2021年08月29日

 天皇と保守主義2

 ●保守は歴史主義、革新は理性主義
 保守と革新、右翼と左翼は、相対論である。
 保守や右翼は、革新や左翼のあとからうまれたからである。
 近代になってからのことで、日本に左翼が登場したのは、ロシア革命5年後の大正11年で、コミンテルンの日本支部として、日本共産党が設立されたのが最初だった。
 コミンテルンは、レーニンがつくった共産党の国際組織で、大正デモクラシーは、国家主義にたいする反発と、共産主義へのあこがれがないまぜになった大衆運動だった。
 国家主義との対比でいうなら、保守は歴史主義で、革新は、理性主義ということができる。
 保守といえば、林房雄や福田恒存、林健太郎、会田雄二ら諸先達の名が思いうかぶ。
 いずれも、歴史主義者で、理性主義にたいするきびしい批判者であった。
 西洋で保守主義者といえば、だれもが、エドマンド・バークの名を挙げる。
 革命批判の書(『フランス革命の省察』)が保守主義の聖典とされているので保守主義者とされている。
 ところが、政治家としては、イギリス下院で、長年、保守党と対立する自由党(ホイッグ党)の幹部をつとめた自由主義者だった。
 バークの主張は、文化や習俗、制度の基礎は、歴史にあって、時間の試練に耐えてきた伝統的な精神や慣習だけが普遍性をもつという歴史主義である。
 歴史は、絶対的で、相対化されない。バークの考えが保守主義と呼ばれるのは、歴史=絶対主義に立っているからである。

 歴史や国家、国体や天皇は、絶対的な存在で、相対化できない。
 ちなみに、右翼の草分けといわれる頭山満(玄洋社)とその弟子の内田良平(黒龍会)が立っていたところも、大アジア主義に立つ国家主義者で、欧米の植民地主義からアジアの人民をまもるには国家が盤石でならなければならないとする絶対主義である。
 絶対というのは、比較するものがないことである。そして、相対は、比較の上に成り立つ価値で、都合や条件によって、変動する。
 犬養毅や広田弘毅らの政治家から中江兆民や吉野作造、大杉栄らの思想家と親交があった頭山は、朝鮮の金玉均や中国の孫文、インドのビハリ・ボースやベトナムのファン・チャウらアジアの独立運動家を支援した。
 犬養から、しばしば、入閣をもとめられたが、応じなかっただけではなく、大アジア主義の立場から、満州事変に反対を唱えた。
 頭山にとって、政治は、相対的な価値でしかなく、一方、運動は、絶対的な価値だったのである。
 黒龍会の内田良平は、朝鮮独立運動やフィリピン独立軍の支援、中国革命の孫文への援助、ロシア偵察の「シベリア横断」などの行動力が内外に聞こえていた。
 頭山や内田を、保守や革新、左翼や右翼のカテゴリーで括ることはできないのは、条件によって立場を変える相対論者ではなく、つよい信念をもった絶対主義者だったからである。
 天皇も、歴史に根をもった絶対で、神武天皇が即位された紀元前660年を紀元節(日本書紀)としたのも、イギリスがイギリス革命(ピューリタン革命や名誉革命)をふくめて、自国の歴史や伝統を完全肯定するのも、絶対主義である。
 中国が、天安門広場に毛沢東の肖像が掲げるのも、絶対主義に立ってのことで、中華人民共和国を建国(1949年)した毛沢東は、中国の歴史において絶対的な存在なのである。
 
 一方、理性主義は、知識や学習、頭のなかでこねくり回した想念だけが真実とする思いこみで、自由や平等が比較論で、民主主義にいたっては、多数決という究極の相対論にすぎないことに気がついていない。
 啓蒙主義や進歩主義、近代主義や人間中心主義は、理性にたいする根拠なき信頼で、歴史による試練および全体性にたいする謙虚さを欠いている。
 理性は、矮小で、多くの欠陥を抱えている。そして、理性の動物である人間は、エゴをふり回して、際限なくまちがいをくり返す。理性や進歩、自由や平等にたいする懐疑という赤信号、交通ルールという規制、自重というガードレールがなければ、民主主義は、暴走して、愚民化と野蛮化へむかうのである。
 伝統国家では、社会の矛盾や不条理、対立は、歴史の知恵や経験則、徳性によって調和され、克服される。
 保守主義は、理性や原理、イデオロギーではなく、習慣や習俗、日常性などの時間的な積み重ねであって、文化は、歴史の内部に蓄積される。
 日本は、伝統国家で、自由や平等、人権、民主主義などの啓蒙主義の洗礼をうけていない。
 にもかかわらず、欧米と肩を並べることができたのは、民主主義という共通項があったからである。じじつ、欧米の立憲君主制や議会民主主義と天皇の君民共治は、明治維新(1853年)から日英同盟(1902〜1922年)にいたるまで破綻なく共存していた。
 
 日本人は、民主主義が西洋人の最高英知で、日本には、民主主義に匹敵する文化や政治哲学がなかったと思いこんでいる。
 おおまちがいで、個人の自由や権利、民主主義は、暗黒の中世ヨーロッパにおいて、人類の理想をもとめたものなどではなく、権力と宗教の二重支配から抜け出すための唯一の手段だった。
 そのために、おびただしい血が流されてきたのは、世界史にしるされたとおりである。キリスト教と絶対王政のもとで、虫けらのようにあつかわれていた人民が、人間として復活するには、ルネサンスから宗教戦争、啓蒙主義、市民革命にいたる千年の歴史が必要だったのである。
 一方、日本で、民が虐げられなかったのは、民の代表たる天皇が、権力者に権力の正統性を授ける「君民共治」の国だったからである。
 ヨーロッパでは、民が、ローマ教皇庁と王権の二重支配に苦しんだ。
 ところが日本では、権力が天皇の権威の下にあったため、民の活動が権力によって、妨げられることはなかった。
 ヨーロッパでは、文化は、王族や貴族のためのもので、民や奴隷は奉仕する一方だったが、日本では、衣食住の文化は、すべて、民からうまれた。富んでいたのも商人や豪農で、支配階級の武士の多くは平民から借金を負っていた。
 日本は、啓蒙主義を体験しなくても、しつけや伝習、修身や徳などの教養によって、自由や平等、人権、民主主義以上の知恵をえることができた。
 ヨーロッパの政治が、旧体制(アンシャン・レジーム)の破壊と革命をめざしたのにたいして、日本の政治がまもることだったのは、日本は、国家の前に国体という文化的な器をもっていたからだったのである。
 この国体を、民主主義や憲法におきかえようとするのが左翼で、政治手法にすぎない民主主義、法にすぎない憲法を、文化であるようなデマゴギーをふりまわしている。
 次回は、日本史をふり返って、天皇と保守思想のかかわりをもっと深くみてゆこう。
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2021年08月23日

 天皇と保守主義1

 ●国防意識と危機管理
 日本には、もともと、保守主義という思想も、右翼という政治勢力も、存在しなかった。
 クニをまもることが政治だったからで、日本では、クニの象徴である天皇の権威が2000年の長きにわたってまもられてきた。
 その意味で、日本の政治は、保守思想そのもので、とりたてて、保守主義とあげつらうまでもないのである。
 日本に、古くから、国をまもるという概念があったのは、建国神話(大国主神の国譲りや天孫降臨)によって、国体観念ができていたからである。
 インドなど列強の侵略をうけたアジアは、王族や領主らが領有する地域でしかなく、国家の体裁をととのえていなかったばかりか、国家という概念すらできていなかった。
 白村江の戦い(663年)で、日本・百済軍は、唐・新羅に敗れた。
 唐・新羅軍による日本侵攻の危機感を深めた天智天皇は、対馬や九州北部の大宰府、瀬戸内海沿いの西日本の各地に防衛網を構築して、防人(防衛軍)を配備した。さらに、四年後、天智天皇は、都を難波から内陸の近江京へ移して防衛体制を完成させた。
 二度におよんだ蒙古襲来では、鎌倉幕府の執権、北条時宗が武士団を率いて蒙古軍と激戦をくりひろげ、内陸への侵攻をくいとめた(文永の役1274年/弘安の役1281年)。
 二度の蒙古襲来を撃退した時宗は、心労が重なって32歳の若さで死亡するが、博多湾岸にいまに残る石塁を構築するなど、国防を強化して、鎌倉幕府の支配権を拡大、挙国体制をつくりあげる大きな功績を残した。
 国家防衛は、最大級の危機管理で、日本の危機管理能力の高さは、天智天皇や北条時宗の歴史上の事跡からも十分うかがえるのである。

 ところが、現在、日本は、国家防衛が悪となるような平和主義の下で、危機管理能力をはなはだしく劣化させている。
 世界が、民主主義と国家主義を両立させているのにたいして、日本は、国家を、民主主義と敵対するものととらえているのである。
 新型コロナウイルスの世界的大流行によって、その民主主義神話≠ェゆらぎはじめている。
 民主主義の国、アメリカや欧州各国で、パンディミックがおきる一方、欧米型の民主主義がとりいれられていない中国が、唯一、新型コロナの封じ込めに成功したからである。
 だからといって、民主主義にたいして、悲観的になる必要はすこしもない。近代において、民主主義は、絶対的だからで、欧米でも、マスク着用やロックダウンに反対するデモはあっても、政府の対応が手ぬるいという批判はほとんど聞かれない。イギリスでは、サッカー欧州選手権の応援で、6000人以上の観客が感染したが、イギリス政府には打つ手がなかった。
 民主主義や「個人の自由」は、近代の前提条件で、他のものと代替えがきかないのである。
 世界の国々は、個人の自由を侵害することなく、国民を、新型コロナウイルスから防衛するという困難な戦略を迫られている。
 それには、通常の医療体制を、危機管理型にきりかえなければならない。
 危機管理型というのは、戦時態勢のことで、コロナ防衛は戦争なのである。
 中国が、新型コロナウイルスの制圧に成功したのは、コロナウイルスを目に見えない敵と見立てて、臨戦体制を敷いたからで、中国の武漢で、わずか数週間で、続々と巨大な入院治療施設を完成させたことはよく知られている。
 日本と比較して、感染者数が30倍も多いアメリカで、医療崩壊がおきていないのも、軍事態勢を敷いているからである。
 野戦病院をふくめて、新しい病棟が続々と建設されて、軍医のほか、医療の免許や資格がなくとも医療行為ができる衛生兵らも動員されている。指揮をとっているのも軍人で、感染症の危機管理を担う「疾病対策予防センター(CDC)」でも、軍人が中心的な役割をはたしている。
 アメリカ統合参謀本部(JCS)は、国益を確保する要因として4つの柱を掲げている。外交と情報、軍事、経済の四分野だが、新型コロナウイルス対策は、そのなかの軍事にふくまれる。

