2022年10月23日

「うたのこころ」と日本人E

 ●自由をもとめた西洋、もともと自由だった日本
 ロシアのウクライナ侵攻を契機に、景気後退とインフレが同時におきるスタグフレーションが世界的に蔓延して、イギリスでは経済政策の失敗をめぐってトラス首相の辞任騒ぎにまで発展した。
 すさまじい物価高に苦しんでいるのはアメリカも同様で、FRBは打開策として、利上げに踏み切ったが、これが、低金利で好況が保たれているアメリカ経済の暗礁となるのではないかと懸念されている。
 日本経済が、コロナやウクライナ戦争、円安という大きな障害にもめげずに小康状態をたもっているのは、多元論的で、相対的な価値観をもっているからである。
 社会に多様性と奥行きがあるため、衝撃が分散、緩和されるのである。
 一方、西洋は、一元論的で、絶対的な価値観に立っているので、ショックが大きいばかりか、それが増幅されて、しばしば、パニックをひきおこす。
 西洋が一元的、絶対的なのは、一神教だからで、かれらが崇める神ヤハウェは絶対神である。
 日本が多元的、相対的なのは、多神教だからで、日本人が信仰しているのは万物に精霊が宿っているとするアニミズムや自然崇拝、神話信仰などのおだやかな神々である。
 正義や真理、唯一の価値を追求して、不正や偽りをきびしく断罪する西洋にたいして、日本人が、あいまいさや中間色、中庸の精神をもって事にあたるのは、絶対神や絶対的な価値が存在しないからである。
 そこに日本と西洋の最大のギャップがあって、このギャップが文化や習俗のみならず政治や経済に分野にまでおよんでいる。
 両者のこのちがいは、詰まるところ、宗教観のちがいにあるが、そのことにどれだけのヒトが気づいているだろう。
 西洋が自由をもとめたのは、一神教や絶対神の世界には自由がなかったからだった。したがって、中世ヨーロッパでは、ルネサンスから啓蒙時代、宗教戦争をへて市民革命にいたるまで、自由をもとめる壮絶なたたかいがくりひろげられたのである。

 ●自由の先進国から後進国へ転落した戦後日本
 日本でも、自由のためのたたかいがなかったわけではない。
 一向一揆や天草・島原の乱がそれにあたるが、西洋のように、それが革命に至らなかったのは、天皇がいたからである。天皇は、赤子である民が権力から虐げられるのを防いで、農本主義や平民文化、庶民による商工経済を背後からささえていた。
 日本の経済は、経済学の父アダム・スミス(1723〜1790年)以前の楽市楽座(1549年)から大坂・堂島の米相場(1730〜年)、江戸時代の商道≠ノいたるまで、自由主義を経済の根幹においてきた。
 世界一ゆたかで文化的だった日本の中世・近世は、権力が民を縛り、民から搾取しなかった恩恵で、教会と権力の両方から搾取されて、貧困に喘いでいたヨーロッパの平民とは大ちがいである。
 戦後の日本人は、なにをするのも勝手というのが自由主義と思っているようだが、自由をえるために、5百年以上にわたって血みどろのたたかいをくり広げてきたヨーロッパでは、事情がまったく異なる。
 西洋の自由は、国家や宗教、他者から個人の自由を奪われないことに自由の根幹があって、戦後の日本のように、他人にいくら心的苦痛や不快感をあたえてもかまわないという「表現の自由」や「言論の自由」とはまったくの別物である。
 かつて日本にあって、近代以降、自由主義とよばれる西洋のリバティ(自由)の根底にあるのが他者との関係である。
 自由は、他者の自由を奪わないことが大前提で、自由主義がモラルの原型となった理由がそこにある。
 日本にも「相身互い」「分相応」「折り合い」などの自由主義に立った格言があるが、戦後のアメリカ民主主義とルソーの国民主権、孤独な個人主義、マルクスの唯物論の前で、この日本的なモラルはすっかり影が薄くなった。
 自由には、ジョン・スチュアート・ミルの「消極的自由=〜からの自由」とアイザイア・バーリンの「積極的自由=〜への自由」があって、西洋人はこれを使い分ける。
 国家や他者から束縛をうけないのが消極的自由である。積極的自由というのは、国家も他者も、じぶんがなりたいじぶんになることを妨害できないというもので、この両者が組み合わさって、自由の概念ができあがっている。
 これが、日本人が大事にしてきた自由、西洋のモラルでもある自由主義で、自由とは、自由の制限と限界を示すものであって、手放しの自由讃歌ではなかったのである。

