2021年09月26日

 天皇と保守主義6

 ●民主主義と自由主義の相克2
 民主主義という制度はあるが、民主主義という思想はない。
 自由主義という思想はあるが、自由主義という制度はない。
 民主主義は、多数決と普通選挙法のことで、国家の制度である。
 一方、自由主義は、自由に最大の価値をおく個人の思想である。
 制度である民主主義と、個人の思想である自由主義が補完しあって、現在の自由民主主義(リベラル・デモクラシー)ができあがっている。
 ところが、現在、多くの日本人は、民主主義が、唯一にして絶対的な価値と思いこんでいる。
 民主主義が、多数決と普通選挙法以外のどんな意味も価値ももっていないと思い到っていないのである。
 政体としての民主主義は、立憲民主主義や議会民主主義、社会民主主義から立憲君主制や連邦共和制、大統領制まで多岐多様におよぶが、多数決の原則と普通選挙法がとられているかぎり、すべて、民主主義国家である。
 天皇と民主主義は折り合わないという意見もあるが、民主主義は、政体上の制度で、一方、天皇は、国家の象徴という文化の系列で、国体である。
 政体と国体は二元論で、両者が折り合う必要は、つゆほどもない。

 民主主義と自由主義が相容れないようにみえるのは、両者が「個と全体」という絶対矛盾の上に成立しているからである。
 人類は、古来、個と全体の矛盾と一神教の「闘争の論理」に苦しんできた。
 個人と国家の利害は、かならず、対立する。そして、正しいものが一つしかない一神教=一元論では、永遠の闘争がくりひろげられる。
 この解決不能なテーゼに、多数決の大衆政治(デモクラシー)と自由の精神(リバティ)をもってたちむかったのがヨーロッパの近代だった。
 ちなみに、日本にこの二つの混乱がなかったのは「個と全体」の矛盾を融和する国体および多神教=多元論という歴史・文化構造があったからで、その要(かなめ)となったのが天皇だった。

 ヨーロッパは、自由を手に入れるまで、14世紀のルネサンスから宗教戦争をへて啓蒙時代、近代の市民革命まで、500年以上の年月をかけてきた。
 そして、革命をとおして、ようやく、自由に手がとどきかけた。
 民主主義という新しい体制が自由と平等を謳っていたからだった。
 だが、その民主主義は野蛮な「大衆の反逆(オルテガ)」でしかなかった。
 事実、フランス革命は、ロベスピエールの恐怖政治から、ナポレオン独裁へとひきつがれた。
 民主政治は、独裁の一手法にすぎず、自由は、他人の自由を奪う自由でしかなかった。そして、自由と平等のフランス革命の「人権宣言」から女性と奴隷が除外されていた。
 民主主義は、人民による権力の奪取だが、権力を握ったのは、人民ではなく新たに登場してきた独裁者だった。
 多数決の民主主義は、旧ソ連のボリシェヴィキ(多数派)や中国、北朝鮮の一党独裁、あるいは、ヒトラーをうんだワイマール憲法をみればわかるように多数派の政治的暴力で、大きな制度欠陥をかかえていた。
 この欠陥だらけの民主主義に対抗したのが、自由主義だった。
 民主主義は、個人の自由や尊厳を侵さずにいないというのである。
 ヨーロッパには、ホッブズやオルテガ、チェスタトンら、自由主義の伝統があって、衆愚政治やポピュリズム、独裁へと陥る民主主義を批判してきた。
 このとき、自由主義者によって、もちだされたのが保守思想だった。
 人間の頭のなかでひねくりまわした進歩主義(革新)よりも、歴史の試練をくぐってきた保守のほうに価値があるとしたのである。

 ヨーロッパ人は、みずからの歴史と血で、自由と平等、そして、民主主義をかちとってきた。民主主義(デモクラシー)に限界があることを最初に知ったのもヨーロッパ人で、かれらは、自由主義(リベラル)を立てて、中庸をもとめた。
 ちなみに、左翼がリベラルを騙るようになったのは、旧ソ連崩壊後、共産主義や社会主義を名乗りにくくなったからで、詐称である。
 本来の自由主義は、民主主義の独断専行を防ぐためで、もともと、多数決の民主主義は、全体主義なのである。
 一方、自由主義は、民主主義の制限をうけて、個人の放埓さにブレーキをかける。
 民主主義と自由主義は、相互的にはたらいて「個と全体」の矛盾をみずから中和しようとするのである。

