2022年02月21日

 天皇と日本の民主主義6

 ●民主より自由をとった西洋のデモクラシー
 日本人は、自由(リバティ)が天からでも降ってきたように思っている。
 なにしろ、憲法条文に自由という文字が33回もでてくるのである。
 自由のバーゲンセール≠セが、西洋では、ルネサンスから啓蒙時代、宗教革命、市民革命など千年におよぶ血みどろの歴史をとおしてようやく手に入れた成果なので、そんな大安売りはしない。
 日本人が、自由や平等、権利を、タダで手に入る空気のように思っているのは、日教組のルソー教育のせいで、ルソー主義は「世界人権宣言」の第一条にもとりいれられている。「すべての人間は生れながらにして自由で、尊厳と権利について平等である」
 そして「人間は、理性と良心とを授けられているので、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と続く。日本国憲法前文とほぼ同じ文章なのは、日本国憲法をつくったのも国際連合憲章をつくったのも、ともに、ニューディーラーというアメリカ左翼のだったからである。
 日本国憲法には、人権という文字が22回でてくるが、ヨーロッパで人権が定着したのは最近のことで、18世紀末のフランス革命「人権宣言」でさえ女性と奴隷が除外されている。
 ヨーロッパは、現在も身分社会で、奴隷制度が禁止されたのは、19世紀の半ばだった。宗教の自由もない。かつて、非キリスト教徒は異端裁判で死刑になったが、現在も、肩身が狭い。女性や低所得者の参政権が確立されたのは近現代になってからで、所有権や経済活動の自由にいたっては、近代民法が定着した20世紀以降である。
 日本人は、民主主義と聞くと血眼になるが、欧米人は、民主のきわめつけが共産主義と知っているので、幻想をもっていない。その逆に、近代まで、手に入らなかった自由にたいしてきわめて敏感である。
 ●自由主義の欧米、民主主義の日本と中国
 したがって、西洋人は、リバティを奪われることに我慢がならない。
 新型コロナウイルスの一日あたりの新規感染者が数十万人をこえたフランスで、2月から、週3日のテレワークの義務ばかりか、マスクの着用義務までが撤廃されて、スペインなどもこれにつづいた。
 欧米人は、コロナ感染より、マスクをしない自由を奪われるほうがイヤなのである。
 コロナ対策で、ロックダウンや封鎖を連発して、国民の人権や自由には目もくれなかった中国とは好対照である。
 米英仏独が、中国政府のウイグル族弾圧に猛烈に反発しているのも、民族の自由を侵害しているからで、欧米人にとって、もっともゆるせないのが自由の侵害なのである。
 民主主義をまもれと叫ぶ日本のマスコミや野党が、ウイグル問題にふれないのは、自由主義に関心がないからで、チベットやウイグル、香港の独立運動も1976年の天安門事件と同様、すべて、民主化運動で片づけられる。
 よほど、民主化ということばがすきなようだが、チベットやウイグル、香港で展開されたのは、自由をもとめる独立運動で、民主化運動ではなかった。
 左翼が民主≠ノ思い入れるのは、個人主義と自由主義、私有財産制を否定するルソーの民主主義が、かぎなく、共産主義に近いからである。
 とりわけ、国民主権は、独裁者への無条件の権力委託で、これを利用したのがレーニンやスターリン、ヒトラーだった。
 国民主権というから、国民に主権があると思いきや、権力者があずかる国民全員の権力のことで、それなら国民から預かった権力の総量≠ニでもいっておくべきだった。
 なにしろ、権力者が国民から権力を預かったその時点で、国民は権力者から一方的に支配されるだけの無力な存在になってしまうのである。
 ●「自由化」を「民主化」と誤訳
 民主政治(デモクラシー)の訳語は、もともと、共和制だった。
 西洋でも、デモクラシーと共和制(リパブリック)はほぼ同義で、19世紀半ば頃まで、デモクラシーに、中国は「民主」、日本は「共和」という異なった漢語訳語を当てていた。
 それが民主主義になったのは、中国から『万国公法』という書物をつうじて民主ということばがはいってきたからで、それに和製漢語の主義という単語をつないで民主主義という四字熟語がうまれた。
 漢字は、もともと、中国のものだが、明治以降、逆に、文化や文明、政治や経済、思想や哲学、宗教や理性など800語以上もの日本の漢字(和製漢語)が中国にでていった。
 多くが西洋の近代概念で、英語でなくても、科学的・抽象的な思考ができるのは、和製漢語のたまものという指摘もある。
 その一方、19世紀以降、中国の西洋化(「西学東漸」)からうまれた主権や特権、民主や野蛮、慣行や例外のような近代的な漢字(華製新漢語)が新たに中国から日本に入ってきた。
 民主主義ということばは、日中漢語圏の交流の産物だったのである。
 民主主義の命名者は、大正デモクラシーに共産主義をもちこんだ東大出身のエリート・マルキスト(麻生久や棚橋小虎)らで、かれらのいう民主が、共和や共産主義にかぎりなく近かったのはいうまでもない。
 民主主義の前身である吉野作造の民本主義は、天皇主権の目的を人民の利福においた一種の君民共治≠ナ、政治上の目的を普通選挙法においたことからも、現在の立憲君主制の土台だったといえよう。
 いうまでもないが、君民共治の民本主義は、共産主義と相容れない。
 欧米の民主主義も、民主(デモクラシー)ではなく、専制政治や独裁からの解放という意味合いの自由(リバティ)だった。
 リバティは、個人主義にして自由主義で、唯心論(ヒト)である。
 一方、デモクラシーは、政治体制なので、唯物論(モノ)である。
 民主化というのは、政治体制の支配者が権力者から民へ移ることをいう。
 だが、この民は、一般意志(=全体)で、特殊意志(=個人)ではない。
 全体は「みんなと一緒」というときの皆のことで、個人が消えている。
 これが『自由論』のバーリンから「人類の思想のなかでもっとも邪悪でおそろしい敵」と非難されたルソーの一般意志である。
「国民主権だからオレにも主権がある」というのは大まちがいで、民主は、個人が抹消されたのちにあらわれるものなのである。
 ●ルソー教に染まった日本の法曹界
 ルソー主義に拠って立っているのが日本の法曹界である。
 国家が一般意志の名目のもとで国民に服従を義務づけたことによって、日本は近代的な「法の支配」にもとづく民主主義的な社会をつくることができたなどと主張する。そして、国民が主権をもち、政府は、国民の一般意志にもとづいて政治をおこなっているので、国民主権の原型をつくったルソー主義は正しいなどという。
 日本人が、個別性や人格、個性をもたない、人権という同一性だけをもった群れ≠ニいうのである。
 日本の法曹界がバカなのは、一般意志や国民主権の国民が、個人か全体かという問題の核心にふれないからである。
 個人のものなら、日本には、主権が一億以上あることになって、収拾がつかなくなるであろうし、全体のものなら、個人の人権は一億分の一ということになるが、それはどんなものなのか。
 日本の法曹界は「八月革命説」の宮沢(宮澤俊義)憲法論という土台に立っている。
 宮沢憲法は、法が個人主義・自由主義ではなく、民主主義の下にあるとするもので、全体主義である。
 天皇は、歴史的・文化的・伝統的存在ではなく、憲法上の存在であるという憲法天皇説も全体(体制)主義派である。
 法は、革命という体制の変更によって変化するというのが、法の根拠を人間におかない、宮沢憲法の骨子である。
 日本の法曹界は、八月革命派の牙城で、左翼の踏み絵といわれる司法試験をパスしてきた検事や弁護士らはこぞって民主派である。弁護士連合会が、いまや、日本共産党に並ぶ左翼集団となったのは、マルキストではなく、フランス革命で恐怖政治を敷いたロベスピエールと同様、熱烈なるルソー主義者だからである。
 次回も、マスコミや法曹界、左翼評論家らの脳ミソを蝕んでいるルソー主義の欠陥についてのべよう。
posted by office YM at 09:25| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする