2022年08月21日

「うたのこころ」と日本人@

 ●西洋のイデオロギーと日本の「うたのこころ」
 中江兆民は、ルソーの「社会契約論」を翻訳して、日本のルソーと呼ばれた。
 その兆民が、日本には、ルソーやカントのような哲学がないといって嘆いた。
 ところが、一方、西洋には、哲学はあっても、万葉集や古今和歌集のような歌集が存在しない。
 兆民は、日本人が浅薄なのは、哲学をもたないからだといったが、同じ論法をもちいて、西洋人が和の心や人情などの文化を解さないのは、うたのこころがないからともいえるのである。
 西洋の哲学と日本の「うたのこころ」は、精神文化において、東西の双璧をなしているのである。
 日本人は、西洋人のように、自我や権利、自由をふりまわさない。
 個人主義よりも、万葉のこころや風情、わびやさびという情緒、心の深さや多様性を大事にするのである。
 西洋と日本のギャップは、宗教観のちがいでもあるだろう。
 キリスト教は、絶対神との信仰契約で、個人主義的である。
 西洋が、一元論なのは、キリスト教やユダヤ教、イスラム教が、ヤハウェの一神教だからで、一神教から一元論がうまれるのは、自然のなりゆきである。
 一元論は、神と悪魔が敵対関係にあるように、善と悪、正と邪、良と否が分かって、互いにはげしく否定しあい、ときには、殺し合う。
 モーゼの十戒(旧約聖書)やキリスト教(新約聖書)がつたえるのがロゴス主義である。日本は言霊だが、西洋はロゴス主義で、ヤハウェとともにあったロゴス(ことば)は、世界を世界たらしめている唯一の原理で、神的存在でもある。
 ロゴス主義の西洋のどこからも、うたのこころはでてこない。
 ことばは、神のものだからで、神のことばを借りてできたのがイデオロギーである。
 一方、日本の信仰は、八百万の神々や神話、自然崇拝や祖神などの自然観をとおしてあらわれたもので、ことばは、神々のものではなく、みこと=人々のものだった。
 それがうた(和歌)で、自然や神々にたいするすなおな心根がうたわれる。

 ●天皇と民がうたでむすばれた二十一の「勅撰歌集」
 西洋のロゴスは、ぎすぎすした唯物論だが、日本のうた(和歌)は、ヒトの心をとおしてあらわれるうるおいのある唯心論である。
 自然を神からあたえられた材とする唯物論の西洋と、自然を神とする日本の唯心論は、けっして、折り合えるものではなく、それが、極端なかたちとしてあらわれたのが、皇国史観と共産主義の対決であったろう。
 明治維新は、天皇を元首に据えるという過ちを犯したが、天皇中心の歴史は、神話をひきついだ国史として、どの主権国家も採用している歴史観である。
 これが国体と呼ばれているのは、そこに、独自の自然観や宗教観、価値観や国家観が反映されているからである。
 国体の象徴が天皇で、天皇とは、歴史や文化、民族性そのものなのである。
 明治維新の過ちは、天皇を元首にして、天皇の権威を政治の道具にもちいたところにあって、天皇の個人崇拝を最大限に利用したのがあの愚かな昭和軍国主義だった。
 一元論の西洋とちがって、多元論の日本では、日本人のアイデンティティであるうた(和歌)を天皇が勅撰するという形で、国家の統一がはかられた。
 これは、世界史的に見ても、特筆されるべき稀有な事実である。
 神話の神々や天神地祇、自然神を祀る祭祀王である天皇は、うた(和歌)の主宰者でもあって、勅撰和歌集は「古今和歌集(905年)」から「新続古今和歌集(1439年)」まで21集(「二十一代集」)におよんだ。
 西洋がロゴス主義をもって、日本は「うたのこころ」をもって、国家という共同体を樹立したわけだが、江戸時代初期(1650年)の江戸(50万人)はロンドン(41万人)やパリ(45万人)をしのぐ大都市で、フロイスら宣教師たちは江戸の町の洗練性を絶賛している。
 ケンペルの『日本誌』が、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューら、ヨーロッパの一流人に愛読されて、19世紀のジャポニスムにつながっていったのは、日本の文化がそれだけすぐれていたからだった。
 一方、ドイツ人医師(明治天皇の主治医)の『ベルツ日記』によると薩長の出身者に占められた明治政府の役人らは「われわれに歴史はありません。われわれの歴史はこれからはじまるのです」とのべて、ベルツを嘆かせている。
 日本の欧米コンプレックスは、薩長の狭量からうまれたもので、西洋に追いつけ追い越せという風潮が、西洋のイデオロギーを尊重して、日本の「うたのこころ」を軽んじる風潮をうみだしたともいえる。

 ●戦後の最大右翼にして歌人の三浦義一との出会い
 わたしが「うたのこころ」にふれたのは偶然で、昭和39年以降、わたしは縁あって、右翼の大物で歌人だった三浦義一の杖もちのような役割をひきうけていた。
 昭和40年、わたしは、西山幸輝(日本政治文化研究所)に依頼されて日本新聞社から版権を譲り受けた「日本及日本人」の復刊、再刊にあたっていた。
 日本政治文化研究所は、近衛文麿が創設した昭和研究会を戦後、三浦義一が再建したもので、三浦の高弟であった関山義人の紹介から西山幸輝が理事長に就任していた。
「日本及日本人」は、明治40年、三宅雪嶺らを中心に発刊された国粋主義を唱える評論誌の復刊版で、林房雄(作家)や保田與重郎(文芸評論家)、御手洗辰雄(政治評論家)のほか村上兵衛(作家)、黛敏郎(音楽家)、鵜沢義行(日大教授)、山岩男(京大教授)、多田真鋤(慶大教授)らが執筆陣に名をつらねた。
 三島由紀夫にも、再三再四、執筆をお願いして、原稿を戴いた。
 当時、わたしは、三浦義一の経歴や思想、人脈などに無知で、血盟団事件の井上日召、大東塾の影山正治との間柄についてもほとんど知るところがなかった。
 ちょうどその頃、三浦義一は保田與重郎とともに滋賀県大津市「義仲寺」の再興にあたっていて、わたしもしばしば、義仲寺に同行した。
 義仲寺は、源義仲と義仲の愛妾だった巴御前巴の墓がある寺院で、松尾芭蕉も遺言によって此処に葬られた。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」
 戦後、荒廃するのを見かねた保田與重郎が三浦義一を誘って、再興したもので、お二人の墓所もここにある。
 昭和42年、境内全域が国の史跡に指定されている。
 次回から、戦後最大の右翼にして歌人だった三浦義一の足跡を、そばで見ていたじぶんの目をとおしてふり返ってみたい。
 そして、西洋のイデオロギーにたいして、日本の「うたのこころ」がなんであったかをじっくり考えてみたい。
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2022年08月08日

 民主主義とテロリズムB

 ●政治を暗黒化させてきたテロリズム
「戦争は他の手段をもってする政治の一形態」といったのはクラウゼヴィッツ(『戦争論』)だった。
 事実、政治をうごかしてきたのは、話し合いや合意、多数決などの「政治の論理」ではなく、戦争や革命、クーデター、そして、テロリズムなどの「力の論理」だった。
 日本の近現代史も例外ではなかった。
「安政の大獄(1858年)」と「桜田門外の変(1860年)」によって火蓋が切って落とされた明治維新は「蛤御門の変(1864年)」や「新撰組による池田屋事件(同年)」から「坂本龍馬暗殺事件(1867年)」、「鳥羽・伏見の戦い/戊辰戦争/会津戦争(1868年)」にいたるまでテロの連鎖で、長州の会津にたいする憎悪と残虐非道な仕打ちは、歴史上、比類がなかった。
 昭和軍国主義も、原動力となったのは、軍事テロで、橋本欣五郎(陸軍)や大川周明らによるクーデター計画(「三月事件」「十月事件」/1931年)を皮切りに「5・15事件(1932年)」から「2・26事件(1936年)」へとつづいたテロリズムが昭和軍国主義の導火線となった。
 個人テロには、井上日召の「血盟団事件(1932年)」のほか、民間右翼による「神兵隊事件(1933年)」があげられるが、衝撃的だったのは、統制派リーダー、永田鉄山が皇道派に同情的だった相沢三郎に斬殺された「相沢事件(1935年)」で、これが翌年の「2・26事件」の伏線となった。
 永田は現実主義者で、中国大陸からの撤退と日本防衛(「漸減邀撃戦略」)を構想していた。だが、永田を敬っていた後釜の東条英機が、戦線維持を永田の遺志と錯覚して中国戦争に固執したばかりか、海軍の軍令部総長、永野修身の「真珠湾攻撃」になんの抵抗もできなかった。
 永田が生きていれば、蒋介石と和解のみちをひらく一方、海軍の南進作戦に徹底的に抵抗したはずで、そうなれば、日本の歴史は、大きくちがったものになっていたはずである。
 テロリズムの歴史が、日本を悪夢へひきずりこんだのである。
 
 ●「左翼暴力革命」と「右翼テロ」の対決
 テロやクーデターが政治をうごかすのは「政権は銃口からうまれる(毛沢東)」ものだからである。
 世界史上、話し合いや多数決で、新しい国家や政権がうまれたためしはない。
 イギリスやアメリカ、フランスやロシア、中国革命が、戦争や独裁、粛清をともなっていたのは、史実にあるとおりで、日本共産党も、極左軍事冒険主義を転換した「六全協」以前、火炎瓶闘争や山村工作隊、トラック部隊などの非合法テロ活動をくりひろげた。
 共産主義革命にたいする脅威は、大きなもので、羽仁五郎や都留重人、大内兵衛、向坂逸郎らマルクス学者がちやほやされて、当時、「革命がおきたら右翼反動はギロチンだ」という脅し文句がとびかった。
 総評や日教組、労働組合や学生運動が戦闘的になってくるなかで木村篤太郎法相が侠客、梅津勘兵衛に「反共抜刀隊」の結成を依頼、あるいは、60年の安保闘争時、橋本登美三郎が右翼の児玉誉士夫に協力をもとめた。
 日本の右翼が防共の最前線に立ったのは、政治が暴力革命の可能性をひめていたからで、そこからひきおこされたテロ事件が「米帝国主義は日中共同の敵」発言に反発した山口二矢による「浅沼稲次郎暗殺事件(1960年)」だった。
 この事件がとりわけ印象に深いのは、わたしはその日(10月12日)、その場所(日比谷公会堂)で、事件を一部始終、目撃していたからである。犯人の山口二矢(17歳)とは、新島ミサイル闘争(賛成派)でともに左翼と闘った関係にあった一方、浅沼氏は、わたしと同じ三宅島出身という因縁もあった。
 浅沼事件と並ぶ政治的テロとして、三島由紀夫が自衛隊に蜂起をうったえた「三島事件(1970年)」がある。
 ともに、日本の赤化(共産化)を防ぐためで、かつて、右翼は、共産主義と対決する最前線に立っていたのである。

 ●ホッブズの『社会契約説』とルソーの『社会契約論』
 自然状態において、人間は、つねに、飢えや自然的災難、外敵の襲撃などの危機にさらされる。
 したがって、生きながらえるためには、幸運のほかに、十分な生活資材や装備、政治的条件があたえられていなければならない。
 それが国家で、ホッブズが必要悪としての国家の存在を主張したのは、自然状態が野蛮で、つねに、万人による万人の戦争の危険性をはらんでいるからである。
 平和をまもるのも軍事力で、武器をもってまもらなければ、略奪と殺戮などがまかりとおるこの世の地獄となるのは、戦勝国に占領された敗戦国の惨状を見るまでもない。
「戦争は政治の一形態」や「政権は銃口からうまれる」という政治の残酷さを語ったことばは、ホッブズの国家観でもあって、現在、世界は、そのリアリズムに立っている。
 ところが、ホッブズの百数十年後、ルソーがこれに異をとなえた。
 人間は、生まれながらにして自由で、平和こそが自然状態というのである。
 このルソー主義がマルクス主義と合体して唯物論(共産主義)がうまれた。
 平和な自然状態にあった社会をねじまげたのは、国家権力と資本主義であるから、これを倒して、国民主権=人民政府をつくらなければならないというのである。
 人間はうまれながらにして自由だが、いたるところで鎖(国家や資本、法)につながれている」とするルソーの『社会契約論』では、そのあとにこうつづく。
「人民はみずからの権利を共同体全体に完全に譲渡した。しかし、人民自身は主権者であって、法の根源は主権者にある」
 このインチキな文章に騙されて、人々は、じぶんに主権があると思いこんだ。
 フランス革命のロベスピエールは、ルソー主義にもとづいて、人民の主権をあずかって恐怖政治を敷いた。
 ところが、主権者たる人民の主権には、見向きもしなかった。
 法の根源たる国民主権は、すでに、独裁者に譲渡されていたからである。
 日本人のノーテンキな平和主義はルソー主義だったのである。

