2022年01月30日

 天皇と日本の民主主義3

 ●民主主義は普遍的な価値か?
 読売新聞の社説(ワールドビュー「中国式民主への不信」で吉田健一(中国総局長)という人物がこう語っている。
「日本や米欧に根付いた普遍的価値としての民主主義と中国がいう『民主』があまりにかけ離れている。日本で民主主義といえば<人民が権力を所有し行使するという政治原理。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をもしめす>(大辞林)」
 あまりのでたらめな物言いに苦笑を禁じ得ない。
 1普遍的価値としての民主主義≠ネどいったいどこにあるのか
 2人民が権力を所有し行使する政治原理≠ニは共産主義の人民独裁
 3人間の自由や平等を尊重する立場≠ヘ民主主義ではなくルソー主義
 吉田はこうつづける。
「中国は『民主は多様で、中国には中国式の民主がある』という立場だ。バイデン米大統領が主催した民主主義サミットにぶつける形で公表した中国政府の白書にはこうある」
<中国の民主と専政の有機的統一を堅持する>
<専政は、社会主義制度の破壊などの犯罪行為をくじき、国家と人民利益を守るものだ。民主と専政は矛盾しない>
 そこで吉田はこう断言する。
「中国語の『専政』は日本語で独裁とも訳される。『中国式民主』の根底にあるのは<人間の自由や平等への尊重>ではなく、建国の指導者・毛沢東も語った人びとを「敵」と「味方」に峻別する発想なのだ」
 そこで、吉田は、批判の矛先をとつぜん中国共産党へむける。
「そこから、共産党政権に異議を申し立てる民主活動家や人権派弁護士らへの弾圧を正当化する論理が導かれる。以前、権力の象徴ともいえる検事から人権派弁護士に転じた理由を尋ねた際、その人が悲しげに絞り出したことばを思う。『党の論理を突き詰めれば、人間への不信感に行き着く』」
 論旨がいま一つわからないが、検事から人権派弁護士に転じた女性というのは、皇室典範の男系男子相続を「まったく論理必然ではない」と批判した山尾志桜里のことであろうが、山尾のいう党の論理とは中国共産党のことか、それとも離党した立憲民主党や国民民主党のことか。
 いずれにしても、吉田は、この論文の最後をこう締めくくった。
「中国が『中国式民主』の独自性をどんなに誇ろうとも、民主の名に下に独裁を容認する国を『民主』と呼ぶわけにはいかない」

 ●民主主義ではなく「ルソー主義」
 吉田は、この世に、民主主義というすばらしい思想があると思っているようだが、マルクス青年が、共産主義をユートピアと夢見るようなもので、愚かな幻想というほかない。
 民主主義が誕生したのは、紀元前のギリシャで、これを批判したソクラテスが死罪になったのち弟子のプラトンが衆愚政治≠ニ批判して、民主主義は息が絶えた。
 民主主義を復活させたのが2000年後のルソーで「人間はうまれながらにして自由で平等」「私有財産が人間を不幸にした」「政治は国民が直接おこなうべき」「統治者は国民の一般意志の代表者」などのデマゴギーをふりまいて『自由論』のバーリンから「一般意志にもとづく全体主義を容認した人類の思想のなかでもっとも邪悪でおそろしい敵の一つ」と評された。
 日本人が民主主義と呼んでいるのは、このルソー主義のことである。
 もともと、民主主義(デモクラシー)は、大衆(デーモス)と権力(クラトス)の2つ単語を組み合わせた造語で、意味は、人民による権力である。
 人民は大勢いる。したがって、人民でなにかきめるには、多数決に拠らねばならない。
 多数決による多数派が一般意思である。これを代表者があずかって、政治権力がうまれる。ソクラテスは、これを戒めた。歴史の知恵や習慣、経験や知恵をおもんじるべきで、多数決による政治(デモクラシー)は愚者の政治になると。
 そして、大衆の怒りを買って、自身が戒めた多数決によって死刑になった。
 その愚かな大衆の代弁を、そっくり買って出たのが、ルソーだった。
 ルソー主義というのは、ソクラテスを死に追いやった、愚者の理屈だったのである。
 もっとも、デモクラシーをりっぱな思想のように思っているのは日本だけである。ヨーロッパでおもんじられているのは、制度としての民主主義ではなく思想としての自由主義である。
 バーリンの自由主義には、消極的自由(束縛からの自由)」と積極的自由は「自己実現の自由の二種類があって、欧米人は、2つの自由のはざまで、真の自由人たらんとして努力する。
 左翼陣営が得意になって使っているリベラリズムは「ニューディール・リベラリズム」という経済用語からの流用で、ルーズベルト流のアメリカ社会民主主義やケインズ主義、米民主党のテーゼをさす。むろん、自由主義とは関係がない。
 ちなみに欧米諸国は、自由陣営で、民主陣営とはいわない。