 感染症危機管理は、未知なる敵(病原体)との遭遇で、戦争なのである。
 政治学者のクラウセヴィッツは、戦争の本質は、不確実性にあるとした。
 不測の事態をかかえる不確実性を克服するには、戦場に身をおいて、的確な情報のもとで、変動する事態に臨機応変に対応しなければならない。
 厚労省が国民や自治体にお願いをして回るのは、感染症「対策」というただの行政手続きであって、軍事オペレーションの「危機管理」とは程遠い。
 新型コロナウイルス対策には、戦時体制の統合本部が必要で、指揮をとるのは、役人や政治家ではなく、危機管理の専門家でなければならない。
 ところが、日本は、危機管理にともなう国権の行使を民権の侵害とうけとめる傾きがつよく、臨戦体制を敷くことができず、政府主導の事態対処行動すらつくることができない。
 マスコミ労組(日本マスコミ文化情報労組会議)や日本弁護士連合会は、コロナ特措法が憲法違反だと声明をだした。「集会の自由や報道の自由、国民の知る権利を脅かし、基本的人権の侵害につながりかねない」というのである。
 国家あげての新型コロナウイルス対策が、民主主義や人権の侵害にあたるとするマスコミが、自民党政権を叩きに叩いて菅政権の支持率が低下、五大都市の一つである横浜市長の椅子がとうとう共産党に奪われた。
 日本共産党は、五輪反対以外、新型コロナウイルスにたいする対策をなに一つもっていない。
 マスコミや日本医師会らは、医療崩壊の危機を煽るが、政府は、新たな病院をつくろうとも、人的な医療体制を増強しようともしない。
 医療体制は、厚労省の許認可の範囲にあるので、手が出せないのである。
 臨戦態勢を敷けない日本は、国家理性も危機管理能力も失って、コロナ禍の国際社会を漂流するばかりなのである。

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2021年08月08日

 天皇と民主主義 その28

 ●世界戦略が不在だった昭和軍国主義
 明治時代の初期、日本にまだ正気がたもたれていたのは、江戸時代の人材や文化が残っていたからで、名誉と清廉で自己を律する武士、経済と倫理を兼ね備えた商人や豪農・自作農、あらゆる職種で腕をみがきあげた職人など江戸の遺産の上に明治という時代がのっていた。
 例外が政治で、明治政府は、文明開化という名目の下で、伝統文化から西洋文明への乗り換えをはかった。日本の道義や礼節、伝統を捨て、西洋の合理や物質主義、功利へ走ったのである。
 その結果、日本は、国家的なプランを失ったガリガリ亡者の国となった。
 天皇が国の弥栄を祈る祭祀国家ではなく、天皇が軍服を着て軍馬にまたがる帝国主義国家に変貌したのである。
 明治維新が、帝国主義へ変質していった最大の要因は、天皇に統治権と統帥権を付与した大日本帝国憲法にあった。
 第一条(「大日本帝国ハ天皇之ヲ統治ス」)および第四条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」)で統治権をゆだね、そして第一一条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)で、陸海軍の統帥権をあずけた。
 日清・日露戦争には、列強による帝国主義や植民地主義という時代背景があって、戊辰戦争が長期的な内乱へ拡大していたら、英仏や米ロの軍事介入をまねいて、日本は、インドや南アジア、清国の二の舞を踏む可能性もあった。
 だが、それも、日本が西洋の帝国主義を真似たからで、みずから招いた災いだった。
 といっても、日本が帝国主義化・軍国主義化していったのは、天皇が、統治権や統帥権をふりまわしたからではない。
 天皇大権を借りた軍部が、天皇を政治利用して、国家に君臨したのである。
 薩長が天皇を利用して、明治維新を実現させたのは、是非を別にして、1つの政治手法であった。
 したがって、維新がなったのち、天皇を本来の地位へおもどしておくべきであった。
 そして「五か条の御誓文」にそった政治をおこなっていれば、江戸の文化と西洋の文明、君民共治と民主主義が溶け合った世界一の開明的な国家になっていたと思われる。
 五か条の御誓文には「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」から「盛ニ経綸ヲ行フヘシ」「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ」「旧来ノ陋習ヲ破リ」「智識ヲ世界ニ求メ」まであって、日本が近代化を完了させた欧米と足並みを揃えてやってゆける条件や素地は十分にあった。

 1931年(昭和6年)満州事変がおきた。日露戦争に勝って、南満州鉄道の沿線に進出した日本軍(関東軍)が、突如、中国東北部に進出して、すでに滅亡していた清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を元首に立てて、1932年にあらたに満州国を建設したのである。
 これにたいして、調査団を派遣した国際連盟が日本側に不利な報告書(リットン)を採決(42対2)すると、日本は、一か月後、国際連盟から脱退する(1933年)。
 翌年の1934年、ワシントン軍縮条約を破棄した日本は、ロンドン軍縮会議からも脱退(1936年)して、国際的孤児への道をつきすすむ。
 英米が、日本の海軍力を世界第3位に釘付しようとしたのに反発してのことで、主力艦(戦艦)を対象にしたワシントン条約では、英米が5、仏伊が1・67なのにたいして、日本が3の割り当てだった。
 明治維新で、西洋化と文明開化をめざした日本が、半世紀後、世界第3位の格付けに不満を鳴らして、英米の二大強国に喧嘩を売るほど傲慢な国になったのはなぜであろうか。
 日清・日露戦争と第一次世界大戦(対独戦)の勝利によってのぼせあがったという見方もできるが、実際は、天皇を大元帥に戴いた日本軍が勝手放題にふるまった結果である。
 陸軍省や参謀本部命令、大元帥の許可がなくおこなわれた満州事変は、死刑に処される軍規違反だったが、首謀者達は処罰されるどころかみな出世した。
 満州事変をおこした関東軍は、大日本帝国陸軍の一部だが、陸軍省や参謀本部の命令系統から外れた「総軍」で、独自の判断で、軍事行動をおこすことができた。
 総軍は、関東軍のほかに支那派遣軍や南方軍、方面軍など六つあって、それぞれが独自の軍事行動をおこして、第二次世界大戦を泥沼化させていった。

 日本軍が国家戦略から離れて、勝手に行動したのは、統帥権をもった天皇に直結して、天皇の軍隊を名乗ったからで、日本軍には、陸軍と海軍、六総軍を統合する作戦本部が存在しなかった。
 天皇の統治権の下に、内閣総理大臣、閣僚、陸軍大臣・海軍大臣がおかれる一方、天皇の統帥権の下に大本営が設けられて、トップに参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が就いた。
 天皇陛下は、大元帥でもあって、陸・海軍の最高位にまつりあげられた天皇は、軍部による政治利用の標的となった。
天皇のお気持ちを推察する≠ニいう論法によって、あるいは、統帥権の尊重という論理によって、軍人による天皇の政治利用が堂々とまかりとおったのである。
 天皇が臨席する大本営会議には、参謀総長や軍令部総長以下、軍人が参加したが、統帥権の独立によって、総理大臣以下、政府側の文官が参加できなかったばかりか、閣僚でもあった陸軍・海軍大臣は、会議に出席できても、発言権がなかった。
 大本営会議は、御前会議でもあって、陸・海軍や六総軍は、共同作戦を練るどころか、自軍の秘密がもれるのをおそれて、タテマエ論や虚言をもてあそんで、互いに騙しあった。そればかりか、ウソの発表(大本営発表)で、国民を騙しつづけた。
 統帥権という天皇大権の下で、旧日本軍は、無人の野をゆくように、自在にふるまってきたのである。

 陸・海軍や六総軍が、そっぽをむきあって、いがみ合ったのは、予算を奪い合ったからである。
 日本の国家予算に占める軍事費の割合は、1880年代から太平洋戦争終結まで、平均で5割を超え、最高時には8割にまでたっした。大蔵省が編纂した『昭和財政史臨時軍事費(1955年)』によると、国家予算に占める戦時期の軍事費の割合は、日清戦争(1894年)時に70%。日露戦争(1905年)時に82%。太平洋戦争末期(1944年)には85%にハネ上がった。
 軍部は、中国戦線の拡大(支那派遣軍)から南洋作戦(南方軍)、ノモンハン事件(関東軍)など無意味な消耗戦を展開したが、すべて、予算を分捕るための演出で、当時、戦線が縮小すると予算を削られたのである。
 海軍の真珠湾攻撃も、中国戦線拡大によって、陸軍に傾いた予算をとり返すためのもので、長野修身軍令部総長も山本五十六連合艦隊司令官も、長期的には、アメリカに勝てないと知っていた。
 だが、アメリカに一泡吹かせることはできると天皇を説得して、南太平洋に出撃していった。
 そして、原爆を落とされ、日本中の都市を焼け野原されて、300万人もの同胞を犠牲にしたのである。
 自民党憲法改正草案では、天皇が、元首に据えられている。
 日本において、天皇は、古来、象徴であって、元首にまつりあげられたのは明治憲法においてのみである。
 昭和軍国主義の悲劇が、天皇元首にあったことへの反省がない自民党の憲法改正推進本部は、あまりにも、不勉強なのである。
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2021年08月02日