 自由と民主主義の兼ね合いをずたずたにしたのがルソーだった。
 曰く「人間は自由なものとして生まれた。しかし、いたるところで鎖につながれている」という名調子で、革命分子を扇動した。人間が不自由で不平等なのは私有財産をもったせいだ、自然に帰れ」と。そして、ホッブズの「万人による万人の戦争」をこう批判した。人間は本性に《憐憫の情》をそなえているので、人々は、助け合って、仲よく暮らす。したがって、戦争にはならない。
 なんというふざけた楽観論であろうか! 
 さらにアジテーターのルソーはこう煽った。「人々が不自由、不平等になったのは、私有財産をもったせいである。人間が完全なる自由や平等を手に入れるには、人民が主権を有する人民政府をつくらなければならない」
 フランス革命を批判したのが、西洋における保守の鑑とされるエドモンド・バークだった。そして、ルソー主義を批判したのが人間は社会的な動物≠ニ喝破した近代科学の祖、オーギュスト・コントだった。
 コントは、愛を原理に、秩序を基礎に、進歩を目的にする「人類教」を説いた。これは、ルソーの「市民宗教(『社会契約論』)」に対抗したものだった。
 コントがもとめたのは、人間の頭でこねくりまわした理屈ではなく、モラルだった。
 このモラルは日本の国体にあたる。善と徳性、家族愛的結束が、日本という国家の繫栄や安定、文化興隆の源泉となっている。
 ところが、多くの日本人は、日本が、歴史的遺産を継承する伝統国家であることの自覚にとぼしい。
 そして、戦後、アメリカ民主主義にとびついて、モラルを破壊してきた。
 アメリカ製の日本国憲法には、自由や平等、人権が天からあたえられたかのように書かれている。わずか9日で、日本国憲法をつくったGHQの若きニューディーラーは、左翼というより、ルソー主義者だったのである。
 そして、戦後、日本人は、世界に類のないルソー教の信者となった。
 日本人は、自由を好き放題にふり回すが、表現の自由には、表現の自由から身をまもる自由もあることを忘れている。アメリカの自由は、じぶんの生命はじぶんでまもる自由の銃℃ミ会で、南米は、リッチになるには手段をえらばないギャング社会である。
 モラルなき自由や平等、民主主義が、いかに危険でおろかなものか、ルソー熱にうかれた日本人には永遠にわからないのである。
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2021年09月19日

 天皇と保守主義5

 ●民主主義と自由主義の相克
 自民総裁選で、河野太郎が石破茂に支援をもとめ、くわえて、小泉進次郎が河野支持にまわったことから、一部マスコミはリベラル政権誕生か≠ニいう耳目をひくキャッチフレーズを立てた。
 女系天皇容認の河野が首相で、安倍・麻生の天敵、石破が幹事長、脱原発の進次郎が官房長官では、なるほど、リベラル政権である。
 細川連立政権の「政治改革関連4法案」に賛成して離党、西岡武夫らと共に改革の会を結成した(1993年)石破や、敵基地攻撃能力の保有に否定的な河野、国家の利益より人類の理想が大事な進次郎らがもっていないのは、国体観や国体観、歴史観だけではない。
 保守という、自民党員にとって、もっとも大事な資質を欠いている。
 総裁選で、河野の対抗馬とされる岸田文雄は、民主主義の政治をすすめると宣言する一方で、保守主義について、寛容の精神をあげた。
 だが、保守は、歴史を継承することであって、それ以外のなにものでもない。
 人間の理性は、有限なばかりかまちがうのが常である。したがって、歴史の叡智を重く見て、改革は、慎重に、漸進的にすすめられるべきである。歴史を継承することは、温故知新なので、新たに学ばなければならないのである。
 岸田が「寛容の精神」を強調したのは、大衆の民主主義に、個人のリベラリズムを対比させてのことと思われる。
 大衆化して、劣化する民主主義にたいして、良識やよき習慣、歴史の叡智に立って対抗するのがリベラリズムである。
 それが「多数派が少数派をみとめる寛容性と多様性」(オルテガ)で、民主主義という大衆の反逆が、個人の自由というリベラリズムによって、中和されるというのである。
 このことからも、民主主義が政治の論理で、自由主義が個人の信条とわかる。

 だが、旧ソ連崩壊後、自由主義は、左翼の隠れ蓑になった観がある。
 歴史の叡智や寛容の精神どころか、日本の左翼は、リベラル(自由主義)をカサに着た反国家と反伝統のリバタリアン(暴走する自由主義者)となった。
 アメリカが、大恐慌(1930年)から立ち直ったのは、第二次世界大戦とルーズベルトの社会主義的なニューディール政策のおかげだった。
 共和党マッカーシーの赤(共産党)狩り≠ニ冷戦がなかったら、アメリカは、旧ソ連の陰気な共産主義にたいして、陽気な共産主義国家になっていた可能性もあった。
 民主党ルーズベルトが、スターリンの盟友で容共主義者(ほぼ共産主義者)だったことは広く知られている。それだけではない。民主党には、産業別労組(CIO)や「反戦・反ファシズム連盟」の影響下にある人々や1950年に非合法化されたアメリカ共産党の元党員らも大挙してくわわっている。
 アメリカには、戦争を好む保守的な共和党は悪≠ナ、反戦平和のリベラルな民主党は善≠ニいう国民的な思いこみが根強い。若者を戦場に送らないと公約したウソつきルーズベルトの人気は上々で、四選(1933〜45年)をはたしたほどである。

 日本の左翼が、リベラルを名乗るのは、左翼色の濃い「アメリカ民主党」を真似てのことである。
 だが、欧米のリベラルと、日本のリベラルは、まったくの別物である。
 欧米のリベラリズムは、考える自由で、なにをやってもよいという自由ではない。個人の心は、国家から自由というほどの意味合いで、この個人の自由は「万人の戦争(ホッブズ)」をひきおこさずにいない。他者もまた自由をもっているからである。
 このとき、要請されるのが、万人の利害を調整する国家で、国家を運営するのが政治である。現在、民主主義に代わる有効な政治手法はない。民主主義は多数決である。政治の世界を生きるヒトは、したがって、民主主義の枠組みを生きるほかない。
 民主主義では、多数派が少数派が切り捨てる数の暴力が横行する。
 だが、実際は、議論の段階で、双方が歩み寄って、利害を調整しあう。
 オルテガが、寛容の精神といったのは、多数派が少数派を許容するリベラリズムをさしてのことだったのである。
 欧米では、個人のリベラル(自由主義)と国家のデモクラシー(民主主義)が明確に区別されている。
 自由主義は、個人のもので、投票するのは、個人の自由である。
 だが、民主主義は、国家のもので、選挙の多数派から国家理性がうまれる。
 鈴木宗男が北方領土問題にからめて「ロシアも民主主義国家」とのべたものだが、ロシアや香港に、民主主義の前提となる自由主義があるだろうか。

 一方、日本には、リベラルだけがあって、民主主義がない。
 二言目には「民主主義は人類の最高英知」といいながら、日本人には、民主主義をまもる気がさらさらない。民主主義は多数決のことである。民主主義をまもるというなら、議会の評決を重んじなければならない。1952年、戦犯という用語は、戦勝国の呼び方だとして、国会決議で正式に撤回された。だが、マスコミは、いまも戦犯ということばを連発している。
 新コロナウイルス対策で、世界各国がきびしい規制を敷いたのは、政治的な判断で、国会決議にもとづいている。
 一方、反対デモは、自由主義で、それを許容するのがリベラルの寛容の精神である。
 欧米では、このように、国家の民主主義と個人の自由主義が、二元論的に、別々にうごく。
 ところが、日本では、マスコミ労連(MIC)や弁護士連合会がコロナ特措法を憲法違反と騒ぐ。国会決議にもとづくコロナ特措法が、憲法の保障する「集会の自由」「報道の自由」「表現の自由」「国民・市民の知る権利」を侵害するというのである。
 そして、憲法上、政府に、ロックダウンをおこなう権能がゆるされていないと主張する。
 憲法上の自由概念をもって、国家運営の基本概念である民主主義を縛ろうというのは、赤ん坊が親を養育しようというようなものである。この錯綜の根本にあるのがルソー主義で、人間は、うまれながらにして自由で平等などというウソをばらまいてきた。
 日本は、民主主義の国ではなく、左翼によって、民主主義が殺された国だったのである。

 日本のリベラルが、国体や国家、歴史に否定的なのは、保守すべき絶対的な価値をみとめないからである。
 それどころか、伝統的な価値を、個人の自由を奪う、支配的な権威主義(パターナリズム)とみる。
 明治以来、日本人は「個人の自由」という概念をとりちがえてきた。
 本来の自由は、身体や行為にかかる自由で、拘束や捕縛、禁止や制限がないかぎり自由で、リバティの語源も解放である。
 ところが、福沢諭吉がリバティを自由と訳して「自らをもって由となす」としたため、自由が「自らの意思にもとづいてふるまう」と曲解されて、身体と行為に限定されていた自由が、心の自由にまで拡張された。
 心の自由をまもろうとするのは、身体的・物理的自由のリバティではなく、精神的・制度的自由のリベラリズムだが、意味があまりにも多岐にわたって、いまや、だれも、リベラルの意味を定義できないほどになった。
 リベラリズムのなかで、怪物化したのが、リバタリアニズムである。
 明石家さんまの『ホンマでっかTV』で人気の池田清彦(早稲田大学名誉教授)は、過激なリバタリアン(完全自由主義者)として知られる。自民党には罵詈雑言を浴びせかけて、勝手きままな自由をもちあげ、選挙では、共産党以外、投票の選択肢はないと言い切る。
 それが、日本の思想を混乱させている元凶で、リバティにもとづく個人とデモクラシーにもとづく国家の区別を、大学教授たるものがつけられないのである。
 ちなみに、リバタリアンは、子どもとの性行為や児童買春、児童ポルノ禁止までを自由の侵害とみる。マスコミ労連や弁護士連合会が、国民の健康と生命をまもるコロナ特措法を自由の侵害(憲法違反)とみるのも、同じ図式で、日本のリベラルは、じつは、リバタリアンだったのである。
 次回も、総裁選にからめて保守と革新≠ィよび自由主義と民主主義≠ノついて、議論を深めていこう。
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2021年09月10日

 天皇と保守主義4

 ●儒教は革命思想、日本精神はうたごころ
 日本の思想には、二つの流れがあって、一つは外来文明、もう一つは、土着文化と国風文化である。
 たとえていえば、漢字とひらかなである。この二つの流れが二元論を形成して、多様性と奥行きをもった日本という国のかたちがうまれた。
 国体と政体、権威と権力、文化と文明も二元論である。
 それだけではない。多神教と一神教が共存してきた日本では、宗教も、二元論、多元論的な構造になっている。
 なにしろ、縄文以来のアニミズム(自然崇拝)や神道と、外来の儒教や仏教が、聖徳太子の時代から現在に到るまで、明治の廃仏棄釈を例外として、争うことなく、棲み分けてきたのである。
 ここでいう多神教は、八百万の神々の神道で、一神教というのは、創始者が存在する創唱宗教のことである。
 釈迦による仏教、孔子による儒教、キリストによるキリスト教、マホメットによるイスラム教が創唱宗教で、このなかに、理神論もくわえられる。
 理神論というのは、啓蒙主義や合理主義のもとづく信仰で、奇跡や啓示、預言などは信じないが、絶対神の存在は信じる。
 神が、科学や合理主義にとって代わっただけで、結局、これも、一神教の一元論である。
 自由や平等、民主主義も理神論という宗教で、教祖様は、ルソーである。

 日本のアニミズムと自然崇拝、神話や神道は、一神教の一元論とは、根本的に異なる。
 経典、偶像や戒律がないというのは、枝葉末節のちがいで、決定的にちがうのは、一神教は観念で、一方、多神教はうたごころという点である。
 日本のうたは、最古の万葉集(20巻4500首)から勅撰の古今和歌集や新古今和歌集(二十一代集)まで多くにわたるが、すべて、自然崇拝と人間のまごころ(あはれやをかし)をうたっている。
 それが、自然崇拝や神道の神髄で、心という価値は、うたでしかいいあらわすことができない。
 それが和歌だが、季語をもつ俳句も、自然が主語となっている、世界に類がない自然崇拝の詩歌である。
 中江兆民は、日本に哲学者はいないといったが、西洋に、柿本人麻呂や山部赤人、山上憶良、大伴家持、在原業平、紀貫之に匹敵する歌人はいない。
 しかも、日本には、天皇から遊女、読み人しらずまで、おびただしい歌人がすぐれたうた(小倉百人一首など)をのこしている。
 日本に、自然崇拝という、大宗教があったからなのである。

 だが、中世以降、日本で有力になったのは、うたではなく、儒教の一学派である朱子学だった。
 俸禄や所領でうごく武士を、神道的な秩序や天皇の権威だけでおさえつけることができなくなったからだった。
 朱子学は、中国が異民族に支配された征服王朝(遼・金/10〜13世紀)の産物で、絶対的な主従関係や君臣の堅固なむすびつきを理屈だけでつくりあげたイデオロギーだった。
 他民族に支配されていた当時、中国では、強烈な観念論をとおして、忠孝の精神や身分秩序、礼節などを叩きこまなければならなかったのである。
 藤原惺窩や林羅山、新井白石らによって体系化された朱子学が、徳川幕府によって官学化(寛政異学の禁)されたのは、体制の維持にこれほど都合のよい思想はなかったからである。
 ちなみに、明治天皇や水戸光圀の崇敬が篤く、吉田松陰や坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛らの精神的拠り所となった楠木正成も、朱子学の信奉者だった。
 河内の一豪族ながら、観心寺で仏典や朱子学を学び、主君に弓を引く下剋上を否定して、のちの江戸時代に花ひらく「義」という考え方を立てた。
 楠木の菩提寺である観心寺の金堂の外陣造営を命じたのが「建武の新政」の後醍醐天皇で、正成が「七度生まれ変わって朝敵を倒す(「七生報国」)」と誓った主君であった。

 だが、江戸の儒学は、朱子学一辺倒ではなく、荻生徂徠が朱子学を虚妄の説としたのをはじめとして、山崎闇斎は垂加神道を、貝原益軒は人間学(養生訓)を立てた。
 朱子学批判は、さらに、山鹿素行の「聖学」、伊藤仁斎の「性即理」とつづき、中江藤樹にいたっては、知行合一の「陽明学」に転じて朱子学をひっくり返した。
 幕末、陽明学者の大塩平八郎は、乱をおこして、幕府に反逆した。陽明学に理解が深かった吉田松陰や渡辺崋山、佐久間象山、横井小楠らも、体制改革にのりだして、獄死や自殺、暗殺という悲劇に遭っている。
 儒教を中心に国学や史学、神道などを動員して独自の国家観をつくりあげたのが水戸学だった。原点は『大日本史』編纂の水戸藩徳川光圀で、水戸学から藤田東湖や会沢正志斎ら多くの尊皇思想家がでている。正志斎に心酔したのが吉田松陰で、松下村塾の長州から高杉晋作ら多くの尊王攘夷の志士が巣立っていった。
 だが、水戸学は一種の狂信であった。「薩摩藩邸焼討」のきっかけとなった薩摩藩による江戸市中の火つけ強盗殺人、長州藩が天皇拉致をはかった「禁門の変」、百人余が斬首刑となった水戸藩の天狗党事件など、薩摩や長州、水戸がテロリスト集団と化したのは、儒教=水戸学が革命思想だったからである。
 楠木正成が、テロリズムの偶像になったのは「七生報国」の天皇崇拝主義者だったからで、正成が、戦前まで、天皇崇拝のヒーローだった一方、足利尊氏は悪役の逆賊とされてきた。

