●革命とテロリズムは兄弟である
西洋史はテロリズムの歴史といってよい。
十字軍の遠征から宗教戦争、領土・領主戦争や農民の反乱、略奪者のバッコとあげてゆけばきりがないが、いずれも、殺害と略奪が目的のテロリズムで、兵士と兵士がたたかう戦争とは別物である。
そのなかで、際立っているのが、フランス革命期のジャコバン派の恐怖支配(1793〜94年)である。革命派が反革命派1万6000人をギロチンで断首する恐怖政治をおこない、ここから「テロリズム(恐怖政治)」ということばがうまれた。
これに次ぐのが、ユダヤ人900人以上が殺害され、2万6000人が強制収容所に送られた「水晶の夜事件(1938年11月9日)」で、この事件からナチスのユダヤ人大虐殺(ホロコースト犠牲者600万人)がはじまった。
近代になっても、テロリズムの猛威はやむことがなく、スターリンの大粛清では1000万人、毛沢東の文化大革命では3000万人(推定)、ポル・ポト政権(カンボジア大虐殺)は人口の4分の1にあたる約200万人が私刑によって惨殺されている。
ヨーロッパのテロリズムの頂点にあるのが「三十年戦争(最大の宗教戦争)」で、ドイツの人口の20%をふくむ800万人以上の死者を出している。百年戦争(英仏領土戦)やバラ戦争(英王族戦争)も、テロとその報復で、際限のない殺し合いのなかから市民革命という新たなテロリズムがうまれた。
日本人は、フランス革命によって、人類は、自由や平等、人権を手に入れたと思いこんでいるが、とんでもない思いちがいである。
フランス革命とナポレオン戦争による死者は約500万人で、ナポレオンがやったのは、王政復古と世界史上初となる帝国主義戦争だった。
革命のスローガンとなった自由も平等も後付けで、フランス革命の代名詞である「人権宣言」には女性と奴隷がふくまれていなかった。
フランス革命は、自由と平等のあけぼのではなく、テロリズムが大手をふりはじめる契機となる歴史的惨事だったのである。
●国民主権と人民独裁は「テロルの論理」
日本人は、西洋を、自由や平等、人権や民主主義をつくりあげた理想国家のように思っている。
だが、アメリカ・イギリス・ロシア・フランス・中国の5国連常任理事国を筆頭に、先進国の大半が革命国家で、君主制を捨て、多くが大統領制をとっている。
革命は、テロリズムで、その手段に使われる民主主義や国民主権も、同類である。
歴史や伝統、多様な文化や習俗をもった社会を、一夜にして単一的価値観の全体主義にきりかえ、反対者を抹殺する政治的変更がテロリズムでなくてなんだろう。
革命において、テロリズム(暴力)が容認されるのは、革命派が国民主権をあずかるからで、テロルは、国民の名のもとでおこなわれる。
国民主権や民主主義は、革命の道具でしかなかったのである。
国民主権や民主主義にために革命がおきるのではない。
革命のために、国民主権や民主主義が必要だったのである。
国民主権の発明者ルソーは、多数決ではなく、全員一致の合意を主張した。
多数決では少数派が切り捨てられるので、不完全というのである。
全員一致の合意が、テロリズムなしにどうして実現されるだろう。
フランス革命やロシア革命、中国革命で粛清の嵐が吹き荒れたのは、革命が「テロルの論理」に立っているからで、国民主権が丸ごと革命派もしくは為政者に委譲されるとする「人民独裁の論理」ほどめちゃくちゃな理屈はあったものではない。
ルソーは「人間は生まれながらにして自由なのに、いたるところで鎖に繋がれている(社会契約論)」といった。ホッブズの「社会契約説(国家がなければ「万人の戦争がおきる」)への反論だが、夢想的な美辞麗句を並び立てただけの空論で、いまどき、こんなものを有難がっているのは、日本だけである。
日本でルソーがもてはやされるのは、マルクスがルソー主義にユダヤの経典(タルムード)をくわえて『共産党宣言』を書きあげた(エンゲルス共著)からで、日本の左翼は世界がとっくに捨て去ったルソーとマルクスが大好きなのである。
●君主国家だけで機能する間接民主主義
ルソーの自由がフランス革命のスローガンになったというが、革命を正当化するためにつくられたウソで、フランス革命時、吹き荒れていたのは、怨念と憎悪、恐怖だけで、自由などという抽象的な観念などどこにもなかった。
まして、国民主権や民主主義など、意識のかけらさえ存在しなかった。
もともと、ルソーの民主主義は、国民が直接、政治に参加する直接民主主義だった。
だが、国民全員を収容できる議事堂があるはずはない。
直接民主主義は、事実上、不可能な話だったのである。
そこでルソーがもちだしたのは、国民主権を丸ごと独裁者にあずけてしまうというアイデアで、原型は、プラトンの哲人政治である。ルソーは、民主主義や国民主権をギリシャ哲学からひっぱりだしてきたのである。
国民主権を為政者にあずけると、完全なる政治(=独裁)が可能になる。
それがスターリン主義で、国民主権の名目で粛清もやりたい放題である。
ルソーの民主主義と国民主権は、独裁政治の手法で、テロリズムだったのである。
ロシアや中国、北朝鮮に多数決があったら、プーチンや習近平、金正恩らは独裁者になることはできなかった。
かれらの絶対権力をささえているのは国民主権をあずかっている≠ニいうルソー主義で、ルソーの心酔者だったポル・ポトは「自然に帰れ」を妄信して近代的工場から郵便局まで破壊して、工場長や郵便局長まで死刑にした。
アメリカもフランスも、ロシアも中国も、みずからの革命政権を正当化して「わが国こそ真の民主主義国家である」と叫ぶ。
民主主義国家では、元首(大統領)が、国民主権をひきうけて権力をふるう。
だが、日本やイギリス連邦王国、ヨーロッパの王室国家は、国民主権をあずかるのは、大統領ではなく、君主である。
大統領が不在なので、首相は、粛々と、内閣や議会の運営につとめる。
このとき、もちいられるのが多数決で、それが議会制民主主義である。
多数決は、普通選挙法と並んで、間接民主主義の切り札で、立候補の自由がない中国やロシア、大統領の判断で戦争ができるアメリカなど共和制国家とは政治体制が異なるのである。
●民主主義はフランス革命のギロチン
多くの日本人が「民主主義なのでテロはゆるされない」と口を揃える。
民主主義とテロリズムが兄弟だったことを知らないのである。
民主主義がテロリズムに抵抗できないのは、同じ穴のムジナだからである。
歴史共同体である社会には、数千年にわたってまもってきた伝統、これからもまもっていかなくてはならない価値がある。
伝統は、先祖からうけついで、子孫につたえていかなければならない文化であって、それが、死者をふくめた日本国民の暗黙の了解事項である。
ところが、これを平然と破壊しようといううごきが自民党のなかにもある。
「民主主義の世の中で、皇統の万世一系(男系男子相続)はおかしい」というのである。
伝統破壊は、テロリズムである。
なぜなら、伝統はみずからをまもる手段を有さないからで、無防備なモノを一方的に破壊するのがテロでなくてなんだろう。
独裁(=直接民主主義)でも多数決(=間接民主主義)でも、伝統や文化を破壊するのは、貴族をギロチンにかけたフランス革命の論理で、民主主義それ自体が、テロリズムの一形態だったのである。
革命は、テロリズムで、近代をきりひらいた市民革命がテロの論理にのっていたのである。
日本共産党は、多数決によって、一夜にして革命が成立するとして暴力革命路線を捨てた。
民主主義は、フランス革命のギロチンのようなものだったのである。
次回は、政治が、いかに「力の論理=テロリズム」の上に成立してきたかをみていこう。