第1条)」に女性と子ども、奴隷はふくまれていないのである。
人権どころか、自由も平等も、それぞれ、別の思想体系で、民主主義としてこれらを一緒くたにくくっているのは日本だけである。
そもそも、民主主義という思想は、存在しない。
憲法に権利ということばが28回もでてくるのに、民主主義がいちどもでてこないのは、デモクラシーの翻訳語である民主主義は、多数決と普通選挙法をさすに政治用語にすぎないからである。
ちなみにデモクラシーは、デモ(大衆)によるクラシー(支配)で、諸外国では、独裁の対極にある民主政あるいは共和制のことである。
王政を廃止して、元老院と市民が主権をもった古代ローマも、古代ギリシャ以降、衆愚政治の代名詞となったデモクラシーという語を避けて「共和制」を名乗った。
中国も、中華人民共和国で、中国の民主は「民ノ主(あるじ)」の国家のことなので、民主化運動は、民衆の反乱として徹底的に弾圧される。
日本人が民主主義と呼んでいるのは、自由や平等、国民主権がごったまぜにしたルソー主義である。
ルソーは、人間はうまれつき自由で平等だ、個人は主権をもっている、揚げ句に、自然に帰れなどとデタラメをふきまくったアジテーターで、そのルソーが啓蒙主義のチャンピオンになったのは、自由と平等、国民主権が、フランス革命のスローガンにもちいられたからだった。
悪名高いそのルソー主義が、憲法前文に掲げられたのは、日本国憲法をつくったGHQ民政局のニューディーラーが、ルソー主義者だったからである。
そして、左翼や法曹界、マスコミばかりか法務省までがルソー主義のGHQ憲法の支持にまわった。
GHQ憲法を、レーニンの敗戦革命≠ノなぞらえて、民主主義革命(「八月革命」)の宣言文としたのである。
戦勝国からつくってもらった憲法で革命がおきるのだから、こんなに安全で、らくなラクな革命はなかったろう。
「八月革命」の要諦は、ロックの革命(抵抗)権にあって、宗主国イギリスに抵抗したのが、アメリカ独立戦争だった。ロック主義は、ホッブズの社会契約論に革命権をくわえたもので、ルソー主義がフランス革命のスローガンだったのにたいして、ロック主義は、アメリカ革命のテキストとなった。
人民が国家をいつでも転覆できるというのがロック主義である。
イギリスという国家を倒した新大陸の人民がそのままアメリカとなった。アメリカ憲法のロック主義をうけついだのがGHQ憲法で、人民主権の新憲法によって、いつでも、国家を転覆できるというのが「八月革命」論である。
池上彰は「憲法は、国民の自由と権利を保障するもので、憲法を守るべきはその国の権力者なのです」(日本国憲法/新潮社)という。
憲法は、国家を監視するものという「八月革命」論にのっているわけだが、憲法(コンスティテューション)は、共同の(コン)構造(スティテューション)で、17条憲法も五か条の御誓文も、国家と官僚や国民にむけた約束や合意だった。
国家を監視するという発想は、国民主権からでてきたものだが、現行憲法は、形式上、欽定憲法(明治憲法の改定)で、新憲法制定時、日本には、国民主権どころか、国家主権すらなかった。
いかなる根拠から、現憲法が、国民がつくって、国民が国家を監視する憲法といえるのか。
GHQが、じぶんたちがつくった憲法を恒久化するため、日本国民がつくった憲法だとウソをついただけである。
左翼は、GHQ憲法が革命憲法だった根拠に、天皇に憲法尊重の義務を負わせた憲法99条を挙げる。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
一方、憲法第1条で、天皇の象徴的地位が謳われている。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
象徴というのは、抽象的な概念、形のない事物を、形をもつ具体的な事物におきかえて表現することである。
歴史や文化、民族や信仰などの目に見えないものが、目に見える形になることで、たとえば、キリスト教の象徴が十字架で、国家の象徴が国旗である。
唯物史観の史学学会はみとめないが、数千基にのぼる古墳時代の前方後円墳は、祭祀国家の象徴で、古墳時代、西洋のような争乱はおきていない。
天皇は、十字架や国旗と同様、象徴なので、人権や人格をもたれない。
葦津珍彦が「歴史をつらぬく真実」といったように、象徴天皇は、歴史的な存在であって、政治や法律、啓蒙思想などの世俗性を超越している。
それが、人間だけにあたえられた象徴能力≠ナ、権威や象徴、名誉、伝統などにたいする敬意である。
人間には、合理的思考のほかに、象徴化の能力もそなわっていて、絵や写真をみて、実物を思いうかべることができる。
犬や猫、猿には、線や色、影としか見えないものが、人間には、モナリザや葛飾北斎の絵に見えるのは、象徴化の能力がそなわっているからである。
日本人が天皇を敬うのは、天皇から日本の歴史や伝統、民族性や文化を読みとるからで、日本人は、象徴能力が高いのである。
憲法に規定された天皇に権威がそなわらないのは、法という合理主義に立つからで、象徴性がはたらいていない。
象徴化の能力は、合理的思考をこえた高度な精神で、いま、世界がもとめているのは、和歌や俳句、浮世絵に代表される、唯物論や合理論をこえた、象徴能力の高い日本の心なのである。
「民主主義ってなーに?」「民主主義は、みんなのことは、みんなが話し合って決めることで、世界中の国々が民主主義を採用しています」
日本人は、小学生のころから、民主主義は正しい考えと教えこまれてきた。
そして、中学生になると、戦後、民主主義が入ってきて、日本は、よい国にうまれかわりましたと教わって、空想的な美辞麗句が並べられた憲法の前文を暗記させられる。