 ●4本の柱からできている世界の政治と経済
 現代の世界政治も世界経済も、4つの原理に分類することができる。
 政治は「ホッブズの国家主権」と「ルソーの国民主権」である。
 経済は「国家介入型のケインズ」と「放任型のハイエク」である。
 ケインズを純化すればマルクスに、ハイエクを煮詰めるとアダム・スミスをとおりこして新自由主義にゆきつく。
 アメリカが新自由主義なら、中国やロシアは、ルソーからマルクス、スターリン主義へ移行した独裁国家で、ヨーロッパやインド、ブラジル、アジア諸国もこの4パターンの中間型あるいは変形である。
 特異なのは日本で、ホッブズやルソー、ケインズ、ハイエクの4つのパターンにあてはまらない。
 市民革命からうまれた民主主義やリベラルにも日本には馴染まない。
 日本は「天皇の国」で、西洋のどんな歴史パターンや価値観にもあてはまらないのである。
 ところが、戦後日本は、伝統的な価値をかなぐり捨ててアメリカ化に走った。
 明治維新で、江戸文化を捨てて、西洋化に走ったのと同じパターンだった。
 日本国憲法は、市民革命の精神で、日本の伝統的な価値観は盛られていない。
 国民主権と民主主義、人権思想と個人主義によって、戦後の日本人は、歴史や国体、民族や集団性を失って、孤独で心貧しい市民になった。
 経済でも、日本は、国際化、西洋化の大波に呑まれた。
 田中角栄をロッキード事件で葬ったアメリカは、プラザ合意からバブル経済を誘導、バブル崩壊を仕込んで日本の富を奪い、俗にいう「20年の空白」を工作した。
 このとき、日本は、アメリカから「総量規制」を強要されて国家経済を破壊するという愚を犯した。そして「談合」や「護送船団方式」などをアメリカからつよく非難されて、日本的商習慣をすべて破棄したばかりか、法を改悪して、伝統的商習慣をすべて犯罪にしてしまった。
 この流れをひきついだのが小泉純一郎の「聖域なき構造改革」で、ブッシュ大統領にひっかけられて新自由主義という海賊経済にのりかえて、雇用と設備投資、賃上げをベースとする自民党の自由主義経済をことばどおりにぶっつぶした。
 そして、できたのが、格差社会と低賃金経済という情けないすがただった。
 アメリカ経済は、50人のリッチマンが国富の半分を握る狂った資本主義の様相をていして、中国やロシアは、国家があるかぎり、いくら紙幣を刷っても国家はつぶれないというMMT理論にのって、戦争をおこない、軍備を拡張している。
 次回以降、この狂った世界のなかで、日本は、いかに正気をたもっていけるのかについて考えていこう。
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2022年10月11日

「うたのこころ」と日本人D

 ●「人間主義」と「国家主義」へと二分された日本
「個と全体」の矛盾は、古今東西、長年にわたって問われつづけてきた永遠の難問である。
 中世ヨーロッパでは、これが、啓蒙主義とキリスト教のあらそいという形で噴出した。
 啓蒙主義が人間(=個)のめざめなら、キリスト教は国家(=全体)の根幹をなすもので、この二つの異質なるものが衝突しておきたのが宗教革命や政治革命だった。
 革命によって、神権神授説の神が唯物論や合理主義、科学におきかえられて近代的思想や文化文明、共和思想(社会主義・共産主義)がうまれたといってよい。
 3つ目の革命が産業革命で、近代の欧米世界は、宗教と政治、経済の3つの革命をへて完成したのだった。
 国連常任理事国の米・英・仏・ロ・中は、いずれも革命国家で、革命国家が採用したのが、民主主義と個人主義、合理主義と唯物論だった。
 だが、民主主義や合理主義、唯物論は「個と全体」を調整する機能をもっているわけではなかった。
 それどころか、神権神授説の代替えなので、ごりごりの一元論である。
「個と全体」の矛盾を革命という一元論で解消できるわけはなかった。
 そもそも、革命は一元論である。「個と全体」の矛盾を解消できるのは、あいまいさをゆるす多元論や唯心論、その両者の要素をかねそなえている自由主義でなければならなかった。
 西洋で、個人も大事だが、国家も大事というバランス感覚がはたらいているのは、民主主義と並んで、自由主義が尊重されているからである。
 自由主義というのは、日本の「和の精神」のようなもので、個人主義と国家主義、民主主義と伝統主義のバランスをとろうとする。
 ホッブズの「国家主権論」とルソーの「国民主権論」の中間にあるのがミル(ジョン・スチュアート・ミル)の「自由論」で、ヨーロッパが共産主義化をまぬがれたのは、ミルの自由主義が根を張っていたからだったのである。

