●「民主主義・護憲・国連中心」が平和勢力
ロシア軍が、2月24日、ウクライナへの攻撃を開始して、くすぶっていたNATO(北大西洋条約機構)危機≠ェ現実のものとなった。
湾岸戦争やアフガン戦争、イラク戦争は、地域戦争で、世界戦争に発展する可能性はなかった。
だが、ロシアのウクライナ侵攻は、NATOの「東方拡大」をめぐる戦争とあってロシア対欧米≠フ抗争に発展しかねず、核兵器の使用をほのめかしたプーチン発言に、欧米首脳は、顔色を失った。
ところが、日本の平和勢力は、沈黙したままで、うんともすんともない。
「コロナ特措法」に反対声明をだしたマスコミ労連(日本マスコミ文化情報労組会議)や日本弁護士連合会も、ロシアのウクライナ侵攻には、われ関せずの涼しい顔で、コメント一つだしていない。
理由は、日本の平和勢力は、民主一辺倒だからで、個人や自由にはいたって鈍感なのである。民主主義をまもれと叫ぶが、個人の自由をまもれといわないのが、日本の平和主義なのである。
平和勢力というのは「民主主義派」「護憲派」「国連中心派」の3派である。
命名者はマスコミで、安保法制(2015年)の際には、安倍晋三元首相を「戦争が大好きな安倍首相」となじり、安保法制を戦争法≠ニ呼んで国民を煽った。マスコミみずから、平和勢力を自認しているからで、民主主義の応援団なのである。
マスコミやタレント文化人のいう民主主義は、多数決や普通選挙法のことではなく、権力の対極にある一介の庶民、という意味と思われる。
だが、民主の民は、一人の民ではなく民全体である。国民主権も、国民すべてにあたえられた一個の主権で、権力者が国民総体の権利をあずかろうという。
民主主義も国民主権も、国民のひとり一人が主権をもっているという意味ではなかったのである。
民主主義が全体主義とイコールだったのなら、民主主義のリーダーシップを握るのは、当然、日本共産党である。立憲民主党が共産党にすりよっていった理由もそこにあって、民主主義=国民主権をあずかって、政権を奪取するのが六全協(1955年)以降の共産党の最大のテーゼなのである。
ちなみに、自由民主党は、自由(個人)+民主(全体)で、個人が消えるとたちまち大政翼賛会の全体主義に陥る。
●日本の平和主義と憲法革命論
民主主義は、大衆(デーモス)権力(クラトス)で、政治体制のことである。
このなかに共和制から共産主義、独裁、ファシズムまでがふくまれる。
制度である民主主義は、もともと、唯物論の全体主義だったのである。
一方、思想や価値観である個人主義や自由主義は、唯心論である。
全体主義が個人の自由をみとめないのは、個人の生活や思想は、国家全体の利害と一致するよう統制されなければならないとするからである。
アメリカに対抗して、打ち上げた中国式民主主義≠ェそれだった。
個人主義と自由主義を欠いた中国の民主主義は、かつてにスターリン独裁やヒトラーのファシズム、天皇軍国主義、北一輝の国家社会主義とかわるところがないが、それが、ルソーの「一般化理論」である。
ひとり一人は、生きている人間でも、一般化すれば、国民全体という一つのモノとなる。
個人が消えれば、個性も人格も、個人の自由も消えてなくなる。『自由論』のバーリンが「人類の思想のなかでもっとも邪悪でおそろしい敵」と評したのがルソーのこの一般意志≠セった。
このことから、民主主義が、かぎりなくファシズムや共産主義に近いことがわかる。
したがって、国家の品格は、民主と非民主ではなく、個人主義や自由主義を採っているか否かで判断されなければならない。
「天皇と日本の民主主義」というテーマには、これに、革命主義と伝統主義がくわわるが、このテーマは次回以降にゆずる。
欧米の民主主義は、個人主義と自由主義の上に立っているが、中国やロシアの民主主義は、国民主権をあずかった国家という全体主義上に立っている。
日・米・欧と、中・ロの民主主義は、制度や形態がちがうというより文化や価値観が異なっていたのである。
そして、日本の民主主義は、憲法をまもっていれば、しぜんに議会内革命が成立するという憲法革命論≠ナある。六全協体制の日本共産党が日本の民主主義をリードしているゆえんで、これに、民主主義派と護憲派、国連中心主義がからみついて、日本的平和主義ができあがっている。
●敵対関係にある民主主義と自由主義
民主主義といっても、全体主義的な中国やロシアの民主主義と、個人主義と自由主義に拠って立つ欧米の民主主義は、別物である。
日本では、制度としての民主主義が優先される一方、思想としての自由主義や個人主義がないがしろにされる。
民主主義と個人主義・自由主義は、多数決をみてもわかるように、敵対関係にある。
多数派支配は、少数派という個人を犠牲にするからだが、談合や調整、ソンタクが非民主的ということになると、多数決しか残らない。
それでは、次のテーに移って、民主主義派と護憲派は、折り合うのか。
民主主義の国家は、国家が、国民主権を丸ごとあずかった強権国家である。
一方、護憲派は「武器を捨てれば平和になる」という楽観主義である。
そんな夢のような平和主義が、全体主義国家の中国やロシアでつうじるはずはない。下手をすれば、国家反逆罪で死刑になる。
それでは、次に、護憲派と国連中心主義派は整合するだろうか。
軍備や交戦権を否定する憲法9条は、個別的・集団的自衛をみとめる国際連合憲章(第51条)とかみあわない。
それどころか、今回のロシアのウクライナ侵攻にたいする国連の非難決議にロシアが拒否権を行使、中国が棄権したように、武力侵略をとめられないばかりか、非難決議さえとおらない国連で、9条の平和主義(武装放棄)を唱えるのは、たたかう前から白旗を掲げるようなものである。
最後のテーマは、国連中心主義派と民主主義派は両立するか否かである。
国連は、第二次大戦の戦勝国連合で、戦勝国のアメリカとイギリス、フランスとロシア、中国の五大国が常任理事国をつとめ、拒否権をもつている。
国連常任理事国5国の共通点は、革命国家であることと、民主主義を建国の理念としていることである。
だが、日本は、革命国家ではなく、伝統国家である。
民主主義は、最大の価値ではなく、方法論の一つにすぎない。
日本は、国体=権威、政体=権力の二元論の国で、絶対主義ではなかった。
絶対主義が、権威(天皇)と権力(幕府)に二分されていたからだった。
そして、天皇と幕府、国民の三位一体≠ェ「君臣一体」や「君民共治」というかたちで機能していた。
武士階級は儒教と封建主義でがちがちだったが、一般国民は、合理的精神をもって、江戸300年において、世界一の先進国家をつくりあげた。
次回以降、西洋文明と日本文化を比較しながら、日本の民主主義のあるべきすがたを追ってゆこう。