2021年09月19日

 天皇と保守主義5

 ●民主主義と自由主義の相克
 自民総裁選で、河野太郎が石破茂に支援をもとめ、くわえて、小泉進次郎が河野支持にまわったことから、一部マスコミはリベラル政権誕生か≠ニいう耳目をひくキャッチフレーズを立てた。
 女系天皇容認の河野が首相で、安倍・麻生の天敵、石破が幹事長、脱原発の進次郎が官房長官では、なるほど、リベラル政権である。
 細川連立政権の「政治改革関連4法案」に賛成して離党、西岡武夫らと共に改革の会を結成した(1993年)石破や、敵基地攻撃能力の保有に否定的な河野、国家の利益より人類の理想が大事な進次郎らがもっていないのは、国体観や国体観、歴史観だけではない。
 保守という、自民党員にとって、もっとも大事な資質を欠いている。
 総裁選で、河野の対抗馬とされる岸田文雄は、民主主義の政治をすすめると宣言する一方で、保守主義について、寛容の精神をあげた。
 だが、保守は、歴史を継承することであって、それ以外のなにものでもない。
 人間の理性は、有限なばかりかまちがうのが常である。したがって、歴史の叡智を重く見て、改革は、慎重に、漸進的にすすめられるべきである。歴史を継承することは、温故知新なので、新たに学ばなければならないのである。
 岸田が「寛容の精神」を強調したのは、大衆の民主主義に、個人のリベラリズムを対比させてのことと思われる。
 大衆化して、劣化する民主主義にたいして、良識やよき習慣、歴史の叡智に立って対抗するのがリベラリズムである。
 それが「多数派が少数派をみとめる寛容性と多様性」(オルテガ)で、民主主義という大衆の反逆が、個人の自由というリベラリズムによって、中和されるというのである。
 このことからも、民主主義が政治の論理で、自由主義が個人の信条とわかる。

 だが、旧ソ連崩壊後、自由主義は、左翼の隠れ蓑になった観がある。
 歴史の叡智や寛容の精神どころか、日本の左翼は、リベラル(自由主義)をカサに着た反国家と反伝統のリバタリアン(暴走する自由主義者)となった。
 アメリカが、大恐慌(1930年)から立ち直ったのは、第二次世界大戦とルーズベルトの社会主義的なニューディール政策のおかげだった。
 共和党マッカーシーの赤(共産党)狩り≠ニ冷戦がなかったら、アメリカは、旧ソ連の陰気な共産主義にたいして、陽気な共産主義国家になっていた可能性もあった。
 民主党ルーズベルトが、スターリンの盟友で容共主義者(ほぼ共産主義者)だったことは広く知られている。それだけではない。民主党には、産業別労組(CIO)や「反戦・反ファシズム連盟」の影響下にある人々や1950年に非合法化されたアメリカ共産党の元党員らも大挙してくわわっている。
 アメリカには、戦争を好む保守的な共和党は悪≠ナ、反戦平和のリベラルな民主党は善≠ニいう国民的な思いこみが根強い。若者を戦場に送らないと公約したウソつきルーズベルトの人気は上々で、四選(1933〜45年)をはたしたほどである。

 日本の左翼が、リベラルを名乗るのは、左翼色の濃い「アメリカ民主党」を真似てのことである。
 だが、欧米のリベラルと、日本のリベラルは、まったくの別物である。
 欧米のリベラリズムは、考える自由で、なにをやってもよいという自由ではない。個人の心は、国家から自由というほどの意味合いで、この個人の自由は「万人の戦争(ホッブズ)」をひきおこさずにいない。他者もまた自由をもっているからである。
 このとき、要請されるのが、万人の利害を調整する国家で、国家を運営するのが政治である。現在、民主主義に代わる有効な政治手法はない。民主主義は多数決である。政治の世界を生きるヒトは、したがって、民主主義の枠組みを生きるほかない。
 民主主義では、多数派が少数派が切り捨てる数の暴力が横行する。
 だが、実際は、議論の段階で、双方が歩み寄って、利害を調整しあう。
 オルテガが、寛容の精神といったのは、多数派が少数派を許容するリベラリズムをさしてのことだったのである。
 欧米では、個人のリベラル(自由主義)と国家のデモクラシー(民主主義)が明確に区別されている。
 自由主義は、個人のもので、投票するのは、個人の自由である。
 だが、民主主義は、国家のもので、選挙の多数派から国家理性がうまれる。
 鈴木宗男が北方領土問題にからめて「ロシアも民主主義国家」とのべたものだが、ロシアや香港に、民主主義の前提となる自由主義があるだろうか。

 一方、日本には、リベラルだけがあって、民主主義がない。
 二言目には「民主主義は人類の最高英知」といいながら、日本人には、民主主義をまもる気がさらさらない。民主主義は多数決のことである。民主主義をまもるというなら、議会の評決を重んじなければならない。1952年、戦犯という用語は、戦勝国の呼び方だとして、国会決議で正式に撤回された。だが、マスコミは、いまも戦犯ということばを連発している。
 新コロナウイルス対策で、世界各国がきびしい規制を敷いたのは、政治的な判断で、国会決議にもとづいている。
 一方、反対デモは、自由主義で、それを許容するのがリベラルの寛容の精神である。
 欧米では、このように、国家の民主主義と個人の自由主義が、二元論的に、別々にうごく。
 ところが、日本では、マスコミ労連(MIC)や弁護士連合会がコロナ特措法を憲法違反と騒ぐ。国会決議にもとづくコロナ特措法が、憲法の保障する「集会の自由」「報道の自由」「表現の自由」「国民・市民の知る権利」を侵害するというのである。
 そして、憲法上、政府に、ロックダウンをおこなう権能がゆるされていないと主張する。
 憲法上の自由概念をもって、国家運営の基本概念である民主主義を縛ろうというのは、赤ん坊が親を養育しようというようなものである。この錯綜の根本にあるのがルソー主義で、人間は、うまれながらにして自由で平等などというウソをばらまいてきた。
 日本は、民主主義の国ではなく、左翼によって、民主主義が殺された国だったのである。

 日本のリベラルが、国体や国家、歴史に否定的なのは、保守すべき絶対的な価値をみとめないからである。
 それどころか、伝統的な価値を、個人の自由を奪う、支配的な権威主義(パターナリズム)とみる。
 明治以来、日本人は「個人の自由」という概念をとりちがえてきた。
 本来の自由は、身体や行為にかかる自由で、拘束や捕縛、禁止や制限がないかぎり自由で、リバティの語源も解放である。
 ところが、福沢諭吉がリバティを自由と訳して「自らをもって由となす」としたため、自由が「自らの意思にもとづいてふるまう」と曲解されて、身体と行為に限定されていた自由が、心の自由にまで拡張された。
 心の自由をまもろうとするのは、身体的・物理的自由のリバティではなく、精神的・制度的自由のリベラリズムだが、意味があまりにも多岐にわたって、いまや、だれも、リベラルの意味を定義できないほどになった。
 リベラリズムのなかで、怪物化したのが、リバタリアニズムである。
 明石家さんまの『ホンマでっかTV』で人気の池田清彦(早稲田大学名誉教授)は、過激なリバタリアン(完全自由主義者)として知られる。自民党には罵詈雑言を浴びせかけて、勝手きままな自由をもちあげ、選挙では、共産党以外、投票の選択肢はないと言い切る。
 それが、日本の思想を混乱させている元凶で、リバティにもとづく個人とデモクラシーにもとづく国家の区別を、大学教授たるものがつけられないのである。
 ちなみに、リバタリアンは、子どもとの性行為や児童買春、児童ポルノ禁止までを自由の侵害とみる。マスコミ労連や弁護士連合会が、国民の健康と生命をまもるコロナ特措法を自由の侵害(憲法違反)とみるのも、同じ図式で、日本のリベラルは、じつは、リバタリアンだったのである。
 次回も、総裁選にからめて保守と革新≠ィよび自由主義と民主主義≠ノついて、議論を深めていこう。
posted by office YM at 20:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする