2022年12月18日

「全体主義」と「民主主義」の相克と調和1

 ●全体主義と民主主義は敵対関係にある?
 最近、全体主義と民主主義の本質をえぐりだす二冊の書籍に出遭った。
 京都産業大学名誉教授ロマノ・ヴルピッタの『ムッソリーニ/イタリア人の物語』と『民主主義の内なる敵(ツヴェタン・トドロフ)』である。
 精読する根気がないので、ざっと拾い読みしただけだが、大方、エッセンスは読みとれた。
 これまで、全体主義と民主主義は、敵対的な関係にあると思われてきた。
 ところが、この二冊は、そんな認識に変更を迫ってくる。
 ロマノによると、ムッソリーニは、全体主義をとおして国民の利益をえようとしたすぐれた政治家だったという。チャーチルやルーズベルト、レーニンや反全体主義のガンジーまでが、その政治哲学に深く感服したほか、ヒトラーも死ぬまでムッソリーニを尊敬してやまなかった。
 ムッソリーニの全体主義が、いまもなお、イタリアで高い評価をえているのも、かれの全体主義が国家や国民の利益を見すえたすぐれた思想だったからであろう。
 国家と国民は、国家が利益を獲得すれば国民が恩恵をうけ、国民がゆたかになれば国家も富むという相関関係にある。すぐれた指導者の下にあって全体の利益が個に還元される全体主義は、個々が勝手に利をむさぼる民主主義よりもゆたかだった可能性が高い。
 一方、トドロフは、こう警鐘を鳴らした。民主主義が、進歩と自由、人民の暴走によって、悪しき全体主義へ傾いてゆくと、自由が権利、進歩が、たとえ個人のものであっても、大衆迎合化(ポピュリズム)に煽られて、全体主義へつきすすんでゆくはずである。まして、大衆は、マスメディアを味方につけているだけに、その傾向がはなはだ著しい。
全体主義をつきつめると、民主主義的になって、完全な民主主義をもとめると、全体主義に近づいてゆく。
 これは、逆説だが、中国やロシアが民主主義を平然と口にする一方、新自由主義に走ったアメリカが全体主義の色合いを濃くしている現実をみれば、その逆説が、目下、着々とすすんでいるとわかる。

 ●二元論で解消された「個と全体の矛盾」
 政治には「個と全体は矛盾する」という重大なテーゼ(命題)がある。
 国民が民主主義に、国家が全体主義に立つと、国民と国家は、抗争の構図にまきこまれるが、両者の相克には、折り合いのメドが立たない。
 これまで、多くの哲学者や政治家らが「個と全体の矛盾」という難問に取り組んできた。だが、どこからも妙案やよい知恵はでてこなかった。個と全体の矛盾は、だれにも解くことができない難問として、人類につきつけられたままなのである。
 一つだけ例外があった。日本の天皇である。古来、日本の政治体制は権力の外に権威を立てる二元論によって、数千年にわたって安定的にまもられてきた。
 国体と政体、軍事と文化、伝統と進歩など、本来、矛盾するものが二元論によって並び立ち、個と全体の矛盾が解消されたばかりか、相補的作用によって一元論よりも大きな果実を獲得してきた。
 ハンチントン(『文明の衝突』)が、日本文明を世界八大文明の一つにくわえた理由の一つに古墳時代の独自の国家形成がある。君が臣を任じて、臣が民を治める「君臣共治」や、君が民の立場にたつ「君民一体」が日本に固有の文化文明をはぐくんできたというのである。
 西洋の一元論と、日本の二元論や多元論の背景に、宗教のちがいがあるのはいうまでもない。
 西洋の宗教は、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教とも、唯一神ヤハウェの下にある一神教で、異神や異教を立てると、死をもって贖わなければならない重罪である。
 一方、日本の宗教は、万物に精霊が宿るアニミズムや自然崇拝、神話にもとづく多神教で、神仏習合では、天照大神(日輪)が仏教の最高神、大日如来に見立てられた。
 日本で、個と全体の矛盾が表面化しなかったのは、宗教まで諸仏(如来)が太陽(日輪)の下におかれたおおらかな二元論だったからである。

 ●自然は神から人間にあたえられた糧という傲慢
 西洋の一元論に拍車をかけたのがキリスト教の人間中心℃蜍`だった。
 人間主義は、ヒューマニズムで、人文思想である。
 一方、人間中心主義は、宗教観念で、自然や生き物は、神が人間ために用意してくれた糧なので、いくら破壊しても殺してもゆるされるというおそろしい思想である。
 これが西洋人の肉食の思想≠ナ、旧約聖書(「創世記」)には「海の魚、空の鳥、地を這う生き物を奪いつくせ」とある。古代(7世紀の天武天皇)から屠殺と肉食が禁じられていた自然崇拝の日本と西洋では、精神風土が根本的に異なるのである。
 ところが、明治以降、日本にユダヤ・キリスト教文明が入ってくると、肉食とともに、他の動物を殺し、自然を徹底的に支配する人間中心主義がはびこりだした。
 ヨーロッパやアメリカで森林が消滅したのは、人間中心主義のせいだったが、日本でも、明治以降、自然崇拝が忘れられて鎮守の森が消え、工場排水で国中の河川がずたずたになった。
 人間中心主義は、神と信仰契約をむすぶ代償として神から人間に授与された地上の最高支配者の位である。
 ところが、非キリスト教の日本には、絶対神信仰や神との契約という西洋の宗教感覚が存在しない。
 したがって、日本の人間中心主義は、神への信仰なくして、食肉や自然破壊という神の恩恵をうける一方という身勝手なものになった。西洋化が、日本でグロテスクなものになっていったのは、キリスト教文明の恩恵をうけながら、唯一神にたいする畏れ(祈りやタブー)が存在しなかったからである。
 そして、人間中心主義を、憲法で保障された基本的人権や自由のようにうけとめて、人間はこの世の崇高な支配者だ、自由には際限がない(リバタリアニズム)と考えるひとまでがあらわれた。

 ●プロテスタンティズムからうまれた革命思想
 専制政治も民主主義も一元論だが、根底に、一神教のキリスト教がある。
 絶対王権をささえたのは「王権神授説」だったが、その専制政治を破壊した民主主義の土台も、プロテスタンティズムだった。
 全知全能の神という絶対的存在の前では、身分や階級、歴史や伝統にはなんの価値もない。価値があるのは、神と信仰契約をむすぶ個人だけで、その個人が民主主義の精神となった。
 西洋の思想は、すべて、キリスト教の焼き直しだったのである。
 近代民主主義の出発点となったのが英国のピューリタン革命だった。絶対王権をふるう国王チャールズ1世に反発して、内乱がおきると、クロムウェルが率いた独立派が勝利をおさめて、ついに、チャールズ1世を処刑してしまう。
 フランス革命では、ブルボン朝のルイ16世と妃のマリー・アントワネットが共に処刑されたが、ギロチンで首を落された貴族が1万6594人、その他の方法で殺された旧体制の人々は50〜100万人にものぼる。
 絶対王政や専制政治、宗教戦争や革命では、大量殺人がおこなわれる。一元論においては、神と悪魔のたたかいになるからで「十字軍の遠征」から植民地侵略にいたるまで延々と虐殺がくり返されてきたのは、一元論が、神と悪魔が永遠に否定しあう殺戮の論理≠セったからである。
 ところが、日本には、キリスト教的な価値観が存在しない。
 神との契約という個人主義や人権思想、民主主義の土壌も用意されていない。
 したがって、西洋の概念が、内実のない上っ面のことばとして入ってくる。
 西洋の概念は、すべて、啓蒙主義や宗教改革、市民革命の産物である。
 日本の左翼はぺらぺらと言論の自由などをのべたてるが、西洋人の自由への渇望は、血と骨、遺伝子に刻みこまれた苦しみの記憶、牢獄と多くの屍に埋もれた千年の歴史をひきずっている。
 日本人は、革命を知らない。したがって、自由や平等、進歩や人権といった革命の叫びやスローガンが、辞典の文字以上の意味をもって迫ってくることがない。
 全体主義と民主主義、そして、天皇は、それぞれ歴史背景が異なっている。
 この三つの概念が拠って立つ宗教や歴史、文化を体験的に理解しているのでなければ、全体主義も民主主義、そして、天皇も、これを語ることはできない。
 全体主義と民主主義、そして、天皇が調和した国家像をいかに構築するか。
 それが、現在、日本人にとってもっとも大きな問題になっているのである。