 ●デモクラシーの訳語は民本主義だった
 デモクラシーの訳語である民主主義は、もともと、民本主義だった。
 民主ではなかったのは、日本には主≠ェいなかったからである。
 明治憲法にも「元首ニシテ統治権ヲ総攬」とあるだけで、条文に天皇主権の文字も、天皇主権をさししめす具体的な記述もない。
 美濃部達吉の天皇機関説も、主権は、国家にあって、天皇は、議会の拘束をうける国家の「最高機関」とされている。天皇主権は、軍部がふり回した宣伝文句だったのである。
 天皇ですら議会の拘束をうける機関でしかないのに、民が主≠ノなるわけはなかった。
 そこで、デモクラシーの訳語は、国民本位という意味の民本主義となった。
 民本主義がめざしたのは、普通選挙法と政党政治の2点で、それは、大正デモクラシーで、一応、達成できた。1918年(大正7年)の原敬内閣の成立と1925年の普通選挙法制定である。
 それでは、いつ、民本主義が民主主義になったのか。
 これまで、だれも指摘してこなかったことだが、民主主義の命名者は、大正デモクラシーに共産主義をもちこんだ麻生久や棚橋小虎ら東京帝国大学出身のエリート・マルキストである。
 麻生や棚橋は、日本労働運動の源流である友愛会にもぐりこんで、友愛会を創立した鈴木文治や叩き上げの松岡駒吉や平澤計七(亀戸事件の被害者)らを追放して、大正デモクラシーおよび労働運動を「此の世を労働者階級の支配に帰せしめんとする」と宣して、左翼運動の牙城にしてしまったのである。※亀戸事件/亀戸署内で労働争議関係者10名が官憲に虐殺される
 これに、堺利彦や山川均らの社会主義者もくわわって、民本主義は、かぎりなくマルクス主義に接近して、このとき、呼称が、民本主義から民主主義へとかわった。
 
 ●意味不明な「国民主権=一般意志」
 マルキストが、民主ということばを使ったのは、ルソーが社会契約論のなかで使っている人民主権が、事実上、民主主義と理解されたからだった。
 マルクスの『資本論』は、ルソー主義とタルムード(ユダヤ聖典)の合体である。というのも、国民の一般意志を独裁者に委ねることによって、直接民主主義が完成するというルソー主義が、そっくり、レーニン主義(プロレタリア独裁)やスターリニズムにおきかえられたからである。
 民主主義は、とんでもない代物で、だから、西側諸国は、多数決の原理と普通選挙法だけをとって、民主主義から距離を保っているのである。
 バイデン大統領がいう民主主義は、国民が中心の政治という意味で、事実上の自由主義である。
 民主主義は、思想ではなく、制度なので、中国もロシアも、北朝鮮も平気で、民主主義を謳う。
 民主主義が、手がつけられないほど厄介なものなったのは、ルソーの「国民主権=一般意志」が意味不明だからである。
 国民主権は、ひとり一人のものなのか、それとも国民全体のものなのか。
 国民全体のものなら、日本人の国民主権は、一億分の一でしかないのか。
 国民は、ひとり一人が別々で、多数派と少数派にも分けられる。
 それを「国民の総意に基づく(憲法/天皇の地位)」と一括りにできるのか。
 ここにも個と全体≠フ矛盾律があらわれて、解決がつかない。
 そもそも、民主主義は、革命の用語なので、自由陣営や日本のような伝統国家には適応しないのである。
 読売新聞の吉田は、民主の名に下に独裁を容認する中国を民主と呼ぶわけにはいかないというが、ルソー主義を忠実に実現しているのは、むしろ、中国である。
 民主主義=ルソー主義は、独裁と全体主義を肯定する論理だからである。
 そんなことは、民主主義的なワイマール憲法からヒトラーがうまれたことを思えばすぐにわかるはずである。
 中国は、民の上に国家が、国家の上に党があって、党と民は断絶している。
 中国には、ルソー主義だけがあって、民主主義も自由主義もないのである。
 そこを衝かなければ「中国式民主」への不信などといってもなんの説得力もない。
 次回も、ルソー主義と民主主義の迷妄についてのべよう。
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2022年01月24日

