●儒教は革命思想、日本精神はうたごころ
日本の思想には、二つの流れがあって、一つは外来文明、もう一つは、土着文化と国風文化である。
たとえていえば、漢字とひらかなである。この二つの流れが二元論を形成して、多様性と奥行きをもった日本という国のかたちがうまれた。
国体と政体、権威と権力、文化と文明も二元論である。
それだけではない。多神教と一神教が共存してきた日本では、宗教も、二元論、多元論的な構造になっている。
なにしろ、縄文以来のアニミズム(自然崇拝)や神道と、外来の儒教や仏教が、聖徳太子の時代から現在に到るまで、明治の廃仏棄釈を例外として、争うことなく、棲み分けてきたのである。
ここでいう多神教は、八百万の神々の神道で、一神教というのは、創始者が存在する創唱宗教のことである。
釈迦による仏教、孔子による儒教、キリストによるキリスト教、マホメットによるイスラム教が創唱宗教で、このなかに、理神論もくわえられる。
理神論というのは、啓蒙主義や合理主義のもとづく信仰で、奇跡や啓示、預言などは信じないが、絶対神の存在は信じる。
神が、科学や合理主義にとって代わっただけで、結局、これも、一神教の一元論である。
自由や平等、民主主義も理神論という宗教で、教祖様は、ルソーである。
日本のアニミズムと自然崇拝、神話や神道は、一神教の一元論とは、根本的に異なる。
経典、偶像や戒律がないというのは、枝葉末節のちがいで、決定的にちがうのは、一神教は観念で、一方、多神教はうたごころという点である。
日本のうたは、最古の万葉集(20巻4500首)から勅撰の古今和歌集や新古今和歌集(二十一代集)まで多くにわたるが、すべて、自然崇拝と人間のまごころ(あはれやをかし)をうたっている。
それが、自然崇拝や神道の神髄で、心という価値は、うたでしかいいあらわすことができない。
それが和歌だが、季語をもつ俳句も、自然が主語となっている、世界に類がない自然崇拝の詩歌である。
中江兆民は、日本に哲学者はいないといったが、西洋に、柿本人麻呂や山部赤人、山上憶良、大伴家持、在原業平、紀貫之に匹敵する歌人はいない。
しかも、日本には、天皇から遊女、読み人しらずまで、おびただしい歌人がすぐれたうた(小倉百人一首など)をのこしている。
日本に、自然崇拝という、大宗教があったからなのである。
だが、中世以降、日本で有力になったのは、うたではなく、儒教の一学派である朱子学だった。
俸禄や所領でうごく武士を、神道的な秩序や天皇の権威だけでおさえつけることができなくなったからだった。
朱子学は、中国が異民族に支配された征服王朝(遼・金/10〜13世紀)の産物で、絶対的な主従関係や君臣の堅固なむすびつきを理屈だけでつくりあげたイデオロギーだった。
他民族に支配されていた当時、中国では、強烈な観念論をとおして、忠孝の精神や身分秩序、礼節などを叩きこまなければならなかったのである。
藤原惺窩や林羅山、新井白石らによって体系化された朱子学が、徳川幕府によって官学化(寛政異学の禁)されたのは、体制の維持にこれほど都合のよい思想はなかったからである。
ちなみに、明治天皇や水戸光圀の崇敬が篤く、吉田松陰や坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛らの精神的拠り所となった楠木正成も、朱子学の信奉者だった。
河内の一豪族ながら、観心寺で仏典や朱子学を学び、主君に弓を引く下剋上を否定して、のちの江戸時代に花ひらく「義」という考え方を立てた。
楠木の菩提寺である観心寺の金堂の外陣造営を命じたのが「建武の新政」の後醍醐天皇で、正成が「七度生まれ変わって朝敵を倒す(「七生報国」)」と誓った主君であった。
だが、江戸の儒学は、朱子学一辺倒ではなく、荻生徂徠が朱子学を虚妄の説としたのをはじめとして、山崎闇斎は垂加神道を、貝原益軒は人間学(養生訓)を立てた。
朱子学批判は、さらに、山鹿素行の「聖学」、伊藤仁斎の「性即理」とつづき、中江藤樹にいたっては、知行合一の「陽明学」に転じて朱子学をひっくり返した。
幕末、陽明学者の大塩平八郎は、乱をおこして、幕府に反逆した。陽明学に理解が深かった吉田松陰や渡辺崋山、佐久間象山、横井小楠らも、体制改革にのりだして、獄死や自殺、暗殺という悲劇に遭っている。
儒教を中心に国学や史学、神道などを動員して独自の国家観をつくりあげたのが水戸学だった。原点は『大日本史』編纂の水戸藩徳川光圀で、水戸学から藤田東湖や会沢正志斎ら多くの尊皇思想家がでている。正志斎に心酔したのが吉田松陰で、松下村塾の長州から高杉晋作ら多くの尊王攘夷の志士が巣立っていった。
だが、水戸学は一種の狂信であった。「薩摩藩邸焼討」のきっかけとなった薩摩藩による江戸市中の火つけ強盗殺人、長州藩が天皇拉致をはかった「禁門の変」、百人余が斬首刑となった水戸藩の天狗党事件など、薩摩や長州、水戸がテロリスト集団と化したのは、儒教=水戸学が革命思想だったからである。
楠木正成が、テロリズムの偶像になったのは「七生報国」の天皇崇拝主義者だったからで、正成が、戦前まで、天皇崇拝のヒーローだった一方、足利尊氏は悪役の逆賊とされてきた。
徳川光圀が大きな影響をうけたのが北畠親房の『神皇正統記』だった。
親房は、南北朝時代の南朝公卿で、天地開闢から神武天皇即位までの神話と神武天皇から当代の後村上天皇に至る各天皇の事績を綴って、南朝の正統性を説いた。
特徴的なのは、南朝の正統性を説く一方で「徳がない君主の皇統は断絶して皇統の正統性が別の系統に移る」という易姓革命説をとっていることである。
『神皇正統記』に並ぶ日本の二大歴史書に慈円の『愚管抄』がある。
愚管抄においても、神武天皇から順徳天皇にいたる歴史をのべながら儒教の「五常」の一つ、智にもとづく道理論や世直し論、易姓革命的な終末論「百王説」にふれている。「神武天皇の御後、百王ときこゆる、すでにのこりすくなく八十四代にも成りにける」
百王説は、中国の六朝時代、梁の宝誌和尚の「野馬台詩」にもとづいている。
当時「百王説」や易姓革命説が流行したのは、天皇の権威によって正統性をあたえられる権力という、鎌倉幕府以来の「権力構造」が崩壊しはじめたからである。
それが、後醍醐天皇の「建武の新政」から南北朝時代、尊氏や義満らの足利時代、そして、応仁の乱と戦国時代へとつづく暗黒の中世である。
加茂真淵がうた(万葉集)のなかに日本人の心があるとして、本居宣長が外来思想たる漢意(からごころ)をとりのぞいたところに大和心があるとしたのが、江戸の中後期だった。
理屈で白黒をつけるのではなく、わからないものは、わからないままにしておくと、やがて、わかるようになる。賢(さかし)ら決着を急ぐからまちがうのだと宣長はいう。
うたは、絶対的にして、永遠である。
だが、理屈は、ああいえばこういう相対論で、一過性のものでしかない。
儒教や一神教的な価値観がまちがえをくり返してきたのは、なんでも理屈で片をつけようという理神論に立ってきたからである。
人々がうたで心をかよわせ、祈りで国を治めてきた祭祀国家の日本は、縄文の自然崇拝や多神論を現在に継承する、世界で唯一の伝統国家といえる。
民主主義がすべてという日本人は、じぶんの国の成り立ちをもっとよく知るべきなのである。