 ●民主≠フヨコ軸と自由≠フ縦軸が交差した自由民主主義
 人民主権は、ひとり一人の人民にあたえられていたのではなかった。
 人民全体が一つの主権で、それを独裁者があずかるという話である。
 ルソーの人民(=国民)主権は、独裁の便法であって、これを悪用したのがヒトラーとスターリンだった。
 日本の左翼が民主主義や国民主権をもちあげるのは、これをまとめて預かる人民政府を夢想しているからだが、いずれも、ヒトラーやスターリンがやったいつか来た道≠ナ、自由や個人が抜け落ちた全体全体主義である。
 必要なのは、民主のヨコ軸と自由の縦軸が交差した自由民主主義で、それが「個と全体」の矛盾を解消できる最善の体制なのである。
 ルソーのインチキは、欧米では、とっくに暴かれて、だれも相手にしない。
 ところが、日本では、啓蒙思想家としてルソーが尊敬を集めている。
 ルソーがマルクス主義の前段階的地位にあるからで、日本のマルクス主義者はルソー主義者でもあるのである。
 そこからでてきたのが、日本人はもっと主権を主張すべき(『主権者のいない国(白井聡)』)という愚論である。
 日教組のルソー教育で育った日本人は、自然状態が平和で自由なユートピアで、国家がそのユートピアを破壊しないようにまもっているのが憲法と思っている。
 うまれながらにして自由なルソー的人間とって、国家は、敵となる。
 日本人がホッブズのいう、必要悪としての国家をみとめなければ、いつまでたってもノーテンキな平和ボケに埋もれたままなのである。
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2022年08月01日

 民主主義とテロリズムA

 ●革命とテロリズムは兄弟である
 西洋史はテロリズムの歴史といってよい。
 十字軍の遠征から宗教戦争、領土・領主戦争や農民の反乱、略奪者のバッコとあげてゆけばきりがないが、いずれも、殺害と略奪が目的のテロリズムで、兵士と兵士がたたかう戦争とは別物である。
 そのなかで、際立っているのが、フランス革命期のジャコバン派の恐怖支配(1793〜94年)である。革命派が反革命派1万6000人をギロチンで断首する恐怖政治をおこない、ここから「テロリズム(恐怖政治)」ということばがうまれた。
 これに次ぐのが、ユダヤ人900人以上が殺害され、2万6000人が強制収容所に送られた「水晶の夜事件(1938年11月9日)」で、この事件からナチスのユダヤ人大虐殺(ホロコースト犠牲者600万人)がはじまった。
 近代になっても、テロリズムの猛威はやむことがなく、スターリンの大粛清では1000万人、毛沢東の文化大革命では3000万人(推定)、ポル・ポト政権(カンボジア大虐殺)は人口の4分の1にあたる約200万人が私刑によって惨殺されている。
 ヨーロッパのテロリズムの頂点にあるのが「三十年戦争(最大の宗教戦争)」で、ドイツの人口の20%をふくむ800万人以上の死者を出している。百年戦争(英仏領土戦)やバラ戦争(英王族戦争)も、テロとその報復で、際限のない殺し合いのなかから市民革命という新たなテロリズムがうまれた。
 日本人は、フランス革命によって、人類は、自由や平等、人権を手に入れたと思いこんでいるが、とんでもない思いちがいである。
 フランス革命とナポレオン戦争による死者は約500万人で、ナポレオンがやったのは、王政復古と世界史上初となる帝国主義戦争だった。
 革命のスローガンとなった自由も平等も後付けで、フランス革命の代名詞である「人権宣言」には女性と奴隷がふくまれていなかった。
 フランス革命は、自由と平等のあけぼのではなく、テロリズムが大手をふりはじめる契機となる歴史的惨事だったのである。

 ●国民主権と人民独裁は「テロルの論理」
 日本人は、西洋を、自由や平等、人権や民主主義をつくりあげた理想国家のように思っている。
 だが、アメリカ・イギリス・ロシア・フランス・中国の5国連常任理事国を筆頭に、先進国の大半が革命国家で、君主制を捨て、多くが大統領制をとっている。
 革命は、テロリズムで、その手段に使われる民主主義や国民主権も、同類である。
 歴史や伝統、多様な文化や習俗をもった社会を、一夜にして単一的価値観の全体主義にきりかえ、反対者を抹殺する政治的変更がテロリズムでなくてなんだろう。
 革命において、テロリズム(暴力)が容認されるのは、革命派が国民主権をあずかるからで、テロルは、国民の名のもとでおこなわれる。
 国民主権や民主主義は、革命の道具でしかなかったのである。
 国民主権や民主主義にために革命がおきるのではない。
 革命のために、国民主権や民主主義が必要だったのである。
 国民主権の発明者ルソーは、多数決ではなく、全員一致の合意を主張した。
 多数決では少数派が切り捨てられるので、不完全というのである。
 全員一致の合意が、テロリズムなしにどうして実現されるだろう。
 フランス革命やロシア革命、中国革命で粛清の嵐が吹き荒れたのは、革命が「テロルの論理」に立っているからで、国民主権が丸ごと革命派もしくは為政者に委譲されるとする「人民独裁の論理」ほどめちゃくちゃな理屈はあったものではない。
 ルソーは「人間は生まれながらにして自由なのに、いたるところで鎖に繋がれている(社会契約論)」といった。ホッブズの「社会契約説(国家がなければ「万人の戦争がおきる」)への反論だが、夢想的な美辞麗句を並び立てただけの空論で、いまどき、こんなものを有難がっているのは、日本だけである。
 日本でルソーがもてはやされるのは、マルクスがルソー主義にユダヤの経典(タルムード)をくわえて『共産党宣言』を書きあげた(エンゲルス共著)からで、日本の左翼は世界がとっくに捨て去ったルソーとマルクスが大好きなのである。