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2022年12月04日

 学歴≠ニいう相対主義と天皇の絶対性

 ●知恵と知識の区別がつかない日本人
「人間は考える葦である」といったパスカルは「知恵は知識にまさる」という名言を残してもいる。
「進化論」のダーウィンや発明王のエジソン、相対性理論のアインシュタインは子ども時代、勉強ができなかったが、大発見や大発明、科学の分野で大功績をあげて、歴史に名を残した。
 アインシュタインは「学校は知識をおしつけて、じぶんで考える知恵を害った」といって学校有害論を唱え、小学校を退校させられたエジソンは、無学な母親を家庭教師として、創造力という知恵を鍛え上げた。
 アインシュタインは勉強が役に立たない理由を問われて「答えが用意されているから」と答えたが、多くの日本人は、アインシュタインの真意を理解できない。
 アインシュタインは、答えを知ることも答えを暗記することも、死んでいる知識でしかない。答えのない問いにとりくんでこそ創造的な生きた知恵をえることができるといったのである。
「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」というエジソンのことばも曲解されている。小学校をやめさせられたエジソンの家庭教師となった母親のナンシーは、当時、まだ20歳代で、質問魔のエジソンになにも教えることができなかった。「じぶんでお考えなさい」というのがナンシーの口癖で、エジソンはナンシーのもとで、自由に考え、そして、ついに天才となった。
 エジソンの努力は、発汗(パースピレーション)で、机にむかって勉強する努力とはほとんど反対の意味である。

 ●ユーラシア大陸の東端でうまれた独自の日本文明
 日本人が、努力や勉強、知識をありがたがって、いまなお、東大神話を奉るのは、日本が極東の島国で、ユーラシア文化(シルクロード)の終着点だったからである。
 日本人にとって、海をこえて、西からやってきた文物を受容することが文明文化だったのである。
 だが、一万年前の縄文時代から、日本人は、独自の文化圏を形成した独自の民族で、ユーラシア大陸にとりこまれることがなく、移入したユーラシア文化を土台に国風&カ化をあみだしてきた。
 仮名文字や宗派仏教、絵画や建築など、日本文化の原点は、たとえ、中国にあったとしても、それを取捨選択して、日本人は、巧みに独自の文化へつくりかえてきたのである。
 その代表的な人物が聖徳太子で、律令体制や仏教を移入しながら中華思想や冊封制度を拒絶する一方、中国の皇帝に独立宣言を送りつけた。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
 中国に隷属したのが、小中華思想のもとにあった朝鮮で、孔子の儒教を国家理念としたほか、政治制度も中国の制度をとって、科挙(官吏の採用試験)や宦官(官吏の去勢)の悪弊を導入したほか貢女(中国王朝に美女を献上)までおこなってへつらった。
 中国や朝鮮、西洋の悪弊が日本に入ってこなかったのは、天皇がいたからである。
 ハンチントン(『文明の衝突』)は、日本文明を世界八大文明の一つにくわえた理由の一つに、古墳時代の独自の国家形成をあげている。

 ●明治維新のヨーロッパ化と敗戦後のアメリカ化
 日本が、文明の衝突によって、一大転機を迎えるのは、鎖国をやめて、国をひらいたあとである。
 それが、明治維新のヨーロッパ化と第二次大戦敗戦後のアメリカ化である。
 明治維新で、権威の座から権力の座に移された天皇は、昭和軍国主義で神格化されたが、敗戦後、占領軍によって、憲法という人為法(実定法・人定法)の下におかれた。
 日本文明の基礎となる天皇が、有史以来、はじめて、ユーラシア文明である人為法に屈したのである。
 絶対的な権威の下にあった伝統国家が、相対的な権力の下にある民主国家へ変容するのが革命である。
 国連常任理事国の米英仏ロ中のほか、先進国のほとんどが革命国家で、伝統国家は天皇の国日本だけである。
 明治維新の「文明開化」は西洋化で、欧米から学ぶことが大きな文化的価値となったが、第二次大戦敗戦後も同じことがおきた。GHQの神道指令や民主化、軍国主義や皇国史観の廃止、公職追放で勢いをえた左翼が、マルクス主義や民主主義、啓蒙主義などの西洋思想をもちこみ、これを最高の文化的規範としたのである。
 外来思想は、すべて、相対的な価値で、みずからつちかったものではない。
 したがって、学ばなければならないが、学ぶは真似ぶで、コピーすることでしかない。
 大学の世界ランキングで、東大や京大が、トップのオックスフォードやケンブリッジ、ハーバードから大きく引き離されているのは、日本の学問は勉強で、西洋からマネぶことだったからである。
 天皇が絶対というのは、歴史や民族、伝統文化の結晶だからである、
 学歴主義が有害なのは、教師から学ぶ相対主義だからで、官吏登用のための科挙がいかに社会の発展を妨げてきたか、中国や朝鮮をみるまでもない。
 科挙制度が国の発展を妨げたのは、学問が立身出世の手段となって、社会や国に貢献しなかったからである。
 学力主義やテストなどの競争は、究極の個人主義で、個人を超越する天皇の資質として、もっとも不必要で、いまわしいものである。

 ●学歴主義を材料にした皇室への冒瀆記事
 現在、日本は、偏差値やIQ神話、東大ブームで、テレビも、日夜、東大王やインテリ軍団と大騒ぎである。
 テレビの視聴者が受験ママ≠ニかぶさっているからだが、これに週刊誌やネットがのって、学歴主義を材料にした皇室への冒瀆記事が出回っている。
 ▼「悠仁さま」初の「東大天皇」悲願の「紀子さま」が焦燥赤点危機≠ナ赤門赤信号?超進学校の授業に戸惑い 追い詰められ背伸びの*魔フ「学業」懸念(『週刊新潮』)
 ▼悠仁さま 名門・筑附で囁かれる成績不振…紀子さまの「学校選び」が裏目に(『女性自身』)
 週刊誌のほか、匿名の上から目線≠フネットでは【悲報】悠仁、アホすぎて現国で赤点(5ちゃんねる)といった書き込みが沸騰しているが、その原因となったのが、秋篠宮さまが選択された筑波大附属高校への進学で、視野に東大推薦入学があるいわれる。
 だが、学歴社会の象徴たる受験戦争の勝者になって、はたして、天皇の権威がまもられるであろうか。
 悠仁親王のご教育については、皇室問題にとりくんできた小田部雄次・静岡福祉大学名誉教授の指摘が的を射ている。「いまの悠仁さまにもとめられるのは立派な学歴ではなく、立派な人格を身につけ、将来の天皇のご自覚をおもちになることです。悠仁さまが歩まれている学歴のレールは、受験戦争のなかでも最も激しい場所へむかっている。競争社会の只中における受験校での生活においてこれからの時代に相応しい帝王学を学ばれ、将来のお立場についてお考えになるゆとりがあるか、心配でなりません」(週刊新潮)
 次回以降、日本中がうかれている学歴主義が、かつて、日本を危機に陥れた近現代史についてもふれよう。
posted by office YM at 11:16| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする