●儒教は革命思想、日本精神は保守思想
日本的精神というと、多くの人が「武士道」や忠孝の精神、義理人情などを思いうかべるはずである。
だが、日本精神の原点は、古事記や万葉集、源氏物語にあって、儒教という外来思想、異文化にもとづいた忠孝の精神や「武士道」にあるのではない。
武士道は「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」の七つといわれる。
すべて儒教の価値観で、神話(古事記)や詩歌(万葉集)など、古代日本の文化に、そんな観念は見当たらない。
日本にあるのは、こころであって、観念ではないのである。
日本のこころを掘りおこしたのが江戸時代に興った国学である。賀茂真淵と本居宣長の名が知られる。賀茂真淵は、万葉集の研究家で、万葉集の男性的でおおらかな歌風「ますらおぶり」をたたえた。
ちなみに「たおやめぶり」は、古今集以後の女性的な歌風をさす。
本居宣長は、真淵の弟子で、師のすすめで「古事記伝」44巻を完成させたほか源氏物語を研究して「もののあはれ」という日本人の感性を明らかにした。
日本人の精神は「ますらおぶり」や「たおやめぶり」など人間の心が素直にあらわれた詩歌や文学にあって、そこに、ものふれてこころがうごく「もののあはれ」や「大和魂」があるという。
ちなみに宣長の弟子を自称する「平田神道」の平田篤胤は、宣長とは面識がなく、宗教観もかけ離れている。宣長が多神教的なのにたいして、平田は一神教とりわけプロテスタント的で、平田神道は、狂気の廃仏毀釈の理論的根拠となった。
宣長は、天命論や善悪論をふり回す漢意(からごころ)≠きらった。
漢意というのは、儒教のことで、儒教は、理屈や観念、形式ばかりで、人間らしい真心(まごころ)≠ニいう正直さに欠けるという。
ところが、日本精神を担ったのは、賀茂や宣長のまごころではなかった。
大陸からつたわったからごころのほうで、日本は、中世から、まごころの感性よりも、からごころの観念論が大手をふる国になって、それが、現在もつづいている。
昔は、忠義忠君や滅私奉公、現在は、民主主義や平和憲法と、相変わらず、観念論のトリコになっているのである。
国学(まごころ)よりも、儒教(からごころ)が幅をきかせたのは、政治に利用しやすかったからである。
忠孝の精神や身分秩序、礼節を重んじた朱子学(大義名分論)は江戸時代の封建体制をささえ、幕末には、尊王論になった。そして、昭和の軍国主義では現人神信仰≠ヨ転じて、第二次大戦の敗戦と国体の危機をまねいた。
宣長の「敷島の大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」は、政治ではなく、文化である。
日本人は、うたをうたう民族で、日本ほど、古典の歌集が残っている国はない。
かつて日本が、うたや文化、神話的秩序で国家を治めることができたのは、祭祀国家だったからである。
祭祀国家においては、豪族が握っていた権力が、祭祀王である天皇の権威の下におかれる。
その象徴が古墳文化である。自虐史観の日本の歴史家は、無視するが、世界の歴史家は、世界史に例のない数千の古墳群(前方後円墳)を、日本が祭祀国家であったことのシンボルと見る。
それが、弥生末期から古墳時代、飛鳥時代、710年の平城京遷都の長きにわたる大和時代だが、日本の歴史家は、大和朝廷や大和時代という名称を教科書から削ってしまった。
儒教が日本に入ってきたのは5世紀頃(古事記)で、仏教よりも古い。
聖徳太子は、仏教を宗教、神道を政治、儒教を道徳の規範と定めて、国家の安定をもとめた。それが「和の精神」で、その精神が十七条の憲法にみごとにあらわされている。
天皇中心の政治は、大和朝廷の豪族政治から律令体制、摂関政治、院政(上皇政治)をへて平清盛(太政大臣)までつづき、政治体制は、神道・神話的な秩序の下におかれてきた。
驚くべきは、国内においては、磐井の乱やこの乱を治めた物部氏が蘇我氏に討たれた丁未の乱のほか、大きな権力闘争がなかったことである。
ところが、保元の乱・平治の乱以後、武士が権力を握ると、神話的な秩序に代わる強烈な支配イデオロギーがもとめられるようになってきた。
天皇という歴史的、宗教的権威だけでは、武士による権力構造が維持できなくなってきたのである。
このとき、もちだされたのが、儒教とりわけ後世に興った朱子学だった。
ヨーロッパが、王権神授説を立てて、国家を樹立したようなもので、朱子学を立てて、武家中心の国家体制をつくろうとしたのである。
だが、儒教は、天命(理と気)に適わない王なら別の王を立てるという革命思想(易姓革命)で、神話的秩序と歴史の連続性に拠って立つ天皇とは、原理も思想も異なる。
しかも、朱子学は、中国が異民族に支配された征服王朝(遼・金時代/10〜13世紀)の産物で、侵略者であろうと、強者にはへりくだらなければならないという自虐的なものだった。
朱子学は、他民族による支配下では、君臣の堅固なむすびつきや主従関係がうまれないので、理屈をとおして、忠孝の精神や身分秩序、礼節などをおしつけようというイデオロギーである。
そうでもしなければ、異民族による権力構造を維持できなかったのである。
ちなみに、忠孝のうち、日本が忠を、朝鮮が孝を重視するのは、朝鮮が母系社会で、日本が父系社会だったからである。
事大主義も、朱子学で「事大は君臣の分、時勢にかかわらず誠をつくすのみ(春秋)」とあるように、強国によりかかることで、それが、儒教朝鮮の民族性となった。
儒教は政治哲学とあって、革命の論理にも体制維持のイデオロギーにもなる。
易姓革命を唱えるのが理と気の儒教で、体制を維持しようとするのが「理気二元論」の朱子学、そして、体制に反逆するのが「理気同一」の陽明学である。
日本で、儒教的価値が、過去、政治的混乱をひきおこしてきたのは、儒教が革命思想だったからである。
したがって、神話的世界観と歴史の連続性の上に立っている日本精神=天皇と摩擦をひきおこさないわけはなかった。
日本で、二大史書といわれる『愚管抄』と『神皇正統記』の儒教的な価値観が、中世から近世、近代にいたるまで、日本の政治に多大な影響をおよぼしてきた。
次回は、そこに焦点を絞って、日本の政治史をふりかえってみよう。