 天皇と日本の民主主義2

 ●天皇政治と「君臣一体」
 古墳時代に、全国の豪族が、大きな乱をおこすことなく、前方後円墳という天皇と同じ墳墓を残したのは、ミコトの末裔だったからだった。
 天照大神の勅命をうけて、ニニギノミコトが高天原から日向国の高千穂峰へ天降った天孫降臨では、多くのミコトが随伴して、地上に降り立った。
 ミコトの末裔だった豪族らは、ニニギノミコトの子孫=天皇の臣下たるべきことを、神話によって、運命づけられていたのである。
 それが「君臣一体」の要諦で『日本書紀』に記されている孝徳天皇の「改新の詔(大化の改新)」にも「独り制むべからず」「臣の翼(たすけ)を得て倶に治めて神(天照大神ら皇祖神)の護(まもり)を得られるべし」とある。
 大和朝廷は、豪族らの連合政権だが、その成立原理が「君臣一体」にあったことはほとんど知られていない。
 当時、大和(奈良)から出雲、九州にかけて、有力豪族が跋扈していた。
 それらの諸国諸侯が争って、最後の覇者が帝王となるのが、世界史の常識である。
 ところが、古代日本では「大化の改新」以降、天智天皇の子(大友皇子)と弟(大海人皇子/後の天武天皇)が争った「壬申の乱」以外、大きないくさはおきていない。
 そして、壬申の乱以後、日本は、ふたたび、天皇中心の政治(律令体制)をめざすのである。
 ●大和朝廷と前方後円墳
 大和朝廷は、東は群馬の毛野氏から、西は九州の安曇氏にいたるまで広大な範囲にわたるが、中心は、伊勢から出雲にむかう畿内と山陽、山陰で、黄道ににそって、巨大な前方後円墳が数多く残されている。
 黄道というのは、春分の日と秋分の日、伊勢神宮の真東からのぼった太陽が出雲大社のある真西に没する「太陽の道」のことで、この日、皇居皇霊殿では皇霊祭、伊勢神宮では遙拝式がおこなわれる。
 五畿(山城・大和・河内・和泉・摂津)には中臣や物部、蘇我や大伴、葛城や巨勢、平郡氏らが勢力をもっていたが、山陽の播磨や美作、備前、備中、備後、山陰の丹波や丹後、但馬、因幡、伯耆にも、吉備氏や筑紫氏、出雲氏らのような有力豪族が一門を構え、大和連合国家の一員をなしていた。
 畿内から山陽、山陰の黄道沿いに大型の前方後円墳が多いのは、高天原から降りてきて伊勢神宮に祀られている天つ神、天神と、天孫降臨以前、葦原中つ国を治めていた国つ神、地神や地祇、産土を祀った出雲大社がむすばれたからである。この地の豪族や有力者は、高天原と葦原中つ国をつなぐ国譲り神話のモニュメントとして、前方後円墳を建造したのである。
 三世紀におよぶ古墳時代に5000基以上の前方後円墳の造営、神話にもとづく国家建設が、祭祀国家のあかしでなくてなんだろう。
 ●神社と鎮守の思想
 前方後円墳は、前の方形(四角形)が葦原中つ国で、後方の円形が高天原である。葦原中つ国と高天原の一体化は、祭祀の根本原理で、それが民のあいだに広がったのが神社である。
 神社(かむやしろ)は、神道にもとづく祭祀施設で、産土神や天神地祇から皇室や氏族の祖神までを祀る。
 文科省の資料では、全国に約8万5千、登録されていない小神社をふくめると日本には10万社をこえる神社があるという。
 神社の起源は、神々が宿る磐座(いわくら/岩石や古木)や祭事をおこなう神籬(ひもろぎ)などの祭壇で、本殿を構えるようになったのは、仏教の伝来以後で、社殿は、伽藍をマネたのである。
 神社は、地霊をしず(鎮)めて、氏神を(守)らんとする鎮守の杜である。
 それが、前方後円墳につながる鎮守の思想で、高天原と黄泉の国のあいだにある葦原中つ国においては、高天原につうじる祖神(ミコト)を祀って地神や地祇、産土を鎮めようとする。
 前方後円墳が高天原と葦原中つ国をむすぶモニュメントなら、神社は、神代と人代の境界線で、注連縄のむこうが神代、こちらが人代である。
「君臣一体」も祭祀国家も、権力ではなく権威、唯物論でなく、唯心論だったのはいうまでもない。
 ●ケンペル『日本誌』にヨーロッパが驚嘆
 天皇政治で「君臣一体」と並ぶのが「君民共治」である。
 ルソーは『社会契約論』のなかで、随意に祖国をえらべというなら、君主と人民のあいだに対立のない「君民共治」の国をえらぶ。だが、そのような国が地上に存在するはずもないので、民主主義の国をえらぶといっている。
 現代日本で、金科玉条のように語られる「民主主義」だが、18世紀の絶対主義体制を生きていたルソーにとって「君臣一体」「君民共治」は、夢のような理想で、現実的には、望むべくもなかった。
 ルソーは、日本の「君臣一体」「君民共治」をどこで知ったのであろうか。
 ドイツ人医師ケンペルが著した『日本誌』である。
 ケンペルは、江戸時代にオランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在して、資料を収集、帰国後に「日本誌」を執筆した。ロンドンで「日本誌」が出版されたのは、死後だったが、大評判となって、フランス語、オランダ語にも訳されて、ディドロの『百科全書』に転載された。
 ゲーテやカント、ヴォルテール、モンテスキューら、ヨーロッパの一流人に愛読されたので、当然、ルソーも読んでいるはずである。
『日本誌』のなかで、ケンペルは、日本の国体政体の二元論を称賛している。「日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の二人の支配者がいる」
 そして、対外政策(鎖国)や徳川綱吉の善政(天和の治)を称えてこう書いている。争いや犯罪がほとんどなく、小伝馬の牢屋はつねに無人だった、と。
 神武天皇即位の時期を紀元前660年と確定したのも、西洋歴をもちこんだケンペルの業績で、前大戦時、日本人が暗記させられた歴代天皇の名前や略伝を解明したのもケンペルだった。
 ●否定された天皇政治の歴史
 ケンペルの『日本誌』を紹介したディドロの後、啓蒙時代とフランス革命の幕が切って落とされる。そして、その約100年後、ヨーロッパでジャポニスム(日本ブーム)がひろがって、知識階級のなかで、天皇の歴史、キングとのちがいも理解された。
 だが、江戸時代の文化や日本文明、日本のよいところは、すべて、明治政府によって否定されて、日本は、西洋化という文化革命の嵐に呑まれてゆく。
 明治政府に招聘された明治天皇の主治医で、岩倉具視の臨終を看取ったドイツ人医師のベルツは、政府の若い役人が「われわれに歴史はありません。われわれの歴史はこれからはじまるのです」と口を揃えたことに深く失望した(『ベルツの日記』)という。
 薩長の明治政府は、一神教的な神権国家や帝国主義に走った末に、鹿鳴館や貴族制度など西洋の物マネにうつつを抜かす。そして、岩倉具視・伊藤博文は王権力がつよいプロイセン王国憲法をモデルに、天皇を元首に戴く大日本帝国憲法を制定して、日本の西洋化に拍車をかける。
 次回以降、西洋化された日本と世界中でゆれうごいている民主主義についてのべよう。
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2022年01月17日

 天皇と日本の民主主義1

 ●絶対主義≠フ西洋と相対主義≠フ日本
 西洋では、何事も「YES」と「NO」の一元論で割り切ろうとする。
 それが民主主義の原型で、戦場の剣に代わりに、議会による多数決で決着をつけようというのである。
 一方、日本では、衝突を避けて、話し合いによって、折り合いをもとめる。
 話し合いというのは、文化で、そこには、祭祀やしきたり、習慣などの伝統的方法のほかに、委任や受託などの政治的な手法もふくまれる。
 西洋の黒白を争う一元論的な「闘争の論理」にたいして、日本は、多元論的にしてあいまいな「談合の精神」なのである。
 これは、文明や文化以前に、宗教のちがいでもある。西洋の思想は、原点にキリスト教やユダヤ教、イスラム教などの一神教があって、一神教においては正しいものが、一つしかない。
 そこからうまれたのが絶対主義だった。絶対主義には、絶対君主制のほかにローマ教皇庁による宗教支配もあって、七度にわたった十字軍の遠征から宗教戦争、異端審問や酸鼻をきわめる魔女狩りまでがふくまれる。
 絶対王政とキリスト教の宗教支配を倒したのが、啓蒙思想と市民革命、唯物論の共産主義革命だったが、これも、前体制の全否定、ギロチンと粛清という絶対主義で、結局、同じ穴のムジナだった。
 反革命のファシズムや独裁にいたっては、絶対主義の暗黒政治で、とりわけヒトラーのユダヤ人ジェノサイト(アウシュビッツ)やトルーマンの原爆投下は、敵を悪魔とみなす一神教の狂信性以外のないものでもなかった。
 敵は悪魔なので、いくら殺しても悪ではないどころか、神から祝福されるというのがキリスト教の狂信性で、自然や生きものも、人間の糧として神が与えたものなので、生殺与奪が思いのままという理屈である。
 自然そのものが神である日本と、自然が、神からあたえられた糧とする西洋では、自然観や宗教観、価値観に天と地のちがいがある。ユーラシア大陸では近代までに森林の大半が消えたが、日本の森林率が70%で、フィンランドに次いで世界第2位である。日本では、森は、糧ではなく、神々が宿る杜(鎮守のやしろ)だったからである。
 ちなみに、日本では、幕末まで、焼き畑農業と屠殺が禁止されていた。
 ●「君臣一体」と「君民共治」
 日本に絶対主義が存在しなかったことは、天皇が「君臣一体」「君民共治」の中心であって、絶対権力者ではなかったことからも明らかである。
 践祚に際して天皇は先帝から三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉)をうけつぐ。
 これが「君臣一体」のあかしだったことを多くの日本人は知らない。
 君臣というのは、天孫降臨の際、ニニギノミコトに随従した五人の臣(五部神)とその一族である。これら五人の神は、天岩戸神話に揃って登場するほか「三種の神器」の制作者にして守護神としても知られる。
「五部神」とは、中臣(藤原)氏の祖神である天児屋命、忌部氏の祖神である神天太玉命のほか、天照大神が天の岩屋戸に隠れたとき踊りを披露した天鈿女命や八咫鏡をつくった石凝姥命、八尺瓊勾玉をつくった玉祖命ら五人の神々である。
 そのほかに、天の岩屋戸に隠れた天照大神を誘い出す知恵をだした思兼神やアマテラスを岩戸からひきだした天手力男神らがいて、これらの神話のスターたちの末裔がニニギノミコトの4代末裔である神武天皇のとりまきとなって「君臣一体」という日本固有の支配体制ができあがった。
 三種の神器は、天孫降臨以来、天皇をまもってきた随従者の象徴で、践祚に際して、天皇が三種の神器を必要とするのは、天皇は、臣(おみ)らとともに天皇という地位に就いたという表明なのである。
 現在の歴史家は「三種の神器」について、おまじないかなにかのようにいうが、江戸時代まで「君臣一体」の象徴とだれもが知っていた。天皇は神輿であって、祭祀の道具である神輿を担ぐのが臣や連、あるいは武家で、それが政(まつりごと/祭り事・祀り事)だったのである。
 ところが、明治維新と昭和軍国主義において、天皇=現人神神話を捏造するために「君臣一体」を形骸化して、天皇が大昔から国家の権力者だったように教えこみ、国民に、歴代天皇の名を暗記させるなどした。
 だが、祭祀王で、軍隊をもたない天皇が独裁者であるわけはなかった。
 権力をもっていたのは、臣(おみ)や連(むらじ)、地方豪族ら兵をもつ有力者だった。
 有力な臣には、天児屋命を祖神とする中臣氏のほか、饒速日命を祖神とする物部氏、天忍日命(道臣命)を祖神とする大伴氏らがいるが、ほかに、五人の天皇(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)に仕えた武内宿禰を祖とする蘇我氏や葛城氏、紀氏や巨勢氏、平群氏のほか春日氏など多くの臣や連が中央で勢力をもった。
 地方豪族には、近江の息長氏(継体天皇の家系)、岡山の吉備氏(ヤマトタケルの母系)、摂津国の安倍氏、群馬の上毛野氏、名古屋の尾張氏、河内の多治比氏、島根の出雲氏、九州の安曇氏らがいて、これらの臣や連、豪族らによって、自然発生的に、大和連合国が形成されていった。
 日本には、もともと、神話にもとづく神的な秩序が存在していたからだった。
 ●前方後円墳と大和朝廷
 前方後円墳に、争わずにして、大和朝廷ができあがった根本原理がある。
 日本の歴史は、初代天皇の神武(紀元前660)から15代応神天皇(西暦270年)までを神話時代、16代仁徳天皇(313年)から32代崇峻天皇(582年)までを古墳時代として、33代推古天皇と聖徳太子の飛鳥時代から切り離される。
 神話と実史が渾然としていた古墳時代は前方後円墳体制≠ニも呼ばれる。
 争わずに、大和朝廷が統一されていった理由は、その前方後円墳にあった。
 前方後円墳は、前が方形(四角形)で、後ろが円形の連結構造になっている。
 前方の方形が、この世の中つ国で、後方の円形が、天空にある高天原である。
 死者が葬られているのは、円形の場所で、高天原を意味する天である。
 祭壇を築くのは、方形の場所で、人々が生を営む葦原の中つ国である。
 前方後円墳は、ミコトが中つ国から高天原に帰ってゆく、天孫降臨の神話を再現したモニュメントだったのである。
 有力者が、高天原と中つ国を組み合わせた前方後円墳を共通の墳墓としたのは、かれらが、始祖の代から、ニニギノミコトの子孫である神武天皇の臣下であることを運命づけられていたミコトの末裔だったからである。
 前方後円墳が、全国で5000基以上にのぼるのは、日本が祭祀国家だったことのあかしで、大和朝廷のモニュメントである前方後円墳は「君臣一体」のシンボルだったのである。
 大きないくさがないまま大和朝廷が統一されてゆく原理を、日本の歴史学会が解明できなかったのは、日本の歴史に、西洋史の絶対主義や唯物史観をあてはめたからである。
 絶対主義に立った西洋の価値観や史観で「君臣一体」という日本固有の文化構造を理解できるわけはない。
 古墳時代は、祭祀国家の形成期であったが、日本の歴史学者は、皇国史観としてこれを排除した。くわえて、中国(晋)の歴史書に倭国の記述がなかった(266〜413年)ことから、古墳という遺跡があるにもかかわらず「空白の4世紀」として、古墳時代の歴史解明に幕を引いてしまった。
 次回以降は「君臣一体」から「君民共治」へ筆をすすめて、世界が騙されているルソーの国民主権や民主主義についてものべよう。
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2022年01月04日

 なぜ日本は中道政治≠実現できないのか10

 ●ようやく「防衛後進国」から脱却した日本
 岸田文雄首相は、所信表明演説で、2022年末までに「国家安全保障戦略」「防衛大綱」「中期防衛力整備計画」の改定を実現させるとのべたが、このとき「敵基地攻撃能力をふくめたあらゆる選択肢を排除せず現実的に検討する」と明言した。
 2015年の「日米防衛協力ガイドライン」の改定および安全保障関連法の改定後、日本の防衛体制は、各方面で、着々と成果をあげている。
 海自空母4隻体制の構築と潜水艦に国産長距離巡航ミサイル(1000キロ射程)の搭載決定、南西諸島(奄美大島/沖縄本島/宮古島/石垣島)へ陸自ミサイル配備そして岸田首相による「敵基地攻撃能力」の保有宣言と、第二次安倍政権発足以降、日本は、憲法9条に縛られた防衛後進国からようやく普通の国に立ち返りつつある。
 背景にあるのが、アジア・太平洋における日米共同防衛構想である。
 アメリカ第七艦隊が南シナ海を、ひゅうがといせ、いずもとかがの4隻体制となった海自空母打撃群が東シナ海をまもって、アジア・太平洋防衛には日米印豪にくわえて、英仏独蘭加の海軍がくわわる。
 中国海軍が遼寧と山東のほか三隻目の空母をもったところで、米中を中心とする自由主義陣営が結束すれば、海軍力の軍事バランスは、そうかんたんには崩れない。
 海軍戦力では、航空戦力を擁する空母艦隊と並び立つのが、海中から魚雷やミサイルを発射できる潜水艦隊である。
 現在、海上自衛隊は、潜水艦22隻体制(そうりゅう型12隻/おやしお型9隻/たいげい型1隻)で日本近海をまもっている。
 日本の潜水艦が世界一といわれるのは「非大気依存推進(AIP)機関」に高性能のリチウムイオン畜電池(GSユアサ製)を使用しているからである。
 AIPシステムは、エンジン駆動で蓄えた電気で航行できるため、ほとんど音を発しない。戦闘時には、気づかれずに対象へ接近して、監視や偵察、情報収集をおこなう。隠密行動を主任務とする潜水艦にAIPシステムと高性能の電動力は欠かせない機能なのである。
 通常航行する場合は、ディーゼル機関を用いるが、警戒態勢にはいるとエンジンが切られて、AIPシステムがはたらきだす。ところが、原子力潜水艦はエンジンを切ることができないので、敵のソナーにキャッチされる。
 尖閣諸島沖の海域に進入した中国の原子力潜水艦が、海上自衛隊の潜水艦に探知されて、2日間にわたって追跡されたあげく、公海上で、中国国旗の五星紅旗を帆柱に立てて浮上するという事件がおきている(2018年)。
 日本潜水艦の探知能力は、酸素ボンベを使った潜水者の呼吸音まで認識する能力をもち、レーダーは潜水艦配備と衛星・対潜哨戒機の双方の監視をコンピューターで統合運用する。
 日本潜水艦のソナー能力は、エンジン音から潜水艦の艦名までが識別できるといわれるほどで、日本の周囲をうごきまわっている外国籍の潜水艦はすべて日本の潜水艦隊に把握されているといってよい。
 潜水艦の航行深度は500メートルが限界とされる。米原潜を除けば世界のほとんどの潜水艦が水深400メートルを航行下限とするが、日本の潜水艦はその数百メートル下を航行する。
 船体に「NS110鋼材」という水深1000mに耐えられる特殊な素材を使用しているからで、海上自衛隊の潜水艦が搭載する深海救難艇は、深度1000メートルの救助活動も可能だという。
 世界最強といわれる日本の潜水艦だが、さらに政府は、海自潜水艦に国産の長射程巡航ミサイルを搭載するという。射程は1000キロで、地上の目標を正確に攻撃できる。
 2022年以内に装備するというが、実現すれば、最強の敵基地攻撃能力である。発見されにくい潜水艦からの反撃能力を備えることによって、日本本土への攻撃を思いとどまらせる抑止力が、飛躍的に強化されることになる。

 日本は、2026年までに「極超音速ミサイル」を開発して沖縄に配備するという。日本が実戦配備すれば、アメリカ、ロシア、中国に次ぐ4番目の極超音速ミサイル保有国になる。専守防衛の縛りから、目下、射程を500キロにおさえているが、沖縄から尖閣諸島まで(420キロ)なら十分である。
 現在、マッハ5超の極超音速飛行体≠フ開発研究が急ピッチですすめられている。2017年度に採択された「極超音速飛行に向けた流体・燃焼の基盤的研究」は、小惑星探査機はやぶさを打ち上げた「JAXA」が担当しているが、岡山大学や東海大学などの研究機関も分担している。
 極超音速飛行体というのは、ロケットや高性能ミサイルのことである。
 日本は、現在、マッハ2〜3で射程距離が100〜200km程度の「迎撃ミサイル」を保有しているが、飛来してきたミサイルをたんに迎撃するだけの機能で、この射程距離では北朝鮮にも届かない。
 ロシアや中国は、すでにマッハ6以上の極超音速ミサイルを保有・配備しており、北朝鮮も極超音速ミサイルの試射に成功している。極超音速ミサイルの迎撃は、現在の技術では困難で、日米が、宇宙工学とロケット技術の粋を結集して、新たなミサイル防衛網を構築するほかない。

 政府が研究開発をすすめている新型の対艦誘導弾の射程が2000キロにもおよぶという。同誘導弾の配備が実現すれば、自衛隊が保有するミサイルでは最長の射程となる。
 これとは別に、陸上自衛隊が運用する12式地対艦誘導弾の射程も将来的に1500キロにたっする。「国産トマホーク」ともいえる長射程ミサイルの射程が1500から2000キロにまでのびると、日本からの地上発射でも中国や北朝鮮が射程に入る。
 レーダーからの被探知性を低減させるステルス能力や、複雑な動きで迎撃を防ぐAI機能を高めるほか、地上以外、艦船や航空機からも発射も可能になれば、12式地対艦誘導弾の戦争抑止力は数段と向上するはずである。

 日本は、現在、4種類(F4、F2、F15、F35)の戦闘機を運用している。このうち、F4(26機)は2020年度中に退役を迎え、F2(91機)は2035年をメドに退役する。
 F15(201機)と、F35(17機)については、F15の能力向上とF35の新規調達(147機)を軸に精鋭化を図る。
 そのなかに空母いずもに艦載される短距離離陸・垂直着陸能力をもつF35B型がふくまれるが、いずれにしろ、147機の合計で、6兆6000億円という目の玉がとびでる買い物である。
 整理される戦闘機のランナップのなかで、空位となるのが、エンジン1基のF2である。ここに、代替えに国産のステルス戦闘機があてられる。
「心神」の呼称で呼ばれた先進技術実証用の実験用航空機「X‐2」である。
 三菱重工が設計を担当、IHIがエンジン、主翼と尾翼は富士重工業、SUBARUが機体、制御機器はナブテスコ、東芝と富士通がレーダーを製造する純国産で、ステルスの心臓部、電波吸収剤は宇部興産が担当する。
 複雑に屈曲させたエンジンの吸気ダクトなどもあいまってステルス性は数十キロ先のカブトムシ程度とされる。
 搭載エンジンは実証エンジンXF5‐1である。特長は、噴射口にとりつけられた3枚の推力偏向パドルで、通常の戦闘機では制御不可能となる失速領域においても機動制御を維持し、かつ高運動性を確保することができる。
 他機と同様以上のジェット推力(10t)をもちながらやや小型で、尾翼が大きく、3枚の推力偏向パドルをそなえているので、かつてのゼロ戦のように抜群の運動性をもっている。
空の支配者≠ニいう異名をもつアメリカの第5世代機のF‐22のアクロバット飛行は有名だが、日本の「X‐2」の運動性はそれ以上である。
 日本は、開発費や生産費をふくめて、約5兆円を投じて、現在のF‐2に代えて、日本の「X‐2」を実戦配備(90機)するという。
 陸海空の万全のまもりにくわえて、ミサイルの極超音速化と敵基地攻撃能力の保有によって、日本は、ようやく、先進国と肩を並べる普通の国になれるのである。

posted by office YM at 22:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする