●政治は相対≠ニ絶対≠フ兼ね合い
かつて、左翼は「革命がおきたらハンドーは、みな、ギロチンだ」と叫んだものである。
ハンドーは保守反動のことで、保守は、革命という先進的な流れに逆行しているというのである。
だが、日本で、革命はおきなかった。革命は、進歩ではなかったのである。
革命がおきなかった日本では、アンシャン・レジームが維持されて、いまもなお、天皇は、国家と国民の象徴でありつづけている。
アンシャン・レジームは、フランス革命における旧体制のことである。
革命の成功後、封建的体制が崩壊して、自由と平等、博愛と「人権宣言」を謳った新たな体制が発足した。
だが、その新体制は、ロベスピエールの恐怖政治をへて、ナポレオンの軍事独裁政権に移り変わっただけで、基本的なレジームにかわりはなかった。
レジームとは、政体のことで、一方、破壊された歴史と伝統、文化にあたるのが国体である。
フランス革命は、歴史と伝統、文化を破壊して、自由と平等、博愛と人権という18世紀の啓蒙思想を借用した文化革命だった。革命は、政体たるレジームを転覆させる一方、国体たる文化構造までを破壊する歴史的蛮行だったのである。
米・ロ・仏・英・中の常任理事国5か国を筆頭に革命国家が国体をもたないのは、伝統的価値を、すべて、自由や平等、民主主義などの啓蒙思想的価値ととりかえてしまったからである。
日本にも、GHQ憲法やアメリカ民主主義、対米従属構造、日米安保体制を新たな国体≠ニ見立てる短絡的な思考がある。
国体と政体の区別がつかない愚論で「八月革命論」の亜流である。
国体と政体の区別がつかないのであれば、歴史や文化、伝統という絶対的な価値と、進歩と保守、革新と守旧、先進と反動などの相対的な価値との区別もつくはずはない。
相対論は、右や左、上や下、新旧や強弱のように、変化や程度、状態などを比較することで、それ自体はなにも語っていない。右である、上であるといわれても、実体がないので、なんのことやら見当もつかない。
だが、わたしのうまれた国、富士山、東京タワー、わたしのパスポートなどという具体的なモノやコトなら、明瞭にイメージできる。
これが絶対論で、歴史や文化、伝統、天皇は、絶対的で、疑うべくもない。
疑うことも、相対化することもできないのが国体で、国家は、絶対的国体と相対的政体の両方から成っている。
国体と政体は、二元論で、デカルトの「心身二元論」のようなものである。
別々にはたらくが、人間も国家も、その両面をもって、一人前になる。
民主主義という制度と、歴史や文化、伝統という文化や価値があって、はじめて、ヒトは安心して生きていける。
もっとも、民主主義は、多数決と普通選挙法のことで、制度である。
ところが、多くの日本人は、民主主義を、思想や文化と思っている。
国民主権と同義にとらえているからで、憲法にも民主主義の文字はない。
国民主権の国民は、国民全体の総称で、個人をさしているわけではない。
主権も、国家主権のサブリンティで、個人にあたえられるものではない。
サブリンティは、自然や神がもつ絶大にして超越的、絶対的な能力である。
ひとり一人がそんな魔王的な権力をもっていたら収拾がつかないことになる。
これを国家にあてはめたのは、国家には、戦争権があって、武力で相手国を滅ぼす権利さえ有するからである。
前述したように、国民ひとり一人がこの主権をもっていると主張する論者がいる。白井聡(国体論/永続敗戦論/主権者のいない国)とそのシンパである。
かれらの頭のなかで、国体と政体、文化と制度、現実と空想、絶対的なモノと相対的なモノが、区別なく、ごちゃ混ぜになっている。
政治には、これまで、先人が挑んできて、不可能だったものが二つある。
一つは「個と全体」の矛盾を克服、あるいは、調整である。
もう一つは、一神教、一元論の宗教戦争に終止符を打つことである。
個と全体の利害の調整は、デモクラシーとリベラルの兼ね合いで、多数決に従いつつ、個人の価値をもとめるのが、現段階で、個と全体の矛盾を解消する唯一の方法である。
それには、民主主義の規則性と、自由主義の柔軟性を両立させなければならない。
全体の秩序をまもりながら、個人の自由をもとめることが、人類に残された最後の手段で、それが、自由民主主義(リベラル・デモクラシー)である。
ところが日本では、他人の自由を奪う好き勝手な自由、リバタリアニズムが大手をふっている。
リバタリアニズムの先にあるのが、アナキズムや反日・反国家、そして、言論テロや破壊行為、犯罪である。
民主主義と自由主義、絶対主義と相対主義は、互いに、歩み寄って、中庸の精神がえられる。
日本が、革命を体験することなく、君民共治の事実上の自由民主主義を実現できたのは、国体と政体、権威と権力、天皇と幕府の二元論体制ができていたからである。
一神教=一元論は、他の存在をゆるさないので、永遠の抗争がうまれる。
だが、二元論では、共存の原理がはたらく。二元論は、同一性のあるものがなれ合うのではなく、異質なものが和することで、それが「和の精神」である。
個と全体、民主と自由、絶対と相対は、二元論をもって、融合するのである。
次回は。現実政治を見ながら、民主主義と自由主義の二元論をについてのべよう。