 ●なぜ日本では「自由主義」が不毛なのか
 個人と国家の関係を語る最大の哲学がホッブズの社会契約説で「自然状態においては万人の万人による戦争がおこる」という警告は、国家の有用性を語ることばとして知らないヒトはいない。
 これにたいして、ホッブズの百年以上あとにうまれたルソーは「国家は人間の自由を奪った」として国家無用論=人民統治論を説いた。
 この人民統治論がフランス革命にとりいれられ、マルクスは、ルソー主義を共産党宣言にリライトして、これが、ロシア革命にむすびついた。
 日本には、マルクス主義やルソー主義者は、履いて捨てるほどいるが、保守主義のホッブズを語る者は少なく、ミルの自由主義にいたっては語る者がほとんど皆無である。
 日本人が、世界でもっとも重要な思想家であるミルを無視するのは、ミルの『自由論』が書かれたのが、明治維新の十年前だったからで、自由主義という考え方は、当時、西洋ですら新しい思潮だった。
 中江兆民は「民約論(社会契約論)」を約して、日本のルソーと呼ばれたものだが、日本にミルがあらわれなかったのは、明治維新に間に合わなかったからで、明治維新のヨーロッパ化をひきずっている日本の西洋主義者は、いまなお自由主義を知らないのである。
 戦後、ルソーの延長線上にあるマルクス学者が、洪水のようにあふれだして大学がその牙城となった。
 日本学術会議らの各種学会、学術団体をみればわかるように、自由主義という柔軟な心を失ったイデオロジストだったからである。
 ちなみに、日本の法曹界(司法・弁護士連合会)が左翼的なのは、法が西洋からの輸入品で、国体や「和の精神」などの日本精神と対立するからである。
 ミルの自由は、国家の有用性と個人の可能性を両立させるため国家と個人の自由を制限するというもので、その聡明さにおいて聖徳太子の「十七条の憲法」との類似点がすくなくない。
 世界は『社会契約説』のホッブズと『自由論』のミルをいまなお重要視しているが、ルソーやマルクスは見向きもされていない。
 いまなおルソーとマルクスを奉っている日本の左翼が思想界の化石≠ニ呼ばれるゆえんである。

 ●国家と国民を分裂させた明治維新の過ち
 かつて、日本が、世界一の国民文化をもっていたのは、民と権力のあいだに天皇という権威が介在したからで、権力から干渉をうけなかった民力はおおいに栄えた。
 天皇は、民の代表にして、権力の正統性を裏づける存在で、権力は、天皇のゆるしがなければ民を統治することができなかった。
 日本で庶民文化がはなひらいたのは、天皇が権力から民をまもっていたからだったのである。
 部屋に絵や書、生け花を飾る文化や百姓でも字が読める民度の高さ、宣教師が驚いた町の美しさや工芸や技術の高さは西洋以上で、ヨーロッパ人は日本の浮世絵や木造建築、刀剣の高度なレベルに最後まで追いつくことができなかった。
 庶民文化が衰退したのは、高税と徴兵制、軍国主義が国民を圧迫しはじめた明治時代からで、幕末以降、日本に新たな庶民文化はうまれなかった。
 日本が、国家主義と、人間(民権)主義に分裂したのも、明治維新からだった。明治維新が、国体を捨てた西洋の模倣だったからで、西洋の二面性(国家と国民)を見抜くことができなかった薩長政府は、列強の国家主義=帝国主義的な側面だけを真似して富国強兵を国家スローガンにした。
 日本は、いくつも大戦争ができたのは、税金の50〜90%が軍事費にむけられたばかりか、軍費の多くを外債に依存したからで、おかげで、国家財政は破産寸前だった。
 元禄振袖に代表される江戸文化の華麗さはすがたを消して、モンペにかすりという質素な衣服をまとった国民は「欲しがりません勝つまでは」という軍国スローガンを唱えさせられた。
 当時、東京の街は、町内のゴミ箱にハエがたかる不潔さで、美しかった江戸時代の面影はなかったが、軍国主義一色の国家が国民生活に目をむけることはなかった。
 これが、国家と国民の極端なアンバランスで、明治の富国強兵は、国家だけがあって国民が不在の時代だったのである。
 だが、第二次大戦後、その反動がきて、こんどは、個人をおもんじて国家を軽視する偏向がトレンドになった。
 国家主義を憎悪して、国民主義に憧れるという極端から極端への思想的ジャンプがおこなわれたのである。
 それが反日左翼・反国家主義で、かれらは、二言目には、国民や生命などと口にするが、それが、戦前の天皇ファシズムの裏返しということに気がついていない。
 国家に尽くした政治家の国葬の黙祷をジャマするため、数千人ものデモ隊が笛や太鼓を打ち鳴らすという蛮行は、個人主義や自由主義ではなく、死者への冒瀆という、人間性とモラル崩壊以外のなにものでもなかった。
 だが、反日左翼は、哀れにも、そんなことにすら気がつかなかったのである。
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