 徳川光圀が大きな影響をうけたのが北畠親房の『神皇正統記』だった。
 親房は、南北朝時代の南朝公卿で、天地開闢から神武天皇即位までの神話と神武天皇から当代の後村上天皇に至る各天皇の事績を綴って、南朝の正統性を説いた。
 特徴的なのは、南朝の正統性を説く一方で「徳がない君主の皇統は断絶して皇統の正統性が別の系統に移る」という易姓革命説をとっていることである。
『神皇正統記』に並ぶ日本の二大歴史書に慈円の『愚管抄』がある。
 愚管抄においても、神武天皇から順徳天皇にいたる歴史をのべながら儒教の「五常」の一つ、智にもとづく道理論や世直し論、易姓革命的な終末論「百王説」にふれている。「神武天皇の御後、百王ときこゆる、すでにのこりすくなく八十四代にも成りにける」
 百王説は、中国の六朝時代、梁の宝誌和尚の「野馬台詩」にもとづいている。
 当時「百王説」や易姓革命説が流行したのは、天皇の権威によって正統性をあたえられる権力という、鎌倉幕府以来の「権力構造」が崩壊しはじめたからである。
 それが、後醍醐天皇の「建武の新政」から南北朝時代、尊氏や義満らの足利時代、そして、応仁の乱と戦国時代へとつづく暗黒の中世である。
 加茂真淵がうた(万葉集)のなかに日本人の心があるとして、本居宣長が外来思想たる漢意(からごころ)をとりのぞいたところに大和心があるとしたのが、江戸の中後期だった。
 理屈で白黒をつけるのではなく、わからないものは、わからないままにしておくと、やがて、わかるようになる。賢(さかし)ら決着を急ぐからまちがうのだと宣長はいう。
 うたは、絶対的にして、永遠である。
 だが、理屈は、ああいえばこういう相対論で、一過性のものでしかない。
 儒教や一神教的な価値観がまちがえをくり返してきたのは、なんでも理屈で片をつけようという理神論に立ってきたからである。
 人々がうたで心をかよわせ、祈りで国を治めてきた祭祀国家の日本は、縄文の自然崇拝や多神論を現在に継承する、世界で唯一の伝統国家といえる。
 民主主義がすべてという日本人は、じぶんの国の成り立ちをもっとよく知るべきなのである。
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2021年09月05日

 天皇と保守主義3

 ●儒教は革命思想、日本精神は保守思想
 日本的精神というと、多くの人が「武士道」や忠孝の精神、義理人情などを思いうかべるはずである。
 だが、日本精神の原点は、古事記や万葉集、源氏物語にあって、儒教という外来思想、異文化にもとづいた忠孝の精神や「武士道」にあるのではない。
 武士道は「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」の七つといわれる。
 すべて儒教の価値観で、神話(古事記)や詩歌(万葉集)など、古代日本の文化に、そんな観念は見当たらない。
 日本にあるのは、こころであって、観念ではないのである。
 日本のこころを掘りおこしたのが江戸時代に興った国学である。賀茂真淵と本居宣長の名が知られる。賀茂真淵は、万葉集の研究家で、万葉集の男性的でおおらかな歌風「ますらおぶり」をたたえた。
 ちなみに「たおやめぶり」は、古今集以後の女性的な歌風をさす。
 本居宣長は、真淵の弟子で、師のすすめで「古事記伝」44巻を完成させたほか源氏物語を研究して「もののあはれ」という日本人の感性を明らかにした。
 日本人の精神は「ますらおぶり」や「たおやめぶり」など人間の心が素直にあらわれた詩歌や文学にあって、そこに、ものふれてこころがうごく「もののあはれ」や「大和魂」があるという。
 ちなみに宣長の弟子を自称する「平田神道」の平田篤胤は、宣長とは面識がなく、宗教観もかけ離れている。宣長が多神教的なのにたいして、平田は一神教とりわけプロテスタント的で、平田神道は、狂気の廃仏毀釈の理論的根拠となった。

 宣長は、天命論や善悪論をふり回す漢意(からごころ)≠きらった。
 漢意というのは、儒教のことで、儒教は、理屈や観念、形式ばかりで、人間らしい真心(まごころ)≠ニいう正直さに欠けるという。
 ところが、日本精神を担ったのは、賀茂や宣長のまごころではなかった。
 大陸からつたわったからごころのほうで、日本は、中世から、まごころの感性よりも、からごころの観念論が大手をふる国になって、それが、現在もつづいている。
 昔は、忠義忠君や滅私奉公、現在は、民主主義や平和憲法と、相変わらず、観念論のトリコになっているのである。
 国学(まごころ)よりも、儒教(からごころ)が幅をきかせたのは、政治に利用しやすかったからである。
 忠孝の精神や身分秩序、礼節を重んじた朱子学(大義名分論)は江戸時代の封建体制をささえ、幕末には、尊王論になった。そして、昭和の軍国主義では現人神信仰≠ヨ転じて、第二次大戦の敗戦と国体の危機をまねいた。

 宣長の「敷島の大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」は、政治ではなく、文化である。
 日本人は、うたをうたう民族で、日本ほど、古典の歌集が残っている国はない。
 かつて日本が、うたや文化、神話的秩序で国家を治めることができたのは、祭祀国家だったからである。
 祭祀国家においては、豪族が握っていた権力が、祭祀王である天皇の権威の下におかれる。
 その象徴が古墳文化である。自虐史観の日本の歴史家は、無視するが、世界の歴史家は、世界史に例のない数千の古墳群(前方後円墳)を、日本が祭祀国家であったことのシンボルと見る。
 それが、弥生末期から古墳時代、飛鳥時代、710年の平城京遷都の長きにわたる大和時代だが、日本の歴史家は、大和朝廷や大和時代という名称を教科書から削ってしまった。
 儒教が日本に入ってきたのは5世紀頃(古事記)で、仏教よりも古い。
 聖徳太子は、仏教を宗教、神道を政治、儒教を道徳の規範と定めて、国家の安定をもとめた。それが「和の精神」で、その精神が十七条の憲法にみごとにあらわされている。
 天皇中心の政治は、大和朝廷の豪族政治から律令体制、摂関政治、院政(上皇政治)をへて平清盛(太政大臣)までつづき、政治体制は、神道・神話的な秩序の下におかれてきた。
 驚くべきは、国内においては、磐井の乱やこの乱を治めた物部氏が蘇我氏に討たれた丁未の乱のほか、大きな権力闘争がなかったことである。
 ところが、保元の乱・平治の乱以後、武士が権力を握ると、神話的な秩序に代わる強烈な支配イデオロギーがもとめられるようになってきた。
 天皇という歴史的、宗教的権威だけでは、武士による権力構造が維持できなくなってきたのである。

 このとき、もちだされたのが、儒教とりわけ後世に興った朱子学だった。
 ヨーロッパが、王権神授説を立てて、国家を樹立したようなもので、朱子学を立てて、武家中心の国家体制をつくろうとしたのである。
 だが、儒教は、天命(理と気)に適わない王なら別の王を立てるという革命思想(易姓革命)で、神話的秩序と歴史の連続性に拠って立つ天皇とは、原理も思想も異なる。
 しかも、朱子学は、中国が異民族に支配された征服王朝(遼・金時代/10〜13世紀)の産物で、侵略者であろうと、強者にはへりくだらなければならないという自虐的なものだった。
 朱子学は、他民族による支配下では、君臣の堅固なむすびつきや主従関係がうまれないので、理屈をとおして、忠孝の精神や身分秩序、礼節などをおしつけようというイデオロギーである。
 そうでもしなければ、異民族による権力構造を維持できなかったのである。
 ちなみに、忠孝のうち、日本が忠を、朝鮮が孝を重視するのは、朝鮮が母系社会で、日本が父系社会だったからである。
 事大主義も、朱子学で「事大は君臣の分、時勢にかかわらず誠をつくすのみ(春秋)」とあるように、強国によりかかることで、それが、儒教朝鮮の民族性となった。
 儒教は政治哲学とあって、革命の論理にも体制維持のイデオロギーにもなる。
 易姓革命を唱えるのが理と気の儒教で、体制を維持しようとするのが「理気二元論」の朱子学、そして、体制に反逆するのが「理気同一」の陽明学である。
 日本で、儒教的価値が、過去、政治的混乱をひきおこしてきたのは、儒教が革命思想だったからである。
 したがって、神話的世界観と歴史の連続性の上に立っている日本精神=天皇と摩擦をひきおこさないわけはなかった。
 日本で、二大史書といわれる『愚管抄』と『神皇正統記』の儒教的な価値観が、中世から近世、近代にいたるまで、日本の政治に多大な影響をおよぼしてきた。
 次回は、そこに焦点を絞って、日本の政治史をふりかえってみよう。

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