 天皇と民主主義 その27

 ●天皇の政治利用と昭和軍国主義
 明治維新によって、封建体制が崩壊して、日本の近代化がはじまった。
 市民革命と産業革命を主軸とするヨーロッパの近代化も、封建体制の瓦解をともなっていたのはいうまでもない。
 封建体制は、革命派には、旧悪や旧弊だが、国家や民族には、歴史と文化の大いなる蓄積で、かけがえのない知的財産である。
 革命は、過去をすべて否定するので、国家や民族の歴史的叡智や文化遺産がねこそぎ失われる。
 その代わりにあらわれるのが、啓蒙主義と市民革命の産物である自由と平等、そして、民主主義と国民主権である。
 といっても、近代化の眼目は、自由や平等、民主主義や国民主権だけにあるのではない。
 むしろ、旧体制の打破に重点がおかれていて、王政や身分制のほか、道徳やモラル、忠誠心のような心の価値までが否定される。
 自由の前では、節度は、ただの束縛にすぎない。平等の前では、身分秩序や格式、分の弁えなどの社会規範は悪弊となる。民主主義の前では、英傑による政治は独裁とひとしく、国民主権の前では、国家理性は全体主義とみなされる。
 近代は、過去を悪とみなす歴史観に立って、歴史や伝統、習俗やコモンセンスなど、国家的な価値観や民族的な良識を捨て去った体制および世界観である。
 そして、その一方、モノ・カネ・技術などの唯物論的な価値だけを追いもとめる。
 その典型が旧ソ連とアメリカだが、世界の先進国も、ほとんど、革命国家である。
 旧ソ連や中国などの共産主義は、民主主義をまるごと国家があずかった人民政府で、アメリカも、伝統をそっくり民主主義に入れ替えた革命国家だった。
 第二次大戦は、革命国家と伝統国家、民主国家と独裁国家が争った戦争で、スターリンとルーズベルトは、ともに、日独の枢軸国とたたかった盟友であった。

 日本と西洋では、伝統国家と革命国家である以前に、多神教文化≠ニキリスト教文明≠ニいう際立ったちがいがある。
 多神教の日本は、文化の国で、多様性と奥行きをもつ。
 一神教の西洋は、文明の国で、神や正しいもの、真理は一つしかないという考え方が、科学をうみだした。
 文化は、時間的蓄積で、厚みを形成する。
 文明は、空間的な広がりで、文化という歴史的土壌の上に開花する。
 文明は、テクノロジーで、日々、進歩する。
 ところが、文化は、厚みをますだけで、変化しない。
 それが保守で、文明を革新というなら、文化は保守なのである。
 日本では、11世紀の初め、紫式部によって、世界初の長編小説「源氏物語」が書かれているが、その頃、ヨーロッパは、7回にわたる十字軍の遠征がはじまったばかりで、ダンテが神曲を書いたのは、源氏物語が書かれた200年もあとのことである。
 鉄砲伝来は、1543年(種子島)のことだが、32年後の1575年、織田信長は、武田勝頼とたたかった長篠合戦で大量の鉄砲(火縄銃)をもちいている。1600年の関ヶ原の戦いで使用された鉄砲の数量は、全ヨーロッパの鉄砲数よりも多く、刀剣の伝統がある日本の鋼技術によって、性能も、ヨーロッパのものよりすぐれていた。
 文化という土台がゆたかであれば、文明という利器は、かつて、唐文化を国風文化にきりかえたように、容易に受容できるのである。

 産業革命以前のヨーロッパから学ぶべきものはなにもなく、ヨーロッパが産業革命で大躍進したのは、明治維新(1868年)を30年ほどさかのぼった1830年代のことだった。
 日本は、維新後、わずか20数年で鉄道や電話、郵便などのインフラを整備し、綿糸や生糸の大量生産・大量輸出を始めるなど、産業革命でヨーロッパの後を追った。
 日本が、短期間で近代化に成功したのは、伝統国家として、比類のない文化的な厚みをもっていたからだった。
 ところが、明治維新で、ヨーロッパ化をめざした薩長政府は、江戸時代に頂点をきわめた日本の文化や技術を、西洋より劣った野蛮なものとみなして、伝統破壊に走った。
 断髪脱刀や廃仏毀釈、鹿鳴館文化やヨーロッパを真似た伯爵や侯爵などの身分制度は、歴史にたいする自己否定にほかならないが、最悪だったのは、天皇に主権と統帥権をあたえたことだった。
 江戸時代の「禁中公家諸法度」では、天皇に最大の敬意を払いながら、政治に口出しをしたら島流しにすると脅している。権威と権力、国体と政体の二元論をまもりぬくには、それほどの覚悟が必要なところ、岩倉具視と伊藤博文は、憲法で天皇を、西洋式帝国主義のリーダーである大元帥に祭り上げた。
 その脱線がゆきついたところが、昭和軍国主義で、天皇は、ついに、現人神になった。
 軍人・軍属が天皇を敬ったわけではない。国家を思いどおりにうごかすのは、天皇を神ということにして、その天皇神を政治利用するのが、いちばん効率がよかったのである。
 天皇陛下の名を口にするときはかならず起立して、毎朝、御真影に頭を下げるのは、個人崇拝で、皇祖皇宗の遺訓である大御心ではない。
「天皇陛下万歳」というときの天皇陛下は、個人で、歴史上の天皇は、天皇である。
 権威があるのは、天皇であって、軍服を着て、馬にまたがった天皇陛下ではない。

 武士階級廃止という伝統破壊と天皇の神格化、徴兵制度によってできたのが、日本の近代軍隊だが、野蛮きわまりないものだった。
「生きて虜囚の辱を受けず」というのは、玉砕や自決をおそれるなということで、食糧ももたずに遠征した「インパール作戦(牟田口廉也)」では16万人(ビルマ戦線)の軍人が戦死しているが、大半が餓死か自決だった。
 日本本土のまもりは、伝統的に「漸減邀撃作戦」にあって、太平洋を西進してくるアメリカ海軍艦隊を潜水艦などで戦力を漸減させ、日本近海で艦隊決戦を挑めばかならず勝てる。戦艦大和や武蔵、世界一だった潜水艦隊はそのためのものだった。
 そして、サイパン島や硫黄島など日本本土に近い島々を要塞化すれば、アメリカは、日本の国土に近づくことができず、日本は、勝てないまでも、負けることはない。
 だが、長野修身軍令部総長や海軍左派(三国同盟反対派/米内光政・山本五十六・井上成美)はこの「漸減邀撃作戦」を主張する東郷平八郎ら長老を退けて、南洋作戦へのりだす。
 天皇の軍事顧問だった長野修身ら海軍首脳が、天皇を説得して、方向を転換させたのである。
 そして「ご聖断が下った」として、真珠湾攻撃という世紀の大愚行を実行に移したのである。
 天皇の政治利用が、いかに大きな国難をもたらすか、真珠湾攻撃ほどそのことを如実にしめす歴史的事実はない。


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