これで、日本人が、左翼にならなかったらどうかしている。
自民党の二階俊博幹事長は、女性天皇と女系天皇について「男女平等の民主主義を念頭におけばおのずから結論は出る」とのべた。
民主主義のなかに、自由や平等から国民主権、男女平等までがもりこまれていると思っているのである。
ところが、民主主義の原典とされるフランス革命の「人権宣言」から女性が除外されている。「ひとは自由かつ権利において平等なものとして生存する(第1条)」に女性と子ども、奴隷はふくまれていないのである。
人権どころか、自由も平等も、それぞれ、別の思想体系で、民主主義としてこれらを一緒くたにくくっているのは日本だけである。
そもそも、民主主義という思想は、存在しない。
憲法に権利ということばが28回もでてくるのに、民主主義がいちどもでてこないのは、デモクラシーの翻訳語である民主主義は、多数決と普通選挙法をさすに政治用語にすぎないからである。
ちなみにデモクラシーは、デモ(大衆)によるクラシー(支配)で、諸外国では、独裁の対極にある民主政あるいは共和制のことである。
王政を廃止して、元老院と市民が主権をもった古代ローマも、古代ギリシャ以降、衆愚政治の代名詞となったデモクラシーという語を避けて「共和制」を名乗った。
中国も、中華人民共和国で、中国の民主は「民ノ主(あるじ)」の国家のことなので、民主化運動は、民衆の反乱として徹底的に弾圧される。
日本人が民主主義と呼んでいるのは、自由や平等、国民主権がごったまぜにしたルソー主義である。
ルソーは、人間はうまれつき自由で平等だ、個人は主権をもっている、揚げ句に、自然に帰れなどとデタラメをふきまくったアジテーターで、そのルソーが啓蒙主義のチャンピオンになったのは、自由と平等、国民主権が、フランス革命のスローガンにもちいられたからだった。
悪名高いそのルソー主義が、憲法前文に掲げられたのは、日本国憲法をつくったGHQ民政局のニューディーラーが、ルソー主義者だったからである。
そして、左翼や法曹界、マスコミばかりか法務省までがルソー主義のGHQ憲法の支持にまわった。
GHQ憲法を、レーニンの敗戦革命≠ノなぞらえて、民主主義革命(「八月革命」)の宣言文としたのである。
戦勝国からつくってもらった憲法で革命がおきるのだから、こんなに安全で、らくなラクな革命はなかったろう。
「八月革命」の要諦は、ロックの革命(抵抗)権にあって、宗主国イギリスに抵抗したのが、アメリカ独立戦争だった。ロック主義は、ホッブズの社会契約論に革命権をくわえたもので、ルソー主義がフランス革命のスローガンだったのにたいして、ロック主義は、アメリカ革命のテキストとなった。
人民が国家をいつでも転覆できるというのがロック主義である。
イギリスという国家を倒した新大陸の人民がそのままアメリカとなった。アメリカ憲法のロック主義をうけついだのがGHQ憲法で、人民主権の新憲法によって、いつでも、国家を転覆できるというのが「八月革命」論である。
池上彰は「憲法は、国民の自由と権利を保障するもので、憲法を守るべきはその国の権力者なのです」(日本国憲法/新潮社)という。
憲法は、国家を監視するものという「八月革命」論にのっているわけだが、憲法(コンスティテューション)は、共同の(コン)構造(スティテューション)で、17条憲法も五か条の御誓文も、国家と官僚や国民にむけた約束や合意だった。
国家を監視するという発想は、国民主権からでてきたものだが、現行憲法は、形式上、欽定憲法(明治憲法の改定)で、新憲法制定時、日本には、国民主権どころか、国家主権すらなかった。
いかなる根拠から、現憲法が、国民がつくって、国民が国家を監視する憲法といえるのか。
GHQが、じぶんたちがつくった憲法を恒久化するため、日本国民がつくった憲法だとウソをついただけである。
左翼は、GHQ憲法が革命憲法だった根拠に、天皇に憲法尊重の義務を負わせた憲法99条を挙げる。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
一方、憲法第1条で、天皇の象徴的地位が謳われている。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
象徴というのは、抽象的な概念、形のない事物を、形をもつ具体的な事物におきかえて表現することである。
歴史や文化、民族や信仰などの目に見えないものが、目に見える形になることで、たとえば、キリスト教の象徴が十字架で、国家の象徴が国旗である。
唯物史観の史学学会はみとめないが、数千基にのぼる古墳時代の前方後円墳は、祭祀国家の象徴で、古墳時代、西洋のような争乱はおきていない。
天皇は、十字架や国旗と同様、象徴なので、人権や人格をもたれない。
葦津珍彦が「歴史をつらぬく真実」といったように、象徴天皇は、歴史的な存在であって、政治や法律、啓蒙思想などの世俗性を超越している。
それが、人間だけにあたえられた象徴能力≠ナ、権威や象徴、名誉、伝統などにたいする敬意である。
人間には、合理的思考のほかに、象徴化の能力もそなわっていて、絵や写真をみて、実物を思いうかべることができる。
犬や猫、猿には、線や色、影としか見えないものが、人間には、モナリザや葛飾北斎の絵に見えるのは、象徴化の能力がそなわっているからである。
日本人が天皇を敬うのは、天皇から日本の歴史や伝統、民族性や文化を読みとるからで、日本人は、象徴能力が高いのである。
憲法に規定された天皇に権威がそなわらないのは、法という合理主義に立つからで、象徴性がはたらいていない。
象徴化の能力は、合理的思考をこえた高度な精神で、いま、世界がもとめているのは、和歌や俳句、浮世絵に代表される、唯物論や合理論をこえた、象徴能力の高い日本の心なのである。