●政治を暗黒化させてきたテロリズム
「戦争は他の手段をもってする政治の一形態」といったのはクラウゼヴィッツ(『戦争論』)だった。
事実、政治をうごかしてきたのは、話し合いや合意、多数決などの「政治の論理」ではなく、戦争や革命、クーデター、そして、テロリズムなどの「力の論理」だった。
日本の近現代史も例外ではなかった。
「安政の大獄(1858年)」と「桜田門外の変(1860年)」によって火蓋が切って落とされた明治維新は「蛤御門の変(1864年)」や「新撰組による池田屋事件(同年)」から「坂本龍馬暗殺事件(1867年)」、「鳥羽・伏見の戦い/戊辰戦争/会津戦争(1868年)」にいたるまでテロの連鎖で、長州の会津にたいする憎悪と残虐非道な仕打ちは、歴史上、比類がなかった。
昭和軍国主義も、原動力となったのは、軍事テロで、橋本欣五郎(陸軍)や大川周明らによるクーデター計画(「三月事件」「十月事件」/1931年)を皮切りに「5・15事件(1932年)」から「2・26事件(1936年)」へとつづいたテロリズムが昭和軍国主義の導火線となった。
個人テロには、井上日召の「血盟団事件(1932年)」のほか、民間右翼による「神兵隊事件(1933年)」があげられるが、衝撃的だったのは、統制派リーダー、永田鉄山が皇道派に同情的だった相沢三郎に斬殺された「相沢事件(1935年)」で、これが翌年の「2・26事件」の伏線となった。
永田は現実主義者で、中国大陸からの撤退と日本防衛(「漸減邀撃戦略」)を構想していた。だが、永田を敬っていた後釜の東条英機が、戦線維持を永田の遺志と錯覚して中国戦争に固執したばかりか、海軍の軍令部総長、永野修身の「真珠湾攻撃」になんの抵抗もできなかった。
永田が生きていれば、蒋介石と和解のみちをひらく一方、海軍の南進作戦に徹底的に抵抗したはずで、そうなれば、日本の歴史は、大きくちがったものになっていたはずである。
テロリズムの歴史が、日本を悪夢へひきずりこんだのである。
●「左翼暴力革命」と「右翼テロ」の対決
テロやクーデターが政治をうごかすのは「政権は銃口からうまれる(毛沢東)」ものだからである。
世界史上、話し合いや多数決で、新しい国家や政権がうまれたためしはない。
イギリスやアメリカ、フランスやロシア、中国革命が、戦争や独裁、粛清をともなっていたのは、史実にあるとおりで、日本共産党も、極左軍事冒険主義を転換した「六全協」以前、火炎瓶闘争や山村工作隊、トラック部隊などの非合法テロ活動をくりひろげた。
共産主義革命にたいする脅威は、大きなもので、羽仁五郎や都留重人、大内兵衛、向坂逸郎らマルクス学者がちやほやされて、当時、「革命がおきたら右翼反動はギロチンだ」という脅し文句がとびかった。
総評や日教組、労働組合や学生運動が戦闘的になってくるなかで木村篤太郎法相が侠客、梅津勘兵衛に「反共抜刀隊」の結成を依頼、あるいは、60年の安保闘争時、橋本登美三郎が右翼の児玉誉士夫に協力をもとめた。
日本の右翼が防共の最前線に立ったのは、政治が暴力革命の可能性をひめていたからで、そこからひきおこされたテロ事件が「米帝国主義は日中共同の敵」発言に反発した山口二矢による「浅沼稲次郎暗殺事件(1960年)」だった。
この事件がとりわけ印象に深いのは、わたしはその日(10月12日)、その場所(日比谷公会堂)で、事件を一部始終、目撃していたからである。犯人の山口二矢(17歳)とは、新島ミサイル闘争(賛成派)でともに左翼と闘った関係にあった一方、浅沼氏は、わたしと同じ三宅島出身という因縁もあった。
浅沼事件と並ぶ政治的テロとして、三島由紀夫が自衛隊に蜂起をうったえた「三島事件(1970年)」がある。
ともに、日本の赤化(共産化)を防ぐためで、かつて、右翼は、共産主義と対決する最前線に立っていたのである。
●ホッブズの『社会契約説』とルソーの『社会契約論』
自然状態において、人間は、つねに、飢えや自然的災難、外敵の襲撃などの危機にさらされる。
したがって、生きながらえるためには、幸運のほかに、十分な生活資材や装備、政治的条件があたえられていなければならない。
それが国家で、ホッブズが必要悪としての国家の存在を主張したのは、自然状態が野蛮で、つねに、万人による万人の戦争の危険性をはらんでいるからである。
平和をまもるのも軍事力で、武器をもってまもらなければ、略奪と殺戮などがまかりとおるこの世の地獄となるのは、戦勝国に占領された敗戦国の惨状を見るまでもない。
「戦争は政治の一形態」や「政権は銃口からうまれる」という政治の残酷さを語ったことばは、ホッブズの国家観でもあって、現在、世界は、そのリアリズムに立っている。
ところが、ホッブズの百数十年後、ルソーがこれに異をとなえた。
人間は、生まれながらにして自由で、平和こそが自然状態というのである。
このルソー主義がマルクス主義と合体して唯物論(共産主義)がうまれた。
平和な自然状態にあった社会をねじまげたのは、国家権力と資本主義であるから、これを倒して、国民主権=人民政府をつくらなければならないというのである。
人間はうまれながらにして自由だが、いたるところで鎖(国家や資本、法)につながれている」とするルソーの『社会契約論』では、そのあとにこうつづく。
「人民はみずからの権利を共同体全体に完全に譲渡した。しかし、人民自身は主権者であって、法の根源は主権者にある」
このインチキな文章に騙されて、人々は、じぶんに主権があると思いこんだ。
フランス革命のロベスピエールは、ルソー主義にもとづいて、人民の主権をあずかって恐怖政治を敷いた。
ところが、主権者たる人民の主権には、見向きもしなかった。
法の根源たる国民主権は、すでに、独裁者に譲渡されていたからである。
日本人のノーテンキな平和主義はルソー主義だったのである。
●民主≠フヨコ軸と自由≠フ縦軸が交差した自由民主主義
人民主権は、ひとり一人の人民にあたえられていたのではなかった。
人民全体が一つの主権で、それを独裁者があずかるという話である。
ルソーの人民(=国民)主権は、独裁の便法であって、これを悪用したのがヒトラーとスターリンだった。
日本の左翼が民主主義や国民主権をもちあげるのは、これをまとめて預かる人民政府を夢想しているからだが、いずれも、ヒトラーやスターリンがやったいつか来た道≠ナ、自由や個人が抜け落ちた全体全体主義である。
必要なのは、民主のヨコ軸と自由の縦軸が交差した自由民主主義で、それが「個と全体」の矛盾を解消できる最善の体制なのである。
ルソーのインチキは、欧米では、とっくに暴かれて、だれも相手にしない。
ところが、日本では、啓蒙思想家としてルソーが尊敬を集めている。
ルソーがマルクス主義の前段階的地位にあるからで、日本のマルクス主義者はルソー主義者でもあるのである。
そこからでてきたのが、日本人はもっと主権を主張すべき(『主権者のいない国(白井聡)』)という愚論である。
日教組のルソー教育で育った日本人は、自然状態が平和で自由なユートピアで、国家がそのユートピアを破壊しないようにまもっているのが憲法と思っている。
うまれながらにして自由なルソー的人間とって、国家は、敵となる。
日本人がホッブズのいう、必要悪としての国家をみとめなければ、いつまでたってもノーテンキな平和ボケに埋もれたままなのである。