●世界戦略が不在だった昭和軍国主義
明治時代の初期、日本にまだ正気がたもたれていたのは、江戸時代の人材や文化が残っていたからで、名誉と清廉で自己を律する武士、経済と倫理を兼ね備えた商人や豪農・自作農、あらゆる職種で腕をみがきあげた職人など江戸の遺産の上に明治という時代がのっていた。
例外が政治で、明治政府は、文明開化という名目の下で、伝統文化から西洋文明への乗り換えをはかった。日本の道義や礼節、伝統を捨て、西洋の合理や物質主義、功利へ走ったのである。
その結果、日本は、国家的なプランを失ったガリガリ亡者の国となった。
天皇が国の弥栄を祈る祭祀国家ではなく、天皇が軍服を着て軍馬にまたがる帝国主義国家に変貌したのである。
明治維新が、帝国主義へ変質していった最大の要因は、天皇に統治権と統帥権を付与した大日本帝国憲法にあった。
第一条(「大日本帝国ハ天皇之ヲ統治ス」)および第四条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」)で統治権をゆだね、そして第一一条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)で、陸海軍の統帥権をあずけた。
日清・日露戦争には、列強による帝国主義や植民地主義という時代背景があって、戊辰戦争が長期的な内乱へ拡大していたら、英仏や米ロの軍事介入をまねいて、日本は、インドや南アジア、清国の二の舞を踏む可能性もあった。
だが、それも、日本が西洋の帝国主義を真似たからで、みずから招いた災いだった。
といっても、日本が帝国主義化・軍国主義化していったのは、天皇が、統治権や統帥権をふりまわしたからではない。
天皇大権を借りた軍部が、天皇を政治利用して、国家に君臨したのである。
薩長が天皇を利用して、明治維新を実現させたのは、是非を別にして、1つの政治手法であった。
したがって、維新がなったのち、天皇を本来の地位へおもどしておくべきであった。
そして「五か条の御誓文」にそった政治をおこなっていれば、江戸の文化と西洋の文明、君民共治と民主主義が溶け合った世界一の開明的な国家になっていたと思われる。
五か条の御誓文には「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」から「盛ニ経綸ヲ行フヘシ」「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ」「旧来ノ陋習ヲ破リ」「智識ヲ世界ニ求メ」まであって、日本が近代化を完了させた欧米と足並みを揃えてやってゆける条件や素地は十分にあった。
1931年(昭和6年)満州事変がおきた。日露戦争に勝って、南満州鉄道の沿線に進出した日本軍(関東軍)が、突如、中国東北部に進出して、すでに滅亡していた清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を元首に立てて、1932年にあらたに満州国を建設したのである。
これにたいして、調査団を派遣した国際連盟が日本側に不利な報告書(リットン)を採決(42対2)すると、日本は、一か月後、国際連盟から脱退する(1933年)。
翌年の1934年、ワシントン軍縮条約を破棄した日本は、ロンドン軍縮会議からも脱退(1936年)して、国際的孤児への道をつきすすむ。
英米が、日本の海軍力を世界第3位に釘付しようとしたのに反発してのことで、主力艦(戦艦)を対象にしたワシントン条約では、英米が5、仏伊が1・67なのにたいして、日本が3の割り当てだった。
明治維新で、西洋化と文明開化をめざした日本が、半世紀後、世界第3位の格付けに不満を鳴らして、英米の二大強国に喧嘩を売るほど傲慢な国になったのはなぜであろうか。
日清・日露戦争と第一次世界大戦(対独戦)の勝利によってのぼせあがったという見方もできるが、実際は、天皇を大元帥に戴いた日本軍が勝手放題にふるまった結果である。
陸軍省や参謀本部命令、大元帥の許可がなくおこなわれた満州事変は、死刑に処される軍規違反だったが、首謀者達は処罰されるどころかみな出世した。
満州事変をおこした関東軍は、大日本帝国陸軍の一部だが、陸軍省や参謀本部の命令系統から外れた「総軍」で、独自の判断で、軍事行動をおこすことができた。
総軍は、関東軍のほかに支那派遣軍や南方軍、方面軍など六つあって、それぞれが独自の軍事行動をおこして、第二次世界大戦を泥沼化させていった。
日本軍が国家戦略から離れて、勝手に行動したのは、統帥権をもった天皇に直結して、天皇の軍隊を名乗ったからで、日本軍には、陸軍と海軍、六総軍を統合する作戦本部が存在しなかった。
天皇の統治権の下に、内閣総理大臣、閣僚、陸軍大臣・海軍大臣がおかれる一方、天皇の統帥権の下に大本営が設けられて、トップに参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が就いた。
天皇陛下は、大元帥でもあって、陸・海軍の最高位にまつりあげられた天皇は、軍部による政治利用の標的となった。
天皇のお気持ちを推察する≠ニいう論法によって、あるいは、統帥権の尊重という論理によって、軍人による天皇の政治利用が堂々とまかりとおったのである。
天皇が臨席する大本営会議には、参謀総長や軍令部総長以下、軍人が参加したが、統帥権の独立によって、総理大臣以下、政府側の文官が参加できなかったばかりか、閣僚でもあった陸軍・海軍大臣は、会議に出席できても、発言権がなかった。
大本営会議は、御前会議でもあって、陸・海軍や六総軍は、共同作戦を練るどころか、自軍の秘密がもれるのをおそれて、タテマエ論や虚言をもてあそんで、互いに騙しあった。そればかりか、ウソの発表(大本営発表)で、国民を騙しつづけた。
統帥権という天皇大権の下で、旧日本軍は、無人の野をゆくように、自在にふるまってきたのである。
陸・海軍や六総軍が、そっぽをむきあって、いがみ合ったのは、予算を奪い合ったからである。
日本の国家予算に占める軍事費の割合は、1880年代から太平洋戦争終結まで、平均で5割を超え、最高時には8割にまでたっした。大蔵省が編纂した『昭和財政史臨時軍事費(1955年)』によると、国家予算に占める戦時期の軍事費の割合は、日清戦争(1894年)時に70%。日露戦争(1905年)時に82%。太平洋戦争末期(1944年)には85%にハネ上がった。
軍部は、中国戦線の拡大(支那派遣軍)から南洋作戦(南方軍)、ノモンハン事件(関東軍)など無意味な消耗戦を展開したが、すべて、予算を分捕るための演出で、当時、戦線が縮小すると予算を削られたのである。
海軍の真珠湾攻撃も、中国戦線拡大によって、陸軍に傾いた予算をとり返すためのもので、長野修身軍令部総長も山本五十六連合艦隊司令官も、長期的には、アメリカに勝てないと知っていた。
だが、アメリカに一泡吹かせることはできると天皇を説得して、南太平洋に出撃していった。
そして、原爆を落とされ、日本中の都市を焼け野原されて、300万人もの同胞を犠牲にしたのである。
自民党憲法改正草案では、天皇が、元首に据えられている。
日本において、天皇は、古来、象徴であって、元首にまつりあげられたのは明治憲法においてのみである。
昭和軍国主義の悲劇が、天皇元首にあったことへの反省がない自民党の憲法改正推進本部は、あまりにも、不勉強なのである。