 ●君主国家だけで機能する間接民主主義
 ルソーの自由がフランス革命のスローガンになったというが、革命を正当化するためにつくられたウソで、フランス革命時、吹き荒れていたのは、怨念と憎悪、恐怖だけで、自由などという抽象的な観念などどこにもなかった。
 まして、国民主権や民主主義など、意識のかけらさえ存在しなかった。
 もともと、ルソーの民主主義は、国民が直接、政治に参加する直接民主主義だった。
 だが、国民全員を収容できる議事堂があるはずはない。
 直接民主主義は、事実上、不可能な話だったのである。
 そこでルソーがもちだしたのは、国民主権を丸ごと独裁者にあずけてしまうというアイデアで、原型は、プラトンの哲人政治である。ルソーは、民主主義や国民主権をギリシャ哲学からひっぱりだしてきたのである。
 国民主権を為政者にあずけると、完全なる政治(=独裁)が可能になる。
 それがスターリン主義で、国民主権の名目で粛清もやりたい放題である。
 ルソーの民主主義と国民主権は、独裁政治の手法で、テロリズムだったのである。
 ロシアや中国、北朝鮮に多数決があったら、プーチンや習近平、金正恩らは独裁者になることはできなかった。
 かれらの絶対権力をささえているのは国民主権をあずかっている≠ニいうルソー主義で、ルソーの心酔者だったポル・ポトは「自然に帰れ」を妄信して近代的工場から郵便局まで破壊して、工場長や郵便局長まで死刑にした。
 アメリカもフランスも、ロシアも中国も、みずからの革命政権を正当化して「わが国こそ真の民主主義国家である」と叫ぶ。
 民主主義国家では、元首(大統領)が、国民主権をひきうけて権力をふるう。
 だが、日本やイギリス連邦王国、ヨーロッパの王室国家は、国民主権をあずかるのは、大統領ではなく、君主である。
 大統領が不在なので、首相は、粛々と、内閣や議会の運営につとめる。
 このとき、もちいられるのが多数決で、それが議会制民主主義である。
 多数決は、普通選挙法と並んで、間接民主主義の切り札で、立候補の自由がない中国やロシア、大統領の判断で戦争ができるアメリカなど共和制国家とは政治体制が異なるのである。

 ●民主主義はフランス革命のギロチン
 多くの日本人が「民主主義なのでテロはゆるされない」と口を揃える。
 民主主義とテロリズムが兄弟だったことを知らないのである。
 民主主義がテロリズムに抵抗できないのは、同じ穴のムジナだからである。
 歴史共同体である社会には、数千年にわたってまもってきた伝統、これからもまもっていかなくてはならない価値がある。
 伝統は、先祖からうけついで、子孫につたえていかなければならない文化であって、それが、死者をふくめた日本国民の暗黙の了解事項である。
 ところが、これを平然と破壊しようといううごきが自民党のなかにもある。
「民主主義の世の中で、皇統の万世一系(男系男子相続)はおかしい」というのである。
 伝統破壊は、テロリズムである。
 なぜなら、伝統はみずからをまもる手段を有さないからで、無防備なモノを一方的に破壊するのがテロでなくてなんだろう。
 独裁(=直接民主主義)でも多数決(=間接民主主義)でも、伝統や文化を破壊するのは、貴族をギロチンにかけたフランス革命の論理で、民主主義それ自体が、テロリズムの一形態だったのである。
 革命は、テロリズムで、近代をきりひらいた市民革命がテロの論理にのっていたのである。
 日本共産党は、多数決によって、一夜にして革命が成立するとして暴力革命路線を捨てた。
 民主主義は、フランス革命のギロチンのようなものだったのである。
 次回は、政治が、いかに「力の論理=テロリズム」の上に成立してきたかをみていこう。

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