●防衛観念≠ェ欠落している日本の平和主義
日本の平和主義が特殊なのは「憲法9条が戦後日本の平和をまもってきた」という迷信の上に立っているからである。
戦後日本の平和は、日米安保条約と国連憲章51条「個別的・集団的自衛の保有」および憲法9条の解釈改憲%I無視の3つによってまもられてきたといってよい。
自衛隊と在日米軍がいなければ「尖閣諸島」が中国に奪われていたであろうことは、自衛隊ができる2年前、政権についた韓国李承晩が、日本領の竹島を力ずくで奪った(1952年)ことからも容易に想像がつくはずである。
李承晩時代、韓国は、13年間で日本の漁船328隻を拿捕、漁師3929人を拘束、44人死傷(抑留死亡8人)させている。
ところが、日本は、謝罪をもとめるどころか、1965年の日韓基本条約にもとづく経済協力協定で、10年間にわたって無償3億ドルなどの経済協力をおこなって「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を支援してきた。
当時、海上・航空自衛隊が存在していれば李承晩ライン≠フ悲劇も竹島の占領もなかったであろうことはいうまでもない。
世界の国防は「平和を欲するなら戦の備えをせよ(ラテン語の警句)」という大原則にそったものだが、その一方、憲法で、平和主義を掲げている。日本の護憲主義者は「9条を世界に輸出すべき」というが、非戦反戦は、日本の専売特許ではない。イタリア(共和国憲法第11条)やドイツ(基本法第26条)にほか、フランスやブラジル、フィリピンやカンボジア、そして、軍事力で日本を超えたい韓国でさえ、憲法で、非戦反戦を謳っている。
諸外国の非戦反戦と、日本の憲法9条は、どこがちがうのか。
敵から侵略をうけた場合、これを撃退するのは、本能のようなもので、あえて、自衛権などといわない。
侵略的戦争は、いまの時代、国連憲章違反になるので、できるはずはない。
現在は、核戦争をふくめて、国家間戦争も、事実上、不可能になっている。
それなら、はじめから、非戦反戦を謳ったほうが、国際的に聞こえがよい。
諸外国の非戦反戦、平和主義には、はじめから、正当防衛的な自衛権がふくまれていたのである。
ところが、日本の憲法9条は「陸海空軍の戦力を保持しない。国の交戦権を認めない(2項)」として、正当防衛さえみとめていない。1項で「国際紛争を解決する手段としては」と断っているにもかかわらず、である。
護憲・左翼陣営と左翼新聞(朝日)の主張と、内閣法制局の解釈によるもので、そのため、日本は、防衛本能の失った家畜のような国になってしまった。
「平和を愛する諸外国の公正と信義に信頼して(憲法前文)」というのが日本の平和主義だが、なんと、日本の平和主義は、諸外国の平和主義をアテにした平和主義だったのである。
平和主義を立てるなら、GHQの武装解除命令≠法令化した憲法九条を廃止して、新たに平和憲法をつくればよい。
GHQがつくった憲法九条を神格化した日本の平和主義は、政治や国民運動ではなく、宗教上の戒律とすこしもかわらない。
国が滅びても、憲法をまもれという日本弁護士連合会などは、もはや、オカルト集団というほかない。
内閣法制局は、左翼官僚の巣で、安倍晋三首相が、2013年、内閣法制局長官の首を阪田雅裕から小松一郎(元・駐仏大使)へすげかえて、ようやく、左翼の牙城を破った。
そして「現憲法の下で集団的自衛権を行使できる」と憲法解釈を変えさせたが、朝日新聞は、その坂田をひっぱりだして「憲法第九条から集団的自衛権の行使を解釈するのは無理」という論陣を張った。
日米安保条約下で、個別的自衛権と集団的自衛権を分けることは現実的ではない。国連憲章51条(自衛権)でも区別されていない。尖閣諸島防衛で後方支援の米軍が中共軍の攻撃をうけても援護しないという理屈は、国際的にとおる話ではないのである。
本来、自衛権は、予想される敵戦力に十分に抵抗しうる戦力で対抗するのが大原則である。
ところが、内閣法制局は、専守防衛を、侵略戦争をおこなわないという国際常識ではなく、敵弾が着弾してから防衛措置をとるという縛り≠ノもちいてきた。
アメリカとロシアに肉薄する軍事力をもつ中国は「2030年までに核弾頭1000発保有する見通し(国防総省)」で、9番目の核保有国となった北朝鮮はICBM級(射程1万キロ)も所有している。日本を最大の仮想敵国とする韓国も、現在2000発にたっしている長距離ミサイル(玄武)を盧武鉉(ノ・ムヒョン)時代にすでに配備(ミサイル司令部)済みで、日本の原発すべてが標的になっている。
ミサイルが撃ち込まれたあとから防衛体制を敷くようでは防衛にならない。核を搭載したミサイル戦では、被弾した段階で勝負がついてしまうからである。
先制攻撃は、ミサイル戦を想定した防衛概念で、先制攻撃とミサイルの発射準備が見合い(相互抑止力)≠ノなっている。
中国や北朝鮮、韓国にたいする防衛戦略には、非核三原則核(「持たず、つくらず、持ち込ませず」)を撤廃して、核ミサイルを搭載した世界一の潜水艦軍団を日本近海に遊弋させてこれにあたるほかない。
日本の潜水艦の能力は、世界一で、静粛航行性(高性能リチウム蓄電池)と航行可能深度(500m)、ソナーなどの艦内装備と艦外の衛星・対潜哨戒機の情報をコンピュータで統合運用する敵探知能力、魚雷の攻撃力、海上発射ミサイルなどをもって、サイパンやパラオ、グアムまでをふくむ日本の絶対防衛線をまもっている。
核については、アメリカ貸与にしても自国製造にしても、日本が、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)とともにこれを用意すべきで、それ以外に有効な核抑止力はありえない。
韓国が北朝鮮につづいて世界で8番目のSLBM保有国になっている現況をふまえても、アジアの軍事バランスをたもつには、日本が核とSLBMの保有に名乗りを挙げるほかないのである。
「武器を捨てると平和になる」という憲法九条教≠ノ付き合っているヒマなどない。
次回は憲法九条教≠ニ真の平和思想、そして、憲法改正について語ろう。
2021年11月26日
2021年11月11日
なぜ日本は中道政治≠実現できないのかC
●生産と分配、所得のバランスをとるGDP経済
岸田文雄首相が新自由主義からの決別(「新しい日本型資本主義」)を宣すると、日本有数のIT企業である楽天グループの三木谷浩史会長が「新しい社会主義にしか聞こえない」と嚙みついた。
新自由主義は資本の論理≠ノ任せっきりにしたほうが資本主義は発展するという経済のリバタリアニズム(完全自由主義)で、当時、アメリカが新自由主義をとったのは、IT経済(=コンピュータ社会)の黎明期にあったからである。
それが、アメリカの金持ちビッグ4のアマゾン(ジェフ・ベゾス)やマイクロソフト(ビル・ゲイツ)、ハサウェイ(ウォーレン・バフェット)、フェイスブック(ザッカーバーグ)そして、アップルを創設した故スティーブ・ジョブズ財団(夫人)らの巨財をうんだ。
アメリカの新自由主義は、金持ちトップ50(2兆ドル)が全米資産の半分を所有するリバタリアニズム経済で、それが、奴隷制や海賊、海外侵略、帝国主義をとってきた西洋資本主義の最終局面といえよう。
これに比べると、日本資本主義は、社会主義的で、士農工商という職業身分があったことが自体、西洋の資本主義と様相を異にしている。
西洋の身分は、貴族と聖職者、自由市民と奴隷に分かたれて、身分によって法的差別がおこなわれる階級社会を形成していた。
日本の士農工商は、身分の区別ではなく、職業区分だったが、マルクス学者がこれを階級(階級闘争)としてとりあげて、領主が農民から作物を搾取する唯物史観や斬り捨て御免などのデマを流した。
領主は、庄屋(名主/村の首長)をとおして年貢を徴収するので、農民とは接触がなく、武士が町人を斬殺した事件(加害者は死罪)はあったが、これを容認した歴史的事実は一件もなかった。
さらに、学者は、士農工商にエタや非人をくわえ、身分差別があったとした。
屠殺や食肉が禁止だった江戸時代まで、食肉業や皮革業は、職業としてみとめられていなかった。したがって、業者みずから非人を名乗って規制を免れたが、職業の相続権もあって、大半が家伝だった。
屎尿やゴミの処理業者、墓守(隠亡)や遊郭下男、大道芸人など士農工商にくくられない業者も、すべて穢多(穢れの多い仕事)や非人と自称、あるいはそう呼ばれたが、これらの職業についている人々の数はきわめて多く、かれらがいなければ、社会生活が成り立たなかったのはいうまでもない。
戦後、穢多や非人、部落民は、差別用語として、糾弾をうけることになったが、咎められるべきは、これらのことばの使用ではなく、差別意識だったのはいうまでもない。
日本が、かつて、階級闘争の市民革命を体験することなく、現在も、海賊的資本主義の荒廃から免れている理由は、仁徳天皇の「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」に象徴されるように、国民経済に重きがおかれてきたからで、日本は、江戸時代まで、農業比率が85%の農本主義の国だった。
現在、アフリカや中南米などで貧困と犯罪、ハイパーインフレ(品不足)が蔓延しているのは、職業が不足しているからである。国民に十分な職業があたえられなければ、経済どころか、国家が破綻してしまうのある。
好例が1929年のアメリカの大恐慌だった。オートメーション普及による失業と過剰生産がひきおこした生産と分配、支出のアンバランスによって、マクロ経済が破綻したのである。
海賊経済のアメリカが現在も好況なのは、IT経済への切り替えがはやかったため失業率が上がらなかったからだが、ニューヨーク市のレストランのランチ代が数千円という高額で、アメリカ経済は、すでに、金持ちのためのものになってしまっている。
戦後、日本経済が復興したのは、昭和25年の朝鮮戦争を契機とする「特需景気」によって雇用が急速に拡大したからだった。政治の時代から経済の時代へ突入した昭和35年、安保闘争で倒れた岸内閣の後をひきついだ池田内閣は「所得倍増計画」をうちだして、10%をこえる経済成長率を10年間以上もたもちつづけて、経済大国の基盤をつくった。
岸田首相の経済政策は、池田勇人の所得倍増計画や「プラザ合意」の竹下登蔵相(中曽根康弘首相/澄田日銀総裁)を「シロートはこわいね」と批判した宮沢喜一の経済をひきついだもので、基本的には、生産と分配(所得)、所得の三者のバランスをとりながら拡大させるGDP(GNP)経済である。
日本経済は、もともと、石田梅岩の「商は義」や二宮尊徳の「商は徳」あるいは近江商人の「三方(売り手、買い手、世間)よし」の「商道」にもとづくもので、これをひきついだのが、渋沢栄一や豊田佐吉、松下幸之助、土光敏夫らの一流経済人で、かれらは、貪欲な資本家ではなく、すぐれた経営者にして思想家だった。
資本家と経営者のちがいは、前者が個人の利益をもとめ、後者が社会の利益をもとめるところにある。新自由主義によって生じる格差社会について小泉首相は、当時の流行歌になぞらえて「人生いろいろ」といってのけた。そして、竹中平蔵は、郵政民営化による社会の社会的・国家的損失について、記者会見場で「儲けがでている」「儲かっている」とくり返しただけだった。
二人とも、経済のなんたるかを知らないただの改革主義者だったのである。
経済は「三方よし」の「商道」あるいは、生産や分配(所得)、支出がGDPと同じ値になるマクロ経済学上の原則にしたがうことにあって、一部金満家や巨大企業が預金や内部留保を貯めこんで、貧困層や弱者がふえてゆけば、資本主義そのものが崩壊してゆくことになる。
これまで「貯蓄=投資」という経済公式があって、貯蓄が富の一部と数えられてきたが、実体経済をみると、貯蓄は結果として、経済の縮小をもたらしただけだった。
かつて、フィリピンのマルコス大統領が、着服した輸入ガソリン税を海外にもちだして、国家経済を害したが、貯蓄や内部留保も、需要創造や就業機会を奪うという意味において、これと同じことである。
ちなみに、ラモス(元大統領)やエンリレ(元国防相)とともに反マルコスのクーデターをおこしたグレゴリオ・ホナサン(元上院議員)は、わたしの旧い友人で、いまもなお、交流がある。
宏池会経済は、大蔵省経済という別名があったように、株主や投資家だけが大儲けする新自由主義経済と反対の方向をむいている。宮沢を尊敬する岸田が宏池会経済を踏襲するのは明らかで、総裁選の段階から「新自由主義的政策がもてる者ともたざる者の格差と分断をうんだ」として所得の再分配を経済政策の中核にすえている。 政策パンフレットでも「下請いじめゼロ」「住居費・教育費支援」「公的価格の抜本的見直し」「単年度主義の弊害是正」という4つの方針のほか、看護師や介護士などの年収アップなどの「公的価格の抜本的見直し」などの文字も見える。
近年、経済の貧困化が急ピッチですすんでいる。一億総中流どころか、貧困層がふえ、国内消費が減退しているのである。経済格差の拡大が経済成長のブレーキになるのはいうまでもない。したがって、ある程度、強制的に所得を再分配する必要があるだろうが、当然ながら、所得を減らされる側から反対意見が出る。
それを、社会主義的というのなら、人間の欲望のままにまかせる新自由主義の逆をむいている大蔵省のケインズ経済も社会主義的ということになる。
マルクス主義における社会主義は、生産や分配を計画的におこなうやり方をいうが、所得の再分配は、資本主義・自由主義社会においても、ケインズ経済として、数多く実施されてきた。
それどころか、保守層の多くが「官民が一体となって半導体産業を育成せよ」「小型原発を国有化して国家が管理せよ」「研究開発費を国家が管理してもっと予算をふやせ」など公共性の高い財やサービス、インフラなどの投資には、国家が積極的にのりだせと主張している。
保守派が、マルクス主義や社会主義に傾いているのではない。新自由主義という海賊経済が、商道を土台に育成してきた日本型資本主義を根こそぎに破壊することに異を唱えているのである。
世界最大の半導体メーカーである台湾のTSMCがソニーグループと共同で国内(熊本県)に工場を建設(2024年末までに量産開始)する。基礎力が上の日本が、マーケッティング力にすぐれた台湾と組んで、欧米と中韓に立ちむかってゆく。
50年間、日本の一部だった、古き良き日本をよく知る台湾と、アメリカ新自由主義にカブれている日本の合弁は、皮肉だが、きわめて、痛快な出来事なのである。
岸田文雄首相が新自由主義からの決別(「新しい日本型資本主義」)を宣すると、日本有数のIT企業である楽天グループの三木谷浩史会長が「新しい社会主義にしか聞こえない」と嚙みついた。
新自由主義は資本の論理≠ノ任せっきりにしたほうが資本主義は発展するという経済のリバタリアニズム(完全自由主義)で、当時、アメリカが新自由主義をとったのは、IT経済(=コンピュータ社会)の黎明期にあったからである。
それが、アメリカの金持ちビッグ4のアマゾン(ジェフ・ベゾス)やマイクロソフト(ビル・ゲイツ)、ハサウェイ(ウォーレン・バフェット)、フェイスブック(ザッカーバーグ)そして、アップルを創設した故スティーブ・ジョブズ財団(夫人)らの巨財をうんだ。
アメリカの新自由主義は、金持ちトップ50(2兆ドル)が全米資産の半分を所有するリバタリアニズム経済で、それが、奴隷制や海賊、海外侵略、帝国主義をとってきた西洋資本主義の最終局面といえよう。
これに比べると、日本資本主義は、社会主義的で、士農工商という職業身分があったことが自体、西洋の資本主義と様相を異にしている。
西洋の身分は、貴族と聖職者、自由市民と奴隷に分かたれて、身分によって法的差別がおこなわれる階級社会を形成していた。
日本の士農工商は、身分の区別ではなく、職業区分だったが、マルクス学者がこれを階級(階級闘争)としてとりあげて、領主が農民から作物を搾取する唯物史観や斬り捨て御免などのデマを流した。
領主は、庄屋(名主/村の首長)をとおして年貢を徴収するので、農民とは接触がなく、武士が町人を斬殺した事件(加害者は死罪)はあったが、これを容認した歴史的事実は一件もなかった。
さらに、学者は、士農工商にエタや非人をくわえ、身分差別があったとした。
屠殺や食肉が禁止だった江戸時代まで、食肉業や皮革業は、職業としてみとめられていなかった。したがって、業者みずから非人を名乗って規制を免れたが、職業の相続権もあって、大半が家伝だった。
屎尿やゴミの処理業者、墓守(隠亡)や遊郭下男、大道芸人など士農工商にくくられない業者も、すべて穢多(穢れの多い仕事)や非人と自称、あるいはそう呼ばれたが、これらの職業についている人々の数はきわめて多く、かれらがいなければ、社会生活が成り立たなかったのはいうまでもない。
戦後、穢多や非人、部落民は、差別用語として、糾弾をうけることになったが、咎められるべきは、これらのことばの使用ではなく、差別意識だったのはいうまでもない。
日本が、かつて、階級闘争の市民革命を体験することなく、現在も、海賊的資本主義の荒廃から免れている理由は、仁徳天皇の「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」に象徴されるように、国民経済に重きがおかれてきたからで、日本は、江戸時代まで、農業比率が85%の農本主義の国だった。
現在、アフリカや中南米などで貧困と犯罪、ハイパーインフレ(品不足)が蔓延しているのは、職業が不足しているからである。国民に十分な職業があたえられなければ、経済どころか、国家が破綻してしまうのある。
好例が1929年のアメリカの大恐慌だった。オートメーション普及による失業と過剰生産がひきおこした生産と分配、支出のアンバランスによって、マクロ経済が破綻したのである。
海賊経済のアメリカが現在も好況なのは、IT経済への切り替えがはやかったため失業率が上がらなかったからだが、ニューヨーク市のレストランのランチ代が数千円という高額で、アメリカ経済は、すでに、金持ちのためのものになってしまっている。
戦後、日本経済が復興したのは、昭和25年の朝鮮戦争を契機とする「特需景気」によって雇用が急速に拡大したからだった。政治の時代から経済の時代へ突入した昭和35年、安保闘争で倒れた岸内閣の後をひきついだ池田内閣は「所得倍増計画」をうちだして、10%をこえる経済成長率を10年間以上もたもちつづけて、経済大国の基盤をつくった。
岸田首相の経済政策は、池田勇人の所得倍増計画や「プラザ合意」の竹下登蔵相(中曽根康弘首相/澄田日銀総裁)を「シロートはこわいね」と批判した宮沢喜一の経済をひきついだもので、基本的には、生産と分配(所得)、所得の三者のバランスをとりながら拡大させるGDP(GNP)経済である。
日本経済は、もともと、石田梅岩の「商は義」や二宮尊徳の「商は徳」あるいは近江商人の「三方(売り手、買い手、世間)よし」の「商道」にもとづくもので、これをひきついだのが、渋沢栄一や豊田佐吉、松下幸之助、土光敏夫らの一流経済人で、かれらは、貪欲な資本家ではなく、すぐれた経営者にして思想家だった。
資本家と経営者のちがいは、前者が個人の利益をもとめ、後者が社会の利益をもとめるところにある。新自由主義によって生じる格差社会について小泉首相は、当時の流行歌になぞらえて「人生いろいろ」といってのけた。そして、竹中平蔵は、郵政民営化による社会の社会的・国家的損失について、記者会見場で「儲けがでている」「儲かっている」とくり返しただけだった。
二人とも、経済のなんたるかを知らないただの改革主義者だったのである。
経済は「三方よし」の「商道」あるいは、生産や分配(所得)、支出がGDPと同じ値になるマクロ経済学上の原則にしたがうことにあって、一部金満家や巨大企業が預金や内部留保を貯めこんで、貧困層や弱者がふえてゆけば、資本主義そのものが崩壊してゆくことになる。
これまで「貯蓄=投資」という経済公式があって、貯蓄が富の一部と数えられてきたが、実体経済をみると、貯蓄は結果として、経済の縮小をもたらしただけだった。
かつて、フィリピンのマルコス大統領が、着服した輸入ガソリン税を海外にもちだして、国家経済を害したが、貯蓄や内部留保も、需要創造や就業機会を奪うという意味において、これと同じことである。
ちなみに、ラモス(元大統領)やエンリレ(元国防相)とともに反マルコスのクーデターをおこしたグレゴリオ・ホナサン(元上院議員)は、わたしの旧い友人で、いまもなお、交流がある。
宏池会経済は、大蔵省経済という別名があったように、株主や投資家だけが大儲けする新自由主義経済と反対の方向をむいている。宮沢を尊敬する岸田が宏池会経済を踏襲するのは明らかで、総裁選の段階から「新自由主義的政策がもてる者ともたざる者の格差と分断をうんだ」として所得の再分配を経済政策の中核にすえている。 政策パンフレットでも「下請いじめゼロ」「住居費・教育費支援」「公的価格の抜本的見直し」「単年度主義の弊害是正」という4つの方針のほか、看護師や介護士などの年収アップなどの「公的価格の抜本的見直し」などの文字も見える。
近年、経済の貧困化が急ピッチですすんでいる。一億総中流どころか、貧困層がふえ、国内消費が減退しているのである。経済格差の拡大が経済成長のブレーキになるのはいうまでもない。したがって、ある程度、強制的に所得を再分配する必要があるだろうが、当然ながら、所得を減らされる側から反対意見が出る。
それを、社会主義的というのなら、人間の欲望のままにまかせる新自由主義の逆をむいている大蔵省のケインズ経済も社会主義的ということになる。
マルクス主義における社会主義は、生産や分配を計画的におこなうやり方をいうが、所得の再分配は、資本主義・自由主義社会においても、ケインズ経済として、数多く実施されてきた。
それどころか、保守層の多くが「官民が一体となって半導体産業を育成せよ」「小型原発を国有化して国家が管理せよ」「研究開発費を国家が管理してもっと予算をふやせ」など公共性の高い財やサービス、インフラなどの投資には、国家が積極的にのりだせと主張している。
保守派が、マルクス主義や社会主義に傾いているのではない。新自由主義という海賊経済が、商道を土台に育成してきた日本型資本主義を根こそぎに破壊することに異を唱えているのである。
世界最大の半導体メーカーである台湾のTSMCがソニーグループと共同で国内(熊本県)に工場を建設(2024年末までに量産開始)する。基礎力が上の日本が、マーケッティング力にすぐれた台湾と組んで、欧米と中韓に立ちむかってゆく。
50年間、日本の一部だった、古き良き日本をよく知る台湾と、アメリカ新自由主義にカブれている日本の合弁は、皮肉だが、きわめて、痛快な出来事なのである。
2021年11月07日
なぜ日本は中道政治≠実現できないのかB
●新自由主義経済を「宏池会」経済で是正できるか?
アメリカでもっともリッチな3人といえば、ジェフ・ベゾス(アマゾン)とビル・ゲイツ(マイクロソフト)、そして、ウォーレン・バフェット(ハサウェイ)のことで、いずれも、世界的IT企業の大成者である。
この3人の資産額約30兆円が、下位50%のアメリカ人(約1億6000万人)の合計資産額を超える。
世界の金持ち26人が、世界の低所得者の半数にあたる38億人の総資産と同額の富をもち、世界の最富裕層2153人が、世界人口の60%以上になる貧困層46億人の全財産をこえる富をもっている。そして、世界の1%の裕福層が低所得者数69億人の2倍以上の資産を保有する。
このことからも「神の見えざる手(アダム・スミス)」によって需要と供給のバランスがとれて、資本主義(市場経済)がうまくゆくという話が幻想だったことは明らかだろう。
アメリカのみならず世界を席巻した新自由主義は、アダム・スミスの「国富論」を加速度的に発展させたもので、自由放任的な資本主義である。
だが、18世紀の経済は、労働集約型で、21世紀の経済は、コンピュータ集約型である。人間の労働や消費、市場には、限界があるが、コンピュータには限界がない。経済をコンピュータまかせにして、資本主義が怪物化して、人間や社会が疎外されないわけはなかった。
新自由主義は、神ではなく、悪魔の見えざる手だったかもしれない。
その手にあたるのが「IT(インターネットを中心とする情報技術)」「AI(人工知能/ロボット工学)で、アメリカ第4位の金持ちマーク・ザッカーバーグ(フェイスブック)は、創業当時、大学生で、22歳のただのパソコン・オタクだった。
小泉純一郎や竹中平蔵が、新自由主義にとびついたのは、この新自由主義と並走していた新保守主義が、政府の干渉を排する強固な自由放任主義をとっていたからだった。
アメリカの新保守主義は、自由競争や自由市場の原則に立った小さな政府をめざすもので、政策的には、減税と社会福祉の見直し、規制緩和の徹底などをあげていた。
改革が大スキな小泉とマクロ経済とミクロ経済の区別がつかない竹中がこれにとびついた。新たな自由主義経済の出現とでも思ったのであろう。
だが、アメリカの新自由主義と新保守主義には、壮大な背景があった。
ブッシュの前任クリントン大統領・ゴア副大統領が構築したシリコンバレーにソフトを集約した「情報スーパーハイウェイ構想」である。
ブッシュ時代は、同時多発テロとイラク戦争にふりまわされたが、その一方で、デジタル革命は着々とすすみ、経済の中心は、金融や製造業から半導体や「IT」「AI」のソフトへ移り変わっていった。
1989年(平成元年)の世界時価総額ランキング50で、日本企業は50位中32社がランク入りしていたが、2000年では、NTTとドコモ、トヨタ、ソニー、ソフトバンクの5社にとどまり、2020年では、トヨタ一社になった。
日本企業が衰退したというよりも、IT企業が急成長して、時価総額(株価×発行済株式数)が二桁単位で膨張したためだが、ザッカーバーグ(フェイスブック)の個人資産がトヨタ自動車の時価総額をこえたところで、実体経済にさほど影響はない。
問題なのは、世界の資金がIT企業へ集中して、ビジネスモデルがインターネットにきりかわった2000年代に入ってからも、日本がパソコンの導入を渋ったことである。
デジタル化によって先進国・新興国ともにGDPが急成長するなか、日本のGDPが停滞したのは、パソコンの普及が遅れたからである。
日本企業のデジタル化は中国や韓国の足元にもおよばない。韓国が「すでに日本を追いこした」と豪語するのは、デジタル部門で日本に完勝しているからである。
海外メディアは、2019年、厚生労働省と自治体がPCR検査のデータをファックスでやりとりしている実態を「信じがたい事実」とトップニュースで報じたが、韓国の『中央日報』は、パソコンを使ったことがない元建設省キャリア官僚の竹本直一がサイバーセキュリティ戦略本部担当相に就任したことをもって「IT(情報技術)後進国」と断じた。
2007年、5000万件もの年金記録が不明になった「消えた年金」問題で、民主党とマスコミから責任を追及された自民党が政権を失った。長妻昭(当時民主党)は、国会で年金問題における自民党の責任を論じたが、犯人は、自民党ではなかった。
年金記録が不明になったのは、民主党(立憲民主党)の支持団体である自治労が社会保険庁と覚書を交わして、職場からパソコンを追放してしまったからだった。「パソコンの導入は労働強化にあたる」というのである。労組や官僚がパソコンをきらうのは、インターネットの世界には、学歴や圧力団体の権力が通用しないからである。
自治労のバックアップをうけた小川淳也(東大・自治省)が、2021年衆院選の選挙区で「サイバーセキュリティ基本法」を議員立法した平井卓也デジタル大臣(初代)を破って当選した。「なぜ君は総理になれないのか」という、立憲民主党の政治家が首相になれないのは、日本人が愚かだからというキャンペーン映画をヒットさせてのことだった。
東大(法)をでたからには総理大臣になって当然という論理で、テレビでも東大王やインテリ軍団と東大を手放しでもてはやす。マスコミ界が学歴エリートの巣になっているからである。
だが、東大生でも、アジアの高校生が学んでいるコンピュータ・プログラムに手も足もでない。
日本の企業が「時価総額世界ランキング」から脱落したのは、大企業が学歴エリートばかり集めたからで、高学歴者は、難しい理屈は知っていても、半導体マーケットや金融商品、コンピュータ・ソフトなどインターネットがらみのことはなにも知らない。
日本経済が凋落したのは、大手の製造業や電器メーカー、金融機関が、高学歴神話にとりつかれて、社員が高学歴バカばかりになったからである。
ちなみに、日本企業が生き残っているのは、99・7%が、叩き上げや高卒が多い中小企業だからである。
岸田文雄政権が「新しい日本型資本主義」を打ち出して、新自由主義からの決別を宣言した。これにたいして、楽天グループの三木谷浩史会長が「新社会主義にしか聞こえない」と批判したが、楽天グループは日本有数のIT企業とあって、弱者のことなど知ったことではないのだろう。
だが、貧困層や弱者がふえることによって、資本主義そのものが崩壊してゆく。
宏池会の経済は、池田勇人の「所得倍増計画」をあげるまでもなく、GDP経済で、生産と分配(所得)、所得の三者のバランスをとりながら拡大させるというものである。
、GDP経済というのは「生産」「分配」「所得」の三面等価に目をむけたもので、株主や投資家だけが大儲けする新自由主義経済とは反対の方向をむいている。
次回は、岸田政権の経済政策をじっくり検証してみよう。
アメリカでもっともリッチな3人といえば、ジェフ・ベゾス(アマゾン)とビル・ゲイツ(マイクロソフト)、そして、ウォーレン・バフェット(ハサウェイ)のことで、いずれも、世界的IT企業の大成者である。
この3人の資産額約30兆円が、下位50%のアメリカ人(約1億6000万人)の合計資産額を超える。
世界の金持ち26人が、世界の低所得者の半数にあたる38億人の総資産と同額の富をもち、世界の最富裕層2153人が、世界人口の60%以上になる貧困層46億人の全財産をこえる富をもっている。そして、世界の1%の裕福層が低所得者数69億人の2倍以上の資産を保有する。
このことからも「神の見えざる手(アダム・スミス)」によって需要と供給のバランスがとれて、資本主義(市場経済)がうまくゆくという話が幻想だったことは明らかだろう。
アメリカのみならず世界を席巻した新自由主義は、アダム・スミスの「国富論」を加速度的に発展させたもので、自由放任的な資本主義である。
だが、18世紀の経済は、労働集約型で、21世紀の経済は、コンピュータ集約型である。人間の労働や消費、市場には、限界があるが、コンピュータには限界がない。経済をコンピュータまかせにして、資本主義が怪物化して、人間や社会が疎外されないわけはなかった。
新自由主義は、神ではなく、悪魔の見えざる手だったかもしれない。
その手にあたるのが「IT(インターネットを中心とする情報技術)」「AI(人工知能/ロボット工学)で、アメリカ第4位の金持ちマーク・ザッカーバーグ(フェイスブック)は、創業当時、大学生で、22歳のただのパソコン・オタクだった。
小泉純一郎や竹中平蔵が、新自由主義にとびついたのは、この新自由主義と並走していた新保守主義が、政府の干渉を排する強固な自由放任主義をとっていたからだった。
アメリカの新保守主義は、自由競争や自由市場の原則に立った小さな政府をめざすもので、政策的には、減税と社会福祉の見直し、規制緩和の徹底などをあげていた。
改革が大スキな小泉とマクロ経済とミクロ経済の区別がつかない竹中がこれにとびついた。新たな自由主義経済の出現とでも思ったのであろう。
だが、アメリカの新自由主義と新保守主義には、壮大な背景があった。
ブッシュの前任クリントン大統領・ゴア副大統領が構築したシリコンバレーにソフトを集約した「情報スーパーハイウェイ構想」である。
ブッシュ時代は、同時多発テロとイラク戦争にふりまわされたが、その一方で、デジタル革命は着々とすすみ、経済の中心は、金融や製造業から半導体や「IT」「AI」のソフトへ移り変わっていった。
1989年(平成元年)の世界時価総額ランキング50で、日本企業は50位中32社がランク入りしていたが、2000年では、NTTとドコモ、トヨタ、ソニー、ソフトバンクの5社にとどまり、2020年では、トヨタ一社になった。
日本企業が衰退したというよりも、IT企業が急成長して、時価総額(株価×発行済株式数)が二桁単位で膨張したためだが、ザッカーバーグ(フェイスブック)の個人資産がトヨタ自動車の時価総額をこえたところで、実体経済にさほど影響はない。
問題なのは、世界の資金がIT企業へ集中して、ビジネスモデルがインターネットにきりかわった2000年代に入ってからも、日本がパソコンの導入を渋ったことである。
デジタル化によって先進国・新興国ともにGDPが急成長するなか、日本のGDPが停滞したのは、パソコンの普及が遅れたからである。
日本企業のデジタル化は中国や韓国の足元にもおよばない。韓国が「すでに日本を追いこした」と豪語するのは、デジタル部門で日本に完勝しているからである。
海外メディアは、2019年、厚生労働省と自治体がPCR検査のデータをファックスでやりとりしている実態を「信じがたい事実」とトップニュースで報じたが、韓国の『中央日報』は、パソコンを使ったことがない元建設省キャリア官僚の竹本直一がサイバーセキュリティ戦略本部担当相に就任したことをもって「IT(情報技術)後進国」と断じた。
2007年、5000万件もの年金記録が不明になった「消えた年金」問題で、民主党とマスコミから責任を追及された自民党が政権を失った。長妻昭(当時民主党)は、国会で年金問題における自民党の責任を論じたが、犯人は、自民党ではなかった。
年金記録が不明になったのは、民主党(立憲民主党)の支持団体である自治労が社会保険庁と覚書を交わして、職場からパソコンを追放してしまったからだった。「パソコンの導入は労働強化にあたる」というのである。労組や官僚がパソコンをきらうのは、インターネットの世界には、学歴や圧力団体の権力が通用しないからである。
自治労のバックアップをうけた小川淳也(東大・自治省)が、2021年衆院選の選挙区で「サイバーセキュリティ基本法」を議員立法した平井卓也デジタル大臣(初代)を破って当選した。「なぜ君は総理になれないのか」という、立憲民主党の政治家が首相になれないのは、日本人が愚かだからというキャンペーン映画をヒットさせてのことだった。
東大(法)をでたからには総理大臣になって当然という論理で、テレビでも東大王やインテリ軍団と東大を手放しでもてはやす。マスコミ界が学歴エリートの巣になっているからである。
だが、東大生でも、アジアの高校生が学んでいるコンピュータ・プログラムに手も足もでない。
日本の企業が「時価総額世界ランキング」から脱落したのは、大企業が学歴エリートばかり集めたからで、高学歴者は、難しい理屈は知っていても、半導体マーケットや金融商品、コンピュータ・ソフトなどインターネットがらみのことはなにも知らない。
日本経済が凋落したのは、大手の製造業や電器メーカー、金融機関が、高学歴神話にとりつかれて、社員が高学歴バカばかりになったからである。
ちなみに、日本企業が生き残っているのは、99・7%が、叩き上げや高卒が多い中小企業だからである。
岸田文雄政権が「新しい日本型資本主義」を打ち出して、新自由主義からの決別を宣言した。これにたいして、楽天グループの三木谷浩史会長が「新社会主義にしか聞こえない」と批判したが、楽天グループは日本有数のIT企業とあって、弱者のことなど知ったことではないのだろう。
だが、貧困層や弱者がふえることによって、資本主義そのものが崩壊してゆく。
宏池会の経済は、池田勇人の「所得倍増計画」をあげるまでもなく、GDP経済で、生産と分配(所得)、所得の三者のバランスをとりながら拡大させるというものである。
、GDP経済というのは「生産」「分配」「所得」の三面等価に目をむけたもので、株主や投資家だけが大儲けする新自由主義経済とは反対の方向をむいている。
次回は、岸田政権の経済政策をじっくり検証してみよう。
2021年11月01日
なぜ日本は中道政治≠実現できないのかA
●「上の句」だけで「下の句」がない日本の政治
政治は、結果論の世界である。結果がすべてで、結果責任だけを問われる。
思うのは勝手で、なにを思っても構わないが、行動に移すと責任が生じる。
その一方、結果論では、理由や根拠、経緯について、なにも問われない。
問うたところで、仕方ないからで、現実は、すべて、結果論の世界である。
インカ・アステカを滅ぼしたスペインや黒人狩りをおこなったポルトガルやイギリスなどの奴隷商人、先住民族のインディアンやアボロジニを全滅させた欧米やオーストラリアらが、これまで謝罪してこなかったのは、歴史の結果を否定できないからである。
いかなる経緯があろうとも、あるのは、結果だけで、その結果の上に人類が生存している。現在こそが、結果論で、だれもがこの結果論をうけいれざるをえないのである。
西洋の蛮行に比較して、大韓帝国の皇帝(純宗)と内閣(李完用)、議会からの依頼にもとづいておこなわれた日韓併合条約(「韓国併合ニ関スル条約」)はりっぱなもので、文句をいわれる筋合いはどこにもない。巨額の外債に苦しむ世界最貧国の朝鮮が日本にすがったのは、それまで頼ってきた清国やロシアが戦争で日本に負けたからで、日韓併合は、韓国がもとめてやまないものだった。
韓国も台湾も、日本に占領されていた時代に、経済政策や国家運営の技術を学んで、戦後、独立して世界的な大国へ発展した。とりわけ、韓国や北朝鮮の経済インフラの中心となったのは、日本が半島に残してきた世界一の水豊ダムなど産業・工業施設だった。さらに日本は、戦後、韓国にたいして3億ドルの無償提供や25年もわたる円借款をおこなって「漢江の奇跡」と呼ばれる韓国経済の発展をささえてきた。
それでも、韓国は、日本にたいして、侵略の反省が足りないとつっかかってくる。
それが結果論というもので、いくら恩恵をうけても、手柄はぜんぶじぶんのもので、援助や善意については、そっちが勝手にやったことだろうという話にされる。
したがって、韓国から感謝されようと謝罪をもとめられようと、応じるべきではない。結果論では、動機や原因、理由や経緯には三文の値打ちもないからである。
現在の韓国が、日本統治35年を土台にしているのは、歴史的事実で、いうまでもないが、それをいわないのが大人の態度なのである。
1986年、中曽根康弘首相が「日韓併合には朝鮮側にも責任があった」と発言した藤尾正行文部大臣を解任したのは、大きな誤りで、大臣の罷免という結果が新たな政治情勢をつくりだした。日韓併合を肯定的に評価する政治家は責任をとらされるという前例をつくってしまったのである
1982年、宮沢喜一官房長官が「近隣諸国条項(中国・韓国などに日本の歴史観をあてはめない)という主権放棄を宣言して土下座外交≠フ下敷きをつくった。
中曽根、宮沢とも、中・韓との当座の外交をうまくやりたいという動機論にもとづくものだったが、それがどれほど大きなダメージなって、ふりかかってくるかという結果論については、まったく、配慮がなかった。
結果論で回転するのが現実で、動機を問われないのが歴史の真実である。
動機論が上の句なら、結果論が下の句で、世界は下の句から成っている。
旧日本海軍の永野修身(軍令部総長)は御前会議で天皇に「座して死ぬよりも断じて打ってでるべし。屈しても亡国、たたかっても亡国、どっちみち国が滅びるなら最後の一兵までたたかって負けるべし、日本精神さえ残れば、子孫は、再起、三起するであろうと」と奏上している。
それが上の句の動機論で、一方、海軍には「真珠湾攻撃後の世界戦略」という下の句の結果論がなかった。
海軍は、一か八かの博打のような真珠湾攻撃の後、連戦連敗で、日本を存亡の危機に追いやって、大都市空襲と原爆投下という人類最大の悲劇までまねいた。
日米戦争の開戦責任と第二次世界大戦の敗戦責任は、結果論をもたなかった旧日本海軍にあったといってよい。
ところが、戦後、海軍の人気は上々で、山本五十六は、いまなお、国民的なヒーローである。動機よければすべてよしという「上の句」論が日本人の気質で、四十七士が切腹させられただけの仇討ち劇(忠臣蔵)がいまでも大人気である。
戦後、アメリカは、対日臨戦態勢(=軍産複合体)とナチスから逃避してきたヨーロッパ資本(=ユダヤ系7財閥)によって、戦勝国連合(国連)を礎石とする超大国になったが、アメリカ以上に得をしたのが中国共産党だった。
旧日本軍が置いてきた武器を使って革命を成功させ、蒋介石を台湾へ追放して満州利権をひきつぐと、拒否権をもつ国連の常任理事国となって、いまや、アメリカに次ぐ世界ナンバー2の大国である。
世界の強国は、すべて、結果よければすべてよしという「下の句」論に立っているのである。
小泉純一郎の「自民党をぶっつぶす」が大うけにうけて、自民党は、本当にぶっつぶれてしまった。反改革派への刺客″戦で派閥が崩壊して、国会は小泉チルドレンがバッコするところとなったが、小泉には、ぶっつぶした自民党の代わりにどんな政党をつくるか、どんな政治をおこなうかというプランがなかった。
ブッシュと竹中平蔵にのせられた郵政民営化が天下の失政、愚策だったことは、だれの目にも明らかだが、政界引退後、こんどは「原発をぶっつぶす」といいだした。原発は12兆円以上の国富を節約できる上、CO2を排出しない準国産のエネルギー源である。原油価格高騰が恒常化しつつあるなか、原発を撤廃すれば、日本経済も国民生活もたちゆかない。
小泉改革の「皇室をぶっつぶす(女系天皇容認)」は、悠仁親王の誕生で沙汰やみになったが「日本資本主義をぶっつぶす」のほうは実現して、雇用や設備投資、規制や秩序によってまもられていた日本型の資本主義を、株主や投資家が富を独占するアメリカ型の資本主義(新自由主義=格差社会)へと変えてしまった。
小泉の「ぶっつぶす」も、マスコミも「政治を変えよう」も、受け皿がない上の句の論理で、破壊してなにをつくるか、政治をどのように変えるかという下の句のグランドプランがない。
日本は1945年以降の左右対決(55年体制)と60年の政治動乱(安保とテロ)以降、池田勇人の「所得倍増計画」に代表される経済中心の宏池会が、保守本流を自任してきた。
宏池会系の岸田文雄新首相が「新自由主義的政策が持てる者と持たざる者の格差と分断を生んだ」として、所得再分配を経済政策の中核にすえる考え方をしめしたのは、当然であろう。
宏池会を創設した池田勇人や岸田が政治の師と仰ぐ宮沢喜一は、大蔵省出身の官僚経済で、もともと、新自由主義経済とは反対の方向をむいている。
岸田首相+河野太郎(広報本部長)のコンビが、今後、経済におけるグランドプランをつくりあげる可能性は十分にある。
そこで、楽天グループの三木谷浩史会長から、岸田経済は社会主義的という批判をうけたが、所得再分配がイコール社会主義的ということにもなるまい。
次回は、岸田首相の経済政策を世界経済と比較しながら検討してみよう。
政治は、結果論の世界である。結果がすべてで、結果責任だけを問われる。
思うのは勝手で、なにを思っても構わないが、行動に移すと責任が生じる。
その一方、結果論では、理由や根拠、経緯について、なにも問われない。
問うたところで、仕方ないからで、現実は、すべて、結果論の世界である。
インカ・アステカを滅ぼしたスペインや黒人狩りをおこなったポルトガルやイギリスなどの奴隷商人、先住民族のインディアンやアボロジニを全滅させた欧米やオーストラリアらが、これまで謝罪してこなかったのは、歴史の結果を否定できないからである。
いかなる経緯があろうとも、あるのは、結果だけで、その結果の上に人類が生存している。現在こそが、結果論で、だれもがこの結果論をうけいれざるをえないのである。
西洋の蛮行に比較して、大韓帝国の皇帝(純宗)と内閣(李完用)、議会からの依頼にもとづいておこなわれた日韓併合条約(「韓国併合ニ関スル条約」)はりっぱなもので、文句をいわれる筋合いはどこにもない。巨額の外債に苦しむ世界最貧国の朝鮮が日本にすがったのは、それまで頼ってきた清国やロシアが戦争で日本に負けたからで、日韓併合は、韓国がもとめてやまないものだった。
韓国も台湾も、日本に占領されていた時代に、経済政策や国家運営の技術を学んで、戦後、独立して世界的な大国へ発展した。とりわけ、韓国や北朝鮮の経済インフラの中心となったのは、日本が半島に残してきた世界一の水豊ダムなど産業・工業施設だった。さらに日本は、戦後、韓国にたいして3億ドルの無償提供や25年もわたる円借款をおこなって「漢江の奇跡」と呼ばれる韓国経済の発展をささえてきた。
それでも、韓国は、日本にたいして、侵略の反省が足りないとつっかかってくる。
それが結果論というもので、いくら恩恵をうけても、手柄はぜんぶじぶんのもので、援助や善意については、そっちが勝手にやったことだろうという話にされる。
したがって、韓国から感謝されようと謝罪をもとめられようと、応じるべきではない。結果論では、動機や原因、理由や経緯には三文の値打ちもないからである。
現在の韓国が、日本統治35年を土台にしているのは、歴史的事実で、いうまでもないが、それをいわないのが大人の態度なのである。
1986年、中曽根康弘首相が「日韓併合には朝鮮側にも責任があった」と発言した藤尾正行文部大臣を解任したのは、大きな誤りで、大臣の罷免という結果が新たな政治情勢をつくりだした。日韓併合を肯定的に評価する政治家は責任をとらされるという前例をつくってしまったのである
1982年、宮沢喜一官房長官が「近隣諸国条項(中国・韓国などに日本の歴史観をあてはめない)という主権放棄を宣言して土下座外交≠フ下敷きをつくった。
中曽根、宮沢とも、中・韓との当座の外交をうまくやりたいという動機論にもとづくものだったが、それがどれほど大きなダメージなって、ふりかかってくるかという結果論については、まったく、配慮がなかった。
結果論で回転するのが現実で、動機を問われないのが歴史の真実である。
動機論が上の句なら、結果論が下の句で、世界は下の句から成っている。
旧日本海軍の永野修身(軍令部総長)は御前会議で天皇に「座して死ぬよりも断じて打ってでるべし。屈しても亡国、たたかっても亡国、どっちみち国が滅びるなら最後の一兵までたたかって負けるべし、日本精神さえ残れば、子孫は、再起、三起するであろうと」と奏上している。
それが上の句の動機論で、一方、海軍には「真珠湾攻撃後の世界戦略」という下の句の結果論がなかった。
海軍は、一か八かの博打のような真珠湾攻撃の後、連戦連敗で、日本を存亡の危機に追いやって、大都市空襲と原爆投下という人類最大の悲劇までまねいた。
日米戦争の開戦責任と第二次世界大戦の敗戦責任は、結果論をもたなかった旧日本海軍にあったといってよい。
ところが、戦後、海軍の人気は上々で、山本五十六は、いまなお、国民的なヒーローである。動機よければすべてよしという「上の句」論が日本人の気質で、四十七士が切腹させられただけの仇討ち劇(忠臣蔵)がいまでも大人気である。
戦後、アメリカは、対日臨戦態勢(=軍産複合体)とナチスから逃避してきたヨーロッパ資本(=ユダヤ系7財閥)によって、戦勝国連合(国連)を礎石とする超大国になったが、アメリカ以上に得をしたのが中国共産党だった。
旧日本軍が置いてきた武器を使って革命を成功させ、蒋介石を台湾へ追放して満州利権をひきつぐと、拒否権をもつ国連の常任理事国となって、いまや、アメリカに次ぐ世界ナンバー2の大国である。
世界の強国は、すべて、結果よければすべてよしという「下の句」論に立っているのである。
小泉純一郎の「自民党をぶっつぶす」が大うけにうけて、自民党は、本当にぶっつぶれてしまった。反改革派への刺客″戦で派閥が崩壊して、国会は小泉チルドレンがバッコするところとなったが、小泉には、ぶっつぶした自民党の代わりにどんな政党をつくるか、どんな政治をおこなうかというプランがなかった。
ブッシュと竹中平蔵にのせられた郵政民営化が天下の失政、愚策だったことは、だれの目にも明らかだが、政界引退後、こんどは「原発をぶっつぶす」といいだした。原発は12兆円以上の国富を節約できる上、CO2を排出しない準国産のエネルギー源である。原油価格高騰が恒常化しつつあるなか、原発を撤廃すれば、日本経済も国民生活もたちゆかない。
小泉改革の「皇室をぶっつぶす(女系天皇容認)」は、悠仁親王の誕生で沙汰やみになったが「日本資本主義をぶっつぶす」のほうは実現して、雇用や設備投資、規制や秩序によってまもられていた日本型の資本主義を、株主や投資家が富を独占するアメリカ型の資本主義(新自由主義=格差社会)へと変えてしまった。
小泉の「ぶっつぶす」も、マスコミも「政治を変えよう」も、受け皿がない上の句の論理で、破壊してなにをつくるか、政治をどのように変えるかという下の句のグランドプランがない。
日本は1945年以降の左右対決(55年体制)と60年の政治動乱(安保とテロ)以降、池田勇人の「所得倍増計画」に代表される経済中心の宏池会が、保守本流を自任してきた。
宏池会系の岸田文雄新首相が「新自由主義的政策が持てる者と持たざる者の格差と分断を生んだ」として、所得再分配を経済政策の中核にすえる考え方をしめしたのは、当然であろう。
宏池会を創設した池田勇人や岸田が政治の師と仰ぐ宮沢喜一は、大蔵省出身の官僚経済で、もともと、新自由主義経済とは反対の方向をむいている。
岸田首相+河野太郎(広報本部長)のコンビが、今後、経済におけるグランドプランをつくりあげる可能性は十分にある。
そこで、楽天グループの三木谷浩史会長から、岸田経済は社会主義的という批判をうけたが、所得再分配がイコール社会主義的ということにもなるまい。
次回は、岸田首相の経済政策を世界経済と比較しながら検討してみよう。